瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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空海の「五筆和尚」のエピソードを、ご存じでしょうか? 私は、高野空海行状図画を見るまでは知りませんでした。まずは、その詞から見ておきましょう。高野空海行状図画は、何種類もの版があります。ここでは読みやすいものを示します。

五筆和尚 文字

意訳変換しておくと
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。
 空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
要約しておくと
①長安宮中に、晋王朝の書聖王羲之が書を書いた壁があった。
②しかし、時代を経て壁が破損した際に、崩れ落ちてしまった。
③修理後の白壁には、お恐れ多いと、命じられても誰も筆をとろうとしなかった。
④そこで、空海に白羽の矢がたち、揮毫が命じられた
⑤空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた
⑥残りの余白に、盥に入れた墨をそそぎかけたところ、自然に「樹」の字となった

このエピソードが高野空海行状図画には、次のように描かれています。


五筆和尚 右
高野空海行状図画 第二巻‐第7場面 五筆勅号
A 空海が口と両手両足に5本の筆を持って、同時に五行の書を書こうとしているところ。
B その右側の白壁に盥で注いだ墨が「樹」になる
五筆和尚 弘法大師行状絵詞2
五筆和尚(弘法大師行状絵詞)

口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。

五筆和尚 左
皇帝から「菩提子の念珠」を送られる空海
上画面は、帰国の挨拶に空海が皇帝を訪れた時に、別れを惜しんで「菩提子の念珠」を送ったとされる場面です。その念珠が東寺には今も伝わっているようです。ここにも、後世の弘法大師伝説の語り部によって、いろいろな話が盛り込まれていく過程が垣間見えます。

唐皇帝から送られた菩提実念珠
            唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)

五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。

空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
 実は、「五筆和尚」という言葉が、50年後の福州の記録に現れます。

智弁大師(円珍) 根来寺
それは天台宗の円珍が残したものです。円珍は853(仁寿3)年8月21日に、福州の開元寺にやってきて「両宗を弘伝せんことを請う官案」(草庵本第一)に、次のようなエピソードを残しています。

(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。

意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。

空海ゆかりの開元寺を訪ねる』福州(中国)の旅行記・ブログ by Weiwojingさん【フォートラベル】
                      福州の開明寺
 どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?

それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆
8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着
10月3日  福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。
10月      福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。
11月3日  大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』(10世紀半ば成立)には、この間のできごととして、次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

この経過については、遣唐大使・藤原葛野麻呂は朝廷への帰国報告書には、何も記していないことは以前にお話ししました。しかし、空海が大使に替わって手紙を書いたという次の草案2通は、『性霊集』巻第5に、載せられています。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書
B 福州の観察使に請うて人京する幣
特にAは、空海の文章のなか、名文中の名文といわれるものです。文章だけでなく、書も見事なものだったのでしょう。それが当時、福州では文人達の間では評判になったと研究者は推測します。それが、さきの忠湛の話から、福州の開元寺の寺主憎恵潅(えかん)の「五筆和尚、在りや無しや」という円珍への問いにつながると云うのです。
 確かに先に漂着した赤岸鎮では、船に閉じ込められ外部との接触を禁じられていたようですが、福州では、遣唐使であることを認められてからは、外部との交流は自由であったようです。空海は、中国語を自由に話せたようなので、「何でも見てやろう」の精神で、暇を惜しんで、現地の僧たちとの交流の場を持たれていたという話に、発展させる研究者もいます。しかし、通訳や交渉人としての役割が高まればたかまるほど、空海の役割は高くなり、大使の側を離れることは許されなかったと私は考えています。ひとりで、使節団の一員が自由に、福州の街を歩き回るなどは、当地の役人の立場からすればあってはならない行為だった筈です。

福州市内観光 1 空海縁の地 開元寺』福州(中国)の旅行記・ブログ by 福の海さん【フォートラベル】
福州の開明寺の空海像 後ろに「空海入唐之地」

 円珍の因支首氏(後の和気氏)で、本籍地は讃岐で、その母は空海の姉ともされます。
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。

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福州の人々(弘法大師行状絵詞)

五筆和尚の話は、平安時代に成立した空海伝には、どのように記されているのでしょうか?

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
      ①968(康保5)年 雅真の『金剛峯寺建立修行縁起』(金剛峯寺縁起)
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。  (『伝全集』第一 51~52P)
② 1002(長保4)年 清寿の『弘法空海伝』63P
 大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)
又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
③1111(天永2年)に没した大江拒房の『本朝神仙伝』
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。                      
空海御行状集記
          ④ 1089(覚治2)年成立の経範投『空海御行状集記』
神筆の条第七十三
或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。   (『同73P頁)
⑤1113(永久年間(1113~18)成立の兼意撰『弘法空海御伝』
御筆精一正
唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
⑥1118(元永元)年の聖賢の『高野空海御広伝』
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。

これらの記録を比較すると、次のようなことが分かります。
A 最初に書かれた①の『金剛峯寺建立修行縁起』を参考にして、以下は書かれていること
B ②③は簡略で、文章自体が短い。
C 内容的には、ほぼ同じで付け加えられたものはない。
D ①⑤は、皇帝から「菩提実の念珠」を賜ったとある。
以上から「五筆和尚」の話は、10世紀半ばすぎに、東寺に伝来していた唐の皇帝から賜わつたという「菩提実の念珠」の伝来を伝説化するために、それ以後に創作されたモノと研究者は推測します。つまり、五筆和尚の荒唐無稽のお話しは、最後の「菩提実の念珠」の伝来を語ることにあったと云うのです。そう考えると、「念珠」に触れているのは、①と⑤のみです。東寺に関係のない人達にとっては、重要度は低いので省略されて、お話しとして面白い「五筆和尚」の方が話の主役になったようです。  
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
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4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺(因支首氏の氏寺)
  子供の頃に金倉寺にお参りに行ったときに、次のような話を祖母から聞いたおぼえがあります。

