讃岐の中世遺跡の発掘調査によって分かってきたことのひとつが、平安時代末から鎌倉時代にかけての時期が、新田開発の一つの画期があったことです。新田開発を進めたのは、その多くは武士団の棟梁であったり、有力な農民たちです。中には、西遷御家人としてやってきた東国の武士たちが進んだ治水技術で、水田化した所もあります。その代表が高瀬郷にやってきた秋山氏で、残された秋山文書から水田や塩田開発の様子がうかがえます。
こうして新たに拓かれた新田には、新たな集落が形成されていきます。そして、村の安全と豊穣を願って氏神、産土神、鎮守や村堂、あるいは、五穀成就を祭る社祠への奉仕を厚くしたり、新たに祭神を勧請するなどの宗教活動が盛んに行われるようになります。
琴平の本庄と新庄
小松荘は、藤原氏の本流である九条家の荘園として立荘されます。
琴平町内には現在も「本庄」という地名が残っています。これは、琴平町五条の金倉川右岸で、現在の琴平中学や琴平高校周辺になります。この地域の農業用水は、大井八幡神社の出水を水源地としています。ここからは大井八幡神社は古代以来の湧水信仰に基づき、その聖地に水神が祀られ、中世になって社殿などの建造物が建てられるようになったことがうかがえます。
大井神社から南を見ると買田峠の丘の上には、かつては古墳時代の群集墳が数多くあったようです。また、現在の西村ジョイの南側の買田岡下遺跡からは郡衙跡的な遺構も出ています。さらに、東南1㎞の四条の立薬師堂には、白鳳時代の古代寺院の礎石が並んでいます。そして、丸亀平野の条里制施行の南限に位置します。古代には大井神社付近に、丸亀平野の有力氏族がいたことがうかがえます。
榎井の春日神社の出水と水神社
早くから開発されたこの地域は立荘化され、本庄となります。その後、新庄が開発されたようです。そのエリアは金倉川の伏流水が流れる榎井の春日神社の出水を農業用水として利用するエリアです。それは、榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域のようです。
石川城跡と小松庄新庄
現在は春日神社と呼ばれています。俗説では「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたようです。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
新庄氏・本庄氏については、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)といわれる『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーの一族の者のようです。もともと、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。
こうして見てくると、この春日神社は新庄氏や、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことがうかがえます。
金毘羅街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社も、もともとは旧金倉川の出水を水神として祭る神社です。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。
神仏混淆の進んだ中世の郷社的神社では、別当寺の供僧よって大般若経の転読が神社で行われるようになります。
大般若経が村々を回って、お経を転読するさいの「般若の風」が疫病神を払い、郷村に繁栄と平和をもたらすとされました。そのため地方の有力寺社は、こぞって大般若経六百巻を書写し、保管するようになります。その書写方法は、僧侶のネットワークを利用したもので、各地の何十人もの僧侶が写経には関わるようになります。それを組織したのが与田寺の増吽のような有力な「勧進僧侶」でもあったようです。
石井神社と春日神社は、中世後半期に両社で大般若経を共有保管していました。それが分かる史料があります。
佐渡郡金井町
新潟県佐渡郡(佐渡島)金井町の大和田薬師教会に、比叡山の僧朗覚が延暦寺大講堂落慶に際して、元徳四年(1332)から延元5年(1340)にかけて写経をした大般若波羅蜜多経六百巻が所蔵されています。その巻四以降の巻数に移管した時の註記が記され、そこに次のような文言が後補されています。
① 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 両社御経也」② 「両社 御経」③ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 為令法久住読之坊中」④ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮」⑤ 巻二十四の巻頭には「讃州財田庄八幡宮流通物也」
ここからは次のようなことが分かります。
A 仲郡小松荘の石井八幡宮と榎井大明神(春日神社)に保管されていた大般若経の一部が、佐渡島まで伝来したことB 春日神社は「榎井大明神宮」と呼称されていたことC ⑤からは、石井・榎井神社に所蔵されていた時に、その欠落巻を「讃州財田庄八幡宮」から補充したこと。
Cの財田庄八幡宮は鉾八幡神社(三豊市財田町)のことで、鎌倉時代の木造狛犬を所蔵する古社です。ここにも大般若経が収蔵され、転読が行われていたことがうかがえます。
佐渡の金井町文化財指定の解説は、次のように記されています。
「この写経は、叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していたが、慶長十年(1605)、法印快秀の手によって畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」
ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、南北朝以降から慶長十年までの間は、もともとは小松庄の石井・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。地方の有力寺社では、毎年期日を決め、恒例行事として転読が行われていたのは先ほど述べた通りです。
次に疑問になるのは、転読を主催していた「石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社」のことです。これはどこのお寺だったのでしょうか?
比叡山と石井八幡宮と榎井大明神宮の関係についてはよく分かりません。小松庄の近辺の木徳荘は延暦寺領でした。16世紀末の讃岐の戦国時代の中で、焼き討ちや押領で衰退した別当寺が手放したことは考えられます。それを周辺の比叡山に関係する僧侶が手に入れ、持ち帰り、それが法印快秀の手に渡り、佐渡にもたらされたという仮説は考えられそうです。ちなみに、小松荘に隣接する真野荘は、智証大師(円珍)の園城寺領でした。また、叡山僧→延暦寺比叡山座主慈円→九条家→小松荘という関係も考えられます。
真野郷と小松郷の関係
榎井大明神や三井八幡の別当寺として私が考えるのは、隣接する真野郷岸上の光明寺です。
光明寺については以前にもお話ししましたが、金毘羅大権現の出現以前の丸亀平野南部において、大きな勢力を持っていたと考えられる真言系密教山岳寺院です。ここは「学問寺」でもあり、多くの僧侶を輩出してています。高野山の明王院の住持を勤めた岸上出身の2人が「歴代先師録」に、次のように記されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」
忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれ、勝義の弟子で、光明院と兼務」
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。 以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。②彼らを輩出した岸上の光明寺は「学問寺」としてもが繁栄していたこと③それが金毘羅大権現が現われると、その末寺に組み込まれ衰退していったこと
岸上村に残る寺山・寺下の地名 光明寺跡推定地
当寺の真言系僧侶は学僧だけでは認められませんでした。
行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされました。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。岸上の光明院の行場ゲレンデは、次のような辺路ルートが考えられます。
①金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルート②大麻山から尾野瀬寺や仲村廃寺の奧の大川山、あるいは萩原寺を経て雲辺寺など
近世になって、大麻山に金毘羅神が現れ、松尾寺別当金光院が生駒家からの手厚い保護を受けるようになると、丸亀平野南部の宗教地図は大きく塗り替えられていきます。中世に栄えた山岳寺院が衰退していくのです。これは、金光院院主宥盛の修験者としての力にもよるものなのでしょう。多くの天狗(修験者)たちが彼の下に集まり、周辺山岳寺院を圧迫吸収していったようです。それは、尾背寺(まんのう町新目)をめぐる抗争からもうかがえます。そして、自分の腹心の修験者を送り込み、最終的には廃寺化させています。その際には、仏像・仏具・聖典などが、金光院に運び込まれたことが考えられます。
明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
さらに想像を加えると、榎井大明神(春日神社)や石井八幡社の別当寺は、光明寺ではなかたのかということです。光明寺の聖典類も売却されます。ちなみに、岸上は真野荘に含まれ、智証大師(円珍)の園城寺領でした。この縁から圓城寺を通じて畿内に運ばれ、それが佐渡にもたらされたという「仮説」を私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P
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