①熊野信仰の篤かった妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てたという由緒②これが衰微して二十五間長床であった熊野権現の社殿は、今は小社となっていること③妻帯の山伏が寺に住していること。
ここで押さえておきたいのは、①の八坂寺境内の熊野十二社権現は「妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てた」と記されていることです。そして、社伝は「二十五間の長床」であったと記します。ここからは、その社伝の別当として熊野権現を管理し、八坂寺が作られたということがうかがえます。
それでは、現在は八坂寺の創建や縁起については、どのように語られているのでしょうか?
それでは、現在は八坂寺の創建や縁起については、どのように語られているのでしょうか?
「先達経典」
「先達経典」(四国八十八ケ所霊場会2006)の記述を要約すると次のようになります。①真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は修験道の開祖役行者小角。大宝元年(701)
②御詠歌「花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ」
③遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。
④飛鳥時代の大宝元年、勅願で伊予国司、越智玉興公が堂塔を建立
⑤このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とした。
⑥弘法大師がこの寺で修法し、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。
⑦本尊の阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信(942~1017)の作
⑧その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。
⑨このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えた。
⑩天正年間の兵火で焼失し、末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。
⑪現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡
①からは、開基は「修験道の開祖役行者小角」で、④からは「伊予国司、越智玉興公が堂塔建立」⑥からは、弘法大師再興
とされていることが分かります。ここには、熊野権現を還元した「長者妙見尼」は登場しません。
現在伝えられ寺史は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
手がかりを与えてくれるのが八坂寺に残る次の縁起木札3枚です。この内の2枚は安永5年(1776)に八坂寺住持宥瑞によって作成されたことが銘文から分かります。1枚目は八坂寺の創建に関わる木札です。


八坂寺 創建木札
創建・中興の2枚は、縦約80㎝と縦長で、そこに書かれた文字も大きいものです。また、よく見ると、上部に釘穴があります。ここからは、この木札が堂内などに掛けられて参拝者への説明版となっていたことが推測できます。内容を見ておきましょう。
意訳変換しておくと【八坂寺 縁起木札(創建)244P(表)抑当伽藍者仁皇四十二代文武天皇大宝元辛丑年、紀州熊野権現依証誠大菩薩教勅、太古当国前大守小千伊予守三位玉興創建也、今到安永五丙申及千八十六年、(裏)法印有瑞記
ここには、熊野権現の勧進が奈良時代まで遡り、しかも勧進したのは国司の越智玉興とされています。八坂寺の伽藍は文武天皇の大宝元(701)年に、紀州熊野権現の証誠大菩薩の教勅を受けて、国司の伊予守越知玉興が創建したものである。これは今から1086年前のことになる。
2枚目は、弘法大師中興のことが記されています。

八坂寺 弘法大師中興木札
(表)仁皇五十一代嵯峨天皇弘仁六乙来年、弘法大師以当伽藍四国八十八所第四十七香之道場中興車創給、到テ当安永五二及九百七十二年(裏)宥瑞新革
弘仁6年(815)に弘法大師が、この伽藍を四国八十八所第四十七番道場として中興草創したことが記されます。この時期は、弘法大師大師信仰が民衆にも広がり、四国遍路が増えていく時期です。
3枚目の縁起木札を見ておきましょう。
この木札は長辺38,5㎝の小ぶりな板で、釘穴もありません。しかし、分かりやすい書体で書かれているので、やはり参詣者らに掲示されたものと研究者は考えています。
(表)抑当伽藍者、仁皇四十二代文武天皇大宝元年辛丑、紀州熊野権①現証誠大菩薩依教勅、大古当日前大守小千伊予守正三位玉興公創建也、②天正の頃兵火の禍に懸りて伽藍諸堂末社僧坊拾弐ヶ院塔頭一時のけむりとなり、其時権現の神体焼そんじさせたまふ、③分散の之神体取集此内へ奉納り置ものなり、深秘して奉拝之事なかれ、可恐可恐、前書之旨天正之頃焼失といゑ共碇したる旧記無之、只伝来而己、しかれ共神体拝見之処焼失止しき事なり、
3枚目の「縁起木札」は、作成年次、作成者ともに分かりません。
内容的には
①大宝元年(701)熊野権現証誠大菩薩の教勅によって小千伊予守三位工興が創建したこと②こに加えてに、天正年間に兵火にかかり伽藍諸堂や僧坊十二ケ院塔頭が焼失したこと③焼損で分散していた神体を取り集め納置したところ、実際に焼失したことが確かめられたこと
3枚の木札と、近世はじめの四国遍路記などを比べて見ると、
近世初頭は、創建者は「熊野信仰の篤かった妙見尼という長者」で、「越智玉興」は創建者として出てきませんでした。それが、近世中頃になると創建者が「越智玉興」とされるようになります。「越智(河野)玉興」は、飛鳥時代の伝説上の人物で、物部姓越智氏一門河野氏の祖とされます。八坂寺は江戸時代半ばに創建者を、地域の長者・妙見尼から、河野氏祖先に変更したようです。以後は、八坂寺の草創は越智氏と伝えられていきます。
