瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:八栗寺

前回に続いて、今年の春に刊行されたばかりの「八栗寺調査報告書」を見ていきます。今回は、江戸時代の四国遍路の挿絵から八栗寺の伽藍の推移を見ていくことにします。
1 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689) 八栗寺図より

八栗寺 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689)

①五剣山を見ると、5つの峯が全部描かれています。このうち宝永地震で、一番左側の峯が崩落してしまうので、それ以前の五の峰が揃った姿ということになります。この峯々に何が祭られていたかを本文には次のように記します。

「中峰の峙つ三十余丈、是に蔵王権現を鎮祠し、北に弁才天、南ハ天照太神なり」

 一番高い中央の峰の頂上部に「蔵王」と記された祠が描かれていて、ここに蔵王権現が祀られています。ここからはこの地が修験者たちによって開かれた霊山であったことが分かります。
 また「是に七所の仙窟あり」とあり、山中には「聞持窟」「明星穴」「護摩窟」など、修験のための窟が描かれています。以前にも、お話ししたように古代の山林修行者が行場にやって来て、まずやらなければならないのは、雨風を凌ぐ生活空間を確保することでした。整備された寺院やお堂は、後になって形を見せるもので、古代にはそんなものはありません。空海も太龍山や室戸で窟籠もりを行っています。そして、洞窟は異界に通じる通路ともされていたことは以前にお話ししました。
「丈六の大日如来を大師 岩面に彫付給へり」
「中区に大師求聞持を修し給ふ窟あり、是を奥院と号す、寺よりのぼる事四町ばかり也、此窟中 大師御影を置」
意訳変換しておくと 
「丈六の大日如来を弘法大師は、岩面に彫付けた。」
「中央に大師が虚空蔵求聞持法を修した窟がある。これを奥院と呼ぶ。寺より登ること四町ばかりである。この窟中に、弘法大師の御影がある。」
蔵王堂直下には、空海が岩に掘ったという丈六の大日如来が大きく描かれています。
大日如来(八栗寺の行場)
また、その下には「聞持窟」があり、空海がここで虚空蔵求聞持法を行ったされ、窟中には弘法大師の御影が置かれていたと記されてます。弘法大師伝説が、この時代までには定着していたことが分かります。
 さらにその下の中央部に「観音堂」が南面して建ちます。
「大師千手観音を刻彫して―堂を建て安置し玉ひ、千手院とふ」
「本堂の傍の岩洞に不動明王の石像あり、大師作り玉ひて、此にて護摩を修し玉ふと也、窟中一丈四方に切ぬき、三方に九重の塔五輪など数多切付たり」
意訳変換しておくと
「弘法大師が千手観音を刻彫して、安置した一堂を千手院と云う」
「本堂の傍の岩洞には不動明王の石像がある。これも大師の作で、ここで護摩祈祷を行ったという。窟の中は一丈四方を刳り抜いたもので、三方に五輪塔が多数掘られている。
ここでは、もともとは千手観音が本尊だったことを押さえておきます。ちなみに今は聖観音です。
絵図には現在の聖天堂・護摩堂付近の場所に、簡易な建物が描かれていて、「護摩窟」と記されています。
八栗寺線刻五輪塔
線刻五輪塔(八栗寺)
ここで護摩祈祷が行われ、その周囲の壁には、多くの五輪塔が掘られていたようです。中世の弥谷寺でも、数多くの五輪塔が祖先供養のために掘られていました。ここからは中世の八栗寺にも多くの念仏聖や修験者たちがいて、祖先供養を行い、周辺の有力者の信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。また、「中世石造物の影には、修験者や聖あり」と言われるので、八栗寺も彼らの拠点寺院となっていたのでしょう。
 観音堂の下方には、現在と違った場所に鐘楼が描かれています。さらに絵図下方には「千手院」と記された建物が描かれています。千手院が周辺の子院のまとめ役として機能していたのでしょう。
次に「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)の八栗寺を見ていくことにします。
八栗寺1800年

寛成年間に描かれた絵図なので、宝永地震で崩落した五峯がなくなって、四つの峰となった五剣山です。絵図下方に二天門があり、そこから正面に向かって五剣山を背に西面した本堂(観音堂)が描かれています。「本堂本尊聖観音御長五尺大師御作」とあるので、それまでの千手観音像から聖観音像へと変更されたようです。

