瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:元親記

池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図.4jpg
  三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承

三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。

「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」

土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。

「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)

蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
大西家系図 池田町史

大西家系図(池田町史)
長宗我部元親と大西覚用の関係はどうだったのでしょうか?
  池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)

「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」

ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。
B  『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。
C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
 長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。

 このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。

天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。

しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、
十一月廿三日       (長宗我部)元親(花押)
栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
白地城周辺
白地城の西の粟野屋敷

このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。

 阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。

意訳変換しておくと
 阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」

香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
 大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。

「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」

 阿波・讃岐・伊予への進入路となる白地城の大西覚用を味方に付けたことの戦略的な重要性をよく認識しています。元親にとっては「大西覚用を手繰りてみん」という謀略の一環だったのでしょう。

阿波大西氏5

 ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。

 来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。

 大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。

「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」

意訳変換しておくと

「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」

上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。

天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
 長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。

白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。

つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した
②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。
③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。
④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
一方、雲辺寺文書の中には、次のような年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状が残っています。

大西覚用から雲辺寺への借用書
  年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状
 馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言
閏七月十二日             (大西覚用) 覚(花押)
俊崇坊
雲辺寺 
意訳変換しておくと
 荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言
閏七月十二日
                                 (大西覚用)覚(花押)
俊崇坊参
雲辺寺 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
 この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。

これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。 

阿波田尾城2 大西覚用
白地山(田尾)城
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。

 第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。

阿波田尾城 大西覚用
阿波田尾城

 第二日目
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。
 その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城3 大西覚用
阿波田尾城

 夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
 すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
 相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。

白地城 大西覚用 池田町史
白地城(池田町史)
3日目

 一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
 和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。
 白地城2

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
 「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。
 こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡
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    南海治乱記と南海通記   
 讃岐の戦国時代のことは『南海通記』の記述をもとに書かれている市町村史が多いことは今までにもお話ししました。そのため長宗我部元親の讃岐侵攻に際して、西讃守護代である香川氏が救援軍を送らないことに対して、戦前には「郷土防衛戦に際しての裏切り者」というようなレッテルが貼られていた時期もあったようです。今回は「南海通記」が香川信景が戦わずして長宗我部元親に降伏し、その軍門に降ったとすることを、そのまま鵜呑みにしていいのかを検討していきたいと思います。テキストは「橋詰茂 天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉」です。

長宗我部元親の侵攻当時に、香川氏は三好氏に従属していたとされてきました。それは「南海通記」の
天霧城攻防戦の次のような記述を拠り所としていました。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。

ここには、1558年に三好実休が讃岐の惣国衆を引き連れて、天霧城を取り囲み籠城戦の末に香川氏を下し、配下に置いたと記されています。秋山文書の分析などから、次のようなことが分かってきました。
香川氏亡命

①1558年に三好実休は畿内に転戦中で、三好勢力が讃岐に侵攻する余裕はなかった。
②天霧城を包囲したのは、三好氏の重臣篠原長房で、年代は1563年のことであった。
③香川氏は三好氏の軍門に降ったのではなく、天霧城を追われた後も抵抗を続け、最終的には安芸毛利を頼って落ちのびていった。
④香川氏は、将軍足利義昭の支持を取り付け、毛利傘下で、讃岐への帰讃運動を展開した。
⑤それが実現するのが1577年の元吉合戦の際のことであった。
⑥香川氏は、毛利家の支援を受けて反三好勢力として讃岐に帰ってきた。

「香川氏=安芸毛利亡命説」を裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2 6月12日
足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)
8・1 
足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請。なお、三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
9・17 
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川某の帰国支援に動いていたことが分かります。これが事実とすると長宗我部元親の讃岐侵攻時には、香川氏は安芸亡命から16年ぶりに帰還したばかりだったことになります。香川氏とともに帰国し、旧領を得た配下の武将達は領地経営が未整備なままであったことが推測できます。つまり、長宗我部元親軍と戦える情勢ではなかったと私は考えています。それを見透かして、元親は和平交渉を持ちかけてきたのでしょう。香川氏の対外戦略の基本方針は一貫して「反三好」です。それも毛利側についた理由のひとつかもしれません。そして今、三好勢力を駆逐しようとしてる土佐軍は「敵の敵は味方だ」という戦略からすると、手を結ぶべき相手になります。
 「南海通記」以後に編纂された歴史書には、次のような香川氏への批判が出てきます。
「三好配下に従属しながら土佐軍の讃岐侵攻を見過ごした。」
「讃岐国衆が「郷土防衛戦」を戦っているのを見殺しにした。」
これは香西成資の「歴史を倫理」として捉える見方の延長で、事実からは遠く離れたものだと私は考えています。

