瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:修験道

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西行 (1118-1190) は、平安時代末期の人で、歌人として知られています。
 もともと武家の生まれで、佐藤義清という本名を持つ西行は、朝廷警護の役人として鳥羽院に仕えていました。武芸はもちろん、和歌にも秀でていた若者だったようです。それが23 歳のときに突然出家・隠者します。出家後は京都周辺や高野山などでの修行生活を送ります。また、東北・四国など全国各地を放浪する旅に出て、行く先々で西行伝説が伝え残されるようになります。彼の和歌は、勅撰和歌集にもたくさん入集し、自撰歌集(『山家集』)も有名で、歌人として後世の人達からも支持されてきました。そのために、風雅の人として、和歌の才能を備えた人物という評が一般化し、宗教人としての西行の存在が取り上げられることはあまりありません。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
西行

 西行は、高野山で修行し、勧進僧として生計を立てていたことを以前にお話ししました。
西行の旅も、後の芭蕉のように作品作りのためではなく、勧進のため、仕事のための旅であった研究者は考えるようになっています。今回は、西行が吉野山で修験者としての活動も行っていたことを見ていくことにします。

西行が高野山に住むようになったのは1149年(32歳)の時からのようです。
当時の高野山は、祈祷の密教的な法力を得るためにも修験的修行は不可欠とされていました。そのため高野山の僧侶の中にも修験を行うものもたくさんいました。西行は、遅ればせながら、自分も修行してみたいと思ったようです。空海の修行などを絵図で見ると、ひとりで修行を行っています。しかし、修験者集団を見ると分かるように、先達という山伏が集団を率いて指導するのが一般的です。何の作法も知らずして山に入っても修行にはなりません。守るべきことや作法は、先達から手移し、口移して伝えられていきます。
 天台宗には今も「千日回峰」というのがあります。修験道は、山に登ること自体が修行であり、滝に打たれ、川の中に入って、心身共に解脱させるのだから、きびしい修行になります。

新解・山家

『西行一生涯草紙』には「大峯入山」と題した一章があります。

そこには、西行の修行に至る経過が次のように記されています。

  大峯に入らんと思う程に、宗南坊、「入らせ給え」、大峯の秘処どもを拝ませ申すべき由、申されければ、悦びて、入りたりける。

意訳変換しておくと

大峰山で修行を行いたいと思っていると、宗南坊という修験道の先達が「それでは、一緒に行くか、大峰山の秘かな霊地や行場を拝ませてあげよう」と、快くすすめてくれたので、「悦んで」入山した。

ここからは高野山の僧侶を先達に、何人もの人達が集団で大峯山での修行に、柿渋を塗った紙の衣に着替えて向かった経過が分かります。
 修験道は邪念を排除して、精進潔斎に徹するのが修行です。そのためにはなによりも体力が必要でした。しかし、西行には体力に自信はありません。そこで人山に際して、先達の宗南坊に次のような注文をつけます。
「とてもすべてをやり通せないかもしれないので、何事も免じて下さるなら、お供したい」

と嘆願しています。それにで宗南坊が何と応えたかは記されていません。
入山後のことを『古今著聞集』に、西行は次のように記します。
宗南坊に頼んだのに、行法は容赦なく、きびしかった。一緒に行った人たちよりも痛めつけられた。そこで涙を流して云った。
「我はもとより苦行を求めたわけでも、利得を願おうとするものでもない。ただ、結縁のためとだけ思って参加した。それに対して、この仕打ちはひどい。先達とはこうも船慢な職だとは知らず、身を粉にして、心をくだくのは悔しい」
それに対して、宗南坊は次のように云った。

「修行する上人は、みな難行苦行してきた。木を伐り、水を汲み、地獄の苦しみを味わうこともある。食べるものも少なくして、飢えも忍ぶこと、餓鬼のかなしなも味わうこともある」

「結縁」とは「ケチエン」と読むようです。仏道に入る機縁をつくることです。西行が参加したこのときの修行は「百日同心合力」で、同行の修行者と行動を共に、百日間を生き延び、修行を重ねるものでした。西行は、説教されて、
「まことに愚痴にして、この心知らざりけり」と悟ります。
「この苦行に懲りて西行は、二度と修行に参加しませんでした」と思いきや、そうではなかったようです。西行はその後も何度も、吉野山や熊野の山路を歩いています。修験道の荒行の中に、何かを見いだしたようです。

