![5分でわかる!]戦国一の暴君はこの武将!! | 戦国日誌](https://bushoolife.com/wp-content/uploads/2022/04/f0d61c73c01d8b9628f8f4a69c54a2da-300x300.jpg)
①天文22年(1553年)以降に三好実休の長男として生まれる
②永禄5年(1562年)、父・実休が久米田の戦いで戦死し、家督を相続
③伯父・三好長慶が畿内の支配力を支える重要な役割を期待された。
④幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。
⑤分国法「新加制式」を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛
⑥これらは篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の成果
⑦織田信長の上洛により、三好氏は次第に畿内から追われて阿波国に撤退
⑧元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。
⑨摂津国では、管領細川氏の嫡流・細川昭元を大将に担ぎ除く三好一門の大半を結集して、織田信長との戦いに挑んだ(野田・福島の戦い)。
⑩石山本願寺の加勢や近江国での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。
⑪元亀3年(1572年)には不仲となった篠原長房を、異父兄である守護の細川真之と協力して攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。
⑫強権化した長治に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告
⑬それを受けて十河存保からも長治の暴政について諫言あり。
⑭これを疎んじた長治は兵3000で香川・香西両氏を攻め、両氏の離反を決定的なものとした(「全讃史」)。
⑮天正3年(1575年)、阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要し、猛反発をうける。
⑯このため国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、支配力喪失
⑰国内の混乱は、長宗我部元親による阿波侵攻を誘発し、海部城や大西城などが陥落。
⑱天正4年(1576年)秋、守護・細川真之が本拠の勝瑞を出奔した
⑲長治は真之を討つため、那東郡荒田野へ出陣したが、一宮成相や重臣の伊沢越前守が離反で敗北⑳その後、篠原長秀の居城・今切城に籠もったが一宮勢の攻撃により追われ、
㉑同年12月27日、板東郡別宮浦(吉野川の川口付近)で自害した
㉒辞世の歌は、次の通りです。
「三好野の 梢の雪と 散る花を 長き春(長治)とは 人のいふらむ」
三好家の最後となった三好長治については、阿波では暴君説が流布されています。しかし、18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長治、さらに長宗我部元親などの評価が貶められていくことは以前にお話ししました。その一例が「三好長治=暴虐説・無能説」と私は考えています。話を本題にもどします。
天正4(1576)12月に、三好長治が阿波守護家の細川真之と阿波国人一宮成相・伊沢頼俊らに襲われて敗死します。この時期の阿波の政治状況を森脇崇文氏は、次のように述べます(要約)
一宮成相と伊沢頼俊は細川真之とともに三好長治を攻め減ぼした。その後の阿波国主は織田信長と相談して決めようとしていた。織田氏に対する配慮のため、一宮・伊沢は長治横死に乗じて阿波復帰を合てた篠原松満(長房の遺児)の入国を拒否し、真之とも決裂してしまう。
これに対し、信長との協調に反対する矢野房村(駿河守)らは細川真之、篠原松満、篠原実長らも糾合し、毛利氏と連絡を取り始める。すなわち、巨視的に見ると阿波三好権力は長治の死を契機に、織田氏と結ぼうとする勢力と毛利氏と結ぶ勢力に分裂した。前者に一宮・伊沢が、後者に細川真之、篠原松満、篠原実長、矢野房村が結集する状況にあった。
ここでは阿波では、「信長 OR 毛利」の同盟先をめぐる対立渦中にあったことを押さえておきます。
これは三好氏支配下にあった讃岐の支配体制にすぐに影響します。
