瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:佐伯直氏

7世紀後半、白村江敗北と壬申の乱後の天武朝時代になると、讃岐では大型土木工事が目白押しとなります
A 城山・屋島の朝鮮式山城
B 讃岐平野を東西に伸びる南海道の建設
C 郡衙建設と郡司達の氏寺建立
D 条里制工事
これらの工事を担当したのはかつての国造で、彼らが郡司へと移行していきます。これだけの大土木工事は大きな負担だったはずです。それを国造たちを、どうしてすんなりと受入れたのでしょうか? そんな疑問が私にはありました。それに答えてくれる論文に出会いましたので見ていくことにします。テキストは「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。 

白村江への道663年
白村江に至る道
「備中国風土記』逸文に、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記します。

 この国の風土記には次のようにある。皇極天皇6(660)年、大唐の将軍である蘇定方(ソテイホウ)が新羅軍を率いて百済を攻めた。そこで百済は使者を遣わせて救援を乞うたので、天皇は筑紫に行幸して救援の兵を送った。その時、皇太子だった天智天皇が摂政として随行し、下道郡に身を置いた。そこで、ある郷の村を見ると戸数が大変多かったので、皇極天皇は詔を下して この郷で兵士を集った。その時に得た兵は2万人だったので、天皇は大変喜んで この村を二萬郷(にまんのさと)と名付けた。これが後に爾磨(にま)と改められた。その後、天皇が筑紫の仮宮で崩御したので、この軍勢は遣わせずに終わった。」

ここからは次のような情報が読み取れます。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
この2万という数字はともかく、ヤマトの大王が現地行幸することで、多くの豪族と人民を戦争に徴発できるようになったことがうかがえます。
日本書紀は3回に分けて、次のような軍事力が派遣されたと記します。数
第一派:
1万余人、船舶170余隻。指揮官 安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:
2,7万人 主力指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。
第三派:
1万余人 指揮官は廬原君臣(廬原国造の子孫。静岡県清水市本拠)
推古政権時代にも、新羅将軍・久米王子に神部、国造・伴造らと軍兵2,5万人が授けられたことがあります。約1世紀前に大伴金村が筑紫で行った部民制による兵士動員スタイルが、吉備でも行える体制が整っていたことがうかがえます。
 百済救援軍の派兵決定に踏み切った直後の斉明 6(660)年 12 月、政府は諸国に「諸軍器」の「備え」と軍船建造を命じています。
『日本書紀』には、「駿河国」への造船指令で完成した船が曳航中に伊勢国で転覆したという事件だけが記されています。これは「事故」であったから報告されたので、多くは命令通りに各国で輸送船や軍船が造られていたはずです。駿河国に造船指令が出されていたのなら瀬戸内海の讃岐にも造船指示があったでしょう。それを遂行する国司は、この時点ではまだいませんでした。だとすれば、これらを担当したのは国造たちや有力豪族たちだったのでしょう。

郡郷制変遷表
国郡里制の変遷

 この時点であった地方支配機構は評造(こおりのみやつこ)だけです。任命されたのは旧国造・旧地方伴造で、田地調査、人口調査、50 戸制を創設し、課税・徴兵などを担当させていました。しかし、これは整備されたものではなく、中央の命令が地方にまで法令として下りてくるものではなくAboutで大雑把なものだったようです。  
そのために置かれたのが総領です。
これは百済救援軍の準備・動員のために斉明7(661)年の初めに置かれました。総領―国宰―評造という命令系統を通して次のような事が行われました。
兵器の製造修理
指定数の船舶の造船修理
指定量の軍粮備蓄
指定数派遣軍軍士の選抜・訓練
兵站基地である筑紫博多湾までの輸送
伊予総領は、伊予・讃岐・阿波を支配し、後には朝鮮式山城の築造・運営にもあたっています。 ここでは、古代律令国家の中央集権的な行政機構が、百済救援軍動員を契機に整備され始めたことを押さえておきます。
 ちなみに6世紀に、朝鮮半島政策遂行のために動員された多度郡国造の佐伯直氏の祖先が眠るのが善通寺市有岡町の大墓山や菊塚古墳である可能性を前回お話ししました。この古墳からは百済的な馬具や王冠、鉄剣が出土します。半島での駐屯活動の中で手に入れたことが考えられます。

善通寺大墓山古墳の馬具2
             大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
 6世紀に朝鮮半島に派遣された軍隊は、佐伯直氏軍団のように西国の「評造軍」を中核として編成されていました。それは国造たちの私兵集団で、高価な武具・馬具を自力で整えられる国造領内富裕層に限られていました。装備は自分持ちで、自宅管理、訓練は自己訓練です。それは当時の群集墳の副葬品の武器からうかがえます。
 例えば土器川中流部のまんのう町長尾の町代古墳群(6世紀前半~後半)からは馬具や鉄剣・鉄鏃などの武具が出土しています。

町代3号墳馬具
         まんのう町の町代3号墳の馬具

町代3号墳鉄製遺物2

武具副葬は被葬者の生前のステイタスを誇示する威信財です。ここからは被葬者が国造軍軍士であったことが分かります。6世紀には国造を指揮官とする国造軍が半島に派遣されていたのです。

郡郷制変遷表
国郡(評)里(郷)制変遷図
次に大化の軍制改革で、あらたに創設された「評造軍」を見ておきましょう。
①「兵庫」を設置して、個人装備を一括収蔵・管理
②50 戸制を踏まえた新規選抜軍士の編成(兵力数増員)
③その指揮官が「評造」
個人装備の一括収蔵や新しい軍隊編成法は、装備の点検・修理と廃棄などを効率化し、動員可能数を増やしました。そして評造指揮下の訓練の集団化も行われるようになります。そういう意味では、評造軍は国造軍に比べてはるかに革新され強化された軍隊と云えそうです。
 佐伯直氏が多度郡の「評造(後の郡司)」として果たした役割を挙げてみましょう。
①割り当てられた兵力数を支配下の評造軍軍士から選抜して訓練実施
②一般住民男女は派遣軍軍士たちの装備の製作・修理
③騎馬・駄馬の生産・育成
④軍服などの縫製
⑤軍粮の備蓄
⑥軍船の制作・水夫集団の提供
これらの活動は、綾氏や佐伯直氏にとっては負担の多い役務だったかもしれません。しかし、視点を変えて見ると、中央政府の命令に従ってこれらを行う事で、いろいろな役得がありました。それは新しい武具の供与であり、製法伝授などの先進技術の需要につながったかもしれません。また、軍港提供でそれが交易港として機能し、経済的な利益をもたらすことがあったかもしれません。また「中間搾取」などもあり、後の郡司は美味しい職であったことは以前にお話ししました。
 どちらにしても多度郡の佐伯氏は、大伴軍団の一員として早くから朝鮮半島での駐屯活動に従事し、
その活動の中で先進的な軍事技術や経済的な富を7世紀になっても手に入れていたことがうかがえます。
 例えば、讃岐の古代氏寺は一町(107m)四方の伽藍が一般的です。
ところが佐伯直氏の氏寺である善通寺は、その四倍の2町四方の伽藍を有します。ここにも他の郡司を凌駕する経済力がみえてきます。当時の寺院は、大学でもあり、病院でもあり、僧侶は最高の文化人でした。寺院の中では東アジアの国際用語である中国語が日常用語として使用してされていたと研究者は考えています。それはイスラム教が国や地域は違ってもモスクの中ではアラブ語が用いられるのと似ています。幼い空海は善通寺に出入りし、そこの僧侶達と中国語で話していたかも知れません。これが遣唐使の一員として唐に渡ったときに役立つことになったのではないかと私は考えています。そのような環境の中で空海は育ったことになります。最後は佐伯直氏の国際性と経済基盤の源がどこにあったかという話しにすり替わっていったようです。
以上をまとめておきます。
①百済救援戦争に各国の軍隊を率いたのは、評造(元国造)たちだった。
②評造たちは船や水夫の提供・戦略物資の供出・輸送など後方支援活動を担った。
③同時に評造は、一族や動員された兵士を引率し、筑紫博多湊に集結した。
④そこで伊予大領の軍団として編成され、対馬海峡を渡り半島に上陸した。
⑤しかし、軍団は評造軍の寄せ集めで、統一性がなく集団的な動きができなかった。
⑥また軍船なども遙かに劣っており、唐水軍の敵ではなく、白村江で大敗北を喫した。
⑦この時に多くの兵士が唐軍の捕虜とされ、唐で奴隷として長い歳月を送った。
⑧戦後30年近くを経て、唐との国交回復が進む中で、捕虜たちの帰国が実現した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
関連記事


大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

 空海は、天長五年(828)2月、陸奥国に赴任する(大)伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。
貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

