六十六部の札所寺院への勧進活動を以前に追いかけました。今回はエリアを、66番大興寺周辺に特定して、見ていくことにします。テキストは 武田和昭 「四国辺路」納経帳の起源 四国辺路の形成過程所収」です。
まずは66番大興寺の仁王門から始めましょう。
この仁王門は、以前にお話ししたように関東からやってきた唯円という廻国行者によって建立されたようです。善通寺の「善通寺大搭再興雑記」には、唯円のことが次のように記されています。(意訳のみ))
「唯縁(円)勧進用此序」唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12(1727)年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
ここからは唯円が、小松尾寺の仁王門建立の勧進業績を買われて、善通寺五重塔の勧進活動に携わるようになったことが分かります。唯円は廻国行者で、六十六部であった可能性が高いと研究者は考えているようです。
唯円の再築から60年後に、この仁王門は改修されています。
その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
播州池田回国金子志 小兵衛寛政元(1789)年 十方施主奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養己山―月 本願主 長崎廻国大助
仁王像は鎌倉時代初期に造られた物で像高2mを超す大きな像で、現在は香川県指定文化財です。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者であったことを、この仁王たちは見ていたのでしょう。 大興寺には廻国行者(六十六部)たちが、仏像や建物について勧進活動をして、その経営を支えていた歴史があるようです。
大興寺の境内南側には、次のような六十六部に関する石塔が2基建立されているようです。
廻国供養塔宝暦七丁丑四月日奉一字一石大乗妙典日本廻国供養中□□口巴□□古兵衛武啓(六十六部廻国塔)安永十辛丑奉納大乗妙典六十六部日本廻国三月良辰日修行者行本 俗名河内村□□朋有兵衛門
宝暦七年(1757)と安永十年(1781)の廻国供養搭です。前者の古兵衛武啓は大興寺に近い地元の人物で、後者も地元の河内村の人物です。この他にも本堂横には、石造地蔵書薩台座に亨保六年、長州萩の六十六部廻者行者の名前が見あります。これらの供養塔からは廻国行者と合わせ、大興寺を中心にして、六十六部廻国行者の活動が活発だったことがうかがえます。
六十七番大興寺の周辺には、六十六の活動が遍路沿いにもみることができるようです。
大興寺から辺路道を66番雲辺寺に向かっていくと、柞田川の支流をせき止めた岩鍋池の大きな堰堤と、その向こうに式内社の粟井神社が見えてきます。岩鍋池堰堤手前の道路沿いに、小さな庵が建っています。これが土仏観音という庵です。
合田利兵衛正照という栗井村の住人が父母孝養、二世安楽を願い、享保六年(1721)正月に日本廻国の旅に出た。五躯の仏像を入れた笈を背負い、錫杖を持ち、諸国を押鉦を鳴らしながら、「国々島々残らず回り」、納経霊地730余ケ所、 二千日を掛けて廻り帰村した。廻国の途中、上野国で観音菩薩の頭部を掘り出し、その後江戸で勧進して資金を得て体部を造り、当地に持ち帰り、庵を建立したという。
ここからは、次のようなことが分かります。
①享保年間(18世紀前半)の合田利兵衛が5年間の六十六部廻国修行を行った。②途中、上野国で掘り出した観音像の頭部修理するために、江戸中を念仏の鉦を叩き二銭ずつの勧進を2年間行った。③35両を集め、江戸の大仏師性雲に修理してもらい観音寺まで背負って持ち帰った④その観音像を安置し、四国遍路のために土仏庵を建立した
ここに祀られている観音様は上野国生まれで、江戸修理され、ここに持ち帰られたものが安置されていることになります。同時に、この庵は、四国遍路の接待のための場として造られたことが分かります。
ちなみに 合田利兵衛正照が廻国行に旅立った享保六年(1721)正月です。先ほど見た唯円が67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を始める前後と重なり合います。小説的に想像力を膨らませると、唯円が大興寺に小庵を構え勧進活動を起こしていく様を、合田利兵衛正照は見ていたのかも知れません。もっと云えば、唯円のもとに通い教えを受けていた可能性もあります。それが彼を、六十六部として全国廻国に向かわせたというストーリーは考えられます。栗井村の住人が六十六部廻国行者となり、廻国修行を行っていたことを押さえておきます。
