瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:佐文綾子踊

綾子踊公開公演の中止について
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。


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       佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
IMG_6569佐文公民館

日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)
場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)
日 程  9:00  受付開始
   10:00  公民館前出発 加茂神社への入庭
   10:15  保存会長による由来口上
   10:20  棒・薙刀問答
   10:30  芸司口上 踊り開始
  ①水の踊 ②四国船 ③綾子踊  ④小鼓
 小休止
  ⑤花籠  ⑥鳥籠  ⑦たま坂  ⑧六蝶子(ちょうし)
 小休止                   
  ⑨京絹  ⑩塩飽船  ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
暑さ対策のために、今年は2回の休憩をとって、3回に分けて踊ります。11:40頃 終了予定 その後出演者の記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているともされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「神髄」かもしれません。「中世を感じたい人」や時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。

① 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。(農道駐車となります。)
② 先着100名の方に、以下のうちわかクリアケースを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

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綾子踊のうちわ(4種類)

綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
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鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
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絵の提供は石井輝夫氏です。

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      前回は、1934(昭和9)年に香川県に大きな被害を与えた旱魃について見ました。しかし、その5年後の1939(昭和14)年には、これを上回る「想定外の大旱魃」が襲ってきます。
1939年大干魃グラフ
1939(昭和14)年の月別降水量(広島気象台)
上の表は広島気象台の1939年と平年の月別降水量をグラフで比較したものです。ここからは次のようなことが分かります。
①4月・5月と例年の半分程度の降水量で、ため池が満水にならないまま田植え時期を迎えた。
②6月も空梅雨の様相で、例年の半分程度の降水量で、田植えができない所が出てきた。
③梅雨が早く明けて、7・8月になっても雨は降らず酷暑が続いた。7月の降水量は極端に少ない。
④9月に入っても、降水量は少なめで推移した
1934年の旱魃と同じような推移を見せていますが、違う点は7月の降水量です。前回の1934年の時には、7月末に集中豪雨的な雨がもたらされせて、一息つくことができました。しかし、今回は7・8月の2ヶ月に渡って、雨が降っていません。
この時の年間降水量は693㎜で、平年の半分以下で、河川の水は枯れはて、ため池も干しあがってしまいます。6月になっても約1400㌶が田植ができず、地下水を利用して田植えを行った水田も約2000㌶の稲が枯れ果ててしまいます。
旱魃に対する県の対応を見ておきましょう。
 藤岡長敏(ふじおかながとし)県知事は、菅原道真が雨乞いを祈願したという城山神社(坂出市)に参拝し、雨乞いを行っています。そして、市町村に雨乞い祈願と、学童が朝夕に稲株一株ごとに、土瓶を使って水をかける「土(ど)びんみず灌水」を行うよう通達を出しています。これを受けて、各町村ではさまざまな雨乞い祈願が行われます。その時に、佐文で踊られたのが綾子踊りです。しかし、綾子踊りを最初から踊ったようではないようです。どんな過程を経て、綾子踊りが踊られたのでしょうか? 今回は1939年の大干魃の時の佐文の人々の動きを見ていくことにします。テキストは「綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史」です。

綾子踊の里 佐文誌 綾子踊の里 佐文誌編集委員会 編 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。
佐文誌
佐文誌には白川義則氏の当時の日記の一部が載せられています。
白川義則氏は、大正11(1922)年生まれで、当時17歳でした。彼は、綾子踊りの地唄の歌い手として戦後の綾子踊り保存活動に尽力するとともに、長きにわたって旧仲南町教育委員長を務めた人物でもあります。彼が残した日記からは、千ばつの年の人々の様子や、雨乞いに関すること、作物の話など当時の生活を垣問見ることができます。旱魃が深刻化する7月から見ていきます。


佐文地形図 ため池
佐文のため池(佐文誌23p)
7月16日 田に水は無く池の水、大に減少、心細き事なり。
7月18日
本日、新池の水全部使い果し大勢にて小鮒・うなぎ等取りたり、昼頃より①中筋婦人会が龍王山に登り清掃、雨乞い参りをして居たところ、空模様は良くなり待望の雨来たり、雷など鳴りしも、大した雨を落す事なく飛び去る。
7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てる為に労力奉仕、夕方までに屋根ふきのみ残して終る。
7月30日 今日また雨無く、水田の乾きと稲の姿見るに偲びず。
最初だけ意訳変換しておくと
7月16日 田んぼに水はなく、池の水も大きく減った。(これから先のことを考える)と心細くなってくる。
7月18日
今日、岡の新池の水を全部抜いて、みんなで小鮒(ふな)・うなぎを獲った。昼頃から①中筋婦人会が龍王山に登って、清掃、雨乞参りをしたところ、雷が鳴って待望の雨が少し降ったが、まとまった雨にはならずに雲は飛び去った。
7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てるために労力奉仕に参加した。夕方までには、屋根葺きだけを残して終了した。
7月30日 今日また雨は無い。田んぼの乾きと稲の姿を見るに偲びない。

ここまでで気になった部分を見ていきます。
7月18日 
新池が干上がったので、魚を獲っています。その午後に①中筋集落の婦人会が龍王山に登って、清掃・雨乞いを行っています。この竜王山というのが私には分かりません。現在では、竜王山というと地図上では「四国の道」の竹の尾越の東側のピラミダカルな姿のいい山を指します。しかし、この当時は違ったようです。それは追々見ていくことにします。ここでは、「中筋婦人会」が龍王山の管理を行っていることを押さえておきます。ちなみにここに龍王社(リョウモサン)が祀られ、三所神社ともよばれていたようです。それが現在は、加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。

佐文 加茂神社と上の宮(三所神社)
佐文の加茂神社境内 正面が加茂神社拝殿 右が上の宮(三所神社)

雨が降らず状況は、ますます悪化していきます。
そこで10日後の7月28日に②「竜王山に拝殿小屋を建てる」と出てきます。これは、雨乞い祈祷に向けての準備のようです。この日から京都から招いた行者(山伏)が降雨祈願のお籠りに入ったようです。

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。

 昭和14年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

ここに書かれている要点を挙げておくと
渓道(たにみち)の竜王祠の火を松明にともして、竹の尾峠の山道をかけ下って持ち帰って、竜王宮で火を燃やした。
②そこで住民総出で火を燃やして「おこもり(祈願)」した。
③御盥池の堤防に小屋掛けして、そこで行者が1週間祈祷した。