近世初頭は、創建者は「熊野信仰の篤かった妙見尼という長者」で、「越智玉興」は創建者として出てきませんでした。それが、近世中頃になると創建者が「越智玉興」とされるようになります。「越智(河野)玉興」は、飛鳥時代の伝説上の人物で、物部姓越智氏一門河野氏の祖とされます。八坂寺は江戸時代半ばに創建者を、地域の長者・妙見尼から、河野氏祖先に変更したようです。以後は、八坂寺の草創は越智氏と伝えられていきます。
八坂寺 明治5年明細帳
明治5年(1872)に住職の宥意(八坂文瀧)によって石鉄県に明細帳が提出されています。この明細帳には、八坂寺の沿革、宥意や寺族の履歴、境内地などが記されています。また末寺の東林山林光院光明寺、見滝山長泉寺金剛院のことも記されているので、八坂寺や末寺に関する基本史料となります。内容を見ておきましょう。
古儀真言宗修験当山派石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺邑御直末別納中本寺一大本寺西京醍醐三宝院官 熊野山八阪寺開宗祖師理源大師当山開基大宝元幸十歳也、当辛申歳迄千百七十四年相成日、為信仰当国旧太守小千伊予守従三位玉興公創建也、後弘仁乙来年弘法大師四国八十八ヶ所第四十七番霊場草創給、後四州乱軍之側懸兵火寺誌世代不詳、乍併五輪石碑等数々雖有之文字一切無之故年暦相分不申候也、良而天正五丁丑歳宥覚法印当寺中古、住職夫十四世相続申候、当住右同寺産而天保五乙未得度、同九戊戊四度加行、併護摩秘法執行、弘化二丙午歳大峯入峯、執行灌頂、次本寺継目、次人先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣昇進仕候、同三丁未載右県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印江随身修験現法降魔壱千座満行、次一宗秘法相伝、其後一派宗学執行寺格者本寺直末別納別触紫衣之寺格也、第十五世当住 宥意 千申五十載(歳)第十六世二代 有同寺産而元治元甲子得度、明治三曖午修験最勝忠印七壇加行丼護摩秘法執行也、第十六世二代 宥教 壬申二十載右同県管轄旧松府音羽町天台宗修験旧上蔵院良山妹養母アイ 壬申六十載宇和島県管轄浮穴郡大南邑同宗西願寺学応妹〈別触紫衣之寺格也〉 妻 ハシメ 壬中三十九載右八坂寺宥意妹 妹 エイ 二十四載以上五人内(修験二人 女三人)境内 壱町八反七畝四歩
意訳変換しておくと
古儀真言宗修験当山派に属し、御直末(醍醐三宝院)の中本寺であり、石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺村にある。大本寺西京醍醐三宝院で 熊野山八阪寺醍醐寺の開宗祖師理源大師で、当山の開基は大宝元(701)年十歳のことである。これは、1174千前のことになる。創建は伊予国司越知玉興公であり、後の弘仁年間に弘法大師が四国八十八ヶ所第四十七番霊場として中興草創した。その後、四国騒乱時に兵火に係り記録文書が焼失して寺史についてはよく分からない。五輪石など石碑は数々あるが文字が一切なく、これからも年代が分からない。天正年間に宥覚法印が当寺を中興し、十四世住職を相続した。そして天保五年に得度、その後四度の加行、護摩秘法を執行。、弘化二年には吉野大峯にも入峯し灌頂を受けてた。引き続き修行に精進し、大先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣に昇進した。また県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印で修験現法降魔壱千座を満行し、一宗秘法を相伝。その後、宗学執行寺格は本寺直末別納となり紫衣之寺格となった。(以後略)
ここに記されたことを寺史沿革に絞って要約すると次の通りです。
①大宝元年(701)越知玉興による開基②弘仁6年(815)弘法大師による四国八十八箇所第四十七番霊場としての草創③戦国期における兵火による焼失
研究者が指摘するのは、ここに書かれているの内容や文体は、先ほど見た創建木札によく似ていることです。明治5年明細帳の作成の際には、この木札を参考に、当時の住職宥意(八坂文瀧)が書いた可能性が高いようです。つまり、近世半ばに木札として八坂寺に掲げられていた創建・中興などの記事が、明治になってそのまま県への報告書の中に取り込まれ、その後の寺史となっていたことがうかがえます。
なお越智氏を開基や再興時の檀那とする例は、浄瑠璃寺でも見られるようです。聞いたこともない「妙見尼という長者」よりも「古代の伊予国司」とされる越知玉興の名前の方が相応しいとされたのでしょう。地域的に受容されていた歴史観が、寺院の縁起に取り込まれたと云えそうです。ちなみに、木札に記された縁起内容は、八坂寺に残された近世古文書からは確認できないようです。
獅子像(八坂寺)
以上をまとめておくと
①八坂寺は中世には、熊野権現信仰が中心で、その別当寺として八坂寺があり、社僧(山伏)が管理していた
②その創建については、「妙見尼という長者」の熊野権現勧進に始まると近世はじめにはされていた。
③しかし、近世半ばになると八坂寺が真言系修験の醍醐三宝院の中本寺となることで、醍醐寺に関係する空海・役行者・理源大師(聖宝)が開基や中興者として登場するようになる。
④そのような中で、河野氏の祖とされる越知玉興の開基ともされるようになる。
⑤明治になって寺史沿革提出を求められた八坂寺住職は、境内に掲げられていたこれらの開基・中興者たちの木札を参考に、沿革を記して提出した。
⑥それが、その後の八坂寺の寺史の原型となった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
関連記事
四国霊場第47番札所 八坂寺は熊野先達から石鎚先達へと転進した。
関連記事