ここには、「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」とあり、空海が大伴と佐伯を、同祖兄弟氏族と思っていたことが分かります。空海が佐伯氏の同祖を思っていた大伴氏とは、どんな氏族だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「菅野雅雄 大伴氏の系図」です。
   大伴氏について語るときに、引き合いに出されるのが「万葉集巻第十八4094」の 大伴宿祢家持の歌です。
海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ

意訳変換しておくと
海に戦いに行ってわたしの屍が水に漬かろうとも
山に戦いに行ってわたしの屍に草が生えようとも
大君のおそばでこそ死のう迷うことはするまい

この歌は戦前には「忠君愛国」の歌として国定教科書に取り上げられていて知らない人はいませんでした。大伴氏というとこの歌が思い浮かべられたようです。

海ゆかば - Wikipedia


この歌は、大伴家持の長歌の一部ですが、家持のオリジナルではないようです。大伴氏の祖先が戦いに臨んで唱い舞ってきたフレーズの一部とされてきました。
 『続日本紀』には、聖武天皇が大伴氏に向けた詔書に、つぎのようにこの歌が引用されています。

おまえたちの祖先はこのように歌って歴代の天皇に忠誠を尽くしてきてくれた。今後もその心がけを忘れてくれるなと。

これに対しての家持の『万葉集』の長歌は、その返答なのです。家持は、さらにこう詠んでいます。
大伴と佐伯の氏は 人の祖(おや)の立つる言立て
人の子は親の名絶たず 大君にまつろふものと言ひ継げる
意訳変換しておくと
大伴氏と佐伯氏は祖先の立てた誓い「子孫は親の名(=代々の家名)を絶えさせず大君に従うものだ」を言い伝えてきたのです

ここに大伴氏と並んで佐伯氏が登場してきます。出陣の際には、この歌を大伴氏の長が詠い、佐伯の長が舞ったとされます。最初に見たように、このことを空海は知っていたから「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」と記したのでしょう。ここでは空海の頃には、大伴氏と佐伯直氏は同祖で、大王のそばに仕え、行動を共にしてきた軍事(護衛)集団であるという誇りが出来上がっていたことを押さえておきます。
この歌は「久米歌(くめうた)」と呼ばれていて、 ウィキペディアは次のように記します。

 記紀の 神武天皇のヤマト征討したとき久米部がうたった歌で、大和国平定記事に組まれた宮廷歌曲群であり、『日本書紀』に8首、このうち6首が『古事記』にも書かれている。大和王権に服した久米氏が、近衛軍団の伴造、あるいは膳夫(かしわで、調理人)となり、戦闘後の酒宴の合唱と舞いとで、宮廷儀礼の場で大王(天皇)に忠誠を誓って奏したものである。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/久米歌 参照 2026年1月11日))
 
ここで注意しておきたいのは、この歌がもともとは大伴氏のものではなかったということです。久米歌は、久米部(くめべ)という部民が歌った軍歌・戦闘歌であったと記します。それでは久米氏(部)とは、どのような氏族だったのでしょうか? 

 『古事記』では天孫降臨の場面に、久米氏は次のように登場します。

故に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多く雲を押し分けて、伊都能知和岐知りたたして和岐豆、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯豆、竺紫のはゆぎ日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。故天忍日命、天津久米命の二人、天の石を取り負ひ、頭椎の大刀を取りき、天の波士弓を取り持ち、天の眞矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天北中天津久米命等の此は久米直等のなり。

 ここでは久米氏の祖先は、忍日命と記載されて、久米氏天津久米命は大伴氏祖天忍日命と共天孫を先導する役割を務めています。ところが日本書紀では、大伴氏が久米氏を率いる立場として描かれます。
 天孫降臨についての書紀と古事記のちがいを挙げると
A 古事記 大伴・久米の併立状況
B 書紀  久米部を帥いる大伴氏の姿を描いている
 日本武尊の東征については、古事記には大伴氏の出番はありません。ところが「書紀』景行天皇四十年七月条の文末には「天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に従はしむ。七脛を以て夫とす。」
  こうして見ると、久米氏はもともとは天皇の直属軍事氏族として活躍していたのが、どこかで勢力を失い、後発の大伴氏にその地位を取って代わられたことがうかがえます。
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
紀記では①②③の場面は、久米氏のみの登場か並立関係だったのが、次第に久米氏が大伴氏に従属していく関係になっていきます。これについては、④の継体天皇擁立と⑤壬申の乱参戦という大伴氏の戦功を背景に、①②③の神話伝承が紀記に組み込まれたと研究者は考えています。そして、④⑤の中には、久米氏の姿は見えなくなります。別の視点から大伴氏=新興勢力説を見ておきましょう。

大和政権の豪族分布図

上の大和盆地の前方後円墳分布図からは、次のような情報が読み取れます。
①大和盆地東部に位置する大王家・物部氏が前方後円墳の密集地帯であること 物部氏の勢力の大きさ
②大王家を挟むように北に物部、南に大伴氏の勢力があること
③大伴氏の勢力内の初瀬川左岸(西南部)流域には前方後円墳がないこと
③からは大伴氏について、次のようなことが推察できます。
A 大伴氏は首長墓である前方後円墳を築くだけの力を持つ氏族ではなかったこと
B 大伴氏は前方後円墳造営終了後に、台頭した新興勢力であったこと
C 大伴氏が、奈良盆地のヤマト王権メンバーの中では、軽量級であったこと
D 大伴氏は物部氏とともに大王家を挟む位置にあり、強いライバル関係にあったこと

Bの大伴氏=新興勢力説をもう少し見ておきましょう。
新興の軍事氏族である大伴氏は、継体天皇を擁立してヤマト政権の中で確実な地歩を占めるようになります。  大伴氏の台頭背景には、大伴氏が渡来した新しい武器 + 鉄を手に入れるルートを持っていたことが考えられます。
百済の騎馬軍団と戦うために

5世紀は高句麗の騎馬戦術に対応するために、軍事兵器の革新が最重要政策となった世紀です。蘇我氏と同じように、そのルートや方策を大伴氏が握ったことが考えられます。それが久米氏に代わって、大伴氏が新興軍事集団として政権内で台頭した背景にあると研究者は推測します。そして、8世紀初頭の紀記編集時代になると、久米氏と大伴氏は同祖で兄弟氏族だという論法を展開したようです。
同祖氏族化の手法には、「A 地縁に基づく擬制」と「B血縁に依る擬制」がありました。
  Aについて、久米氏と大伴氏の本貫を見ておきましょう。
  久米直氏は大和国久米(橿原市久米町)の地を本貫
  大伴連氏は、別業は「竹田」「跡見庄」(橿原市東竹田=竹田庄、桜井市外山跡見庄)
久米と竹田とは近接していて、地縁関係があったようです。
 Bの血縁的擬制については先ほど見たように、大伴氏が久米氏と姻戚関係にあったことが何カ所かで主張されています。こうして、久米氏と隣接し、地縁をもとに同祖氏族であることを唱え、更に同族関係を固めるため、血縁=婚姻を重ね「大伴氏+久米氏=同祖兄弟氏族」伝承を作り上げたと研究者は考えています。
最後に、大伴氏が渡来人と密接な関係にあったことを見ておきましょう。
『万葉集』に八十四首の歌を残している大伴坂上郎女は、大納言安麻呂の娘で旅人の異母妹、家持の叔母に当たります。その経歴は、穂積皇子に嫁しますが皇子の死後に、藤原麻呂の寵を受けます。やがて麻呂と別れ、異母兄宿奈麻呂の妻となり坂上大嬢・二嬢を生む。さらに安倍虫麻呂とも親密な関係を結ぶなど恋多き女性のようです。神亀年間に大宰府に下り、天平二年十一月に帰京、坂上の里に居住したので坂上郎女と呼ばれたようです。
坂上の地(奈良市法華寺町西北辺り)は、渡来人の居住地でした。
ここを本貫としたのが坂上直氏です。坂上氏は、壬申の乱で次のような活躍をしています。

是の日(天武元年六月二十九日)に、大伴連吹負、密に留守司坂上直熊毛と漢直等に謂りて曰はく、「我詐りて高市皇子と称りて、数十騎を率て、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ」といふ。既にして兵を百済の家にひて、南の門より出づ。

ここからは壬申の乱の際に、大伴氏が坂上氏・漢直と供に挙兵したことが記されています。三者の親密な関係が見えて来ます。それもそのはずで、坂上直氏は、東漢氏のリーダー的な存在で、次のように改姓を重ねた渡来系氏族なのです。
天武十一年五月 
同十四年六月 忌寸
天平宝字八年九月 大忌寸
延暦四年六月 大宿禰
「新撰姓氏録」右京諸蕃上には「坂上大宿禰出自後漢霊帝男延王」
「坂上系図」の「姓氏録」逸文には「阿智王(阿知使主)の孫の志努直は坂上大宿禰らの祖」
と記されています。坂上氏(東漢氏)と大伴氏との強いつながりが見えて来ます