長宗我部元親の讃岐侵攻を見ておきましょう。

長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻
1575年 土佐国内の統一達成
1576年 阿波三好郡へ侵入し、白地城攻略
1577年 元吉合戦で、毛利軍に三好配下の讃岐惣国衆が敗北 → 香川氏の天霧城復帰
1578年夏 讃岐侵攻開始。讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略
小説家なら想像を膨らませて、こんなストーリが描けます。
元親は、藤目城を西讃攻略の拠点として情報収集と外交活動を展開します。それを担当したのが、元親のブレーンとして身近に仕えていた土佐修験者たちのグループでした。彼らは熊野業者の参拝ルートなどを通じて、四国の情勢を集める諜報活動も行っていました。天霧城の麓にある弥谷寺は中世以来、修験者や聖の拠点でした。弥谷寺を通じて、香川氏と連絡・密議を重ねます。この結果、土佐軍の侵攻以前に、長宗我部元親と香川信景は「不戦同盟」は結ばれていました。その論功行賞として、修験者グループに与えられたのが金比羅松尾寺です。松尾寺は、長尾家出身の住職である宥雅が堺に亡命し、無住となりました。それが土佐の修験者宥厳にあたえられたのです。金比羅松尾寺は金毘羅大権現として、讃岐平定の象徴寺社に作り替えられていきます。
話が逸れてしまいました、元に戻します。
 長宗我部元親によって三豊に打ち込まれた布石・藤目城に対して、阿波の三好存保は聖通寺城主・奈良勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆は、三好氏の指令で動いていました。讃岐を舞台にして、阿波三好氏と土佐の長宗我部氏が戦っていたことを押さえておきます。
 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして、冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。

DSC06256本篠城(財田)
本篠城縄張図

これに対して多度津天霧城の香川信景は援軍を派遣しません。
一般的には、次のように言われてきました。

藤目城攻めの際に、香川信景が動かなかったために、元親は信景の舎弟観音寺景全の家老である香川備前守へ使者を遣わし、信景に和親の申し出をした。信景はこの申し出を受け入れ、香川山城守・河田七郎兵衛・同弥太郎・三野菊右衛門の四人の家老を二人ずつ土佐へと赴かした。そして信景も岡豊城へ出仕して元親に拝謁した。こうして信景は元親の支配下に入り、以後西讃岐は長宗我部氏により統治される

 この従来は定説とされてきたことを、研究者は再検討していきます。『南海通記』の内容は『元親記』と、ほぼ同じ内容です。香西成資は『元親記』を参考資料にして『南海通記』を書いたので、これは当然のことです。そこで、研究者は『元親記』を再検討します。

元親記・目録」  清良の庵(きよよしのいおり)
元親記 太閤エ降参以後の目録

香川信景が同盟締結後に岡豊城へ赴いた際の様子を『元親記』は次のように記します。

元親卿の馳走自余に越えたり。振舞も式正の膳部なり。乱舞、座敷能などあり。五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り坂迎あり」

意訳変換しておくと

元親卿の供応ぶりは盛大であった。その振舞も正式な対応で、乱舞(風流踊?)、座敷能などもあった。五日間、岡豊城に滞在して香川信景は讃岐に帰った。その際に国境まで見送り、茶屋を立て送迎した。

ここから見えてくるのは、服従者への対応ぶりではなく、「盛大な供応」で大切にもてなしていることです。これは次男親和を婿入りさせることにより、香川氏との同盟関係を作り上げるための演出と見られます。

子孫が語る大坂の陣(4)再起のためなら命も乞う「牢人大名」長宗我部盛親 - 産経ニュース さん

この歓待に対する香川信景からの礼状にたいして、長宗我部元親は次のような書状を返しています。
去十四日御礼、昨日十一日に到来、委細令披閲本望候、両度之御状共皆以相届、及御報候き、殊御使者十八日に帰路候之条愚存之趣、一々申達候了、誠年来申談筋目候之間、此節者猶互弥可申合候、御存分在之始末等、得其意候、重畳為可遂入魂、自是も祇今令申候、何篇於御分別者、可為祝着候、委悉用口上候間、不能多老候、恐々謹言
卯月十二日                        元親(花押)
香中(香川信景)御返報
意訳変換しておくと
去る14日の御礼についての使者が、昨日11日に到着しました。委細については書状で拝見しました。御使者が18日に讃岐に帰る際に、私の意向はひとつひとつ口頭で申し伝えました。両者で折衝してきた事項について、この機会に細かいところまで煮詰めて合意に至ったこと、それに対する誠意ある対応について、重ね重ね入魂の極みです。この度の判断について祝着に感じます。詳しくは、使者に口頭で伝えてあります。不能多老候、恐々謹言
卯月十二日                    元親(花押)
香中(香川信景)御返報
この史料は信景が元親の歓待に対して、礼の使者を元親へ遣わしたことに対する返書です。ここでは、元親が信景に対して同盟者として丁重な対応をしていることを押さえておきます。