大峯山修験者行場
大峯山 行場配置図

 大峯山での修行は、行場が決められていました。  
 山上ヶ岳の頂上での「覗き」の修行は、絶壁の上から綱で身体を支えて祈祷する命がけのもので、今でもおこなわれています。修験道は、この大峯山の南北の山稜を修行の場として、谷底の川では、「水垢離」と称して、裸体のまま身体をひたし、滝があれば「みそぎ」と称して、裸体を落下する水に打たせ、心身解脱の境地に徹します。
西行は、この修行のことを、次のような歌に残しています。
御岳よりさう(生)の岩屋へ参りたるに、

露もらぬ岩屋も袖はぬれけると
聞かずばいかにあやしからまし
大峯山 笙の窟
大峯山 笙の窟
  「笙ノ窟」は大峰七十五靡(なびき)の62番目の行場で、「役の行者」の修行したところと伝えられています。そのため平安時代から名僧・知識人が数多く参籠修行しています。この窟は、修験者にとっては最も名高い聖地であったようです。そこに、西行も身を置いて修行しようです。

西行絵巻物物語
西行物語絵巻 笙の窟で修行する西行

大峯山での「百日同心合力」を記した『西行一生涯草紙』には、行場の地名は書かれていますが、歩いた順路で書かれてはいません。「山案内記ではなく、歌集」なのです。歌心が主で、山行案内のために書かれた文章ではないのです。「深山の宿」「千草の岳」「屏風ヶ岳」「二重ノ滝」「仙の洞」「笙の岩屋」という順にでてきます。これは、線では結べません。
八経ケ岳
八経ケ岳
「千車の岳(八経ケ岳)」では、紅葉を歌にしています。
分けてゆく色のみならず木末さへ
千草の岳は心そみけり
修行も半ばを過ぎ、きびしさにも馴れてきたのでしょうか。木々が色付いていく姿を眺める心境がうかがえます。
大峯山の修行のハイライトは「行者還り」だったようです。
「行者還り」は、山上ヶ岳から南へ約1日の行程で、1546のピークですが、その手前の稜線が起伏のはげしい試練の山路です。
『山家集』については、次のように記されています。
行者還り、稚児の泊りにつづきたる宿なり。春の山伏は、屏風立てと申す所を平らかに過ぎんことを固く思ひて、行者稚兒の泊りにても思ひわづらふなるべし。

屏風にや心を立てて思ひけむ
行者は還り稚児は泊りぬ

南の熊野の方から登ってきた行者たちのなかには、ここから戻った(還った)者もあったようです。
『古今著聞集』には「西行法師難行苦行事」と書かれているのは、このあたりのようです。この前文に「春の山伏は」とあります。ここからは、修行は春から「百日」の修行だったことがうかがえます。

千手滝(北山川)~奈良 吉野 大峰 前鬼三重滝【場所 アクセス・行き方 詳細】 | 〜水の秘境〜
三重ノ滝
 『山家集』の歌には、「三重ノ滝を拝みける」とあるので、もっと南の上北山村の方まで行っているようです。三重ノ滝は「前鬼の裏行場」とよばれる大峯山脈の東側の谷間にあります。滝は「垢離取場」の奥で、ここへゆくには、釈迦ヶ岳から5時間ほど下らなければなりません。
『西行一生涯草紙』は、このときの心境を次のように記します。、
三重ノ滝を拝みけるこそ、御行の効ありて、罪障は消滅して、早く菩薩の岸に近づく心地して、人聖明上の降伏の御まなじりを拝み、
身に積もる言葉の罪も洗はれて
心澄みける三かさねの滝

「みかさね」は、上中下―3つの滝の形容で、滝はそれを浴びて瞑想する「みそぎ」の場です。「垢離」とは心身の垢を落として浄めることです。このあと、「笙の岩屋」へ行っています。その途中にあるのが「百二十の宿々」です。西行は大峯山脈の稜線の方から東へ下って、この滝で修行しています。
大峰山の聖地深仙で修験のまねごとを | 隠居の『飛騨の山とある日』
大峯山 深仙の宿
その証拠に、釈迦ヶ岳の南にある「深仙の宿」で、夜の感慨を詠っています。
大峯のしんせん(深仙)と申すところにて、月を見て詠める。
深き山に澄みける月を見ざりせば
思ひ出もなき我が身ならまし

