瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:元吉合戦

戦国末期の三好氏の動きは複雑で、きちんと一次史料を元に追いかけたものがなくて、なかなか見えて来ません。そんな中で、史料で基づいて戦国末期の三好氏を追った論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 
戦国末期の阿波三好氏についての研究史を次のように整理します。
A 藤田達生氏
織田・三好両氏の関係に着目して信長の東瀬戸内支配の推移を明らかにする中で、信長の三好氏に対する政策を信長の統一戦の観点から論じている。

B 天野忠幸氏
藤田氏の研究を批判的検討し、阿波三好氏の動向を分析しつつ、信長の四国政策を段階的に捉え、その変遷を信長の統一戦に位置づけた。さらに三好好長治・存保・神五郎兄弟(実休三子)の動向を跡づけて、織豊期の阿波三好氏の歴史的評価を行った。

C 中平景介氏
信長の四国政策を論じる際に三好存保ら阿波三好氏の動向が十分に整理されていないとして、三好存保の動向を追究して信長の四国政策の意味を捉え直した。

各氏の研究は、信長の統一戦とからめて三好氏を見ているところに共通点があります。一方、阿波三好氏については、当主の存保の捉え方にそれぞれ異なった見解があるようです。存保をどう評価するかが、阿波三好氏の歴史的評価と結びつくことを押さえておきます。

研究者が対象とするのは、次の9年間です。
A 天正4年(1576)末以後、阿波三好氏の当主長治が自害に追い込まれた年
B 天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国平定まで
この9年間を、次のような4つの視点で捉えようとします。
①長宗我部氏の侵攻とそれに対する阿波三好氏(当主存保)との攻防
②織田権力による統一戦と、対立勢力の毛利氏・大坂本願寺等との交戦
③「織田 対 毛利・本願寺」抗争の中で、三好氏もその対立抗争に巻き込まれたこと。
④信長亡き後、長宗我部氏の攻勢が強まる中で、三好氏が羽柴秀吉との関係をどうするか
渦巻く情勢の中で阿波国衆は、もはや三好氏一辺倒ではなくなっていきます。三好方か長宗我部方につくかの判断をそれぞれ求められ、異なった軍事行動を取るようになります。この時期になると、阿波国内は三好氏支配下に一元化されていたわけではないようです。阿波国の政治情勢は、中央権力の動向と密接に関係しつつ、阿波をめぐって複雑な様相を見せていたことを押さえておきます。

研究者は9年間を、さらに次のように3期に時期区分します。

戦国末期の三好氏時代区分表

A 第一期(天正9年1月以前)
三好長治没後、三好(十河)存保(長治弟で讃岐十河家を継承)が阿波に入国し、阿波三好氏の家督を継承したとされる天正6年の前年から、織田信長による三好康長の阿波派遣が史料に見える
B 第2期 天正10年9月頃まで
康長の阿波派遣から、三好存保が長宗我部氏に中富川の合戦で敗れ、讃岐に退去する
C第3期は 天正13年8月まで
中富川合戦以後、羽柴秀吉による四国平定が終結し、新国主蜂須賀家政が入封する

今回はAの時期を見ていくことにします。
三好(十河)存保入国前後の阿波の政治情勢      讃岐国元吉合戦と阿波三好・毛利両氏の関係
次の史料は、阿波西部の白地城城主・大西覚用が毛利氏と結んでいたことを示すものです。
【史料①】(「乃美文書」)
先度同名越前守以書状申入候之処、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宣者口上申候之条、可被成御尋候、恐々謹百、
(大西)覚用 (花押)
(大西)高森  (花押)
(天正五年)二月廿七日               
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
日羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿 まいる御宿所
  この書簡は、白地城の大西覚用とその息子の高森が毛利氏重臣の小早川隆景などに宛てたものです。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①足利義昭(備後国鞆に滞在)の入洛について、今村紀伊守と相談している
②その実施については「隣国表」(讃岐国)の情勢を第一に考えることを申し合わせているので不確定である。
③文面からは、これまでに両者の間に書状が交わされていたことがうかがえる
以上から、白地城の大西覚用が毛利氏と相談しながら足利義昭の入洛のための軍事行動の準備を進めていたことが分かります。かつて大西氏は、三好氏に従軍し讃岐西部へ侵攻を繰り返し、領地や利権を得ていたことわお話ししました。しかし、この時期は三好氏と毛利氏は備中をめぐって対立関係にありました。その毛利氏と大西覚用が緊密な関係を結んでいることを、どう理解すればいいのでしょうか? 三好氏の指導力が低下する中で、西讃への進出を計る大西覚用は毛利氏と結ぶという独自の外交政策をとって、三好氏から離反していたことが考えられます。

 翌年の元吉合戦の際にも、元吉城を攻めたのは丸亀平野以東の讃岐国衆と三好氏です。そこにも大西覚用や近藤氏の名前はありません。ここからも、大西覚用は三好氏の支配から脱して、「親毛利」という独自の歩みをはじめていたことが裏付けられます。このように天正4~5年にかけて、阿波国内の領主の中には大西覚用のように毛利氏と連携する動きがあったことを押さえておきます。

三好長治没後の天正5年(1577)間7月に、讃岐の元吉城(琴平町櫛梨)で三好氏配下の「讃岐惣国衆」と毛利勢との間で元吉合戦が戦われます。
この戦いは何度もお話ししたので、ここでは概略だけ押さえておきます。
 この時期の毛利氏は、石山本願寺支援のために信長との対立を深めていく時期です。天正4(1576)年7月に、村上水軍などの毛利配下の水軍は、紀伊雑賀衆と連携して木津川河口で織田方の水軍を破り、大坂本願寺に戦略物資を搬人することに成功します。こうした中で、毛利氏は三好氏勢力下の讃岐国に進出します。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

三好氏の家督を継承する三好存保がまだ阿波に入国していない時期です。
元吉合戦後の和睦について、小早川隆景は次のような文書を発給しています。
      【史料2】「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」とありました。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。

和睦成立後、三好氏は毛利氏と連携したようです。
天正6年2月のものとされる小早川隆景書状に次のように記します。

「播州衆現形二付而、諸警団至岩屋(淡路国津名郡)来上、阿・淡・雑賀。大坂申談及行候」

ここからは毛利方が「播州衆現形」(別所長治の挙兵?)に応じて、阿波・淡路・紀伊雑賀・大坂本願寺と連携した行動を取ろうとしていたことが分かります。このような中で三好氏は、元吉合戦後の毛利氏との和睦を経て、反織田戦線に加わったと研究者は判断します。

十河存保の阿波入国に際しては、毛利方の史料に次のように記します。

「阿州十川〔河〕所へ入国為祝儀使僧差渡可然之由、御内儀得其心候」

ここからは、毛利氏が十河存保が阿波に帰って三好を名のることになったことについて、祝儀として使僧を遣わしたことが分かります。ここからも元吉合戦の和睦後に、三好・毛利両氏の関係が良好になったことが裏付けられます。
ここで私が気になるのは香川氏のことです。天霧城退城後の香川氏について、次のように私は考えています。
天霧城落城後の香川氏

これについて、①②③④⑤については、史料的にも裏付けることができます。しかし、⑥についてはよく分かりません。
以上を整理しておきます。
①戦国末期の三好氏を取り巻く状況は、信長・毛利・長宗我部元親の動きに翻弄される。
②三好長慶や実休の死後、三好家は混乱・衰退期を迎える。
③そのような中で、白地城の大西覚用は三好氏から自立し、独自外交を行うようになる。
④それは讃岐への進出を計ろうとしていた毛利氏と結んで、讃岐方面への勢力拡大を図るものであった。
⑤そのため大西覚用は、毛利氏側に立った政策をとり、元吉合戦にも三好側には合力していない。
⑥元吉合戦の和睦後、毛利氏と三好氏は接近し、反信長戦線を形成した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」
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   「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

今回は、上の視点から長宗我部元親の讃岐侵攻を見ていくことにします。 
伊予・讃岐・阿波への要となる白地城を大西覚用から手に入れた長宗我部元親は、ここを拠点にして四国平定戦を進めていきます。その手足となって働くのが、大西覚用の弟ともされる大西上野介です。彼によって、周辺国衆への調略工作が行われたようです。そのひとつが阿讃山脈の向こうの藤目城(豊田郡紀伊郷)の斎藤下総守師郷です。1577(天正5)年、斉藤師郷の縁者である大西上野介を通じて師郷を説き、師郷はその孫を人質に出して、元親に従うことになります。元親は、家臣の浜田善右衛門を斉藤師郷に添えて、共に藤目城を守らせます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

長宗我部元親讃岐侵攻図


  以下について、南海通記に基づいて「満濃町誌200P」は次のように記します。
これに対して三好家の総帥となっていた①十河存保は、天霧城主香川信景と聖通寺城主奈良太郎兵衛に命じて、藤目城を奪還させようとした。香川信景は、この命に従わなかったが、②奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還した。奈良太郎兵衛は、新目弾正を城主として城を防衛させた。③元親は、今度の藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田城に進出した。
 財田城は、藤田城の東南の三野郡大野郷財田にあって、阿波の自地に最も近い讃岐の要衝である。財田城主財田和泉守は、香川信景の救援を求めたが得られず、土佐軍に囲まれて奮戦した。④200余名の部下を激励し、死戦を試みて生を得ようと、囲みの一角を破って打って出たが果たさず、部下と共に討死した。
 財田城が占領されたので、藤目城の運命も定まった。城主となっていた。⑤新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した。藤目城は土佐軍によって確保され、元親は、斉藤下総守を入れて城を守らせた。

①については、天霧城香川信景が三好氏の従属化にあったという認識を南海通記の作者は持っていたことが分かります。しかし、香川氏は「反三好」を貫き、天霧城陥落後は備中に亡命し、毛利氏の傭兵として活動していました。それが毛利氏の支援で帰国できたのです。香川氏は反三好の急先鋒で、三好氏の配下になったことはありません。三好氏が香川氏に出陣命令が下せる体制ではなかったことを押さえておきます。
DSC05470藤目城(粟井)
藤目城(大野原粟井)
②には「奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還」とあります。
聖通寺山城の奈良氏に関しては「謎の武将」で、管領細川氏の「讃岐の四天王」のひとりとして、名前だけが一人歩きしています。史料を見る限り、讃岐では存在感がありません。一部の史料では、「奈良氏=長尾氏」としているものもあることは以前にお話ししました。どちらにしても、戦国末期のこの時点で、奈良氏が那珂・鵜足・阿野の兵3000を率いることはできなかったと研究者は考えています。さらに、その配下に長尾氏や羽床氏が加わることは、当時の軍事編成としては考えられません。例えば奈良氏の配下に入って従軍して、恩賞はどうなるのかという問題が発生ます。出陣を命じるというのは「恩賞」とセットなのです。恩賞付与権が奈良氏にはありません。この体制では、羽床・長尾氏は従軍しないはずです。「郷土防衛戦」という意識は、当時の武将達にはありません。さらに、西庄城の「香川民部少輔」というの武将は、南海通記だけに頻発して登場する人物で実在性が疑われていることは以前にお話ししました。
 前年に戦われた毛利氏との元吉合戦に従軍している讃岐国衆のメンバーを見ると「元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口」とあます。ここにも香川氏の名前はありません。そして讃岐国衆を率いているのは、三好安芸守です。備中遠征の時には篠原長房が率いています。ここでは配下に置いた讃岐国衆を率いるのは、三好氏であったことを押さえておきます。以上から「奈良氏が国衆を率いて、藤目城を奪取」というのは、そのままは受けいれられない記述と研究者は考えています。

DSC06256本篠城(財田)

財田本篠城
③には「元親は藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田(本篠)城に進出」とあります。
香川氏が「反三好」であることは、長宗我部元親は以前から知っていました。「兵力温存=調略優先」を基本戦略とする長宗我部元親は、早くから香川信景の調略に動いていたはずです。ちなみに近年の秋山文書等の分析から香川氏については「天霧城陥落 → 香川氏の10年あまりの亡命 → 元吉合戦を契機に毛利氏の支援を受けて帰国」説が受けいれられるようになっています。帰国してすぐの香川氏にとっては、支配基盤も戦闘態勢も整っていません。土佐軍と戦うという選択肢はなかったと思われます。そのことを見抜いた元親は、早くから香川氏への調略活動をおこなっていたと私は考えています。だから、土佐軍の侵入に対して香川氏は動かなかったのです。
④⑤については、「新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した」とあります。
ここには讃岐武将の奮戦ぶりが軍記ものらしく描かれます。しかし、何度も言いますが長宗我部元親の基本戦略は「兵力温存=調略優先」です。山里の小さな城に、700人の犠牲者を出す戦法をとることは考えられません。長期戦になっても「兵力温存」が第一なのです。これは、以後の讃岐での攻城戦を見ても分かりますが、徹底的な抗戦を行ったのは十河城だけです。あとは、調略で戦う前に降伏させています。南海通記には「戦った・抵抗した」とあるのも、そのまま信じることはできません。

天霧城3
天霧城

天霧城の香川信景の降伏について、満濃町誌(201P)には次のように記します。
元親は、西讃に進入するのに先だって、大西上野介(大西覚用の弟?)と謀り、土佐国分寺の西の坊を使僧として、香川信景の舎弟で観音寺景全の家老香川備前守を説き、香川氏が長宗我部氏に味方することを求めた。信景は、織田信長に通じてその一字を承けて信景と称していたのであるが、長宗我部軍の進撃が領内に迫ったので、ついに長宗我部氏に通じ、藤目城にも出陣せず、財田の救援にも兵を動かさなかった
天正七年春、信景は岡豊城に元親を訪い、元親への服属を誓った。元親は信景を厚く馳走して、五日間にわたって歓待した。その年の冬、元親の次男親和が、香川信景の娘の婿として香川家に迎えられた。かくして元親は、藤目・財田・天霧の諸城を制して、中讃への進入の時機を待った´
ここには、観音寺景全の家老香川備前守を通じて、香川信景を味方に引き入れたとあります。そして、長宗我部元親は次男の親和を養子に入れて、香川家の跡継ぎとします。こうして香川信景は、元親の同盟軍として讃岐平定に加わります。ちなみに、香川氏の影響力のあったエリアでは、寺社は焼き討ちされていません。そのために観音寺や国宝の本山寺本堂も残っています。すべての寺社を焼き払ったというのは、後世の軍記ものの「長宗我部元親=悪者」説に由来することは以前にお話ししました。

長宗我部元親の基本戦略をもういちど振り返っておきます。

   阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

1579(天正七)年4月、元親は1、3万の兵を率いて丸亀平野に侵入します。
 土佐軍の本隊は、白地から曼陀・六地蔵を越えて藤目城に集結し、香川信景の家老三野菊右衛門の兵800余を先導として出陣します。元親に服属した東予の金子・妻収・石川などの連合軍3500は、自ら求めて先陣を勤め、競い立って丸亀平野の南部に進入してきます。
待ち受ける羽床伊豆守は、一族郎党合わせても1000人の動員力しかありません。これに長尾大隅守の兵力を加えても、その数は土佐軍の約1/5に過ぎません。なお、長尾氏は羽床氏に従軍する立場であったと記します。
この時の戦いの様子を、後世の軍記ものに基づいて書かれた満濃町誌(203P)には次のように記します。
 4月28日、土佐軍の先鋒となった①東予軍は、櫛梨山の南方から高篠一帯にかけて布陣した。②羽床方が寵城して戦うものと思い込み、何の備えることもなく夜を迎えた。③羽床軍は闇に紛れて敵に接近し一斉に鉄砲を打ちかけ、突撃して東予軍を打ち破った。東予軍は退勢を立て直し、29日の早朝から激戦を続けて昼に及んだ。昼過ぎ元親の本隊が戦線に加わり、羽床伊豆守はこの本隊と戦ったが破れ、土器川を渡って退却した。土佐軍は、羽床軍を追って一気に城を落とそうとして、土器川器川の西岸に達したが、対岸の安造田・中津山一帯に有力な部隊が陣を張っているのを見て、あえて攻撃しなかった。④羽床方の留守部隊であった老人や子供が後詰めとして出陣し、擬陣を交じえて陣を張っていたのである。