八栗寺本尊聖観音2
八栗寺本尊 聖観音
 本堂の下方には、「聖天社」と記された聖天堂が南面して建ちます。
その屋根の上方には岩壁に刻まれた五輪塔が2基見えます。また聖天堂の下方の現在の通夜堂の場所、二天門の右上現在の茶堂の場所に、それぞれに建物が描かれています。通夜堂の場所にある建物については築地塀を挟んで二つの建物が並んで描かれています。また本文には「大師堂あり」と記されていますが、絵図中には描かれていないようです。鐘楼は「四国術礼霊場記」に描かれた場所と、変わりないようです。
この絵図と先ほど見た『四国編礼霊場記」(1689)を比較して見ると次のような変化点が見えてきます。
①五剣山の行場に関する情報が描かれなくなった。行場から札所への転換
②聖天堂が姿を現し、新たな信仰対象となっている 

『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)を見ていくことにします。
八栗寺 『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)

ここには江戸後期の八栗寺境内が描かれており、二天門、通夜堂、聖天堂、本堂、鐘楼は「四国遍礼名所図会」と同じ場所にあります。
①茶堂に隣接した後の御供所の場所に建物が描かれている
②本堂より南方の開けた場所には、石垣の上に大師堂
③石垣の手前、現在の地蔵堂の場所に小さいな建物
④大師堂の右手には大規模な客殿・庫裏の建物群
⑤聖天堂と本堂の間の岩壁には五輪塔が数基刻まれている
⑥境内に至る参道のひとつは、絵図左下、二天門に至る「七曲」と記された稜線を幾重にも折れ曲がった急峻な坂道
⑦もう一つは、大師堂と客殿・庫裡の間に至る「寺道」と記された谷筋沿いの道
ここからは、18世紀中に庫裡などの整備が進み、伽藍が大型化したことが見て取れます。信者たちの数を着実に増やしたのでしょう。

「讃岐国霊場85番札所 五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)を見ていくことにします。

五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)より

八栗寺所蔵の摺物で、年紀はありませんが建物の様子などから幕末期に作成されたものと研究者は考えています。『讃岐国名勝図会」の境内図との相違点としては、次のような点が挙げられます。
①鐘楼の位置が本堂と同じ石垣の上に移動
②「七曲」の参道から境内に至る道沿いに「七間茶や」と記された7軒の茶屋が描かれている
③聖天堂上方、五剣山麓に「中尉坊社」と記された堂が描かれている

「真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)を見ていくことにします。
「四国八十五番霊場 真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)

明治後期の八栗寺境内が詳細に描かれています。研究者は次のような点を指摘します。
①建物の位置は、現在とほぼ同じ。八栗寺は120年前から伽藍配置は変化していない
②絵図中の建物名称が、聖天堂が「歓喜天」、茶堂が「茶所」、二天門が「二王門」と現在と異なること
③五剣山の山頂付近に「蔵王権現」と記された祠が描かれているが、「四国偏礼霊場記」で描かれた峰とは違った峰になっていること
④「七曲道」から境内に至る参道沿いには旅館が描かれていて、「讃岐国霊場八十五番札所五剣山八栗寺之図」では7軒の平屋の茶屋であったのが、4軒の旅館(内2軒が2階建て)になっていること
⑤絵図右方には庫裡・客殿の建物群が詳細に描かれいて、その内に御成門がある。
八栗寺00

参考文献
芳澤直起 八栗寺の境内 八栗寺調査報告書(2024年)
関連記事

中世の志度道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの一大根拠地であった。

八栗寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
八栗寺と五剣山

図書館に「八栗寺調査報告書」が入っていました。今年の春に発刊されたばかりの報告書です。読書メモ代わりにアップしておきます。まずは、八栗寺をとりまく周辺の歴史を押さえておきます。
テキストは「八栗寺調査報告書2024年 八栗寺の立地と歴史」です。

八栗寺2

第85番札所八栗寺は、標高375mの五剣山の中腹にあります。

北は瀬戸内海を展望し、西には屋島や五色台、南には高松平野を眼下に望めます。さらにはるか南には阿讃山脈、東は志度湾から遠く播磨灘まで望むことができます。
 髙松藩の『御領分中寺々由来之書』によると、八栗寺の寺名由来は、もともとは山頂から八か国の境を見渡すことができることから「八国寺(やくにじ)」と呼ばれ、「四望晴」と記されています。

五剣山一峯からの屋島・壇ノ浦
五剣山から望む屋島・壇ノ浦
また、空海が修行中に五振の剣が天から降り、金剛蔵王が現れたので、剣を岩窟に埋めて中央の峰に蔵王権現を勧請したという五剣山の山容に関連した山名由来も紹介されています。蔵王権現は修験者たちの信仰対象なので、この山が修験者たちによって開かれ、行場とされ霊山化したことがうかがえます。そのためここでも天狗信仰が盛んだったようです。
八栗寺 中将坊
八栗寺の中将坊と天狗達