嶺の上も同じ月こそ照らすらめ
所がらなるあはれなるべし
月という存在を、改めてありがたく思っています。西行が「月」に格別な思いを抱きはじめたのは、この大峯修行のときからと研究者は指摘します。それまでは、それほど月は心に食い入らなかったというのです。
「笹の宿」では、次のように詠っています。
庵さす草の枕にともなひて
笹の露にも宿る月かな
ここでは秋の月を讃えています。
修行で野宿をすれば、月が唯一のなぐさめとなります。「西行の月への開眼は大峯修行の中で生まれた」と研究者は指摘します。百日つづいた修行は、季節も春から初夏へと移っていきます。旅も終わりに近づいたようです。
小笹の泊りと申す所に、露の繁かりけれぎ、
分けきつる小笹の露にそぼちつつ
ほしぞわづらふ墨染の袖
ここまでやってきた、墨染の袖の汚れに、改めて気づいたようです。
露もらぬ岩屋も袖は濡れけると
聞かずばいかにあやしからまし
この岩屋とは、思い出に残る笙の岩屋のことでしょう。山腹に深くえぐられた巨大な穴、風雨はしのげる自然の洞穴はひろく深い窟。西行も、ここで生命を終えてもいい、と思ったようです。後世に書かれたものを読むと、西行はこの修行でひどく疲れたようです。しかし、先達はそれも許してはくれません。

「心ならず出て、つらなりて、行く程に、大和の国も近くなりて…」里へ出てしまった。それまで

心ならずも同行の人々と一緒に山を下ります。大和国の里が近くなり別れが近づいたとき、皆泣き出した。そのとき作ったのが、次の歌です。
去りともとなほ逢ふことをたのむかな
死出の山路を越えぬわかれは
「百日修行」の同行者は、何人いたのでしょうか。「きびしい修行はさせないでほしい」と最初は嘆願していた西行でした。それが結果として、修験道の真髄を知ったようです。『西行物語』では、大峯修行の話は載せていません。しかし、それより古い『西行一生涯草紙』では、最後に修験道の功徳について、次のように記します。

先達の御足を洗ひて、金剛秘密、座禅人定の秘事を伝え、恭敬礼拝の故に、安養浄上の望みを遂げなんと覚え、おのおの柿の衣の袖が返るばかりに涙を流して、故り散りになる暁、「ぬえ」の鳴きける声を心細く聞きて、
さらぬだに世のはかなきを思ふ身に
ぬえ鳴きわたるあけぼのの空
「ぬえ」とは夜になると、不気味な声で鳴く鳥で正体不明の生き物とされていました。人間の口笛のようでもあり、夜の森の中で聞くと、さびしさが極まる声です。百日の修行をした最後に、この鳥の声を聞いて、ふたたび浮き世に戻ってきた気持を表現していると研究者は評します。ちなみに、鵺(ぬえ)は、トラツグミで今は正体も分かっています。
「山家集」には、大峯での修行の際に作られた歌がかなり載せられています。
しかし、それが何歳頃のことかは分かりません。大峯山は吉野山の南につづく山稜です。先に大峯で修行します。その結果、北側の吉野山を再認識したようです。西行にとって大峯山は修行の場でしたが、吉野山は後に庵をつくって住む安住の地となります。

以上をまとめておくと
①1149年 西行は32歳で高野山に住んで、高野聖として勧進活動に従事した。
②高野山の密教修験者を先達とする、大峯山で修行に参加することになった。
③これは大峯山の行場を南から北へと抜けて行くもので「百日同心合力」とよばれる行であった。
④初めは厳しくで弱音を吐いていた西行は、次第に克服して修験のもつ魅力を感じるようになった

以上のように、西行は「高野聖 + 勧進僧 + 修験者 + 弘法大師信仰」を持った僧侶であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  岡田喜秋 西行の旅路 秀作社出版 2005年