 ⑤西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った。戦いは混戦となり、長尾方の部将で炭所西村の国侍であった片岡九郎兵衛が、土佐方の勇将大山孫九郎を討ち取った。土佐軍は兵を返して櫛梨山付近に集結した。その夜、長尾大隅守は、土佐軍の陣営に夜討ちをかけたが、敵陣の警成が厳しく充分な戦果を挙げることができなかった。
 ⑥長尾方の部将片岡九郎兵衛は、聞の中の戦いで湿田に馬を乗り入れ、流弾を受けて討死した 今も大歳神社の北東の本田の中に、片岡伊賀守の墓が残っている。
仲南町の今田家に伝わる「今田家系図」に、今田景吉と今田掃門丞が西長尾城の落城の時に討死したと記されているのも、この日の戦いのことであろうと思われる
①②③からは、先陣をつとめる東予軍は櫛梨山の南方に無防備に布陣し、それに羽床軍は夜襲をかけたと記します。しかし、ルート案内から布陣までを手引きしているのは、同盟軍の香川氏なのです。入念な調査を行った上で布陣させているはずです。また、櫛梨山は前々年に元吉合戦が戦われたところで、毛利軍によって要害化されていました。毛利氏の讃岐撤退の後は無傷で残っていたようです。ここには5000の兵を収容する能力も防備力もありました。香川氏は迷うことなく、櫛梨城(元吉城)に毛利軍を導いたと私は考えています。そうだとすれば、羽床氏による夜襲は考えられません。
④については、太平記の楠木正成の軍略に出てくるような子供だましの記述です。こういうことが書かれること事態が、虚構であったことがうかがえます。
⑤には「西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った」とあります。しかし、先ほども見たように「長宗我部軍13000VS 羽床・長尾軍2000」で、圧倒的な兵力差があります。これに対して、城を出て突撃するのは無謀な戦いです。戦国時代の武将達は、このような戦いはしません。負けると分かっている戦いに対しては、逃げるか、降参するかです。ここにも南海通記の作者である香西成資の軍学者として「美学」が紛れ込まされている気配を感じます。
私は羽床氏も、長尾氏も戦っていないと思っています。理由はいくつかありますが、ここでひとつだけ挙げておくと、一度刀を抜き合って血を流し合った一族は、相手を許すことはありません。「敵討ち」は武将の誉れでもありました。自分の一族を殺した武将たちを仲間内に迎えることはできません。降伏するのなら血が流れる以前に、軍門に降る必要があります。一度血が流れた後で降伏しても、配下に加えられることはありません。そのときは命を取られず落ちのびていくことを許されるのみです。つまり籠城はあっても、羽床氏も長尾氏も、城を討って出て戦うことはなかった、最初から籠城で挑んだと私は考えています。
羽床城縄張り図
羽床城(綾川町羽床)
南海通記には、その後の羽床氏と長尾氏の取った選択を次のように記します。

⑦長尾大隅守と羽床伊豆守は、それぞれの城に籠って戦おうとした。土佐軍は、那珂地方の南部の麦畑を「一畝隔てに薙ぎ払って」、夏以後の軍糧を脅かすと共に、農民に恩情を示して民心を得ようとした。

籠城した羽床城を長宗我部勢が包囲したことについては、次の史料が裏付けます。
この史料は、長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】「東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固中付、(後略)
                                                             長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますの使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一 先日、注進したように、(A)讃州の十河・羽床両城を包囲中です。さて、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀に与するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして残る勝瑞に迫りました。
(A)からは、天正8年11月24日には、長宗我部勢が二手に分かれて、讃岐の十河・羽床両城を攻囲中だったことが分かります。包囲中に、大阪石山本願寺を退城した紀州雑賀衆や淡路の門徒が三好氏の勝瑞城に集結したために、それを討つために羽床城の包囲を解いて、阿波に転戦したと記します。
南海通記は、羽床氏と長尾氏の降伏を次のように記します。

⑧元親は、香川信景を通じて羽床氏に降伏を勧めた。羽床伊豆守は、情勢を判断して、実子係四郎を入質として降伏した。長尾大隅守も、信景の扱いで元親に降伏した。

この後に、羽床氏と長尾氏は長宗我部元親の先陣として活動しています。ここからは城は取り囲まれたが、刃を交えることはなかったことがうかがえます。

元吉城 地図1
元吉城 丸亀平野の南部
それでは、櫛梨山の南方では戦いは何もなかったのでしょうか?
実は、「櫛梨山城=元吉城」で、前々年に元吉合戦が行われた所なのです。小早川隆景に元古合戦の詳細を報告した連署状を見ておきましょう。

急いで注進致します。一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。①攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた我々警固衆は山を下り、(金蔵)川を渡り、一気に敵に襲いかかりました。②敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)


元吉城 縄張図
元吉城
  ここからは、元吉城(櫛梨城)を攻めた讃岐国衆が大敗し、多くの戦死者がでたことが記されています。戦いの後に櫛梨城の南側の地帯には、多くの供養塔や塚が建立されたことが考えられます。そのひとつがの「長尾方の部将片岡九郎兵衛」の慰霊碑でないかと私は考えています。つまり、元吉合戦の際の戦死者が、長宗我部元親と長尾氏の戦いの時のものと、後世の歴史書では混同したという説になります。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦
 
元吉合戦の毛利方の戦略的な目的は次の2点でした。
大坂石山戦争の石山本願寺への戦略物資の運び込みのために備讃瀬戸南航路を確保する
備中に亡命していた香川氏を讃岐に返し、毛利氏の西讃支配の拠点とする
このため毛利氏には、丸亀平野に対する領土的な野心はなかったようで、元吉合戦の後は三好氏と和平工作がトントン拍子で進められます。

元吉合戦後の11月20日付の小早川隆景の書簡には、和睦条件が次のように記されています。
史料「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②その条件として、讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」でした。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。どちらにしても羽床氏と長尾氏が人質を出しているのは、元吉合戦後の毛利氏に対してです。

元吉合戦のことは、南海通記にはでてきません。それは西庄城の香川氏と混同されて書かれていることは以前にお話ししました。つまりは、南海通記が書かれた頃には、元吉合戦のことは忘れ去られていたのです。そのため元吉合戦の時の慰霊碑や墓碑が長宗我部元親の侵攻時のものと混同されるようになってきたとしておきます。

以上をまとめておきます。
①長宗我部元親の四国平定戦の基本戦略は「兵力温存=調略優先」で、味方についた適地の有力者の協力を得て平定と支配を進めた
②讃岐侵攻でも香川氏を凋落し、「同盟関係」を結ぶことで兵力や戦略物資の調達をスムーズに進めた。
③征服軍としての土佐軍の前には、同盟軍としての香川氏がつねに存在したことを念頭におく必要がある。
④南海通記に書かれていることは、疑ってみる必要がある。
⑤南海通記には、元吉合戦のことは忘れ去られていたようで何も出てこない。
⑥元吉合戦と長宗我部軍と羽床・長尾軍が交戦したという櫛梨山南方の戦場は一致する。
⑦後世の軍記ものは、これを混同して記述している。
⑧羽床・長尾氏は、毛利氏とは元吉合戦でったかっているが、長宗我部元親に対しては戦うことなく軍門に降った可能性が高い。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 長宗我部元親の讃岐進出 満濃町誌200P
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前回は、天霧城攻防戦後から長宗我部元親の讃岐侵攻にいたる時期の香川氏の動静について次のように整理しました。
香川氏の安芸亡命

①天霧城攻防戦で敗れた香川氏は、毛利氏の下へ亡命したこと、
②その後12年ぶりに毛利氏の支援で、多度津帰還が実現したこと
③翌年に讃岐に侵攻してきた長宗我部元親と「反三好」で一致し、同盟関係を結んだこと。
④香川氏は長宗我部元親の同盟軍として、東讃制圧に参軍したこと

この中で①の「香川氏=安芸毛利氏への亡命」説について、もう少し詳しく知りたいというリクエストがあったので、今回はその辺りに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。

 最初に香川之景と信景は別の人物であることを押さえておきます。
之景については、従来は信景と同一人物とされてきました。それは南海通記に、次のように記されているためです。

「天正四年二識州香川兵部大輔元(之)景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元(之)景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

意訳変換しておくと

天正四(1576)年に、識州香川兵部大輔元(之)景は、香西伊賀守佳清を使者として、信長の幕下に加わりたいことを願いでた。そこで信長は、香川元(之)景に自分の一字を与えて、信景と称するようになった」

南海通記の「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされてきたことを押さえておきます。

香川氏花押
香川之景の花押の変化

しかし、之景と信景の花押を確認した研究者は、素人目に見ても大きく違っているとし、「花押を見る限りでは、「之景と信景は別の人物」と判断します。続柄からすると、之景と五郎次郎は父子で、「五郎次郎=信景」で、亡命から帰還後に五郎次郎が使ったのが「信景」と研究者は考えています。

次に高瀬町史の年表編(22P)で、天霧城攻防戦の前後の香川氏の動静の概略を押さえておきます。

1558年の天霧城攻防戦前後年表 高瀬町史
高瀬町史年表編22P

①1558年10月に三好軍が天霧城を包囲して、その後の和議成立後に陣を置いていた善通寺が燃え落ちたことが記されています。南海通記は、この時に香川氏は三好氏の軍門に降り、以後は従属下に入ったとします。
②注意しておきたいのは、この時に村上水軍が三好実休側について天霧城攻防戦に参加していることです。
③1560年10月になると、帰順したとされる香川氏と三好氏の戦闘が再開されます。これに対して香川之景は、配下の秋山氏などに知行地配分を行い、裏切り防止・結束強化を図っています。


天霧城攻防戦前後の香川氏 高瀬町史23P
                 高瀬町史年表編23P

④1563年8月 これに対して、三好氏は再度天霧城を攻めます。籠城戦の末に、香川之景とその子・五郎治郎が天霧城を退場します。しかし、その後も論功行賞として知行地を宛がっているのでいるので、三野郡の支配権は保持していたことがうかがえます。それは、12月に、喜来秋山氏が、財田方面から侵入してくる阿波の大西衆と戦っていることからも裏付けられます。
⑤ 1564年2月になると 秋山藤五郎が豊島に脱出しています。これがその後の備中脱出の先遣隊の役割を果たしたのかもしれません。
⑥同年3月には、三好氏の実権を握った篠原長房が豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制をだしています。これは、豊田郡が篠原長房の直接支配下に入ったことを意味します。以後も1565年までは、香川之景の発給文書があるので三野郡で抵抗活動を行っていたことが分かります。しかし、それも8月以後は途絶えます。そして以後12年間の発給文書の空白期間が訪れます。この間が謎の期間になります。

次に、この時期の香川氏の発給文書から、香川氏の動静を見ておきましょう。

香川氏発給文書2
香川之景の単独発給のものについて、研究者は次のように指摘します。
⓵永禄元(1558)年から6年6月までは、香川之景の単独発給であること。
⓶永禄6(1563)年8月から7年5月までは、之景と五郎次郎の連署で発給されていること。
③1563年の天霧城籠城戦以前の之景発給文書は、内容が知行宛行・知行安堵に限定されていること.
④これは、家臣への宛行状で、迫る合戦に対して家臣の団結力を高めるために発行された
⑤例外は永禄8年6月28日付の之景単独発給がある。
  一例として、永禄4(1561)年の戦いでの恩賞として、秋山良泰に所領の給付を行っているものを見ておきましょう。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2


意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言
永禄四(1561年)正月十二日             (香川)之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
これは香川之景の単独発給文書です。末尾の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋二郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。この時期の真鍋氏は、秋山氏から多くの土地を買い取り、急速に成長して行ったことが、その他の史料から分かります。
 この時期に香川之景が秋山氏・帰来秋山氏などに、知行宛を行ったのは三好勢の侵攻に対して、寝返りを防ぐためと身内の陣営を固めるためと研究者は考えています。天霧城周辺で度重なる小競り合いが続きますが、そのたびに之景は感状や知行宛行状を発給して家臣の統制に努める姿が見えてきます。

天霧城攻防図
天霧城攻防戦(想像図)

次に之景・五郎次郎の連署状についてみておきます。
 五郎次郎が史料に登場するのは、永禄6(1563)年のことです。之景と連署したものが6通あります。これらの内容を検討すると
⓵すべて天霧城籠城に関する内容のものであること。
⓶天霧城籠城戦前後から、初めて五郎次郎の名前が登場すること。
そのなかのひとつを見ておきましょう。
今度者無事二御退大慶此事候、然者人数阿また討死之由、忠節之至無比類候、将亦退城之側同心可申処、不相構俄之事候間不及了簡候ツ、我々無等閑様体具三菊可申候条、中々書状不申候、
恐々謹言
八月七日             五次(五郎次郎) (花押)
        (香川) 之景    (花押)
意訳変換しておくと
今度の(天霧山城攻防戦で)無事に脱出できたことは大慶であった。ただ、数多くの討死者を出してている。これは比類ない忠節であった。退城の働きに対して、論功行賞をすべき所であるが、現状ではそれも適わぬことで、簡略な書状だけに留める。中々書状不申候、
恐々謹言
八月七日              五次(五郎次郎) (花押)
(香川之景) (花押)
この書状からは次のような事が分かります。
①天霧城からの無事に脱出できたことを喜んでいる。→ 天霧城陥落が裏付けられる。
②「人数阿また(数多)討死」とあって、激戦であったことがうかがえる。
③天霧籠城・退城には三野・秋山氏など多くの家臣が従ったこと

ここに初めて出てくる五郎次郎の名称は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。将来の之景の後継者の意味を持つと研究者は考えています。つまり、籠城を契機に五郎次郎が香川氏の後継者として登場したことになります。三好氏は永禄5年段階で、二人を父子と認識しています。之景の家督は五郎次郎に継がれていったのです。ここでは天霧城落城を契機に、香川氏が之景から五郎次郎へと後継者継承に向けて動き出ていたことを押さえておきます。
之景と、その子である五郎次郎が連署している背景を考えておきましょう。
 天霧籠城戦は香川氏にとっては滅亡の危機でした。そのために、父子のどちらかが亡くなっても存続していける体制を作りだしていくために、五郎二郎の連名で家臣へ対処していったと研究者は推測します。しかし、知行地の権限は、従来通り領主である之景が握っています。例えば永禄8(1565)年6月に秋山藤五郎へ父兵庫助の所領分を安堵し新恩地を宛行っています。

3 天霧山4
天霧城

天霧城籠城戦に破れて、香川氏はすぐに多度津を去ったのでしょうか?
「永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。(意訳変換文)
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労した功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返却する。併せて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
 永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
       (香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
 進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①冒頭に「天霧籠城之砌」とあり、8月10日以前に天霧城で籠城戦があったこと
②香川五郎次郎から重臣の三野菅左衛門にあてた書状で、以下のことを命じていること
③天霧城籠城戦で論功のあった河田七郎左衛門尉に新恩として本知行地と、杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
ここからは香川氏が天霧城退城後も、知行地の割当を行っていることが分かります。この時点では、三野郡に関しては支配実態を伴っていて、統治権を失っていなかったようです。
 これを裏付けるのが、五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎宛の次の書状です。
尚々、今度之御辛労不及是非候、臆而/ヽ御越有へく候、万面以可申候外不申候、今度之儀無是非次第候、無事其島へ御退、我々茂無難退候事、本日出候、然者御左右不聞候而、千万無心元存もたへ申処孫太夫折紙二申越一段悦入、候雅而/ヽ此方へ可有御越候、万以面可令申候、将又国之儀存分可成行子細多候間可御心安候、両方へも切々働申付候、定而可有其聞候、委猪右衛門可申渡候間不能巨細候、
恐々謹言
二月三日              五郎次郎御判
秋山藤五郎殿
まいる
意訳変換しておくと
   今度の(天霧城落城の)辛労はあまりに大きく、言葉に表し尽くせない。しかし、(秋山氏が)無事に「其島(笠岡神島?)へ退出することができたと聞いて安心している。我々も無事に脱出した。分散した家臣団の再組織を計り、詳細な情報を集め、適切な対応をとっているので安心するように。再起への道を探すためにすでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始している。委細については猪右衛門から口頭で伝える。渡候間不能巨細候、
恐々謹言
二月三日              五郎次郎御判
秋山藤五郎殿
ここからは次のようなことが分かります。
①2月3日に、香川五郎次郎が家臣の秋山藤五郎に宛てた書状であること
②「無事其島へ御退」とあり、秋山氏が天霧城から其島まで落ち延びたこと報告されている
③一方、香川氏は三野郡にとどまり、分散した家臣の再組織を計りながら、豊田郡方面への軍事行動を開始していること
④亡命した家臣団の連絡係として(河田)猪右衛門が行動していること
以上から、香川氏は天霧城退出後も三豊周辺に留まり、ゲリラ的な抵抗運動を行っていたことがうかがえます。
それを裏付けるかのように香川之景は、天霧城退場後も以下の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年6月の秋山藤五郎宛の香川之景の発給文書
③永禄8(1565)年8月には、秋山藤五郎に対して、知行地の安堵、新恩地の給与文書
発給文書が見えなくなるのは、これ以後です。これまでは、文書が発給できる状態であったと考えられるので、香川氏の讃岐脱出は1565年8月以後のことであると研究者は推測します。

