瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:佐文綾子踊り

佐文綾子踊のルーツを探るために、佐文周辺の雨乞踊を見ていきたいと思います。

讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞踊の分布図
    上図からは次のような事が読み取れます
①東讃・髙松地域には、ほとんど分布していないこと → 大川郡の水主神社の存在(?)
②中讃には滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいた風流念仏踊が、いくつか残っていること
③三豊南部には、風流雨乞踊りが集中して残っていること。そして、三豊北部にはないこと。
④中讃の念仏踊系と、三豊の風流系の雨乞踊り境界上に、佐文綾子踊があること
以上からは、佐文綾子踊の成立には、上記の二のエリアの風流踊が影響を与えていることがうかがえます。これをある研究者は、「佐文綾子踊りは、三豊と中讃の雨乞い踊りのハイブリッド種」だと評します。
 以前にお話したように、佐文は滝宮に踊り込んでいた「七箇念仏踊」を構成する中心的な村でした。それが様々な理由で18世紀末頃から次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞踊を取り入れながら、新たな「混成種」を「創作」したのではないかと私も考えるようになりました。  それを裏付ける「証拠」を見ていくことにします。

豊浜町和田の「さいさい踊り」を見ておきましょう。

さいさい踊り 豊浜JPG
さいさい踊(豊浜町和田)
この躍りで、まず注目したいのは隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。そして、歌詞の内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。これは先ほど見た綾子踊の地唄と同じです。流行(はやり)歌が盆踊に取り込められていく過程が見えます。さいさい踊り以外の三豊に残る風流雨乞踊りも、もともとは盆踊りとしておどられていたと研究者は考えています。

それでは、この踊りを伝えたのは誰なのでしょうか?

さいさい踊り 薩摩法師の墓碑
豊浜町和田の道溝集落の壬申岡墓地にある薩摩法師の墓碑

墓碑には、上のように記されています。ここからは、つぎのような過程が見えてきます。

さいさい踊り 伝来


 佐文の西隣の麻(高瀬町)にも、綾子踊りが踊られていました。その由来を見ておきましょう。
  ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。           
沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。

 ここには、江戸時代の後半になって京都から下ってきた貴族の娘・綾子姫が下女と一緒に、当時の風流踊りを元にして綾子踊りを完成させて、麻に伝えたという伝説が記されています。雨乞踊の創作過程で、当時京都や麻周辺で踊られていた風流踊りが取り込まれた過程が見えていきます。言い方を変えると、風流踊が雨乞踊りに転用されたことになります。こうして見ると、前回見たように「綾子踊に恋歌が多いのは、どうしてか?」の応えも、以下のように考えることができます。

風流踊りから盆踊りへ

こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。



それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。

風流踊りの伝来者

A
 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。


百石踊の伝来委

兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司
は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?

「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。

百石踊り - marble Roadster2

百石踊りの芸司は、黒い僧服姿

 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?

由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。

以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

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滝宮念仏踊 那珂郡南組

この絵図は、まんのう町真野の諏訪神社で踊られた那珂郡南組(七箇村組)の念仏踊の様子が描かれています。 私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムの「祭礼百態」の展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。
2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。また、下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。  

  この絵図については以前にも紹介しましたが、満濃町誌をながめていると、この絵図について書かれている文章がありました。それをテキストにしながらもう一度、紹介したいと思います。
テキストは満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「満濃町誌」1100Pです
町誌は、この絵図がいつ書かれたのかを探っていきます。
そのヒントのひとつは、この絵の中に隠されているようです。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことになるようです。
滝宮念仏踊り 2

 「金刀比羅宮文書御用留文 文久二年七月二十六日」には
「那珂郡の大政所三原谷蔵の使の者有り、来る二十八日に念仏踊が踊り込みたい旨の申込あり云々」

と書かれています。
  1862年の7月26日に、那珂郡の政所(大庄屋)である三原谷蔵の使いが金毘羅大権現にやってきて、7月28日に、念仏踊を金比羅で行いたいという連絡があったと記します。

 この滝宮念仏踊りは、ひとつの村だけで構成されているのでなく、いくつもの村のメンバーが参加します。そのために、滝宮での本番の前に、構成員の村の鎮守を巡って踊ります。そのスケジュールも決まっていました。「吉野村史」には、1742年の念仏踊りの組織や踊り場所日程について、次のように記録しています。
那珂郡南部念仏踊り組
寄合場所 真野村字東免
踊組人員割(合計二〇四人)
真野村 下知一人、長刀一人、鉦打二人、地踊二人、棒突一人 長刀三人
岸上村 笛吹一人、鉦打五人、地踊り一人 旗五人、長刀槍十人
吉野上下村
    棒振上村一人、小踊上村二人、鉦打上村三人、地踊上村五人・下村二人、長柄槍 下村五人、旗上村二人、小踊上一人・下一人、新鉦打下村六人・上村二人
小松庄
   小踊四条一人・五条一人、地踊四条三人・榎井二人・五条二人・苗田二人、
笠飾四村各一人、太鼓打苗口・榎丼各一人、長柄槍一二人、旗九人
東七箇村 鉦打一〇人、法螺貝一人、地踊七人、旗二人、棒突三人、新鉦打一人
西七箇村
  太鼓打一人、鉦打一二人、小踊一人、法螺貝一人、地踊二十三人、旗八人、
長柄槍八人、棒突四人、新鉦打二人
踊場所及庭数
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記

