瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:供祭人

 仁尾の港町としての発展については、以前に次のようにお話ししました。
  白河上皇が京都賀茂社へ 仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進します。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことで、転じて領地も意味するようになります。そこに漁撈者や製塩者などが神人として属するようになります。漁撈・操船・製塩ができるのは、海民たちです。
 もともと中央の有力神社は、近くに神田、神郡、神戸といった領地を持っていました。それが平安時代中期以降になると、御厨・御園という名の荘園を地方に持つようになります。さらに鎌倉時代になると、皇室や伊勢神宮、賀茂神社・岩清水八幡社などの有力な神社の御厨は、全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになります。
  今回は、視点を変えて仁尾を御厨として支配下に置いた山城国賀茂大明神(現上賀茂神社)の瀬戸内海航路をめぐる戦略を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
まず、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」があったところを見ておきましょう。
賀茂神社が
摂津国長洲御厨
播磨国伊保崎
伊予国宇和郡六帖網
伊予国内海
紀伊国紀伊浜
讃岐国内海(小豆島)
豊前国江嶋
豊後国水津・木津
周防国佐河・牛嶋御厨
賀茂社の場合は、
紀伊国紀伊浜御厨
播磨国室(室津)
塩屋御厨
周防国矢嶋・柱嶋・竃門関等

さらに、1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が両社に寄進した諸荘を加えてみると次の通りです。
①賀茂社 
摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社 
長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘


ここからは、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」が瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していたことが分かります。逆に言うと、瀬戸内海以外にはあまり見られません。これらを拠点に、神人・供祭人の活動が展開されることになります。
 神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。

上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。

石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)。

神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」
「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)が及ぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である」
西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。同時に、彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。

1250(観応元)年には、鴨社の「御厨」として讃岐「津多島(蔦島)供祭所」が登場します。
 最初に分社が置かれたのは、大蔦島の元宮(沖津の宮)です。こうして、海民たちが神人(じにん)として賀茂神社の社役に奉仕するようになります。それと引き替えに、神人は特別の権威や「特権」与えられ、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。力を貯めた神人たちは14世紀には、対岸の仁尾浦に拠点を移し、燧灘における海上交易活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
ここで注意しておきたいのは、「御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、周辺沿岸における独占的な漁業権を有していた。」という記述です。ここからは、御厨の神人・供祭人となったのは「海民」たちであったことがうかがえます。船が操船でき、漁撈が行えないと、これは務まりません。
また「魚類の貢進」の部分だけに注目すると、全体が見えてこなくなります。確かに、御厨は名目的には「魚類の貢進」のために置かれました。しかし、前回見たように「漁撈 + 廻船」として機能しています。どちらかというと「廻船」の方が、重要になっていきます。つまり、瀬戸内海各地に設置された御厨は、もともと交易湊の機能役割を狙って設置されたとも考えられます。それが上賀茂神社の瀬戸内海交易戦略だったのではないかと思えてきます。
①上賀茂神社は、山城の秦氏の氏神であること
②古代の秦氏王国と云われるのが豊前で、その中心が宇佐神宮であること
③瀬戸内海には古代より秦氏系の海民たちが製塩や海上交易・漁撈に従事していたこと
以上のようなことの上に、上賀茂神社の秦氏は、瀬戸内海各地に御厨を配置することで、独自の交易ネットワークを形成しようとしたとも考えられます。各地からの御厨から船で上賀茂神社へ神前に貢納物がおさめられる。これは見方を変えれば、船には貢納物以外に交易品も乗せられます。貢納物献上ルートは、交易ルートにもなります。それは「朝鮮・中国 → 九州 → 瀬戸内海 → 淀川河口 → 京都」というルートを押さえて、大陸交易品を手に入れる独自ルートを確保するという戦略です。この利益が大きかったことは、平清盛の日宋貿易からもうかがえます。そのために、清盛は海賊退治を行い、瀬戸内海に自前の湊を築き、航路を確保したのです。これに見習って、上賀茂神社は「御厨ネットワーク」で、独自の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしたと私は考えています。ここでは「御厨は漁撈=京都鴨社への神前奉納」という面以外に、「御厨=瀬戸内海交易拠点」として機能していたことを押さえておきます。
7仁尾
中世の仁尾浦復元図
 仁尾浦は、室町時代になると守護細川氏による「兵船」の動員にも応じて、「御料所」としての特権を保証されるようになります。
そのような中で事件が起こるのは1441(嘉吉元)年です。仁尾浦神人は、嘉吉の乱(嘉吉元年、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を拭した事件)の際に、天霧山の守護代香川氏から船2艘の動員命令に応じて、船を出そうとします。ところが浦代官の香西氏が、これを実力阻止します。そして船頭を召し取られたうえに、改めて50人あまりの水夫と、船二艘の動員を命じられます。そのために、かれこれ150貫文の出費を強いられます。さらに、香西氏は徳役(富裕な人に課せられる賦課)として、50貫文も新たに課税しようとします。