『長元物語』には、西讃平定後の元親の「仕置き」について次のように記します。
「香川殿領分は、元親公御子息五郎次郎殿養子に御備りゆへ、 一族衆城持、何れも知行等、前体の如く下さるるなり」
「観音寺を初めとし、その外、国持降参の衆は、知行前に替らず下され、年頭歳暮の式礼これある事」
意訳変換しておくと
「香川殿の領分は、元親の次男五郎次郎殿を養子に入れて相続させ、一族や国衆・城持衆なども今まで通りの知行地を保障すした。」
「(元親に降伏した)観音寺を初め、国持の衆についても、従来の知行地を認める。その代わりに年頭歳暮の式礼を欠かさないこと」
ここからは次のようなことが分かります。
①香川氏や一族衆の所領は以前のまま安堵されたこと。
②長宗我部元親の次男・親和が香川家の婿に入り、五郎次郎を称したこと
③早期に降伏した国衆についても、従来の知行地が認められていること
②の「五郎次郎」は、香川氏の家督相続者が代々名乗った名称で、行く行くは、香川家の当主して西讃を統治していこうとする意向の表れと研究者は考えています。
以前にもお話ししたように、讃岐では長宗我部元親は悪役です。讃岐の近世以前の神社は元親によって焼き払われたと、近世後の編纂物は記します。しかし、観音寺や本山寺、金毘羅松尾寺などは焼き討ちされていません。懐柔によって長宗我部元親の味方に付いたエリアの神社は被害を受けていないことは以前にお話ししました。
『元親記』には、次のような史料が載せられています。
猶以去廿四日財田よりの御書も相届申候
去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候
一 隣国面々儀、悉色立儀相申趣香中始証人等被相渡、其外之模様条々無残方相聞申候、
是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者可有如何候哉、家中(香川信景)者心底可被難揃と申事候 (中略)
一 牛岐返事此刻調略事候、成相申談相越候 (中略)
十二月四日
            香左(香宗我部親泰)         親泰(花押)
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田よりの御書も届いた。また26日の御書が昨日三日に到着し、次のような内容が確認された。
一 隣国の情勢について、重要な情報については香中(香川信景)などにも情報を伝え、共有化している。困難な問題は、十河城攻撃の件で、今までの抵抗ぶりからして、家中(香川信景)も困難な闘いになることを覚悟している (中略)
一 阿波牟岐城については、調略よって落城したことが伝えられた(中略)
         香左(香宗我部) 親泰(花押)
十二月四日        
桑名殿ヘ
ここからは次のような事が分かります。
①発信者の香左親泰は香宗我部親泰
②年未詳だが阿波牛岐を攻略したことが記されているので天正7年の12月と推定。
③「財田より御書」は、財田城からの報告が香宗我部親泰に定期的にもたらされていたこと。
④「香中」は香川信景のことで、彼が十河存保の居城である十河城攻撃に一役かっていること

『長元物語』の別の記事では次のように記します。

「財田の城は中内藤左衛門、おなじくその子源兵衛父子共に、組与力御付け入部の事」

ここからは、財田城は長宗我部氏の西讃後略の拠点として機能していたことがうかがえます。ここに集められた情報が長宗我部元親の元へ伝えられる仕組みができあがっていたことがうかがえます。

DSC05414羽床城
羽床城縄張図
信景が元親との同盟を成立させ、三豊地方を制圧した後に、元親は中讃の羽床攻めを行います。
元親は中讃エリアでは力攻めでなく、懐柔策をとります。次の文章は、長宗我部元親が羽床伊豆守の一族である木村又兵衛に和議の仲介を求めたものです。
就長尾和談、当国弓矢有増候、然(羽床)伊豆守踏両城栗熊表令出張妨路次之間、
早速可用斧村之処、同者貴殿以一家之好被入和候者尤目出度候、如何依心底明日可令出陣、
委細八郎左衛門可申候、謹言
長宮
十一月二日             
長宮(長宗我部)元親(花押)
木又二(木村又兵衛)
御宿所
意訳変換しておくと
長尾氏は、讃岐に弓取りの名人は数多くあれども、羽床伊豆守の武勇はよく知られていると云う。ついては栗熊方面への進軍を妨害するようなことがあれば、早速に武力で取り除く。貴殿は羽床氏と一族であると聞く。ついては一族のために一肌脱いで、和睦交渉にあたられんことを心底から望む。明日には出陣予定である。委細については、八郎左衛門に伝えてあるので協議すること、謹言
長宮(長宗我部元親)元親(花押)
十一月二日             
             
