瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:修験道と山岳信仰

 修験道は、里人のお山信仰と深くつながっていたようです。今回は、修験と里人のお山信仰を比較しながら関連づけて行くことにします。テキストは   宮家準 修験道とお山信仰 修験道と日本宗教所収です 
◇ 蔵出し品 明治期頃 山岳信仰 「大峯山 曼荼羅」 彩色印佛 軸装品 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版
大峰曼荼羅

 修験道には、お山を曼荼羅ととらえる世界観があります。
平安時代初期に成立した『大峰縁起』の中には、次のような仏教聖界が説かれます。
①吉野から熊野に到る大峰山系の吉野側が金剛界曼荼羅、
②熊野側が胎蔵界曼荼羅
③大峰山の峰々に金剛界、胎蔵界の各部の諸尊が配置
 胎蔵界という言葉から分かるように、お山を「母なる山」とし、そこで修行することによって再生するという宗教思想がすでに生まれていたことが分かります。
絹本著色熊野曼荼羅図(西明寺)/甲良町ホームページ
熊野曼荼羅

密教の教義では、曼荼羅は宇宙そのものを神格化した大日如来、すなわち宇宙の全体像をさすものとするようです。
この視点からお山を金剛界、胎蔵界の曼荼羅ととらえる「宇宙山」の思想が生まれます。宇宙山は世界の中心軸をなす黄金の山で、吉野の金峰山が国軸山、金の御岳と呼ばれるようになります。
しかし、これはすでに行者達によって存在していた山中他界観を密教の立場から説明したものに過ぎないように私には思えます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰(その1) 【寄稿文】 福江 充」 | ZIPANG-2  TOKIO 2020

 日常の世界とは違う「他界」としてのお山を捉え、そこを仏の世界とするとらえ方からは、密教的色彩の強いお山曼荼羅観が成立しました。もっとも早いものは、奈良時代末までさかのぼるもので、お山や海岸近くの岬などを観世音菩薩の補陀洛の浄土とする信仰です。
熊野の那智山
東北の月山
関東の日光
四国の足摺岬
大和の松尾山
などが修験道の行場としてさかえます。
瀬戸内海に着き出した岬や海岸などが補陀洛浄土の出発地点とされ十一面観音などの観音がまつられている所は、讃岐にもいくつかあります。東から志度寺、屋島寺、根来寺、郷照寺、道隆寺、海岸寺、観音寺などは補陀洛信仰の痕跡がうかがえます。
兜率天とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
弥勒菩薩の治める兜率天
 次いで平安時代になり、末法思想が盛行し弥勒菩薩の信仰が人々の心をとらえるようになちます。
そうするとお山を弥勒菩薩が説法している兜率天の四十九院とする信仰が生まれてきます。
平安時代末期の『諸山縁起』は、大峰山の内に四十九院があるとしたり、『彦山流記』に彦山四十九窟があると説くのは、こうした弥勒信仰からきているようです。
やがて浄土思想が流行するようになると、お山に阿弥陀の浄土が描かれるようになります。熊野本宮や白山など阿弥陀如来を本地物や本尊とする霊山は、多いようです。
古代の人々は、お山を死霊・祖霊の居所と信じていたと民俗学者は云います。
 観音の浄土補陀洛を信じる人々は、遠く中国の舟山諸島にあるとされた補陀洛に往生することを願って、那智や足摺の浜から船出する行者たちを生み出します。また吉野の金峰山などは弥勒の浄土とされていましたので、そこへの参詣も、死後は兜率天に往生して弥勒の説法を聞くことを願ってのことでした。もちろん熊野への参拝は、阿弥陀の浄土での極楽往生を求めてのことでした。
つまり次のような分業体制があったことになります。
①観音菩薩=補陀洛信仰=熊野那智 
②弥勒菩薩=兜率天信仰=吉野金峯山
③阿弥陀菩薩=浄土信仰=熊野本山
こうして各地の霊山には、お山の景勝地に「弥陀が原」など浄土を指す名称が付けられていきます。 これを「山中他界観」と云うようですが、そこにはお山に骨をおさめたり、墓地を作ったり、供養塔を建てるというようなことも行われるようになります。東北の山寺(立石寺)、高野山などでは、これに修験者が関わることがもあったようです。ここから山岳寺院の中には、納骨の風習が残っているところがあります。それが「死者の帰っていく山」と呼ばれた霊山で、讃岐では三豊の弥谷寺が有名でした。近年では、修験関係の社寺では祖霊殿を設け、遺骨などをあずかっている所が増えているようです。
 修験者自身も、死後は死霊となってお山に帰ることであるとして、死亡を「帰峰」と呼ぶ人も多いようです。霊山にある供養塔や木曽御岳の霊神碑などは、死霊となってお山に帰った修験者の霊を弔うためのものなのです。
 お山には浄土や極楽だけでなく、地獄もありました。
立山山岳信仰 (吉村外喜雄のなんだかんだ)
立山曼荼羅地獄谷部分