大伴坂上郎女は『万葉集』巻三に、尼理願の死去を悲嘆して歌(460)を残しています。
これに注して、次のように記します。
右、新羅国の名は理願といふ。遠く王徳に感けて、聖朝に帰化ぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄生しすでに数紀を経たり。ここに、天平七年乙亥をもち忽ちに運病に沈み、すでに泉界に趣く。ここに、大家石川命婦、餌薬の事によりて有間の温泉に行きて、この喪に会はず。ただ郎女ひとり留まりて、屍を葬り送るとすでにりぬ。よりてこの歌を作りて、温泉に贈入る。
 新羅の人が大伴の家の「寄生」していたと記します。
これ以外の史料からも大伴氏は渡来人との関わりが非常に強かったことがうかがえます。従来は、八神代以来の名族といわれる大伴氏ですが、その台頭の背後には渡来系氏族の影を見えて来ます。
以上を整理して起きます
①大伴氏は、大王直属の軍事集団とされるが、大伴氏以前には久米氏がいた。
②大伴氏は、百済との強いパイプを持つことで馬飼育方法や馬具制作・鉄製品の供給などの先端ハイテク技術の供給体制を握ることによって、政権内部での地位を急速に高めた。
③そして久米氏にとって代わり、佐伯氏と共に大王直属の軍事氏族という立場を築いた。
④そのため大伴氏の周りには渡来系氏族との関係がうかがえるものが多数ある。
⑤大伴・佐伯=同祖兄弟説も、このような中で6世紀に生まれてきたものである。

こうして見ると空海の実家の佐伯直氏も、大伴氏に従軍し、瀬戸内海航路を行き来し、九州や朝鮮半島で活発に活動していたことが考えられます。そのような環境の家に空海は生まれたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅野雅雄 大伴氏の系図
関連記事

  

前回は筑前志摩郡の郡司・肥君猪手の戸籍を見ました。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

志摩郡の郡司の戸籍には124人もの構成員が記されていました。ここからは、当時の家は大家族制であり、多度郡の郡司とされる佐伯直氏も、このくらいの
規模であったことがうかがえます。さて、それではその居館はどうであったのでしょうか?   今回は古墳時代後期(6世紀半ば)の有力者の居館を見ていくことにします。
古墳時代の家族構造がよく分かるのは、6世紀半ばに榛名(はるな)山の噴火で埋もれてしまった群馬県黒井峯(くろいみね)遺跡 です。
黒井峯・西組遺跡復元模型4

噴出した厚さ2メートル前後の軽石層下に埋没した集落跡が出てきています。黒井峯遺跡では、村を埋めた軽石層下の調査によって、村の構成や建物の構造、さらには屋根の形の他に、次のような事が明らかにされました。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』
        群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』)

黒井峯・西組遺跡復元模型2
上記復元模型
①垣根で囲まれた屋敷地
②数棟の平地住居や納屋・作業小屋・掘立柱の高床(たかゆか)倉庫・家畜小屋
③踏み固められた中庭のような作業空間(広場)
④畦をもつ畠
⑤垣根の外の大型の竪穴住居
⑥垣根の外には水場や村の祭祀場
⑦それぞれ道でつながり、さらに村の周囲には畠、低地には水田
これを見るとひとつの「ムラ」のように見えます。しかし、前回見た戸籍に登場する「戸」の実態がこの「ムラ」だと研究者は指摘します。律令制にもとづく支配の最小単位は「戸」とよばれ、その内部に戸主の下に、親族のほか、非血縁の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)も含んでいました。
そのため全体の構成員数は、平均30人前後で、志摩郡の郡司の戸は124人でした。このような構成員が、この空間の「平地式建物」の中に分散して住んでいたのです。ある意味では、ここに見える「ムラ」が生産単位であり、消費単位で「郷戸」であったのです。
肥君猪手の戸籍

 7世紀の律令政府は、このムラを「戸」と名付けて課税単位としたようです。そのためにムラ単位で戸籍をつくり、この単位で課税を行いました。私はかつては「公地公民」というのは、小家族に均等に口分田を与える平等主義にもとづく「疑似社会主義的政策」と早合点していたことがありました。しかし、実態はちがいます。このような血縁関係で結ばれた生産単位を「戸」として、戸籍を作り、そこに様々な課税と、一戸に一人の「国民皆兵制」を課したと捉えることもできます。

戸籍と郷戸

整理しておきます。
口分田も「家(小家族)」毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されました。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長が税を集めました。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位があったのです。その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねて決められたものを納めてくれればいいわけです。こうして、だんだん人が増えてきて五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。復元模型に登場する柴垣に囲まれた数軒の家屋は、一つの単位集団(複数の家族)が生活するワンセットで、律令時代には「戸」として掌握されたことを押さえておきます。
別の角度から見ておきましょう。

黒井峯・西組遺跡復元模型
群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地

①隣接する地域に畑や小屋があり、他の一角には祭祀場とみられる区域がある。
②住民の家屋は竪穴住居と平地住居とがあり、両者ともカマドが付設されている
③竪穴住居は、地表に屋根が密着し煙突がみえる。家屋本体はすっぽりと地下に納っている。
④外周の畑地に接して、物置、食糧庫などの小屋がある。
⑤馬の足跡や家畜小屋もみつかっている。
こうしてみると、母屋の竪穴住居、〝離れ〟の平地住居、穀物倉庫、天屋の作業場や器材置場、家畜小屋、野菜畑、祀祠など、米づくりためのの屋敷原形が古墳時代にはできあがっていたことが分かります。また、馬+カマド+半地下住居=渡来系住人の家屋であったことがうかがえます。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地5

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地4

このムラ=屋敷=戸をベースに、讃岐の空海の実家佐伯直氏の家を想像しておきます。

①百人を超える大家族構成でも大邸宅であったわけではなく「母家+いくつもの離れ」で構成されていたこと
②高床式の穀物倉庫が何棟もあったこと
③水が湧き出す湧水があり、水の儀式の祭場があったこと
④周囲に畑や水田が拡がっていたこと

それではどこに佐伯直氏の屋敷はあったのでしょうか?

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺周辺遺跡図
①病院地区が平形銅剣をシンボルとする「善通寺王国」の拠点エリア
②古墳時代になると東側の試験場地区に遺跡が多くなる
③この勢力が6世紀末に、横穴石室を持つ前方後円墳・大墓山古墳と菊塚古墳を造営
④続いて7世紀後半に仲村廃寺を造営(この時点では、南海道・条里制未着工)
⑥南海道が伸びてきた以後に、その近くに2町四方の善通寺建立
⑦四国学院の南側に、多度津郡衙建設
これらの事業を進めたのが佐伯直氏と研究者は考えています。そして、佐伯直氏が国造から多度郡郡司へと成長していきます。そうすると、③の時点での佐伯直氏の舘は、仲村廃寺周辺にあった。そして、⑥⑦の白鳳時代には、郡衙周辺に舘は移ったと私は考えています。
以上を整理しておきます。
①群馬の黒井峯遺跡からは、垣根で囲まれたムラが出てくる
②このムラが当時の最小の生産単位であり、消費単位でもあった。
③首長を中心に血縁関係で結ばれたいくつかの家族が、各家屋に分散して生活していた。
④7世紀の律令国家は、このムラを課税・均田制支給、徴兵の最小単位としてとらえようとした。
⑤そのためムラの首長を戸主とし、責任者とした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

  



忌部山2号墳の羨道部
山川町の忌部山2号墳 石室天井が高く積み上げられドーム型天井になっている

前回は麻植郡が阿波忌部氏の本貫地で、ドーム型天井を特徴とする忌部山型石室の古墳が見られること、これを造営したのが古代の忌部氏に繋がる集団であるという説を見ました。今回は、その忌部山型石室のルーツが、どこにあるのかを見ていくことにします。テキストは  「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。
麻植群の忌部山型石室は、美馬郡の段の塚穴型石室からの影響を受けていると研究者は指摘します。
段ノ塚穴型石室は美馬町にある段ノ塚穴古墳(国指定)を盟主とする特異なタイプの横穴式石室です。このタイプの石室は全国的に見ても、非常に珍しいもののようです。段の塚穴古墳に行ってみることにします。
P1270860
段の塚穴古墳群の太鼓塚古墳(美馬市坊僧 下が川北街道)
段ノ塚穴には、大鼓塚と棚塚の二つの大きな円墳があります。東側が大鼓塚で、東西37m、南北33m、高さ10mの徳島県最大の円墳です。西隣りの棚塚は、それよりひと回り小さく直径20m、高さ7mの円墳です。

P1270865
太鼓塚古墳入口
太鼓塚の石室は、全長13、1m、7、7mの長い羨道を持ち、玄室部4、5m、中央部で高さ4、25mの四国最大級の横穴式石室です。門扉はありますが鍵はないので、自由に入ることができる私にとってはありがたい古墳です。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
石室は結晶片岩を用いた両袖式で、段の塚穴型石室と呼ばれる胴張りの平面プランと持ち送り式に積み上げた天井。1951年(昭和26年)、墳丘西裾から須恵器・土師器・埴輪・馬具などが出土し6世紀後
から7世紀初頭のものとされています。