まず、丸亀平野の中央にある元吉城の城主が毛利氏に寝返ります。毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか? 元吉合戦に参加した毛利方の乃美宗勝の記録には、次のように記されています。
両書ともに元吉城の主は、「阿波の三好遠江守であった、それが毛利方に寝返った」と記されています。
これは三好氏支配下にあった讃岐の支配体制にすぐに影響します。
まず、丸亀平野の中央にある元吉城の城主が毛利氏に寝返ります。毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか? 元吉合戦に参加した毛利方の乃美宗勝の記録には、次のように記されています。
「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、
毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴古館蔵)には次のように記します。
「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」
両書ともに元吉城の主は、「阿波の三好遠江守であった、それが毛利方に寝返った」と記されています。
ここからは三好遠江守は、阿波出身でありながら讃岐の元吉城を知行していたことが分かります。天霧城主の香川氏を追放した後、阿波や讃岐の国人たちに知行割りが行われていたのです。
三好遠江守の寝返りの背景には、阿波における「A 海瑞派(信長派) VS B 反海瑞派(毛利派)の対立があったと私は考えています。こうして翌年1577年7月には丸亀平野中央の元吉城をめぐって、毛利氏と「讃岐惣国衆」が交戦します。経過は以下の通りです。

三好遠江守の寝返りの背景には、阿波における「A 海瑞派(信長派) VS B 反海瑞派(毛利派)の対立があったと私は考えています。こうして翌年1577年7月には丸亀平野中央の元吉城をめぐって、毛利氏と「讃岐惣国衆」が交戦します。経過は以下の通りです。


小早川家臣の岡就栄に、元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状を見ておきましょう。
(意訳変換)
(意訳変換)
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐惣国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この時に参戦している讃岐惣国衆のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします③安富氏は、西讃岐守護代④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。⑥三好安芸守も、三好遠江と同じように先国内に所領を盛っていた阿波の国人のようです。彼は、阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことが史料から分かります。
ここで注目しておきたいのは、攻城側の主体が「讃岐惣国衆」で、阿波側は三好安芸守しかいないことです。讃岐勢のメンバーの思惑は、香川氏追放後に得た知行地の死守だったことが推測できます。しかし、どうして阿波三好側は、兵力を差し向けなかったのでしょうか? 当時の三好氏は、信長と同盟関係にあり、毛利氏の瀬戸内海覇権を阻止する立場にあったはずです。前置きが長くなりましたが
今回は、「讃岐惣国衆」の中に名前がある安富氏の動きから、その疑問を探っていこうと思います。テキストは、「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021号」
阿波情勢への讃岐の勢力の関与について、「昔阿波物語」には次のように記します。
【史料八】「昔阿波物語』第二
一、天正五年五月に、伊沢越前(頼俊)、坂西に城を作るとて、坂西の町屋に御座候時、矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など談合して、若も伊沢が、我等を助ける事有間敷候間、伊沢を夜打掛に打ちはたさんと談合して、(略)