「このお寺は智証大師が建てたんや。大師というのはお坊さんの中で一番偉い人や。大師を一番多く出しているのは讃岐や。その中でも有名なのが弘法大師さんと智証大師や。ほんで、智証大師のお母さんは、弘法大師さんの妹やったんや。善通寺の佐伯さんとこから、金倉寺の因支首(いなぎ:地元では稲木)さんの所へ嫁いできて、うまれたのが智証大師や。つまり弘法大師さんと智証大師は、伯父と甥の関係ということや。善通寺と金倉寺は親戚同士の関係や」
智証大師 金倉寺
智証大師(金倉寺蔵)
   本当に円珍(智証大師)の母は、空海の妹なのでしょうか? 
今回はそれを史料で見ておくことにします。 テキストは「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」です。
  まず佐伯直氏について、押さえておきます。
805(延暦24年)9月11日付の「太政官符」には、次のように記します。

空海 太政官符2
空海延暦24年の太政官符
ここからは次のような事が分かります。
①空海の俗名は、真魚
②本貫は、多度郡方(弘)田郷の戸主佐伯直道長の戸口
③空海が延暦22年4月9日に出家していること
これに対して『三代実録』貞観三年十一月十一日辛巳条には、次のように記します。
「讃岐国多度郡人故佐伯直田公……而田公是僧正父也」

ここには「田公是僧正父也」とあって、空海の父を佐伯直田公と記します。ふたつの史料の内容は、次の通りです。
①太政官符は空海(真魚)の戸主=佐伯直道長
②『三代実録』では空海の父 =佐伯直田公
つまり、空海の戸主と父が違っていることになります。今では、古代の大家族制では何十人もがひとつの戸籍に登録されていて、戸主がかならずしも、当人の父でなかったことが分かっています。それが古代には当たり前のことでした。しかし、戸主権が強くなった後世の僧侶には「戸主と父とは同一人物でなければならない」とする強迫観念が強かったようです。空海の父は道長でなければならないと考えるようになります。
空海系図 伴氏系図
伴氏系図

その結果、『伴氏系図』のように空海の父を道長とし、田公を祖父とする系図が偽作されるようになります。そして円珍と空海の続柄を、次のように記します。
 
空海系図 伴氏系図2

この系図では、次のように記されています。
田公は空海の祖父
道長が父
空海の妹が円珍の母
空海は円珍の伯父
これは先ほど見た太政官符と三代実録の記述内容の矛盾に、整合性を持たせようとする苦肉の策です。
こうした空海と円珍の続柄が生れたのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』に由来するようです。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の妹」とは記されていないことです。「空海の姪」です。しかし、ここで『伴氏系図』の作者は、2つの意図的誤訳を行います。
①Bの主語は、円珍の母であるのに、Bの主語を円珍とした
②そしてBの「姪」を「甥」に置き換えた
当時は「姪」には「甥」の意味もあったようでが、私には意図的な誤訳と思えます。こうして生まれたのが「円珍の母=空海の姪」=「円珍=空海の甥」です。この説が本当なのかどうかを追いかけて見ることにします。
研究者は空海の門弟で、同族の佐伯直氏であった道雄(どうゆう)に注目します。

空海系図 松原弘宣氏は、佐伯氏の系図

道雄とは何者なのでしょうか? 道雄は上の松原氏の系図では、佐伯直道長直系の本家出身とされています。先ほども見たように、佐伯直道長の戸籍の本流ということになります。ちなみに空海の父・田公は、傍流だったことは以前にお話ししました。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 承和十四年拝律師 嘉祥三年転権少僧都 会病卒。初道雄有意造寺。未得其地 夢見山城国乙訓郡木上山形勝称情。即尋所夢山 奏上営造。公家頗助工匠之費 有一十院 名海印寺 伝華厳教 置二年分度者二人¨至今不絶。

意訳変換しておくと
権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。また閣梨空海から真言教を受けた。承和十四年に律師を拝し 嘉祥三年には権少僧都に転じ、病卒した。初め道雄は意造寺で修行したが、その地では得るものがなく迷っていると、夢の中に山城国乙訓郡木上山がふさわしいとのお告げがあり、夢山に寺院を建立することにした。公家たちの厚い寄進を受けて十院がならぶ名海印寺建立された。伝華厳教 二年分度者二人を置く、至今不絶。(以下略)

ここには道雄の本貫は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海に師事したことが分かります。また、円珍と道雄との関係にも何も触れていません。ちなみに「和尚慈勝に師事して唯識論を受け」とありますが、和尚慈勝は多度郡の因支首氏出身の僧侶であったようです。この人物については、また別の機会に触れたいと思います。
道雄については朝日歴史人物辞典には、次のように記されています。

平安前期の真言宗の僧。空海十大弟子のひとり。空海と同じ讃岐多度郡の佐伯氏出身。法相宗を修めたのち,東大寺華厳を学び日本華厳の第7祖となる。次いで空海に師事して密教灌頂を受け,山城乙訓郡(京都府乙訓郡大山崎町)に海印寺を建立して華厳と真言の宣揚を図った。嘉祥3(850)年,道雄,実慧の業績を讃えて出身氏族の佐伯氏に宿禰の姓が与えられた。最終僧位は権少僧都。道雄の動向は真言密教と華厳,空海と東大寺の密接な関係,および空海の属した佐伯一族の結束を最もよく象徴する。弟子に基海,道義など。<参考文献>守山聖真編『文化史上より見たる弘法大師伝』

以上から道隆についてまとめておくと、次のようになります。
①讃岐佐伯直道長の戸籍の本家に属し
②空海に師事した、空海十大弟子のひとり
③京都山崎に海印寺を建立開祖

これに対して「弘法大師弟子譜」の城州海印寺初祖贈僧正道雄伝には、次のように記されています。

僧正。名道雄。姓佐伯宿禰。讃州多度郡人。或曰 円珍之伯父

意訳変換しておくと
道雄の姓は佐伯宿禰で、本貫は讃州多度郡である。一説に円珍の伯父という説もある。

「或日」として、「道雄=円珍の伯父」説を伝えています。「弘法大師弟子譜」は後世のものですが、「或曰」としてのなんらかの伝えがあったのかもしれません。ここでは「道雄=円珍伯父説」があることを押さえておきます。
次に、田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』を見ておきましょう。
空海系図 正道雄伝