仁尾 中世復元図2
仁尾浦中世復元図

 これに対して「代官香西氏の折檻(更迭)」のため神人たちがとった行動が、一斉逃散でした。
そのため「五、六百間(軒)」ばかりもあった「地下家数」が20軒にまで激減したとあります。ここからは次のようなことが分かります。
①仁尾浦の供祭人は、守護細川氏の兵船動員に応ずるなどの海上活動に従事していたこと
②「供祭人=神人}の海上活動によって、仁尾浦は家数「五、六百軒」の港町に成長していたこと
③仁尾は行政的に「浜分」と「陸分」に分かれ、海有縄のような「海」を氏名とする人や、「綿座衆」などの住む小都市になっていたこと。
④守護細川氏の下で仁尾湊の代官となった香西氏の圧政に対して、団結して抵抗して「自治権」を守ろうとしていること
   最初に見たウキの神人に関する説明を要約すると、次のようになります。
①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並ぶ武装集団でもあったこと
②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されてこと。
③神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。
これは、仁尾浦の神人がたどった道と重なるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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中世の瀬戸内海の港町と船と船乗りを見ていきます。平安末期になると、神人・供御人(くごにん)制が形成されてくるようになります。海上交通の担い手である廻船人も、神人(じにん)、供祭人、供御人などの称号をもち、神・天皇の直属民として海上の自由な交通を保証され、瀬戸内海全体をエリアとして海・河での活動に従事するようになります。それは、人の力をこえる広大な大海原で、船を自由に操る廻船人の職能や交易活動そのものが、神の世界とかかわりある業とされていたからなのでしょう。今回は、平安末期から中世前期に登場する廻船(大船)についての史料を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
中世の廻船は、どのくらいの値段で取引されていたのでしょうか?
1164(長寛2)年、周防の清原清宗は、厳島社所司西光房の私領田畠・栗林六町を得た代価として、自分の持ち船である「長撃丈伍尺、腹七尺」を渡しています。つまり「6町(㌶)田畑・栗林」と「廻船」が交換されています。ここからは、廻船が非常に高価であったことが分かります。
 周防・安芸の海を舞台に活動していた清原清宗は、一方では「京・田舎を往反(往復)」する廻船人で、この船を手に入れた厳島の西光房も同業者だったようです。廻船は、大きな利益を生むために、高く取引されていたことを押さえておきます。

室津の遊女
法然が讃岐流刑の際に利用した廻船(法然上人絵伝 室津)

法然が讃岐流刑の際に乗船した大船は、田畑7㌶の価値があったことになります。この船を手配したのは、誰なのでしょうか。また、どこの港を船籍とする船なのでしょうか? そんな疑問も湧いてきます。それはさておいて、先に進みます。
 
