瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:兵事係

前回見たように徴兵名簿作成で大きな役割を担っていたのは、役場の兵事係でした。彼らは、徴兵検査や召集令状の交付だけを行っていたのではありません。今回は、兵事係の果たしていた役割について見ていくことにします。テキストは「吉田敏浩 赤紙と徴兵」です。

赤紙と徴兵

各役場には兵事係という担当者がいました。彼らの業務を挙げておくと次のようになります。
A 出征兵士の見送り
B 武運長久祈願祭の開催
C 戦地への慰問袋の取りまとめ
D 戦死者の告知と公葬
E 出征軍人家族や遺族の援護
DSC00582
A 出征兵士の見送り (観音寺)


DSC00572 戦死者村葬 昭和13年 仁尾町
戦死者の村葬(仁尾)

ここからは徴兵制に関わる村役場の業務を兵事係が一人で担当していたことが分かります。

次に徴兵名簿が出来るまでのプロセスを見ておきましょう。
①戸籍簿と徴兵適齢届に基づいて家庭環境、経歴、病歴、性格、品行、風評などを調べて「現役兵身上明細書」を作成
②「在郷軍人名簿(在隊時の勤務状況、品行、賞罰等在隊間成績調査)
③赤紙(召集令状)の交付記録、動員日誌、召集令状の交付手順を記した動員実施業務作成
④家の不動産や戸主の収入、課税額の調査
⑤「特に注意すべき件」には「他人の無品を掠めるかもしれない性癖」等の個人情報記入
⑥在郷軍人名簿の作成
こうして出来上がった一覧表リストは、次のように各師団に集約されていきます。
①市町村は毎年1月10日までに県の兵事官に提出
②県の兵事官は、1月20日まで陸軍の連隊区司令部に提出
③連隊区司令部は、1月31日まで所属師団長に提出
④各師団長は「師管壮丁人員表」を作成し、2月10日までに陸軍大臣に提出
⑤大臣は天皇の裁可を経て毎年の徴集人員を連隊区司令部に割り当て、更に末端の市町村に割り当て
こうして徴兵名簿が各村に送られてきます。 兵事係を務めた人の回想が載せられているので見ておきましょう。
「赤紙は昼夜の別なく来ましたが、来るのはなぜか夜間が多かったです。軍事機密に関わるからでしょうか。警察署から「動員令予報」の電話があり、役場の宿直の使丁(小使い)が自宅に知らせにくると、すぐに役場に行きました。村長と兵事係と書記と収入役が役場に集まって、警察官が赤紙を届けにくるのを待ちます。それが届くと「在郷軍人名簿」と照らし合わせて氏名など間違いがないか確認するんです。人の命がかかっているので、間違いがあってはいけません。何回も見直して、とても神経を使いました。兵事係の責任は重大なんです」

「そして、自転車に乗って赤紙を届けました。大阪や京都に出稼ぎや丁稚奉公に行っている人も多かったので、本人がいないときは家族が受け取りました。本人には家族が電報などで知らせるようにしていたんです。赤紙を朝、配るときもあり、本人が家にいなくて田や畑に出ていれば、そこまで行って渡したものです」

「また、私だけでは配りきれないので、信頼できる青年団員にも赤紙を配る使者の役目を頼みました。「動員令予報』があると、前もって決めてある村内令状配達区域の青年団の若者を役場に呼び集めたんです。そして自転車で配達させました。」
「ただ、家によっては何人も召集された家もあります。だから、すでに出征者のある家や戦死者が出ている家には、必ず私が届けるようにしました。やはり気の毒でしたから……
   出征した五人の息子さんのうち三人が戦死した寺田利兵衛さんの家に赤紙を届けたとき、本人が不在で代わりに利兵衛さんが受け取り、「そうですか、また来ましたか」とじっとうつむいて、ぽろっと涙を落とされたこともありました。あのときは、こっちまで泣けてきました……。
どの家も働きざかりの息子や夫を軍隊に取られて、戦争で命までも取られるかもしれないのですから。赤紙というのはただ簡単に渡せるものじゃないんです。赤紙を配るのはつらいことでしたが、国のため、役目だと思ってやりました」
赤紙通達人 1
赤紙通達人2
赤紙を各家まで配ったり、戦死の知らせを家族に伝えたりする「陸軍動員用急使」の札。札の裏には、次のように記されています。

「これを持っている者は動員用の書類をもち最重要な任務についているので、万一事故にあった時には、最寄の巡査駐在所か村役場に急報するように。

軍からは兵事係などの「動員用急使」に対して13条の「赤紙を配達する者の心得」を次のように示しています。
①途中乗り物が破損して急に修繕のできないような場合には、直ぐ下りて少なくとも1時間4キロ以上の速さで行かねばならない。
②自転車は全速力で走らせ、途中で誰かに話しかけられても、決して応じてはならない。自転車は止めてもいけない。 
⑨令状等はなるべく5分以内に渡すように心がけねばならない。
⑨は到着して相手と話す時間まで決めています。感情移入が起こる人間の心を察して、それを押し殺して渡して、指名押印させたらすぐに引き上げよということでしょうか。