文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。以上の史料から、この絵図は文久二年七月二十八日の夕方に、真野村の諏訪神社で行われた踊奉納を描いたものと研究者は考えているようです。
 もう一度絵図を見てみましょう。
正面が、諏訪神社の拝殿です。手前に屋根だけ描かれているのが神門でしょう。ここからは、境内の拝殿前で踊興行が行われていたことが分かります。陣笠を被って、踊りのまわりを警固しているのが長刀や槍を持った警固衆なのでしょうか。そのまわりに、大勢の人が頭だけ描かれています。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 見慣れないのがその背後の仮小屋です。正面の拝殿前に四棟、左側の内に八棟、その手前外に二棟、右側の内に八棟、総計三二棟の仮小屋が描かれています。その中では、ゆったりと念仏踊りを見守る人たちがいます。下の「一般大衆」とは「格差」があるようです。
これは以前にお話したように、宮座の構成メンバー達だけに認められた権利の桟敷です。
桟敷の使用者名(宮座メンバー)を見てみましょう。
①正面左から右へ「ゲシヨ(下所の永吉」「ヨシイタケヤ富之進」「ヨシイ彦兵衛」「カミマノ(上真野)広右衛門〉と続きます。この正面に桟敷の権利を持っている人たちが宮総代を勤めていた人々と研究者は考えているようです。
②左側には「ミヤ(宮)朝倉」「ヨシイ折平」「ヨシイ庄助」「ミシマ(三島)アイサコ多喜蔵」「ミシマ文蔵」「ニシマノ(西真野)ゴーロ長五郎」「ヨシイ治右衛門」「ハカバ藤作」「ミシマカ蔵」「ヒラバヤシ亦作」と並びます。「ミヤ(宮)朝倉」は、宮司でしょうか。
③右側には「ヨシイ喜二郎」「ヨシイアナダの藤蔵」「光教寺」「カミマノ大政所三原谷蔵」「カミマノ五左衛門」「ミヤウテ喜太郎」「ヒラキタハヤシ二五郎」「宮西伊二郎」と書きこまれています。

滝宮念仏踊 那珂郡南組3

踊りはすでに始まっています。拝殿の正面に、祥姿で床几に座しているが七箇村組の村役人でしょう。日の丸の団扇を持っているのが念仏踊の総触頭の三原谷蔵のようです。豆粒のように、黒く白く描かれているのが踊りの見物人と対照的です。ここからは、この絵を描かせた人物も浮かび上がってきます。
①三原谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせた。
②宮司が絵師に依頼し、三原谷蔵に晴れ姿を描かせてプレゼントした
絵に作者名はありませんが、四条派の手法が見られるところから郡家村の大西雪渓か、あるいは雪渓について四条派の技法を修めたと伝えられる、吉野上村五毛出身の東条南渓の作ではないかと研究者は考えているようです。

中央で笠を被って帯刀して、手に日月の団扇を持っているのが、踊りで中心的な役割を勤める下知役です。これも真野村の者が勤めることになっていて、その家筋も決まっていたようです。ここからは、地侍や名主たちを中心とする中世の宮座の形がうかがえます。宮座については、岸上の久保神社の桟敷についての所で、以前にお話ししましたので省略します。
滝宮念仏踊り 2

  中央の下知役が、日月の団扇を打ちふって、「ナンマイ、ドウヤ。ナンマイ、ドウヤ。」と唱えると、警固役がこれに唱和して、鉦、太鼓、笛、鼓、法螺貝が鳴り響き、踊り子が美しく踊り舞う、という姿が描き込まれています。周囲には「南無阿弥陀仏」と、染めぬいた職が十数本立てられています。また、赤い笠鉾が二本立っていて目を引きます。
滝宮念仏踊 那珂郡南組5

 手前に描かれているのは棒突きです。棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保しています。これは、踊りの最初の所作を現したものです。
滝宮念仏踊七箇村組の総触頭は真野村の政所が勤め、念仏踊の寄合は必ず不動堂で行われたようです。そして、順年毎の念仏踊の最後の踊りは必ず諏訪神社で九庭踊って納めとなっていたようです。