渓道神社.三豊市財田町財田上
渓道(たにみち)神社(財田町財田上)
①の渓道(たにみち)龍王宮というのは、三豊市財田町財田上の渓道神社のことです。この神社は国道32号の工事の際に、現在地に移されたようです。龍王宮という名前からもわかるように、善女龍王を祀り雨乞い信仰の霊地だったようで、雨乞い踊の「さいさい踊り」が奉納されていた所でもあります。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道神社の説明版
  高瀬町の地蔵寺の「善女龍王勧請記」 文化7(1810)年に、渓道神社から善女龍王が勧進されたことが次のように記されています。(意訳変換)
上勝間村の①地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。⑤すでに龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
ここからは次のような事が分かります。
①上勝間の地蔵寺に財田郷上之村の②善女龍王(渓道(たにみち)龍王)が勧請されたこと
②渓道龍王(善女龍王)は、財田中之村の③伊舎那院の管理下におかれていて、④降雨祈願に霊験があるとされていたこと
⑤すでに龍神社があった八つ山に、渓道龍王は勧進されパワーアップがはかられたこと。
この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったとも記されています。この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年)は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。このように上勝間村で行われていた龍神や善女龍王の勧進が佐文でも、この時期に行われていたことが分かります。
 佐文誌には、明治時代の雨乞いの際に、財田上の渓道龍王宮の御神体と佐文の龍王山の御神体を入れ替えという話が載せられています。
同時に財田上から竹の尾峠を越えて、神火を持ち帰って火を高く燃やし、雨乞いを行ったというのです。ここからも佐文では、龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)が龍王講によって行われていたことが裏付けられます。以上から龍王山は善女龍王の山として雨乞い信仰の山とされ、その山腹に龍王祠が祀られていたこと、それを佐文の中筋の人達を中心に龍王講を組織して、お奉りしていたとしておきます。

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綾子踊の芸司の大団扇(表が太陽、裏が月)

 そして、雨は1ヶ月以上降らないまま8月に入っていきます。
  7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)
 ③は31日に、青年団員が金刀比羅宮に参拝して、雨乞い用の聖火を貫い受けてきます。布などを縄状にしたホテ・火縄・スボキなどとよばれるものに神火をいただきます。その時に注意することとして、次のような事が云われていました。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいています。
 しかし、先ほど見た「佐文誌」には、持ち帰ったのは財田の渓道龍王社の神火とありました。ふたつの記述が異なります。これをどう考えたらいいのでしょうか。これはまた別の機会にするとして、先を急ぎます。
8月1日  
山神池の最後の水について、総寄合で反別の一割分と決まった。早速、水を引く。午後、待望の雨が降るがほんの埃を湿す程度であった。
8月3日
朝、(煙草の)乾燥当番だったので少し寝過ぎた。起きてみると待望の雨だ。我等農民だけでなく山野の一木一草まで歓喜雀躍、どうかいつまでも降り続いてもらいと祈る。そして⑤今日は龍王講の日だ、中筋講中として龍王山に総参りをする。午前十時より(雨乞成就の)御礼のために、⑥先日いただいた御神火を金刀比羅宮に青年団として御返しに行く。今朝の雨で繩が湿って途中で御神火が消えそうになって困難を極めた。
金毘羅さんの神火の霊験でしょうか、8月3日には待望のまとまった雨が降ります。8月3日は「龍王講の日」でもあったようです。
これが先ほど見た龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)です。これについては、佐文誌252Pに次のように記されています。
龍王祠は前山の頂上やキノエハン(甲子山)にまつられ、その祭りをリョウモウシと呼び、旧六月十八日に祭りを行なっていた。リョウモウシをするために、佐文では龍王講を組織していた。現在、天保二年(1831)から昭和十三年までの頭家帳が残っている。

龍王祭の頭家帳 佐文
佐文の龍王祭頭家帳(天保2年)
天保二年の記録を見ると、夕方、三名の頭家は加茂神社へお神酒と米を供えて、朝は龍王祠へお神酒とお供えをささげていたことがわかる。明治十年の龍王祭の記録を見ると、三名の頭家は米とお神酒銭を集め祭りを執行し、祭礼後は地区民一同が頭家のつくったオコワやお神酒で会食をしていたことがわかる。
大千ばつの時には善女龍王に降雨の祈願をして加茂神社の境内で綾子踊を奉納した。次に前山のリコウハンやキノエハン(甲子山)でも踊った。 一般の人びとは一束の麦わらを持ってリョウハンヘ行き、リョウハンで大火をたいた。
また、ある者は山伏姿でおこもりをした。おこもりの期間中は、ほとんど断食に近いようなそば粉の食事を取りながら善女龍王に降雨を祈願した。降雨の祈願をすると、必ずオシメリ(降雨)があったという。それほど佐文のリョウハンは霊験があらたかであった。
龍王社に中筋講中で、お参り後に10時からは青年団員として「雨乞成就のお礼参り」のために、御神火を金刀比羅さんに返しにいきます。
8月6日
今日は⑦大祓の農休の日である⑧龍王宮の「おこもり」に朝から参加、夕方7時過ぎまで⑨行者による火物断ちの雨乞いが行なわれた。⑩中筋隣組が当番だったので雑用に当った。
 8月6日の「⑦大祓の農休」は、旧暦6月30日の夏越(名越し:なごし)のことです。
夏越 茅の輪くぐり

この日は忌 (い)み日として、祓いの行事が行われました。そのひとつが輪くぐりで、神社に設けた大きな茅 (ち)の輪をくぐって、災厄を祓いました。これも虫害・風害・旱魃などを鎮める祓いの行事のひとつです。小麦饅頭や団子をつくって、農仕事は休みます。池や川で身を清め、牛馬も水に入れて休ませたりしました。この日だけは河童が出ないそうで、池や海で泳いでもおぼれることはないとされました。しかし、この年は旱魃で池には水がありません。
     そして⑧「龍王宮の「おこもり」に朝から参加」と出てきます。
 龍王山ではなく「龍王宮」であることを押さえておきます。「おこもり」とは何なのでしょうか? それは次の⑨「行者に依る火物断ちの雨乞い」のようです。 つまり、この時点でも行者(山伏)が「龍王宮」に籠もって「火物断ちの雨乞い=護摩祈祷?」を行っていたことが分かります。⑩「中筋隣組では当番にて雑用」というのも、行者の護摩祈祷を支える雑用だったことが考えられます。ちなみに中筋の一番奥に位置する真鍋家には、この時に山伏の食事などを真鍋家で準備して、「龍王宮」に持ち上がったという話が伝わっているようです。金毘羅山からのご神火以外にも、行者による「お籠もり祈祷」など、いろいろなな雨乞いが同時進行で行われていたことが、ここからはうかがえます。 それでも雨は降りません。そんな中で、いよいよ綾子踊りが踊られることになります。

本文 8月9日
佐文部落にて⑪雨乞のために、綾子踊りを実施する事が決り、⑫(私は)地歌読みに中筋より指名せれた。
早速⑬加茂神社での練習に参加するが、大方が年輩の方で、歌と言っても何を言っているのかさっぱり私には解らない。果して責任を果し得るだろうか。その後、毎日昼休みを利用し神社で練習する。
10日 米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫はないだろう。

11日から16日まで綾子踊の練習をする。
16日は、踊り手が全員が神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする.
8月17日 
昨夜から父は⑭煙草の乾燥当番だったが、朝食を終る頃に帰って来て、⑮雨乞いの衣裳を着付けてくれた。今日は、綾子踊の総踊りの日であるので、生れて始めて⑯紋付の着物に衿を着用した。紙諧の草履も父が念入りに作ってくれた。午前8時頃に王尾村長様宅に集合、⑰神事場にて一踊りして、加茂神社で行列を整え、⑱龍王山に向って山を登る、神前で一踊りして、雨を祈り力一杯踊る。その後⑲帰りて加茂神社でて二踊りした。見物人多く盛観であった。夕方早々終りたるも御利生の御雨は何時の日か。

金毘羅山からの神火も、京都から招いた行者の雨乞いも、効果がありません。
8月9日なると「⑪雨乞の為、綾子踊りを実施」とあります。綾子踊りを踊ることになったようです。「⑫地歌読みにと中筋より指名」とあるので、17歳の白川義則少年は、地唄に指名されたようです。「⑬加茂神社での練習に参加」とありますので、練習は賀茂神社で行われていたことが分かります。歌詞の内容はちんぷんかんぷんでよく分からないが、託された責務を果たそうと毎日昼休みに加茂神社にいって、長老から手ほどきを受けたようです。確かに綾子踊りの地唄の歌詞は、雨が降ることを祈るようなものはほとんどありません。その内容は、瀬戸内海各地の港町の遊女と船乗りの恋歌などで、まるで「港町ブルース」的なものが多いことは以前にお話ししました。それを聞いて17歳の白川少年が戸惑ったのも頷けます。踊りの練習は10日から16日迄の1週間です。そして17日が綾子踊り当日になります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
加茂神社への入庭(いりは)

 前日の夜から「⑭煙草の乾燥当番」に出ていた父が、朝早くに帰ってきて、⑮衣装の着付けをしてくれます。

⑯裃を身につけるのは初めてなので緊張気味です。午前8時に王尾村長宅に集合し、ここで行列を調えて加茂神社に向けて出発。踊りの奉納順は次の通りです。
 ⑰神事場(御旅所) → ⑱龍王山の神前 → ⑲帰りて加茂神社で二踊り

綾子踊り 入庭図4
尾﨑清甫の残した綾子踊「踊入始め第二図」(1934年)

加茂神社では多くの人々が集まって見物して、賑やかだったと記されています。しかし、雨が降ったとは記されていません。状況は、さらに悪化していきます。
8月18日、笛の本池の水をすべて放出して、池が空っぽになった。
23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。
24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。
25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。
30日、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。
9月に入っても夕立が少しある程度で、上旬は晴天が続いた。
  9月2日には、⑳北山集落から再度綾子踊を奉納しようという相談があった。
  9月3日、救荒作物のソバを蒔いた。この日、㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした。
4日、山上池の水が底をつく
6日、青年団員が集まり、金刀比羅宮へ行き総参りをした。翌日、雨が少し降る。
  17日の綾子踊り奉納後も、雨は降りません。状況は悪化の一途です。そんな中で9月2日に、次のようにあります。
「⑳北山集落の人から再度綾子踊をしようという相談があった。」、「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
とあります。これを、どう考えたらいいのでしょうか。
綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊りの団扇
以前に、綾子踊りの記録文書を残した尾﨑清甫のことをお話ししました。
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尾﨑清甫の残した記録

彼が文書を書いた時期は、1934(昭和9)年と1939(昭和14)年の両年のものがほとんどであることを指摘しました。この両年は、大干魃で県から雨乞いを行うように通達が出された年です。そして、佐文でも今見てきたように、さまざまな雨乞い祈願が行われていたことが分かります。そのような中で、雨乞い踊りが最後に踊られることになります。
 ここで注目しておきたいのは、最初から綾子踊りが踊られた訳ではないことです。佐文もいくつかの小さな集落の集まりで、その小集落の属する水系(ため池用水路)や属性が異なります。つまり、一枚岩ではないのです。例えば先ほど見たとおり、中筋は龍王山を信仰の対象として、龍王講を組織していました。一方、北山集落は綾子踊りを継承していたようです。そのためすぐには、綾子踊りは踊られません。いろいろな雨乞い行事が行われ、それでも駄目なときに、佐文全体で綾子踊りの奉納を行ったと私は考えています。
尾﨑清甫2
尾﨑清甫
    1934年の大干魃が去った秋に、尾﨑清甫は次のように記しています。
1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
これを意訳変換しておくと

  佐文の戸数も百戸を越えるようになって、綾子踊について協議・実施することが困難になってきた。そこで(佐文全体ではなく)「北山講中」だけで「村雨乞い」の規模で、1週間雨が降ること祈った。(それでも雨が降らなかったので)再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが利生は少なかった。ところが旧暦7月29日になって十分な雨が降った。そこで俄なことではあるが旧暦8月1日に、雨乞成就のお礼踊りを奉納した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

尾﨑清甫史料
         尾﨑清甫の残した綾子踊り文書


また「団扇指南書起」には、次のようにあります。

「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 意訳変換しておくと
「世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、色々な行事を行う際にも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見が分かれていたことがことがうかがえます。これを裏付けるものとして「佐文誌197P 綾子踊のこぼれ話」には、次のように記されています。
明治の末期からこんな話が残されている。
ある日照りの年、村人の意見で村長が雨乞踊の奉納を決定しようとしたところ、一人の村人いわく「今、如何なる踊りを奉納しようともその甲斐なし。その踊る時間と労力をもって池の泥を出せ。さすれば来年はそれだけ多くの水を貯えられるなり。」
 これを聞いた村長は、次のように答えたり。
「そなたの言もっともなれど、今、村人の欲するものは来年の水に非らず、明日の水なり。事ここに至りて神仏にたのまずして何に頼れるか。」
 この一言で、踊りを決定したという古老の話しである。
綾子踊りを奉納することについては「村内の者の心が同心に成りがたい」状況が生まれていたことが分かります。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
    そんな視点で白川義則氏の9月2日の日記を見てみましょう。
「北山集落の人から⑳再度綾子踊をしようという相談があった。」
そして、翌日に「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
これは再度の踊り奉納を北山集落が求めてきて、翌日にその対応を中筋集落が話し合ったということでしょう。その答えは、「NO」だったようです。日記には、踊ったとありませんから・・・。
その後の記録を見ると

9~10日の朝までに十分な雨が降ったので、11日は㉒お礼の踊りを神社で二回踊った。中旬も三度だけ少雨が降ったのみで、水不足は続いている。

ここからは、9・10日に一定の雨が降ったことが分かります。そこで翌日の11日に「雨乞成就」のお礼のために、佐文全体で綾子踊りを2回踊っています。雨が降ったことを歓ぶ佐文の人々の感謝の気持ちが爆発して、この時の踊りは総踊りになって盛り上がったはずです。この高揚感が、尾﨑清甫に「綾子踊文書」を書かせる大きなエネルギーになったのではないかと私は考えています。

綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊 花笠寸法(1939年 尾﨑清甫) 

こうして見ると、明治以来忘れ去られようとしていた綾子踊りは、昭和の2回の大干魃という危機的な状況の中で復活したとも云えそうです。その時に、踊りに必要な団扇や花笠などが改めて制作されました。それを後世に伝えるために、記録に留めようとしたのが尾﨑清甫だったのです。

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綾子踊の団扇
以上をまとめておきます
①讃岐には各地にさまざまな雨乞い踊りが伝承されていた。
②しかし、明治以後に文明化が進む中で、それらは迷信とされ踊られることが少なくなった。
③そのような中で襲来した昭和の2回の大干魃は、県知事に雨乞祈願をするようにという通達を出させるほど深刻なものであった。
④これに対して、各町村では伝えられるさまざまな雨乞い行事が行われた。
⑤その中で、佐文では忘れ去られようとしていた綾子踊りを佐文全体で復活させた
⑥それを後世に残そうとして、尾﨑清甫は由来や花笠・団扇などの記録を書残した。
⑦これがあったために、戦後に綾子踊りを再度復活させることができた。
そういう意味では、この時の大干魃がなければ綾子踊りは、忘れ去られていたかもしれません。
「2つの大干魃 + 尾﨑清甫の存在 = 綾子踊り文書の作成・保存」という図式がえがけそうです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾子踊り 雨を乞う人々の歴史 18P 綾子踊のはじまりと歴史
綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史
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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

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尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文賀茂神社での練習風景

綾子踊りの概要は次のような流れです。

 薙刀持と棒持が中央に進み出て、口上を述べて薙刀と棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まります。

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賀茂神社への奉納

芸司は先頭で「日月」を書いた大団扇をひらかして踊り子踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊ります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と、昇龍と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊り」 「四国船」 「綾子踊」「小津々み」「花寵」 「鳥寵」「たま坂」「六調子」「京絹」「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段の地唄が歌われます。

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佐文綾子踊 芸司と太鼓

囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、シンプルで単調な踊りが続きます。ただ眺めていると変化もなく単調で眠くなってきそうです。

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佐文綾子踊(賀茂神社にて)

しかし、伝わる歴史を紐解くと節ぶしに、村人の雨乞いの悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出てくるようにも思えます。終わりに近づくにつれて、テンポが少しは焼くなり踊りは早くなります。

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佐文綾子踊の芸司と小踊り(佐文賀茂神社にて)
  
 尾﨑清甫の残した「綾子踊由来記」には、その由来について次のように書かれています 。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版) 
夫れ佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名則四十九名の事 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 
当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して

綾子踊由来記 それ2
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版)
茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山の噺の内彼の僧は、此旱魃甚だ敷く各地とも困難の折柄当家の水利は如何がと尋ねられし故綾は自分の家には勿論困難なるが 当村としても最早一杓の水さえ無く空しく作物を見殺しにするより外に詮術なし 誠に難儀至極に達し居る旨を答たるに僧は更に今雨が降らば作物は宜布乎(宜しいか)と問わるる故綾は今幸い雨降りたらば作物は申すに及ばず、万民の為喜は何と喩え難き旨を答えたるに 僧は我れ今雨を乞わんと曰ければ 綾は之を怪み 如何程大徳の僧と雖も此の炎天に雨を降らす事は六ヶ敷(むずかし)く想と申しければ 僧の申さるるには如何に炎天なりと雖も 今我言う如く為せば 雨降る事疑いなしとの言なれば綾が貴僧の言は如何なる事なるか 出来得ずんば 何なりとも貴命に従う可しと②僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし。而して其の踊りをするには多くの人を要する故 村内にて雇い来たれとの言に
綾は命の通り人を雇わんと 所々を尋ね廻りしも干ばつの折とて何れも力の及ぶ限り田畑

綾子踊由来記 夫レ版3

作物の枯死を防ぐに忙しく 各家とも不在なれば帰りて其の由を報じつれば僧は更に 然らば此の家には小児幾人なりしやと問わるる故 綾は六人ありと答えければ 然らば其の児六人と汝等夫婦と我れと九人踊るべし 只此の外に親族の者を雇い来たれとの事に 綾は一束奔に兄弟姉妹合わせて四五人呼びたれば、僧は吾先ず立ちて踊る故に 汝等ともに踊るべしとて踊り始め愈々二夜三日の結願の日となりたるとき 僧の言わるるには蓑笠を着て団扇を携えて踊るべしとの言なる故 綾はあやしみ此の炎天に今直に雨降る事など有間敷く 蓑笠とは何の為ぞと中しつれば 僧の言わるるには否決して疑うべからず先ず踊れ而して踊り最中にして雨降り来りとて決して止めるべからず 若し踊りを中止するときは雨人いに少なし故に蓑笠を着して踊り 雨降り来りと雖も踊り終るまで止めることなく大いに踊れとの言いに 綾は仮令如何程の大雨降り来ればとて決して中止申さずと答えければ 先ず小児六人を僧の列におき ③僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き 親類の者に
綾子踊由来記 夫レ版4

太鼓鉦を持たせ其の後に置き 地歌を歌つて大いに踊りたるが 不思議なる哉 踊り央(なかば)にして一天俄に掻き曇り 雨しきりに降り来れば一同は歓喜の声諸共に踊りに踊りたり 雨亦次第に降りしきり篠突く如く大雨の音や、鉦の響きと相和して滝なす如く 勇ましさいわん方なく遂には山谷も流れん計りなりき 茲に踊りも堪え難くなりぬれば太鼓の音は次第に乱れ 終りの一踊りは唯急ぎ急ぎにて前後を忘れ 早め早めの掛声にて人いに踊りに踊りたり 此の雨ありたれば四方の人々馳せ来り 
 我も踊り彼も踊れと四方に立囲い踊りたり 此の因縁に依りて昔も今も側踊りの人数に制限なし 誠に善女龍王の御利生は何に喩えんものもなし
 唯勿体なし恐れ多き事となり 而して綾親子の者は踊り踊りて後に人聖僧に向い 歌または踊りの意味等を詳しく教え給えと乞いつれば 僧は乃詳しく教授し終えて将に立ち帰らんとせられ 綾及び小児等の名残りを惜しむ事尚乳児の慈母に離るるが如しければ 僧いとも哀に思われ 吾れ去りたるとても決して悔ゆる
綾子踊由来記 夫レ版5