兵事係には、赤紙を渡した後の「町内巡視」報告の提出も義務づけられていました。
規則では「条令(赤紙)発送後、巡視係を命じ巡視せしむ」とあります。そのため役場の書記や書記補佐を巡視係として赤紙受領者(応召員)の身辺を監視しました。赤紙を受け取った応召員の士気とその家族の様子、その周りの住民の様子などを含めて巡視係は兵事係に報告しています。兵事係はそれを詳しく記録して報告しています。まとめられた報告書の一部を見ておきましょう。

「応召員 志気最モ旺盛ニシテ、令状受領セバ直チニ体ヲ潔メ、自家の神仏に生還を期セジトノ出征ノ旨ヲ告ゲ、家族又応召者ニ対シ志気ヲ激励シ、村民一般国家的観念盛ニシテ応召員ノ出発二際シテハ全村民挙ゲテ駅頭ニ歓送セリ。」p132

「自家の神仏に生還を期セジ」と「一般国家的観念(天皇陛下万歳)などのフレーズが決まり文句となって綴られています。
しかし、戦後になって兵事係は次のように回顧しています。
「当時、村の人たちはみんな、口にこそ出しませんが、自分の家に私(兵事係)が来なければいいと思っていたはずです。私が自転車に乗って走っていると、いったいどこに行くのか、どこかの家に赤紙を届けているのではないかと、いつもみんなが私を見つめて、注目していました・・・・・・。
兵事係が召集の人選をすると思い込んでいる人もいました。だから私を恨んだ人もいたでしょう。面と向かって言われたことはありませんが。そう感じていました。」
「すでに何度も赤紙が届いて、息子さんたちが召集されていたある父親が、自分で捕った大きな鯉を私の家に持ってきて、「なんとか、もう自分の息子たちを召集しないでほしい」と、私に頼み込んだこともありました。自分が召集の人選をしているわけではないと、繰り返し説明しましたが、とても気の毒で、本当に弱りました……」

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル
戦時下の国民生活 中学校歴史教科書(帝国書院)

戦況が悪化すると兵事係の業務は、多忙を極めるようになります。
それまでの徴兵検査の手続きや召集令状の交付など、男たちを戦場へと送り出すことにとどまらなくなります。
A 国防献金や戦地に送る慰問袋の取りまとめと発送
B 武運長久祈願祭の執行
C 出征軍人家族や戦没者遺族や傷痍軍人とその家族への援護
D 戦死の告知
E 戦死者の公葬や慰霊祭の執行
など、戦場の後方にあって戦争を支える銃後の護りの最前線に立つことになります。

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル2


例えば出征した兵士が戦死した場合を見ておきましょう。

①市町村長に戦死の電報(内報)が届く。
②「内報」は兵事係から遺族に伝えられ、部隊長からの「戦死公報」は数ヶ月後に届けられた。
③戦死者の葬儀は役場(兵事係)が主宰
兵事係は戦地からの出征兵士が使者となって帰ってきた場合の対応まで含まれていたことになります。

 戦没者の公葬について、元兵事係は次のように語っています。

遺体は白木の箱に入って帰ってきました。それを遺族が連隊に受け取りに行きます。その時に兵事係の私は在郷軍人会の分会長と、駅まで迎えに行き、汽車からご遺族が白木の箱を抱えて降りてくると、一緒に村を歩いて帰りました。在郷軍人会の分会長が分会旗を捧げ持って歩きました。白木の箱に遺骨は入ってなくて、名前を書いた紙が一枚入っているだけだと、ご遺族から聞きました」
 
 そして慰霊祭が行われ靖国神社合祀となって英霊と崇めらることになります。こうして村ぐるみ、
地域ぐるみで戦争を支える体制が出来上がっていました。
元兵事係の最後に次のように回顧しています
  
  赤紙を配るときに「兵事係の〇〇さんがやってきた」と嫌がられ、戦死の通知のときにま「また兵事係の〇〇さんが来はった!」彼の動きは死を告げる使者であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「吉田敏浩 赤紙と徴兵」
関連記事
  


召集令状 赤紙 石川県 学び舎
中学校歴史 学び舎の教科書に載せられた赤紙
戦争体験を読んでいると「赤紙一枚で戦場に送られた」という言い方によく出会います。召集令状は赤い用紙に印刷されていたので「赤紙」とよばれていたようです。今回は、その召集令状から何が読みとれるかを見ていくことにします。前半部を拡大します。