 立山や白山・大山のように火山だったお山では煙や熱湯が噴き出している所を地獄谷と呼んでいます。そこには極楽往生できぬ死霊が徘徊していると云われます。そして、供養のための「作善」として、小石が積まれたりするようになります。後世には、修験者がお山の極楽と地獄を描いた曼荼羅を持ち歩いて、極楽往生のための参詣を勧めるようになります。
泉光院の足跡 175 立山の地獄 - ヨリックの迷い道

 極楽には阿弥陀如来が、地獄には奈落に苦しむ死霊を導く仏として地蔵菩薩が配置されます。次第に地獄のおそろしさが強調されるようになると、死霊を極楽に導く地蔵菩薩への崇拝度が高まります。それに従って地蔵菩薩の対偶仏として天界を支配する虚空蔵菩薩が極楽の仏として崇められるようになります。
虚空蔵菩薩 - Wikipedia
虚空蔵菩薩
もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で行者が守護仏として重視した仏だったようです。それが空海が虚空蔵求聞持法のために修行した仏として有名になります。こういう背景があるためでしょうか、伊勢の朝熊山をはじめ当山派・修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としていることが多いようです。

霊山にある奇岩、巨石、滝、泉などは、神霊が宿るものとして、崇められていました。
すぐれた霊地の神霊、山の神、水分神などは、とりわけ大きな霊力を持つとされます。蛇・狼・狐・熊などの動物は、こうした神のあらわれとしておそれられ、信仰されたりもします。なかでも竜や蛇は各地のお山で水分神の体現とされていました。

理源大師の大蛇退治

 当山派修験には、開祖とされる聖宝(理源大師)が大峰山で大蛇を退治したという伝承があります。お山に入った修験者が竜を退治したという伝説は、修験者がお山の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているようです。つまり、降雨をコントロールできる霊力をもつ存在とされ、雨乞い祈祷を行うようになります。讃岐でも、村々で行われた雨乞い祈祷は、念仏踊りも、綾子踊りも山伏たちが主導していたと私は考えています。
 お山を曼荼羅とした場合には、いろいろな神霊は曼荼羅内の諸尊に当てはめられました。
大峰山などでは、その主要な八ヵ所の霊地に峰中修行の宿を設け、そこに役小角が体得した金剛蔵王権現の巻属である大峰八大金剛童子が一つずつ祀られています。大峰山中には、この八つの宿を含めて百二十(実際は七十余)の宿が設けられていたといいますが、その多くは修験者がお山に入る以前から神霊をまつる霊地であったようです。。
 葛城山系では、拝所に法華経二十八品を一つずつおさめて経塚が作られています。
葛城二十八宿経塚巡行 滝畑金剛童子から境谷、梶路峠、郷ノ峠 - 葛城二十八宿経塚巡行

その主な所には葛城八大金剛童子が配置されています。修験者がお山に入る以前には、ばらばらにあったお山の霊地が、修験道の影響のもとに一定の世界観にもとづいて体系化されていったようです。このように山中に、童子をまつったり、宿や経塚を作ることは、大峰や葛城などの以外の全国各地のお山の修験道場でも行われるようになります。
お山は邪神邪霊、邪鬼や神霊の使いである動物のすむ魔所として、里人は畏れていました。
 魔所に入り込んで修行する修験者を、邪鬼や動物霊と闘い、それを降伏させ命ずるままに使役する存在と畏れ敬うようになります。
役行者のこと
役小角と前鬼、後鬼
役小角が大峰山中で前鬼、後鬼を使役したとの伝承、修験者が飯綱を使ったとの民間伝承は、こうした力を体得した修験者の活動を示すのでしょう。同時に、修験者が信仰対象になっていく姿がうかがえます。
 さらに修験者は獅子にも変身したようです。
岩手県早池峰山麓の山伏神楽の権現舞では、魔界の王者である獅子(権現様)に変身した山伏が村人の安全を祈って舞います。
篠木神楽 | 滝沢わくわくNavi | 滝沢市観光協会【公式観光ポータルサイト】

羽黒山の修験者が峰中で用いる鈴懸の模様は獅子です。これは修験者が獅子への変身していることを表しているようです。秋祭りの獅子舞の起源もこの辺りにあるのかもしれません。
小田代神楽 権現舞 @祀りの賑い - 祭りの追っかけ

