八栗寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
八栗寺と五剣山

図書館に「八栗寺調査報告書」が入っていました。今年の春に発刊されたばかりの報告書です。読書メモ代わりにアップしておきます。まずは、八栗寺をとりまく周辺の歴史を押さえておきます。
テキストは「八栗寺調査報告書2024年 八栗寺の立地と歴史」です。

八栗寺2

第85番札所八栗寺は、標高375mの五剣山の中腹にあります。

北は瀬戸内海を展望し、西には屋島や五色台、南には高松平野を眼下に望めます。さらにはるか南には阿讃山脈、東は志度湾から遠く播磨灘まで望むことができます。
 髙松藩の『御領分中寺々由来之書』によると、八栗寺の寺名由来は、もともとは山頂から八か国の境を見渡すことができることから「八国寺(やくにじ)」と呼ばれ、「四望晴」と記されています。

五剣山一峯からの屋島・壇ノ浦
五剣山から望む屋島・壇ノ浦
また、空海が修行中に五振の剣が天から降り、金剛蔵王が現れたので、剣を岩窟に埋めて中央の峰に蔵王権現を勧請したという五剣山の山容に関連した山名由来も紹介されています。蔵王権現は修験者たちの信仰対象なので、この山が修験者たちによって開かれ、行場とされ霊山化したことがうかがえます。そのためここでも天狗信仰が盛んだったようです。
八栗寺 中将坊
八栗寺の中将坊と天狗達

五剣山は標高200m付近までは庵治花崗岩です。
そのため女体山西麓の大丁場を中心に庵治石と呼ばれる良質の花崗岩が切り出されてきました。また標高200m~300mには良質な流紋岩質凝灰岩があり、八栗寺周辺にも凝灰岩を切り出した石切場跡が残っています。
五剣山9
 五剣山は基部の花崗岩が風化・流失して、凸状にそびえる山容を見せます。18世紀初頭の宝永地震では五剣山の6峰のうち、南の五ノ峰とその南の峯が崩壊し、その景観が大きく変化しただけでなく、建造物にも被害を与えています。

讃岐旧街道を走る(1)志度道を行く(前編)_d0108509_17312042.jpg
八栗・志度街道
 八栗寺のある牟礼町は、五剣山山麓の緩斜面地と丘陵北麓を縫うように、高松と志度湾を結ぶ陸路が通ります。これが近世には、高松城―古高松―牟礼―志度―津田を結んで、丹生(落合)付近で讃岐国往還に合流する阿波街道(志度道)として整備されました。そのため高松と志度を繋ぐ街道沿いに、牟礼の集落や街道沿いの町場が姿を見せるようになります。これが近代になると国道11号の開設や東讃電気鉄道(志度線)や国鉄高徳線の敷設などに引き継がれて行きます。

高松・屋島

 庵治半島と屋島の間には海が入り込み、古代末まで屋島は島でした。そして庵治には港湾施設があったと研究者は考えています。
屋島の旧海岸線
屋島と旧海岸線(青色)
文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』からは、屋島の南端に比定される方本港や庵治半島の北西部に比定される庵治港を母港とする船が兵庫北関を通関したこと分かります。さらに、東には志度港があり、高松と志度を繋ぐルートに海路も連結していたことがうかがえます。こうして見ると、八栗寺足下の牟礼は、陸路と海路の結節点(片本・志度)の中間に位置する港町であったようです。
八栗寺を考える上で、六萬寺は大きな意味を持つようです。
六万寺2

『六高寺縁起」(正徳3年(1713)には次のように記します。
①天平年中(729-749)に疫病が流行し、行基菩薩が勅を奉じて当寺を建立して析願したところ、疫病は平癒し、国家安全となり、寺号を国豊寺と称した。
②その後、七堂伽藍を整備し、六万体の薬師銅像を安置し、六萬寺と改称した
③牟礼・大町の2村に42の子院を持っていた
④延暦年中(782-806)に弘法大師が六萬寺で彫った千手観音を八栗の嶽に安置して千手院と号した。
⑤その後、八栗寺と改め、六萬寺の奥の院と定めた
 八栗寺が六萬寺の42の子院の一つであったかどうかは分かりませんが、江戸時代には「六萬寺の奥の院」と考えられていたことは分かります。
 牟礼は、後鳥羽院の院政期に成立した山城石清水八幡宮の寺領荘園の牟礼荘でした。
山城石清水八幡宮は、保元の頃には官寺領を全国34か国に、100ケ所持っていました。讃岐では牟礼と仁尾の草木荘の2つの寺領を所持しています。仁尾では京都賀茂神社と石清水八幡官が港湾の管理権をめぐって競合・対立ししていたことは以前にお話ししました。牟礼の石清水八幡宮の寺領荘園の設置も、仁尾と同じように瀬戸内海の海運拠点確保というねらいがあったことが考えられます。それが梶取や船頭の拠点となり、小さいながらも海運拠点になっていったことが推測できます。