庄野久右衛門を頼み、夜半に見てに入る。伊沢殿満足めされ候様に申しなし候によりて、酒もりになり、平に正林も無くゑひつぶれ候所を、久右衛門、伊沢殿御宿を出ると否や、弓六十ちやうにて取かけ申し候。伊沢殿人数は千五百人御座候ひつれ共、夜半の事に候へば、町屋より出る所を射たをし/ヽ仕るに付て、千五百人は役に立たず、町屋の裏々より逃げて、伊沢殿宿計残り候を、火を付けて焼ころし候。一宮(成相)殿は、夜明て其儘、奥野迄御手遣なされ候ひつれ共、角瀬川・住古川水ふかく候に付て、勝瑞町人、河の端に出候て、勝瑞は持ち堅め申し候。(略)
矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃、この衆は勝瑞の町をたよりにして、住吉河切に戦を仕り候に付、讃岐の国東方の安富は、東方半国の大将なり。伊沢越前のをぢなる故に、人数五千人大山へ打上りて、 一宮殿と申合せ候。勝瑞の町は一宮殿計させ敵にして、大事に存じ候に、讃岐の人数を見てきもをつぶし候時、矢野駿河申され候様は、讃岐の者は大さか(大坂峠)を一足もゑさがるまじく候。是はきつかひなく候。 一宮計てきぞと申さる。少もちがはず、讃岐の勢は頓てもどり候。此内に篠原自返(実長)は、淡州の人数引連て、勝瑞へ御入り候。
意訳変換しておくと
一、天正5(1577)5月に、伊沢越前(頼俊)、坂西城の築城工事中に、坂西の町屋で矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など、もしもも伊沢が、我等の味方をしないのなら討ち果たすべしとと談合した、(略)
庄野久右衛門が夜半に見に入ると、伊沢殿は満足し、酒盛りとなった。正体もなく酔い潰れているのを確認すると、久右衛門は外に出て、弓六十帳で矢を宿に打ちかけた。伊沢殿は千五百人の人数を連れていたが、夜半の事なので、廻りの町屋から飛んでくる打ち手が分からず、千五百人の兵は役に立たず、町屋の裏々より逃げ出した。それを、伊沢殿は宿に火を付けて焼殺した。伊沢氏と連携していた一宮(成相)殿は、夜明てから奥野まで兵を進めたが、角瀬川・住古川の水深が深く、また、勝瑞町人が河の端に出て防備したので、勝瑞への侵入は果たせなかった。(略)
反海瑞派の矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃は、勝瑞の町を拠点として、住吉川まで押し出した。この際に、東讃岐守護代の安富は、伊沢越前の叔父であり親族関係にあったので、五千の兵を率いて大坂峠までやってきて、一宮殿と連携する動きを見せた。勝瑞の町は一宮への対応だけでなく、新たに姿を見せた讃岐の兵力を見て肝を潰した。その時、矢野駿河は「讃岐の者どもは、大坂峠を一歩も超えることはない。心配無用。一宮市への防備だけを考えれば良い」と云って不安を払拭した。この言葉は見事に的中し、讃岐勢は大坂峠から引き返した。こうして篠原自返(実長)が、淡路から兵力を連れて、勝瑞へ入城した。
これを要約しておくと次の通りです。
①天正5(1577)5月 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討った。
②伊沢氏と連携関係にあった一宮成相は、これを受けて、勝瑞を舞台に房付らと対峙した。
③そこへ讃岐「東方半国の大将」である安富氏氏が5000人を率いて、一宮成相を加勢する動きを見えた。
④これに対して、矢野房村は安富氏など讃岐勢が撤退すると予見し、その通りになった
ここには、安富氏は伊沢頼俊の(叔父)であったとも記されています。安富氏が三好氏の有力武将と婚姻関係を結んでいたことを押さえておきます。その関係もあって、安富氏は讃岐勢のリーダーとして、伊沢氏の側に立って、阿波の政争に介入する動きを見せたと記されています。
それでは矢野房村が讃岐勢がすぐに撤退すると予見できたのはどうしてでしょうか?
③そこへ讃岐「東方半国の大将」である安富氏氏が5000人を率いて、一宮成相を加勢する動きを見えた。
④これに対して、矢野房村は安富氏など讃岐勢が撤退すると予見し、その通りになった
ここには、安富氏は伊沢頼俊の(叔父)であったとも記されています。安富氏が三好氏の有力武将と婚姻関係を結んでいたことを押さえておきます。その関係もあって、安富氏は讃岐勢のリーダーとして、伊沢氏の側に立って、阿波の政争に介入する動きを見せたと記されています。
それでは矢野房村が讃岐勢がすぐに撤退すると予見できたのはどうしてでしょうか?