五剣山は標高200m付近までは庵治花崗岩です。
そのため女体山西麓の大丁場を中心に庵治石と呼ばれる良質の花崗岩が切り出されてきました。また標高200m~300mには良質な流紋岩質凝灰岩があり、八栗寺周辺にも凝灰岩を切り出した石切場跡が残っています。
五剣山9
 五剣山は基部の花崗岩が風化・流失して、凸状にそびえる山容を見せます。18世紀初頭の宝永地震では五剣山の6峰のうち、南の五ノ峰とその南の峯が崩壊し、その景観が大きく変化しただけでなく、建造物にも被害を与えています。

讃岐旧街道を走る(1)志度道を行く(前編)_d0108509_17312042.jpg
八栗・志度街道
 八栗寺のある牟礼町は、五剣山山麓の緩斜面地と丘陵北麓を縫うように、高松と志度湾を結ぶ陸路が通ります。これが近世には、高松城―古高松―牟礼―志度―津田を結んで、丹生(落合)付近で讃岐国往還に合流する阿波街道(志度道)として整備されました。そのため高松と志度を繋ぐ街道沿いに、牟礼の集落や街道沿いの町場が姿を見せるようになります。これが近代になると国道11号の開設や東讃電気鉄道(志度線)や国鉄高徳線の敷設などに引き継がれて行きます。

高松・屋島

 庵治半島と屋島の間には海が入り込み、古代末まで屋島は島でした。そして庵治には港湾施設があったと研究者は考えています。
屋島の旧海岸線
屋島と旧海岸線(青色)
文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』からは、屋島の南端に比定される方本港や庵治半島の北西部に比定される庵治港を母港とする船が兵庫北関を通関したこと分かります。さらに、東には志度港があり、高松と志度を繋ぐルートに海路も連結していたことがうかがえます。こうして見ると、八栗寺足下の牟礼は、陸路と海路の結節点(片本・志度)の中間に位置する港町であったようです。
八栗寺を考える上で、六萬寺は大きな意味を持つようです。
六万寺2

『六高寺縁起」(正徳3年(1713)には次のように記します。
①天平年中(729-749)に疫病が流行し、行基菩薩が勅を奉じて当寺を建立して析願したところ、疫病は平癒し、国家安全となり、寺号を国豊寺と称した。
②その後、七堂伽藍を整備し、六万体の薬師銅像を安置し、六萬寺と改称した
③牟礼・大町の2村に42の子院を持っていた
④延暦年中(782-806)に弘法大師が六萬寺で彫った千手観音を八栗の嶽に安置して千手院と号した。
⑤その後、八栗寺と改め、六萬寺の奥の院と定めた
 八栗寺が六萬寺の42の子院の一つであったかどうかは分かりませんが、江戸時代には「六萬寺の奥の院」と考えられていたことは分かります。
 牟礼は、後鳥羽院の院政期に成立した山城石清水八幡宮の寺領荘園の牟礼荘でした。
山城石清水八幡宮は、保元の頃には官寺領を全国34か国に、100ケ所持っていました。讃岐では牟礼と仁尾の草木荘の2つの寺領を所持しています。仁尾では京都賀茂神社と石清水八幡官が港湾の管理権をめぐって競合・対立ししていたことは以前にお話ししました。牟礼の石清水八幡宮の寺領荘園の設置も、仁尾と同じように瀬戸内海の海運拠点確保というねらいがあったことが考えられます。それが梶取や船頭の拠点となり、小さいながらも海運拠点になっていったことが推測できます。

源平合戦の地を巡る|日本の歴史が動いた舞台「屋島」探訪|特集|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット
義経の屋島侵攻ルート
 『吾妻鏡』には、元暦2年(1185)には源平合戦の際に、阿波から讃岐に進軍した源義経が屋島の東裾に設けられた平家の屋島内裏の対岸にある牟礼や高松(古高松)の民家を焼き払ったとあります。ここからは、その頃までには牟礼の海浜沿い、主要道沿いには集落が成立していたことがうかがえます。
 また、八栗寺には石切場跡が3か所残っています。
中世讃岐の石切場
讃岐には凝灰岩の採石地が数か所あって、八栗寺石切場跡は「八栗」に分類されています。八栗に分類される石切場は八栗寺の本坊周辺に3つあります。
八栗寺石切場跡A・B
八栗寺石切場A・B