 天上や地下の境界であるお山で修行する修験者は、超人的な性格を持つ宗教者としてとらえられていたようです。ここから山伏を天狗としておそれる信仰も生まれます。修験者は、人間であり、鳥の姿をした天狗とされたようです。天狗信仰は、山伏の活躍する霊山に根付いています。金毘羅大権現の象頭山も天狗が住む山とされていました。修験者が根付く霊山だったのです。
天狗さま | 天宮の歳事記ブログ
 
また、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいたようです。
修験者が峰入に際して頭髪を一寸八分の摘髪にしたのも、僧でもなく俗人でもないことを示すためのものだったされます。修験者を半僧坊と呼ぶのもこうした性格を示していようです。このように修験者は、天上や地下の他界と此の世の人間を結ぶ「境界人」とされていたのです。
 修験者の峰入は、春夏秋冬のそれぞれに行なわれていました。
これも次のように人々のお山登拝が起源にあるようです
①「春の峰」は卯月八日の山あそびが基にあるようです。
大峰山寺の戸開式は、戦前は旧暦四月八日に行われ、修験者は山上の石楠花を手折って下山したといいます。これは、山上で山遊びをした乙女が花を手折って下山する卯月八日の行事に通じます。
②当山派の「花供の峰」は、六月に大峰山中の拝所に花を供えてまわるという行事です。これも、お山を旅する人々が霊地に花を手向けて旅の安全を祈った習慣に似ています。
③七・八月頃に、信者が大峰山に登拝する「夏の峰」は、大和地方で盆山と呼ばれています。これも、山中に眠る祖霊に会いに行くための峰入だったようです。羽黒山でも夏の峰は、月山から祖霊を迎えるためのものとされています。
④山伏が一定期間山中に寵る「秋の峰」
 羽黒山の「秋の峰」は子供たちの通過儀礼(成人式)の役割を果たしてきました。これももともとは修験者が、冬にお山に留まり春先に里に下って農神を守る山の神の力を体得するために、山の神が山中に留まっている間は、修験者も山中で修行したことと関係がありそうです。冬の峰の出峰の日が、山の神が里に下るとされる卯月八日にあたることも、これを裏付けます。
 冬の峰の修行者は、山中で年を越したことから晦日山伏と呼ばれ、特に験力に秀でた者として崇められたようです。
晦日山伏は出峰後、修行によって獲得した験力を競うために験競べを行なっています。十二月晦日から元旦にかけて行なわれる羽黒山の松例祭の鳥飛び・兎の神事・大松明まるき・火の打ちかえなどの競技は、冬の峰終了後の験競べの面影を今に伝える行事だと研究者は考えているようです。
PayPayフリマ|絶版 週刊日本の祭り 松例祭 大日堂舞楽 なまはげ芝灯まつり 出羽三神社山松例祭 山形県羽黒町羽黒山 秋田県鹿角市 秋田県男鹿市
羽黒山の松例祭の鳥飛び
 お山修行を終えた修験者は、山の神を招いて祭をし、託宣させる宗教者として活躍します。
①福島県の葉山まつりは、修験者は葉山の神を招いて憑依させ託宣を下す。
②木曽の御岳の神を中座につけて託宣させる御岳講の前座
③山中の護法を憑りましにつける美作の護法祭の修験者
などは、いずれも山の神霊が修験者に憑依し、神霊を操作する宗教者とし振る舞います。他にも
①権現と化した修験者が舞う早池峰の山伏神楽、延年の舞、
②修験的色彩の花太夫が榊鬼に神つけをする奥三河の花祭
③美作の荒神神楽
④石見の大元神楽の託舞
は、お山修行によって験力をえた修験者が山霊となり、分霊を使役する芸能です。以上をまとめておきます
①山岳信仰は、霊山を神々の鎮まる霊地として山麓から拝む神道となって展開するようになる。
②一方でお山に入って修行することによって山の神の力を身につけ、それをもとに呪術宗教的な活動をするという修験道を生み出した。
③修験道は、修行や呪験力を権威づけるために、仏教思想と混淆する。
④里人の山入り慣習にあわせて峰人修行行事を組み込み、仏教の成仏観をとり入れて、成仏や験力の根拠を説明するようになる
⑤こうした世界観を広げることによって、里人の現世利益的な願いや求めに応えて、呪術的活動を行うようになる。
⑥そして、近世には里人だけでなく都市庶民の間に深く浸透していき、流行神を登場させたりすることになる。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収

  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
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丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
DSC07605
大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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