P1270866
太鼓塚古墳羨道と玄門 羨道は入口に向かってバチ形に開く
段の塚穴古墳・太鼓塚の玄門g
                  太鼓塚古墳玄門
 玄室の平面形は、中央部が膨らむ胴張り形で、玄室天井部は天井石7石が階段状に持ち送られることによるドーム状です。
段の塚穴古墳天井部
                 太鼓塚古墳の天井部
副葬品としては鉄製品・須恵器などが出てきていて、その出土品の年代判定から追葬がされているようです。石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」と呼ばれてきたようです。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部
太鼓塚古墳奥壁前の祠
奥壁前には小さな仏が奉られ、今も賽銭が数多くあげられていました。人々の信仰対象として奉られ、現在まで保護されてきたことが分かります。同時に、優れた築造技術を感じます。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部2
太鼓塚古墳玄室から入口方面
確かに太鼓のような膨らみを感じることができる玄室です。なお、玄室内部は暗いので強力な懐中電灯を持参することをお勧めします。入口から出てくると、外に拡がる風景が・・・


P1270859
段の塚穴古墳群の前に拡がる美田
目の前には、整備された美田が広がり、その向こうに吉野川が流れ、そして剣山へと伸びていく山脈が続きます。しかし、古代にはこんな風景ではなかったことは以前にお話ししました。古代の吉野川は、今よりも北側を流れ、郡里の寺町の河岸段丘からこのすぐ下まで押し寄せていました。この美田が現れるのは、吉野川の治水が進む近代になってからのようです。

P1270878
段の塚穴古墳群の西側の棚塚古墳
 西側にある棚塚を見に行きます。
全長8、5m、羨道部3、7m 玄室部4、5m、幅2m、石室全長:8,6m、高さ2,8m

P1270880
棚塚古墳の入口
太鼓塚古墳と構造的には似ていますが異なるのは、次の3点です。
①玄室の平面形は太鼓塚が中央部が膨らむ胴張り形でしたが、棚塚は長方形。
②玄室天井部は天井石5石が階段状に持ち送られることでドーム状にしていること
③玄室奥壁には石棚が付けられていること

段の塚穴古墳 棚塚1
棚塚古墳の奥壁と石棚
棚塚は石室奥壁側に石棚があることから付けられた名前のようです。石棚のある石室は、徳島では段ノ塚穴型石室だけで、七基が確認されています。

段の塚穴古墳 棚塚2
石棚の拡大写真

この太鼓塚と石棚柄の石室は県下で最大級であると同時に、巨石を巧みに積み上げた優れた技法の石室であることです。優れた技術者集団によって、造られたことがうかがえます。2つの古墳共通する特徴を挙げておきます。
①羨道部は入口部が広く、玄室方向に進むに連れて狭まり、玄室部入口の両側に立石が立てられ玄門としている。
②玄室部の平面形は太鼓張りか末広がり
③天井部は忌部山型と同じく玄室入口側と奥壁側から持ち送り、竃窪状とし玄室中央部の天井を最高位としている。
④忌部山型よりも天井部の高さはより高く、石室空間も広く、という意図がうかがえる。
⑤麻植の忌部山型石室と比較すると、段ノ塚穴型石室の構築技術の方がより優れている。
この2つの古墳に代表されるドーム型天井石室を持つ古墳を「段の塚穴型石室」と呼んで分類しています。
段の塚穴型石室をもつ古墳群とと美馬郡にある古墳分布図を見ておきましょう。

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳一覧
美馬郡の段の塚穴型石室古墳の分布図と一覧表
ここからは次のようなが読み取れます。
美馬郡には、段ノ塚穴型石室をもつ古墳が23基あること
段の塚穴型石室をもつ古墳の一番西が大國魂古墳(美馬町城)で、一番東が北岡東古墳(阿波町)
③ 美馬郡の古墳は南岸よりも、北岸に立地するの方が多いこと。北岸優位
④ 段の塚穴型古墳は、山の上の高所立地はあまりなく、北岸の河岸段丘沿いの立地が多いこと
⑤ 敢えて集中地を挙げるなら、郡里と脇町の2つ

一番古いモデル(6世紀中葉)とされる大國魂古墳(美馬市美馬町)を、見ておきましょう。

大國魂古墳kaikoubu 2
大國魂古墳の開口部
この古墳は美馬町・重清西小学校北の大国魂神社の境内にあります。ここも「先祖の墓=信仰対象」として守られてきたのでしょう。この古墳は。段の塚穴型石室の中で、一番西に位置します。開口部は狭いですが、石室内部は完存してます。

段の塚穴古墳棚塚3
                大國魂古墳の玄室から見た開口部

幅2・22m、玄室長2.17m、高さ2.09m。石室全長は4.67m。
床面プランは、やや胴張りですが正方形に近い形式。側壁は下部に砂岩、上部に結晶片岩を用いています。奥壁には石棚がります。

大國魂古墳(美馬市美馬町)
大國魂古墳 奥壁の上部にもうけられた石棚 
石棚の位置が高すぎで、天井との空間が狭すぎるような感じがしますが、ここに何かが奉られていたのでしょう。大國魂古墳の特徴をまとめておきます
①段の塚穴古墳群に比べると石室の規模はやや小さい
②玄室の平面プランは胴張りをしているものの正方形に近い
③石室には、奥壁天井部に接する形で石棚が設置(奥行き30㎝、厚さ8㎝の小振りの石棚)
段の塚穴型石室変遷表
段の塚穴型石室の編年試案

初期の大國魂古墳から終期の段の塚穴古墳群を比較して、研究者は次のように指摘します。
①周忌の最終段階の段ノ塚穴古墳までに、石室は長く、高くという意図が働いている
②構築技術の高まりと同時に被葬者の権力的基盤の高まりがうかがえる。
このような石組技術をもった集団が古代の美馬にいて、独特の石室を作り続けたことになります。

段ノ塚穴型石室分布図
段の塚穴型石室と忌部山型石室の分布図

ついでに、ここで段ノ塚穴型石室と忌部山型石室の共通点も見ておきます。
③共に、石室内部をより広く高くするというベクトルが働いていること
④石室内をドーム状にし、天井を穹窪状に持ち送る「ドーム型天井」を採用していること
どちらが先行するかと言えば、段ノ塚穴型石室の初期モデルと考えられる大國魂古墳(5世紀末~6世紀初期)があるので、段ノ塚穴型石室が先と研究者は考えています。段ノ塚穴型石室が先に登場し、続いて忌部山型石室が続くとことを押さえておきます。

それでは段ノ塚穴型石室のルーツは、どこなのでしょうか?
それは、次の二ヶ所が考えられるようです。
①紀伊水道を隔てた和歌山県紀ノ川南岸下流域沿いに分布する岩瀬千塚型石室
②九州の肥後型石室
岩橋型石室 段の塚穴古墳のルーツ?

岩瀬型石室(和歌山)


肥後型石室
この両者は天井部を高く積み上げる点で共通点があります。段ノ塚穴型石室に見られる石棚を持つ特徴は、岩瀬千塚型に共通します。しかし、天井石を前後から持ち送りドーム状にするという手法は見られません。これは阿波で発展した独特の技法です。
 先ほど見た段ノ塚穴型石室の初期モデルとされる大國魂古墳と肥後型石室を比較すると、玄室プランが正方形であること、石棚がある点などでは共通します。そのため近年では、肥後型石室の影響を受けて、天井部を高くする技法が進化し、長方形の胴張り形がミックスされたとする見方が有力なようです。
  ここまでをまとめておきます
①麻植の忌部氏と美馬の佐伯直氏は、とも阿波に移り住んだということが史料からは読み取れる。
②段ノ塚穴型石室、忌部山型石室ともに、そのルーツを辿っていくと九州地域からの影響を受けて作られた可能性が高い。
③これは工人達の移住により構築技術がもたらされたというよりも、高い統率力を持った豪族が集団で移住・入植し、美馬郡、麻植郡を本拠地として活動したと考えられる。
④こうした勢力が、古墳末期から律令期において、美馬・麻殖で、独特のドーム型石室の終末古墳を造営し、引き続いて古代寺院の建立を手がけることになる。

それでは、美馬エリアに段ノ塚穴型石室を造営したのは、どんな集団だったのでしょうか
古墳末期に、横穴式の巨石墳を造っていたエリアでは、7世紀後半の白鳳時代になると古代寺院が現れることがよくあります。つまり、古代の国造クラスの有力者が、中央の支配者を見習って埋葬方法を古墳から寺院に切り替えたとされます。それが国造から郡司への生き残り戦略でもあったのです。彼らは壬申の乱の天武政権において、郡司として地方権力を握るために、中央政府の打ちだす政策に協力していきます。それが、白村江敗北後の国土防衛のための軍事施設整備であり、南海道などの整備、条里制施行の土木工事でした。同時に、郡司として郡衛やそれに付随した施設を整備していきます。つまり8世紀後半に、南海道などの主要道や郡衙・古代寺院がほぼ同時に姿を見せることになります。そのような場所が、美馬の郡里です。ここには、次のような施設がありました。