木又二 (木村又兵衛)
 御宿所
この結果、羽床氏は元親に降伏します。それを見て、周辺の国人も戦わずして次々と降伏します。中でも長尾大隅守の降伏で得た領域は、元親にとっては東讃攻めに重要な拠点を手に入れたことになります。丸亀平野を南からにらむ要衝の西長尾山に新城を築城します。そこに国吉甚左衛門を置き、中讃の拠点とします。『長元物語』では、甚左衛門を「讃州一ヵ国の惣物頭」と称しています。地図で見ると分かるように、西長尾城は、東讃や中讃へ出兵する際に、阿波白地と結ぶ絶好の地です。阿讃山脈を大軍が越えるため二双越や真鈴越、樫休場、猪ノ鼻越の峠道の整備も行われたはずです。

長尾城全体詳細測量図H16
長宗我部元親によって一新された西長尾城
 ちなみに西長尾城の調査報告書には、この城には土佐式の遺構が随所に見られることが報告されています。そして長宗我部元親によって土佐式に拡張リニューアル化され、一新していることを以前にお話ししました。ある意味では、「土佐様式で作られた新城」と考えた方がよさそうです。讃岐支配の戦略的拠点は新「西長尾城」で、宗教的な拠点が象頭山の松尾寺だったと私は考えています。
 天正十年六月に、西衆と称される東伊予と西讃の軍勢が東讃制圧のための各武将の集結地点となったのも西長尾城です。
 その西衆の総大将が元親次男の香川親和で、その後見役を香川信景が務めるという陣編成です。三豊は三野氏や秋山氏など香川氏の家臣たちが多かった所です。香川信景の人望なくして西讃を統治することができなかったのでしょう。

讃岐戦国史年表3 1580年代
長宗我部元親の東讃制圧

 香川氏が宿年の敵であった阿波三好氏を讃岐から駆逐するためにとるべき戦略が「東西から挟み撃ち戦略」でした。西讃では反三好勢力の急先鋒である香川氏が先陣を勤めます。東讃からは、阿波平定後の長宗我部元親の本隊が阿讃山脈を越えて進撃してきます。めざすは三好氏の東讃の拠点・十河城です。

DSC05358十川城
十河城縄張図
しかし、十河城は守りが堅固で一気には攻め落とせませんでした。元親は、冬が来る前に一時土佐へと帰国します。兵力温存のために無理強いはしないというのが元親の基本的方針です。翌11年元親は再び讃岐へ侵入し、十河城を囲みます。この戦いには、香川信景も西衆を率いて参戦しています。この時にめざましい軍功を挙げたのが秋山氏です。
信景だけでなく元親からも感状が発給されています。この時の秋山文書の中の感状を見ておきましょう。
去十三日敵動之由、従寒川殿御注進昨夕到来候、各以御心遣、城中無異儀、殊敵数多被討捕之由、御勝利尤珍重候、天霧へも申入候、定而可被相加御人数、御普請等芳、猶以無油断可被入御心事肝要候、先任早便令懸候、恐々謹言
十月十八日
石田御当番衆中
御陣所
長宮(長宗我部)元親御判
意訳変換しておくと
13日の敵の情勢については寒川殿からの注進が昨夕に届けられた。各自の働きについて、数多くの敵兵を討捕え、勝利をえたことは珍重である。この勝利を天霧(香川信景)へも伝えた。また占領地については守備兵を増やし、防御施設を増築するなど、無油なきように用心することが肝要である。先任早便令懸候、恐々謹言
十月十八日
石田御当番衆中
御陣所
長宮(長宗我部)元親御判
ここからは次のようなことが分かります。
①「寒川氏から注進」とあるので、十河氏の支配下にあった寒川氏が、この時には元親に服属していたこと
②由佐・寒川氏などの東讃の有力国人は、戦わずしていち早く元親に服属し、先兵として活躍していること
③「御勝利尤珍重候、天霧(香川信景)へも申入候」とあり、信景に逐一戦勝の報告をしていること
④西衆の指揮権は信景の権限下にあったこと
西讃は元親の支配下に入ったとされてきましたが、実質的には香川信景による統治が依然と変わらぬ形で行われていたことがうかがえます。
それを裏付ける資料を見ておきましょう。
これは土佐から婿入りした香川親和の付き人である吉松右兵衛へ三豊の所領を給付したものです。「坪付」とあるので、地域の土地を調査していることが分かります。
① 六町  吉松右兵へ給
同坪付
麻  佐俣  ヤタマセ(?) 原村  大の 十七ヶ所
はかた(羽方) 神田 黒嶋
西また(西股) 長せ(長瀬)
合三町五代
天正九八月十八日
② 同坪付  吉松右兵衛給
一 四十壱ヶ所   中ノ村・上ノ村・多ノ原村 財田
天正十年三月吉日   印
③ 吉松右兵衛給
同打加坪付
一 六ヶ所  財田  麻 岩瀬村
以上六反珊五代
天正十年    ―
五月十八日防抑 ‥
①には、麻・佐股・羽方・神田・長瀬などの地名が見えます。これは高瀬町や神田町の地名で、大水上神社の旧領地になります。かつては近藤氏の所領だった所です。
②は「中ノ村・上ノ村・多ノ原村 財田」とあり、財田川上流の財田町の地名です。
③は、「六ヶ所  財田  麻 岩瀬村」とあり、①②に隣接する地域で、これの旧近藤氏の知行地です。
これらの地域が、土佐から香川氏の婿としてやってきた親和(元親次男)に付けられた家臣・吉松右兵の知行地として割譲されています。それが合計六町(㌶)になります。吉松以外にも土佐から多くの長宗我部氏の家臣が移住してきたはずです。彼らにも知行地が支給されたでしょう。高瀬の仏厳寺は土佐から移住してきた高木一族の創建と伝えられます。