 廻船の事例として、1187(文治3)年2月11日の「物部氏女譲状」を見ておきましょう。
この譲状には、紀伊の久見和太(くみわた)の賀茂社供祭人の持舟「坂東丸」と呼ばれる船が出てきます。(「仁和寺聖教紙背文書」)。「久見和太」の御厨は東松江村の辺りにあった可能性が強く,現在の和歌山市松江付近にとされています。「坂東丸」は1192(建久3)年4月には、播磨貞国をはじめとする播磨氏五名、額田・美野・膳氏各一名からなる久見和太供祭人の持ち舟となっていて「東国と号す」とされています。この船はもともとは「私領船」でしたが、持主の源末利の死後、後家の美野氏、山崎寺主、摂津国草苅住人加賀介等の間で、所有権をめぐって争いとなります。大船(廻船)は貴重なために、所有権を巡る争いも多かったようです。同時に、その所有権が移り替わっていく「動産」でもあったようです。また、ここに登場する賀茂社供祭人たちも、漁携民であるとともに廻船人です。彼らは坂東・東国にまで航海し、遠方交易にたずさわっていたことが史料から分かります。

当時の廻船人の社会的な地位がうかがえる史料があります。
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弘田神社(西宮市)
1250(建長2)年の、摂津国広田社の廻船人について、次のように記されています。
この廻船人は、社司・供僧以下、百姓等とともに、「近年、博変を好む」として禁制の対象になっています。そして、1263(弘長3)年4月20日の神祗官下文からは、廻船人について次のようなことが分かります。
①廻船人のなかに令制の官職をもつ「有官の輩」がいたこと
②有官の廻船人の罪については、供僧・八女(神社に奉仕し神楽などを奏する少女)と同じように特権が与えられていたこと
③廻船人が遠国で犯した罪科については、訴人がなければ問題にしないこと、
ここからは神人が官位をもち、世俗の侍身分に準ずる地位にあったことが分かります。廻船人は神人や、あるいはそれ以上の特権を与えられて、広く遠国にまで船で出かけて活動していたようです。廻船人をただの船乗りと考えると、いけないようです。船乗り達は身分もあり、経済力もある階層だったのです。

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 平安時代の武庫郡
1292(正応5)年閏6月10日、摂津の武庫郡今津の廻船人である秦永久の記録を見ておきましょう。
秦永久は東船江屋敷などの田地四段、所従七人とともに、小船二艘を含む船三艘を嫡子有若丸に譲っています。秦永久も武庫川河口近辺の津・船江に根拠をもつ廻船人であったようです。秦姓を名乗っているので、もともとは渡来系の海民のようです。武庫郡は祗園社の今宮神人や広田社神人を兼ねた津江御厨供御人とともに、諸国往来自由の特権を保証された武庫郡供御人の根拠地でした。秦氏がこれらの海民的な神人・供御人集団の一員であったことが分かります。
 秦永久が嫡子有若丸に譲った小船二艘は漁携用で、残りの一般が廻船に用いられた「大船」だったようです。ここからは、廻船人は天皇家・神社などによって特権を与えられ、廻船で広く交易活動を行う一方で、平安末・鎌倉期には、漁機にも従事していたことがうかがえます。

以上からは、古代以来の海民たちが、賀茂・鴨社の保護を受けながら漁撈を営みながら大船(廻船)をもち、瀬戸内海を舞台に交易活動に進出していく姿が見えてきます。ここで思い出すのが、「法然上人絵図」の讃岐流刑の際に立ち寄った播磨・高砂の光景です。

高砂
法然上人絵図 高砂

①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせます。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろします。法然が説法を行う建物の前は、すぐに浜です。当時は、港湾施設はなく、浜に船が乗り上げていたことは以前にお話ししました。そして、⑤⑥は漁船でしょう。一方、右側の⑦は幅が広く大船(廻船)のように見えます。そうだとすれば、法然に相談している老いた漁師も、「漁携民であるとともに廻船人」で、若い頃には交易活動にも参加していたのかもしれません。