        河合曾良の「生業」は何だったか(3)―修験者(山伏)としての可能性は – 不易流行の世界 ―柳キジの放浪記―
修験道の祖 役行者

修験者はさまざまな呪的な技能、技術を身につけていました。
修験者の持つ修法類は、符呪を始めとして諸尊法、供養法、加持など多岐にわたります。しかし、分類すると治病、除災に関するものが圧倒的に多いようです。ここからは、修験を受け入れる側の人々は、病気や怪我などの健康問題の解決を第一に求めていたことがうかがえます。修験側もそれに答えるように、「験」を積み呪的技能、技術に創意と工夫をこらしてきたのでしょう。修験の行う符呪や呪文・神歌・真言の唱言、加持祈蒔のよううなマジカルな方法だけでなく、施楽=薬物的治療の道も開拓していたようです。そういう意味では、修験者は薬学、医学的知識をもって病気治しに従事していたと云えそうです。今回は修験者と製薬との関係を見ておきたいと思います。テキストは「菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」です。
研究者は、修験者の病気治しを日本の医療史、薬学史の側面からの位置づけます。
その中で古代の禅師、中世の高野聖など修験道につながる民間宗教者が、製薬・医療知識を持っていたこと、さらにその経済活動として製薬などの医療行為を行っていたことに注目します。例えば「狩猟者と修験との同一性」という視点からは、狩猟者が捕らえた獲物から薬を作る姿が見えてきます。そして、修験道系の宗教者が狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に病人に与えています。これは「呪医」と狩猟者兼修験者が重なる姿です。

北多摩薬剤師会 おくすり博物館 ジェネリック(GE)篇(その8)
熊の肝臓は高級漢方でした

日本の伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、修験者にたどりつくようです。
それを全国的に北から南へと見ていくことにします。
  東北地方では
①葉山修験の影響下にあった山形県上山市の葉山神社はすべての病気を治すといわれた。永禄年中(16世紀中期)の悪疫流行の際には、修験者がこの山の薬草によって、人々の命を救ったと伝えられます。
②出羽三山奥の院・湯殿山の霊湯の湯垢を天日で乾かして固めたものは、万病の薬になるとされ、山伏たちが霞場に配って歩いていました。
③出羽三山修験、とくに羽黒修験が携帯する霊石「お羽黒石」は、中国古代道教で重宝された神仙薬「㝢餘糧」「太一㝢餘糧」でした。ここからは羽黒修験が製薬などの技術もっていたことがうかがえます。

禹余糧 - TCM Herbs - TCM Wiki
㝢餘糧
  関東地方では、埼玉県秩父地方の三峰山で「神教丹」が販売されていました。現在でも三峰神社では、次のような漢方が販売されているようです。
胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。陀羅尼助には、医薬品でもあるオウバク(黄柏:キハダ)が含まれていいます。エンメイソウ(延命草:シソ科ヒキオコシ)は、行き倒れにあった人を引き起すくらい苦くて、起死回生の妙薬とされます。また、日本三大民間薬と言われるセンブリ(当薬)も陀羅尼助に入れられ薬草です。千回振っても、お湯で振り出しても苦さが取れないことから、この名がつけられたといいます。その他には、ゲンノショウコ(現の証拠:フウロソウ科ゲンノショウコの全草)もあります。これら薬草に共通するのはいずれも「非常に苦い」ようです。「良薬は口に苦し」といわれる由縁かも知れません。そして効能が胃腸薬に関するものであることです。どちらにしても、我が国では消化器疾患に有効な薬草が好んで使われているようです。三峰山は、霊山で行場であると同時に、これらの薬草の宝庫でもあったようです。今でもオウバク(黄柏:キハダ)
が数多くみられるようです。

百草とは? | 長野県木曽 御嶽山の麓で胃腸薬「御岳百草丸」を製造販売している長野県製薬の公式サイトです
キハダ(オウバク) 

北陸地方では、富山県の製薬・売薬が「富山の薬売り」として有名です。
冨山の製薬も、そのルーツは修験者にあるようです。越中には立山を中心とする修験者の売薬活動があり、「立山権現夢告の薬」が立山詣でのお土産として信仰を介して広がります。現在、数多くみられる富山売薬由緒書は、立山修験を背景とした修験の唱道文の名残と研究者は考えています。
Amazon.co.jp - イラストでつづる 富山売薬の歴史 | 鎌田元一 |本 | 通販

富山県西部の砺波平野の里山伏は、農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。
符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていたようです。次のような薬が里山伏系の寺社で販売されています。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
富山県/富山県の有形民俗文化財

野尻村法厳寺の薬は神仏分離後に真宗等覚寺に伝授されます。また同村の五香屋の「野尻五香内補散」のルーツも修験に求められるようです。このような製薬・売薬ばかりでなく、修験は医業にも携わっていたようです。例えば川合家(旧円長寺)は医者となり、また上野村養福寺上田家は19世紀初頭、第六代勝竜院順教の頃から開業医となっています。