日枝神社 高瀬町
          日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている
また土佐神社が鎮座していることは以前にお話ししました。ここからは、土佐から移住した人々は、その後も三豊に留まり、寺社が創建され、元親の家臣たちの信仰を集めたことが考えられます。三豊には、生駒家になって急速に、開墾地を増やす郷士層が数多く見られます。彼らは長宗我部元親とともにやってきて、そのまま根付いた人々ではないかと私は考えています。

以上を整理しておきます。
①1565年に三好氏重臣の篠原長房によって天霧城は陥落し、香川氏は安芸毛利氏の元に亡命した。
②元将軍足利義昭は、信長包囲陣形成の一環として、香川氏の多度津帰還支援を毛利氏に働きかけた。
③毛利氏は、石山本願寺への戦略物資輸送確保のために備讃瀬戸の南側の丸亀平野の元吉城を押さえた。
④これに対して三好氏は、讃岐惣国衆に命じてこれを攻めさせた。香川氏の帰還は、自分たちの獲得した既得権利を失うことになるので、讃岐惣国衆は結集して元吉城を攻めたが敗れた
⑤元吉合戦と同時並行で、香川氏の多度津帰還が実現し、香川氏の領地も回復した。
⑥帰国した香川氏は、旧領地に旧家臣団を配備して体制を整えようとした。
⑦元吉合戦の翌年に讃岐侵攻を開始した長宗我部元親は、このような讃岐情勢を見て、香川氏の凋落工作を行った。
⑧香川氏は「反三好」を基本外交方針としており、三好勢力を讃岐から駆逐するために長宗我部元親と手を結ぶことにした。
⑨長宗我部元親は香川信景を同盟者としてあつかい、次男を後継者として香川氏に送り込んだ。
⑩こうして、香川氏は旧来の領地を保証され、東讃制圧の先兵として働くことになった。
⑪一方、領地内では新たに土佐からの入植者を受けいれると共に、土佐からの家臣たちに知行地も与えている。
⑫土佐軍が去った後、生駒時代になっても土佐からの入植者は三豊に定住した。それが土佐神社として今も残っている。
⑬南海通記は「香川氏は長宗我部元親の軍門に降り、西讃はその支配下に置かれた」と記す。しかし、三豊は香川氏が支配権を握り、その武将達の軍事的編成権も持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂 天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉
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長宗我部元親の東讃侵攻については、よく分からないことがおおいようです。それは後世の南海通記に頼りすぎてきたこれまでの歴史叙述のあり方にもあるようです。香川県史編纂の中で、南海通記に頼らない一次資料の掘り起こしが進められてきました。その一例を天正10・11年の長宗我部氏の讃岐香川郡侵攻に限定して見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。とりあげるのは、次の編纂物史料についてです。
長宗我部元親侵攻資料

まず阿波の『三好家成立之事』・『三好記』の記事です
『三好家成立之事』には、作成者や成立時期については何もかかれていません。一方、16世紀末の『三好別記』は、『三好家成立之事』の「別本」とされているようです。『三好家成立之事』の内容からは、作者が三好家と親密な関係にあったことがうかがえます。また、その叙述態度から一般に見せるために書かれたものではなく、提出を命じられて作成された文書と研究者は推測します。

三好記
三好記序
次の『三好記』は、阿波国の医師・福長玄清によるもので、「序」に寛文2年(1662)成立とあります。
玄清の祖父は、三好家に仕えていたようです。この記録は、版本になり一般に読まれるようになります。この2つの史料から長宗我部氏による三好氏討伐と、その後の城将配置などについて研究者は検討します。
①『三好家成立之事』の記述について
阿波の城
長宗我部元親の阿波侵攻
天正10(1582)年8月27日、長曽我部元親は、弟の親康を南方の大将とし、甥の親吉を上郡の大将として阿波国の中島表へ押し寄せた。翌日の28日、一宮長門守成助と桑野康明とを先陣に黒田原へ押し寄せさせ、中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落として、和談となります。

