前回までに、召集令状(赤紙)と、役場の兵事掛かりについて見てきました。今回は、徴兵された兵士達がどのようして村の人達から見送られて出征していったのかを見ていくことにします。テキストは「 吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」です。
国防婦人会/藤井 忠俊|岩波新書 - 岩波書店

 藤井忠氏は著書「国防婦人会」には、次のように記します。

日中戦争からアジア太平洋戦争の時代は、出征兵士と送り出す側の「別れ」が生み出す一体感が、戦争を「聖なるもの」とした。

出征兵士を送り出すセレモニーが、送る側と送られる側の一体感を作りだし、それが戦争を浄化し、「聖なるもの」としたというのです。それでは、実際にどのような見送りが行われていたのか見ていくことにします。
1932年の満州事変後に、市町村では入営・除隊兵の歓送迎会が毎年開かれるようになります。
長野県南佐久郡野沢町でも、小学校で会費10銭で歓送迎会が開かれています。その準備のために在郷軍人会と青年団の役員は、入場券を売りさばくために各戸を訪問し、出席を要請してまわっています。これが軌道に乗った4年後の1936年1月5日の兵士送迎会の案内状には、次のように記されています。
 兵士送迎会は除隊の兵士諸君を迎へてその労を謝し、新に入営せらる兵士諸君の行を壮にしてその前をする意味を以て全町を挙げて送迎会でありますから、子供が会員券を持つて来て受付で菓子を貰ってそのまま、すぐ帰ると云ふやうなことでなく、(中略)
なるべく大人の方々が出席せられて終りまで会に列せられ、奉公の大義に出入する町出身の兵士諸君を心から送迎するの誠を現はしていただきたいことであります。
 ここからは、子供らが大人のかわりに菓子をもらいに来るような「お祭り」感覚の雰囲気が強かったことがうかがえます。そういう意味では、「兵士を支える銃後体制の構築」という軍のねらいには、ほど遠い性格だったようです。
 1932年2月23日になると、第14師団管下の松本第五〇連隊にも動員令が下されます。
長野県下で召集された兵士達は翌24日から3月1日にかけて、松本、宇都宮、水戸の各部隊に入隊し、第五〇隊は3月5日に松本を出発します。その連隊が帰還するのは、1934年5月のことです。この時期になると兵士が出征する度に、小学校で壮行会や送別会が開かれ、在郷軍人会が分会旗などを先頭に町村長分会長小学校長、町村会議員、助役、各種団体員、町村民が、旗やとともにパレードで停車場まで兵士を見送るようになります。
「野沢町報」は、次のように報告しています。

青年訓練所生徒が行列の整理にあたり、小学校生徒は途中まで軍歌「天に代りて不義を打つ」を合唱しつつ見送った。主婦会・女子青年団等の婦人団体員の参加が特に多かった

 ところが戦争熱がおさまった1934(昭和9)年になると、昭和恐慌の影響もあって入営除隊のあり方が問われるようになります。
12月13日頃に、第二師団管下の独立山砲兵第一連隊長が、各町村に入隊の際の祝費節約について次のように通達しています。
現下 非情時局に直面し珠に最近東北地方一般に凶作不況の折柄、入営者に対し各町村に例の如き祝意を表せらる事は努めて省略せられ、単に物質的よりも精神的の意に止められ、以つて冗費の節約と将来除隊に際しての返礼用土産物の費用を成るべく節約せしめられ度き考えに有之、当隊にては毎年等の習を打破する如く努め居りふも往々入営前に是等祝儀及祝品を預かる関係上、自然除隊に際してかる返礼に苦慮し相当の金銭消費致し家政上からさる工面と苦慮にはされ居る者も有之、次第に就き、各位特に在郷軍団、青年団員各位の御賢察と御指導により是非此際無汰を省略する様御取計らい相成度(44)