これに対して阿波三好側の篠原長房の動きを年表から見ておきましょう。

三好長慶年表3

讃岐・備中方面での活動を追加してみると・・・。
1564(永禄7)年3月  豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制を下す
1567年 6月  鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
    6月  備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569年 6月  鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571年 1月  鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
    5月  備前児島に乱入する.
 寺社に禁制を出すというのは、そのエリアの支配権を握ったということを意味します。ここからは、64年3月には、篠原長房は地蔵院萩原寺のある豊田郡南部を支配エリアに組み込んだこと、そして3年後には、宇多津も直接支配下に置いて、備讃瀬戸対岸の備中に侵攻し、毛利氏と戦っていることが分かります。こうして見ると1564~65年にかけて三野郡も豊田郡も篠原長房の支配下に入ったことがうかがえます。これは、香川氏の発給文書がなくなるのと同時期になります。つまり、この時期に香川氏は三豊から脱出・亡命したと研究者は考えています。
 また上の年表からは、篠原長房が讃岐・備中・畿内の戦場を駆け巡り、獅子奮迅の働きをしていることが分かります。ここでは篠原長房が制圧した西讃を足場にして、備讃瀬戸を渡って備中に侵攻し、毛利勢と戦っていることを押さえておきます。
天霧城を去ったあとの香川氏の痕跡を史料で見ておきましょう。
1567年9月、西讃を制圧した後に篠原長房は阿讃勢を率いて備前児島に侵攻し、毛利氏と戦います。その際に細川藤賢が備中浅口郡の細川通童に亡命中の香川氏への伝達を依頼しています。ここからは香川之景が、この時期に細川通董と密接な関係を持って、備中で活動していたことがうかがえます。
 実はその4年前の1563年6年6月には、香川氏家臣の帰来秋山氏が「神島」に赴いています。香川氏は、何らかの権益を神島に持っていた可能性があります。それが分かる史料を見ておきましょう。
香川之景が秋山家の分家・帰来善五郎へ神島行の論功に対して、知行地を給付しているものです。
今度帰来善五郎至神島相届候、別而令辛労候之条、帰来小三郎跡職悉為新給令扶持候、井於国吉扶持之所々目録二相加袖判候、全可知行者也、弥相届忠節奉公肝要之旨堅可申付候、恐々謹言
永禄六(年)六月一日            (香川)之景(花押)
河田伝有衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の帰来善五郎の神島(備中笠岡)への遠征について、その労に報いるために、帰来小三郎跡職と国吉の扶持を目録通りに、新たに知行地として与える。よって今まで通り忠節奉公に励むように(帰来善五郎)申付けること、恐々謹言
永禄六(1563年)六月一日            之景(花押)
河田伝有衛門尉殿
 ここに出てくる神島は、西讃の対岸にある備中小田郡の神島のことでしょう。

笠岡 神島 青佐山城
笠岡の神島と青佐山城
神島は、かつては笠岡湾の入口にあった島で、神島神社が鎮座し、古くから備讃瀬戸交易の拠点だった所です。対岸の庄内半島や三野湾とも活発な交易を行っていたことがうかがえます。また神島は、細川通董の居城青佐山城に隣接しています。ここからも、香川氏と細川通董は親密な関係にあったことが裏付けられます。この時期から香川之景は島伝いに備中へ渡り、細川通董の側で活動していたと研究者は推測します。

青佐山城 笠岡
 
香川氏が多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことは以前にお話ししました。それが、香川氏を戦国大名に成長させていく経済基盤になりました。例えば、「兵庫北関入船納帳」からは、多度津周辺の浦々の活発な交易活動がうかがえます。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾

 ここで注目したいのは、上表の右端の多度津の問丸です。
通行税無料の過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐、国料船の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたことが分かります。このように戦国時代の多度津は、備讃瀬戸における讃岐側の重要な通称拠点港で、瀬戸内海の各港とつながっていました。特に対岸の備中神島とは、問丸などの関連を通じて、香川氏は何らかの利権を持っていたことが考えられます。そのため三豊脱出後に選んだのが、通称交易を通じて馴染みの深かった笠岡の神島かもしれません。これを裏付ける史料は今のところありません。あくまで仮説です。

神島神社 【笠岡市神島外浦】 | 山陰百貨店―日常を観光する―
神島神社
 天正2年(1574年)段階で織田信長の庇護下にあった細川京兆家の当主・細川信良と、毛利氏の小早川隆景の交渉に香川氏が関わっていた史料があります。これも香川之景が備中にいたこと、小早川隆景の下で活動していたことがを裏付けるものになります。一方で、細川信良は聖通寺城主の奈良氏に対して、三好氏を裏切り、香川氏と協力するように命じる文書も出しています。この時期に、讃岐から備中に、阿讃の兵を引き連れて侵攻していたのは篠原長房でした。篠原長房は天霧城を落城させた憎き相手でもありました。
香川県史の年表には、1571年のこととして次のような記事が載せられています。
6月12日
足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)
8月1日
足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.
9月17日
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)」
ここからは、香川某氏が足利義昭に働きかけて、小早川隆景や毛利氏の支援を受ける外交交渉を行っていたことが見えて来ます。 
このような香川氏の多度津「帰還運動」が実現するのが1577(天正5)年の元吉合戦です。

1 櫛梨城2

元吉合戦の経過

この戦いについては以前にお話したので詳細は省略しますが、この時に香川氏も毛利氏の支援を受けて多度津に帰ってきたようです。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

毛利氏にとって、この戦いの意味は次の3点です。
A 石山本願寺戦争に対して、戦略物資輸送路として備讃瀬戸の南側の脅威をとりのぞく。
B 信長包囲網の一環として、信長の同盟軍である阿波三好氏を討つ。
C その後の西讃経営のために、香川氏を天霧城に帰し、毛利氏の拠点とする。
つまり、反三好・反信長の拠点として香川氏を「育成」していこうとする戦略だったと研究者は考えています。そのため毛利方は、元吉合戦に勝利したにもかかわらず、年末には兵を引いて西讃から撤退していきます。毛利氏に西讃を任されたのが香川氏ということになります。こうして、12年ぶりに天霧城に復帰した香川氏の動きが活発化します。香川氏の発給文書が再び発給され始めるのも、この年からです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」
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   5分でわかる!]戦国一の暴君はこの武将!! | 戦国日誌
 三好長治(暴君説は、近世の蜂須賀時代の創作?)
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三好長治について、ウキは次のように記します(要約))
①天文22年(1553年)以降に三好実休の長男として生まれる
②永禄5年(1562年)、父・実休が久米田の戦いで戦死し、家督を相続
③伯父・三好長慶が畿内の支配力を支える重要な役割を期待された。
④幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。
⑤分国法「新加制式」を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛
⑥これらは篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の成果
⑦織田信長の上洛により、三好氏は次第に畿内から追われて阿波国に撤退
⑧元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。
⑨摂津国では、管領細川氏の嫡流・細川昭元を大将に担ぎ除く三好一門の大半を結集して、織田信長との戦いに挑んだ(野田・福島の戦い)。
⑩石山本願寺の加勢や近江国での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。
⑪元亀3年(1572年)には不仲となった篠原長房を、異父兄である守護の細川真之と協力して攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。
⑫強権化した長治に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告
⑬それを受けて十河存保からも長治の暴政について諫言あり。
⑭これを疎んじた長治は兵3000で香川・香西両氏を攻め、両氏の離反を決定的なものとした(「全讃史」)。
⑮天正3年(1575年)、阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要し、猛反発をうける。
⑯このため国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、支配力喪失
⑰国内の混乱は、長宗我部元親による阿波侵攻を誘発し、海部城や大西城などが陥落。
⑱天正4年(1576年)秋、守護・細川真之が本拠の勝瑞を出奔した
⑲長治は真之を討つため、那東郡荒田野へ出陣したが、一宮成相や重臣の伊沢越前守が離反で敗北⑳その後、篠原長秀の居城・今切城に籠もったが一宮勢の攻撃により追われ、
㉑同年12月27日、板東郡別宮浦(吉野川の川口付近)で自害した
㉒辞世の歌は、次の通りです。

三好長治 挽歌

「三好野の 梢の雪と 散る花を 長き春(長治)とは 人のいふらむ」

三好家の最後となった三好長治については、阿波では暴君説が流布されています。しかし、18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長治、さらに長宗我部元親などの評価が貶められていくことは以前にお話ししました。その一例が「三好長治=暴虐説・無能説」と私は考えています。話を本題にもどします。
天正4(1576)12月に、三好長治が阿波守護家の細川真之と阿波国人一宮成相・伊沢頼俊らに襲われて敗死します。この時期の阿波の政治状況を森脇崇文氏は、次のように述べます(要約)

 一宮成相と伊沢頼俊は細川真之とともに三好長治を攻め減ぼした。その後の阿波国主は織田信長と相談して決めようとしていた。織田氏に対する配慮のため、一宮・伊沢は長治横死に乗じて阿波復帰を合てた篠原松満(長房の遺児)の入国を拒否し、真之とも決裂してしまう。
 これに対し、信長との協調に反対する矢野房村(駿河守)らは細川真之、篠原松満、篠原実長らも糾合し、毛利氏と連絡を取り始める。すなわち、巨視的に見ると阿波三好権力は長治の死を契機に、織田氏と結ぼうとする勢力と毛利氏と結ぶ勢力に分裂した。前者に一宮・伊沢が、後者に細川真之、篠原松満、篠原実長、矢野房村が結集する状況にあった。

これを整理すると次のようになります。
阿波三好氏の内部対立
ここでは阿波では、「信長 OR 毛利」の同盟先をめぐる対立渦中にあったことを押さえておきます。
これは三好氏支配下にあった讃岐の支配体制にすぐに影響します。

まず、丸亀平野の中央にある元吉城の城主が毛利氏に寝返ります。
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか? 元吉合戦に参加した毛利方の乃美宗勝の記録には、次のように記されています。

「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、
毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴古館蔵)には次のように記します。

「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

両書ともに元吉城の主は、「阿波の三好遠江守であった、それが毛利方に寝返った」と記されています。
 ここからは三好遠江守は、阿波出身でありながら讃岐の元吉城を知行していたことが分かります。天霧城主の香川氏を追放した後、阿波や讃岐の国人たちに知行割りが行われていたのです。
三好遠江守の寝返りの背景には、阿波における「A 海瑞派(信長派) VS B 反海瑞派(毛利派)の対立があったと私は考えています。こうして翌年1577年7月には丸亀平野中央の元吉城をめぐって、毛利氏と「讃岐惣国衆」が交戦します。経過は以下の通りです。

1 櫛梨城2


元吉合戦の経過

小早川家臣の岡就栄に、元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状を見ておきましょう。
(意訳変換)
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐惣国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村三好安芸守の軍勢合わせて3000ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この時に参戦している讃岐惣国衆のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守も、三好遠江と同じように先国内に所領を盛っていた阿波の国人のようです。彼は、阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことが史料から分かります。
ここで注目しておきたいのは、攻城側の主体が「讃岐惣国衆」で、阿波側は三好安芸守しかいないことです。讃岐勢のメンバーの思惑は、香川氏追放後に得た知行地の死守だったことが推測できます。しかし、どうして阿波三好側は、兵力を差し向けなかったのでしょうか? 当時の三好氏は、信長と同盟関係にあり、毛利氏の瀬戸内海覇権を阻止する立場にあったはずです。前置きが長くなりましたが
今回は、「讃岐惣国衆」の中に名前がある安富氏の動きから、その疑問を探っていこうと思います。
テキストは、「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」

阿波情勢への讃岐の勢力の関与について、「昔阿波物語」には次のように記します。

【史料八】「昔阿波物語』第二   
一、天正五年五月に、伊沢越前(頼俊)、坂西に城を作るとて、坂西の町屋に御座候時、矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など談合して、若も伊沢が、我等を助ける事有間敷候間、伊沢を夜打掛に打ちはたさんと談合して、(略)

庄野久右衛門を頼み、夜半に見てに入る。伊沢殿満足めされ候様に申しなし候によりて、酒もりになり、平に正林も無くゑひつぶれ候所を、久右衛門、伊沢殿御宿を出ると否や、弓六十ちやうにて取かけ申し候。伊沢殿人数は千五百人御座候ひつれ共、夜半の事に候へば、町屋より出る所を射たをし/ヽ仕るに付て、千五百人は役に立たず、町屋の裏々より逃げて、伊沢殿宿計残り候を、火を付けて焼ころし候。一宮(成相)殿は、夜明て其儘、奥野迄御手遣なされ候ひつれ共、角瀬川・住古川水ふかく候に付て、勝瑞町人、河の端に出候て、勝瑞は持ち堅め申し候。(略)

矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃、この衆は勝瑞の町をたよりにして、住吉河切に戦を仕り候に付、讃岐の国東方の安富は、東方半国の大将なり。伊沢越前のをぢなる故に、人数五千人大山へ打上りて、 一宮殿と申合せ候。勝瑞の町は一宮殿計させ敵にして、大事に存じ候に、讃岐の人数を見てきもをつぶし候時、矢野駿河申され候様は、讃岐の者は大さか(大坂峠)を一足もゑさがるまじく候。是はきつかひなく候。 一宮計てきぞと申さる。少もちがはず、讃岐の勢は頓てもどり候。此内に篠原自返(実長)は、淡州の人数引連て、勝瑞へ御入り候。

意訳変換しておくと
一、天正5(1577)5月に、伊沢越前(頼俊)、坂西城の築城工事中に、坂西の町屋で矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など、もしもも伊沢が、我等の味方をしないのなら討ち果たすべしとと談合した、(略)

庄野久右衛門が夜半に見に入ると、伊沢殿は満足し、酒盛りとなった。正体もなく酔い潰れているのを確認すると、久右衛門は外に出て、弓六十帳で矢を宿に打ちかけた。伊沢殿は千五百人の人数を連れていたが、夜半の事なので、廻りの町屋から飛んでくる打ち手が分からず、千五百人の兵は役に立たず、町屋の裏々より逃げ出した。それを、伊沢殿は宿に火を付けて焼殺した。伊沢氏と連携していた一宮(成相)殿は、夜明てから奥野まで兵を進めたが、角瀬川・住古川の水深が深く、また、勝瑞町人が河の端に出て防備したので、勝瑞への侵入は果たせなかった。(略)

反海瑞派の矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃は、勝瑞の町を拠点として、住吉川まで押し出した。この際に、東讃岐守護代の安富は、伊沢越前の叔父であり親族関係にあったので、五千の兵を率いて大坂峠までやってきて、一宮殿と連携する動きを見せた。勝瑞の町は一宮への対応だけでなく、新たに姿を見せた讃岐の兵力を見て肝を潰した。その時、矢野駿河は「讃岐の者どもは、大坂峠を一歩も超えることはない。心配無用。一宮市への防備だけを考えれば良い」と云って不安を払拭した。この言葉は見事に的中し、讃岐勢は大坂峠から引き返した。こうして篠原自返(実長)が、淡路から兵力を連れて、勝瑞へ入城した。

これを要約しておくと次の通りです。
①天正5(1577)5月 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討った。
②伊沢氏と連携関係にあった一宮成相は、これを受けて、勝瑞を舞台に房付らと対峙した。
③そこへ讃岐「東方半国の大将」である安富氏氏が5000人を率いて、一宮成相を加勢する動きを見えた。
④これに対して、矢野房村は安富氏など讃岐勢が撤退すると予見し、その通りになった

ここには、安富氏は伊沢頼俊の(叔父)であったとも記されています。安富氏が三好氏の有力武将と婚姻関係を結んでいたことを押さえておきます。その関係もあって、安富氏は讃岐勢のリーダーとして、伊沢氏の側に立って、阿波の政争に介入する動きを見せたと記されています。

それでは矢野房村が讃岐勢がすぐに撤退すると予見できたのはどうしてでしょうか?
それが先ほど見た元吉合戦とリンクすると研究者は指摘します。
改めて1577年前後の毛利氏や信長の動向を見ておきましょう

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ここからは、当時は石山本願寺の攻防戦が本格化し、毛利方は石山本願寺への兵糧などの戦略物資の輸送ルート確保が最重要課題であったことが分かります。そのために寝返った元吉城を備讃瀬戸南航路の拠点として、改修工事を行い防備を固めます。これは、阿波では親毛利派の反海瑞派の政権奪取後のことなので、三好側の了解も得れると考えたのかもしれません。ところが、阿波国人はこれに納得しても、毛利の讃岐侵入を許せないと考えたのが「讃岐惣国衆」だったのではないでしょうか。その背景には、毛利氏の占領が元西讃守護代の香川氏の帰国復権とリンクしていたからです。1563年の天霧城攻防戦に敗れた香川氏は、安芸に亡命します。香川氏の所領は、この戦いに参加した、阿波・讃岐の国人たちに分配知行されます。香川氏が帰ってくるということは、得た知行地を失うことにつながります。
まさに「一懸命」の戦いが元吉合戦だったと私は考えています。
 しかし、寄せ集めの「讃岐惣国衆」は、戦術的な失敗をいくつもやらかしてしまいます。
①三好側の援軍が少数で、総勢で圧倒できない兵力で元吉城を攻めかかっていること。
②援護に駆けつけた摺臼山の毛利軍の大軍を背後にして、城攻めを開始していること
その結果、「讃岐惣国衆」は敗北します。これが長宗我部元親の讃岐侵攻開始の1年前のことです。これに懲りて、讃岐国人衆は土佐軍への組織的な抵抗をせず、帰順し先兵として活動することになったのではないかとも思えてきます。話が少し脱線しましたが、毛利方にとっては「讃岐惣国衆」の抵抗は「想定外」だったようです。親毛利方の三好配下にあると思っていた讃岐国人たちが攻めてきたのですから。
 
