タイムトラベル 太閤検地 全体図
   タイムトラベル 秀吉の太閤検地と刀狩り 中学校社会科歴史教科書(帝国書院)

前回は、秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれた絵図で太閤検地を見ました。
 今回は刀狩りを見ていくことにします。この絵図で刀狩りが描かれているのは右端のシーンです。拡大して見ます。

タイムトラベル 刀狩り寺院に対する刀狩シーン
豊臣政権は「刀狩令」によって、百姓から武器を取りあげましたが、寺社勢力からも取りあげています。それは中世の大きな寺院が比叡山の延暦寺や紀州の根来寺のようにたくさんの僧兵をかかえ一大軍事拠点でもあったからです。善通寺も室町時代には軍事集団の拠点として機能していたことは、以前にお話ししました。そのため信長や秀吉は、寺社勢力の勢力を削ぐ政策を進めました。
 
刀狩り セリフネーム

門前にやって来た刀狩執行役人と対応する住職は、どんなやりとりを行っているのでしょうか。セリフを入れさせて、生徒の理解度を測ることが授業では行われているようです。たとえばこんなやりとりでしょうか。
担当役人
太閤秀吉様によって、天下泰平の世の中がもたらされた。もはや刀や薙刀などの武具は不用である。ちなみに、平和な世の中の到来を感謝して、太閤さまは京に大仏を建立することになった。ついては、その工事に使うのでお寺にある武具を、差し出すようにとの命令である。この寺には、多くの武具がしまい込まれていると聞いているぞ。隠し立てすると、ためにならんぞ。すべてここに持って参れ
住職
はは、分かりました。秀吉様のありがたい功績に感謝して、武具を差し出します。大仏建立に使われるのであれば、本望です。
こうして兵農分離が進みましたという授業の流れのようです。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

しかし、近年では短期間で一気に変わったのではないと研究者は考えるようになっています。その説を今回は見ていくことにします。テキストは「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」です。

刀狩については、太閤検地以上にわからないことが多いようです。
刀狩令の原本は13通が伝わっていますが、九州方面に残っているものが多いのです。その背景として、天正15年(1587)の秀吉の九州征伐の際に、国衆や農民の一揆を鎮めに出されたためと研究者は考えています。つまり、最初は九州限定で発布されたが、徐々に全国的な法令として広められたという説になります。その内容を押さえておきます。

刀狩り令1
 秀吉の刀狩令 第一条
 条々
一 諸国百姓刀わきさして鑓(やり)てつぽう(鉄砲) 其外武具の類所持候事堅御停候。いらざる子細ハ不入道具を相たくハへ 年貢所当を難渋しめ自然一揆を企て給ひ人に対し非儀動(ひぎのうごき)をなす族(やから)勿論可有御成敗 然者(しかれば)其所の田畠令不作 知行ついゑになり候間 其国主給人代官として武具悉取集 可致進上事
一 右とりをかるへき刀脇指ついゑにさせらるべき 儀にあらす 今度大仏御建立の釘かすかいにおおせつけらるべし。可被仰付然者今生の儀者不及申 来世までも百姓たすかる儀に候事

一 百姓ハ農具さへ持耕作専に仕候へは子々孫々まで長久に候百姓御あれミを以てかくのごとくまことにらく如此被仰/出候誠国土安全万民快楽之基異国にてハ唐のそのかミ天下を鍛のうきにもちう撫宝剣利刀を農器用となり本朝にてためしあるへからす此旨をまもり各々趣を存知百姓い農桑を精に可入事いるべき右道具急度取集可致進上候不可油断候也
                            秀吉朱印
天正十六年七月八日印 

意訳変換しておくと
 条々
一 諸国の百姓は刀(わきさし)・鑓(やり)てつぽう(鉄砲)以外の武具のの所持を禁止する。不必要な武具を持ち、年貢徴税に抵抗し、一揆を企てるような非儀を行う者達は成敗する。ついては、その国の大名はすべての武具を集めて、進上すること。
一 差し出された刀や脇指については、今度に建立される大仏の釘やかすかいに使用される。刀が大仏建立のために役立てば、来世でも百姓たちは救済されることになる。

一 百姓は農具のみを持ち耕作に専念し、子々孫々まで長久に暮らしていけるようにとの太閤様のはからいである。国土安全・万民快楽の基礎とする。中国の唐の時代には、天下を耕すために宝剣利刀を農器用したこともある。この趣旨に学び、百姓は農業に精をだすべし。よって農業に不必要な武具などは急ぎ回収するので差し出すこと。この布令に従い協力すること 
                                    秀吉朱印 
天正十六年七月