意訳変換しておくと 
非常時の時局に加えて、最近は東北地方が凶作不況なので、入営者に対して例年のような過剰な祝意を行う事を省略するように伝えること。物質的よりも精神的に祝意を表し、冗費の節約につとめるべし。また将来の除隊の際には、返礼の土産物用費用が必要となり、それが家計を苦しめているとも聞く。当隊では、毎年の悪習を打破することに努めているが、入営前に祝儀や祝品を貰った以上は、除隊の際に返礼品を送ることが恒例化しており、家計を圧迫している。ついては、在郷軍団、青年団員各位の指導により、これらの悪習を省略するように取計らって欲しい

 隣接する東北農村が凶作に苦しんでいる中で、入営兵への送別餞別や除隊兵の返礼などの冗費節約を求めています。
 同年の12月24日には、高田連隊区司令官が市町村長へ次のような指示を出しています。
入営壮丁や付添人や町村吏員について、宿舎の設備や待遇などについて苦情を漏し不平を述べ不合理なる要求をなすものありとの噂を聞く。しかし、その多くは入営壮丁ではない。
(中略)付添人、町村吏員の中に不心得の言動をなすものあるようだ。宿舎に蒲団寝巻(中略)の差し入れ以外に酒食を強要したり、飲酒が横行して無垢の青年達を毒している。
ここからは、満州事変から数年が経過して、軍隊内部での士気や規律が弛緩して、入営兵の付添人や役場吏員の中には入隊に際して、目に余ることが多かったことがうかがえます。しかし、これらの通達でも改善はされなかったようです。翌年の1935年10月19日にも、再度市町村長に「入隊兵の別及除隊兵の土産物廃止に関し御協力相成度件通牒」を送付し、次のように要望しています。
 除隊兵か土産物を購入するためには在給せらる、給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)中より毎月(一人平均二十五円位にて貯蓄せる金額の殆んと全部手拭等を購入し除隊前人をして郷里に小包郵便等を送せしめ置くを一般の風習とす)を消費しある状況にして、此際家市町村民の時弊矯正を断行するの勇気に欠くるには、を旨とし勤の美をしを郷里に及ぼすべき所謂良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することはさる次第と存しと述べた上で、さらに次のことを要請した。
 市町村民を一層徹底的に啓発指導せられ、入除隊の際は各戸に国旗を掲け入隊兵の壮行会除隊兵の歓迎会等は貧富の別なく一様に氏神の社殿に於て之を行ひ、神殿に詞を捧げしむる等、天皇親の皇軍の本義に基づき最も熱誠ある精神的行事を挙行し、一方幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)餞別、土産物等市町村民の負担に係はる物質的儀礼は一切之を廃止する様致度存し居り右重ねて御依頼申上候
意訳変換しておくと
 除隊兵が土産物を購入するためには支給される給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)の中から毎月25円位を貯蓄して、手拭等を購入して除隊前に郷里に小包郵便で送付させておくようにしている。この際に、市町村民の悪習矯正を勇気を持って断行して欲しい。それが郷里に良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することにつながる。
市町村民を啓発指導して、入除隊の際には各戸に国旗を掲けること。
入隊兵の壮行会や除隊兵の歓迎会などでは貧富の別なく氏神の社殿で、式典を行い、神殿に詞を捧げること。
皇軍の本義に基づく精神的行事を挙行すること。
幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)や餞別、土産物など市町村民の負担なるような物質的儀礼は一切廃止すること
以上を、重ねて依頼申上げる。
ここまでをまとめると次のようになります。
①満州事変以後の段階では、入営・除隊兵の歓送迎会は、戦争に民衆を送り出すための装置として盛大に行われていた。
②それが世界恐慌後に農村が疲弊すると、軍は民衆の負担となる餞別や返礼などの廃止を要望するようになったこと。
③代わりにお金のかからない精神的なセレモニーを行うように市町村に指導通達を繰り返していた。