この系図にしたがえば、「円珍の母は空海の姪」になります。そうすると、空海は円珍の従祖父ということになります。空海は、774(宝亀五年)の生まれで、円珍は814(弘仁五年)の誕生です。ふたりの間には40年の年代差があります。これは空海が円珍の従祖父であったことと矛盾しません。
 これに先ほど見た「道雄=円珍伯父説」を加味すると、「円珍の母は道雄の妹」であったことにもなります。
つまり、円珍の母の母親(円珍の外祖母)は、空海と同族の佐伯直氏の一員と結婚し、道雄と円珍の母をもうけたことになります。これを「円珍の母=道雄の妹説」とします。同時に道雄と空海も、強い姻戚関係で結ばれていたことになります。
「円珍の母=道雄の妹説」を、裏付けるような円珍の行動を見ておきましょう。円珍は『行歴抄』に、次のように記します。(意訳)
①851(嘉祥四年)4月15日、唐に渡る前に前に円珍が平安京を発って、道雄の海印寺に立ち寄ったこと
②858(天安二年)12月26日、唐から帰国した際に、平安京に入る前に、海印寺を訪れ、故和尚(道雄)の墓を礼拝し、その夜は海印寺に宿泊したこと
 海印寺 寂照院墓地(京都府長岡京市)の概要・価格・アクセス|京都の霊園.com|【無料】資料請求
海印寺(長岡京市)
海印寺は、道雄が長岡京市に創建した寺です。円珍が入唐前に、この寺に立ち寄ったのは、道雄に出発の挨拶をするためだったのでしょう。その日は、851(嘉祥四年)4月15日と記されているので、それから2カ月も経たない851(仁寿元年)6月8日に、道雄は亡くなっています。以上から、円珍が入唐を前にして海印寺を訪れたのは、道雄の病気見舞も兼ねていたようです。そして円珍が唐から帰国して平安京に入る前に、海印寺に墓参りしています。これは墓前への帰国報告だったのでしょう。この行動は、道雄が円珍の伯父であったことが理由だと研究者は推測します。
1空海系図2

 ここからは、円珍・道雄・空海は、それぞれ讃岐因支首氏や、佐伯直本家、分家に属しながらも、強い血縁関係で結ばれていたことが分かります。空海の初期集団は、このような佐伯直氏や近縁者出身者を中心に組織されていたことが見えてきます。
 最後に「円珍の母=空海の妹」は、本当なのでしょうか?
これについては、残された資料からはいろいろな説が出てくるが、確定的なことは云えないとしておきます。
以上をまとめておきます。
①円珍伝には「円珍の母=空海の姪」と記されている。
②これを伴氏系図は「円珍=空海の姪(甥)」と意図的誤訳した。
③佐伯直氏の本家筋の道雄については「道雄=円珍の伯父」が残されている。
④「佐伯直系図」には「円珍の母=道雄の妹」が記されている。
⑤ ③と④からは、円珍の母は空海の姪であり、「空海=円珍の従祖父説」が生まれる。
空海系図 守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』
守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』の空海系図
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智証大師伝の研究(佐伯有清) / 金沢書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 
「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」

以前に円珍系図のことを紹介したのですが、「むつかしすぎてわからん もうすこしわかりやすく」という「クレーム」をいただきましたので「平易版」を挙げておきます。

伝来系図の2重構造性
 
系図を作ろうとすれば、まず最初に行う事は、自分の先祖を出来るだけ古くまでたどる。こうして出来上がるのが「現実の系図」です。個人的探究心の追求が目的なら、これで満足することができます。しかし、系図作成の目的が「あの家と同族であることを証明したい」「清和源氏の出身であることを誇示したい」などである場合はそうはいきません。そのために用いられるのが、いくつかの系図を「接ぎ木」していくという手法です。これを「伝来系図の多重構造」と研究者は呼んでいるようです。中世になると、高野聖たちの中には、連歌師や芸能者も出てきますが、彼らは寺院や武士から頼まれると、寺の由来や系図を滞在費代わりに書残したとも言われます。系図や文書の「偽造プロ」が、この時代からいたようです。
 系図として国宝になっているのが「讃岐和気氏系図」です。
私は和気氏系図と云ってもピンと来ませんでした。円珍系図と云われて、ああ智証大師の家の系図かと気づく始末です。しかし、円珍の家は因支首(いなぎ:稲木)氏のほうが讃岐では知られています。これは空海の家が佐伯直氏に改姓したように、因支首氏もその後に和気氏に改姓しているのです。その理由は、和気氏の方が中央政界では通りがいいし、一族に将来が有利に働くと見てのことです。9世紀頃の地方貴族は、律令体制が解体期を迎えて、郡司などの実入りも悪くなり、将来に希望が持てなくなっています。そのために改姓して、すこしでも有利に一族を導きたいという切なる願いがあったとしておきます。
 それでは因支首氏の実在した人物をたどれるまでたどると最後にたどりついたのは、どんな人物だったのでしょうか?