源平合戦の地を巡る|日本の歴史が動いた舞台「屋島」探訪|特集|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット
義経の屋島侵攻ルート
 『吾妻鏡』には、元暦2年(1185)には源平合戦の際に、阿波から讃岐に進軍した源義経が屋島の東裾に設けられた平家の屋島内裏の対岸にある牟礼や高松(古高松)の民家を焼き払ったとあります。ここからは、その頃までには牟礼の海浜沿い、主要道沿いには集落が成立していたことがうかがえます。
 また、八栗寺には石切場跡が3か所残っています。
中世讃岐の石切場
讃岐には凝灰岩の採石地が数か所あって、八栗寺石切場跡は「八栗」に分類されています。八栗に分類される石切場は八栗寺の本坊周辺に3つあります。
八栗寺石切場跡A・B
八栗寺石切場A・B

八栗寺石切場跡C
八栗寺石切場C
 石切場があるとことろは修験者の拠点と思えというのがセオリーです。八栗周辺は、弥谷寺や白峰寺と同じく、行場であると同時に、凝灰岩や石造物の生産拠点だったようです。
八栗寺参道の石切場跡
八栗寺参道の石切場跡

ちなみに八栗製石造物の最も古いものは、一宮寺境内の御陵中央搭(宝塔)で宝治元年(1247)のものになるようです。また近年、讃岐国府跡でも八栗産の石造物が多数確認されています。見つかっているのは層塔の部材で、最古のものは10世紀前葉とされます。さらに讃岐国府に接する開法寺池(開法寺跡)から採集された石造仏頭も八栗に分類さています。以上からは八栗石材が7世紀後半という早い時期から、讃岐国府に提供されていたことが分かります。
 
 南北朝期から室町期になると牟礼氏が牟礼城跡を築きます。しかし、その所在は不明です。「大乗院寺社雑事記」明応4年(1495)3月1日の条に、次のように記します。
「柚留木亀千代の男相語って云々。(中略)讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子を遣わす処、両人共に攻め殺さる。今に於ては安富(元家)罷り下るべしと云々。大儀出来」

ここからは次の事が分かります。
A 牟礼郷が国人蜂起の標的にされたこと
B 牟礼城主の牟礼氏は守護代安富氏の配下で京都におり、急ぎ帰ったが逆に国人衆に討ち取られたこと
その後、牟礼の主人は次のように推移します
①天文年間(1532・-55)に中村氏宗が田井城跡(17)に入城
②天正9年(1581)に中村宗卜は八栗城跡に移る(『全讃史』)
③同年長宗我部元親に攻められ、落城する
八栗寺仁王門前の墓地が八栗城跡と伝えられ、「城の鼻」という地名が残ります。東西150m前後の尾根全体を利用したようです。長宗我部氏による天正10年(1582)の十河城攻め、天正11年の八栗城攻めに際し、六萬寺に陣を置いたとされ(六萬寺陣所跡)、この時の兵乱で六萬寺伽藍は焼失したと伝えられます。

文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』からは、屋島の南端に方本(かたもと)港、庵治半島の北西部に庵治港があったことがうかがえます。
兵庫北関1
讃岐船の入港一覧表(兵庫北関入船納帳)
①兵庫北関を通関した方本船籍11艘のうち、6艘が守護細川氏の御用船の名目で特権を与えた船である国料船(5艘が有力国人十河氏、 1艘が守護代安富氏)、
②庵治船籍10艘のうち、4艘が十河氏の国料船
ここからは、方本・庵治が東讃の有力国人領主である十河氏の影響下に置かれる一方、約半数の船籍は2つの港町を母港として船頭や間の裁量で塩や穀類の輸送を行っていたことが分かります。
 さらに、使用されている船の規模を見てみると
③方本船籍は、400~550石クラスの大型船
④庵治船籍は、170~280クラスの中型船
方元が最重要商品である塩に特化した「塩専用船」で最新鋭の大型船で、庵治はその他の雑貨が中心だったと研究者は指摘します。方本と庵治の両港は、有力領主と連携し、有利な条件を獲得するために「棲み分け・分業」を指向していたようです。牟礼は両港とは直接的には関係しませんが、牟礼を本拠とする牟礼氏が守護代安富氏の配下であった点を考えると、両港が有力領主らと連携する動きに、牟礼も歩調を合わせたことが推測できます。

庵治半島の南西部や、海浜部沿いには源平合戦の史跡が点在します。
屋島古戦場を歩く(屋島寺) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
屋島合戦の名所

「平家物語」や『吾妻鏡」からは、庵治半島が合戦の舞台であったことが分かります。これを受けて周辺には、次のような名勝が点在します
①那須与一が扇の的を射落した「駒立岩」
②逃げる源氏を平家が熊手で引っ掛けて甲冑の銃を引きちぎった「しころびき跡」
③義経が海に落とした弓を拾い上げた場所である「弓流し跡」
しかし、これらの真偽は疑わしいと研究者は考えています。なぜなら、これらの史跡は高松藩初代藩主松平頼重が現地を訪ね、歴史を偲ぶとともに、佐藤嗣信の碑を壇ノ浦に建立するなど後世に整備されたものだからです。それが『金昆羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854))などの地誌に史実とともに、名所として絵図入りで紹介されて、定着していきます。
屋島壇ノ浦 讃岐国名勝図会
屋島壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
参考文献
八栗寺調査報告書2024年 八栗寺の立地と歴史