1855年(安政2)の「石動山諸事録」には、石動山修験の売薬について次のように記されています。
一、旦那廻り与云相廻中寺有之、壱軒米壱升宛貰、三月等祭礼ニハ寺江行賄二預ル、宿料不出、又薬二而も売候得ハ、壱ケ寺拾両も入、越中杯ハ弐拾両斗も受納之寺有之事
一、石動山より売出候薬ハ、五香湯壱服四十文・万金丹壱粒弐文・反魂丹壱粒壱文・五霊散眼薬二而(後略)
(多田正史家文書、鹿島町史編纂専門委員会 1986年)
意訳変換しておくと
一、得意先の旦那廻に出かける修験は、定まった寺に宿泊した。一軒から米一升をもらい受け、三月の祭礼の時には寺で賄いを受けるが、宿料は無料であった。また薬も販売し、ひとつの寺で十両も売れた。越中では二十両も売れた寺もあった。
一、石動山修験者が売出している薬は、五香湯一服40文・万金丹一粒2文・反魂丹一粒一文・五霊散眼薬である(後略)

ここからは、「旦那回り」に出る修験は、 一軒一升のコメを貫い受け、祭礼時には無料で宿泊歓待を受けています。それだけでなく、旦那廻りのついでに売薬活動を行っています。その稼ぎも、10両から20両というのですから高額です。この現金収入は、定着化した里修験にとっては重要な収入源になったでしょう。製薬・売薬が、修験の生活を支えていたことがうかがえます。
富山の売薬にまつわる歴史伝承、反魂丹(腹痛薬)、先用後利(配置家庭薬)、おまけ(土産、進物)、とは(2010.4.14): 歴史散歩とサイエンスの話題
冨山の薬売り(修験者の痕跡がうかがえます。)

明治の神仏分離以降も、製薬・売薬の技法は受け継がれ、石動山修験宝池院の末裔である宝池家では「加減四除湯」「和中散」「退仙散」などの秘伝薬が伝えられていたようです。二蔵坊の後裔である広田家には、1882年(明治15)「紫胡枯橘湯」「清肺湯」「加味三柳湯」など多くの薬の製法、成分、効能書「医要方一覧記」が残されています。
池田屋安兵衛商店でレトロな漢方を買ってきた!in 富山 – Wakutra

 先ほどの文書中に出てくる「反魂丹」は、石動山修験の売薬の中でも「富山の薬売り」を代表する薬だったようです。「富山の薬売り」に立山修験のほか、石動山修験が何らかの関わりをもっていたことがうかがえます。
北陸の修験といえば白山修験ですが、冨山の売薬との関係は、よく分からないようです。ただ白山修験の山伏である越前馬場平泉寺の杉本坊も、丸薬を売り歩いていたようです。その他の白山の修験者たちも製薬、売薬に携わっていた可能性が高いと研究者は考えているようです。
富山の薬屋さん (北陸旅#3) - 気ままに

次に近畿地方をみてみましょう。
伊勢野間家の「野間の万金丹」は、朝熊麻護摩堂明王院に起源するため「明間院万金丹」とも呼ばれていました。やはり修験系統の製薬、売薬です。この「万金丹」の名は、「石動山諸事録」にもでてきます。修験の間で、さまざまな技術、知識の交流があったことがうかがえます。
楽天市場】【指定医薬部外品】伊勢くすり本舗 伊勢ノ国 萬金丹 450丸入 1個(1瓶) まんきんたん 万金丹 和漢 バンキョードラッグ 万協製薬 :  バンキョードラッグ 楽天市場店

 「万金丹」は、滋賀県甲賀郡甲南町下磯尾の小山家でも伝来されています。これはこの地の飯道山修験が朝熊岳護摩堂明王院の勧進請負をやっていることから、修験間で製法の伝授があったと研究者は推測します。
 近世の甲賀地方は製薬、売葉の盛んな地域で、近江商人の売薬は富山の売薬とともに、全国に広がっていました。
「神教はら薬」や「赤玉神教九」「筒井根源丹」という家伝薬は、いずれも神威に関わっていました。その中の「神教はる葉」は、多賀不動院の坊人が多賀大社の布教で諸国巡札した時に持参した土産物とされます。それを後に坊人が甲賀(甲南町周辺)に移り住んで甲賀山伏となって宣伝したものだと伝わります。小山家には、「万金丹」とともにこの「神教はら薬」が伝えられています。
第3類医薬品】陀羅尼助丸 分包 27包袋入り | 吉野勝造商店 | 胃腸薬