話を、天正5(1577)5月にもどします。 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討ちました。大坂峠までやってきた安富氏が、それ以上は阿波に入ってこなかったのは、元吉城をとりまく状況が切迫し、阿波への介入どころではなかったこと。矢野房村が安富氏の撤退を予見できたのも房村が毛利氏との交渉を担当していたためと研究者は推測します。

  昔阿波物語は三好氏にも仕えた二鬼島道知の著で、道知が体験した元亀以降の戦乱についての信憑性は比較的高いとされるようです。
 安富氏ら「讃岐惣国衆」が伊沢氏らの「勝瑞派」と提携した理由については、研究者は次のように推測します。
①伊沢頼俊の叔父にあたるという安富氏との縁成関係
②安芸亡命中の香川氏復帰を伴う毛利氏の讃岐進出への讃岐国人の抵抗
 11月に毛利氏と「讃岐惣国衆」の羽床氏・長尾氏が和睦すると、「阿・讃平均」と呼ばれる小康状態になります。そして天正6年(1578)には、三好存保が淡路から阿波に入国して阿波三好家が再興されます。そして安富氏ら東讃岐の国人もまた、阿波三好家の傘下に戻ったようです。
   以上を整理しておきます。
①三好長治の敗死によって、阿波三好家は「親信長派」と「親毛利方」に分裂した。
②これに対して、安富氏ら東讃岐の勢力は「讃岐惣国衆」として結集した動きをみせる。
③「讃岐惣国衆」は「親毛利方」と連携して阿波の混乱に軍事介入の意図を見せた
④しかし、毛利氏が讃岐元吉城に進駐すると、讃岐に戻り毛利氏と戦った。
⑤この戦いに「讃岐惣国衆」は敗北し、毛利氏や妥協し、三好氏の下へ帰順することになった

最後に、毛利氏の讃岐経営方針を推測しておきます。

毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号
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テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
長くなりますがその部分をまずは、見ていくことにします。
        53『南海通記』巻十三 抜三好存保攻北條香川民部少輔記
元亀年中二好存保讃州ノ諸将二命シテ、香川民部少輔ガ居城綾北條西庄ノ城ヲ囲ム、北條香川(昔文明年中細川政几優乱ノ時香西備中守二同意セズシテ細川澄元阿州ョリ上洛ヲ待タル忠義二依テ本領安賭シ、北條城付ノ知行ヲ加増二賜シカハ、是ヨリ細川三好世々上方二所領有テ相続シ来ル処二、今度信長公京都二入リテ、三好氏族家人ヲ逐フテ其所領ヲ奪ハル、是二依テ公方義昭公ノ御方人トシテ世二立ンコトワ欲ス。其才覚アルコトフ上方ノ三好家ヨリ三好存保ニ告ヶ来ル、是二因テ存保近隣ノ諸将二命シテ、西ノ庄ノ城ヲ囲マシム。香西伊賀守陣代久保三郎四郎吉茂、兵卒千人余を掲げて馳向フ。 羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川人千余人北條二来陣ス。香西陣代久利二郎四郎ハ西庄ノ城東表ヲ囲ム。

意訳変換しておくと
『南海通記』巻十三  三好(十河)存保の北條香川民部少輔・西庄城記攻防戦記

織田信長が上洛を果たした元亀年中(1570~73年)、三好(十河)存保が讃州の諸将に命じて、香川民部少輔の居城である綾北條郡の西庄城を囲んだ。①北條香川氏は文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、さらに北條城周辺の知行が加増された。
 細川・三好家は畿内に所領を以て相続してきたが、織田信長の上洛によって、三好一族は畿内の所領を奪われた。そんな時に公方義昭公が自立の動きを見せて、上方ノ三好家から三好存保に対して支援を求めてきた。そこで、②存保は近隣の諸将に命じて、香川民部少輔の西庄城を包囲させた。香西伊賀守の陣代である久保三郎四郎吉茂は、兵卒千人余を率いてこれに向かい、羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川氏など8千人余りが北條城を包囲して陣を敷いた。この時に香西陣代の久利三郎四郎は、西庄城東表を囲んでいたが、
永世の錯乱3

         讃岐武将の墓場となった永世の錯乱
①北條香川氏が阿野北平野の西庄城を領有するようになったのは「文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、西庄城周辺の知行が加増」のためと説明されています。確かに、この時の騒乱で香川氏や香西氏の棟梁達は討ち死にして、在京の讃岐勢力は壊滅的状態に追い込まれたことは以前にお話ししました。永世の錯乱が讃岐武将の墓場と言われる由縁です。

永世の錯乱2

この史料をそのまま信じると、永世の錯乱の敗者となった西氏や香川氏の勢力が弱まる中で、
勝ち組の阿波守護細川澄元についたのが北條香川氏になります。そして阿野北平野の西庄城を得たということになるようです。「中央での永世の錯乱を契機に讃岐は他国にさきがけて一足早く戦国時代を迎えた」と研究者は考えています。それが阿波の細川澄元やその家臣の三好氏の讃岐への勢力伸長を招く結果となります。その一環として細川澄元や三好側についた香川氏一族が領地を増やすというのはあり得ない話ではありません。それが具体的には香西氏の勢力範囲であった阿野北平野への進出の契機となったということでしょうか。しかし、これには問題点があります。香川一族と三好氏は犬猿の仲です。香川氏の基本的な外交戦略は「反三好」で一貫しています。長宗我部元親の侵入の際にも、対応は分かれます。最後まで両者が手をむすんだことはありません。こうしてみると、香川氏の一族の北条香川氏が細川澄元や三好側についたというのは、すぐには信じられないことです。

次の部分を見ていくことにします。
七月十三日ノ夜月明ナルニ東ノ攻ロヨリ真部弥助祐重、堀土居ヲ越テ城中ニ入り、大音ヲ揚テ名ノリ敵ヲ招ク、城中ノ兵弥介二人トハ知ラズシテ大二騒動シ手二持タル兵刃足二踏ム所ヲ知ズ混乱ス。城中ノ軍司栂取彦兵衛友貞卜名乗テ亘り合ヒ鎗ヲ合ス、弥介戦勝テ構取彦兵衛ヲ討取り、垣ヲ越テ我陣二帰ル。諸人其意旨ヲ知ラズシテ陣中驚キ感ズ。翌日城門ヲ開キ出テ駆合ノ戦有、香川家臣宮武源三兵衛良馬二乗り一騎許り馬ノ鼻ヲ並テ駆出ス。其騎二謂テ日、必ズ馬ヨリ下リ立テ首渡スベカラス。敵ノ背二乗リカケテ一サシニ駆破り引取ルヘシ城門ニハ待受ノ備アリト云間カセテ早々引取シカハ寄手モ互二知レ知リタル、朋友ナレバ感之卜也。然処二寄手大軍ナレバ城中ヨリ和ヲ乞テ城フ明渡ス。家人従類フ片付テ其身従卒廿人許り召具シ甲冑ヲモ帯セス、日来白愛ノ鷹フ壮ニシテ出デバ、敵モ見方モ佗方二非ズ、隣里ノ朋友ナレバ涙ヲ流サヌ者ハナシ.然シテ民部少輔ハ松力浦ヨリ船二乗り塩飽ノ広島へ渡り、舟用意シテ備後ノ三原二到り、小早川隆景二通シテ、帰郷ノコトワ頼ミケルトナリ。

意訳変換しておくと
七月十三日に夜の月が出て明るくなる頃に、東の攻から真部弥助祐重が只一人で堀土居を越えて城中攻め入り、大声をあげて名乗って敵を招いた。城中の兵は弥介一人とは分からずに、大騒ぎになり手に持った兵刃を踏むなどして混乱に陥った。城中の軍司栂取彦兵衛友貞が名乗り出て、互いに鎗を合わした。その結果、弥介が勝って栂取彦兵衛を討取り、垣を越て我陣に帰ってきた。陣中では、この行為に驚き感じいった。翌日には、城門を開いて討って出てきたので、騎馬戦が展開された。香川家臣の宮武源三兵衛は良馬に乗って、10騎ほどの馬が鼻を並べて駆出す。その時に臣下に「馬から下りて戦ってはならない。敵の背に乗りかけて一差しすれば、ただちに城門に引き返すべし。城門には敵を待ち受ける仕掛けを講じている」と。しかし、寄手側もその気配を察知して、策にははまらない。
 こうして大軍の寄せ手に対して、北條香川氏は和を乞うて城を明渡すことになった。家人や従類を落ちのびさせて、その身は従卒20人ばかりと、甲冑もつけないで、日頃から可愛がっていた鷹狩りの鷹を胸に抱いて城を後にした。この時には、隣里の朋友という間柄なので敵も見方も区別なく涙をながさない者はいなかった。こうして香川民部少輔は松カ浦から船に乗って、塩飽の広島へ渡り、そこで舟を乗り換えて備後に向かった。そして、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めた。
この前半部は軍記ものには欠かせない功名物語が書かれています。ここで注目したいのは最後の部分です。攻防戦の結果、香川民部少輔は船に乗って三原に渡り、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めたとあるところです。その続きには次のように記します。
毛利家ノ記曰く、公方義昭公御内書ヲ賜テ日香川帰郷ノコト頼被成ノ間早々可被相催候、阿波三好事和平フ願可申入候、然就承引不可有候、畿内三好徒堂¨大半令追状候者也.隆景其旨二応ジ、浦兵部太輔井上伯者守二五千余人ヲ附シテ、大船三百余艘二取乗五月十二日三原ヲ発シ、讃州松ケ浦並鵜足郡鵜足津二着岸ス。然シテ西ノ庄ノ城二押寄スル処二、香西伊賀守番勢ノ者トモ城ヲ明テ引去ル。香川ヲ西ノ庄ノ城へ入城セシメ元ノ如ク安住ス.中国ノ兵将香川ヲ本地へ還附
   然トモ敵ハ五千人地衆ハ五百人ナレバ相対スベキ様モナシ。地衆兵引テ綾坂ノ上二旗ヲ立テ相侍ツ。敵モ功者ナレバ川ヲ越エズシテ引去ル。六月一日二中国ノ兵衆二百余人ヲ西ノ庄二残シ置キ、総軍三原二帰ル。是ョリ香川民部少輔ハ毛利家ノ旗下トシテ中国フ後援トスル也。備後ノ三原ハ海上十里二過ズシテ行程近シ、国二事アル時ハ一日ノ中二通ス。故二国中ノ諸将侮ルコトフ得ザル也。
意訳変換しておくと
その当たりの事情を毛利家の記録には次のように記す。公方義昭公は将軍内書を発行して、香川氏の帰郷を支援することを毛利氏に促す一方で、阿波三好氏に対しては、両者の和平交渉を求める書状を送ったが、これは実現しなかった。
 これに対して、小早川隆景は義昭の求めに応じて、浦兵部の太輔井上伯者守に五千余人を率いらせて、大船三百余艘で五月十二日に三原を出港し、讃州松ケ浦や鵜足郡鵜足津に着岸した。そして西庄城に攻め寄せた。これに対して、香西伊賀守の守備兵たちは城を開けて引き去っていた。そこで香川氏は西庄城へ入城して、元のように安住することになった。一方毛利家の兵将は、香川氏を西庄城に帰還させ、その余勢で阿野南条郡にも勢力を拡大させようと、綾川周辺にも押し出そうとした。これに対して、周辺の地侍達は綾坂に守備陣を敷いた。ちょうど季節は5月の長雨時期で、綾川の水量が増え、川を渡ることが出来ずに双方共に綾川を挟んでのにらみ合いとなった。しかし、500対5000という兵力差はいかんともしがたく、地侍衆は兵を引いて綾坂の上に旗を立て待ち受けた。これに対して、敵(小早川軍)も戦い功者で、川を渡らずに引下がった。
 6月1日に中国の兵衆二百余人を西庄に残して、総軍が三原に帰った。これから香川民部少輔は毛利家の旗下として中国(毛利氏)の傘下となった。備後・三原は海上十里ほどで海路で近い。なにか事あるときには一日の内に報告できる。こうして、香川民部少輔は讃岐中の諸将から一目置かれる存在となった。

ここには次のようなことが記されています。

①将軍義昭が対信長包囲網の一環として、香川民部少輔の讃岐帰還を毛利氏に働きかけた
②その結果、毛利配下の小早川軍5000が
香川民部少輔の西庄城帰還を支援し、実現させた。
③以後、香川民部少輔は毛利・小早川勢力の讃岐拠点として、周囲の武将から一目置かれる存在となった。
この話を読んでいると、元吉(櫛梨城)合戦とストーリーが基本的に一緒な事に気がつきます。考えられる事は、元吉合戦から100年後に書かれた南海通記は、古老達の昔話によって構成された軍記ものです。話が混同・混戦しフェイクな内容として、筆者によって採録され記録されたようです。

香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
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天正三(1575)年に長宗我部元親は土佐国内の統一を果たします。
 翌年には早くも阿波三好郡へ侵入し、白地城主の大西覚養を降伏させます。元親は白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予三国への侵攻を開始することになります。

長宗我部元親 地図

天正六(1578)年夏になると、讃岐侵攻を開始します。それは讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略・降伏させたことに始まります。元親は、藤目城に桑名太郎左衛門と浜田善右衛門を入れて、讃岐侵攻の拠点とします。攻略の手を一歩進めたのです。
 当時の讃岐は阿波の三好氏配下にありました。
群雄割拠と云えば聞こえはいいのですが、実態は中小武将の割拠状態でまとまった勢力がありませんでした。そこへ侵入してきた阿波の三好勢力下の置かれていたのです。しかし、三好氏に反発する香川氏のような勢力もあり讃岐は一枚岩というわけにはいきませんでした。
 讃岐西端の三豊に長宗我部元親によって打ち込まれた布石に対して、阿波の三好存保は配下の聖通寺城主・奈良太郎兵衛勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆が阿波の三好氏の指令で動いていることを押さえておきます。
長宗我部元親 本篠城
                      本篠城のあった山(財田町)
 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には今度は目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。これに対して「西讃守護代」とされてきた多度津天霧城の、香川信景は援軍を派遣しません。動かないのです。

DSC06256本篠城(財田)
本篠城跡縄張り図

 藤目・本篠城攻防の時、なぜ香川信景は援軍を派遣しなかったのでしょうか。
 南海通記には、そのことが語られずに、ただ信景は戦わずして元親に降ったということのみが強調されています。香川氏が援軍を送らなかったことの背景を今回は考えて見たいと思います。  テキストは 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士です。
 
安藤道啓堂の謎 - カーキーのおもしろ見聞ダイアリー

まずは、土佐軍侵攻の前年からの情勢を年表で見ておきましょう。
香川氏の系譜1
              香川氏の系譜と一時的な安芸亡命
  1577 天正5
7月元吉合戦 毛利・小早川氏配下の部隊が讃岐元吉城(櫛梨城)に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
11月 勝利した毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野
11月 毛利軍、足利義昭の調停により三好方と和し、引き上げる(厳島野坂文書)
阿波白地城主大西覚養、長宗我部氏に攻められ麻城の近藤国久のもとへ亡命(西讃府志)
  1578天正6(戊寅)
  夏 長宗我部元親、藤目城を攻略。
十河存保の命をうけた奈良太郎兵衛尉らこれを奪回する)
長宗我部元親、三野郡財田城を攻略する(南海通記)
長宗我部元親、ふたたび藤目城を攻略する

 永禄年間(1558~70)に、阿波の三好氏の讃岐侵攻が強まります。
その結果、香川氏は天霧城龍城戦から敗走し、一時的には毛利氏を頼って国外に亡命しながら抵抗を続けたことは以前にお話ししました。天正五(1577)年になると、毛利氏は石山本願寺戦のための瀬戸内海海上覇権確保の一環として、讃岐の元吉城(櫛梨城・琴平町)に軍を送り駐屯させます。同時に、亡命中の香川氏へのてこ入れを行ったようです。こうして、三好配下の讃岐衆との間で、櫛梨城をめぐる攻防戦が展開されます。これが元吉合戦で、毛利氏は勝利します。
   
