彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」する立場でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者(船頭)へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。
また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。
讃岐の梶取について触れた史料はありませんが、当然いたはずです。
弘安二年(1279)の記録に「讃岐国林田郷並梶取名内潮人新開田」とあります。
阿野北平野の林田郷と梶取名内の潮人新開田は八坂神社領でした。ここからは、潮入新開に塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことが分かります。「梶収名」の名から梶取が林田郷にいたことがうかがえます。林田地区には現在でも「梶取」の地名が残っているのは以前にお話ししました。
阿野北平野の林田郷と梶取名内の潮人新開田は八坂神社領でした。ここからは、潮入新開に塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことが分かります。「梶収名」の名から梶取が林田郷にいたことがうかがえます。林田地区には現在でも「梶取」の地名が残っているのは以前にお話ししました。
ここでは梶取は、荘園内で給田が与えられ、梶取名と称し名田経営をするとともに、名田作人を使って塩の生産も行っていたと研究者は考えています。船長から名田主、そして塩浜経営と多角経営に乗り出す姿が見えてきます。
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載品目が60品目を数えます。その品目を見ると、この時期の輸送船が年貢物輸送から商品輸送に移行していたことが分かります。それにつれて「梶取」は荘園に従属した「専属契約者」の立場から、船頭と呼ばれる立場に地位を向上させます。プロの水運業者の登場です。兵庫北関入船納帳には、讃岐船籍の船頭が100余人ほど登場します。今回は塩飽船の船頭について見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収 」です。
兵庫北関入船納帳 入港した船の積載品
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載品目が60品目を数えます。その品目を見ると、この時期の輸送船が年貢物輸送から商品輸送に移行していたことが分かります。それにつれて「梶取」は荘園に従属した「専属契約者」の立場から、船頭と呼ばれる立場に地位を向上させます。プロの水運業者の登場です。兵庫北関入船納帳には、讃岐船籍の船頭が100余人ほど登場します。今回は塩飽船の船頭について見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収 」です。
表11が船頭別の入関一覧表で、塩飽に22名の船頭がいたことが分かります。
①積載品は塩が主体であること②塩だけの時には積載量は400石なので、400石以上の大型船の船頭であったこと③2月~12月の間に6回、ほぼ定期的に兵庫北関に入関していること④2・9月は、塩の単独輸送だが、その他は穀類を少量合わせ載せていること
次に、水沢船を見てみます
⑤積荷は塩が主であるが、穀物類・魚類・紙も混載していること⑥3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていること⑦5月19日の塩300石が最大積荷なので、350石程度の船であったこと⑧太郎兵衛船の問丸は道裕で、水沢船は衛門九郎で両船の発注者が異なる。
①⑤からは太郎兵衛船と水沢船ともに、「讃岐船の積荷の8割は塩」と云われるように塩飽も塩輸送が中心の船団であったことが分かります。塩飽の塩生産については後で見ることにして、船の大きさを見ておきましょう。
讃岐船の規模を船籍毎に分類したのが下表です。
塩飽の欄を見ると、年間37隻が入港しています。その中で最も大きい船は400石以上で3回の入港です。②と併せて考えると、これが太郎兵衛船になるようです。350石が5回の入港で、⑦からこれが水沢船なのでしょう。ここからは一番多く入港している太郎兵衛船と水沢船が、塩飽船の中では一番大型船だったことが分かります。塩は最も利益があがる輸送品で、そこに島一番の腕利きの船頭と、新鋭大型船が担当していたようです。
兵庫北関入船納帳に出てくる港
③の太郎兵衛船の入港間隔を見ると、約2ヶ月毎に兵庫関に姿を見せています。
塩飽と兵庫北関(神戸)は、潮待ち・風待ちを入れても普通は、1週間以内には着きます。片道1ヶ月はかかりません。そうすると、2ヶ月の間隔が空くというのは、塩浜での生産に関係がありそうです。2ヶ月待たないと次に出荷するだけの塩が生産できなかった、別の言い方をすると、太郎兵衛船を一杯にするだけの塩を確保するためには約2ヶ月かかった。季節によって塩の生産量は上下するので、太郎兵衛船の塩積載量もその都度変化したという仮説は出せそうです。そう考えると、真夏後の9月8日の積載量が400石が一番多いのも頷けます。2月9日便も400石の塩が積まれているのは、12月以後3ヶ月分だから・・・としておきましょう。
塩飽と兵庫北関(神戸)は、潮待ち・風待ちを入れても普通は、1週間以内には着きます。片道1ヶ月はかかりません。そうすると、2ヶ月の間隔が空くというのは、塩浜での生産に関係がありそうです。2ヶ月待たないと次に出荷するだけの塩が生産できなかった、別の言い方をすると、太郎兵衛船を一杯にするだけの塩を確保するためには約2ヶ月かかった。季節によって塩の生産量は上下するので、太郎兵衛船の塩積載量もその都度変化したという仮説は出せそうです。そう考えると、真夏後の9月8日の積載量が400石が一番多いのも頷けます。2月9日便も400石の塩が積まれているのは、12月以後3ヶ月分だから・・・としておきましょう。
兵庫北関入船納帳 讃岐船月別入港数