郡里廃寺2
             古代の美馬・郡里の政治的モニュメント
A 段の塚穴古墳(古墳末期の巨石墳)
B 郡里廃寺(有力豪族の氏寺)
C 美馬郡の郡衙
D 条里制跡
こうして見ると6世紀末に盟主的性格の強い段の穴塚古墳を作った集団は、白鳳期になると郡里廃寺を造営したことが考えられます。ここからは美馬には国造クラスとして活躍し、その後に美馬郡司にスライドしていく有力豪族がいたことがうかがえます。その豪族とは、誰なのでしょうか? 古代史料に美馬郡で活躍する氏族名はあまりいないようです。その中で、研究者は次の記事に注目します。

『日本三代実録』貞観十二(870)年七月十九日の条に、佐伯直氏が登場します。
「阿波国三好郡少領外従八位上仕直浄宗五人。賜姓 佐伯直。」
             (『日本三代実録』前篇、二七六頁、国史大系、吉川弘文館1924年)
ここには阿波国三好郡の少領である「仕直浄宗」以下の五人に佐伯直の姓が与えられたとあります。佐伯直氏は、讃岐では空海を生んだ善通寺の有力豪族で、次のように考えられていることは以前にお話ししました。
佐伯直氏
佐伯氏は3つの氏族がいて「擬似的血縁共同体」を形成していた
  『三代実録』巻貞観三年(861)11月11日辛巳条には、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたことが記されています。それから9年後に阿波三好郡の「仕直浄宗」以下の五人が佐伯直が下賜され改姓していたことになります。ここからは善通寺の佐伯直氏と阿波美馬の勢力は「佐伯」という同じ姓を持ち、同属意識で結ばれていたことがうかがえます。

奈良時代の平城宮跡二条大路出土の木簡二点にも美馬郡の佐伯直氏が登場します。
A 阿波國美馬郡三野郷戸主佐伯直国分米
B 阿波国美馬郡三野郷  戸主佐伯直国麻呂米五斗
『平城官発掘調査出土木簡概報 二条大路木簡二 24・30P(奈良国立文化財研究所、1991年)
この二つの木簡は荷札木簡で、美馬郡三野郷の戸主佐伯直が税として米を納めたことが記されています。納めた年月は分かりませんが奈良時代の史料であることはまちがいありません。ここからは奈良時代の律令期に美馬郡三野郷に佐伯直氏の集団がいたことが分かります。史料の中に美馬郡域に登場する氏族は、佐伯直氏以外には今のところいないようです。佐伯氏と美馬郡の段ノ塚穴型石室の分布が重なり会う可能性が大きいと研究者は考えています。以上からは次のような説が考えられます。
郡里廃寺 段の塚穴
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
 『郡里町史』(1957)は、阿波国には、文献から確認できる「粟国」と「長国」のほかに、記録には出てこないが「美馬国」とでもいうべき国があったという阿波三国説を提唱しています。この美馬国は②が実態だったと考えられます。

古代の善通寺と美馬の交流関係については、以前に次のようにお話ししました。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
                  郡里(こおざと)廃寺
この古代寺院を建立したのは、先ほど見たように佐伯直氏一族と考えられます。またこの廃寺跡からは、弘安寺廃寺(まんのう町)から出てきた白鳳期の同じ木型(同笵)からつくられた軒丸瓦が見つかっています。郡里廃寺建立に、善通寺の佐伯直氏が協力したことが考えられます。

弘安寺軒丸瓦の同氾
弘安寺(まんのう町)軒丸瓦の同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)
さらに、「美馬王国」と「善通寺王国(善通寺旧練兵場遺跡群)には、次のような関係がありました。
古代美馬王国と善通寺の交流


ここから研究者は、次のような仮説「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

ここでは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説があることを押さえておきます。そうだとすれば、弘安寺(まんのう町)と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 最後に美馬の段の塚穴型型石室を造営した勢力の経済基盤は何だったのかを考えておきます。

大仏造営 辰砂分布図jpg
四国を東西に走る中央構造線の南側は、朱砂(水銀)や銅鉱など鉱物資源の眠るベルト地帯でした。その中でも、徳島の水銀生産の実態が他に先駆けて、明らかになっています。吉野川の南側の山には、鉱物資源を求めて、早くから人々が入り込み水銀を畿内だけでなく各地にもたらしたことが分かっています。そのルートが「美馬 → 善通寺 → 多度津 → 瀬戸内海航路」です。これは、律令時代になってもかわりません。東大寺の大仏鋳造に必要だった水銀と銅鉱の多くは、渡来人の秦氏がもたらしたものとされます。そのために秦氏は、伊予や土佐にやってきて鉱山開発を行っていたことがうかがえます。高越山周辺の銅山でも、秦氏の銘が経筒に残されていることは以前にお話ししました。このように、古代において吉野川の南側は、鉱物資源の生産地として戦略的にも重要地帯であったことがうかがえます。そこに、佐伯氏や忌部氏が入植し、この地を開き、忌部山型石棺や段の塚穴型石棺という独特の古墳を残したというのが私の今の考えです。

 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制形成期に美馬郡司にスライドして、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院郡里廃寺の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった善通寺の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。
⑥中央構造線の南側には鉱物資源ベルト地帯が東西に走り、その開発のために麻植に入植した子孫が忌部氏であり、美馬に入植したのが佐伯氏である
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ
関連記事

修験者

        
4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

DSC04630
室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

正倉院文書と写経所の研究 | 山下 有美 |本 | 通販 | Amazon

正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
DSC04542
       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
送料無料] 新・弘法大師の教えと生涯 [本]の通販はau PAY マーケット - ぐるぐる王国 au PAY  マーケット店|商品ロットナンバー:486752083

このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

空海のあとを受け継いだ真言教団のリーダーたちをみると、空海の血縁者が多いようです。前回に見た実恵にしても、真雅、真然、智泉など、いずれも空海の血をひく佐伯直氏の出です。初期の真言宗教団のなかで佐伯直氏一族は強い勢力をもっていたことがわかります。空海の死後に、真言宗教団をまとめたのは東寺長者の実恵でした。その後が、空海の末弟の真雅です。しかし、兄の空海とは、年が27歳も違います。異母兄弟と考えるの自然です。
佐伯直家の本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを中央政府に求めた「貞観三年記録」には、空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
1 空海系図

今回はこの真雅(しんが)を見ていくことにします。
 真雅についての根本伝記は、寛平5年(893)に弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝になるようです。
 それによると、真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたのが、申請運動の結果、宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになたことが記されます。真雅の兄は空海で、年齢的には27歳も年が離れています。異母兄弟と考えるのが自然です。父と子ほども年齢が離れていることは、頭の中に入れておきます。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
真雅像(地蔵院流道教方先師像)

 真雅が生まれたのは延暦20(801)年です。この当時、兄の空海は、大学をドロップアウトし、沙門として各地の行場を修行中です。もしかしたら行方知れずで、弟の生まれたことも知らなかったかもしれません。真雅は9歳の時、讃岐から上京しています。官吏となるためには、この頃からから書道や四書五経について学ぶ必要がありました。しかし、彼の進む道は、兄空海の栄達と共に変化していきます。この時期の空海と真雅の動きを年表で見ておきましょう
801年 真雅誕生
805年 長安で青竜寺の恵果に師事し密教を学ぶ。
806年 明州を経て十月帰国。
809年 上京、高雄山寺に居を構える。
810年 勅許を得て実恵、智泉らに密教を教える。真雅上京
813年 真言密教の本旨を示す。
816年 高野山開創を勅許。(43歳) 弟真雅(16歳)を弟子とする。
817年 高野山開創始まる。
819年 真雅(19歳)に具足戒を授ける。
822年 東大寺に灌頂道場建立。
823年 嵯峨天皇から東寺をもらう。
     真雅(23歳)天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。
834年 空海が東寺で実慈と真雅に両部灌頂を受ける。
835年 空海死亡
  真雅にとっては、記憶にほとんどない兄が突然遣唐使になって唐に赴くことになったことは驚きだったでしょう。それがわずか2年で帰国し、その後は密教のリーダーとして飛躍していく姿には、もっと驚いたかも知れません。