八栗寺石切場跡C
八栗寺石切場C
 石切場があるとことろは修験者の拠点と思えというのがセオリーです。八栗周辺は、弥谷寺や白峰寺と同じく、行場であると同時に、凝灰岩や石造物の生産拠点だったようです。
八栗寺参道の石切場跡
八栗寺参道の石切場跡

ちなみに八栗製石造物の最も古いものは、一宮寺境内の御陵中央搭(宝塔)で宝治元年(1247)のものになるようです。また近年、讃岐国府跡でも八栗産の石造物が多数確認されています。見つかっているのは層塔の部材で、最古のものは10世紀前葉とされます。さらに讃岐国府に接する開法寺池(開法寺跡)から採集された石造仏頭も八栗に分類さています。以上からは八栗石材が7世紀後半という早い時期から、讃岐国府に提供されていたことが分かります。
 
 南北朝期から室町期になると牟礼氏が牟礼城跡を築きます。しかし、その所在は不明です。「大乗院寺社雑事記」明応4年(1495)3月1日の条に、次のように記します。
「柚留木亀千代の男相語って云々。(中略)讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子を遣わす処、両人共に攻め殺さる。今に於ては安富(元家)罷り下るべしと云々。大儀出来」

ここからは次の事が分かります。
A 牟礼郷が国人蜂起の標的にされたこと
B 牟礼城主の牟礼氏は守護代安富氏の配下で京都におり、急ぎ帰ったが逆に国人衆に討ち取られたこと
その後、牟礼の主人は次のように推移します
①天文年間(1532・-55)に中村氏宗が田井城跡(17)に入城
②天正9年(1581)に中村宗卜は八栗城跡に移る(『全讃史』)
③同年長宗我部元親に攻められ、落城する
八栗寺仁王門前の墓地が八栗城跡と伝えられ、「城の鼻」という地名が残ります。東西150m前後の尾根全体を利用したようです。長宗我部氏による天正10年(1582)の十河城攻め、天正11年の八栗城攻めに際し、六萬寺に陣を置いたとされ(六萬寺陣所跡)、この時の兵乱で六萬寺伽藍は焼失したと伝えられます。

文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』からは、屋島の南端に方本(かたもと)港、庵治半島の北西部に庵治港があったことがうかがえます。
兵庫北関1
讃岐船の入港一覧表(兵庫北関入船納帳)
①兵庫北関を通関した方本船籍11艘のうち、6艘が守護細川氏の御用船の名目で特権を与えた船である国料船(5艘が有力国人十河氏、 1艘が守護代安富氏)、
②庵治船籍10艘のうち、4艘が十河氏の国料船
ここからは、方本・庵治が東讃の有力国人領主である十河氏の影響下に置かれる一方、約半数の船籍は2つの港町を母港として船頭や間の裁量で塩や穀類の輸送を行っていたことが分かります。
 さらに、使用されている船の規模を見てみると
③方本船籍は、400~550石クラスの大型船
④庵治船籍は、170~280クラスの中型船
方元が最重要商品である塩に特化した「塩専用船」で最新鋭の大型船で、庵治はその他の雑貨が中心だったと研究者は指摘します。方本と庵治の両港は、有力領主と連携し、有利な条件を獲得するために「棲み分け・分業」を指向していたようです。牟礼は両港とは直接的には関係しませんが、牟礼を本拠とする牟礼氏が守護代安富氏の配下であった点を考えると、両港が有力領主らと連携する動きに、牟礼も歩調を合わせたことが推測できます。

庵治半島の南西部や、海浜部沿いには源平合戦の史跡が点在します。
屋島古戦場を歩く(屋島寺) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
屋島合戦の名所

「平家物語」や『吾妻鏡」からは、庵治半島が合戦の舞台であったことが分かります。これを受けて周辺には、次のような名勝が点在します
①那須与一が扇の的を射落した「駒立岩」
②逃げる源氏を平家が熊手で引っ掛けて甲冑の銃を引きちぎった「しころびき跡」
③義経が海に落とした弓を拾い上げた場所である「弓流し跡」
しかし、これらの真偽は疑わしいと研究者は考えています。なぜなら、これらの史跡は高松藩初代藩主松平頼重が現地を訪ね、歴史を偲ぶとともに、佐藤嗣信の碑を壇ノ浦に建立するなど後世に整備されたものだからです。それが『金昆羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854))などの地誌に史実とともに、名所として絵図入りで紹介されて、定着していきます。
屋島壇ノ浦 讃岐国名勝図会
屋島壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
参考文献
八栗寺調査報告書2024年 八栗寺の立地と歴史

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