事勿れ若し末世に到り如何なる干ばつあるとも 一心に誠を籠めて此の踊りをなせば必ず雨降るべし 然れば末世までも露疑わず 干ばつの時には一心に立願し此の雨乞いを為すべし 此の趣き末代まで伝えよと言い給いて立ち去り 
 後を見送り姿は霞の如く見えけん 因りて彼の聖僧こそは弘法人師なりと言い伝え深く尊び崇めけり 佐文綾子の踊りと言うは此の時より始まりたることにて世人の能く識る所なるが 干ばつの時には必ず此の踊りを行うを例とせり 而して綾子の踊りと称える名も此の因縁によりて名付けられしものなりと云う。
十郷村人字佐文
  尾崎 清甫    写之 印

意訳変換しておくと
佐文村に佐文七名という七軒の蒙族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がても苦しんでいたこその頃、村には綾という女性がいた。ある日、仏道によって、生きとし生けるものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させようと、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んで喫み、色々と話をした。その中で、一千ばつがひどく、各地で苦しんでいる状況だが、綾の家の水利はどううかと尋ねられたので、綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓のよも無いひどい状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾はと答えた。その答えに僧が「私が今、雨を乞いましょう」と言うので、綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨がが降ること間違いなしです」と言うので、綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと田津根香寺歩いたものの旱魃から作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない、帰ってきた綾が、誰もいないことを倍に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねた。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。・降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯があり、昔も今も側踊りの人数に制限はない。
善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。

踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、赤ん坊が母親から離れがたいように名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。
 見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
  この由来書は、華道師範であった尾崎清甫氏によって戦前に書き写されたものです。

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尾崎清甫の残した文書
また、綾子踊りの地唄や踊り編成などの史料は、すべて彼が書き写したり、記録したもので尾崎家に現在でも保存されています。ちなみに「綾子踊り」は三豊の大水上神社周辺の各地域でも「エシマ踊り」として踊られていた形跡はあるのですが、記録として残っているのは佐文地区だけになっていました。それが国の無形文化財指定の決め手になりました。そういう意味でも尾崎氏の功績は大きいと言えます。

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尾﨑清甫の文書箱の裏書き

この口上書を読んで気になる点を挙げておきます。

①「聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者遍歴の僧侶」とあります。綾子踊りを伝えたのは遍歴の僧侶(聖・修験者)とされます。
②「僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし」からは、空海の善女龍王信仰に基づく雨乞い踊りであることが分かります。
③「僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き」とあります。ここからは廻国修験者(聖)が、このおどりを綾子夫婦と六人の子ども達に伝授したことが記されています。つまり廻国聖が「芸能伝播者」であったことになります。
「因りて彼の聖僧こそは弘法人師なり」と、弘法大師で伝説に附会されていきます。

百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

風流踊りの芸司について、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊を見ておきましょう。

ここでは芸司は「新発意(新人僧侶)」と呼ばれています。その衣装は、白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧姿です。右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などの祭礼や芸能に関わっていたことは以前にお話ししました。百石踊りや綾子踊りの成立過程に、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
新発意役(芸司)の持ち物を見てみましょう。
百石踊り - marble Roadster2
百石踊の新発意役(芸司)
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す大きな団扇や瓢箪・七夕竹などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べたりします。これは綾子踊りの芸司と同じです。
 しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、派手になっていきます。僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなり、麻の裃から、今では滝宮念仏踊のように金色の裃へと変わっていきました。これも「風流化」のひとつの道です。しかし、被り物・採り物だけは今でも、遊行聖の痕跡を伝えています。それは綾子踊りの芸司も同じです。
以上から綾子踊りの成立については、次のような要素が盛り込まれていることがうかがえます。
①芸能伝播者としての廻国僧(修験者や聖)
②歌われる歌詞の内容は中世の閑吟集にまで遡る
③雨乞い信仰としての善女龍王
④弘法大師伝説
私は最初は、①②から綾子踊りの成立は風流踊りに起源を持つもので、中世にまで遡れるものと考えていました。しかし、③は近世後半、④の弘法大師が伝えたというのも、歌詞内容が閑吟集などに出てくるので、中世の流行(はやり)歌で、弘法大師が教えたものではありません。同時に、弘法大師伝説が讃岐の民衆に拡がるのは案外遅くて、江戸中期以後になるようです。そうすると、この由来が書かれた時期は、案外新しいのではないかと思うようになりました。

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佐文綾子踊(まんのう町佐文 賀茂神社)
もうひとつ疑問なのは、この踊りを伝えられたのは綾子だったはずです。綾子が芸司を務めるの相応しいと私は感じます。ところが綾子は登場しません。どうしてなのでしょうか?
一つの説は、江戸幕府の芸能政策の「女人禁止令」です。中世の風流踊りには女性が登場していました。出雲の阿国の歌舞伎も女性が中心でした。しかし、江戸幕府は風紀上の問題から女性が舞台に上がることを禁止します。神に奉納される踊りなどからも女性が除かれていきます。こうして、綾子も踊りの場から遠ざけられたということは考えられます。

P1250667小踊り
佐文綾子踊の構成人数(尾﨑清甫写)小踊六人とある

もうひとつ私が気になるのが次の記述です。
先ず
小児六人を僧の列におき、僧自ら芸司となりて
左右には綾夫婦を置き
 
親類の者に太鼓鉦を持たせ其の後に置き」
①小児六人とは、小踊り
②は、芸司のあとに中団扇をもって控える拍子2人
③は親類のものが鉦太鼓
 ここからは、綾子踊りの中心部は、綾子の一族によって占有されていたことになります。つまり、この踊りがもともとは村の人々の合意の上に、始まったものでないことがうかがえます。綾子の家族と、親類の者達で踊られ初め、最初は参加していなかった人々は、雨が降りそうになってから参加したというのです。これは村の風流踊りとして根付いたものではなかった、突然に一部の一族によって踊られ始めたことを伝えている気配があることを押さえておきます。また。小踊六人がなぜ女装するかについては何も触れません。

P1250641
綾子踊りの写文書を残した尾﨑清甫
  この由来書をはじめ、綾子踊りの史料は戦前に尾崎清甫によって書き写されたものです。
P1250689奉納年月日
綾子踊り控記録」
その中に「綾子踊り控記録」として、過去に踊られた年月日と記録が次のように記されています。
① 文化十一(1814)年六月十八日踊
② 弘化三(1846)年 午 七月吉日
③ 文久元(1861)年 子 七月二十八日 延期と相成り 八月一日踊る成り。
④ 明治八年 七月六日より大願をかけ、十三日踊願い戻し。又、十五日、十六日、十七日、踊り、二度の願立てをなし、二十二日目の二十七日、又、添願として神官の者より、自願かけ身願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり
⑥ 大正元年 旱魃。それより三ヶ年の旱魃につき、大正三年七月末日に踊り、御利生あり
ここからは次のようなことが分かります。
A 一番古い記録は19世紀初頭であること。
B 江戸時代の記録は日付だけで内容がないこと。
C 明治8年に雨乞いのために、何度も願掛けをして踊られたこと
D 旱魃の度に雨乞い踊りとして踊られた回数は、少ないこと