大師堂(神護寺) - コトログ京都
神護寺大師堂

真雅が空海と初めて出会ったのは、いつどこででしょうか。
 それを示す史料はありませんが、九州太宰府での「謹慎待機」が解けて、空海が京都の髙尾山神護寺に居を構えてからのことでしょう。それに時期を合わすように、真雅は上京しています。この時期の空海の動きは密教伝来の寵児として、スッタフの拡充充実が求められます。真雅が16歳になるのを待っていたかのように、真雅を出家させ、19歳の時には具足戒を授け、スッタフの一員としたようです。
 真雅は、唐の長安・青竜寺住職恵果和尚から伝えられた新しい密教の教義を、むさぼるようにして兄から学んだのでしょう。そんな真雅を空海は身近において、宮中へも連れて行ったようです。
   『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には、真雅の活躍が次のように記されています。
 真雅(23歳)の時、内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、天皇はよろこび、厚く施しをした。

また、この年に空海は10月13日には、皇后院で息災の法を三日三夜修法し、12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっています。このような儀式に空海は真雅を伴って参内したようで、淳和天皇や朝廷の面々の知遇を得ることができました。これが後の真雅の人的ネットワークとして財産になり、空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立ったようです。
真雅

承和元年(834年)9月、真雅と実慈は、病が重くなっていた空海から東寺で、共に両部灌頂を受けます。空海が後事を託したのは、一族の実恵と真雅の二人だったことがうかがえます。
「東寺長者」には実恵が就きますが、遺命で東寺の大経蔵管理については、真雅に全責任を任したと云います。東寺の大経蔵は、空海が唐から持ち帰ったおびただしい数の経典や密教の法具など一切が納められていた真言密教にとって最も重要な蔵です。ある意味、空海後の真言宗組織は、実恵・真雅の「二頭体制」だったといえるのかもしれません。以後の真雅の動きを年表で追ってみましょう

835年 弘福寺別当、また、一説に東大寺真言院を委託される。
847年 東大寺別当に任ぜられる。
848年 大権律師、9月:律師に任ぜられる。
850年 3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。
     真雅は親王生誕から24年間、常に侍して聖体を護持
853年 惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。
860年 真済死亡後の東寺長者となる(先任二長者の真紹をさしおいて就任)
862年 嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
864年 僧として初めて輦車による参内を許される。
874年 7月、上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)。
879年 1月3日、貞観寺にて入滅。享年79歳79。
1828年 950回忌に、法光大師の諡号が追贈。

この年表を見ると、850年の清和天皇の誕生が真雅の大きな転機になっていることがうかがえます。

真雅と藤原良房
藤原良房

そこに至るまでに真雅は、実力者藤原良房への接近を行っています。良房の強大な力を背景に、真雅は天皇一家の生活に深くくい込んでいったようです。良房をバックに真雅が天皇家と深いかかわり合いを持ちはじめたころに発生するのが「承和の変」です。

真雅と承和の変

良房が図ったこの政変は、天皇家を自らの血縁者で固めようとしたもので、これに反対する皇位継承者や重臣橘逸勢らを謀反人と決めつけて流罪・追放します。ところが実権を収めた良房に舞い降りてくるのが
①応天門の放火炎上
②流感のまんえん
③地震の続発
です。当時は、これらは怨霊のたたりとされていました。たたり神から身を守ってくれるのが先進国唐から導入された最先端宗教テクノである密教でした。具体的には真言高僧による祈祷だったようです。ここが真雅の舞台となります。
真雅と応天門2
こうした世情のなか、真雅は良房の意を受けて
①仁明天皇の病気平癒
②惟仁親王(のちの清和天皇)の立太子祈願
などの重要な収法の主役を演じます。
 真雅の躍進は、藤原良房の保護・支援が大きいようです
嘉祥3年(850)3月25日に生まれた惟仁親王(後の清和天皇)は、文徳天皇の第4皇子でしたが、母は藤原良房の娘です。そのため11月には皇太子に立てられます。これは童謡に次のように謡われたようです。
大枝を超えて走り超えて躍り騰がり超えて、我や護る田や捜り食むしぎや。雄々いしぎやたにや。」

「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇には4人の皇子ありながら、その兄たちを超えて惟仁親王が皇太子となったこと風刺したもののようです。その皇太子を護持したのが真雅でした。
 また藤原良房の娘明子が文徳天皇のもとに入った後、長らく懐妊しませんでした。ここでも藤原良房は真雅と語り、真雅が尊勝法を修した結果、清和天皇が誕生したとも記されます。
真雅と応天門の変

このように惟仁親王(清和天皇)降誕の功もあって、真雅は藤原良房より信認を受けるようになっていきます。
仁寿3年(853)10月25日には、少僧都
斉衡3年(856)10月2日には大僧都
僧官を登り詰めていきます。さらに清和天皇が即位した翌年の天安3年(859)に嘉祥寺西院に年分度者を賜ったのも、それまでの真雅の功に対する、摂政藤原良房からの賞であったのかもしれません。
真雅と清和天皇

清和天皇
 真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 実恵は、空海のワクのなかで忠実に法灯を守ろうとしました。それに対して、真雅は師空海の残した法灯と貴族社会との結びつきを強めていったと言えそうです。
  この結果、真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。
しかしある意味、「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。
 これが天台宗との大きな違いだったと私は思っています。真言宗は、空海がきちんと教義を固めて亡くなります。それを継いだ宗主たちは、教団内部の教義論争に巻き込まれることはありませんでした。そして、真雅は「天皇家の専属祈祷師」の役割を引き受けます。
 一方、天台宗の場合は最澄は、教義の完成を志し半ばにして亡くなります。
残された課題は非常に多く、内部論争も活発に繰り返され、そこから中世の新宗教を開くリーダーが現れてきます。それだけカオスに充ち満ちていて、新しいものが生まれだしてくる環境があったのでしょう。これが比叡山と高野山のちがいになるのではないでしょうか。少し筆が走りすぎたようです。話を真雅にもどしましょう。

真雅は藤原良房の政治力をフルに活用し、真言宗の拡充を図ります
そのひとつが貞観四年(862)に、伏見区深草僧坊町に貞観寺を開創し、初代座主となったことです。この寺は、東寺をはるかに上まわる大伽藍と、広大な荘園を有するようになりますが、やがて東寺、のちに仁和寺心蓮院の末寺となり、中世に衰退して廃寺となります。

 真雅は、貞観寺創建と相前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  「幸いにして時来にかない、久しく加護に侍る。かの両師(実恵と道雄)と比するに、たちまち高下を知らん」(『日本三代実録』巻5、貞観3年11月11日辛巳条)

と評されたように、真言宗においても実恵と道雄の権勢は高まります。そのため真雅の貞観寺には多くの荘園が寄進されます。朝廷と密接な結びつきのある貞観寺に寄進することによって、租税から免れることを狙うとともに、有力者と接近して地域の権益の保護をはかるためでしょう。貞観寺の田地は約755町(750ha)にも及んだといわれます。

 真雅は自分が法印大和尚位についた年、師の空海が死後も無位であることに気を遺います。そして、空海への法印大和尚位の追贈を、清和天皇へ願い出て許されています。
 
貞観の大仏開眼供養会があった年の十一月、
讃岐の国多度郡の佐伯直氏の一族十一人に、佐伯宿爾の姓があたえられ、あわせて平安左京に移貫することがみとめられます。    
空海の甥たちの悲願がやっとかなったのです。これより先に一族を代表して佐伯直豊雄が、宿爾の姓を賜わるために提出した申請書には次のように記されています。

今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸ひに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師 実恵と道雄)に比するに、忽ち高下を知らん」(「三代実録」貞観三年十一月十一日辛巳条)

ここからは、賜姓と京への本貫地の移管が、叔父真雅の威光を背景に行われたことがうかがえます。豊雄らの賜姓を周旋したのは、佐伯直氏の本家とされる中納言伴善男でした。(『三代実録』同上条参照)。
 真雅も伴善男と組んで佐伯氏一族の賜姓と移貫を実現させるために工作したのでしょう。
 貞観六年(864)二月、僧綱の位階が制定されたさいに真雅は、法印大和尚位の位階を賜わり、僧正に任ぜられています。もともとこの新位階の制定は、真雅の上表によって定められたものです。こうして真雅は、僧綱の頂点に立って仏教界を牛耳る地位を獲得したのです。
 しかし、そのころの政局は、けっして平穏ではありませんでした。咳逆病の流行による社会不安が広がっていました。そのような中で起きるのが先ほど述べた応天門の変です。応天門は、大内裏の正殿である朝堂院(八省院)の南中央に位置する重要な門です。そこから火が出て、門の左右前方に渡廊でつながる棲鳳・翔鸞の両楼も応天門とともに焼け落ちてしまったのは、貞観八年(866)二月十日の夜のことです。そして、半年後には時の大納言伴善男は、息子の中庸とともに応天門に火をつけた主謀者として告発され、善男らは大逆の罪で斬刑を命じられますが、罪一等を減じられて遠流の刑に処せられることが決定し、善男は伊豆の国へ、中庸は隠岐の国ヘ配流されます。伴善男は佐伯直氏の本家とされ、賜姓を周旋した人物です。賜姓決定が、もう少し遅ければ佐伯直氏の請願も認められることがなかったかもしれません。

