瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:六万寺

        
前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」

前々回に髙松平野周辺での伊勢御師の「布教活動」を冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」で見ました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それが約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の檀那(道者)の家に出向いて、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。前々回は、その檀那廻りの霞(テリトリー)やルートを見ましたが、今回は別の視点で追ってみようと思います。テキストは、「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

 伊勢の御師の来る季節 : 江戸・東京ときどきロンドン
檀那宅を訪ねる伊勢御師(江戸時代 戦国時代は山伏姿だった)

 旦那の中に、姓を持つ者や寺社がかなりあります。

ここからは、伊勢御師の布教活動が村落内の有力者から進められ、周辺の人間へと進められたことがうかがえます。伊勢御師の布教活動が、まずは戦国大名などを檀家にして、そこを梃子にして家臣団に広げ、さらにその領地の有力者に信者を獲得するというやり方がとられているようです。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂

表1に、御祓大麻(大麻祓おおはらいたいま)の欄があります。
伊勢御師 伊勢お札
伊勢神社の御祓大麻
御祓大麻は伊勢神宮が特別な檀那に配布した大きな御札です。その大麻の中で最大級なのが「一万度御祓大麻」です。 御祓大麻の欄に●印がついているのは30名で、全体の1割程度にしか過ぎません。彼らが特別に重要な人物であったことが分かります。 御祓大麻を配布されているのは、野原中黒里の談議所(無量寿院)を、別にすると姓を持つ者がほとんどで地域の小領主層のようです。このことからも、伊勢御師の布教活動が地域有力者から始まったという見方が裏付けられます。
伊勢御師 伊勢参宮名所図会
伊勢御師の邸宅 全国からの檀那を迎え入れた宿でもあった。

今までの伊勢御師・岡田太夫の活動をまとめておきます。
①岡田太夫の霞は、海岸線沿いの港湾集落に重要エリアが集中している
②岡田太夫の布教活動は、地域の小領主層を檀那化することから始められ、その周辺部の人々に及んでいた。
伊勢御師 と檀那

船で野原中黒里にやってきた岡田太夫は、檀那である「正藤助五郎殿」の家に宿泊しています。そして、ここを拠点に以下の野原郷の檀那62軒の家をめぐっているようです。

「野原中黒(12人) → 野原浜(14人)→ 西浜(1人) → 野原天満(6人) → 野原中ノ村(12人)」

その中には、石清尾八幡官の神官や野原庄の庄官、さらに香西氏配下の小領主たちもいます。これを一日で全て廻ることはできません。野原郷内の移動経路は中黒をスタートして、時計と反対回りに訪問し、夕方が来たら中黒の「正藤助五郎殿」の館に帰って来るという「拠点方式」で行われたと研究者は推測します。それを2~3日でおえたのでしょう。
伊勢御師 檀那廻りルート

 記録で次の宿となっているのは鮎滝の手前の井原里です。
ここでの宿は、冠櫻神社(香南町)の祭礼で番頭を務めた友則宅に入っています。記録には日時が記入されていないので、いつのことか分かりません。また、野原郷での檀那訪問が何日かかったのかも分かりません。
 中黒から井原里までは、14km(三里半)程度なので、歩き慣れた伊勢御師(修験者)であれば2時間半程度で到達できる距離かもしれません。しかし、それでは檀那廻りの「営業」にはなりません。途中の村落に立ち寄って、101名の旦那に土産を配り、それぞれ異なる量(額)と形態の初穂料を徴収しなければなりません。さらに三ケ所では、地元代行者に扇150本と10本を渡す、という営業マン顔負けの業務をこなすことが求められています。そして、用件だけを終わらせて、「はい それではさようなら」では済みません。一年ぶりの再開ですから心をつなぎ止めるための挨拶や情報交換なども欠かせません。一日に20軒としても5日はかかると思われます。
 岡田大夫自身は、馬に乗って行程をこなした可能性もあります。
しかし、多量の伊勢土産を持参し、またそれと引き換えた初穂を運ぶためには駄馬(荷駄)がいります。その馬子は、当然徒歩です。それほどのスピード・アップは望めたとは思えません。こんな調子で伊勢御師のお札配布と初穂料集金の旅は行われたとすれば、かなりの日数がかかったことになります。これに対して研究者は、全ての檀家をめぐっていたのではない可能性を次のように指摘します。
  ・旦那を一軒ずつ訪ね歩いたのか
  ・ある程度まとまった集団と、どこかで落ち合ったのか。
井原里を例で考えると、横井甚助・甚大夫(高松市香南町大字横井)や見藤太郎左衛門(同町大字由佐字見藤)の屋敷をそれぞれ訪れたのか、それとも「公共の場」である冠尾八幡宮(現・冠櫻神社)で、落ち合ったのか、ということです。
冠纓神社 御朱印 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
冠櫻神社(旧冠尾八幡宮)

井原里の檀那のうちの、有姓者(横井・見藤・友則)は、15~16世紀の放生会の番頭として名前が記された一族で、冠尾八幡との繋がりが深い上層住民だったことが分かります。また、「惣官殿」も、冠尾八幡宮との関係か想定されます。井原里にやってきた岡田太夫は冠尾八幡宮に入り、そこに集まってきた檀那衆に伊勢札を配り、初穂を集め、旦那の新規獲得のために八幡宮に扇70本を残して、その日のうちに、宿とした友則宅に入ったことも考えられます。そうだとすると、村の神社は地域の対外的な窓口としての機能を果たしていたことにもなります。
岡田大夫が余分に扇を託した相手は、14件全てが「地下」か「地下中」、「寺中」と記されています。
大熊里では松工、国分里では法橋の項に、次のように記されています。
「あふき(扇)計 此方より数あふき十本余候 御はつあつめ申候余候」