兵庫湊
法然上人絵伝 神戸廻船廻船

 そういう目で「法然上人絵伝」に登場してくる神戸湊を見てみると、ここにも漁船だけでなく廻船らしき船が描かれています。海民たちは、漁撈者であると同時に、廻船で交易活動も行っていたことがうかがえます。
 古代の海民たちは、「製塩 + 漁撈 + 交易」を行っていました。
製塩活動が盛んだったエリアには、牛窓や赤穂、室津などのように中世になると交易港が姿を現すようになります。それは、古代の海民たちの末裔達の姿ではないかと私は考えています。そして、海民の中で大きな役割を果たしたのが、渡来系の秦氏ではないかと思うのです。
①秦氏による豊前への秦王国の形成
②瀬戸内海沿岸での製塩活動や漁撈、交易活動
③山城秦氏の氏神としての賀茂・鴨神社による秦氏系海民を神人として保護・使役
④豊前秦氏の氏神・宇佐神宮の八幡社としての展開と、八幡社神人としての海民保護と使役
 賀茂神社や八幡社は、もともとは秦氏系の氏神です。そこに、秦氏の海民たちが神人として特権を与えられ使役されたという説です。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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  柱島(はしらじま)は、安芸灘の南西に並ぶ柱島群島の本島です。北は倉橋島、江田島、南は屋代島とその属島、東は中島をはじめとする忽那諸島に囲まれ、これらの島々のちょうど真ん中にあります。今は岩国市に属しますが、中世末までは山口県大島郡に属し、南北朝のころは伊予の中島を中心とした忽那七島のひとつになっていました。当時の忽那七島は松山市の野忽那島・睦月島・中島・怒和島・津和地島・二神島と、周防大島郡の柱島で構成されていたようです。つまり、周防と伊予という国境を越えての「連合」になります。このように柱島の所属がいろいろ変わるのは、この島が陸からやってきた人たちによって開拓されたものではなく、「海民」の手によって開拓されたことに由来すると研究者は考えているようです。

この島は古くは、讃岐・仁尾と同じ京都賀茂神社社領のひとつでした。
賀茂神社は瀬戸内海に早くから進出し、多くの社領を持っていました。「賀茂注進雑記」によると、全国各地に42カ所を数える社領の中で瀬戸内海にあるものが次の16ケ所です。
播磨安志庄、林田庄、室塩屋御厨、備前山田庄、備後竹原庄、有福庄、伊予菊万庄、佐方保、周防伊保庄、矢島(八島)、竃戸関(上関)、柱島、和泉深日庄、箱作庄、淡路佐野庄、生穂庄

このほかにも「賀茂社古代庄園御厨」には、寛治四年(1090)年7月12日付文書に月供料として次の6つが記されています。
播磨同伊保崎・伊予国宇和郡六帖網・伊予国内海・讃岐国内海・豊後国水津・周防国佐河(佐合)・牛島御厨

この中ある周防の佐合島も牛島も小さい島です。それは後の弘安元(1278)年に讃岐・仁尾の蔦島が、同じように賀茂神社の御厨に指定されたのとよく似ています。こうした小さい島が御厨として寄進されたのは海産物の供進のためです。供物を採取・提供していたのが「供祭人」です。
「御厨供祭人者、莫卜附要所令中居住一之間、所じ被免・本所役也、傷櫓樟通路浜、可為当社供祭所・」

ここには「莫卜附要所令中居住一之間」とあるので御厨の供祭人が定住しないで海上漂泊をしていたことが分かります。柱島や蔦島も、そうした海人が漁業シーズンにやって来て漁労を行なった漁場の一つであったようです。
 これらの島の産土神が賀茂神社なので、御厨(みくろ)の海人が次第に島に定住するようになったことがうかがえます。そういう人たちの定住は、採塩の作業と結びついていると研究者は考えているようです。おなじ賀茂神社の社領であった八島・佐合島・牛島などにも、おなじように製塩跡がみられるからです。
 例えば上関島(長島または竃島ともいう)の蒲井には、山地の均等地割が見られるので、塩木山があったことがうかがえます。これは前回もお話ししたように、「海人が陸上がりして採塩した」ことを示すものです。
9柱島地図
 