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板

それは円珍系図に「子小乙上身」と記された人物「身」のようです。
その註には「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは、身は難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。もうひとつの情報は「小乙上」が手がかりになるようです。これは7世紀後半の一時期だけに使用された位階です。「小乙上」という位階を持っているので、この人物が大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物であることが分かります。身は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられ、因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。この身が実際の因支首氏の始祖のようです。
 しかし、これでは系図作成の目的は果たせません。因支首氏がもともとは伊予の和気氏あったことを、示さなくてはならないのです。
そこで、系図作成者が登場させるのが「忍尾」です。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、系図制作者は忍尾を始祖としていていたことが分かります。忍尾という人物は、円珍系図にも以下のように出てきます。
    
円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」
意訳変換しておくと
この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った
 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったと云うのです。だから、もともとは我々は和気氏であるという主張になります。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。綾氏系図にも用いられたやり方です。
円珍系図  忍尾と身


つまり、讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれているのです。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の系図(所伝)によってこの部分は作られた疑いがあると研究者は指摘します。ちなみに、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちになるようです。

以上を整理しておくと
①因岐首系図で事実上の始祖は、身で天智政権で活躍した人物
②伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作し、登場させたのが忍尾別君
③忍尾別君は「別君」という位階がついている。これが用いられたのは5世紀後半から6世紀。
④忍尾から身との間には約百年の開きがあり、その間が三世代で結ばれている
⑤この系図について和気氏系図は失われているので、事実かどうかは分からない。
⑥それに対して、讃岐の因支首氏系図については、信用がおける。
つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえそうです。
  伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えています。
それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の実際の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

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参考文献
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


     讃岐の郷名
讃岐の古代郷名 
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、
南は那珂部木徳郷
西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。

讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
 江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金
②高松藩領の金寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。

丸亀市金倉町
丸亀市金倉町

 上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺金蔵寺
善通寺市金蔵寺町

 建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)
況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること


4344103-26円珍
円珍

建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
 ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。

園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事
右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安
金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□
右当寺は、智證大師誕生の地(中略)
而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)
ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
 研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
 ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
 また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。

金蔵寺
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか?   金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。
 土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。

ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
 縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。

4344103-24金蔵寺
金倉寺

研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。
②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。
③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。
④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)
B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」

これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
費徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。

「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。        長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
 そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。

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参考文献           金倉寺領および圓城寺領金倉荘     善通寺市史574P    

伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつに分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。そんな視点で、今回は『円珍系図』を見ていきたいと思います。  テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

この系図は次の三つを「接ぎ木」して、つなぎ合わせたものと研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり伊予別公系図です。
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
 最初に円珍系図(和気氏系図)の全てを載せておきます。
円珍系図冒頭部
円珍系図冒頭部2
円珍系図5
円珍系図6 忍尾
円珍系図 7 忍尾と身の間
円珍系図8 身
円珍系図9 身のあと
円珍系図3

  円珍系図は、始祖を景行天皇の皇子である武国凝別皇子に求めていたことを前回は見ました。
それでは、現実的祖先であるCの讃岐・因支首氏の始祖は誰にしているのでしょうか。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、忍尾を始祖としていたことが分かります。
円珍系図6 忍尾

忍尾は円珍系図にも出てきます。忍尾の注記には、次のように記されています。

「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」

意訳変換しておくと

この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った

 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったということのようです。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。
讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれていると研究者は指摘します。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の所伝によって系図を作った疑いがあると指摘します。
 和迩乃別命を「一」と注記し、以下、左側の行の人名に「二」、「三」、右側の行の人名に「四」、「五」、「六」と円珍自身が番号をつけています。円珍系図が作られた頃には、その順はあいまいになっていたようです。というのは、世代順を示す番号の打ち方に不自然さがあるからだと研究者は指摘します。この部分の系図自体が、世代関係の体裁を示していません。この背景として考えられる事は、前回お話しした「系図作成マニュアルのその2」のノウハウです。つまり、自分の祖先を記録や記憶で辿れるところまでたどったら、あとは別の有力な系図に「接ぎ木」という手法です。
それが今は伝わっていない『伊予別(和気)公系図』かもしれません。接ぎ木された系図には、その伊予の和気公の重要な情報が隠されていると研究者は指摘します。

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系図の伊予和気氏の部分統合版

忍尾以前の系図には、武国凝別皇子の子・水別命から始まって、神子別命、その弟の黒彦別命の代までは「別命」となっています。ところが、倭子乃別君やその弟の加祢古乃別君の兄弟以下の人名は、すべて「別君」を称しています。ここからは「別」から「君」への推移のあったことがみえてきます。地方豪族が「別」から「君」や「臣」「直」へと称号を変えたことは、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に、次のようにあることによって証明されたようです。

「其児名二己加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半二比。其児名加差披余。其児名乎獲居臣(直)

「別」から「君」への称号変化が、いつごろ行われたのでしょうか。
「別」が付いている大王を系図で見ておきましょう。
円珍系図 大王系図の別(ワケ)


「別」という称号は、上の系図のように応神から顕宗までの大王につけられています。応神の時代は、4世紀の後半で、顕宗は、5世紀の終わりごろです。そうすると、大王や皇族が「別」(和気)を称していたのはその頃だったことになります。
 熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した大刀には、次の銘文があります。
「□因下獲囲□図歯大王世」
 
この「図歯大王」は雄略天皇であるとされます。ここからは雄略天皇の時代のころから、ヤマトの王は「別」を捨てて、「大王」と称しはじめたことが分かります。
 「大王」は、「君」のうえに位置する超越的な権力をあらわしている称号です。つまり、この時期にヤマト政権が強大化して、それまでの吉備等との連合政権から突出して強大な権力を手中におさめつつあった時期だとされます。
①ヤマトの王は、「別」から「大王」へと、その称号を変えていった
②地方の豪族が、「別」から「君」へと称号を変えていった
これは、ほぼ同時進行ですすんだようです。つまり、この系図上で別を名前に付けている人物は 4世紀の後半の後半の人物だと研究者は考えています。
 ところが「別」には、もうひとつ隠された意味があるようです。
「別」は「ワケ」で「和気」なのです。
「別」から「君」へと称号改姓が進む中で、伊予国の別(和気)氏や、備前国の別氏のように、古い称号の「別」を氏の名「和気」としてのこした氏族もあったようです。ここでは、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちであることを押さえておきます。