昭和9年由来書写後記

昭和9年7月16日の実施記録には次のような興味深いことが書かれています。

⑦ 昭和九年七月十六日 旱魅につき加茂神社にて踊る。大字佐文戸数百戸以上なるにつき、踊りの談示和合、難致に依り、北山講中として村雨乞踊りの行列にて、一週間の願を掛け祈念をなし、一週間にて御利生の雨少なし、再願を掛けた後、盆十六日に踊りまた御利生の雨少なし。それより旧七月二十九日大なる雨降り来り、それより俄に諸氏申し立てにより、旧八月朔日にお礼の踊りを執行せり。
仙峰斎  尾崎 清甫 之写置也。
意訳変換しておくと
 昭和9(1934)年7月16日 旱魅になり、加茂神社で踊った。大字佐文は、①戸数百軒以上になって、踊り実施に向けた合意が困難になってきた。②そこで、(佐文全体ではなく)北山講中(組)として村雨乞踊りの行列を一週間行って、願を掛け祈願した。しかし、一週間では御利生の雨は少なかった。そこで、再願を掛け、盆の8月16日に踊ったが、御利生の雨は少なかった。しかし、旧7月29日に恵みの大雨となった。そこで、お礼踊りを奉納しようということになり、旧八月朔日に雨乞い成就のお礼の踊りを(佐文全体で)行った。
  尾崎清甫がこれを書き写し置いた。
この記録は、どこかで聞いた話です。最初に紹介した綾子踊りの「由来口上書」と話の要旨がよく似ています。それは、次のような点です。
綾子踊りの最初は村人は畑仕事に忙しくて踊りには見向きもしなかったこと。そのため、綾子一族のみで踊ったこと。それが大雨を降らしたので、周りの人々もその輪の中に飛び込んで、ひとつになって踊ったこと。

P1250640
文書は最後に「仙峰斎 尾崎清甫 之写置也」とあります。
尾崎清甫氏が原本を書き写したことを示します。しかし、その原本は存在しません。原本がいつ頃書かれたものなか、またどこに保存されたいたのかも分かりません。そうなると、この文書類の中には尾崎清甫氏による「創作」もあったのではないかとも思えてきます。
以上 「綾子踊
由来口上書」を読みながら私が考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊の里 佐文誌

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 西讃府誌と尾﨑清甫
佐文綾子踊の書かれた史料
綾子踊についての史料は、次の2つしかありません
①幕末の西讃府志の那珂郡佐文村の項目にかかれたもの
②佐文の尾﨑清甫の残した書類(尾﨑清甫文書)
前回は、この内の②尾﨑清甫が大正3年から書き付けられ始めて、昭和14年に集大成されたことを見てきました。この過程で、表現の変化や書き足しが行われ、分量も増加しています。ここからうかがえることは、尾﨑清甫文書が従来伝えられてきたように「書写」されたものではなく、時間をかけながら推敲されたものであるということでした。西讃府誌の記述を核に、整えられて行ったことが考えられます。今回は、西讃府誌と尾﨑清甫文書を比較しながら、どの部分が書き足されたものなのかを見ていくことにします。

西讃府志 綾子踊り
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

まず、西讃府誌に綾子踊りについて何が書かれているのかを見ておきましょう。(意訳)
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる踊りがある。これにも滝宮念仏踊りと同様に下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠を被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。踊り始める前には、薙刀と棒が次のような問答を行う。

以前に紹介したので以下は省略します。
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その構成は形態は、下知(芸司)・女装した踊子(小踊)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒の問答・演舞がある
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている。

以上から西讃府誌には、次の3つの史料が掲載されていることを押さえておきます。
A 棒薙刀問答 B 芸司の口上 C 地唄12曲

残されている史料から引き算すると、これ以外のものは尾﨑清甫の残した文書の中に書かれていることになります。縁起や由来、各役割と衣装・持ち物などが書き足されたことになります。

尾﨑清甫史料
綾子踊に関する尾﨑清甫の残した文書

 前回に見た尾﨑清甫が残した史料は、そのような空白を埋めるものだったと私は考えています。しかし、大正3年から書き始められ、昭和14年にまとめられたものとでは、相違点があることを前回に指摘しました。それは由来書についても、推敲が重ねられ少しずつ文章が変化しています。それを次に見ておきましょう。

綾子踊り由来大正3年
綾子踊
由来 大正3年版
迎々 佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名の頃 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ凡愚済度の為め 四国の山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山(以下略)
綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来 昭和9年版

 大正3年と昭和9年の由来に関する部分の異同は、
②「七家七名の頃」→「七家七名之頃 即ち七×七=四十九名」
の1点だけです。
綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊由来 昭和14年版
それが昭和14年版になると①と③が推敲されます。③は、それまでは「聖僧」がへりくだって「凡愚済度」のためと称していたのを、「衆愚済度」に改めています。これも弘法大師信仰を考えてのことかもしれません。小さな所ですが、ここでも推敲が繰り返し行われています。
この他、西讃府誌と「雨乞踊悉皆写」の相違点で気づいた点を挙げておきます。

西讃府誌と尾﨑清甫の相違点

以上をまとめたおきます。
①綾子踊りには、西讃府誌と尾﨑清甫の残した文書しかない。
②西讃府誌以外の記載は、尾﨑清甫が大正3年から書残したものである。
③それを昭和14年に、すべてまとめて「雨乞踊悉皆写」として記録に残している。
④その経過を見ると、加筆・訂正・推敲・図版追加などが行われている。
⑤以上から
「雨乞踊悉皆写」は書写したものではなく、尾﨑清甫が当時踊られていた綾子踊りを後世に残すために新たに「創作」されたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

P1250693
尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
P1250691

  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
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  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

P1250626
「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
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       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
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          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

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綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

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着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

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僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
IMG_E5971
佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
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佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

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  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

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芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
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鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

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滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

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滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

P1250412
滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

P1250421
滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


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滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

Amazon.co.jp: 綾子踊 : 綾子踊誌編集委員会: Japanese Books
      祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)

綾子踊のユネスコ登録を前に、まんのう町は「祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史」という報告書を出しています。これはPDFでネットからダウンロードする事も出来るので簡単に手にすることができます。これが綾子踊に関する今の私のテキストになっています。この報告書末に、綾子踊の年表が掲載されています。今回は、これを見ながら綾子踊がどのようにして、再発見され継承されてきたかを見ていくことにします。