元吉合戦の経過
元吉合戦の経緯

 毛利氏に領土的な野心はなく、瀬戸内海の通行権が確保されると、その年の秋には和約を結び撤退していきます。その後を毛利氏から任されたのが香川氏ではないかと私は考えています。香川氏については、元吉合戦には出てきませんが、同時並行で天霧城を回復し、西讃・三豊における支配権を回復したようです。つまり、香川氏は毛利氏の支援を受けて、天霧城に帰ってきて西讃の支配権を回復しようとしていたのです。
香川氏の仮想敵国は、どこになるのでしょうか?
第一に挙げられるのは、阿波の三好氏です。次に三好氏配下の讃岐衆です。具体的には、羽床氏・長尾氏・近藤氏・大平氏・詫間氏などです。香川氏は阿波三好氏の侵入に苦しみ続けられてきました。香川信景も、三好氏を仮想敵国とする外交戦略を考えることになります。
 具体的には「敵(三好氏)の敵は味方」という法則がとられます。
当時の三好氏は、信長と和解し、毛利包囲網の一端を担っていました。ここに新たな敵を向かえることになります。それが土佐を統一した長宗我部元親の登場です。年表を見ると分かるとおり、長宗我部元親が讃岐侵攻を開始するのは、毛利が元吉城を引き払ったあとです。毛利軍の姿が讃岐から消えたのを見計らうようなタイミングです。ここには毛利と長宗我部の間には密かに「不戦条約」が結ばれていたと考える研究者もいるようです。

このような情勢を天霧山にいた香川信景はどのように見たのでしょうか。
  三好の脅威におびえる信景にとって、毛利撤退後に頼るべき相手として長宗我部元親が見えてきたのではないでしょうか。香川氏には、讃岐守護細川家に仕える西讃守護代としてのプライドもありました。
「自分は細川氏の家臣で、阿波の三好配下ではない」という気構えがあったようです。下克上で主君細川氏にとって替わった三好氏には反発心を持ち抵抗し、三好方の侵攻を何度も受けていることはお話しした通りです。そのために天霧城を包囲されたり、一時的には天霧城からの撤退も余儀なくされています。つまり、香川氏にとっては主敵は三好氏なのです。反三好のために香川氏が選択できる外交戦略は次の通りでした
①織田信長への接近
②毛利元就への接近
③長宗我部元親への接近
それまでに取ってきた同盟関係が①②でした。宿敵三好氏打倒のためには、③の長宗我部元親との同盟をとることに抵抗感はあまりなかったと私は考えています。
  一方、長宗我部元親も力による制圧戦は望んでいません。
土佐勢は兵農分離の進んでいない一両具足の兵達です。長期戦には不向きで、消耗すればなかなか補充がききません。戦わずに陥すのが元親の本心です。
長宗我部元親一領具足

そこで元親が使ったのが細川家の「守護の権威」です
 讃岐と土佐の守護を兼ねていたのは京兆家の当主細川昭元でした。細川昭元は、足利義昭と織田信長が決裂した際に、信長側につきます。昭元は名家の当主として信長に庇護される状態でした。信長は昭元を道楽で保護していたわけではなく、彼には利用価値があるとかんがえていたのです。信長は「対三好包囲網」に香川氏を誘うために細川昭元の守護としての権威を利用活用しています。

長宗我部元親と細川昭元
細川家系図
 天正11年(1583)に細川昭元は香川信景に、讃岐国東部の管轄も任せる旨の書状を発給しています。この昭元の動きの背景には、信長の意向があります。信長は讃岐守護という昭元を利用して、霧城城主の香川氏を取り込もうとします。
  私は、香川氏と長宗我部元親の橋渡しをしたのは、細川昭元ではないかと考えています。
細川京兆家は土佐の守護でもあり、讃岐の守護でした。香川氏と長宗我部氏は、同じ主君に仕える身であったことになります。そこで、「三好打倒のために長宗我部とも手を組め。そして逆臣三好を成敗せよ」などという親書が香川氏の下に届けられたのではないでしょうか。これは香川氏にとっては、三好打倒のための最高の大義名分となり、三好に反発をもつ讃岐国衆をまとめる旗印にもなります。それは信長の意向でもあったはずです。

 その調略活動に活躍したのが、元親の右筆(ブレーン集団)として仕えていた土佐の山伏(修験者)たちであったと私は考えています。
 土佐は熊野信仰の修験者たちの多い所です。彼らは先達として、信者達を引き連れて熊野詣でを行いました。そのルートが現在の国道32号線と重なる熊野詣ルートです。ここは辺路ルートでもあり、修験者の行場や古い熊野神社などが点在していることは以前にお話ししました。長宗我部元親のもとで右筆を勤めた修験者たちは、辺路修行や聖地巡礼を通じて四国の隅々まで知り尽くしていました。彼らの情報収集力や修験道を通じた人的ネートワークを、元親は重視し活用したでしょう。阿波への道や讃岐山脈を越える山道も、修験者にとっては修行の場であり、何度も通った道です。
 当時の元親の右筆集団(秘書団かつブレーン)の中で、信頼を得ていたのが南光院でした。
彼は現在の四国霊場39番延光寺の奥社を拠点にした熊野修験者です。その配下には多くの修験者たちをかかえていました。後に、この延光寺が土佐山内藩に宛てた文書には、南光院を修験者集団の「四国の総代表」と記しています。真偽の程は分かりませんが、彼が当時の四国の修験者の中で名前の知れた人物であったことはうかがえます。ちなみに彼は、西讃制圧後に金毘羅大権現を祀る金比羅堂別当職に、元親から指名されます。そして、金毘羅を讃岐平定の総鎮守とすることを託されるのです。
ここからは私の推論を交えながら、小説風に行きます。
元親の意向を受けて、天霧城の香川氏への調略工作を行ったのは、この南光院だと私は考えています。彼のまわりには、次のような山伏(修験者)集団の存在がありました。
①箸蔵周辺の阿波山伏
②雲辺寺・大興寺・観音寺につながる密教系修験者
③尾背寺(まんのう町)・大麻山(後の金比羅山)・善通寺の修験者
④天霧山麓の弥谷寺の修験者・聖集団
(これらの寺院は土佐軍の兵火を受けていない)
これらの集団の中には南光院の息のかかった者が幾人かは送り込まれて「間諜(スパイ)」としての役割を果たしていたとしておきます。雲辺寺→観音寺→弥谷寺というのは彼らの辺路ルートでもありました。山伏姿で、「辺路」ながら情報収集活動をしても何ら疑われることはありません。天霧山の下の谷にある弥谷寺に入った間者の修験者たちは、密かに香川氏に対して同盟を働きかけた私は考えています。その時期は、藤目城の攻防戦以前から始まっていたでしょう。
 思い返せば天正六(1578)年夏に、大西上野介は豊田郡藤目城主の斎藤下総守を調略しています。これに平行して香川氏への働きかけも始まっていたのかもしれません。そして、本格的な攻防戦が始まる前には、長宗我部元親と香川信景のあいだに密約は出来上がっていたと思うのです。天霧城の「不動」の姿からそう私は感じます。だから香川氏は、動かず援軍を送ることもなかったのです。

長宗我部元親讃岐侵攻図1
 
香川氏から見れば、藤目城や本篠城に結集した軍勢は、ある意味で阿波三好氏の手先の讃岐衆です。
かつては天霧城にせめかかってきた輩達なのです。それが長宗我部によって、打ち砕かれるのは香川氏にとっては願うところです。
三好に与する讃岐衆は、土佐軍によって撃破・排除する。
親三好派を排除した後に残った勢力の調略活動は香川氏が行う、

そんな役割分担が讃岐侵攻以前に出来上がっていたかもしれません。こうして、財田の城や藤目城に結集した親三好勢力は撃破・殲滅されていきます。さらに、抵抗を続ける室本や仁尾や二宮・麻の勢力は力で殲滅します。その後の日和見的勢力への「寝返り工作」については、香川氏が担当したとしておきましょう。
IMG_0102天霧城の香川氏
                   香川氏の居城 天霧城
藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢の足取りを辿ってみると次の勢力が力攻めで滅ぼされています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主詫間弾正、長宗我部氏に攻められ滅亡する(西讃府志)
④高瀬の麻の近藤氏、山本町神田の二宮・近藤氏
 三好勢に近く、以前から香川氏との小競り合いを繰り返したいた勢力であることが分かります。

「讃岐の寺社由緒書は、長宗我部元親による焼き討ち被害で充ち満ちている」と以前にお話ししました。
繁栄していた寺が土佐勢の兵火に罹って焼け落ち、再建されることなく廃絶したというストーリーです。これは近世後半になって広がった「伝説」です。結果として、長宗我部元親は讃岐では「悪人」として語られることになります。
 しかし、個別の神社の実例を見てみると、どうもこの伝説は事実ではないようです。例えば、中世に遡る建築物を持つ寺社は焼き討ちされていないことになります。本山寺本堂・観音寺本堂などは兵火を免れています。全てを無差別に焼き払ったという痕跡は見当たらないのです。どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。
讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。
 その多くは香川氏の領地でした。香川氏に従っていた国人層は、香川氏の降伏にともない、長宗我部氏の支配下にそのまま収まります。その形は、直接に元親に服属するのではなく、香川氏に仕えるというままの形で存続したようです。例えば、本門寺を中心とする法華信徒であるで三野の秋山氏も香川氏のもとにそのまま仕えています。これは、香川氏の領地はすべて安堵されたことになります。これは「降伏」というには、あまりに寛大な処置です。
 さらに、香川信景は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、香川家の跡継ぎとします。これは、降伏というよりも軍事同盟の締結といった方がよさそうです。これについてはまた、別の機会にお話しします。
土佐軍と戦った勢力の領土は没収され、検地が行われ占領者に給付されていきます。
『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からきた人物です。彼には
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

の土地が与えられています。これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 これ以外にも土佐から讃岐へ移り住む者が多くいたようで、高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。最後まで抵抗した勢力の土地は没収されたのです。
 これらの動きを南海通記は、香西氏の立場と郷土愛(パトリオティズム)を織り交ぜて記します。そのため土佐軍を侵略者=悪、それと戦う勢力を郷土防衛軍=善と色分けした勧善懲悪的な軍記物仕立てになっています。そして、土佐軍にいち早く降伏した香川氏は悪者とされることが多かったようです。
 この視点は、物語としては面白いのですが歴史の冷酷さやリアリティーは欠落していくことになります。南海通記の視点を越えた歴史叙述が待たれる由縁です。


 三豊地方を支配下に置いた元親は、天正七(1579)年4月に中讃地方へと侵攻を開始します。
長宗我部軍は、まず羽床攻撃を行いますが、その際の先陣は香川氏傘下の三野菊右衛門と河田七郎兵衛が勤めています。香川氏が土佐軍の先導役を勤める姿がよく見られるようになります。戦いは長宗我部軍の大軍に対して羽床軍は多勢に無勢で敗退し、一族の木村氏の仲介で降伏しています。

DSC05414羽床城
                     羽床城縄張り図

 実際の戦いがあってから百年以上経って書かれた讃岐の軍記物「南海通記」には、讃岐武士団の抵抗ぶりが華々しく書かれています。しかし、根本資料である土佐側の資料には、讃岐の武士団に、必死で抵抗する姿は見えません。形ばかりの籠城と小競り合いの後に降伏するか、無血開城するかのどちらかです。
 この裏では、香川信景による調略工作があったようです。
阿波三好の横暴さと、主君細川氏への裏切りを説き、今こそ阿波侍の首から解放される時が来たと、土佐軍を解放軍として説いたかも知れません。また、占領後の香川氏と長宗我部氏の同盟関係に触れながら、無血入城すれば悪いようにはしないと説いたかも知れません。どちらにしても、「籠城総員討ち死」なんていう姿は見られません。その辺は計算高い讃岐人らしさかもしれません。羽床氏は讃岐最大の武士団綾氏の統領でもありました。その羽床氏が降伏すると、滝宮の滝宮弥十郎をはじめとする綾氏一族はそれになびきます。

西長尾城
                    西長尾城縄張り図
 私が分からないのは西長尾城の長尾大隅守の動きです。

軍記物では、長尾氏は丸亀平野に入ってきた土佐軍と激しく戦ったとされます。しかし、土佐の資料には長尾氏が抵抗したとの記述は見えません。香川氏の先陣が勤める土佐軍が、西長尾城の下を通って、羽床城を攻め込むのを見送っています。長尾氏が降伏するのは、羽床城陥落後です。
丸亀平野に軍を進めた長宗我部元親が本陣として、軍を進駐させたのはどこでしょうか?
軍記物には金毘羅に本陣を置いたと記すものが多いようです。しかし、大軍を置くにはふさわしくないような気がします。候補地としては、前々年に起きた元吉合戦の舞台となった櫛梨城でないかと私は考えています。毛利軍が三好軍の中讃への侵攻を阻止し、石山本願寺への兵粮輸送ルート確保のために軍を進駐させた城です。ここは土佐藩占領下で大規模改修工事が行われて土佐流の竪堀が掘られていたことが発掘調査から分かっています。

1 櫛梨城 地図
                     櫛梨山城 

 元親は金比羅堂(琴平)にも参拝し、「四国平定成就」を祈願しています。
金比羅堂や松尾寺は、長尾寺の一族によって数年前に建立されたばかりの新興の寺社でした。金毘羅大権現の別当金光院院主は西長尾家城主の弟(甥)である宥雅が務めていました。宥雅は、土佐軍の侵入を受けて堺に亡命します。つまり、金光院は無住となっていました。その院主を任せたのが先ほど紹介した南光院です。彼が宥厳と名を変えて別当職を務めることになります。その時に元親があたえた課題は、金比羅堂を四国支配の新たな宗教施設とすることでした。そして、四国平定の折には、山門の寄進を約束します。それが後に二天門として寄進されます。それが棟札の写しからも裏付けられます。

4344104-31多宝塔・旭社・仁王堂・二天門・仁王門

長宗我部元親寄進の二天門(讃岐国名勝図会)
二天門棟札 長宗我部元親
               長宗我部元親の二天門寄進棟札
天正8年には、西長尾に新城を築城し、国吉甚左衛門を置き中讃の拠点とします。
この時に長尾城は土佐風の山城に大改修されます。現在の西長尾城は、長尾氏時代のものではなく、土佐軍が進駐していた時代の山城跡になるようです。そして、天正9年6月、元親は東伊予・西讃の国侍たちに出陣を命じ、西長尾城に1、2万の軍を集結させます。香川氏に養子に入った元親次男の香川親和を総大将とした土佐軍は、那珂・鵜足郡へ向けて進撃していきます。讃岐全域の平定戦の始まりです。まず、聖通寺城主奈良太郎兵衛を敗走させ、更に藤尾城の香西佳清を攻めます。ここでも香川氏の斡旋により和議が結ばれ、長宗我部軍に降ります。天正11年 元親軍は再度讃岐へと侵入します。そして十河城に入った十河存保を攻めます。そして天正12年6月十河城を落城させ、存保は播磨へと亡命します。こうして讃岐全土は元親によって平定されます。

元親にとって香川氏の協力なくしては讃岐平定は不可能だったとも云えます。
従来の史書は、香川氏は元親に服属したと記します。元親の次男が信景の養子となり、香川氏の家督を相続したとも思われています。しかし、養子に入った親和は香川氏の歴代継嗣が名乗った五郎次郎を称しますが、単独で発給した書状は少なく、信景との連署状が多いようです。ここからは、実権は信景が依然として握っていたことがうかがえます。引退しても、実権を失っていたのではないようです
   香川氏と長宗我部氏の婚姻関係は、香川氏を支配下に置くと考えるよりも、味方につけたと研究者は考えるようになってきています。香川信景には男子がなく娘だけでした。後継者が必要なため、元親の次男を婿として迎え入れ、香川家を継がせることにした。信景は元親に降伏というより、姻戚関係を結ぶことにより家の存続を図ったというのです。女子を人質で遣わす例は多くあります。男子を跡継ぎといえども遣わすのはある意味では、人質とも云えます。降伏した香川氏に、長宗我部氏が人質を遣わすことは不自然です。輿入れの後、信景が土佐の岡豊城へ赴いた際の歓迎ぶりが次のように記します。

「元親卿の馳走自余に越えたり、振る舞も式正の膳部なり。::五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り」