Cの讃岐の因支首氏の系図の実在上の最も古い人物は誰なのでしょうか

円珍系図8 身

  それは系図の「子小乙上身」の「身」だと研究者は考えています。
その下の註に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは身が難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。身は7世紀後半の白村江から壬申の乱の天智帳で活躍した人物で、因支首氏では最も業績を上げた人で、始祖的な人物だったようです。
 しかし、系図が制作された9世紀後半は、二百年近く前の人で、それよりも前の人物については辿れなかったようです。つまり、身が
当寺の因支首氏系図では、たどれる最古の人物だったことになります。しかし、それでは伊予和気氏との関係を主張することができません。そこで求められるのが「現実的系譜を辿れるところまでたどって、そのあとは他家の系図や伝説的系譜に接ぎ木する」という手法です。実質的な始祖身と伊予の和気氏をつなぐものとして登場させたのが「忍尾別君」です。
 忍尾別君は「讃岐国司解」の中では、「忍尾五世孫、少初位上身苗裔」とあります。因支首氏が直接の祖先とした「架空の人物」です。

つまり、忍尾は伊予の国から讃岐にやってきて、因岐首の女を娶ったという人物です。忍尾の子が母の姓に従って因支首の姓を名乗ったという「創作・伝承」がつくられたと研究者は考えています。しかし、先ほど見たように忍尾別君は「別君」とあるので、5世紀後半から6世紀の人物です。
 一方の「身」については、 「小乙上身」とあり、その下に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。
「身」は「小乙上」という位階から7世紀後半の人物であることは先ほど見たとおりです。彼は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられたと系図には記されています。
因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。
①  忍尾別君は5世紀末から6世紀の人物で、伊予からやってきた和気氏
② 身は7世紀後半の人物で、天智朝で活躍した人物
そして忍尾から身までは三世代で結ばれています。
  実際はこのような所伝は、因岐首から和気公へ改姓のためのこじつけだったのかもしれないと研究者は考えているようです。そして、伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことです。それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  系図Cの因支首氏系図については、讃岐因支氏に関した部分で、信用がおけると研究者は考えています。

 活動年代が分かる人物をもう一度『円珍系図』で比較してみましょう。
伊予の和気公の系図部分で「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、評造や小山上の称号を持つので大化の改新後の人物であることは、先ほど見たとおりです。同時に「身」も孝徳朝(645年- 654年)の人物とされるので、両者は同時代の人物です。
ところが、「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、はるか前の世代の人物として系図に登場します。これをどう考えればいいのでしょうか?
 このような矛盾は、『和気系図』の作製者が、伊予の和気氏系図と、自己の因岐首系図をつなぐ上で、年代操作の失敗したため研究者は考えています。
両系図をつなぐ上で、この部分を省略して、因支首氏の身以前の世代の人々も省略して、和気氏系図の評造の称号をもつ宮手古別君や意伊古乃別君と、Cの部分で孝徳朝の人物とされる身を同世代の人とすればよかったのかもしれません。しかし。身以前の世代の人々は、因岐首氏の遠祖とされていた人々だったのでしょう。円珍系図』の作製者は、これらの人々を省略することに、ためらいがあったようです。そして、そのまま記したのでしょう。
  以上から円珍系図は、伊予の和気氏系図と讃岐の因支首氏系図を「接ぎ木」した際に、世代にずれができてしまいました。しかし、これを別々のものとして考えれば、Bは伊予別公系図として、Cは讃岐因岐首系図として、それぞれ正当な伝えをもつ立派な系図ともいえると研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
和気氏系図 円珍 稲木氏
      円珍の和気氏系図制作のねらいと問題点

①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

佐伯有清氏は、Bの伊予別公系図(和気氏)について次のように結論づけます。
  和気公氏たちが、いずれも景行天皇を始祖とするのは、もちろん歴史的事実であったとは考えられない。和気公氏の祖先は、古くから伊予地域において「別」を称号として勢力をふるっていた地方豪族であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


           
江戸時代後期になって西讃府史などが編集されるようになると、このデーター集めや村の歴史調査のために庄屋層が動員されたことは以前にお話ししました。そのため丸亀藩では「歴史ブーム」が起きて、寺社仏閣についての歴史や、自分の家についての由緒や歴史を探ろうとする動きが高まります。その中で、数多く作られたのが由緒書きであり系図です。こうして出来上がった寺院の由緒には、次のようなパターンが多いようです。
①行基・空海・法然などによって開祖され一時衰退していたのを
②中世に○○が復興した。故に○○が当寺の中興の祖である
③ところが土佐の長宗我部元親の侵攻で、寺の由緒を伝える寺宝や由来も焼失した。
④江戸時代になって○○によって復興され、いまに至る

全国廻国の高野聖や連歌師の中には、寺の由緒書きを書くのを副職にしていたような人物もいたようで、頼まれればいくつも書いたようです。そのためよく似たパターンになったのかもしれません。
 この由緒作成マニュアルで、依頼した寺院が揃えるのは④以後の資料だけです。これは寺の過去帳を見れば分かります。②は他のお寺の系図や由緒をコピーして挿入することも行われます。そして、①の権威のある高僧に結びつけていきます。つまり、いくつかの歴史の「接ぎ木」が行われているのです。これが、寺院の由来作成方法のひとつのパターンのようです。
 この方法が円珍系図にも見られると研究者は考えているようです。今回は、円珍系図が誰を始祖にしているのか、どのように接がれているのかを見てみることにします。テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
                     円珍系図(和気家系図)

『円珍系図』は、次の三つの部分から出来ていると研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり讃岐にやってくる前の系図 
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
まず、冒頭に出てくるのはCの讃岐因支首氏の系図です。
円珍系図冒頭部
円珍系図の最初の部分です。

階段状に組まれて上から「一」~「五」までの番号が打たれています。これが各世代を表します。一番下が最も若い世代になります、左側下に「広雄」と見えます。これが円珍の俗名です。ここからは円珍には「福雄」という弟がいたことが分かります。父が「四」の「宅成」で、妻は空海の伯母であったとされます。宅成は空海の父である田公と同時代の人物であったことになります。宅成は田公の義理の弟ということになるようです。宅成の弟が宅丸(宅麻呂)で、円珍を比叡山に導いた僧侶仁徳であったことは前回にお話しした通りです。
「三」の道万(道麻呂)が円珍の祖父になります。