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佐文綾子踊り(まんのう町佐文賀茂神社)
この絵図を最初に見て私が感じたのは、佐文の綾子踊りに似ていることです。類似点を挙げると
①  神社の境内で演じられているスタイル
② 日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③ 同じく花笠を被った中踊り
④ 花笠を被った6人の子踊り
⑤ 棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保する棒突。
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幟に書かれている「南無阿弥陀仏」を「善女龍王」に替えて、これが江戸時代に踊られていた綾子踊りですと云われて見せられれば、そうですかと見てしまいそうです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳(那珂郡南組)
 この表は、文政十二(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々も藩を超えています。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
ここからは、滝宮念仏踊りが讃岐一国時代から踊られていたことがうかがえます。
 この表で注目したいのは佐文村です。
佐文には、国無形民俗文化財に指定されている綾子踊りが伝わっています。私は、佐文は綾子踊りがあるので、滝宮の念仏踊り組には参加していないものと思っていました。しかし、ここには、構成村の一つとして佐文村の名前があります。

IMG_1379

 しかも、寛政二(1790)年の念仏踊の構成(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)を見てみると、佐文のスタッフ配分は次のようになっています。
下知一人、小踊六人、螺吹二人と笛吹一人、太鼓打一人と鼓打二人、長刀振一人、棒振一人、棒突一〇人の計25人。

ところが約40年後の文政12年には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。これによって七箇村組の構成そのものが変化しています。編成表を比較してみると、寛政二年には踊組は東と西の二組の編成でした。一人で踊りの主役を勤める下知が真野村と佐文村から各1人ずつ出ていました。また、6人一組になって踊役を勤める小踊は、西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、佐文村は単独で6人を分担しています。さらに、
お囃子役や警固役を勤める螺吹が東七箇、西七箇と佐文から各二人、
笛吹が岸上村と佐文村から一人、
太鼓打が西七箇村と佐文村から一人、
鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人、
長刀振が真野村と佐文村から一人、
棒振も吉野上下村と佐文村から一人、
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからは滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが分かります。それが何らかの理由で佐文は、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。
 南組と佐文村の間に、何らかの対立が生じ、その結果佐文は「スタッフの規模縮小」を余儀なくされた。その対応として、佐文は独自に新たな「綾子踊り」をはじめた。その際に、踊りを念仏踊りから風流踊りに取り替えて、リニューアルさせた。
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 七箇村組は東西二組の編成だったために、二組がお互いに技を競い、地域感情も加わって争いが起こることが多かったようです。
享保年間(1716~36)には、滝宮神社への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、先後争いが起こっています。この争いの背後には、高松藩・丸亀藩・池御料の三者の日頃の対立感情があったようです。
 そのために元文元年(1736)年に念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保二(1742)年から滝宮念仏踊は復活したようです。復活後は、那珂郡南組は東西二組の編成が、寛政二年まで続きます。

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 この間、滝宮の龍灯院は踊奉納をした七箇村組に対して、問題の御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていたといいます。しかし、二組編成は再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。
 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっていたことが分かります。この時点で、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政二年から文化五年までの32年間の間に起こったと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。
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 以上から推察すると、新たに始めた「綾子踊り」が諏訪神社で踊られていた念仏踊りと非常に似ているのも納得がいきます。そういう目で見ると、下知や子踊りの姿は、念仏踊りに描かれている姿とよく似ています。
  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年
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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
  風流踊りのユネスコ文化遺産への登録が間近となってきました。全国の風流踊りを一括して登録するようです。登録後の動きに備えて、まんのう町佐文の綾子踊りの周辺も何かしらざわめいてきました
 どうして各地に残る念仏踊り等が一括化されるのでしょうか。
 各地に伝わる風流踊りのルーツをたどると念仏踊りにつながっていくからのようです。そのつながりはどうなっているのか、私にはもうひとつよく分かりません。そこで今回は、念仏踊りから風流踊りへの「成長」プロセスを見ておこうと思います。それが佐文綾子踊りの理解にもつながるようです。テキストは五来重 踊念仏と風流 芸能の起源です。
「念仏踊」は「踊念仏」の進化バージョンです。とりあえず次のように分類しておきましょう。
踊り念仏 中世の一遍に代表される宗教的な踊り
念仏踊り 近世の出雲阿国に代表される娯楽的な踊り
踊念仏は「をどり念仏」とか「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の念仏」、あるいは「踊躍念仏」とよばれていました。踊りながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏を唱えることを言います。
 起源は平安時代中期の僧空也にあるとされています。
その後、鎌倉時代に一遍(1239~1289)が門弟とともに各地を巡り歩いて、踊り念仏を踊るようになります。彼らは一念の信を起こし、念仏を唱えた者に札を与えました。このことを賦算(ふさん)と呼びます。一度の念仏で極楽往生できると約束された喜びを表現したのが「踊り念仏」であるとされています。

「踊り念仏」の画像検索結果

一遍は、興奮の末に煩悩を捨て心は仏と一つになる、と民衆に踊り念仏を勧めました。
"ともはねよ かくても踊れ こころ駒 
みだのみのりと きくぞうれしき"

という一遍の歌にもあるように、踊ることそのものによって仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜びを得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。
「踊り念仏」の画像検索結果