満州事変から5年後の1937(昭和12)年7月7日、軍部は柳条湖事件を引き起こし、日中全面戦争へと突入します。
このため軍は大規模動員に迫られ、全国で在郷軍人への赤紙が配られ始めます。この年には93万人の兵士が動員されます。そのうちの約60万人が赤紙召集兵で、現役兵約34万人に対して、ほぼ倍の人数が召集されます。満州事変に比べると桁外れの動員が行われ、社会に不安と動揺を与えたようです。
 日中戦争開始後の長野県の南佐久郡の動員を見ておきましょう。
① 7月16日、桜井村では郷軍分会長が会旗とともに、召集兵を中込駅まで見送り。
② 7月20日、戦勝祈願祭が村社桜井神社で開催。
③ 7月16日、八月村でも平賀神社で武運長久祈願祭が挙行
④ 小学校で村民参加の壮行会が開催
 こうして兵士が召集されるたびに、各村社で各種団体、小学校、村民一同等による皇軍戦出征軍人安祈願祭を開催され、小学校では村民による壮行会が開かれることがパターン化します。

出征兵士2
皇軍戦出征軍人安祈願祭 出征兵士の名前が並んでいる

そして8月23日になると、中込駅長の音頭で、郡下の桜井前山・野沢・大沢・平賀・内山・申込の七つの村が協議して所定の場所での送迎会を合同でおこなうことが決定します。こうして応召兵を送り出す宴と武運長久を祈る祈願祭である「赤紙の祀り」が始まります。

イメージ 1
婦人会による駅での見送り

 その中で問題になってくるのが、動員に関する機密秘密の漏洩です。
 軍の機密事項である軍用列車の発着日時をめぐり、時刻等を事前に知らされていた駅長と在郷軍人等各種団体との間に軋轢が生じます。兵士の送迎では、駅長の役割が大きかったことは先ほど見たとおりです。出征兵士の壮行会や歓送会を盛大にやることは、動員の秘密事項保持と矛盾します。
 8月19日、高田連隊区司令官が町村長在郷軍人分会長に「出征軍人部隊送に関する指示」を送付して次のように指示しています。
 精神的歓送は盛大に行われることを希望するが機密保持も絶対必要である。ついては、
駅での見送りは入場数を制限する。そして出発前に各市町村で盛大なる壮行式を行ことにする。その席には、官民や出征兵家族を出させるが、駅での歓送は、機密保持のために、以下の人間のみに制限する
 1、官公術、市町村並学校(中等学校、青年学校小学校等)の代表者(学生を含む)
 2、在郷軍人連合分会及同分会代表者
 3、各種団体 男女青年団、婦人団体、教育会、神職会仏教界、自警団、町会代表者
 4、出兵兵の家族
ここでは駅での見送りは、規模が縮小されたことを押さえておきます。
そして、次のような注意書が付けられています。
一、歓送用国旗は携行してなきも、之を列車内の将兵に手渡し
二、発車の際は列車に向ひ隊列を整へ、知事又は市長等の声にして万歳をへられたし
三、在郷軍人会、愛国婦人会、国防婦人会青年団等は補充に援助を与へられたし、但し発車の直前定位に復せられたし
しかし、この通達はすぐに展開されて、9月27日に新しい通達「第二師団司令部の要望事項に関する件」が市町村長へ送付されてきます。

 今次動部隊の各編成地出発に方り、停車場の見送りは連隊区司令部又は部隊より出発時刻を通知せる最小限の人数以外は、停車場構内への入場は禁止すべき方針にして、後の熱誠なる後援にゆるには極めて冷淡にして情に於てはひさる所なるも、発動完結後の部隊の行動は全くの軍事行動にして、特に輸送の日時等は絶対とする為め、必要止むを得るに出てたるものなることを諒せられ度

つまり、人数制限して駅での見送りを認めた前通達を撤回し、駅構内への入場を禁止するものになっています。今までは盛大な歓送を奨励していたのに、冷淡と批判されようが、動員の秘密事項は守らざるを得ないことを銃後民衆には納得してもらいたいという内容です。こうして駅での見送り禁止されました。しかし、応召兵の祈願祭や壮行式、駅までの見送りが禁止されたわけではありません。長野県南佐久郡内の「桜井時報」や「野沢町報」にも、それらのその壮行式等が盛大に行われたことが記事として掲載され続けています。
 