その後の柱島をめぐる情勢を見ておきましょう
「柱島旧記」からは、室町後期には桑原氏がこの島の支配者になっていたことが分かります。桑原氏の先祖は、青山五郎兵衛といって備後田島の出身者のようです。その先祖は、芸予諸島・能島村上氏の御部屋(隠居分家)と記されています。つまり、備後の田島は、村上氏が地頭だったようです。ここからは桑原氏が、能島村上氏につながる系譜に絡んでいたことが見えてきます。
 初め青山五郎兵衛は倉橋島を拠点としていましたが「法体」となって柱島にきて、「辻本」を勤めたと云います。辻本というのは島の僧役を勤める者のようです。同時に、年貢を取り立て領主に納める役目を果たしています。その年貢が誰に納められたかは分かりません。しかし後には毛利元清に納めたとありますから、元清の所領になったこともあるようです。
9柱島と大島の西芳寺地図

 青山五郎兵衛の弟四兵衛は陶晴賢の小姓となっていましたが、厳島合戦に敗れて柱島に帰り、出家して僧となり、周防大島へ渡って森村の西方寺を創建したと記します。しかし、桑原氏系図(「萩藩閥閲録」)では、桑原五郎兵衛元国が、朝鮮侵略の後、森村に退隠して僧となり寺を建てたのが西方寺だとあります。
  一方、周防大島の森にある西方寺の「西方寺縁起」には、
桑原四兵衛が兄で、五郎兵衛は弟、厳島合戦に敗れて柱島に渡り、五郎兵衛は島司富永角兵衛の養子となり、四兵衛は森村に居住して西方寺を建てたとあります。どちらが正しいかは分かりませんが、備後田島から来た青山という者が、周防大島の桑原氏と姻戚関係を持ち、桑原氏が大島海賊の統領の一人であったことから、その配下に属して桑原を名乗ったと研究者は考えているようです。
9柱島地図拡大

 青山五郎兵衛との関係はよく分からないのですが、桑原杢之助という者が島司を勤めていたときのことです。
中富弾右衛門という者が杢之助を頼って来て島に住みついていまします。ところがこの男は、荒者で周りのものも手を焼くようになったようです。そこで、そのままにしておいては、どんなことを仕出すかわからないと、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったとき、杢之助の指図で大勢で討ち取ってしまいます。討たれた弾右衛門には、小次郎という子があり、能島の「海賊大将」の村上武吉に仕えていました。
 父が討たれたと聞いて、小次郎はひそかに桂島にやってきて、杢之助夫婦を夜討ちにします。そこで能島武吉は柱島を中富小次郎に与えたというのです。小次郎には子がなったので、末弟万五郎が跡を継ぎます。彼は、毛利元清に仕えた後に、柱島庄屋になっています。また、中富氏一族の者で桑原氏の跡をたて、桑原氏も庄屋を中富氏と交代で勤めています。
「柱島旧記」は江戸中期に中富氏一族の者が、口述と過去帳を頼りに書いたもので、叙述に混乱はあるようです。しかし、そのなかに信憑性のあるものもあります。この史料から分かることは
①桂島の支配者層は、島外から新しく来た者であり、武力で容易に島民を支配することができた
②支配者が、さらに強力な島外の勢力(村上氏)かに結びつくことによつて、その島が島外支配者の所領になった
こういう支配体制は平安末期にすでに、真鍋島・忽那島でも見られるので、瀬戸内海では珍しいことではなかったようです。その中で、柱島には古い住民の組織が残ったようです。その背景には島の製塩がありました。
9柱島砂浜


次に、桂島の製塩組織について見てみましょう。
柱島は柱十二島とよばれてきたように、次の12の島からなっています。
本島・端島・小柱島・続島。長島・フクラ島・鞍掛島・黒島・伊ケ子島(伊勢小島)・中小島・手島・保高島