  『国女歌舞伎絵詞』には、次のような台詞があります
今日は二月二十五日、貴賤群衆の社参の折柄なれば、かぶきをどりを始めばやと思ひ候。まづ、念仏をどりを始め申さう
ここからは、歌舞伎おどりの前に、念仏踊りが踊られていたことが
分かります。浅井了意の『東海道名所記』には、次のように記されています。
「出雲神子におくに(出雲阿国)といへる者」が五条の東の河原で「やや子をどり」をしたばかりでなく、北野の社の東に舞台をかまえて、念仏をどりに歌をまじへ、ぬり笠にくれなゐのこしみのをまとひ、売鐘を首にかけて笛、つづみに拍子を合せてをどりけり。

ここからは踊念仏が、近世に入って宗教性を失って、「やや子をどり」や「かぶきをどり」などの娯楽としての念仏踊りに変化していく様子が見えてきます。  
踊り念仏の起源を、追いかけておきましょう。
「弥陀の称名念仏」というのですから、浄土信仰にともなって発生したもであることは分かります。称名念仏は次のふたつから構成されます
①詠唱するに足る曲調
②行道という肉体的動作をともなうもの
このふたつが念仏を拍子にして踊る「踊念仏」に変化していきます。この念仏をはじめたのは比叡山の慈覚大師円仁であり、その基になったのが五台山竹林寺につたわる法照流五会念仏だったことは史料から分かるようです。
入唐求法巡礼行記(円仁(著)、 深谷憲一(訳)) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 念仏は浄土信仰の発展とともに、浄土往生をねがう念仏にかわっていきます。念仏の出発点は、詠唱(=コーラス)でした。この上に後の念仏芸能が花が開くことになるようです。ここで押さえておきたいのは、浄土教団の念仏だけが念仏ではなかったことです。
それでは当時の念仏コーラスとはどんなものだったのでしょうか?

慈覚大師円仁のつたえた五会念仏は、『浄土五会念仏踊経観行儀』に、次のように記されています。

此国土(浄土)水鳥樹林、諸菩薩衆無量音楽、於二虚空中、
一時倶和二念仏之声

そして『五会念仏略法事儀讃』には、
第一会 平声緩念  南無阿弥陀仏
第二会 平上声緩念 南無阿弥陀仏
第三会 非緩非急念 南無阿弥陀仏
第四会 漸急念    南無阿弥陀仏
第五会 四字転急念 阿弥陀仏
とあるように、緩急転の変化のある声楽であったことが分かります。でも「楽譜」はありません。つまり、寺院の中に大切のおさめられた経典の中には、残されていないということです。しかし、民間の中に広がった融通念仏には、そのコーラス性が重視されて発展していったものがあるのではないかと研究者は考えているようです。

1 融通念仏
 融通念仏
大原の良忍によって作曲された融通念仏は、念仏合唱の宗教運動だったされます。
美しい曲譜の念仏を合唱することによって、芸術的エタスタシーのなかで宗教的一体感を体験する運動です。それと同時に、その詠唱にあわせた踊念仏がおこなわれ、これが融通大念仏とよばれるようになります。これには狂言まで付くようになり、壬生狂言にも正行念仏という詠唱念仏と行道があったようです。

「大原の良忍」の画像検索結果

  大念仏も鎌倉時代中期には、「風流」化して娯楽本位となり、批判を浴びるようになっています。
『元亨釈書』の「念仏」には、次のように記されています。
元暦文治之間、源空法師建二専念之宗、遺派末流、或資千曲調、抑揚頓挫、流暢哀婉、感人性喜人心。士女楽聞、雑沓群間、可為愚化之一端央。然流俗益甚、  動衡二伎戯、交二燕宴之末席・(中略)
痛哉、真仏秘号、蕩 為鄭衛之末韻。或又撃二饒馨、打跳躍。不レ別二婦女、喧喋街巷其弊不足言央。
意訳変換しておくと
元暦文治(平安末の12世紀末)には、源空(法然)法師が専修念仏を起こした。その流れを汲む宗派は競って念仏を唱え、二千曲を越える念仏調が生まれた。その曲調は、抑揚があり、調べに哀調が漂い、人々の喜びや悲しみを感じるものであった。そのため男女を問わず、雑沓の群衆は、この旋律に愚化され、俗益は甚しきものがあった。これでは、伎女の踊りや宴会の末席と変わらない・(中略) 痛むべきかな、真仏秘号への冒涜である。或いは、鉦を打ち、飛びはねる者も現れる始末。男女の見境なくし、巷で行われる。