盛大な饗応ぶりです。この歓待ぶりは征服者と服属者の関係とはいえないと研究者は指摘します。元親は次男親和を婿入りさせ、信景と同盟者としての関係を持つようになったと解すべきとします。
 その後、秀吉の四国攻めにより、長宗我部元親は土佐一国に封じ込められます。
その際の香川信景・親和父子への対応にも現れているといいます。領地を失った香川氏親子を土佐へ迎え、領地を与えています。
   以上をまとめておくと
①天霧城主の香川氏は西讃岐守護代として、守護細川家に仕えて畿内に従軍することも多かった。
②守護細川家に代わって下克上で阿波三好氏が実権を握り、東讃方面から西讃へと勢力を伸ばす。
③香川氏は伸張する阿波三好氏の勢力に押されて、一時的には天霧城を捨て毛利家に亡命することもあった。
④毛利家は元吉合戦の際に、香川氏の天霧城への復帰を支援し、その後の西讃支配を託し撤兵した。
⑤長宗我部と毛利の間には不戦条約があり、毛利撤退後の軍事的な空白を長宗我部が埋めることに問題はなかった。
⑥こうして長宗我部元親と香川信景は密かに同盟を、讃岐侵攻前に結んでいた。
⑦親三好派の讃岐衆は、土佐勢によって撃滅・排除され、日和見勢力に対しては香川信景が調略工作をおこなうことで、讃岐平定はスムーズにすすんだ。
⑧その結果、跡継ぎのいなかった香川信景は元親の次男を婿として後継者に迎えた。
⑨長宗我部元親と香川信景は「降伏」というよりも「同盟関係」にあったというほうが、その後の出来事を捉えやすくする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士
関連記事
https://tono202.livedoor.blog/archives/cat_391682.html


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 知人から「琴平の山城」という冊子が送られてきました。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
1 櫛梨城 地図2
櫛梨周辺図(「琴平町の山城」より)

 櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。

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櫛梨神社への参道と、その上にある櫛梨城跡
 
 櫛梨は銅鐸・平形銅剣が捧げられ、式内社の櫛梨神社が鎮座することから分かるように、早くから開発が進み諸勢力を養ってきた地域です。中世には、櫛梨は宥範を出した岩崎氏の勢力下にあり、彼の生誕地ともされています。戦国時代には、この山に山城が築かれていたようですがそれが岩崎氏のものであったかどうかは分かりません。
 三野の秋山家文書には、応仁の乱後に櫛梨山周辺での戦闘があり、秋山氏の戦功に対して、天霧城主の香川氏から報償文書が出されています。丸亀平野に侵入しようとする阿波三好勢力と、香川氏の間に小競り合いが繰り返されていたことうかがえます。
 それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
1 櫛梨城 地図
櫛梨神社と櫛梨城の関係図(琴平町の山城より)

 どちらにしても元吉合戦が始まる前には、この城には毛利氏の部隊が駐屯し、山城の普請改修をおこなっていたようです。その経過については、以前にお話ししましたので、要点だけを羅列します。
 毛利氏は石山本願寺支援のための備讃瀬戸ルート確保が戦略として求められます。そのためにも讃岐を押さえておく必要性が高まり、櫛梨城を調略し、改修普請を行います。これに対して、織田信長の要望を受けた三好勢力は、配下の讃岐惣国衆を動員し、櫛梨城を攻めました。これが1577年の元吉合戦です。
元吉合戦の経過


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櫛梨神社
   麓には式内社の櫛梨神社が鎮座します。明治になって合祀した周辺の祠が集められきちんと祀られています。この神社にも神櫛王(讃留霊王)伝説が伝わっています。しかし、社伝ではなく善通寺中興の祖=宥範の伝記の中に記されているものです。中世以後に、語られるようになったものであることは以前にお話ししました。

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 神社に参拝し、拝殿の東側から整備された遊歩道を登ります。遊歩道は頂上に向かって直登するのではなく、トラバースした道でなだらかな勾配です。10分ほどで①尾根上に立つことができました。
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毛利援軍が陣取ったという摺臼山、その向こうには善通寺の五岳

ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。

1 櫛梨城 山本先生分
 
毛利軍の冷泉元満らが送った勝利報告書には次のようにあります。
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここからは、元吉城に攻めかかっている三好軍の背後を毛利援軍が襲ったようです。そうだとすると三好軍は、摺臼山に陣取る毛利軍を背後にしながら元吉城の攻撃を始めたようです。敵を背後にしながら攻城戦をおこなうのかな?と疑問に思いながら緩やかで広い稜線を東に歩いて行きます。そうすると木橋と階段が見えてきました。ここが縄張り図Aの位置になるようです。

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竪堀にかかる木橋

   ここで縄張り図について、専門家の説明を聞いておきましょう。
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(東部分の)曲輪Ⅱは低い土塁で囲み北側に虎口を開く。Iとの段差は小さい。Iへは北西部で虎口より上り、南側隅は緩い斜面で下の曲輪へ通ずるが虎口かどうかはっきりしない。この曲輪は土塁に囲まれ両側に虎口を有するので大型の枡形といえる。
 曲輪は幅4~8mでI・Ⅱを完全に取り囲む。Iとの段差は3m前後と高い。南側中央には虎口状の小さな凹みがあり山道が下る。東端は低いが土塁となっている。
 曲輪IVは頂部を半周し、西側には一部土塁が残り土橋状地形もある。曲輪IVの南西隅から緩やかに下ると小さな平場があり、直下には幅6m前後の堀切Aがあり、両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない。

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 南西尾根先端には出曲輪Vがある。尾根は緩やかに下るが途中両側に土塁があり、先端に性格不明の凹みがある。V南直下には曲輪があり、その下は採石場により崖となる。現在神社よりここまで立派な道が作られている。
  木橋がかかる所は「堀切A」で「両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない」とあります。報告書通りに、木橋がありました。そして木橋の両側には竪堀があり、下におちています。
  山城としては、なかなか遺構が良く残っています。木橋を渡って整備された急な階段を登っていくと曲輪Ⅳを経てⅠへたどり着きます。ここが頂上ですが、まず感じるのは、その広さと大きさです。
人為的な整地や整形が加えられているような感じがします。

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   平成7年の試掘調査では、主郭中央で柱穴が見つかっているようです。さらに、主郭と堀切Aの間で地山を削り出した上に盛り土を行った3段の帯曲輪を確認し、そこからは土器片や火炎を受けた石材が多数出土したようです。
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休息所のベンチに腰を下ろして、報告書を読みながら改めて、南に広がる景観を楽しみます。
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琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
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 クヌギの大きな木の枝にブランコが懸けられています。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
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如意山に向かっては、いったん鞍部を東に下りていきます。その前に、報告書で確認です。
 曲輪Ⅲの東下には塹壕状の突出を持つ横堀Bがあり北寄りに虎口が開く。この横堀は上の曲輪の切岸を高くしたために出来たと思われるが、北端と南端は上の曲輪とつながる道があり、曲輪Ⅲから横矢も効くので登城路として使用し、突出部は枡形機能を持たせ尾根続きへの防御を強めたものであろう。その下には2重堀切Cがあり竪堀となって両側へ深々と落ちる。C北側にはしっかりした連続竪堀2本(1本はその後の調査で判明のため未描写)を構築している。竪堀の間には上の横堀より道が下る。 
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   確かに鞍部まで下りると竪堀が2本連続して、鞍部を横切っています。これは、今から向かう如意山方面からの攻撃に備えるためのようです。「東方の防御性に備えた縄張り」となっているようです。
 しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
   櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
1 櫛梨城 山本先生分

この鞍部からさらに東に伸びる稜線を辿っていくと、石の祠があるピークに着きます。
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この祠の前には、こんな「説明版」が置かれていました。
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近代には、雨乞い行事がここで行われていたようです。社伝に伝えられる尾野瀬山から運ばれた聖なる火がここで再び灯され、雨乞いが行われたのかも知れません。
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 さらに、なだらかな歩きやすい稜線を行くと三角点のあるピークに出ました。ここが如意山頂上のようです。櫛梨山に比べると頂上は狭く、山城を築くには不適な印象を受けます。展望もないので早々に、稜線を下ります。
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ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと

①天霧城の香川氏が本当に、毛利氏のもとに亡命していたのか
②香川氏の讃岐帰国支援とリンクした備讃瀬戸海上覇権確保
③そのための毛利水軍衆による櫛梨城防衛=元吉合戦
④その後の土佐・長宗我部元親の侵攻と西長尾城や櫛梨城の改修普請
そんなことを頭の中で考えながらの里山歩きは、楽しいものでした。
山城についての著書を送っていただいたYさんに感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三 琴平町の山城
          中世城郭分布調査報告書 香川県教育委員会

 「南海通記」の画像検索結果

讃岐の戦国史は、史料的な制約もあり『南海通記』など後世の戦記物の記述に頼らざるえない状況にありました。こうした状況に風穴を開けようとする動きが、昭和の終わり頃から始まります。まず国島浩正氏は、毛利側の一次資料を利用した元吉合戦解明を提唱し、その概要を次のように明らかにします(1993年)
①元吉城の所在地を琴平町の櫛梨山(櫛梨山城)に比定
②合戦の性格を、毛利・足利義昭・石山本願寺連合と織田信長の瀬戸内海制海権をめぐる一連の抗争の中での戦闘
そしてこの戦いが、小さな戦闘ではなく瀬戸内海の制海権をめぐる戦略的な戦闘であったことを明らかにします。続いて多川真弓氏は、毛利氏の対織田戦争における瀬戸内海の海上支配の観点から次のような検討を加えました
①合戦に参加した毛利勢、讃岐惣国衆の具体的な陣容
②毛利氏の備前児島~塩飽~宇多津の備讃海峡支配との様相と関連
 そしてこの合戦の性格が備讃瀬戸海峡の支配権をめぐるものという視点から、元吉城は海に近い綾歌郡宇多津町の聖通寺城に比定します。
 橋詰・多田氏両氏の成果は、元吉合戦が讃岐だけでなく阿波三好氏や毛利氏・長宗我部元親氏の動きとも関連してくることを明らかにすることで、各方面の研究者の注目と関心を引くようになります。
そこで改めて問題になるのが元吉城が、どこにあったかです
①橋詰氏は、琴平町の櫛梨山城
②多川氏は、宇多津の聖通寺城
と見解が分かれました。
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櫛梨山城のある櫛梨山 ふもとには式内社の櫛梨神社が鎮座

 川島好弘氏は橋詰氏・多田氏の成果をふまえながら、元吉合戦に至る経緯、戦いの具体的な状況を再度検証し、元吉城の所在地を明らかにしていきます。そのうえで、讃岐に侵攻した毛利氏の合戦の意図についても検討をすすめていきます。その足取りを追ってみましょう。
テキストは「川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット」です。

まず元吉合戦までの動きを見てみましょう。

元吉合戦の経過

1577(天正五)年7月、冷泉元満は小早川隆景から次のように命じられています。

「二十日至讃州乗渡、其儘岩屋可有上着候」

舟で讃岐に渡り、そのまま淡路岩屋に向かえという指示内容です。讃岐のどこに渡ったのかは、分かりません。ただ、ここからは讃岐国内で合戦になるような緊張した動きはうかがえません。七月以前の毛利側の史料に元吉城は、まだ現れてきません。ここからは毛利氏は、当初においては元吉城の確保を戦略的な目的としてはいなかったと研究者は考えているようです。
元吉合戦は、どのように戦われたのか?
その後、閏7月12日頃に冷泉元満が再び讃岐に渡たります。この頃から元吉城が史料に現れるようになります。18日付けの冷泉元満宛小早川隆景書状には、次のように記されています。
「其表数日御在陣、殊普請等之儀」
20日付の毛利輝元書状にも
「至元吉城城番衆 御馳走候而頓被差籠之由」

とあることから、閏7月20日以前の段階で冷泉元満は元吉城の普請をおこない、軍勢を送り込んていたことがうかがえます。そして、閏7月20日、讃岐惣国衆が元吉城を攻撃し、毛利勢との間で合戦が繰り広げられます。この戦いが元吉合戦です。
川島好弘氏は、合戦の詳細を史料で検討していきます
史料1天正五年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、

天正五年閏七月二十二日   
乃美兵部      宗勝
児玉内蔵太夫  就英
井上又右衛門肘 春忠
        香川左衛門尉  広景
桂民部大輔      広繁
杉次郎芹衛門尉 元相
粟屋有近助      元之
古志四郎五郎  元清
杉民部大輔      武重
村上弾正忠      景広  (笠岡)
村上形部人輔  武満 (上関)
包久宮内少輔  景勝
杉七郎        重良
冷泉民部大輔  元豊(満)   (元吉城普請)
岡和泉守殿
この史料は、小早川家臣の岡就栄に元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状です。意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この史料から合戦の推移や参加者の顔ぶれがうかがえます。
毛利勢は、元吉城の普請に関わった冷泉元満のほか、乃美宗勝や井上本忠など毛利・小早川配下の水軍を中心とした部隊のようです。笠岡の村上景広や上関の村上武満のほか、この史料には名前がありませんが、海賊大将とよばれた能島村上氏の村上元吉も動員されていることが他の史料から分かるようです。機動力のある毛利・小早川水軍が燧灘を越えて、備讃瀬戸になだれ込んできたようです。

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櫛梨城から眺める丸亀平野 備讃瀬戸も見渡せる

これに対する讃岐勢のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守については、同時期に阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことから、阿讃国境付近に所領をもつ勢力のようです。
織田信長と結んでいた三好氏は、信長の意向を受けて毛利氏の備讃瀬戸制海権確保を防ぐために元吉城への派兵に応じたとも考えられます。そうだとすれば、派遣部隊の指揮を執ったのは、⑥の阿波の三好安芸守ではないでしょうか。「元吉城奪還」の命に応じた讃岐勢のメンバーの思惑は、丸亀平野北部の分割です。

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櫛梨城からの南方方面 琴平を経て阿讃山脈を望む

合戦は、閏7月20早朝、長尾氏・羽床氏ら讃岐勢が元吉城に攻めかかることから戦いの火ぶたが切って降ろされました。しかし、事前に補強普請が行われた山城は墜ちません。
 これに対し、毛利の援軍である警固衆は、元吉城の向かいの摺臼山に陣を敷いていたようです。
頃合いを見て讃岐勢に攻め掛かり、数百人を討ち取って勝利を収めました。讃岐連合の大敗北に終わったようです。しかし、合戦後も讃岐勢は、依然として不穏な動きをみせます。そこで毛利氏は、8月に湯浅宗将を派遣し、元吉城のさらなる補強普請を行っています。
 9月になると、信長に追放された後に鞆に亡命していた元将軍足利義昭が「儂の出番だ」とばかりに、阿波三好氏と和議交渉に乗り出してきます。毛利氏は11月に長尾・羽床両氏から人質を受け取り、一部の軍を撤収します。

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櫛梨から望む西方 大麻山に続く摺臼山が張り出す 

ここからは1577年秋の時点で、丸亀平野の中央部の櫛梨城には毛利軍が駐屯し、丸亀平野の北部までを守備エリアとしていたことが分かります。毛利水軍は、このような中で安全に備讃瀬戸を航行することが出来たわけです。
 以上のように元吉合戦に至る経緯をみると、閏七月に入り冷泉元満が元吉城に軍勢を入れて、城の普請をおこなったあたりから、状況が急変し合戦に至った様子がうかがえます。
改めて1577年前後の毛利氏や周辺勢力の動向を見ておきましょう
天正4年12月、阿波の三好長治は細川真之に敗北自刃。
この結果、三好家は当主不在の状況となり、阿波周辺は混乱状態へ
天正4年以降 毛利氏の瀬戸内海地域における制海権確保のためのはたらきかけが活発化
天正5年正月 小早川隆景が淡路の海上勢力に対織田氏への軍事行動に協力するよう協力依頼
  同年3月 信長が塩飽船の堺への航行を保証し、塩飽勢力の取込みに成功
毛利氏が、織田氏との抗争において重視したのは、畿内最大の勢力である石山本願寺でした。本願寺への支援をおこなうためには、第一次木津川合戦のように、淡路岩屋を経由して大坂湾に至る海上輸送ルートの確保が重要戦略となります。そのような中で、瀬戸内海中央部に位置する塩飽に織川氏の調略の手が伸びてきたのです。これは毛利氏に、少なからず動揺を与えたようです。その対応策を考えなければならなくなります。そこで毛利氏は、七月に大坂・淡路(岩屋)・阿波・讃岐への警固衆の派遣を画策します。
 閏7月には、毛利側の史料に
「阿讃両国任存分候」「抑阿州両国之儀、如御存分伎仰何候」

などの記述が見えるようになります。ここからは元吉合戦以前に、すでに阿波・讃岐に毛利氏の軍隊が駐屯していたことがうかがえます。織田信長の塩飽取り込み策への対抗として、阿波・讃岐の陸地寄りの別航路を確保しようとしていたと研究者は考えているようです。
 元吉合戦の際に、「堀江口」でも毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したと記されています。