近世初期までは本島に人が住んでいただけで、他は無人島でした。そしてその土地利用は
①黒島・伊勢ガ小島が、牧島(牧場)
②その他は桂島の揚浜塩田の「薪島」
でした。
『玖珂郡志』によると、
「柱島本屋敷四十五軒ナリ。御討入(中富弾正が)ノ後、田畠塩浜山ヲモ厚薄組合セ、割方有之。今以其通ニテ、夫ヨリ一カマチ(一株内)卜云。右四十五軒ノ内、内証不勝手二付テ、売方仕候連モ半カマチ迄、売ラセ申候。半カマチ過候テハ売方不レ被差免候由。悉ク売方候ハ勝手次第り本屋敷ノ者、一カマチノ内ヲ四分一計所持仕候テハ御役目不・得仕二一付テ也。但手島・ホウ高・端島・続島モ塩付ノ山配ノ内也。珂子屋敷四十五軒、内一軒歓喜寺、内一軒庄屋、内二軒両刀爾、内一軒山守、内一軒小触。右六軒現人差出ナシ。残九人役目相勤候也」
意訳すると
「柱島本屋敷には45軒の家があり、御討入(中富弾正が)の後は、田畠塩浜山を組合せて、均等に所持するシステムで運営してきました。今でもその通りで、この1単位を「一カマチ(一株内)」と呼びます。45軒の中で、経済的な困窮のために、売りに出すものもいますが、それは「半カマチ」までです。それ以上を売ることはできません。
 ただし、手島・ホウ高・端島・続島の塩付も「カマチ」に含まれます。45軒の内で歓喜寺、庄屋、両刀爾、軒山守、小触。右六軒は今は差出がありません。残九人役目で勤ています」
ここからは次のような事が分かります。
①塩焼(製塩)を行いながら、藩の水夫役を勤めていたこと
②「享保村記」には、何子屋敷四二軒の石高八石四斗は引石、すなわち無税になっていること。

同じ郡志には、次のような記述もあります。
「今津草津屋吉左衛門屋敷ハ、柱島船子、今津へ罷出候時ノ屋敷也。是ハ或時、船子、御用二付テ罷出、滞溜仕候処、誠、野伏体ニテ罷居中ヲ、今津ノ御一人被見付、御領ノ者雨露二触レテハ不相済候間止宿ノ場所支配可レ致トテ、日屋掛ノ所、今ノ草津屋々敷 支配有レ之候。然処二吉左衛門先祖、草津ョリ柱島へ罷越滞溜イタシ候。島中ノ者申様、今津ノ船子屋敷へ普請仕罷居候得バ此後船子御用二付テ罷出候時、宿二可レ仕候卜申談.草津屋、今津へ移居申候。依レ之何子御用二付テ罷出、吉左衛門処二滞留仕候テモ、宿銭卜申事ハ無レ之、今以其分ノ由也。」とある。
意訳すると
今津の草津屋吉左衛門の屋敷は、柱島船子たちが、今津へ出向いたときに使用する屋敷です。これは昔、船子が御用で出向いて、滞在しなければならなくなったときに、小屋掛けしたのが始まりです。今津の人がこれを見て、賀茂神社の御領の者が雨露に濡れているのは忍びないと、宿の場所を提供した所へ小屋掛けしたものです。今の草津屋敷は、このようにして出来ました。
 ところが草津屋吉左衛門の先祖が草津から柱島へやってきて、住み着くようになりました。島中の者がいうには、草津屋が今津の船子屋敷へ新たな屋敷を構え、その後は船子御用を申しつけられ、今津へ移居しました。これより「何子御用」について今津に出向いた際にも、吉左衛門屋敷に滞留しても、宿銭を支払うことはありませんでした。今以其分ノ由也。」とある。
ここからは次のような事が分かります。
①「船子屋敷」は桂島の船子たちが、今津に出向いたときの仮小屋だった。
②それを今津の者が小屋掛けをし、柱島の者が普請して建てた。
つまり、藩の制度として作れたものではないことが分かります。ここからも、桂島の島民が、陸の住人ではなく、「海民・海人」の流れをくむ人たちであったことが分かります。