ここからは村落内の有力旦那が代行して扇を配り、初穂を集めることを行っていることが分かります。彼らは布教活動の協力者とも云える存在です。その協力者によっても、新しい檀那が獲得されていたことがうかがえます。

記録には、岡田太夫が次のような檀那の家を宿所にしたと記されています。
①六万寺(牟礼里)のような地域の有力寺院、
②正藤助五郎(野原中黒里)、岡野七郎衛門(上林里)、川渕二郎太郎(庵治里)、おく久兵衛門(原里)のような有姓の武士身分と見られる者の家
③地域の神社祭礼で番頭を務めた友則(井原里)
④門前の職人である研屋与三左衛門(志度里)
⑤海運や漁掛に関わると推測される九郎左衛門(乃生嶋里)
③④⑤は、地域の上層住民と見られる者です。ここからは伊勢御師が宿としたのは、檀家の中の有力寺院か、武士身分、上層住民の3つに分類できそうです。このうちでは7人が沿岸部の港町に住んでいます。残りの5人も阿波への峠越えの沿線(井原里・岩部里)、古・高松湾に注ぐ河川の河口近く(上林里・下林里・六条里)などに家があったようです。ここから研究者は、次のように推察します。

「宿所は、陸上・海上交通の要衝に位置する地域に宿が選択されている」

 各地の檀那から集められた初穂(銭・米・豆・綿など)は膨大な量に上ります。これを運びながら次の宿所まで移動することは避けたいところです。できれば旅の最終日に、旅先のホテルから宅急便でボストンバックを家に送るように。初穂料を送りたいものです。宿所提供者の家が何らかの形で運輸業(廻船・馬借など)に携わる稼業であったのではないかと研究者は推測します。
第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

記録の中には「あんない(案内)」が次の5名登場します。
野原中ノ村の彦衛門、
坂田土居里の二郎左衛門、
漆谷里の新兵衛、
牟礼里の六万寺式部、
志度ノ里寺中の華厳坊、
彼らは大麻配布の対象者ではありませんが、六万寺式部や華厳坊のように村落・寺中内のトップクラスの有力者が含まれています。
六萬寺<香川県高松市> | 源平史蹟の手引き
六萬寺(牟礼町)
「案内」については、研究者は次の二つが考えられます。
①現地の行程の案内者、
②伊勢参宮の案内者すなわち先達、
野原西浜の官内殿の項に、次のように記されています。
「ミの年にて候、年々米二十つゝ賜にて候」

ここからは、岡田大夫は少なくとも巳の年、すなわち丁巳=弘治三年(1557)以来、毎年讃岐の縄張りを廻っていることが推測されます。そのため、讃岐の行程についてはよく分かっていたと考えられ、ことさらに現地での道案内を必要としたとは思えません。とすれば、案内者とされる旦那は、伊勢への先達(②)の可能性が高いと研究者は考え、次のように指摘します。
「伊勢参宮には先達が原則として存在しない」とされている。しかし、慶長四年(1599)請取の熊野の「廓之坊諸国旦那帳」(熊野那智大社文書)には、先達の名が見え、伊勢よりも早く盛行を見た熊野参詣では、先達の引率で参詣を行う形が16世紀後半まで残っていたことが読み取れる。実質的な先達としての役割を果たした現地の旦那を伊勢参詣においても想定することは、十分あり得ることである。
 つまり「案内」は、伊勢詣での先達を勤める者達だったというのです。そうだとすれば、漆谷里の新兵衛には「案内者として地下中へ扇十五本入中候」と記されています。ここからは新たな檀那獲得のための布教活動が地元の「先達」によっても行われていたことが分かります。

伊勢御師 伊勢参りの先達
伊勢詣と先達(江戸時代)

以上から、檀那の中に次のような稼業にかかわる人たちもいたようです。
①新規の檀那獲得の地元代行者
②伊勢詣での先達
③初穂の輸送も担う宿の提供者
以上のような実務的な協力者が檀那の中にはいたようです。
まとめておくと次のようになります
①讃岐にやって来た伊勢御師は、有力な檀家たちの支援協力を受けて初穂料集金を行っていた
②宿としたのは運送業(廻船・馬借)にかかわる檀那たちで、お土産品や初穂料輸送などを支援した。
③伊勢御師は一軒一軒を訪問するのではなく、有力檀家たちの協力を受けて配布や集金を依頼することも行っていた。
④檀那の中には「あんない」と記されたものがいるが、これは伊勢詣での先達を務める者達で、伊勢御師の支援協力者でもあった。
⑤有力檀家の伊勢参りの際には、伊勢御師が手配や供応をおこない、両者の間には密接な人間関係が築かれていた。そのため初穂料集金に対しても檀那たちは協力的であった。

伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師
伊勢詣での檀那たちを向かえる伊勢御師

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   佐藤竜馬  伊勢御師が見た讃岐
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