表2は、讃岐17港の船籍地ごとの月別の入港回数の一覧表です。
この表からは、次のようなことがうかがえます。
A冬期(12~2月)は北西偏西風が強く、瀬戸内海航路は休止状態にあったこと。運航しているのは嶋(小豆島)船にほぼ限定されるB8・9月も台風シーズンで運航が少ないことC11月が45回と最も多いのは、年末年始の物資輸送のため。D7月29回、3・5月26回と、比較的に海上の穏やかなで順風時期に輸送が集中していること
近世後期の金比羅船の運行状況を見ても冬場には欠航や風待ちのための遅延で、なかなか船が大坂を出港せずに、船頭と喧嘩になった記録がいくつか出てきます。また、引田船など東讃の船は、夏場は淡路島の西側航路を使っていますが、冬が近づくと北西風を避けて東側航路に変更して、航行していたことが史料からも分かります。中世の瀬戸内海では冬期に長距離を航行する船はいなかったようです。
そのような中で塩飽船の中に2月に航行した記録があります。これを先ほど見た表11で確認すると、太郎兵衛船と次郎五郎船で、2隻が同日の2月9日に入港しています。季節風の強い時期に、他の船頭が出港を控える中で船を出しています。ここからも船頭・太郎兵衛の腕がしっかりとしていたことがうかがえます。
同日に2隻が入港している例を、他で見ておきましょう。
表11をもう一度見てみましょう。
水沢船が3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていました。水沢が2艘の船を同時に操船してやってきたのではないようです。これは水沢が船頭ではなく、船主としてもう一艘を引き連れて入港してきたと研究者は考えています。船頭として自ら操船する場合と、雇船頭としての輸送があったことが分かります。水沢は2隻の船を持って、塩飽と畿内を定期的に行き来していたようです。水沢以外にも太郎左衛門も2月26日に、山崎ゴマと塩を積んで小型船で2回入関しています。彼の名前は、兵庫北関入船納帳には「泊 太郎左衛円」「かうの 太郎左衛門」と記されています。泊とかうの(甲生)は、現在も本島にある港名です。ここからは、太郎左衛門が本島の泊港の船主で、泊・かうの両港の雇船頭を雇っていたことがうかがえます。
水沢船が3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていました。水沢が2艘の船を同時に操船してやってきたのではないようです。これは水沢が船頭ではなく、船主としてもう一艘を引き連れて入港してきたと研究者は考えています。船頭として自ら操船する場合と、雇船頭としての輸送があったことが分かります。水沢は2隻の船を持って、塩飽と畿内を定期的に行き来していたようです。水沢以外にも太郎左衛門も2月26日に、山崎ゴマと塩を積んで小型船で2回入関しています。彼の名前は、兵庫北関入船納帳には「泊 太郎左衛円」「かうの 太郎左衛門」と記されています。泊とかうの(甲生)は、現在も本島にある港名です。ここからは、太郎左衛門が本島の泊港の船主で、泊・かうの両港の雇船頭を雇っていたことがうかがえます。
7月16日の便船には「太郎左衛門枝船 浄空かうの」と記されています。
これも「浄空」が本島甲生(かのう)の港の太郎左衛門の雇われ船頭だったと研究者は考えています。水沢・太郎左衛門は、年間を通じて定期的に塩や穀類を運んできています。
それに対して、年1回しかやって来ない船頭も多くあります。
その積載品は大部分が塩ですが、山崎胡麻だけを積載している次郎五郎の船があります。これが山崎胡麻船と呼ばれた塩飽船だと研究者は考えています。山崎胡麻だけを専門に輸送する船でした。1回しかやって来ない船は、ほとんどが積載量が少ない小型船です。
これも「浄空」が本島甲生(かのう)の港の太郎左衛門の雇われ船頭だったと研究者は考えています。水沢・太郎左衛門は、年間を通じて定期的に塩や穀類を運んできています。
それに対して、年1回しかやって来ない船頭も多くあります。
その積載品は大部分が塩ですが、山崎胡麻だけを積載している次郎五郎の船があります。これが山崎胡麻船と呼ばれた塩飽船だと研究者は考えています。山崎胡麻だけを専門に輸送する船でした。1回しかやって来ない船は、ほとんどが積載量が少ない小型船です。
以上から塩飽船の船頭を、研究者は次のように階層分けします。
荘園に従属していた「梶取り」身分から階層分化が進んでうたことがうかがえます。①太郎兵衛のような有力船頭②水沢のような船主と船頭を兼ねた者③太郎左衛門に雇われた雇船頭④年に一回しかやって来ない小型船の船頭
次に塩飽船の問丸について見ておきましょう。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。それが室町時代になると梶取と同じように問丸も荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者や輸送業者へと脱皮していきます。問丸は年貢輸送・管理・運送人夫の宿所提供までの役をはたすようになります。その一方で、倉庫業者を営み、輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。そして港湾や主要都市では、物資の管理や中継取引を行う業者が現れてくるようになります。
『兵庫北関入船納帳』には、53人の問丸が出てきます。
問丸は階層区分すると4グループに区分されるようですが、塩飽船の問丸はどうだったのでしょうか? 讃岐船の問丸を船籍毎に一覧表化したのが表12です。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の問丸一覧
讃岐の船籍地と問丸との関係について、表12からは次のようなことが分かります。
①讃岐船の問丸は、「ひとつの港に一人の問丸」体制が多く、一人の問丸によって独占されていることが多い。。
②複数の問丸が関係している場合も、折半という関係は見られず、独占的な問丸を核として、残りの問丸が少量の物資を取扱っている。
③宇多津は、法徳の独占
④嶋(小豆島)船は道念の独占
⑤引田・三本松船は衛門太郎 衛門太郎は東讃岐の船を中心に取扱いを行っていた問丸?
