瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:八丁目大師堂

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弥谷寺本堂西側の山崎家の墓域
17世紀中頃の丸亀藩藩主・山崎家治の代に、弥谷寺の麓での田地開発が許可されたことが、郡奉行から大見村庄屋又大夫に伝えられた史料に残されています。この史料からは弥谷寺が畑6反3畝の土地を開発し、伽藍修理料としての「御免許」(年貢免除)を得たことが分かります。これが「御免許地」、つまり田畑の税を免除された最初の寺領になるようです。(「御免許山林田畑之事」、文書2-106-19)
 さらに山崎家断絶の後に入封してきた京極藩の高和の代に、郡奉行へ新開地1町5反を、大庄屋上の村の新八、下高瀬村宇左衛門、大見村庄屋七左衛門を通して「御免許地」として願い出ています。そこには、「開地漸く七反余開発仕り、用水池を構えた」とあります。ため池築造とセットで、新田開発が引き続いて行われていたことがうかがえます。
 元禄7年(1694)に、丸亀藩の支藩として多度津京極藩が成立します。
2多度津藩石高
多度津藩の石高
前回お話ししたように弥谷寺のある大見村は、多度津藩に属します。そのため多度津藩の領地決定まで土地開発は一時中断したようです。多度津藩の領地が決定すると、改めて1町5反の開発を、大見村庄屋善兵衛が大庄屋三井村の須藤猪兵衛、上ノ村宇野与三兵衛へ申し出て、大庄屋の二人から代官に願い出ています。そして正徳4年(1714)3月に、次のような証文を得ています。

弥谷寺格別の儀二思し召され、後代堂塔修理料として、開田畑壱町五反御免許

こうして5月には、この田畑1町5反(田2反9畝、畑1町2反1畝)が御免許地とされます。これを山崎家時代に認められていた6反3畝と併せると御免許地は2町1反3畝になります。

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大見から見た弥谷山(真ん中 右が天霧山)
これらの弥谷寺の寺領は、どこにあったのでしょうか?
  弥谷寺の下に広がる大見の地は、中世に秋山氏によって開かれたとされます。秋山氏の一族である帰来秋山氏は、竹田に舘を構えていました。近世になると三野湾が大規模に干拓されていきます。そのような中で弥谷寺に続く斜面も開墾され、その上部の谷頭にため池を築造することで棚田状の新田を開発したことが推測できます。

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現在の八丁目太子堂付近 左が旧遍路道

 現在の八丁目太子堂辺りに、かつては大門があったことは以前にお話ししました。この太子堂の裏には谷頭に作られたため池があります。
弥谷寺 遍路道
八丁目大師堂(大門跡)の南に残る「寺地」

太子堂から本山寺に続く遍路道を下りていくと旧県道と交わる辺りに「寺地」という地名が残ります。江戸時代に、弥谷寺が開発し、「御免許地」となったは2町1反3畝の水田は、この辺りにあったと私は考えています。この土地は、弥谷寺にとっては伽藍維持や日常的な寺院経営にとっての経済基盤となったはずです。
弥谷寺 八丁目大師堂 大門跡
弥谷寺の寺地周辺
 また、4月には大見村の鳥坂原で、新開畑5反5畝が弥谷寺分として認められています。この地については「当夏成より定めの通り上納仕るべき者なり」とあるので、「夏成」(夏年貢)を納める必要があったようです。(以上、「御免許山林田畑之事」、文書2-11「19、「弥谷寺由来書上」、文書1-17-8)。

弥谷寺は、自らの手による新田開発以外にも、有力者からの田畑の寄進を受けています。
弥谷寺に残された田畑等の寄進証文を、研究者が年代順に整理したのが次の表です。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田畑等の寄進証文一覧表

これを見ると一番古いのは「1の元禄12年の三野郡上高瀬村の田中清兵衛」によるもので、精進供料とし田畑5畝(高2斗5升が寄進されています。この時期は、弥谷寺境内に多くの墓標が造立され始めたころで、18世紀中頃にかけて急速にその数が増えていきます。墓標を弥谷寺境内に建てると同時に、追悼供養として寄進が始まったようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
弥谷寺の墓標造立数の推移表
2は、先ほど見た大見村寺地組の有力者で深谷家の当主です。新田として開発された周辺の土地が寄進されたのかも知れません。3~5は、大見村の属する「上の村組」の大庄屋である宇野家によるものです。宇野家は大庄屋として、多度津藩が命じて弥谷寺で行われる大般若経の転読や雨乞祈願などの行事には、上の村組の庄屋たちのトップとして臨席する立場にありました。ある意味、宇野家にとっては弥谷寺は慰霊の地であるとともに「ハレの場」でもあったのです。そこに、「観音堂修理料」の名目で、土地が3ケ所寄進されています。その後の田畑寄進者の名前を見ると、宇野家を見習うように大見村土井家、大見村庄屋大井家や、大見村内の有力者の名前が続きます。
 生駒氏や松平氏が新興の金毘羅神を保護し、金光院に多くの土地を寄進しました。それを真似るように、この時代になると庄屋や有力者が田畑を寺社に寄進するようになります。弥谷寺への土地寄進の先頭を切ったのは、大庄屋の宇野家で、これを見習うように庄屋たちが続いていきます。その背後には、彼らが弥谷寺を死霊の集まる山として霊山信仰をもち、そこに墓標を建てるようになったことがあります。