それが先ほど見た元吉合戦とリンクすると研究者は指摘します。
改めて1577年前後の毛利氏や信長の動向を見ておきましょう。
ここからは、当時は石山本願寺の攻防戦が本格化し、毛利方は石山本願寺への兵糧などの戦略物資の輸送ルート確保が最重要課題であったことが分かります。そのために寝返った元吉城を備讃瀬戸南航路の拠点として、改修工事を行い防備を固めます。これは、阿波では親毛利派の反海瑞派の政権奪取後のことなので、三好側の了解も得れると考えたのかもしれません。ところが、阿波国人はこれに納得しても、毛利の讃岐侵入を許せないと考えたのが「讃岐惣国衆」だったのではないでしょうか。その背景には、毛利氏の占領が元西讃守護代の香川氏の帰国復権とリンクしていたからです。1563年の天霧城攻防戦に敗れた香川氏は、安芸に亡命します。香川氏の所領は、この戦いに参加した、阿波・讃岐の国人たちに分配知行されます。香川氏が帰ってくるということは、得た知行地を失うことにつながります。
まさに「一所懸命」の戦いが元吉合戦だったと私は考えています。
しかし、寄せ集めの「讃岐惣国衆」は、戦術的な失敗をいくつもやらかしてしまいます。
①三好側の援軍が少数で、総勢で圧倒できない兵力で元吉城を攻めかかっていること。②援護に駆けつけた摺臼山の毛利軍の大軍を背後にして、城攻めを開始していること
その結果、「讃岐惣国衆」は敗北します。これが長宗我部元親の讃岐侵攻開始の1年前のことです。これに懲りて、讃岐国人衆は土佐軍への組織的な抵抗をせず、帰順し先兵として活動することになったのではないかとも思えてきます。話が少し脱線しましたが、毛利方にとっては「讃岐惣国衆」の抵抗は「想定外」だったようです。親毛利方の三好配下にあると思っていた讃岐国人たちが攻めてきたのですから。
話を、天正5(1577)5月にもどします。 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討ちました。大坂峠までやってきた安富氏が、それ以上は阿波に入ってこなかったのは、元吉城をとりまく状況が切迫し、阿波への介入どころではなかったこと。矢野房村が安富氏の撤退を予見できたのも房村が毛利氏との交渉を担当していたためと研究者は推測します。
話を、天正5(1577)5月にもどします。 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討ちました。大坂峠までやってきた安富氏が、それ以上は阿波に入ってこなかったのは、元吉城をとりまく状況が切迫し、阿波への介入どころではなかったこと。矢野房村が安富氏の撤退を予見できたのも房村が毛利氏との交渉を担当していたためと研究者は推測します。
昔阿波物語は三好氏にも仕えた二鬼島道知の著で、道知が体験した元亀以降の戦乱についての信憑性は比較的高いとされるようです。
安富氏ら「讃岐惣国衆」が伊沢氏らの「勝瑞派」と提携した理由については、研究者は次のように推測します。
安富氏ら「讃岐惣国衆」が伊沢氏らの「勝瑞派」と提携した理由については、研究者は次のように推測します。
①伊沢頼俊の叔父にあたるという安富氏との縁成関係②安芸亡命中の香川氏復帰を伴う毛利氏の讃岐進出への讃岐国人の抵抗
11月に毛利氏と「讃岐惣国衆」の羽床氏・長尾氏が和睦すると、「阿・讃平均」と呼ばれる小康状態になります。そして天正6年(1578)には、三好存保が淡路から阿波に入国して阿波三好家が再興されます。そして安富氏ら東讃岐の国人もまた、阿波三好家の傘下に戻ったようです。
以上を整理しておきます。
①三好長治の敗死によって、阿波三好家は「親信長派」と「親毛利方」に分裂した。
②これに対して、安富氏ら東讃岐の勢力は「讃岐惣国衆」として結集した動きをみせる。
③「讃岐惣国衆」は「親毛利方」と連携して阿波の混乱に軍事介入の意図を見せた
④しかし、毛利氏が讃岐元吉城に進駐すると、讃岐に戻り毛利氏と戦った。
⑤この戦いに「讃岐惣国衆」は敗北し、毛利氏や妥協し、三好氏の下へ帰順することになった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021号参考文献
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