⑥平山は、二郎三郎
⑦豊後屋は観音寺・丹穂(仁尾)船を独占的に収扱っていて、西讃岐を拠点とした問丸
⑩道裕は塩飽諸島のすべての物資を取扱っており、問丸の間において集荷地域を再編成したものと研究者は考えています。
改めて塩飽船の問丸を見てみましょう。
塩飽船は、道裕が24回、衛門九郎が8回、三郎二郎が5回で、道裕が中核の問丸で、それに衛門九郎と三郎二郎が食い込んでいます。②のパターンになるようです。
このうち道裕は、兵庫北関に入る船のすべての物資を扱う大型の問丸で、瀬戸内海ほぼ全域を商圏としていた超大物の問丸のようです。讃岐では、多度津・さなき・手嶋船も取扱を独占しています。多度津は守護代の香川氏の「専用港」的な性格を持っていました。香川氏は守護代特権である「国料船・過書船」の関税フリー特権を活かして、問丸の道裕と結んで海上交易の利益を上げていたと考えられる事は以前にお話ししました。
塩飽での道裕は先ほど見た太郎兵衛船だけでなく、大蔵船などその他の船を使っても塩飽産の塩を畿内に輸送しています。また11月7日には、船頭の太郎衛門を詫間に派遣して「タクマ塩100石」とマメやゴマを積み込ませて畿内に輸送させています。多くの塩飽船が道裕の問丸ネットワークの中で動いていたことがうかがえます。
塩飽船では、問丸の衛門九郎の占める割合も大きく、船頭水沢の船の6/7を扱っています。
道裕が太郎衛門専用の問丸であったように、衛門九郎は水沢専用の問丸だったようです。ここからは、塩飽産の塩も、エリア毎に所有者が異なり、それに伴い集荷される港も異なること。当然、そこに馴染みの問丸も異なり、輸送に使用される船も違っていたことが推測できます。これは、小豆島北部の塩浜で生産された塩を牛窓船がとりあつかい、南部の内海・池田の塩浜の塩を地元の小豆島船が輸送していたことを裏付けるものと私は考えています。
最後の問丸・三郎二郎は、5件だけの取扱で、しかもで塩飽船だけに登場します。塩飽船だけを取扱う小規模な問丸だったことが分かります。
最後に塩飽での塩作りについて見ておきましょう。
本島では早い時期から塩作りが行われていました。7月14日の御盆供事に、「塩三石 塩飽荘年貢内」とあって、藤原摂関家領であった塩飽荘から塩が年貢として上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事にも使われています。
中世には塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。
以上をまとめておきます
①塩飽では古代以来、塩作りが盛んで中世にも小豆島と並んで大量の塩が生産されていた。
②塩飽産の塩を運んだのは、塩飽船籍の船頭たちであった。
③五郎兵衛船は、塩飽塩300~400石を積んで、2ヶ月毎に畿内を往復している。
④それ以外の船も何隻もが塩飽塩の輸送に関わっている。
⑤塩飽塩の多くは、大問丸の道裕にチャーターされた塩飽船で運ばれ、道裕の管理下に置かれた
以上からは、この時代の塩飽側の船頭や船主は、問丸の道裕に従属的であったことがうかがえます。
この商取引に宗教が入り込んでくると、問丸が信仰していた宗教が、その配下にあった瀬戸の港町にも浸透してくることになります。その典型的な例が以前にお話ししました牛窓の本蓮寺や宇多津の本妙寺の建立になります。日蓮宗門徒となった兵庫・尼崎港の問丸と牛窓や宇多津の海運業者を結ぶネットワークを使って、布教活動が展開されていったのです。同様の動きは、禅宗や浄土真宗などにもみられるようになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収
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