阿波の城

それでは、勝瑞城を落としたあとの軍勢配置は、どうなったのでしょうか?  軍勢配置については次のように記されています。
本津山城に東條関之兵衛、ただ、関之兵衛の弟・東條唯右衛門は人質として土佐へ送る。
胃山城に吉田孫左衛門親俊、
脇城に長曽我部新右衛門親吉。
大西の白地域に中内長助
岡城に長曽我部内記亮親康。
海部輌城に田中市之助政吉を。
元親は下八幡村夷山城に陣をおいて四国を押領(支配)した
9月16日、「富」の新開遠江守入道道善を討ち
11月7日、一宮長門守成助、同舎弟主計、星相六之進、新開式部少輔、同左近、桑野河内守、野田釆女、川南駿河守などの「頭ヲ上ル程ノ者ドモヲバ方便寄テ討果」した

『三好記』は「三好家成立之事』と、ほぼ同じ事が記されています。
中富川合戦、勝瑞城落城までの経過、そのあとの城将配置、それに平行しておこなわれた新開・一宮氏などの戦いなどは、両書ともにほとんど同じです。しかし、次のような相違点もあると研究者は指摘します。
①「一ノ宮ノ城」への城将配置は、『三好家成立之事』になくて『三好記』にだけあります。
②長宗我部親康が入った城は『三好家成立之事』は「岡城」で、『三好記』は「富岡城」と記します。
③新開遠江守の拠点について『三好家成立之事』は「富」とし、『三好記』は「富岡」とします。
これらのうち②③は単純な誤りかもしれませんが、逆に意図的な書写時の変改の可能性があると研究者は推測します。その検証のために、『三好家成立之事』と『三好記』の該当部分と参考となる『西国太平記』の該当部分を整理したものが次の表です(表2)。
長宗我部元親侵攻資料2

内容、表現ともによく似ており、この3つの資料は近い関係にあるようです。記録の成立時期は、それぞれ寛文期以前、寛支2年、寛文元年なので、『西国大平記』は『三好家成立之事』を親本としているようです。「一ノ宮ノ城」の記述は、『三好家成立之事』にだけありません。
次に、長宗我部親康に関係する城の名称と、討伐された新開遠江守入道道善の拠点名称を検討します。
このうち新開遠江守については、この3書よりも成立の早い『平島記』や『阿州将裔記』では次のように記されています。
「忠元義形妹聟也新開遠江守入道道善也、留岡二居城ス」
「忠之義賢が従弟也、号新開遠江守入道道善、阿波富岡に居城す」
ここからは新開道善が「富岡」に居城していたことは、当時の阿波においてはよく知られたことだったようです。そうだとすると、『三好家成立之事』の(B)の「富ノ」と(C)の「岡ノ」の表現はおかしいことになります。この表現は後に作為されたものと研究者は判断します。(A)と(B)とは連続する箇所で、(A)と(B)とで「富岡」の2字を分け合って1字づつ使っています。これらとは少し離れた箇所の(C)では、(B)と同じ新開道善にかかる記述であるのに、「富岡」の2字を分割して「岡ノ」と表現したようです。(B)と(C)の「新開」の表記をみると、(B)は正しく「新開」とですが、(C)では「新田」となっています。以上から、この違い誤植ではなく意図的な変改によるものと判断します。
『三好家成立之事』で意図的な変改(作為)された理由は何なのでしょうか?
西国太平記」延宝六年刊 ※第7巻のみ写本 10巻揃9冊|和本 古典籍 江戸時代 唐本和刻本 ic.sch.id
西国太平記
それを解く鍵は、『西国大平記』にあると研究者は指摘します。『西国太平記』は、新開道善にかかる拠点名称を正しく「富岡」としています。一方、「香宗我部親泰」にかかる城の名称は「岡ノ城」です。『西国太平記』は、中国地方のことを中心に叙述されています。そのため四国のことは編纂資料としたものを簡略化し、語句は忠実に写し取っているようです。そうだとすると『西国太平記』の「岡ノ城」の表現は、原資料の表現をそのまま記したものなのです。江戸時代の寛文期の阿波国では、「香宗我部親泰」が配された「岡ノ城」について、所在や配されたことの意味が分からなくなっていて、あえて誤記をおこなうか、変改をおこなうことで処理がなされたものと研究者は考えています。
 『西国大平記』が編纂資料として利用したのは、成立時期からして『三好家成立之事』のほうです。これにはもともとは、(A)は「岡ノ城」、(B)は「富岡ノ」と記されていたはずです。そうだとすれば「香宗我部親泰」が配された「岡ノ城」とは、どこのどのような城だったのでしょうか。「岡の城」は、阿波には出てきません。これがあるのは讃岐のようです。今度は土佐側の記録史料から「岡城」を追いかけてみましょう。
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土佐側資料の『元親記』・『長元物語』の記事
 