召集令状 赤紙 石川県 学び舎 前半

読みとれる情報を挙げておきます
①昭和16(1941)年7月18日8:30に金沢師団に招集することを命じている
②受領は、7月10日午後4時45分
③収集対象は予備役になっていた根尾忠で本人の印が押されている
④根尾忠は、成人に達した昭和9年に招集され、その後に予備役になっていた。そこに召集令状が届けられた。当時は26歳になっていたこと。
この召集令状が出された背景を見ておきましょう。
日中戦争の泥沼化の中で、1941年6月22日に独ソ戦が開始されます。これを受けて軍部は、在満州・朝鮮防備という名目で対ソ戦準備のための極秘の大動員が出します。そして7月7日に陸軍は「関東軍特種演習(関特演)」部隊を動員するほか、内地から二個師団等の動員派遣が構想され、約55万人が新たに動員されることになります。そのために長野県や新潟県・北陸地方でも大動員が行われることになります。この召集令状もこの時に出されたもののようです。


赤紙 学び舎 裏側

招集令状の裏側に書かれた「受領書ニ関スル心得」を見ておきましょう。(意訳)
①本人が直接にこの令状を受け取った際には、受領日時と指名を記入し押印して、公布した者に返却すること
②本人不在の時には、戸主・招集通報人などが替わって記銘・押印すること。
③印鑑を持参していないときには、花押や指印も可
ここからは召集令状は郵送されていたわけでないことがうかがえます。戦場での様子を描いた小説や栄映画などには、上官が初任兵に対して「お前等の命は一銭五厘の価値しかない。招集葉書の切手の値段と同じだ」と怒鳴りつけるシーンが出てきたのを覚えていますが、招集通報人という役人がいたことになります。それを裏付ける資料を見ておきましょう。 
赤紙通達人 1

これは奈良県の県立図書館に保存されている「動員用急使」の札です。裏面には次のように記されています。
赤紙通達人2
意訳
この急使いは、(召集令状などの)動員用書類を携行している重要な職務を務めている者である。ついたは、もし事故などに遭った時には、直ちに最寄りの交番や村役場に急報すること。

この札を持っていたのは軍と連絡をとり、在郷軍人を管理していた役場の兵事係でした。
赤紙を各家まで配ったり、戦死の知らせを家族に伝えたりするのも兵事係の仕事だったようです。ここでは次の事を押さえておきます。
①赤紙は徴兵検査の結果、現役兵とならなかった人や、除隊後に予備役になっていた人など、在郷軍人に召集をかける際に発行された。
②赤紙は郵送ではなく、役場の兵事係が直接家まで届け、本人に直接手渡すのを原則としていた
③赤紙の前半部の受領書(署名押印部)は兵事係が持ち帰り、後半部のみが本人の手元に残された

召集令状の切り離し

残された部分もふたつに分割されます。
召集令状の切り離し 信州戦争資料センター



召集令状 赤紙 石川県 学び舎 後半
赤紙の後半部 本人が持ち、入隊時に提出した

一番後の運賃割引証(左端の切り離し部分)には、応召者(召集される本人)が所属部隊へ向かう鉄道や汽船の切符を購入する際、運賃の割引や免除を受けるための記入欄です。ここに出発する駅名や乗車区間、運賃などを記入し、駅の窓口に提示して乗車券と引き換えていました。後払証となっていた場合は、本人負担はなく、乗車指定駅で切り離して目的地までの切符が交付されました。
そして残された中央部分も入隊の時に受付に提出したので、赤紙は本人の手元には残らなかったことになります。
次に召集令状の裏側を見ていくことにします。

赤紙 奈良県 裏側
収集令状の裏側(奈良県)

赤紙の裏側 前半部 
汽車などを利用する場合の注意書き(裏側拡大 一番右側)
赤紙の裏側 
召集令状の裏側 応召員心得(裏面の中央から右側の部分)
  軍隊に入るにあたっての次のような注意事項が記されています。
①招集当日までに持参すべき携行品(軍隊手帳、印章、現金、弁当、日用品など)
②病気や事故などで指定された日時・場所に出頭できない場合の連絡先代理人について
③規則正当な理由なく召集に応じなかった場合、軍法会議や刑罰(懲役・禁錮・罰金など)の対象となること

召集令状の発行・交付までの流れをまとめておきます。
①発行された令状は最寄の警察署の金庫に密封保管
②動員令が発令されると警察官が市区役所・町村役場にこれを持参
③役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡し(不在の場合はその家族に)交付
④令状は本記と受領証の2枚つづりで、本記は部隊までの交通切符代わりになる。
⑤受領証は受取人が受領日と時刻を分単位で記入、捺印の上で官吏に渡す。
⑥官吏はこれを役場に持ち帰り、「召集令状受領綴」という記録簿に保管していた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
赤紙と徴兵

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