今は、里山周辺の山々も利用価値がなくなり、人の手が入らずに竹が伸び放題になった所が多くなりました。しかし、江戸時代には田にすき込む柴木を刈るための「資源提供地」で入会権が設定されていたことを前回に見てきました。それは、時には入会林をめぐっての村同士の抗争も引き起きていたようです。
象頭山の西斜面の「麻山」については、小松庄(琴平)の農民たちは入山料を支払い、鑑札を持参した上で、刈取りが認められていました。その中で佐文に対しては、鑑札なしの入山という有利な条件が設定されていました。ところが約70年後になると、佐文は周辺の村々と入会林争論を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。
![佐文周辺地域](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/7/a/7a9e3c30-s.jpg)
![佐文周辺地域](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/7/a/7a9e3c30-s.jpg)
佐文と周囲の村々
正徳5(1715)年6月に神田村と上ノ村(財田)・羽方(高瀬)の3ケ村庄屋が連名で、佐文村を訴えて、次のような訴状を丸亀藩に提出しています。(要約)![佐文 上の村との争論](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/9/0/90096f35.jpg)
意訳変換しておくと
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」
これに対して佐文庄屋の伝兵衛からは、次のような反論書が提出されています。
![佐文 上の村との争論 佐文反論](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/5/7/576cd83c-s.jpg)
意訳変換しておくと
「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」
ここからは上の村は、竹の尾越を封鎖する実力阻止を行っていたことが分かります。
入会林をめぐる対立の背景には、丸亀藩の進める「新法=山検地」があったようです。
山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を、5年ごとに調査する形で行われています。そして、検地を重ねる度に入会林が藩の直轄林(御林)に組み込まれ、縮小されていきます。佐文が既得権利を持っていた「麻山」周辺の入会林も縮小されます。そのために佐文の人たちは、新たな刈敷山をもとめて、昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈るようになったようです。これが争論の背景と推測できます。
これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」の結論でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
この10年後の享保10(1725)年の「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料からは、村有林や入会林を監視するために神田村は「山番人」を置くようになっていたことが分かります。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったようですが、山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。今は、放置されている集落周辺の山々は、江戸時代には重要な「資源提供地」で争いの対象だったようです。
参考文献 「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」高瀬町史史料編 511P
文責 池内 敏樹