ここからは、美しい曲調で哀調を込めて切々と念仏が謡われ、鉦を打って踊念仏が踊られていた様子が伝わってきます。しかも念仏が、俗謡(鄭衛之末韻)化していたことも分かります。これに対して他宗派の僧侶や知識人からは、批判の声も上がっていたようです。しかし、一般民衆はたのしみ、歓迎していたようです。だから爆発的な拡がりを見せていくのです。こうして踊念仏は、多くの風流をくわえながら、現在各地方に見られるようないろいろな姿の風流踊念仏に成長していくことになります。
踊念仏といえば一遍がです。それでは、一遍の踊念仏はどんなものだったのでしょうか。
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『一遍聖絵』(巻四)には、 一遍の踊念仏は空也の踊念仏を継いだもと次のように記されています。
抑をどり念仏は、空也上人、或は市屋、或は四条の辻にて始行し給けり。(中略)
それよりこのかた、まなぶものをのづからありといへども、利益猶あまねからず。しかるをいま時いたり機熟しけるにや、同国(侵漑鴎)小田切の里、或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
意訳変換しておくと
踊念仏は、空也上人が市屋や四条の辻にて始めたものである。(中略)
空也の踊りを学び継承しようとする者もいたが、人々に受けいれられず広がらなかった。そのような中で一遍は、時至り機熟したりと信濃の小田切の里や、武士の館で聖踊りを踊り始めたところ、僧侶や民衆が数多く集めって来て、宗教的な効果が大なので、次第に継続して踊るようになった。それがひとつの恒例行事のようになった。
ここからは、一遍以前に空也の乱舞的踊念仏がおこなわれていたことが分かります。
1 空也踊り念仏
空也の念仏踊り

これに対して一遍の踊念仏は融通念仏の曲譜に合せて踊る芸能的な踊念仏だったと研究者は考えているようです。
 一遍の生涯は「融通念仏すすむる聖」(『一遍聖絵』巻三)であったし、「三輩九品の念仏」(『一遍聖絵』巻三)という音楽的念仏に堪能だったようです。三輩九品の念仏は九品念仏の中でも、声のいい能声の僧をあつめておこなうものでした。
  一遍の踊念仏は、僧の時衆と尼の時衆が混合して踊るものでした。それは後の盆踊のような趣があったでしょう。これが踊念仏の風流化に道をひらく性格のものだと研究者は考えているようです。

九品念仏は、遊行の乞食のような聖によってうたわれていたようです。            
鎌倉末期の『徒然草』(百十五段)には、次のように記されています。
宿河原といふところにて、ぼろぼろおほく集りて、九品の念仏を申しけるに、(中略)
ぼろばろといふ者、むかしはなかりけるにや。近き世に、ばろんじ、梵字、漢字など云ひける者、そのはじめなりけるとかや。世をすてたるに似て我執ふかく、仏道をねがふに似て闘語をこととす。放逸無意のありさまなれども、死を軽くし、(後略)
意訳変換しておくと
京の宿河原に、乞食のような聖が多数集まって、九品の念仏を唱えている、(中略)
ぼろばろ(暮露)などと云う者は、むかしはいなかったのに、近頃は「ばろ(暮露ん字)、梵字、漢字」など呼ばれる者たちが、その始まりとなるようだ。世捨て人にしては我執がふかく、仏道を説くに喧嘩のような言葉遣いをする。放逸無意のありさまであるが、滅罪で人々の死を軽くし、(後略)
ここには、半僧半俗の聖が九品念仏を謡っている様子が描かれています。
その姿は近世の無宿者の侠客に似た生き方をしていたようです。その名も「しら梵字」とか「いろをしと申すぼろ(暮露)」などとよばれています。暮露は「放下」(放下僧)と同じ放浪の俗聖で、禅宗系の遊行者で、独特の踊念仏を踊ったとされます。
 これに対して「鉢叩」が空也系の念仏聖なのでしょう。暮露と放下と鉢叩は『七十一番職人尽歌合』に図も歌も出ています。少し寄り道して覗いてみましょう。
1 暮露
暮露

暮露は半僧半俗の物乞いで、室町時代には尺八を吹いて物を乞う薦僧(こもそう)となります。のちの虚無僧(こむそう)はこの流れだとされ「梵論字(ぼろんじ)。梵論梵論(ぼろぼろ)」とも表記されます。

1 放下と鉢叩
放下と鉦叩き 
放下も大道芸のひとつです。
「放下」という語は、もともと禅宗から出た言葉で「一切を放り投げて無我の境地に入ること」を意味するもです。そこから「投げおろす」「捨てはなす」という意味が派生して鞠(まり)や刀などを放り投げたり、受けとめたりする芸能を行う人たちのことを指すようになります。もともとは、禅宗の聖のようです。

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  鉢叩(はちたたき)も大道芸のことですが、もともとは踊念仏を踊る時宗信徒で、空也を始祖と仰いだようです。

1  踊り念仏

   暮露と放下と鉢叩がつたえたとされる踊念仏が奥三河には残っています。
地元では、これを大念仏とか盆念仏、念仏踊、提灯踊、掛け念仏、あるいははげしい跳躍をする踊り方から「はねこみ」などと呼んでいます。道に灯される切子灯籠には、今でも「暮露」と書かれています。
はねこみは、「はねこみ」「念仏」「手おどり」の3つから構成されています。「はねこみ」は、下駄に浴衣姿の若者が初盆宅の供養や先祖供養のために、輪になって片手に太鼓を提げ、もう一方の手には太くて短い撥を持ち、笛の音に合わせて太鼓の皮と縁を交互に打ち鳴らしながら、片足で飛び跳ねながら踊ることから始まります。
 次いで、中老衆と呼ばれる年配の方が「なむあみだぶつ」となどと鉦を叩きながら、念仏を唱えあげます。最後に、円形の輪を組んで手おどりが行われます。」
「はねこみ踊り」の画像検索結果