  一方「身」から右側に伸びた系譜は何を表すのでしょうか?
  これも貞観九年(867)の「讃岐国司解」の改姓該当者一覧を基にして作られた因支首氏系図と比較してみましょう。

円珍系図2

多度郡の因支首氏一族

ここからは「三」の「国益」は、多度郡の因支首氏だったことが分かります。「円珍系図」には、那珂郡の道万(道麻呂)と同じく国益一人しか名前が挙げられていませんが、「讃岐国司解」を見ると、改姓認可された人たちは、それ以外にも「男綱」「臣足」などの一族がいたことが分かります。
 多度郡や那珂郡の因支首一族は、「身」を自分たちの直接の先祖だと認識していたようです。これが讃岐の多度・那珂郡にいた因支首氏系図の原型で、「身」に伊予の和気氏系図に「接ぎ木」することが系図作成のひとつのポイントになります。

次にでてくるのがAの天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家と因支首氏の関係です。

円珍系図冒頭部2
円珍系図 天皇系図部分

和気公氏の系図には、円珍の自筆書き入れがあります。 上の横書きされた「裏書」の部分です。円珍が何を書いているのか見ておきましょう。これを見ると因支首氏が大王系譜で始祖としたのは、景行天皇の子ども達の世代であったことが分かります。景行天皇には男17の皇子達がいます。その中から誰を選んだのでしょうか。それが分かるのが次の部分です。

円珍系図5
円珍系図  景行天皇の皇子の部分

ここには景行天皇の17人の皇子の名前が並びます。
大碓皇子の名前の上に、「一」と番号をふり、以下「二」、「三」、「四」と「十七」まで、それぞれの皇子の名前の上に番号がつけられています。讃岐に馴染みの深い神櫛皇子が「十」番目、武国凝別皇子が「十二」番目の皇子であることを示しています。これは、円珍が書き入れたようです。
  この中から因支首氏の先祖とされたのは武国凝別皇子でした。
どうして、神櫛王ではないのでしょうか。それは、因支首氏が伊予の和気公の子孫であることを証明するための系図作成だからです。そのためには讃岐と関係の深い神櫛王ではなく、伊予に関係の深い武国凝別皇子である必要があります。別の視点から見ると、伊予の和気公の系図が武国凝別皇子を始祖としていたのでしょう。
 申請に当たって円珍は、武国凝別皇子が景行天皇の何番目の皇子であるかについて、資料を収集し、研究していた痕跡が裏書きからはわかるようです。それを見るためにもう一度、先ほどの円珍系図の景行天皇の部分の「裏書」の部分に返ります。
円珍系図冒頭部2
円珍は右側の裏書に次のように記します。
伊予別公系図。武国王子為第七 以神櫛王子為第十一 
天皇系図 以二神櫛為第九 以武国凝別為第十一
日本紀 以神櫛為第十 武国凝王子為第十二
意訳変換しておくと
①『伊予別公系図』によると武国王子は7番目 神櫛王子は11番目
②『天皇系図』によると、神櫛王は9番目、 武国凝別は11番目
③『日本書紀』によると、神櫛王は第10番目、武国凝王子は第12番目

ここには円珍が『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本紀』などを調べて、神櫛王と武国凝王子が何番目の皇子として記されているかが列記されています。つまり、円珍はこれらの資料を収集し、比較研究していたことが分かります。景行天皇の皇子と皇女の名前を、『古事記』以下の史書と和気公氏(円珍系図)と比較させてみると、次のようになるようです。
円珍系図4

  この表からは、円珍が最終的に依拠したのは『日本書紀』景行天皇条の系譜記事であることが分かります。つまり、この系図の天皇系譜に関する部分は、独自なものがない、日本書紀のコピーであると研究者は考えているようです。この系図の価値は、この部分以外のところにあるようです。

 円珍はそれ以外にも、讃岐の豪族たちの改姓申請に関する資料も手に入れていたようです。
和気公氏の系図の「皇子合廿四柱。男十七女七」という記載の左横に、横書きで「神櫛皇子為第十郎 与讃朝臣解文合也」と円珍が書き込みを入れています。これは
「神櫛王は10番目の皇子だと、讃岐朝臣の解文には書かれている」

ということでしょう。

「讃岐朝臣」とは、いったい何者なのでしょうか?
貞観六年(864)8月に、讃岐寒川郡から京に本貫を移していた讃岐朝臣高作らが和気朝臣の氏姓を賜わりたいと申請した際の解文です。因支首氏の申請の2年前になります。讃岐朝臣氏は、その20年ほど前の承和三年(836)2月に、朝臣の姓をすでに賜わっています。その時の記事が「続日本後期」承和3年3月条に次のように記されています。
外従五位下大判事明法博士讃岐公永直。右少史兼明法博士同姓永成等合廿八因。改公賜朝臣 永直是識岐国寒川郡人。今与山田郡人外従七位上同姓全雄等二姻 改二本居貫二附右京三条二坊 永直等遠祖。景行天皇第十皇子神櫛命也。

  意訳変換しておくと
外従五位下の大判事明法博士である讃岐公永直。その他、少史兼明法博士で同姓の永成等合計廿八名に朝臣と改姓することを認める。永直は讃岐国寒川郡の人で、山田郡人外の従七位上同姓の全雄等などの縁者に、本貫を右京三条二坊に改めることを認める。永直等の先祖は、景行天皇第皇子神櫛命である。