それでは島に42軒の家のあったころは、いつごろなのでしょうか
それは慶長検地の時と、研究者は考えているようです。
寛永三年検地のときは「屋敷四五軒共」とあります。そこには庄屋・寺・刀爾なども含まれているので、寛永よりさらにさかのぼった時代と考えられます。そして家が増えていっても、船子屋敷として石高を免ぜられたのは「四二屋敷」で、その屋敷の広さは一戸当り三畝でした。この屋敷はもともとは慶長以前から受け継がれてきた揚浜塩田でした。慶長当時に分割したものではありません。それ以前からこの島に住む者が、分家する時には、均等に三畝ずつの塩田を与えられたようです。その中でも、寺は倍の六畝です。そして、刀爾といえども屋敷の広さは三畝で、一般百姓と同じです。
 ここからは「四二軒」の人たちは、海から島上がりして定住したものの子孫だと研究者は考えているようです。これらの人々は、漁民として網漁も行なっていました。
それは先ほど見たように
「島にやって来た暴れん坊の中富弾右衛門を、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったときに討ち取った」

という記述からも分かります。
また、享保九年(1724)に、桂島には
「六端帆1隻、三端帆11隻、十二端帆船1隻」

の船がり、あると記されています。十二端帆というのは大きさから見て船曳船で地引網漁に使われていた船と考えられます。ここからもこの島が、網漁の島であったことが裏付けられます。網漁業を行なうためには網代が必要になります。地曳網ならば、どうしても船を寄せる島または海岸が必要です。柱島島民は周囲の島々に網代を求め、同時にそこへ占有権を確立していったようです。
このようにして桂島の海民達は、周囲の島を属島にしていきます。
それが製塩の「薪島=塩木島」としての利用にもつながるようになります。一つの島を中心にして無人島を11も属島に持つということは、瀬戸内海にも珍しい例のようです。それは、もともとはこの島が網漁業の島であることを物語るようです。百姓島ならば薪島を1つや2つは持っている例はあります。しかし、桂島のように広域にわたって島を持つ例はあまりありません。

柱島は近世に入って岩国藩に属することになり、その海上生活技術が買われて岩国藩の何子(船子)役を仰せつかったようです。
 桑原氏が、この島に来住したころから、忽那七島の連合体から離脱していきます。桑原氏の厳島合戦参加とその敗北がひとつの契機となって、島民が武器を捨て、完全に生産民化していきます。「柱島旧記」にも、桑原氏が持っていた刀を林某に与えて、武士ををやめた記事があります。
 岩国藩の何子(船子)になっても、操舟技術と労力を夫役として藩に提供する立浦式の船子にすぎなかったようです。岩国藩には、安芸浦から今津に移った水夫が別にいました。それらは足軽の資格を持ち、扶持五石を与えられ武士の下層に属していました。桂島の支配者達は、生産民の道を選ぶしかなかたのです。

 柱島は慶長検地の行なわれた時に、山林および農地の割替が行なわれ42等分されます。さらに寛永三年の検地の時のことを「享保村記」は、次のように記します
「田畠塩浜トモニ厚薄組合セ、本屋軒四五軒二分配、山ヲモ塩浜二応ジテ夫々分割方被仰付申タル也、付田畠塩浜井二山ヲ軒別へ割付被下候、尤一軒別ノ割方ヲ一トカマチト島人イヘリ」
意訳すると
田畠や塩浜を組合せて本屋軒の45軒に均等分配した。山も塩浜に応じて、それぞれ均等に分割した。田畠・塩浜(塩田)並びに、山を一軒毎に均等分割し、その一軒の単位を「一トカマチ」と島の者は云う」

ここからは慶長・寛永の江戸時代初期に「田畑+塩田+塩木山」を45軒で割って、均等に分割したことが分かります。
ここからは桂島の当時の人たちが「構成員の平等性・均等性」に、価値観を置く集団であったことうかがえます。これは、陸の人間の発想にはない「海民」の価値観です。
船乗りとして、東シナ海を荒らし回った倭寇軍団の組織原理の中にも見られますし、村上水軍の規範意識の中にも見えます。それを、海からやって来た桂島の人たちは受け継いていたことを示すと研究者は考えているようです。