中世の雨乞い踊りについては、以前に次のようにまとめました。
①中世の雨乞祈祷は、修験者など呪力ある者のおこなうものであった。
②村人達は、雨乞成就の時に感謝の踊りを、郷社などの捧げた。
これは、滝宮神社に奉納されている坂本念仏踊りの由来にも「菅原道真の雨乞祈願成就への感謝のために踊った」とかかれていることからも裏付けられます。また高松藩は白峰寺に、丸亀藩は善通寺に、多度津藩は弥谷寺に雨乞祈祷を命じていたのです。これらの真言修験者系の寺院は、空海以来の善女龍王神への雨乞いを公的に行ってきました。ここには庶民の出番はありません。中世や近世までは、神に雨乞ができるのは呪力のある修験者などに限られていて、何の力もない庶民が雨乞いを念じても効き目はないというのが一般的な考えだったことを押さえておきます。村人が雨乞祈祷を行ったのではなく、その成就感謝のために踊ていたのが、いつもまにか雨乞い踊りと伝えられるようになっていることが多いようです。
綾子踊年表1
綾子踊年表
  前置きが長くなりましたが、綾子踊年表を見ていくことにします
年表の最初に来るのは、1875年(明治8年)7月6日の次のような記事です。
七月六日より大順をかけ、十三日踊願い戻し 又十五日、十七日より、夫より二度の願立てをなし、二十三日めなり。それより二十七日めなり。又、添願として神官の者より、自願かけ自願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり

意訳変換しておくと
7月6日に大願を掛けて、13日まで綾子踊を踊った。(それでも雨は降らないので)15日、17日に改めて二度の願立てをし直した。それでも雨は降らない。そこでさらに23日、27日に、添願として神官が自願した。自願後の8月3日に綾子踊を踊った所、十分の雨があった。これも踊りのご利益である

ここには次のようなことが記されています
①雨乞成就のために村人自らが綾子踊りを踊っていること
②7月6日に踊りを始めて、1週間連続で踊り続けたこと
③それでも降らないので願をかけ直し、さらに神官(山伏?)も雨乞祈祷した。
④その結果、雨乞い開始から約1ヶ月後に十分な雨が降ったこと
  最後は「踊りのご利益」としています。ここからは村人達が自分たちの力で雨を降らせたという意識をもっていたことがうかがえます。明治初年には、中世や近世の雨乞祈願とは異なる意識変化があったようです。自分たちで綾子踊を踊り、雨を降らせるというのは「近代的発想」とも云えます。しかし、頻繁にやってくる旱魃の度に、綾子踊りは踊られていたことを史料から確認することはできません。
 また、ここで注意しておきたいのは一番古い記録が明治初期のもので、それ以前のもにについては何もないことです。ここから綾子踊が実際に踊られるようになったのは、近世後半になってからだということがうかがえます。。
綾子踊り 善女龍王
善女龍王の幟(綾子踊・佐文賀茂神社)
 次に記録が残っているのは1934(昭和9)年のことです。
1934(昭和9)年7月16日 かんばつにつき加茂神社にて踊る
1939(昭和14)年かんばつにつき8月9日よりけい古
8月17日 加茂神社・龍王祠前で踊る
8月22日 自雨あり
9月 1日 雨あり
9月11日 お礼踊り

ここには、旱魃のために綾子踊りを踊るための次のような手順が記録されています。
 踊り実施決定 → 稽古 → 実施 → 降雨 → お礼踊り

しかし、本当に明治以後から戦前にかけて頻繁に綾子踊が踊られていたかどうかは、史料からは確認できないようです。
綾子踊りが世間から注目されるようになるのは、戦後のことです。それは、地元から動きではなく、外からの視線でした。丸亀藩が幕末に、各村々の庄屋に命じて提出させたレポートについては以前にお話ししました。そのレポートに基づいて、丸亀藩が編纂したのが西讃府志です。
幕末の讃岐 西讃府志のデーターは、庄屋たちが集め報告書として藩に提出したものが使われている : 瀬戸の島から

この時に、佐文村の庄屋は、綾子踊について報告しています。その中に、踊られる歌詞も記されていました。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志の佐文綾子踊についての記述
この歌詞に注目したのが、中央の研究者たちです。ここに収められている歌詞は、中世に成立した閑吟集に起源を持つものがあります。こうして綾子踊りは、中世に起源を持つ風流歌の系譜の上にあるとされるようになります。それを受けて地元でも、記録・復興に向けた動きが出てきます。そして、各地に招かれての次のような公演活動も始まります。

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綾子踊の芸司と子踊り

戦後の復活
1953年12月12日 十郷村文化祭出演(十郷小学校)
     12月13日 香川県公会堂出演(高松市)
1954年8月21日 香川県文化財に指定 綾子踊公開(加茂神社)
1955年3月9日 琴電会社映画撮影 綾子踊公開(加茂神社)
1955年4月2日香川県無形文化財に指定
9月5日  香川県農業祭出演
1960年1月28日 中四国民俗芸能大会出演(岡山市天満屋)
1962年10月30日 仲南村文化祭出演(仲南東小学校)
1966年     4月10日 宮田輝司会 NHKふるさとの歌まつり出演
1968年9月10日 佐文核子踊保存会会則制定
1970年1月21日 第12回香川県芸術祭出演(高松市民会館)
1971年4月11日 国の重要無形民俗文化財として文化庁認定
     8月16日 文化庁選択芸能公開 於加茂神社
1972年8月18日 NHK金曜広場出演(NHK松山放送局)
  8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
 11月19日 第15国香川県芸術祭出演(普通寺西中学校)
公開活動を通じて認知度を高め、「1955年 県無形文化財」に指定されます。しかし、これだけでは佐文住民とっては、あまり「意識変化」はなかったようです。大きなインパクトになったのは、1966年に宮田輝司会の「NHKふるさとの歌まつり」への出演です。NHKの人気番組に出演し、全国放送されたことは佐文住民にとっては、「自慢の種」となりました。認知度もぐーんと高まり、「佐文の誇り:綾子踊り」という意識が芽生え始めたのはこの当たりからです。
そして、71年には、国の重要無形文化財」に指定されます。注目度は高まり、NHKなどが頻繁に取り上げてくれるようになります。

綾子踊年表2
綾子踊年表2
1973年12月1日 仲南町文化祭出演(仲南中学校)
1975年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1976年5月4日 文化庁が重要無形民俗文化財第一回を指定する
        同日 佐文綾子踊が国の重要無形民俗文化財に指定
     6月19日 文化庁より重要無形民俗文化財指定証書交付
     9月 5日 重要無形民俗文化財指定記念事業により綾子踊公開(加茂神社)
76年から三年間、国の補助金を受け、伝承者養成現地公開記録作成事業推進.)
1977年8月14日 重要無形民俗文化財指定の記念碑除幕式と綾子踊公開(加茂神社)
 8月26日 伝承者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1978年9月3日 伝水者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1979年6月10日 香川用水落成記念式典出演(香川町大野小学校)
7月15日 綾子踊を含む佐文誌編集企画
1980年10月25日 中四国民俗芸能大会出演(高知市RKCホール)
1982年9月 5日 綾子踊公開(加茂神社)
1984年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
1986年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1988年7月21日 瀬戸大橋架橋博覧会出演(同博覧会場)
1990年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
    11月24日 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館)