この土仏庵の周辺には、いくつかの石碑や地蔵が建ち並んでいます。その中に享保六(1721)年に「濃州土器群妻木村求清房」という廻国行者が建てた地蔵菩薩があります。さらに彼が関わった享保五年~六年に建立された丁石も残されているようです。
ここからも亨保の初め頃、栗井の地に他国からやってきた廻国行者が住み着き、その人物と土地の合田利兵衛正照との間に何らかの関係が生まれ育ち、正照が廻国行者となったと考えることもできそうです。
六十六部廻国塔明和四(1767)丁亥天十一月吉良日天下泰平(種子)奉納大乗妙典六十六部日本廻国塔国土安全出羽国最上村山郡常接待建立十方施主 寒河江村願主覚心(地蔵菩薩台座名)奉納大乗妙典六十六部日本廻国十方施主万人講供養羽州村山郡寒河江村願主覚心法師明和九(1772)辰天七月二十四日(六十六部廻国供養塔)天下泰平 安政六己未 摂州武庫郡鳴尾村 清順奉納大乗妙典日本廻国供養塔日月清明 三月古日 世話人 奥谷講中
ここには「円誉覚心禅定門霊 安永五(1776)内申五月二十六日 行年六十一歳」の墓碑もあります。ここに出てくる覚心とは何者なのでしょうか?
『粟井村誌』(昭和25年刊)には、覚心のことが次のように記されています。
覚心は出羽国村山郡寒河江村の生まれで、四国八十八ケ所を数十回も辺路した廻国行者である。覚心は雲辺寺から麓の粟井まで随分と距離があり、さらに人家もなく辺路の人々が苦労していることから、粟井村の庄屋に願い出て村から寄進された土地に宝磨五(1755)年に庵を、同7年に大師堂を建立した。その後は、そこで辺路の人々に接待が行われるようになった
ここからは現在の山形県寒河江村市からやってきた六十六部廻国行者の覚心が四国遍路を何十回も行う中で、何らかの縁を得て、粟井村に留まるようになったことがうかがえます。そして、彼は地元の有力者に働きかけ庵や大師堂を建立し、遍路のために提供したようです。後には、ここが接待の拠点となっていったのでしょう。私は、雨露をしのぐ庵などは、地元の人たちの発案で行われたものと、思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。ここにも外部からやって来た「有能」の人たちの発案と働きかけがあって実現したものであったことが分かります。
覚心という廻国行者は、戒名「誉」の係字がありますから、浄土系念仏行者のようです。覚心のような人物によって、周囲の村々に念仏講などが広がっていくのかもしれません。なお覚心は粟井村に来る前に、屋島壇ノ浦の大楽寺にも廻国塔(宝暦13年)を建立しているようです。
さらにこの地域に、その他にも六十六部廻国行者の存在のがうかがえる者が残されています。白藤大師堂から少し下った所に立つ地蔵菩薩台石には、次のように掘り込まれています。
享保九年 (梵字)遍路 六部 札供養 十一月二十一日
ここからは享保9(1724)年に遍路と六十六部廻国行者の札供養が行なわれたことが分かります。札供養とは、どんなことか私には分かりません。研究者は辺路や六十六部が納めた札を、この石塔の下に納めて供養を行ったと考えているようです。ここからも、四国遍路とともに数多くの六十六部廻国行者が、粟井の地を通過していたことがうかがえます。
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)
紹介してきた太興寺周辺の六十六部の活動を、時系列に年表化してみましょう
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立享保6年(1721) 地元粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立 同7年に大師堂を建立宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進
こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の辺路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っていることが分かってきます。土仏庵から白藤大師堂の間には、宝永7年(1710)の六十六部の廻国供養塔が残されているので、かなり早い時期から粟井の谷には六十六部廻国行者が、入り込んできていたことがうかがえます。
大興寺という札所で仁王門の勧進活動を行い、札所寺院に利益を与え、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵など進出していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
六十六部の笈(焼津市六十六部関係資料)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。