874年7月
「上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)」

とあるように、真雅は七十歳を過ぎたころには、何度も朝廷へ一切の要職から引退したいと願い出ますが聞き入れられません。
『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)には、真雅の死を次のように記しています。

 晩年真雅は病に伏せ、医者や薬に頼ることなく、手に拳印を結び、口に仏号を唱えて遷化した。享年79歳。元慶3年(879)正月3日のことであった。真雅は清和天皇が降誕以来、左右を離れずに日夜護持していたから、天皇ははなはだ親しく重んじていた。天皇は狩猟を好んでいたが、真雅の奏請によって山野の狩猟を禁じて、自らもこれを断ったばかり、摂津国蟹胥・陸奥国鹿尾の贄を御膳に充てることも止めたほどであった

彼も江戸時代末期の文政十一年(1828)になってから法光大師の号が贈られています。
真然像
真然(しんねん)像

最後に真雅や空海の甥に当たる真然を見ておきます。
彼は空海の実弟である佐伯直酒麿(佐伯田公の五男)の子といわれ、真雅や空海とは叔父。おいの間柄になります。真然は、空海から密教の教義、真雅からは両部潅頂を受けています。そして、空海没の翌年の承和三年(836年)に、遺唐使として真済とともに出港します。その際に、空海の死を長安・青竜寺に報告する手紙を託されますが、乗船の難破で入唐が果たせず、命からがら帰国しています。
空海の遺命で、その後の真然は金剛峰寺の伽藍造営に全力を傾注します。
真然廟(高野山)
真然廟(高野山)

そのためか、空海亡きあとの真言教団は、東寺派と金剛峰寺派に分かれ冷戦状態が続き、円仁、円珍らによって降盛をみせていた天台宗とは対照的な様相をみせます。心配した真然は晩年、真言宗の復興へ動き出しますが、果たせないまま党平二年(890年)9月に没します。真然の果たせなかった夢を継ぎ、真言宗を盛り立てたのが益信、聖宝、観賢らになるようです。
真然大徳廟

  以上見て来たように、空海は真言教団の重要ポストに佐伯直親族を当て、死後も彼らが教団運営の指導権を握っていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 讃岐人物風景1 四国新聞社 1980年

DSC01050
佐伯直氏廟 香色山

空海を生み出した佐伯氏とは、どんな豪族だったのでしょうか?

その辺りを、資料的に確認していきたいと思います。同じ佐伯でも佐伯部・佐伯直・佐伯連では、おお
きくちがうようです。

 佐伯直氏について
                                                    空海の生家 佐伯一族とは?

まず、佐伯でから見ていきます。               
「部(べ)」または「部民」とは、律令国家以前において、朝廷や豪族に所有・支配されていた人たちを指します。佐伯部については、長いあいだ、井上光貞氏の次の説が支持されてきました。

 佐伯部とは五世紀のころ、大和朝廷の征討によって捕虜となった蝦夷をいい、佐伯部という名をおびた半自由民とされたうえで、播磨・安芸・伊予・讃岐・阿波の五力国に配置され、その地方の豪族であった国造家の管理のもとにおかれた人々であった」

この説では、捕虜となり、瀬戸内海沿岸地域に配置された蝦夷の子孫ということになります。しかし、この佐伯部=蝦夷説は、佐伯部が軍事的な部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承と今では考えられているようです。
代わって次のような説が一般的です。

「(佐伯部は)対朝鮮半島との緊張のなかで、瀬戸内海地域に「塞ぐ城」として設置されたとは考えにくく、大和政権が西国支配を確立していく過程で設置されたとみるべきであり六世紀初め以前に設置された」

 6世紀に佐伯部が設置されたとするのなら、有岡の地に築かれた王墓山古墳や菊塚古墳の埋葬者が「佐伯部を管理する国造」たちで佐伯直と呼ばれたいう説も成立可能な気もします。
DSC01063
          佐伯直氏廟 香色山
 つぎは、佐伯です。
佐伯直(あたい)については、次のように説明されます。

「佐伯部(軍事部隊?)を管理・支配していたのがその地方の豪族であった国造家であり、その国造家を佐伯直と称した」

空海の生家である讃岐国の佐伯直家も、かつて国造家といわれたこの地方の豪族であった、といわれています。この空海の生家を豪族とみなす説は、佐伯直=国造家=地方の豪族の図式にピタリとはまります。
DSC01053
香色山からの善通寺市街と飯野山

 最後は佐伯連です。
佐伯連は、中央にあって諸国の佐伯直を統括していた家と考えられてきました。
佐伯連は、壬申の乱後の天武十二年(684)十二月、大伴連らとともに「宿禰」の姓をたまわり、佐伯宿禰と称するようになります。この中央で活躍していた佐伯連(のちの宿禰家)は、大伴宿禰の支流にもなります。つまり、大伴氏は佐伯宿禰の本家にあたる一族になるわけです。
次に確認しておきたいのは、これらの3つの佐伯はまったく別物だったと言う点です。
  地方にいた佐伯直と中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰とは、おなじ佐伯と言いながら、まったく別の家でした。つまり、讃岐の佐伯直と中央の佐伯連(宿禰)とのあいだには血のつながり、血縁関係はまったくなかった、と研究者は考えているようです。
 しかし、平安初期のころになると、佐伯とあれば直・連(宿禰)の関係なく、同族であるとの意識が強くなっていたようです。むつかしい言葉で言うと「疑似血縁的紐帯」で結ばれ一族意識を持つようになっていたということでしょうか。
 例えば空海も、天長五年(828)二月、陸奥国に赴任する佐伯蓮の本家に当たる伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。

  貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

「伴佐昆季なり」と、大伴と佐伯とは同じ祖先をもつ兄弟である、と記しています。空海も佐伯と、その本家に当たる大伴家の一族意識を持っていたことが分かります。しかし、実際には同じ佐伯でもその後に「直」「連」「宿禰」のどの姓(かばね)が来るかで大違いだったのです。

 佐伯家系を知る根本史料は「貞観三年記録」 
空海の兄弟などを知るうえでの根本史料となるのは『日本三代実録』巻五、貞観三年(861)十一月十一日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。
 当時の地方貴族の夢は、中央に出て中央貴族になることでした。そのために官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海の兄弟達が中央で活躍して佐伯直鈴伎麻呂ら11名が宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が残っています。

 1 空海系図52jpg
「貞観三年記録」を元に作成された佐伯氏系図
「貞観三年記録」にどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
前半は、宿禰の姓をたまわった空海の弟の鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続き柄と、佐伯家の本家である大伴氏の当主が天皇への上奏の労をとったことが記されます。後半は、大学寮の教官の一人・書博士をつとめていた空海の弟・佐伯直豊雄が作成した官位などを望むときに提出する願書と、その内容を「家記」と照合し、勅許に至ったことが載せられています。
 
DSC01024
善通寺東院 本堂

その中の空海の先祖の部分を意訳要約すると次のようになります。
①先祖の大伴健日連(たけひのむらじのきみ)は、景行天皇のみ世に倭武命(やまとたけるのみこと)にしたがって東国を平定し、その功績によって讃岐国をたまわり私の家とした。
②その家系は、健日連から健持大連公(たけもちのおおむらじのみこと)、室屋大連、その長男の御物宿禰、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連(わこのむらじのきみ)が允恭天皇の時に初めて讃岐の国造に任ぜられた。
③この倭胡連は豊男等の別祖である。また、孝徳天皇の時に国造の称号は停止された。
 これだけ読むと讃岐国の佐伯直氏の先祖について記したように思えます。しかし、これは中央で活躍していた武門の名家・大伴氏に伝わる伝承を「流用」したもののようです。大伴家は佐伯氏の本家であるという意識を空海が持っていたことは先ほど述べました。そのため本家と考えられていた大伴家の話を「流用」しているのです。ともあれ、内容を少し詳しくみておきましょう。
   ①段の前半、景行天皇の時に、大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したことは、『日本書紀』にだけみられる記録です。
 この記事について、研究者は次のように評します。

「これらは伝承であって史実ではなく、大伴連の家につたえられた物語であった。大伴氏が、主として軍事の職掌を担当するようになってから、こうした話がつくられたのであろう」

DSC02710
善通寺東院 本堂

 つぎは①の後半、東国を平定した勲功によって讃岐国を賜り私の家としたことです。
景行天皇時代の讃岐国における佐伯、および国造について次のように記します。

『日本書紀』巻七、景行天皇四年二月甲子(十一日)条に、天皇が五十河媛を妃として神櫛皇子・稲背入彦皇子を生み、兄の神櫛皇子は讃岐国の国造の始祖となり、弟の稲背人彦皇子は播磨別の始祖となった