武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

こうした中、12月23日に南京が陥落すると、戦争は終わったとする弛緩した空気が広がります。
そして任務を終えた部隊が郷里に帰還するようになると、これを盛大に迎えようとする動きが高まります。これに対して、1938年3月初めには、陸軍省兵務局長の通牒「帰還軍隊の輸送間に於ける送迎に関する件」が市町村長に送付されてきます。その内容は次の通りです。
此等部隊は事変の終結により帰還するものに非すして、今後の長期持久に即応する如く、出動部隊一部の整理交代に基つくなるをて、其の歓送迎は専ら精神的方面に意を用ひ、形式的事項は力めを抑制し、以て緊張したる国民精神を消せしめ延びてつ地に在る出動部隊に及ぼす等の事からしむる如く深の考慮を払必要がある

意訳変換しておくと

この度の帰還部隊は事変終結により帰還するものではない。今後の中国戦線での長期持久に対応するための部隊の整理交代である。そのため歓送迎については精神的面に限定し、形式的祝い事などは抑制すること。緊張した国民精神を弛緩させる出動部隊の戦意を弱めることのないような考慮が必要である

ここでは戦争は終わったという気分と、長期戦になるという軍部の思惑のちがいがあったことがうかがえます。かつての露戦争時の凱旋とは、意味が違うというのです。別の所では次のような注意も行っています。

 帰還者に対する歓迎の様式程度に就ては、色々の考方もあろうと思ひますが、決論的に申せば、官民が今迄やつて来た還送勇士に対すると同様にするのが適当と存するのであります。一切の歓迎会、祝賀会等は之を行はず、幟や流し等は之を廃し、最も精神的に感謝の意を披して之を迎へ、其の労功をたいと思ふのであります。特に帰還兵に対しては、凱旋の辞句を使はしめぬ様にせられたいのであります。村に帰った際、氏神様の社頭を挙行し、神前に供た冷酒を戴いて武運の加護を謝し、将来の報告をふ等は最も望ましい事であります。未だ勝利したのではありません。(中略)
貴き犠牲者の遺骨さへ尚、大部は帰還して居ないのであります。又その慰霊の行事さへ十分出来ぬ情勢に於て祝賀会を実施すると云ふ事は適当でないと考へます。

 軍としては、兵士の帰還は単に部隊の交代であり、まだ戦争が終わっていないことを強調しています。死者の家族のためにも、凱旋気分で帰還兵士の歓迎会や祝賀会をしないよう、幟やアーチや旗などで迎えぬよう指示しています。
入営祝い幟
入営祝いの幟

さらに3月5日に陸軍省副官は「召集解除者の贈答等虚礼廃止に関する件」を通知しています。
 部隊の交代整理等により召集を解除せらるる者か、応に当り受けたる送別に対し餞別返礼等贈答に腐心するからさる様にして、巷間にも之が制止方要望し来るものあり。
 時局は尚愈々重大を加ふるの秋、多くの戦友たち召集を解除せらるる者は充分其の言動を慎重ならしむるは勿論、特に無意義な贈答等の虚礼は百害ありて一利なきものなることに深く留意し、断然之を廃止し、寧ろ帰郷後は率先銃後の核心となって尚戦地に残戦友の労に報ゆる如く、此等召集解除者に対しては充分なる指導を加へられ度。
 帰還兵が出征前に受けた餞別についての返礼を・贈答を行わないように通達指導せよとの内容です。ここからは、餞別の返礼等が依然として残っていたことが分かります。
以上をまとめておきます
①満州事変後に、軍は入営兵への餞別や除隊兵の返礼などの冗費の節約に力を入れるようになった。
②日中戦争後に、多くの兵士が動員されるようになり、応召兵の赤紙の祭礼が始まった。
③戦争が長期化すると、軍は防諜を理由に入営・応召兵の壮行会や歓送会、激励会、武運長久を祈る祈願祭の簡素化を試みた。
④特に日中戦争の帰還兵士の歓迎には神経をつかい自粛を求めるようになった。

このような軍の方針は、1941年7月のが独ソ戦開始と、12月のアメリカとの開戦で、紆余曲折をたどることになります。それはまた別の機会に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」
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