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弥谷寺の墓標
その中で6の正徳3年の5月と翌年3月に、美作の久米南条郡金間村平尾次郎兵衛が、岩谷奥院灯明料を寄進しています。
その理由は研究者にも分からないようです。ただ、近世以前の弥谷寺は、善通寺の影響下に入らずに、白方の海岸寺や父母院と同じ山伏(修験者・聖)たちとともに「空海=白方誕生説」を流布してたことは以前にお話ししました。そして、その源は多度津の道隆寺を経て、海を渡って備中児島の五流修験者たちとのつながりが見て取れます。五流の修験者の中には、海岸寺や弥谷寺を空海生誕の聖地として、先達なって信者たちを誘引していた時期があります。その名残がこの背景にはあるのではと、私は推測しています。

弥谷寺に寄進地された土地は、あまり広い田畑はないようです。
一番広いのが田畑5反3畝25歩の享保12年9月の上ノ村の大庄屋三野(宇野)浄智(与三兵衛)です。その次が寛延3年6月の田畑3反2畝27歩の宇野清蔵(宇野浄智の一族と思われる)になります。寄進目的としては精進供料、本尊仏倉向備、観音堂修理料、岩屋奥院三尊前言明料、石然地蔵尊仏倉向備、観音堂供灯明料、常灯明料・護摩供支具料・地蔵尊敷地・寺地普請などが記されています。
 宇野浄智の場合は常接待料・接待堂・常接待石碑となっており、遍路のための参詣者や接待堂建設のための寄進もあることに研究者は注目します。
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺の地蔵刻印の墓標


これらの寄進地は、その土地からの収入がすべて弥谷寺の収入となったわけではありません。
作徳米(藩へ年貢)を納めた後の収納米が弥谷寺の収入になります。たとえば一番古い元禄12年の田中兵衛の寄進状には、次のように記されています。
大見村小原にて田畑五畝、此の高弐斗五升の田畑買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料二事二仕る処なり、尤も御年貢諸役等其の方二て御勤め、其の余慶を以て御精進供御備え願い奉る者なり、右の意趣は両親のため、現世安穏後生善くする所なり
意訳変換しておくと
大見村小原で田畑五畝、石高弐斗五升の田畑を買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料として寄進する。もちろん御年貢諸役などを納めたあとの余慶を、御精進供御備するものである。この意趣は両親のため、現世安穏・後生を善くするためである。

ここからは次のようなことが分かります。
①寄進地は、従来から持っていた田畑ではなく、新たに弥谷寺周辺の田畑を買い求めたものであること。
「弘法大師の御精進供料」と弘法大師信仰がみられること
③「御年貢諸役等其の方二て御勤め」とあるように、年貢やその他の藩への負担である諸役は弥谷寺から納め、残った分を「其の余慶を以て御精進供御備え」に充てるとあること
この「余慶」が作徳米になります。つまり田畑の寄進を受けたとはいっても、それが「御免許地」のように藩への年貢貢等税が免除された寺領という性格ではなかったことを押さえておきます。
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弥谷寺本堂下の磨崖に彫られた五輪塔とその前に並ぶ墓標

弥谷寺への土地の売り渡し・質入れ証文が残っているのは、どうして?
享保11年(1726)から、幕末の嘉永元年(1848)までに20通を数える売り渡し・質入れ証文があります。どうして個人の証文が弥谷寺に残っているのでしょうか。研究者は次のように考えています。享保11年と同12年の大庄屋宇野浄智の売り渡し証文は、計田5反3畝25歩です。これは寄進地の第22表8番目の三野郡財田上ノ村宇野浄智と一致します。また宝暦6年2月の「利助取次」が宛名になっています。畑4畝12歩は、さらに大見村庄屋の大井平左衛門宛となっています。これは寄進地の13番目の宝暦6年12月大井平左衛門の田畑6畝5歩と同一の田畑だと研究者は指摘します。ここから大庄屋の宇野家や大見村庄屋の大井平左衛門は、質流れで手に入れた土地を、自分のものとするのではなく弥谷寺へ寄進したとことが分かります。この頃の庄屋は自分の利益だけを追い求めていたのでは、村役人としてやっていけなかった時代です。質流れの抵当として手に入れた土地は、寺社に奉納するという姿勢を見せておく必要があったのかもしれません。
以上をまとめておくと
①17世紀の弥谷寺は、八丁目大師堂の下あたりの斜面を開墾し、谷頭にため池を築造し新たな田畑を開いた。
②これは藩から「御免許地2町1反3畝」として無税の寺領として認められた。
③一方、18世紀になると大庄屋の宇野家など、境内に墓標を建てた有力者たちから先祖供養代などとして土地寄進が行われるようになった。
④その土地には「質流れ担保」で、庄屋たちの多くは自分のものとせずに弥谷寺に寄進する道を選んだ。
前回は大般若経の転読や雨乞い祈祷などの宗教行事を通じて、地域の有力者が弥谷寺と深く関わっていたことを見てきました。今回は、大庄屋などの有力者が経済的に弥谷寺をどのように支えてきたのかを見たことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
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弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
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八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

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ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

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八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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