『元親記』は、土佐国長岡郡江村郷の高島正重によるもので、寛永8年(1631)の成立です。この書は、年代順に長宗我部元親の行動を記したもので、永禄3年(1560)の「本山入」にはじまり、文禄5年(1596)の「高麗赤国陣」までが記されています。このうち元親による阿波・讃岐・伊予国攻略経過の部分は次の通りです。
16 阿波入最初之事(天正3年)
17 阿州大西覚用降参之事(天正4年)
18 同覚用心替して人質捨し事
19 大西陣之事(天正5年)
20 阿州川北重清陣之事
21 北伊予三郡之侍共降参之事
22 嘉例之千句之事
23 久武兄内蔵助打死事
24 讃州藤目の城主降参之事(天正6年)
25 藤目の城を取返たる事
26 阿州岩倉合戦之事
27 讃州羽床陣之事
28 讃州香川殿降参之事(天正7年)
29 元親卿息達其外家中の侍の子共に芸能
30 阿州南郡今市鎗之事
31 阿州牛岐の城主新階道前降参之事     
32当国波川謀叛之事(天正8年)         
33 予州北の川陣之事                   
34 大津の城に御座有し一條殿を被流事   
35 信長卿典元親被申通事(天正lo年)    
36 三好合戦之事(天正lo年)            
37 阿州岩倉攻之事                     
38 岩倉の城落去以後直に讃州へ被打越事   (天正10年)             
39   仙石権兵衛と合戦之事(天正11年)   
40   淡州須本の城を取たる事            
41   太閤様三河御陣の跡にて大坂表へ可取掛と催せし事          
42  予州太閤様ゑ降参之事(天正13年)           
43  太閤様ゑ降参之事(天正13年)
阿波の城

この中で38「岩倉の城落去以後直に讃州へ被打越事」が、東讃侵攻に関係する部分です。ここには次のように記されています。

天正10年(1582)の阿波国中富川合戦につづいて元親らが讃岐国へ打越し、「十河の城をば、堀一重にはたけたて」、「東讃岐在々、牟連(牟礼)、高松、八九(八栗)里、矢嶋(屋島)の浦々不残発向した」

この中で研究者が注目するのは、次の記述です。
天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云山を越、十川(十河)表へ打出給ふ、則其日西讃岐、予州勢、阿波分の人数一つに成、三ケ国の人数に予州勢、六頭の勢を差加たれは、三万六千の人数彩し、則其日の暮に十川の城へ矢入有、
 
意訳変換しておくと
天正十年十月中旬に、岩倉から「そよ越」という峠を越えて、讃岐の十川(十河)城のある地域に打出した。そして西讃岐、予州勢、阿波分の人数を一つにまとめ、三ケ国の人数に予州勢、六頭の軍勢を加えたので、三万六千の人数になった。その勢いで、その日のうちに十河城へ矢を討ち入れた。

  勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。その後「十河表へ打出給ふ」と尊敬表現なので、この移動は元親自身のものであることが分かります。同じルートで、元親以外の中富川合戦に勝利して阿波にいた土佐軍も讃岐へ打出たのでしょう。「そよ越と云山」は「曽江山」のことと研究者は考えています。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からそのまま北へ向かえば讃岐国寒川郡へ、一方曽江山から西に折れて川沿に進めば讃岐国の安原山に至り高松平野に下って行きます。安原山と讃岐平野の接点付近には、南北朝期から「要害」として知られる「岡城」があります。これが先ほど出てきた「岡城」と研究者は考えています。

岡舘跡・由佐城
岡城(岡舘跡)周辺
岡城は香川県中世城館跡調査補刻書には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)209P」として次のように記されています。場所は香南町岡です。