「はねこみ」の語源は、片手に提げた太鼓を飛び跳ねながら叩き踊るところに由来があるようです。ここからは奥三河に残る踊念仏が、念仏聖や高野聖・時衆聖などによってこの地に伝えられたものであること、それを民衆が時代の中で「風流」化していったものであることがうかがえます。
 奥三河の大念仏では、暮露系の踊念仏と放下系の放下大念仏とが混在しています。
放下大念仏は、風流の大団扇を背負うのも特色でが、暮露の踊念仏の方でも団扇をもつものがすくなくないようです。それにしても、どうしてこんなおおきな団扇を背負うようになったのでしょうか。それは後で考えることにして、先に進みます。
 『七十一番職人尽歌合』では、放下は笹に短冊をつけた負い物を背負い、ササラの代りにコキリコを打っています。放下も「やぶれ僧」ともよばれたことが歌によまれています。ここからも放下と暮露は重なっていたことがうかがえます。
月見つゝ うたふ疇うなの こきりこの
竹の夜声の すみ渡るかな
やぶれ僧 えばしきたれば こめはらの
男とみてや しりにつくらん
この「やぶれ僧」から「ぼろぼろ」の名称が出たと研究者は考えているようです。そして短冊をつけた笹の負い物が、幣の切紙をつけた割竹になって、現在の踊り姿になっていることがうかがえます。
研究者は次のように指摘します。
①踊念仏の「風流」化は、このような負い物や持ち物や服装からおこり、
②詠唱念仏は和讃や法文歌から「小歌」や盆踊歌や「くどき」に変化する
4mもあるヤナギやシナイを背負ったり、大きな太鼓を胸につけたり、華美な花笠をかぶって、女装までして、盆踊歌や恋歌をうたうのを、踊念仏、大念仏と称するのはそのためだと云うのです。

1 踊り念仏の風流化

放下と暮露は、念仏の軌跡の中に大きな足跡を残しているようです。
彼らが京の河原に道場を構えて、念仏を詠唱したことは先ほど見た『徒然草』(百十五段)であきらかです。『平戸記』(仁治三年十月十三日)にも、淀の河原に九か所の念仏道場があったことが次のように記されています。(意訳のみ)
今朝、淀津に向かうために鳥羽から川舟に乗って下る。
淀には西法法師が住んでいる島がある。その他にも、9ヶ所の道場があり、九品念像を信仰している。(中略)
そのため近頃は、男女が群衆となって結縁のために集まってくる。そして見物も開かれている。
(中略) 九品道場を見てみると、美しく筆に記しがたい程である。その後、上品上生道場に向かった。ここにも多くの人々が集まっていた
ここからは、瀬戸内海の物流拠点としての賑わいを背景に、淀津には多くの宗教施設が現れていたことが分かります。西法法師は勧進聖で他は暮露の輩と研究者は考えているようです。
  このように河原に道場をかまえる九品念仏は、その他でも見られたようです。
念仏踊り -2022年- [祭の日]

尾張の知多半島の阿久比川の河原では、九品念仏の行事が行われていたようです。
 これは「虫供養」とよばれ、1950年頃までは、河原に九棟あるいは十棟の仮屋をしつらえ、弥陀三尊や来迎図、十三仏などの本尊をかけて、村の念仏講が四遍念仏や百万遍念仏を行っていたと云います。
「三河の放下大念仏」の画像検索結果

 三河の放下大念仏も、放下念仏のスタイルである「ほろ」(「ホロ背負い」)をそのままのこしています。踊子の負い物である団扇は高さ3,5m幅1.5mの大きなものです。これは「放下僧」のもつ団扇が風流化したものと研究者は考えているようです。

とくい能「放下僧」 - 大阪中心 The Heart of Osaka Japan – 大阪市中央区オフィシャルサイト 地域情報ポータルサイト

 『七十一番職人尽歌合』の放下と、金春禅竹作の謡曲「放下僧」のあいだには、多生の違いがあるようですが、放下僧は勧進の頭目で、配下の輩が放下だったようです。つまり、親の仇討ちをする下野国牧野左衛門某兄弟は、兄は放下僧、弟は放下となって放浪することになっています。
この頃人の翫び候ふは放下にて候ふ程に、某(弟)は放下になり候ふべし。御身(兄)は放下僧に御なり候へ。