第1条は、農民の武具の所持を禁じて、国主らに農民の武具の没収と進上を命じている。
第2条は、取り上げた刀などの武器は、大仏(方広寺)を建立する際の釘などに活用すること。これにより、農民は現世だけでなく、来世までも救済されると説く。
第3条は、農民は農具をもって耕作に専念すれば、子々孫々まで長く続き、それは秀吉が農民を憐れむ気持ちの顕れである
ただ差し出せと云わずに、「大仏殿の釘などに使う。それがお前達の功徳となる」という言い回しが秀吉らしいところです。しかし、この刀狩には例外事項が数多くあると研究者は指摘します。例えば、町人には帯刀を許しています。また、寺社などの神事のときには刀などの使用を認め、所持を許しています。言わば祭器として許可されていたとも云えますが、総てが没収されたわけではないことを押さえておきます。農民の場合も、害獣(鹿、猪)駆除のためには鉄砲の所持を認めています。こうして見ると、総て一律に武器所有を禁止したものではないのです。そういう意味では、刀狩そのものは不徹底なものだったと研究者は指摘します。
 また、村々に代官を派遣して、一軒一軒を訪ねて調査したうえで、武器を取り上げることは現実的には無理がありました。そのため村の代表者に依頼し、適当に済ませることもあったようです。例えば加賀・前田家の場合は、村の代表者が誓紙(誓約書)を提出し、辻褄合わせだけをしたと伝えられます。そうすると、「刀狩り=農民の全面的な武装解除」というイメージとは程遠い現状であったことになります。
 以上から、刀狩の目的は、農民の武装解除ではなく、身分標識(帯刀できるのは武士身分だけ)を明確にする点にあったと考える研究者もいます。
 中世社会は危険な社会で、農民も脇差しを手放さなかったことは以前にお話ししました。
村では水争いや、入会権など縄張り争いが頻発していました。戦乱に巻き込まれることもありました。日頃の治安維持や害獣の駆除にも武器が必要です。これはアメリカの西部劇と同じで、自分たちの身は自分たちで守らねばならなかった時代だったのです。そんな中では、刀などの武器は農民に必要不可欠でした。そんな中で、刀狩令という布告だけで農民達が刀や鉄砲を手放したと考えるのは不自然です。江戸時代になっても農民は武器を所持し続けていたことが次のように報告されています。
A 1588 年8月に京から贈られた加賀の大聖寺領内への 「加州江沼百姓らの武具の請取状」の添え書には次のように記します。

「町人で田畠をつくらない者には、人を指定して、刀・脇差 をもたせてもよい」

ここからは町人に対しては、免許制にして協力的な者には帯刀を認めていたことが分かります。百姓は禁止し、町人には認めると云うことは「農と商の分離」の身分分断政策の一環として刀狩令が出されたと研究者は指摘します。(藤木久志『刀狩り』岩波新書、pp.77 ~ 78、要約)
B 同じく刀狩令が出されてから1カ月後の加賀の大聖寺領内ではすでに刀狩が終了し、刀1073腰、脇差1540 腰、 鑓身 160 本、こうがい 500 本、小刀 700 本の多量 の武具が集められました。ところが、ここにはもっとも強力な武器である弓矢や鉄砲は一つも記されていません。しかも、京の取次ぎ役からは「刀・脇差の員数が少ない」と催促されています。(前出『刀狩り』pp.75 ~ 77、要約)
C 1590 年の出羽仙北の一揆解体を進めた上杉景勝軍の奉行は、一揆方の村々から 4473 点の武具を没収しています。その中から秀吉方で受けとったのは刀・脇差だけで、鉄砲はありません。すると17世紀末の農村には、武士層のもつ以上の鉄砲が残されていたことになります。それを裏付けるのが徳川綱吉の時代に、仙台藩には 3948 挺、尾張 藩 3080 挺以上、長州藩 4158 挺、紀州藩に至っては 8013 挺もの鉄砲があったことを研究者の報告です。(塚本学『生類をめぐる 政治』講談社学術文庫、p.13、要約)
以上からは、刀狩令以後も村には鉄砲などの大量の武具が残されていたことが分かります。すぐに兵農分離は実現したわけではないようです。

 織田信長が戦に強かったのは、兵農分離を実現し、農閑期以外も戦えたためと云われてきました。
しかし、これは史料によって裏付けられたものではありません。断片的な史料をつないで推測されているに過ぎないのです。先進的とみられる織田軍団でさえも、兵農未分離だったと研究者は指摘します。   
兵農分離の通説と異説

 歴史教科書に書かれていることを要約すると、次のようになります。

近世の城下町には武士が集住し、町人の居住地が定められたり、寺社も集中配置され寺町を形成する。そして百姓は村落で農耕に専念する。つまり、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになった。そのため近世の村には武士はいなくなった。

しかし、兵農分離による城下町の形成は、どうもこのように円滑に進んだわけではないようです。
武士は、それまでは自分の所領に住んでいて「一所懸命」で土地とのつながりが強かったのです。そのため所領から引き離し城下に集住させるのには、いろいろな困難がありました。讃岐生駒藩では、江戸時代になっても生駒藩に登用された地元の武士集団が、相変わらず自分の領地に居住し、盛んに新田開発などを進め、農業に従事しています。これが生駒氏が連れてきた家臣集団と対立し、生駒騒動の原因となることは以前にお話ししました。 そのため高松城の城下町には、家臣団の屋敷が建設されずに空き地が数多くあったのです。そうなると藩主が描いた城下町プランは、なかなか進まずに「絵に描いた餅」状態になります。その一例が、生駒藩時代の高松城だったと研究者は考えているようです。
 
最後に  香川叢書第二(名著出版1972年)の「高松領郷中帯刀人別」という史料を見ておきましょう。
高松藩 郷中住居の御家来

ここには宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化されていて、帯刀を許された由来が記されています。「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、上記の12名の名前が挙げられています。  郷居武士とは、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。ここからも、一律に兵農分離が行われた訳ではないことが見えて来ます。
兵農分離が実現しなかったからといって、秀吉の行なった諸政策が否定された訳ではありません。
秀吉の目指した政策は、現実社会との葛藤のなかで、実現のためには長い時間を要したということになります。そういう意味では、秀吉の政策は江戸幕府に継承されながら時間をかけながら整備されていったということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」
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