宅地化や道路。用水路の開発で旧状をうかがいにくくなっているが、屋敷地の範囲を推測すると、北については同集会所北東に東西に長い水田が直線に並ぶものを堀跡と考える。この水田の北に沿って現在も用水路が流れている。南は現在県道及び用水路が東西に走っている高低差数mの低い切り通しを、かつての堀切の痕跡を利用したものと考えた。聞き取りでも、県道を通す以前からここに切り通しの崖面があったと聞いている。高台の西は谷状地形で県道と用水路が南北に走っているあたりがその境になるため、ここを屋敷地の西辺と考える。東限も地形の傾斜により検討し、以上の結果から一辺250m程を屋敷地の範囲と考える。
この高台は行業城跡とも考えられていたが、岡氏の居館(行業城)の規模とするには大きすぎ、また守護所とするに足る規模とも言える。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名及び上記の現地踏査結果から、この高台を岡館跡と判断した。
観応2年(1351)、「岡要害」としてその存在が知られる(由佐家文書)。岡要害は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下において讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力が拠っていたところである。一方、延文から嘉慶の頃(14世紀後半)には讃岐守護細川頼之が居し、「岡屋形」は同行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春があったとされる。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」ともする(細川岡城記、讃州細川記).
なお、阿波守護の細川讃州家のものが岡屋形にあって守護的役割を果たしていたということから、
岡屋形は守護所としての機能を有していたとも考えられている。
ついで、天正10年(1582)秋、阿波国勝瑞城を落とした土佐の長宗我部元親は自ら讃岐侵攻に向かうとともに、同弟・長宗我部親康を「岡城」に向かわせている。この時、「天福寺」が由佐城とともに攻略の対象となっている。天正10年10月頃までに、由佐城とともに岡城は長宗我部軍の支配下に入ったものと考えられる。
弟に岡城を攻略させて、元親は十河城に向かったようです。
長宗我部元親は大軍で一気に力押しをしません。兵力の温存を第1に考えていたようです。十河城攻めを一押しした後は、堀などを埋めて丸裸にして無理攻めはしません。「元親矢嶋(屋島)へ見物に渡給ひて、寺の院主に古の事とも語らせ聞給」とあるので、源平名勝めぐりをしたようです。そして、冬が来ると土佐に引き上げます。

次に 『長元物語』を見ておきましょう。
この書は、土佐国幡多郡の立石正賀によるもので万治2年(1659)の成立です。『長元物語』は、叙述形式と内容から次の3つに分けられます。
①1段目は、元親以前の土佐国のこと、元親による土佐国支配のこと
②2段目は、元親による阿波・讃岐・伊予国攻略を国別に記し、さらに秀吉による四国配分のこと
③3段目は、長宗我部一門、家老、侍、元親の男女子のこと
この中で2段目の阿波国攻略の記述は、次の文で終わります。
阿波一ケ国ハ、中富川合戦限テ、不残元親公御存分二成所如件

そのあとで「阿波一ケ国元親公御仕置ノ事」が記されています。そこには阿波国攻略は、「元親公、毎年阿波、讃岐へ御出馬、御帰陣ノアトニテ、御舎弟親泰大将ニテ、方々ノ働度々敵ヲ討取」とあり、元親が先鞭をつけ、そのあとを弟の親泰が確保するというような方法で攻略を進めたとあります。元親による阿波国の仕置は、右腕的存在である弟・香宗我部親泰を牛岐城に入れ、海部城をその根城として阿波国惣頭とします。そして、一宮城へ江村孫左衛門、岩倉城へ長宗我部掃部頭、吉田城へ北村間斎、宍喰城へ野中三郎左衛門を入れます。また「降参ノ国侍」「歴々ノ城持」には「年頭歳末ノ御礼」を行わさせたと記します。
この仕置は、讃岐国の攻略を終えた元親軍が仙石氏による讃岐国侵攻を押し返した時点よりあとで、秀吉軍の阿波国侵攻に備えた天正13年(1585)頃の配置と研究者は考えています。その場合、元親の弟・親泰は土佐国の東側の地点でその守りに当っていたことになります。

 讃岐攻略については、天正5・6年(1577・78)の次のことが記されています。
①藤目城・財田城攻め
②香川氏への養子聟策
③観音寺、石田、砥川、羽床、長尾、北条、香西攻略
しかし、阿波国の勝瑞城を落とした後の讃岐国攻略についての詳しい記述はありません。このあたりが土佐軍の西讃制圧はたどれるのに、東讃については、その侵攻過程がよく見えてこないことの原因のひとつです。最終的に「三好正安枝城」たる十河城を「土佐衆切々相働」いたことにより「此城明退」たとあるだけです。
 ここに書かれている元親の讃岐仕置の記述は次の通りです。
①国吉甚左衛門を那珂郡の長尾城に入れて讃岐国惣物頭とし
②十河城へ長宗我部右兵衛
③財田城へ内藤左衛門父子と源兵衛父子、
④元親の男子で、天霧城の香川氏の養子となった香川五郎次郎には知行を与え
⑤観音寺などの降参衆には知行を与えるとともに「年頭歳暮ノ式礼」を行わさせた
⑥ただ虎丸城のみは「御手ニ不入」
この仕置も、秀吉軍の侵攻に備えたのもので、天正13年頃のものと研究者は考えています。

元親が「十河表」へ「出勢」したのは、阿波国の記録史料でみた天正10年8月の中富川合戦以後になります。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。先ほど見たように「岡城」は、讃岐の「安原山」の南端部に位置する「要害」です。土佐国の記録史料では、勝瑞城合戦以降に元親自身が「天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云山を越、十川表へ打出」たとありました。以上をまとめておきます。
①天正10年8月に長宗我部元親は阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡の岩倉付近から讃岐山脈に入らせ安原山を経て「岡城」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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