 ここには、はっきりと「永直等遠祖。景行天皇第皇子神櫛命也」とあり神櫛王が10番目の皇子であることが記されています。讃岐公が讃岐朝臣となり、さらに讃岐朝臣氏が和気朝臣の氏姓を申請した際の「讃岐朝臣解文」にも、遠祖は景行天皇の第十皇子の神櫛命であると述べられていたことになります。これを円珍は、見ていたことになります。
智証大師像 圓城寺
 円珍坐像
では、他の一族である「讃岐朝臣解文」を、円珍はどのようにして見ることができたのでしょうか
 それは、太政官の左大史・刑部造真鯨(刑大史)を通じて、写しを手に入れたと研究者は推測します。刑部造真鯨は、円珍も多度郡の因支首氏の姻戚でした。円珍が唐から帰国し、入京する直前に洛北の上出雲寺で円珍を出迎えたり、円珍の公験を表装したりするなど、円珍とは、きわめて親近な間柄にあったようです。真鯨は民部省をも管轄する左弁官局の左大史という職掌柄から、保管されていた文書を写せる立場にあったと研究者は推測します。 円珍自筆の「裏書」を見ると、円珍はこの他にも『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本書紀』などを参照していたことは先に触れた通りです。

ここからは円珍が貞観八年(866)の因支首氏の改姓申請に、強い関心を持ち、系図の最終確認に関わっていたことが分かります。

最後に、伊予の和気公が始祖としていた武国凝別皇子を見ておきましょう。
 武国凝別命は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族の先祖で応神天皇や息長君の先祖にあたる人物と研究者は考えているようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君や讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。  
   
    以上をまとめておくと
①因支首氏は、改姓申請の証拠書類として自らが伊予の和気公につながる系譜を作成した。
②その際に、始祖としたのは伊予始祖の武国凝命皇子であった。
③その際に問題になったのは、武国凝命皇子が景行天皇の何番目の皇子になるかであった。
④この解決のために、円珍は親戚の懇意な官僚に依頼して政府の書類の写しを手に入れていた。
⑤そして、最終的には日本書紀に基づいて12番目の皇子と書き入れて提出した。

円珍自身も一族の改姓申請に関心を持ち、深く関わっていたことがうかがえます。同時に、当時の改姓申請には、ここまでの緻密さが求められるようになっていたことも分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。最後まで
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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 八~九世紀になると讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなうようになります。前回は、その中に、空海の佐伯直氏や円珍の因支首氏もいたことを見たうえで、関係文書から佐伯直氏と因支首氏の比較を行いました。今回は「円珍系図」が、誰によって作成されたのかを見ていこうと思います。 
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図(和気家系図)

 滋賀県の圓城寺には、「円珍系図(和気家系図)」が残っています。承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。

最初に因支首氏の改姓申請と円珍の動きを年表で見ておきましょう。
799年 氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出を命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡の因支首道麻呂・多度郡人同姓国益らが、前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること明記した系図を作成・提出。しかし、この時には改姓許可されず。
814年 円珍(広雄)讃岐那珂郡金倉郷に誕生。
828年 円珍が叔父の仁徳にともなわれて、最澄の直弟子である義真に入門
834年頃「円珍系図」の原型が作成される?
853年 新羅商人の船で入唐、
859年 円珍が園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。
860年 空海の弟真雅が東寺一長者となる(清和天皇の誕生以来の護持僧)
861年 多度郡の空海の一族佐伯直氏11人が佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首秋主や多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
868年 円珍が延暦寺第5代座主となる。
891年 円珍が入寂、享年78歳。
  年表を見れば分かるように、この時期は、佐伯直氏出身の空海と弟の真雅が朝廷からの信頼を得て、大きな影響力を得ていた時代です。そこに、少し遅れて因支首氏出身の円珍が延暦寺座主となって、影響力を持ち始めます。地元では、それにあやかって再度、改姓申請を行おうという機運が高まります。佐伯直氏が佐伯宿禰への改姓に成功すると、それに習って、親族関係にあった因支首氏も佐伯氏の助言などを受けながら、2年後に改姓申請を行ったようです。
 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みます。この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠書類として作成・提出されたものの控えになるようです。ところが800年の申請の折には、改姓許可は下りませんでした。
寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。

まず円珍系図の「下」から見ていきましょう。
円珍系図3


系図の下というのは、一番新しい世代になります。
一番下の右に記される「子得度也僧円珍」とあります。これが円珍です。この系図からは「祖父道万(麻)呂 ー 父宅成 ー 円珍(広雄)」という直系関係が分かります。
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)にも、次のように記されています。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
  ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

さて今日の本題に入って行きましょう。系図の制作者についてです。
円珍系図冒頭部

系図冒頭には、次のような円珍自筆の書き込みが本体の冒頭にあります。上図の一番下の横になっている一文です。実はこれをどう読むかが、制作者決定のポイントになります。

  □系図〔抹消〕天長乗承和初従  家□□於円珍所。

戦前に大倉粂馬氏は、「家」の次の不明の文字を、「丸」と判読し、この部分を人名の「家丸」とみなしました。そして、家丸は、円珍の叔父にあたる宅丸(宅麻呂、法名仁徳)のことします。宅丸(仁徳)が承和の初めに円珍を訪ねて、記憶をたどってこの系図を書き足したものであると推察しました。つまり、大倉氏は、この系図は承和年間に円珍が叔父の宅丸(宅麻呂)とともに編述したものと考えたのです。

「家」の下の不明の字を「丸」と判読し、欠損している部分を以上のように解釈することの判断は留保するにしても、この系図が、円珍の世代で終っていること、その次の世代がないことから、この系図は、承和の初め(834年ごろ)に書かれたものと研究者は考えています。

戦後になって研究者があらためて、系図の「得度僧仁徳」「得度也僧円珍」のところを、調べて次のように報告しています。
①「得度」の二字の下に薄く「宅麻呂」と書かれているように見える
②「得度也僧円珍」のところの「得度」の二字の下にも、薄く字がみえ、「広雄」と読める
   「仁徳=宅麻呂」で、仁徳は円珍の叔父に当たります。そして「円珍=広雄」です。
 以上から大倉粂馬氏は、この系図の筆者は仁徳(宅麻呂)だったと推測します。その理由は、自分が系図の作者なので「得度僧仁徳」と記して、本名を省略したのではないかというのです。そして、これが通説となっていたようです。