綾子踊の継承にとって大きな意味をもつのが「1976年の国の重要無形民俗文化財指定」です。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①三年間、国の補助金を受け伝承者養成事業を行い、隔年毎の公開公演を佐文賀茂神社で行うこと
②公開記録作成を行うと共に、「佐文誌」編集出版
③全国からの公演依頼に応じて行う公演活動に対する補助金支出
こうして隔年毎に公開公演を行う。そのために事前にメンバーを組織して、踊りの練習を公開1週間前から行うことがルーテイン化します。。回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。また、子踊りには小学生高学年6人が、お踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという形が定着します。かつて、子踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

綾子踊り11
賀茂神社に向かう綾子踊の隊列(まんのう町佐文)

1990年代を見ておきましょう。

1992年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 1日 日韓中3ヶ国合同公演出演(県民ホール)
1994年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
1995年2月16日 NHKイブニング香川出演(佐文集荷場)
5月27日 第3回地域伝統芸能全国フェスティバル出演(サンメッセ香川)
1996年8月25日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 3日 ブレ国民文化祭総合フェスティバル出演(県民ホール)
1997年5月24日 第5回地域伝続芸能全国フェステンバル島根出演(出雲大社)
 8月31日 NHKふるさと伝承録画 賀茂神社
   10月25日 ブレ国民文化祭オーフニングフェスティバル出演(県民ホール)
1998年4月19日 国営讃岐まんのう公演フェスタ出演
 9月20日 仲南町民運動会40回大会出演(仲南中学校)
1999年10月30日 郷上民俗芸能祭出演(三木町文化交流ブラザ)
2000年8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
国指定25周年記念として新潟県柏崎市の綾子舞を招待し、競演
        ※以降、隔年で加茂神社にて公開

この時期は、重要無形文化財指定後に固定化した隔年毎の一般公開が継承されています。同時に、対外的な出演依頼に応えて、各地で公演活動を行っています。

2000年代を見ておきましょう。
2004年10月14日 中四国芸能大会(琴平町金丸座)
2017年11月12日 柏崎古典フェスティバル2017にて綾子舞と共演
2022年11月30日 ユネスコ無形文化遺産に登録
2023年10月 8日 郡上八幡 出演(郡上市総合文化センター)
               11月25日  第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)に出演

これを見ると、対外公演が激減していることが分かります。この背景には何があるのでしょうか?
考えられる事を挙げてみると
呼ぶ側の財政問題 佐文綾子踊は役目が多く、50人近い大所帯での公演になります。これを1泊2日で呼ぶと、交通費や宿泊費だけで100万円をこえる予算が必要になります。民俗芸能よりも経費がかからずに、人が呼べるイヴェント編成を考えるのは担当者としては当然のなりゆきです。

そんな中で、今年になって佐文綾子踊に公演依頼が次のように入っています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ中に大型イヴェントが実施できずに、財源が蓄積されていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が集まっていること。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。
①佐文賀茂鴨神社での隔年毎の公開公演
②対外的なイヴェントへの出演
これは綾子踊の後継者養成にとっては重要な柱なのです。 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館:1990年11月24日)に出演し、青年会館ホールで踊った子踊りのメンバーが、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。それから33年ぶりに日本青年会館で踊ることになりました。彼らが今後の綾子踊りの継承・保存の中核メンバーとなっていくはずです。そのためにも、小・中学生達に大きな舞台に立って踊る経験を積ませたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)
関連記事

昨年の2022年 11月30日付けで 佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、会長が授与式に参加していただいてきたのがこれです。

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ユネスコ世界無形文化資産 「風流踊」登録書

さび付いた私の頭は、英単語が消え去って判読不明。そこでスマホで写して、アプリに翻訳させると次のように出てきました。
                         
  ユネスコ無形文化遺産
このリストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。
風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。
日本の提案により「風流踊り」のリストへの登録を認証します。私たちは、文化的多様性の重要性の認識を高め、尊重する対話の促進に貢献します。
UNE事務局長    刻印日:2022年11月30日 

冒頭の「convention」には、「①慣習、しきたり②会議、集会③大会参加者、出席者」という3つの意味があります。よく使われるのは②の意味ですが、ここでは③の参加者・構成員の意味のようです。 「heritage」は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、後世に伝えるべき自然環境や、遺跡跡など、文化的、歴史的に受け継がれるものを指しています。例えば、「intangibie cultural heritage」で無形文化遺産という意味になるようです。
     
  そして登録名は「Furyu-odori」です。
その形容詞が「人々の願いや祈りが込められた神事の踊り」となっています。ここで気になるのは、ユネスコの認証状の中には「風流踊」とあるだけで、佐文綾子踊はどこにもありません。

もうひとつは、そのリストが日本政府によって提出された。それを、ユネスコが認めリストに登録したという形式がとられていることです。あくまで承認権者はユネスコなのです。ユネスコ世界遺産事業以後、ユネスコは権威を高めたように思います。遺産の保護活動以外に承認権者の地位を手にしたことが、その背景にはあるのではないかと私は勝手に考えています。
 この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、次の文化庁の書類です。
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綾子踊 文化庁の認証状
  内容的には、ユネスコ認証状の日本語訳版のようなものです。ただ、ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」が明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
文化庁のユネスコへの「風流踊」提案書には次のように記されていました。
内 容 華やかな、人目を惹く、という「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこ らして、歌や笛、太鼓、鉦(かね)などに合わせて踊る民俗芸能。除災や死者供養、豊作祈願、雨乞いなど、安寧な暮らしを願う人々の祈りが込められている。祭礼や年中行事などの機会に地域の人々が世代を超えて参加する。それぞれの地域の歴史と風土を反映し、多彩な姿で今日まで続く風流踊は、地域の活力の源として大きな役割を果たして いる。

  いくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、別途文化庁がそれを証明するために発行したのがこの証書ということになるようです。

どちらにしても、保存会会長からの指示は、これらに相応しい額を購入して、佐文公民館に掲げよというものです。早速、額選びにとりかかっています。この2つの証書を預かって、最初にしたのは、仏壇に供えることです。

そして、ユネスコ認証状がとどいたことを父に報告しました。父もかつては保存会会長を務めていたことがあります。2年に一度の地元の神社での一般公開や、東京や長岡での公演活動の準備に、尽力していた姿を思い出します。この知らせを歓んでいるはずです。
 今年は講演依頼がいつになく多い年になっています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ開けで、伝統芸能公演ラッシュとなっていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が高いこと。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。そのため公演メンバーが決められ、いろいろな下準備が進められています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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