この島の塩浜は揚浜で、総面積は三町五反二八歩です。
塩田の枚数は、北浜14枚、長浜3枚、中浜・西浜46枚で、合計63枚で、島の周辺全体に分布していました。浜に赤土をたたきつけて塀のように塗り、その上に砂をまき、潮を打って日にさらします。塩屋は23軒しかありませんから、一枚一軒の制ではなかったようです。
人口増加と土地不足に、どのように対応したのか?   
寛永三年の割替の後は、土地割替は行われていませんので、本家四五戸の株は固定しました。しかし、製塩が順調に発展すると戸数は増えます。寛文年間(1661~)のころには108戸に増えています。そして、飽和状態になり享保1年(1777)年には、89戸に減っています。
 こうして増えた家は間脇(分家)とよび、本家に附属する家として、独立した一戸とは見なされなかったようです。しかし、実際には屋敷・耕地なども同じように分けたために、分家を出すためにその家の土地所有は細分化されます。この結果、土地所有の「階層分化」がおきます。しかし、それは農村部のように有力な者が耕地を買い集めた結果の階層分化ではありません。そのため大土地所有者は、島には現われません。
 このような人口増加や分家問題、ひいては土地不足に対して、取られた方策が移民です。
文政13(1830)年、黒島ヘの分村移住が始まります。その際にも、徹底した土地の平等分割が行われています。このように、柱島に住みついた海民たちは「均等性」を求めるのです。上にたつ支配力があまり強くなかったためか、後々まで引き継がれていったようです。柱島は江戸時代には外からの刺激が少なく、生産条件が、農業主体とならず、漁業と製塩に重点をおいたことで、中世以来の古い構造を残したとも云えます。

これと対照的なのが、隣島の端島です。
 
9柱島と端島

端島は柱島の属島ですが、ここを開いたのは柱島島民ではありませんでした。明暦4(1659)に、能美島大原の農民・安宅又右衛門の一族が、やってきて6軒の家を建てて住み着きます。その後、開墾も進み、享保12(1727)年には、石高80石余りになり家屋数も23軒に増えています。
しかし、この島が目指したスタイルは柱島とはちがいます。
この島に移住したのは農民で、農民の性格を強く持っていました。耕地は平等分割されず、未開地を開墾できるだけの力のある者が、本家から分け与えられた土地を併せ持って分家します。そのため耕地をひらくことのできない家は、分家することもなく、叔父坊主と言って、兄の家で働きつつ一生を終わったようです。したがって、 一家の家族員は7、8人が多く、10人を超えるものも数多くあったことが残された戸籍から分かります。
 そして習俗を異にする、桂島の通婚も少なかったようです。島が小さく、その上、南半のミカベ山が柱島の塩木山で、柱島民によって四五に等分せられていたため、そこに入りこみ開墾することも許されません。「享保村記」には、船はわずかに一隻あるだけで、それも漁労用ではなく、島外との連絡に用いられているにすぎなかったと記されます。海に出て、漁を行うという姿勢は 、端島には明治になるまで見えません。
 この二つ島の違いをどう見ればいいのでしょうか。
並んだ近隣の島で、地理的条件が似ていても、生産方法や社会構造が似てくるとは限らないことが分かります。そこには、主体となる人間集団の価値観や理念も関わってくるようです。それは「新大陸」と呼ばれるアメリカ大陸でもラテン世界とアングロサクソン世界では、その後の発展過程が大きく違っていくのと同じなのかもしれません。
 海上生活から陸上がりした「海民」が、製塩や農耕に従った島嶼社会には、柱島と相似た現象がみられると研究者は指摘します。これが庄内半島や塩飽・直島・屋島・小豆島などの中世揚浜塩業が行われた地域にも当てはまるのかどうか、今後の課題となりそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

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