近畿地方の修験と薬を考えるなかで、「陀羅尼助」は大きな意味を持つようです。
「陀羅尼助」は、吉野大峰山に伝わるもので、大峰開祖の役小角が吉祥卓寺で作り始めたとされます。これは、修験道の祖が製薬に関わっていたことになります。この薬は、胃腸薬でのみ薬ですが、打撲傷や眼病などの外用にも使われ、まさに万能薬としての名声を得ていたようです。後には、大峰山以外の高野山や当麻寺などでも製造されるようになります。
最後に九州です。
福岡県の英彦山修験が万病の薬として「不老円」を処方して、檀家詣りの際には持ち歩いていたようです。
豊刕求菩提山修験文化攷(重松敏美編) / 氷川書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

また福岡県の求菩提山修験が製薬、および治療に関わり、「神仙不老丹」や「木香丸」などの薬を販売していたことは有名です。
求菩提山修験の修法については『豊務求菩提山修験文化政』に詳しく報告されています。そのなかには「医薬秘事、秘伝」として次の薬の調合書、医学書が収載されています
①「求菩提出秘伝」
②「望月三英、丹羽正伯伝」
③「求菩提山薬秘伝之施」
④「灸」
ここからは、求菩提山修験が製薬に関わっていたことが分かります。
②「望月三英、丹羽正伯伝」の中には、幕府の触書をそのまま書写されています。ここからは修験者たちが様々な知識を吸収し、それを活かそうとしていたことが次のように記されています。

もっと知りたい福岡修験道と薬 ~求菩提山の事例を中心に~ - アクロス福岡

例えば3種の医学書には、それぞれ32例(求書提出秘伝)、20例(「望月三英、丹羽正伯伝」、21例(「求菩提山薬秘伝之施」)、合計73例の薬の調合、治療法が記載されています。そのなかに、薬の加工過程で行われる「黒焼き」と呼ばれる方法が記されています。
 例えば「求菩提山秘伝」では、「雷火のやけどに奇薬」として次のように記されています。
「鮒を、まるながら火にくべ黒焼にして、飯のソクイにおし交てやけどの処につけ ふたに紙を張りおくべし」

ここからは、フナを黒焼きにしてやけど薬として用いていたことが分かります。
「求菩提山秘伝」には、31例中8例、「望月三英、丹羽正伯伝」には20例中2例、「求菩提出薬秘伝之施」には31例中3例の黒焼きの加工法がでてきます。この黒焼きという技法は、皇漢医学や庶民が行なっていた民間医療にもみられるので、修験独自の加工法とはいえませんが、修験製薬の重要な技法の一つであったことは間違いないようです。
  とらや製薬(株):和歌山県製薬協会
  修験と製薬活動のかかわりについて見てきました。
修験者たちは農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動に、深く関わっていました。その関わりを深める中で、里修験として村社会への定着化がが行われたようです。そのプロセスを示すと次のようになります。
①スタートは宗教的な権威を背景にして、自分たちの得意とする儀礼や信仰といった観念世界から村社会に接近。
②修験者が持っていた実用、実利的な技能、技術を提供することで「役に立つ人間」と村人から認識されるようになる
③農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動のリーダーとなり、指導的な地位を確立
宗教的な指導者であるばかりでなく、現実生活に役に立つ知識・技能を持っていたことが大きな力となったと研究者は考えているようです。
役に立つ技術の一つが製薬、売薬の技術でした。
医者、薬剤師としての姿は、修験者が人々の生活のなかに浸透していく上で有効に働きます。その他にも修験者には、次のような側面を持つことが明らかとされています。
①芸能や口承文芸の形成、伝播に関わった遊芸者としての姿
②市に結びつく商人としての姿
③鉱山を開く山師としての姿
 中世から修験者は、このような経済活動と関わっていて、さまざまな技術や知識を持っていたようです。それが里修験化の過程で、在地の技術、知識、本草学、皇漢医学など、その時代の先端の知識、情報を吸収することで、その技術を再編成し、適応の幅を広げていったと研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」

金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

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丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
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真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

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金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
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大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

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琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
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大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
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象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

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 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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