 また、同天皇五十一年八月壬子(四日)条には、

  日本武尊が熱田神宮に献じた蝦夷等は、昼となく夜となくやかましく騒ぎたてた。倭姫命の「彼らを神宮にちかづけてはならない」との言葉にしたがい、朝廷に進上して三輪山のほとりに安置した。ここでも神山の樹をことごとくきり、近隣にさけび騒いで、人々から脅れられた。そこで天皇は、蝦夷はもとより獣しき心あって、中国(うちつくに)に住まわせることはできない。彼らの願いのままに畿外にすまわせなさい」と命じた。これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の影である。

 この佐伯部の話は、佐伯部が軍事的部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承であることは最初に述べました。
 以上より、この①の段落は大伴家の伝承にもとづいて記された記事であり、讃岐佐伯家の史実とみなす訳にはいかないと研究者は考えているようです。しかし、ここからも当時の空海の兄弟達が自分たちが大伴家とつながりのある一族で、ここに書かれた歴史を共有する者達であるという意識をもっていたことはうかがえます。
DSC01152
五岳山 大墓山古墳より

 「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち 
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。

 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1佐伯家家系
佐伯直氏系図
このなか、確かな史料によって実在したことが確認できるのは、空海の弟鈴伎麻呂だけのようです。彼については『類聚国史』巻九十九、天長四年(八二七)正月甲申(二十二日)条に、諸国に派遣した巡察使の報告にもとづいて、その政治手腕が高く評価され褒賞として外従五位下を授けられた諸国の郡司六人のなかに「佐伯直鈴伎麿」の名前があります。
ここから中央政府に提出した一族の構成は正しいもので、「空海の一族は郡司の家系であった」という説は、正しかったと言えるようです。そして、空海には多くの兄弟がいたことが確認できます。
DSC01160

この佐伯家一族を系譜を見ながら気づくことは 
①倭胡連公と空海の父である佐伯直田公とのあいだが破線です。これは実際の血縁関係がないからだといいます。ここで系譜が接がれているのです。つまり大伴健日連-健持大連-室屋大連-御物宿禰-倭胡連公までは、中央で活躍していた佐伯連(のちの佐伯宿禰)が大伴氏から分かれるまでの系譜です。先ほども述べましたが佐伯連氏は、武門の家として名高い大伴氏の別れで、天皇家に長くつかえてきた名門です。
 先述したように、同じく「佐伯」を称しながらも、中央で活躍していた佐伯連氏と地方に住んでいた佐伯直氏とのあいだには、直接の血のつながりはなかったというのが定説です。そのため、倭胡連と田公とを実線でつなぐことはできないようです。
②従来はこの点があいまいに考えられてきたようです。
「倭胡連公は是れ、豊男等の別祖なり」

と記されているのに、讃岐国の佐伯直氏の先祖と大伴家がひと続きの系譜とみなされてきました。

 倭胡連公(わこのむらじのきみ)とは何者なの?                           
  倭胡連公が讃岐国の佐伯直氏の先祖ではなく、中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰氏の初祖にあたるようです。「倭胡」は『大伴系図』などに「初めて佐伯の氏姓を賜う」と記されている「歌」と同位置人物であるという説が支持されるようになっています。
 このことを「貞観三年記録」は「倭胡連公は、是れ豊雄らの別祖なり」は、まさしく(大伴)豊雄らとは血の繋がらない、佐伯連(のちの宿禰)の始祖のことを指しているようです。だから「倭胡連公」と讃岐佐伯家田公一門との系譜を、実践でつなぐことができないと研究者は考えているようです。
 そうすると、佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、「貞観三年記録」にはスッポリ欠落していることになります。
田公の先祖を記す史料は他にもあって、その一つが三河国幡豆郡の郡司のながれをくむ家につたえられたといわれる『伴氏系図』です。そこには、下のように空海の父・田公から六代さかのぼる世代がみえます。
1佐伯氏
伴氏系図

しかし、この『伴氏系図』も「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていると研究者は考えているようです。

その理由の一つは「平曽古」「平彦」にはともに「連」とあり、つぎの「伊能」「大人」には「直」とあって、高い姓から低い姓に「降格」されている状態になります。もう一つは、「平曽古連」の尻付きに「安芸の国厳島に住す」とあり、「伊能直」の尻付きに「讃岐国多度郡の県令」とあって、姓とともに住所も変わっていることです。この二つのことから、「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていることは間違いないとします。
  もうひとつの疑問は、大伴氏の系図には、空海の父・田公は「少領」であった記されていることです。
ところが政府に提出された「貞観三年記録」の田公には、位階も官職もまったく記されていないことです。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。

 凡そ郡司には、性識清廉にして、時の務に堪えたらむ者を取りて、大領、少領と為よ。強く幹く聡敏にして、書計に工ならむ者を、主政、主帳と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。其れ大領、少領、才用同じくは、先ず国造を取れ。

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領であったとすれば、必ず位階を帯びていたと思われます。
 しかし、「貞観三年記録」には田公の官位がないのです。政府への申請書に正式の官位が記されていないというのは、そこには記せなかったということでしょうか。
 史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料ですぐれています。よって、空海の父・田公は無位無官であった、とみなしておくしかないというのが研究者の立場のようです。
 高い位階を帯びる空海の兄弟たち   
「貞観三年記録」に登場する人物で、信頼できるのは空海の父田公以下の三代にわたる十二名だけということになるようです。その系譜をもう一度見てみましょう。
1佐伯家家系

 先ほどもいいましたが空海の父である田公には、官位などは一切記されていません。ところがその子ども達の位階は、もし地方に住んでいたとするならば、異常ともいえるほど極めて高いと研究者は指摘します。位階の高い順に整理してみると次のようになります。
 外従五位下  鈴伎麻呂
  正六位上  酒麻呂
  同     豊雄(書博士)
  同     道長(空海の戸主)
  従六位上  貞持
  同     豊守
  正七位下  魚主
  従七位上  葛野
  従八位上  粟氏
  大初位下  貞継
 「選叙令」の基準では、郡司の長官である大領の官位は外従八位上であり、次官である少領は外従八位下と規定されていす。この基準から考えると、空海の兄弟達は郡司など問題にならないくらい、高い位階を持っていたことが分かります。 特に、外従五位下の鈴伎麻呂、正六位上の酒麻呂と豊雄、従六位上の貞持と豊守などは、中央の官人としても十分にやっていける位階を持っています。彼らの官位は中央官位の三十の位階では、従五位下は十四番目、正六位上は十五番目、従六位上は十七番目になります。例えば、国司なら大国の二番目のポストである介と中国の守に、従六位上で上国の介につけたことになります。
 もちろん位階を得ることがが、すぐに官職につくことではなかったので即断はできません。しかし、空海の甥・豊雄は、正六位上で都の大学寮で書博士として活躍しています。

1弘法大師1

空海の兄弟たちは、なぜ高い位階を持つことができたのでしょうか。
 第一は、位階を得るだけの経済力を持っていた、ということでしょう。
弘仁十二年(821)五月、満濃池の修築別当として空海の派遣を要請したときの多度郡司らの申請書(解状)に、次のように願いでています。
 請う、別当に宛てて其の事を済わしめよ。朝使并びに功料もっぱら停止するを従(ゆる)せ。

この「朝使井びに功料もっぱら停止する」とは、空海が別当として池堤の修築にあたるなら、造池使の派遣は不要であり、修築にかかる工事費・労賃・食料費などの一切の費用を、讃岐国の国衛財政から支出することも不要である、と地元の郡司らが申しでているわけです。
つまり「その一切を地元で負担する」ということです。ここからは、池の恩恵を一番こうむっていた多度郡一帯、なかでも当地の豪族と考えられてきた佐伯直氏が、この地域におおきな土地を持ち経済力を有していたかがうかがえます。

1善通寺宝物館8
真魚像
 第二は、空海の母が阿刀氏の出身であったことです。
 しかし、讃岐国に阿刀氏が住んでいたことは、資料的には確認されていません。空海が誕生された奈良末期、阿刀氏の一族は平城京・河内国渋河郡跡部郷(現在の八尾市植松町一帯)・摂津国豊島郡(大阪府豊能郡)・山城国太秦を中心に居住しています。
①畿内の阿刀氏と空海の父・田公が婚姻関係を持っていた、
②空海の教養が桁外れに高かったこと、
このふたつをどう考えればいいのでしょうか?
空海を送り出した讃岐国の佐伯直氏は、郡司というよりも、空海以前から中央への官人を出していた氏族ではなかったかと考える研究者が出てきています。どうやら空海の父・佐伯直氏は早くから中央を志向し、畿内にでて活躍していたのではないか、との推測もできます。それが、空海の父が阿刀宿禰の娘を娶っていたことからもうかがえると研究者は考えているようです。

 空海の父と母の出会いをどう考えるのか?
讃岐と摂津のあいだの古代遠距離結婚が可能なのか?
という疑問が沸いてきます。これについて以前に記しましたので今日はこの辺りで・・
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
関連記事

このページのトップヘ