とあって、仇にめぐり会って次のような問答します。
「さて放下僧は何れの祖師禅法を御伝へ候ふぞ。面々の宗体が承りたく候」、
「われらが宗体と申すは、教外別伝にして、言ふもいはれず説くもとかれず。言句に出せば教に落ち、文字を立つれば宗体に背く。たゞ一葉の融る。風の行方を御覧ぜよ」
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歌謡 放下僧
ここからは、放下僧と放下は禅宗系の念仏聖であることが分かります。暮露も禅宗系です。両者の共通点が見えてきたようです。
 兼好法師が「ぼろぼろ」どもの「死を軽くして、少しもなづまざるいさぎよさ」をほめたたえていますが、これも禅から出ているようです。そして、放下僧が数珠ももたず袈裟もかけずに、団扇と杖をもっていたことが謡曲のなかにかたられています。
その団扇についての禅間答を見てみましょう
「又見申せば控杖に団扇を添へて持たれたり。団扇の一句承りたく候」
「それ団扇と申すは、動く時には清風をなし、静かなる時は明月を見す。明月清風唯動静の中にあれば、諸法を心が所作として、真実修行の便にて、われらが持つは道理なり」
ということで、お伴の放下のほうは弓矢とコキリコをもっています。
楽器事典 こきりこ
こきりこ
『七十一番職人尽歌合』の図には、背に笹竹に短冊をつけて背負っていました。これらの扇子や杖が念仏聖の手を離れて、民衆の手に渡った時から、風流化は始まります。そして放下大念仏という民俗芸能になったと研究者は考えているようです。

横浜きものあそび

遊行者が団扇や杖や笹竹をもってあるくことは、もともとは宗教的意味があったはずです。
団扇は「打ち羽」で、もと木の葉などを振って虫送りなどにもちいられた「仏具」だったのかもしれません。それがのちに目に見えぬ悪霊を攘却する呪具として放浪者(修験者)の持ち物になります。杖や笹もおなじような呪力をもつものでした。ある場合には、決められたところに立てて、神霊を招ぎ降ろす標し(依代)にもなったのでしょう。
ところが民衆のほうは、別の受け止め方をします。
この国の人々は、古代の銅鐸や銅剣の時代から聖なる器物を巨大化させる精神構造をもっています。そして飾り物や華美な作り物にして、人々を驚かしたり、祭の興奮をもりあげる「演出」を行ってきました。これが風流化です。団扇は、だんだん巨大化します。
 団扇を風流化した踊念仏では、三河の放下大念仏のほかに、長門市深川湯本の「南条踊」にも花団扇という大団扇の吹貫が立てられます。
「滝宮念仏踊り」の画像検索結果
滝宮天満宮の念仏踊
讃岐の滝宮天満宮の「念仏踊」(雨乞踊)にも下知役が大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。そしてのちには盆踊には団扇を腰にさしたり、手に持って踊るところまで継続されていったと研究者は考えているようです。
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滝宮念仏踊り(滝宮天満宮)

 民俗芸能としてのこった踊念仏は、ほとんどが風流の踊念仏、あるいは風流大念仏だと研究者は考えているようです。
その持ち物や服装や負い物には、それぞれ宗教的意味や呪力のあるでした。それが風流化して、意味を失っていきます。太鼓なども拍子をとるものだったのが、巨大化・装飾化して華麗に彩られます。
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滝宮念仏踊りの花傘 花梅が飾られている

花笠は、もともとは踊手が念仏に送り出される亡霊や悪霊に扮するための覆面でした。
それがいつの間にか「花笠踊」と呼ばれるように華美になっていったのです。民衆の求める方向に、どんどん変化していったのです。それがこの国の「伝統」なのかもしれません。最後に棒振踊りです。

1 棒振り踊り

  踊念仏には、棒振踊や剣を振る踊りが入り込みます。
佐文の綾子踊りにも、最初に登場するのは棒振り踊りです。これは、祭礼場を清め、結界を張るために踊られるるものと私は考えていました。しかし、別の説もあるようです。棒踊りは、悪霊退散の呪具としての棒や剣が踊念仏にとりいれられたものです。

1風流踊り 棒踊り
落合町法福寺の「念仏踊」
その原型にちかい形が、岡山県落合町の法福寺の「念仏踊」のようです。念仏の詠唱と跳躍とともに振られる棒は、六尺棒の両端に白い切紙の房をつけたもので、おそらく旅浪の山伏のボンデン(幣)であったと研究者は考えているようです。
法福寺 | 周辺観光情報 | 道の駅 醍醐の里

これをサイハライ棒として振るのは、悪霊攘却の呪力があると信じられたからです。このサイハライ棒そのものにも風流化は見られるようです。これがいっそう風流化したものを挙げてみましょう。「柏崎市女谷の綾子舞」の画像検索結果
越後柏崎市女谷の綾子舞や、
1  ayakomai