道隆寺 堀越津地図

堀江津は、現在の四国霊場道隆寺の北側に開けていた潟湖の入口にあった中世の港町です。この湊は活発な交易活動を行っていたようで、毛利水軍の兵站輸送湊としても機能していたようです。後には村上元古が警固船を、残し置いています。それも堀江湊であったと思われます。
 こうしてみてくると橋詰・多田両氏が指摘しているように、元吉合戦は「毛利 対 織田」の備讃瀬戸の海上覇権抗争の一環だったようです。

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一方で、元古合戦直後に小早川降景は乃美宗勝に、次のように書送っています。
他国渡海之儀候条、無心元候処、存之外之太利、祝着此事候」
             〔「浦家文書」「戦瀬」五三二号〕

合戦がおこなわれた讃岐を「他国」と認識していることが分かります。ここから毛利による讃岐への直接的な領域支配は行われていなかったと研究者は考えているようです。阿波についても同じで、毛利氏の侵攻は確認できません。同時期に毛利氏は、阿波の大西氏と結び、足利義昭の上洛戦に協力する申し合わせをしています。毛利方の「阿讃両国任存分候」という認識は、毛利よる直接支配ではなく、三好家当主不在という混乱のなか、毛利氏と提携する道を選んだ阿波や讃岐の諸勢力との結びつきを指すようです。

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櫛梨山から望む丸亀平野と瀬戸内海
元吉合戦の直接のきっかけは、何だったのでしょうか?
元吉合戦後に小早川隆景が冷泉元満に送つた書状に、次のように記されています。
史料2 天正五年閏七月二十九日付 小早川隆景書状〔「冷泉家文書」「県史」中世二、二〓号〕
今度元吉現形之刻、御方御人数被差籠、初中後御気造令察候、殊彼城へ敵取詰及難儀候 別而被致御辛労此由、淵底承候、至三原此由可申達候、尚自是申候、恐々謹言、
天正五年七月二十九日  小早川隆景(花押)
冷泉民部少輔殿 御陣所
ここに「今度元吉現形之刻」とあります。現形とは寝返りを意味することのようです。つまり、元吉城の「現形(=寝返り)」をきっかけに毛利氏は、兵士を配備させたこと。それが讚岐勢と合戦となったことがうかがえます。
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櫛梨城跡の展望台
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか
元古合戦に参加した乃美宗勝の家に伝わる記録には次のように記されています。
「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、

毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴占館蔵)には
「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

ここには元吉城の主は、阿波の三好遠江守であった、それが寝返ったと記されています。
 三好遠江守は冷泉元満が、再度讃岐にやって来た閏七月中旬には、毛利方についていたことがうかがえます。毛利方が「阿讃両国任存分候」と配下の武将達に触れていたことと合わせて考えると、三好遠江守に対しても毛利氏から何らかの領土的報償をえさに寝返り工作が行われたこと、それが功を奏したとしておきましょう。三好遠江守の寝返りが、長尾氏・羽床氏ら讃岐惣国衆を刺激することになり、元吉合戦の直接の契機となったと研究者は考えているようです。

   1 櫛梨城
 
元吉城はどこにあったのか?
先に見たとおり元吉城の候補地は、櫛梨山城と聖通寺城のふたつの説があります。研究者は「史料1」を検証して、城の具体的な構造や周囲の状況を明らかにして、所在地を特定していきます。

尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条

ここには元吉城を攻撃した讃岐勢が最初に攻めかかった所が記されています。それが「尾頚・水手」です。「尾頚」は、山の尾根筋の一番狭くなった場所で「馬の背」とも呼ばれるところです。「尾頚」があるということは、平城ではなく山城であったことが分かります。
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「尾頚」とおもわれる所
 「水手」とは、井戸などの水場がある所で、ここが奪われたら長くは籠城できません。城の防衛上、最重要なポイントです。しかし、この史料からは、これ以上の情報を得ることはできません。

②「警固三里罷上 元吉向摺臼山与申二陣取」

ここには「警固衆(毛利氏の援軍)は、(堀江港から)三里ほど上がり、元吉城の向かいの「摺臼山」に陣取った」とあります。
毛利側の別史料には、次のようにも記されています。
「今度於元吉城山下敵罷出候刻、従船本被罷出、以堅同之党語相副候」(「萩藩閥閲録」山内源右衛門〕)

ここからは毛利側の援軍は「船本」から元吉城の救援に向かっています。「三里」とは、沿岸部からの距離であったことがうかがえます。「御答書』には「元吉ノ城より坤二 摺臼と申ス山候へ」とあり、摺臼山は元古城の「坤(ひつじさる=南西」に位置すると記されています。
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大麻山から張り出した尾根の先端が摺臼山

③「従摺臼山悉打下仕懸候、河縁二立合候、河口思切渡懸候間、 一息二追崩数百人討取之候」

 元吉城に攻め寄せた讃岐勢が攻めあぐねているのを見て、摺臼山に陣取っていた毛利の援軍は、山を下って敵に仕掛ます。その際に、y敵前渡河を行っています。川を一気に渡り、敵数百人を討ち取る戦果をあげというのです。ここからは摺臼山と元吉城の間には河川があったことが分かります。

DSC05457櫛梨城

史料を並べて、比べて検討して元吉城を比定してみると
以上の情報を、櫛梨山城・聖通寺城に対照させながら研究者は検討していきます。まず櫛梨山城の位置を確認します。
①この城は、堀江津の海岸より南に約8㎞の位置にあること
②西側を金倉川が南北に流れ、対岸に摺臼山があること
③古墳時代に築かれた前方後円墳の摺臼山古墳がある丘で、ここに中世には山城もあったこと
ここからは、金倉河口付近の堀江津を連絡湊として、上陸した毛利軍の援軍が道隆寺から金倉寺を経て金倉川沿いに進軍し、摺臼山に陣を構えるというあらすじが描けそうな立地条件です。
DSC04682
すぐ西に位置する大麻山

 それでは、聖通寺城はどうでしょうか
 聖通寺城は、現在の聖通寺の上に築かれた山城で、津の山から北に伸びた半島の上に位置します。川は飯野山と城山の間を大束川が流れ、宇多津で海に流れ込みます。宇多津は中世の守護所があったとされ、聖通寺城と対峙する関係にあります。しかし、地図を見れば分かるとおり海のすぐそばに位置する城で、「三里罷上(海より三里)」という条件を満たしません。
 『毛利輝元卿伝」は、坂出市の西庄城を元吉城とします。
ここも海からは三里も離れていません。そこで堀江津から東方に三里移動したと解釈しているようです。なにかしら「邪馬台国比定」を思い浮かべてしまいます。
 この時の状況をもう一度確認すると、讃岐に確保した元吉城が包囲されたために毛利の警固衆(増援部隊)が急遽、舟で安芸から送り込まれたという場面です。求められるのはスピードです。私が海の司令官であれば、海上輸送部隊を元吉城に一番近い湊に着けて、陸戦隊を上陸させます。毛利・小早川水軍は、機動力に富みます。この時には、能島村上武吉も参陣しているのです。堀江口に上陸して、わざわざ坂出の西ノ庄まで陸上を進軍するは下策です。西ノ庄を目指すのなら宇多津や林田湊などに着岸下船を考えます。
  これらの検討から、元吉城は橋詰氏や『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』が指摘する仲多度郡琴平の櫛梨山城と研究者は比定します。そして、毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したとされる堀江口は、多度津町の堀江とします。毛利氏の丸亀平野方面への進出拠点湊は、多度津港か堀江港としておきましょう。

  次に研究者は櫛梨山城(=元吉城)の立地や遺構の状況について検討します
元吉城は、九亀平野西端に連なるる山々(天霧山~五岳山~象頭山)から突出した独立丘陵の櫛梨山にあり、那珂郡と多度郡の境目にあたります。この山の麓には、式内神社の櫛梨神社があり、古代以来一つの宗教ゾーンを形成していたと琴平町史「ことひら」は指摘します。
櫛梨神社の裏から続く遊歩道を登ると10分程で、城跡の丘陵頂上部に立てます。
1櫛梨神社32

櫛梨山の頂上からの眺望を見ておきましょう

1 櫛梨城2

北側は条里制の残る丸亀平野が広がります。山の直ぐ下を古代南海道が東西に善通寺に伸びていました。その向こうには瀬戸内海が見え、多度津の桃陵公園や丸亀城も見渡すことができます。当時は、堀江港に入港する毛利の輸送船団も見えたでしょう。
1櫛梨神社322
櫛梨山から西を望む 眼下に金倉川 その向こうが摺臼山
はるかに五岳の我拝師山

 西側には、眼下に金倉川、対岸には毛利の増援部隊が陣を敷いた摺臼山が見え、その背後に大麻山が迫っています。さらに善通寺の背後の五岳の連山や、天霧山も見えます。ここには香川氏の天霧城がありました。
 南側には、金倉川を辿ると琴平です。さらに金倉川を遡ると、阿波へと続く峠越えの道につながります。
 東側からは宇多津・飯野山方面が一望でき、反毛利勢力の長尾氏の西長尾城や羽床氏などの動きを制することができます。
こうしてみると元吉城は丸亀平野の中央部を押さえる戦略的重要ポイントであったことが頷けます。毛利氏はこの元吉城を掌握することで、周辺勢力の動きを抑えることができるようになったとも考えられます。逆に言えば、丸亀平野のど真ん中に毛利氏に、このような拠点を構えられたのでは近接する長尾氏や羽床氏はたまりません。毛利氏の打ち込んだ拠点を排除するという「共通目的」のために激しく抵抗するのは当然です。
櫛梨城について「香川県中世城館跡詳細分布調査報告』所収の縄張図には
1 櫛梨城1

頂上部の主格を中心に、周囲を帯曲輪を巡らせ、南西の尾根先端部に出曲輪を配した比較的堅固な構造となっています。毛利側の史料からは、元吉合戦の前後に改修普請を行ったことが記されています。どこを補強強化したのかは、この縄張図の説明では触れていません。ちなみに城の南東の二重堀切は、その後に讃岐に侵攻した長宗我部氏による改修とされます。長宗我部元親もこの城を軍事的な拠点として重視していたことがうかがえます。
DSC04695
櫛梨城堀切
なぜ毛利氏が丸亀平野に拠点を作ることができたのか?
丸亀平野を取り巻く当時の有力武士団としては、次の3つが挙げられます。
①天霧城   香川氏
②聖通寺山城  奈良氏
③西長尾城  長尾氏
この中で②③は反毛利陣営で三好方に与していたようです。ところが①の香川氏の動向が見えてこないのです。
亡命中の香川氏は毛利氏の援助で讃岐に帰国した?
元吉城から西北を見ると、五岳の向こうに天霧山が見えます。ここには西讃守護代を務めてきた香川氏の居城天霧城がありました。ところが香川氏は、永禄年間(1558~70)初頭から讃岐を支配下に置こうとする三好氏の攻撃を受け守勢にまわされます
1558年には、東讃の讃岐国衆を従えた三好軍が善通寺を拠点にして天霧城と対峙しています。その前後から、周辺での小規模の軍事的衝突が繰り返されていたことは以前に見た秋山文書からも分かります。こうして永禄6(1563)年8月の発給文書には、香川之景が天霧城を退出する際の家臣の奮戦に対しての感状が何通か残されています。ここからは香川氏の天霧城退去が実際あったことが分かります。
 『南海通記』には、引き続き香川氏讃岐で活動している様子が描かれますが、永禄8(1565)年を最後に、香川氏の発給文書が確認できなくなります。このような状況から香川氏は、讃岐を追われ毛利氏のもとに身を寄せていたが、元吉合戦に前後して讃岐帰国を果たしたと考える研究者が多いようです。

1 櫛梨城 縦堀
櫛梨城竪堀
改めて、元吉合戦を中心に据えて、香川氏の讃岐帰国問題について考えてみましょう。
永禄11(1568)年9月 篠原長房ら三好勢は備前児島に攻め込み毛利氏と交戦しています。(第一次本太合戦)。この合戦後、毛利方の細川通童と足利義昭家臣細川藤賢とのやりとりのなかで、香川氏の存在が確認できるようです〔「下関文書館蔵文書´細川家文書)」「県史」中世四、 一三号〕。
 それ以後、将軍義昭の御内書やその副状に香川氏の讃岐帰国を促す記述が出てくるようになります。しかし、実行されることはなかったようです。
その後、天正五年(1577)になり、再び香川氏の発給文書が確認できるようになります
〔史料3〕(天正五(1577年)八月一日付足利義昭御内書〔『大日本古文圭[ 家わけ第九 吉川家文書之一」七五号〕
至讃州、香川入国之儀、最可然候、弥彼表之儀可令馳走事肝要候、自然阿州之者共和談旨申候共、不可許容候、於此方、和平之儀申聞半候間、以其上可申遣候、委細申含元政候、猶藤長可申候也、
天正五年八月朔日   (義昭花押)
古川駿河守とのヘ
小早川左衛門佐とのヘ
毛利右馬頭とのヘ
この史料は、毛利輝元・古川元春・小早川隆景に宛てた足利義昭の御内書になるようです。毛利輝元への「右馬頭」の官途授与は、元亀四年二月のことになります。元吉合戦直後に小早川隆景が讃岐を「他国」と認識していたことから、それ以前の段階とは考えがたく、香川氏の発給文書再開と同じ天正五年のことと研究者は考えているようです。
ここには「至讃州、香川人国之儀、最可然候」とありますから、香川氏が讃岐帰国を果たしたことが確認できます。
香川氏はこの年(1557)の二月以降に、家臣たちに三野郡の所領安堵をおこなっています「帰来秋山家文書」『高瀬町史」史料編、号・四号、「秋山家文書」『高瀬町史』史料編、〕
 これは、帰国後の合戦に備えて家臣団を再編成したのでしょう。元吉合戦の前後に毛利氏が使用していた湊は、多度津や堀江だったのは、先ほど見てきたとおりです。多度津は、西讃守護代として香川氏が代々掌握してきた港で、現在の桜川河口一帯だったと考えられます。毛利氏が容易に安芸から多度津へ海を渡って帰国できているのも、毛利氏の支援があったと考えると納得がいきます。元吉合戦と香川氏の讃岐帰国は、深く結びついているようです。
 香川氏の居城天霧城と、元吉城の立地と合わせて考えると
①天霧城は多度津を抑える要害
②天霧城からみて元吉城は、東方からの勢力の侵入を防ぐ、出城のような機能を果たした
③両城は丸亀平野を東西に走る古代の旧南海道や中世の「大道」を挟む位置関係にもある。
以上から、帰国した香川氏にとっても元吉城を押さえることは、丸亀平野に侵入してくることが予想される敵対勢力に備える最重要戦略課題であったのではないでしょうか。

1 櫛梨城
   以上をまとめておくと
①1577年の元吉合戦の舞台となった元吉城は、櫛梨山城である
②元吉合戦は、備讃瀬戸の制海権確保の観点から注目されてきた
③しかし、元吉城は丸亀平野のど真ん中にあり、軍事的拠点の掌握をめぐる合戦でもあった。
④毛利氏は、西讃岐の影響力を握るために亡命中の香川氏の後ろ盾となり、讃岐帰国運動を進めた。

このような動きの背景には、「①石山本願寺救援のための瀬戸内海交易ルートの確保 、制海権確保」があることが従来から言われてきました。しかし、もうひとつの要因もあるようです。
 それは、吉備方面で三好氏と対立してきた毛利氏は、讃岐から渡海してくる三好勢にたびたび悩まされてきた苦い経験があります。元吉合戦の頃は、三好氏は当主不在の混乱状態にありました。毛利氏はこうした混乱期に三好支配下の讃岐の諸勢力を押さえ込み、あわせて香川氏を帰国させることによって、沿岸部を含めた西讃岐一帯を安定的に影響下に置こうとしたと研究者は指摘します。
 帰国してきた香川氏を通じて、親毛利勢力を西讃岐に培養しようとしたというのです。しかし、それは叶わぬ夢と消えます。土佐を統一し、阿波池田に進出してきた長宗我部元親が讃岐に進行して来たのです。元親は、分散する三豊の諸勢力を次々と破り、配下に加えていきます。
天霧城主の香川氏も毛利氏から離れ、長宗我部元親に降伏し、元親の息子を養子に迎えることで生き残りを図ります。こうして西讃には土佐軍による占領時代が始まるのです。元親は占領者として、様々な新政策を実施していきます。そのひとつができあがったばかりの金毘羅寺を修験道化することでした。そのために呼ばれたのが足摺で修行を積んだ延光寺の南光院でした。彼が第2代金光院として、「四国鎮護の寺」作りを始めるのです。これが金毘羅大権現へと変身していきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット
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中津八幡神社