越中五箇山のコキリコ踊、
「川井村コキリコ踊」の画像検索結果

陸中下閉伊郡川井村の少女の踊念仏がもつ「バトンのような棒」も、もともとはコキリコの竹棒のようです。
踊念仏は風流化が進み、装飾や仮装にその時代の趣向が凝らされるようになります。
しかし、おこなわれる時期や目的は変わりませんでした。宗教性を失うことはかったのです。お盆や虫送りや二百十日、あるいは雨乞、豊作祈願や豊作感謝のためにだけ催されました。それが「かぶきおどり」のような舞台芸術となって完全に芸能化する方向とはちがいました。別の見方をすると民衆の手にあるかぎりは、踊念仏の伝統は保たれたということかもしれません。念仏踊りがセットで風流踊りとしてユネスコ登録される理由も何となく分かってきました。歌舞伎と念仏踊は同じルーツを持つとしておきましょう。しかし、それは近世に袂をわかったのです。
 最後に、滝宮念仏踊や綾子踊りなどの原型となる芸能を、運んできてんできて、地域に根付かせたのはだれかを考えます。
 その由緒には、菅原道真や弘法大師とされます。しかし、実際にはこれは念仏聖達が行ったことが今まで見てきた痕跡から分かります。中世末から近世にかけて、地方の有力寺院周辺に住み着いたいろいろな宗派の念仏聖達は、その地で信者を獲得し、自立化していく以外に道を閉ざされます。彼らは念仏信仰の布教とともに、彼らの持つ芸能文化で人々の生活を豊かにする「文化活動」を始めるようになります。それが、ある所では雨乞い踊りであり、あるところでは盆踊りだったようです。さらに、獅子舞なども彼らがもたらしたものであった気配がします。修験者や念仏聖は、近世の芸能文化に大きな影響を与えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
五来重 踊念仏と風流 芸能の起源
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5善通寺2
善通寺東院の巨楠
江戸時代の善通寺は、丸亀藩の祈祷所でもありました。そのため正月などには藩主の武運長久や息災延命、領内の五穀豊穣の祈祷などを行なって、祈祷札を年頭の挨拶に届けていた記録が残っています。その中に雨乞祈願の記録があります。
 善通寺の「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱の中には丸亀藩からの依頼を受けて善通寺の僧侶たちがが行った雨乞い祈祷の記録が、約80件ほあります。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)の約150年に約40回の雨請祈祷が行われており、およそ4年に一度の頻度で雨乞が行われていたようです。

5善通寺
善通寺境内の善女龍王社
 雨乞を行なった場所は、善通寺境内の善女龍王社か丸亀城内の鎮守亀山社・天神宮のどちらかです。そこで行われていた祈祷とはどんなものだったのかについては、以前お話ししましたので簡単に「復習」しておきます。

5善女龍王4jpg

祈りを捧げるのは、善女龍王です。
善女龍王は清滝大権現のことで、もとはインドの沙渇羅竜王という竜神の娘で仏教の守護神として長安の青竜寺の守護神として祀られていたとされます。空海は唐から帰朝後に、この神を高尾の神護寺に勧請して真言密教の発展を祈願し、この神が海を渡って日本へ来ます。そこで青竜の二字に「さんずい」をつけて清滝としたといわれます。つまり善女龍王は空海によって「清滝さん」となり、雨乞いの神として信仰をお集めるようになっていきました。

⑤善女龍王5
神泉苑で請雨法
善女龍王は、どんな姿をしているのでしょうか?

善女龍王 変化
善女龍王の変化
 弘法大師が天長元年(八二四)に神泉苑で請雨法を行ったとき愛宕山山上に顕れた善女竜王の姿を弟子に写させたといわれています。その姿は、善女竜王像や善女龍王龍王社という形で高野山に残っています。
5善女竜王社への行き方
高野山の善女龍王社
そして、善通寺の東院境内には今も善女龍王を祀った祠が池の中にあります。ここで雨乞い祈祷が行われていました。

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像 
三豊の真言宗寺院でも善通寺に習って雨請祈祷が行われるようになったようで、本山寺(豊中町本山)にも善女龍王像が祀られています。安置されている鎮守堂の材の墨書には「天文二年」(1547)とありますから、戦国時代の16世紀中頃には行われていたことがうかがえます。
5善女龍王

 威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)には江戸時代の善女龍王の画幅や木像があります。ここから善女龍王への信仰が広く民衆に広がっていたことがうかがえます。
5善女龍王45jpg

 地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっているので、19世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも知られていたことがわかります。
5善通寺22
綾子踊りの幟
今までのことをまとめて、その先の「仮説」まで記してみると次のようになります。
①空海によって善女龍王が将来され、清滝権現として雨乞祈祷信仰を集めるようになった。
②善通寺にも高野山を通じて招来し、丸亀藩の要請を受けて雨乞い祈祷が行われた。
③三豊地区の真言寺院でも善女龍王をまつる雨乞い祈祷が行われた
④祈祷で効果が無ければ、村挙げての「雨乞い踊り」も行われた
⑤讃岐の二宮である大水上神社では「エシマ踊り」が雨乞い踊りとして奉納された
⑥その流れを汲む風流踊りの一つが国無形文化財に指定されている綾子踊りである。

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