丸亀市中津町の中津八幡神社付近のグーグル写真です。
ここに「オーヤシキ」(鬼屋敷・大屋敷)といわれる居館跡があるようです。今では住宅に囲まれた辺りがそうらしいのですが、周りと比べてそれらしい地割は見当たりません。堀跡らしい痕跡もありません。周りの条里型地割の中に溶込んでいます。しかし、航空写真で南北約81m。東西約88mの周囲を回る細長い地割の水田が、周囲よりほんの少しだけ低く凹地となっていることが読み取れると云います。

DSC05936中津八幡神社
中津八幡神社
 航空写真は、隣り合う空中写真の画面に約60%の重複があり、これを実体視することで、その高低差が分かるようです。周囲の地割に溶け込んでいるような場合でも、注意深く判読すると、堀状にめぐる地割が見えてきて、さらにそれを手がかりに周囲より低くなっている低地が分かると研究者は云います。

DSC05938
中津八幡神社の狛犬
 オーヤシキの南には、土居の南、堀のたんぼ、蓮堀などと呼ばれる地名が残ります。
昔の居館跡を推定できる名前です。また、オーヤシキから東約100mの水田からは、百年ほど前の昭和5年に大きな石と一緒に、中国の唐宋時代の古銭が数千枚出土しているようです。居館の主が、いざというときに備えて隠しておいた「埋蔵金」なのかもしれません。いまは、住宅地の中になっています。

DSC05943

このオーヤシキの主は、どんな武士だったのでしょうか
『西讃府志」の「中津為忠墟」には、次のように記されています。

  下金倉村東ニアリ、鬼屋敷トイエリ 延宝年間 廃して田畝トナセリ 相伝フ六孫王経基ノ五男 下野守満快二十一世ノ孫、三郎左衛円為景、此地二居テ、金倉杵原等ヲ領セリ、其子為忠将監卜稀ス、武力人二絶タリ。自其勇ヲ頼ミ、騎奢限リナシ、人呼ンデ鬼中津トイヘリ、香川信景卜善カラズ、天正三年信景、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守卜相謀り、 討テ是ヲ滅セリ。

意訳変換しておくと
 下金倉村の東に鬼屋敷という所がある。ここは延宝年間に、屋敷は廃されて今は田畝となっている。この鬼屋敷の主は六孫王経基の五男である下野守満快の21世の孫で、三郎左衛門為景という。ここを拠点に、金倉や杵原を領有していた。その子の為忠は武力に優れ、それを自慢に奢ることが多かったので、「鬼中津」と呼ばれた。
 
為忠は天霧城の香川信景と対立関係にあった。そこで、香川信景は天正3(1575)年に、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守と相談し、 為忠を滅ぼした。

天正3年に香川信景(之景)に滅ぼされたとする点は『南海通記』にも記されています。『西讃府志』の記述は、『南海通記』に拠ったものと研究者は考えています。『西讃府志』の編者は、金倉顕忠の居趾が明らかでないとし、おそらく顕忠は為忠のことではないかと推測しています。いずれにしても金倉氏(あるいは中津氏)が金倉を中心として、その周辺に勢力をもっていたことがうかがえます。そして、それは西讃守護の香川氏との敵対関係を招き、滅ぼされたと云うのです。
 ここからは「オーヤシキ」は、鬼屋敷こと中津将監為忠の屋敷跡だったことがうかがえます。これを裏付けるものとしては、金倉寺や賀茂神社には「中津乗太郎為衡・中津三郎左衛門為景」の名で、金倉郷・杵原郷の内で370貫を領有し、天文十三年(1544)には、金倉寺や加茂の寺、神社へも田地を寄進している記録があるようです。
南海通記に書かれていることをもう少し見ておきましょう。
 為景の子が為忠です。彼は中津将監とも云い、武勇にすぐれ並ぶ者がなかったと伝えられます。
そのため為忠は、次第に驕りたかぶるよになったので鬼中津とも呼ばれたようです。西讃の守護代であった天霧城主香川信景は、中津為忠を戒めて従わせようとしますが、かえって為忠にたびたび多度津方面に侵入されるようになります。そこで香川信景は香西伊賀守、福家七郎、滝宮豊後守、羽床氏ら綾氏一族の力を借り、天正三年(1575)中津為忠を討ちとります。武勇にすぐれた為忠は馬にまたがり奮戦しますが、多勢に無勢で討死します。

DSC05945
中津八幡神社
 この経緯をまとめると次の通りです。
①戦国大名化した多度津の香川氏が勢力を広げ、金倉川沿いの中津にまで及ぶようになった
②香川氏の領域支配に、従わず抵抗したのが中津(金倉)為忠である
③香川氏は香西・福家・滝宮・羽床などの旧綾氏一族と連携し
④天正3年(1575)年に香川・旧綾氏連合は孤立化させた中津(金倉)氏を滅ぼした。
この時に討たれた中津為忠の居館が中津の「オーヤシキ」というのです。もしそうなら、先ほどの石の下から出てきた中世銅銭は、中津氏の「隠金」だったのかもしれません。

DSC05939
中津八幡神社
この南海通記の記述を、阿波三好氏との関係の中で年表化すると次のようになります。

天文22(1553)年 阿波の三好三兄弟の一存が、十河氏(そごう)を嗣ぐ。
             東讃岐の国人寒川氏や香西氏を
配下にし、東讃岐を勢力下に置く。
永禄3(1560)年  阿波三好氏は、西讃岐へも侵攻し、奈良・長尾氏を配下へ
永禄6(1563)年  天霧城攻防戦で、香川氏は毛利氏の下へ亡命
             讃岐はその後、三好長治の臣下・篠原長房の氏配下へ
元亀3年(1573)年篠原長房殺害で、長房の下にあった讃岐国人の反三好の行動。
天正2(1574)春  三好長治の讃岐侵攻と、讃岐国人・香西氏と交戦
             讃岐国人・長尾氏は長治の叔父・大西覚養と交戦(?)
亡命中の香川氏も毛利氏の援助を得て、讃岐に帰国し、大西氏と交戦(?)
天正3(1575)年  香川氏・香西氏連合は、三好方であった中津(金倉氏)を攻め滅ぼし、中・西讃岐から三好勢を駆逐

しかし、香西氏などの讃岐国人衆が三好氏に反旗を翻したということは、南海通記に記されているだけです。
今度は不確実な南海通記の情報を除いた年表で当時の讃岐の情勢を見ておきましょう
1568 永禄11 11・  三好氏の配下の篠原長房が讃岐国衆を従え備前の児島元太の城を攻める.
       9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する
1570 元亀6 9・- 石山本願寺光佐(顕如),信長に対し蜂起(石山戦争開始)
1575 天正3 5・13 宇多津西光寺.信長と戦う石山本願寺へ.援助物資搬入。
     香川信景が、那珂郡の金倉顕忠を,福家・滝宮氏などに討たせる
1576 天正4 15代将軍足利義昭、鞆の浦へ下向。(鞆幕府開府) ・毛利氏、第二次信長包囲網に参加
    7・13 毛利輝元が信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮搬入
1577  天正5   3月  ・信長方、塩飽諸島を一時期抑える
                   7月  ・毛利氏、讃岐へ渡海。元吉合戦起こる。
1578 天正6 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
       11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る

年表からは、信長と本願寺の石山戦争が開始され、瀬戸内海の諸勢力がどちらにつくかの判断を求められている時期にあたることが分かります。中津(金倉)氏が滅ぼされた時点での対立構図をまとめると
石山本願寺方 将軍足利義昭・毛利輝元・小早川・村上水軍・塩飽水軍 宇多津の西光寺
信長方    阿波三好氏・西讃守護代香川氏
ここで確認しておきたいことは、この時点では三好氏も香川氏も信長の傘下にあり、対立状況にはないことです。また、讃岐国衆が篠原長房死後に、三好氏より自立化しようとした動きは見えません。
讃岐国衆が三好氏の配下にあったことをしめす史料を見ておきましょう。
史料1天正五年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、

天正五(1578)年閏七月二十二日   
乃美兵部      宗勝
児玉内蔵太夫   就英
井上又右衛門肘  春忠
        香川左衛門尉   広景
桂民部大輔    広繁
杉次郎芹衛門尉  元相
粟屋有近助    元之
古志四郎五郎   元清
杉民部大輔    武重
村上弾正忠    景広  (笠岡)
村上形部人輔   武満 (上関)
包久宮内少輔   景勝
杉七郎         重良
冷泉民部大輔   元豊(満)(元吉城普請)
岡和泉守殿
この史料は、小早川家臣の岡就栄に元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状です。意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この史料から合戦の推移や参加者の顔ぶれがうかがえます。
讃岐国衆のメンバーとして「長尾・羽床・安富・香西・田村」が記されいます。そして指揮官は三好安芸守です。ここからは天保5(1578)年の時点でも、香西氏など讃岐国衆は三好氏の傘下にあったことが分かります。三好氏に最後まで抵抗を続けたのは西讃守護代の香川氏だけです。また、天霧城攻防戦の先兵となったのが香西氏です。香西氏の率いる讃岐藤原氏一族と香川氏は、深い怨念があります。この時点で簡単に手が結べたかどうかも私には疑問に思えます。
 ちなみに中津氏を討ち取った香川氏の「外交戦略」は、次のように変化します。
①中津氏を滅ぼした翌年には、信長の傘下に入り、
②元吉合戦の時には毛利氏に
③2年後に土佐の長宗我部が侵入してくると、その先兵となって讃岐制圧に協力
「機を見るのに便」なのか「風見鶏」なのかよく分かりませんが、生き残っていくための彼なりにの身の振り方だったのでしょう。

DSC05940
中津八幡神社
以上からは中津(金倉)氏が香川・香西連合郡に攻め滅ぼされたということには疑問を抱かざる得ません。ここにも南海通記の誤謬・創作があるように私には思えます。敢えて推測するなら、中津氏が毛利氏側について、備讃瀬戸南航路の拠点港(中津?今津)を提供し、毛利氏の瀬戸内海航路確保に協力したことは考えられます。それを嫌った信長から排除要望が三好氏や香川氏に出されて、軍隊を出したという説です。
 ちなみに中津氏にについては、次のような後日談があります。
 中津為忠には幼児がいて、家臣の西山吉左衛門、前川久左衛門らは、阿波の櫛田の深山に隠れ住みます。やがて四半世紀を過ぎ、関ヶ原の戦いも終わり、讃岐にも生駒氏の手によって天下泰平の世がもたらされます。阿波の櫛田で成長した為忠の一子は、姓を遠山と改めて遠山甚太夫忠英と名乗ります。そして家臣の西山や前川らの家臣ととも金倉へ帰って、金倉川氾濫原の開発にあたったようです。
 当時の生駒藩では新規開発地は、開発者のものになるという有利な条件でしたから周辺の国々から讃岐に多くの入植者が入ってきたようです。中津の川向こうの多度津側の葛原を開発したのが以前に紹介した木谷氏です。木谷氏も芸予諸島の村上水軍に属していたようですが秀吉の海賊禁止令後に讃岐にやって来て、生駒氏の下で急速に耕作地を広げ、大庄屋へと成長していきます。

DSC05942
中津八幡神社
 中津氏(遠山氏)も中津で耕地を拡大していきます。
以後、遠山家は代々下金倉(中津)に住し、その家は分かれてこの地域の有力者として江戸時代を生き抜いていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。    2025/02/12改訂
参考文献 直井 武久 丸亀の歴史散歩

3村上武吉水軍43
前回は村上水軍の領主達の末裔を追いかけました。
今回は、その下の武将や下級水夫層の行く末を探ってみようと思います。
 天下を取った秀吉が、海賊禁止令を破った能島村上に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞんだことを前回はお話しました。能島水軍の水城は焼き払われ、首領の武吉は瀬戸内海から引き離されるように九州小倉に連れて行かれます。海賊達は「失業」し、ばらばらになります。警固衆として雇い入れていた多くの大名たちも秀吉の威光を恐れて、海賊衆をリストラし見捨てます。ここに能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に「企業解体」させらたのです。そして村上衆の離散が始まるのです。
そんな中で村上水軍に属していた一族が、讃岐に、「亡命」してきます。
江戸時代の葛原村の庄屋に成長する木谷家です。その子孫である名古屋大学の歴史教授が、その後の木谷家の歩みを本にまとめています。
3村上水軍木谷家3

以前にも紹介しましたが、ここでは木谷家の「讃岐移住」に絞って見ていこうと思います。
 木谷家の「讃岐移住」は天正15(1588)年の「刀狩り・海賊禁止令」前後と伝わっているようです。当時は、秀吉の天下統一が着々と進むなかで、海賊への取締りが強まる時期でした。その時代の流れをひしひしと感じ、将来への不安が高まったのかもしれません。特に能島を拠点にする村上武吉の配下の有力武将は、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く、金倉川の氾濫で荒野となっている多度津葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然ではありません。
それでは、なぜ移住先に多度津を選んだのでしょうか?
 木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないかと私は考えています。
  第1の仮説は、戦争による木谷家武士団の讃岐遠征の経験です。
毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(1577)、讃岐の香川氏(天霧山城主)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあった。
 同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた

 この戦いを「元吉合戦」と呼んでいますが、背景には石山合戦があります。
当時の毛利方の戦略課題は石山本願寺支援のために、瀬戸内海支援ルートを確保することでした。そのために、織田と結ぶ三好勢力を讃岐から排除する必要があったと研究者は考えているようです。
 
3櫛梨城
ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは調査の結果、大規模な中世城郭跡が発見され、これが本吉合戦の舞台となった城であることが分かってきました。この時期に、毛利の大規模な讃岐侵攻作戦が行われていたのです。

3 櫛梨より
櫛梨山から善通寺方面をのぞむ 本吉合戦の舞台 
 注目したいのは次の二点です
①毛利方が小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくった
②毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた
 遠征軍の中に村上水軍の部隊があります。そして、戦後に一部兵力を残して引き上げています。この中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・
どちらにしても、木谷家には、多度津周辺についての情報があったと思います。金倉川流域の荒れた土地を眺めながら、ここを水田にすれば素晴らしい耕地になると思った先祖がいたと想像します。同時に、讃岐側の有力者との人間関係ができたのかもしれません。

3 葛原八幡神社3
葛原八幡の大楠
  第2の仮説の手がかりは、移住を行った1588年という年です。
その前年に、秀吉が讃岐領主に任じたのが生駒親正です。親正は讃岐にやって来る前は、播州赤穂の領主で対毛利攻略の要員として備前・備中を転戦していました。その過程で、生駒家の家臣団の誰かと親密になったという筋書きは考えられます。知行制の行われていた生駒藩で、金倉川流域に知行地を持つ有力武将をたよって讃岐にやってきたというのが第二の仮説です。いつもの通り、裏付け史料はありません。

3 葛原八幡神社4
 
木谷一族が庄屋に成長していった背景は何か?
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれいた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪族あるいは豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。特に目覚ましかったのが北條木谷家です、
年表で追うと
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 西嶋八兵衛が廃池になっていた満濃池の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、棟札に施主・木屋(木谷)弥三兵衛の名あり
以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、庄屋をつとめることになります。

3 葛原 金倉川
生駒藩の「旧金倉川総合開発プロジェクト」
『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の前に、事前の用水整備工事の一貫として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったことが記されています。その結果、流路の変わった金倉川の旧流路跡が水田開発エリアになります。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が築造されます。これらの開発・灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍したのが木谷家の先祖ではなかったのでしょうか。
ちなみに、当時は生駒藩の時代で大干ばつに襲われた後の復興が、藤堂高虎の指示の下に急ピッチで行われていました。その責任者が藤堂家から生駒家監督のために派遣されていた西嶋八兵衛です。かれが短期間の内に、満濃池をはじめ60あまりの大池を築造していた時期です。
3 葛原 千代池pg
木谷家が改修を行った千代池
生駒藩は「新田は開発者のもの」と新田開発を後押しします。
この時期に新田開発を行った家が庄屋となっている場合が、土器川や金倉川流域では多いように思います。木谷家もそのような生駒藩の「金倉川総合開発プロジェクト」を推進する旗頭として、多くの新田を手にしたのでしょう。1670年には、葛原村に八幡本宮が建立されますが、これは「金倉川総合開発」の成就モニュメントだったと私は考えています。

3 葛原八幡神社
葛原八幡神社
以上をまとめておきましょう。
①海賊禁止令が秀吉によって出された辱後に、村上水軍の木谷家の2軒が讃岐に移住してきた。
②彼らは「元安合戦」か「生駒氏」を通じて、金倉川流域について事前知識をもっていた。
③生駒藩の新田開発・ため池築造事業に乗じて、金倉川流域の葛原地区の新田開発を行った。
④その結果、短期間に有力者になり村の庄屋を務めるまでになった。

 芸予諸島で村上武吉のもとで海賊稼業を務めていた一族が、中世からの近世への激動の中で、讃岐に新天地を求め帰農し、新田開発を行い庄屋へと成長していくストーリーでした。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」

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