しかし、これには疑問が残ります。「得度僧仁徳」の下に、もと宅麻呂(宅丸)の名前が書いてあったことが分かってきたからです。それなら地元の那珂郡で作成された系図が、宅麻呂や円珍の手元に届いた時に、仁徳が俗名を消して、得度名を書き入れたと考える方が合理的です。

もう一度「円珍系図」の冒頭文「……承和初従  家□□於円珍所」にもどります。
佐伯有清氏は、「家」の字の上に「開字」があることに注意して読みます。この「家」の箇所は、円珍が敬意を表するために一字分あけたのであると推測します。そうだとすると「家」の字から判断すると、「家君」、あるいは「家公」など、それに類する文字が書かれてあった可能性が強いことになります。そうすると、この意味は次のようにとれます。
「この系図は、承和の初めに家君(父)より、円珍の所に送ってきたものである」

  つまり、円珍系図は、地元の那珂郡で作られたものを円珍の父宅成が送ってきたことになります。これは仁徳(宅麻呂)や円珍は、この系図の作成には、関与していないという説になります。

そういう視点で見ると、改姓を認められた者は、那珂郡と多度郡の因支首氏のうちの45名に及びますが、円珍系図には那珂郡の一族しか記されていません。多度郡の因支首氏については、一人も記されていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
円珍系図2
多度郡の改姓者は、円珍系図にはひとりも書かれていない

 ここからは、この系図を書いた人にとって、多度郡の因支首一族は縁遠くなって、一族意識がもてなくなっていたことがうかがえます。同時に、円珍系図を書いた人は那珂郡の因支首氏であった可能性が強まります。

それでは那珂郡の因支首一族で、改名申請に最も熱心に取り組んでいたのは誰なのでしょうか。
円珍系図 那珂郡

それが因支首秋主になるようです。
 貞観9(879)年2月16日付の「讃岐国司解」の申請者筆頭に名前があることからもうかがえます。那珂郡の秋主からすれば、多度郡の国益や男綱(男縄)、そして臣足らは、血縁的にかなり掛け離れた人物になります。その子孫とも疎遠になっていたのかもしれません。そのために多度郡の一族については、系図に入れなかったと研究者は推測します。そういう目で多度郡と那珂郡の系図を比べて見ると、名前の書き落としがあったり、間柄がちがっている点が多いのは多度郡方だと研究者は指摘します。現在では、この円珍系図は地元の那珂郡の因支首一族のもとで作られたと考える研究者が多いようです。

  以上をまとめておくと
①因支首氏の改姓申請の際の証拠資料として、因支首氏は伊予の和気公と同族であることを証明する系図が制作された。
②この系図は申請時に政府に提出されたが、写しが因支首氏一族の円珍の手元に届き、圓城寺に残った。
③この系図の制作者としては、円珍の叔父で得度していた仁徳とされてきた。
④しかし、地元の那珂郡の因支首氏によって制作されたものが、円珍の父から送られてきたという説が出されている。
⑤どちらにしても、空海の佐伯直氏と、円珍の因支首氏が同じ時期に改姓申請を行っていた。
⑥古代豪族にとって改姓は重要な意味があり、自分の先祖をどの英雄や守護神に結びつけるかという考証的な作業をも伴うものであった。
⑦その作業を経て作られた因支首氏の系図の写しは、圓城寺で国宝として保管されている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(智証大師) 金倉寺蔵  

円珍(智証大師)は因支首(いなぎのおびと)氏の出身です。因支首氏は改姓を許され後には、和気公を名乗るようになります。その系図が、『円珍系図(和気公系図)』と呼ばれている和気公氏の系図になります。この系図は、円珍の手もとにあったもので、それには円珍の書き入れもされて圓城寺に残りました。そのため『円珍俗姓系図』とも『大師御系図』とも呼ばれます。家系図ではもっとも古いものの一つで、国宝に指定されています。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 この系図には讃岐古代史を考える上では多くの情報が含まれています。この円珍系図について詳しく述べているのが佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。この本も私の師匠から「これくらいは読んどかんといかんわな」と云われて、いただいたままで「積読(つんどく)」状態になっていたものです。これを引っ張り出して見ていくことにします。 今回は、改姓申請に関わって発行された文書を中心に、因支首氏(後の和気公)のことを見ていきます。

 菅原道真が讃岐守としてやってくる20年前の貞観八年(866)10月27日のことです。
那珂郡の人である因支首秋主・道麻呂・宅主らと、多度郡の因支首純雄・国益・臣足・男綱・文武・陶道ら九人は、和気公の氏姓を賜わります。この記事が載っている『三代実録』には、賜姓された人名につづけて、「其先 武国凝別皇子之苗裔也」とだけしか記されていません。ここからは秋主らが、どんな理由で氏姓を改めることを申請したのかは分かりません。ところが、因支首氏の改姓関わる文書が、もうひとつ伝えられています。
それが貞観九年(867)二月十六日付に、 当時の讃岐国司であった藤原有年が 「讃岐国戸籍帳」1巻の見返し(表紙裏)に記したものです。
讃岐国司解
有年申文
有年申文」です。国司の介(次官)である藤原有年が草仮名で事情を説明した申文です。
讃岐国司解3


この申文は「讃岐国司解」という解文の前に添えられています。
内容的には次のような意味になるようです。

「因支首氏の改姓人名禄の提出について、これはどのようにしたらよいか、官に申しあげよう。ご覧になられる程度と思う。そもそも刑大史の言葉によって下付することにしたので、出し賜うことにする。問題はないであろう」

「讃岐国司解」には「讃岐国印」が押されていて、まぎれもなく正式の文書です。因支首氏のうち和気公氏へと改姓した人物の名前を報告する文書であるこの「讃岐国司解」は、讃岐守の進言にしたがって太政官に提出されなかったようです。

讃岐国司解2
讃岐国司解

讃岐国司解には、賜姓請願のいきさつだけでなく、因支首から和気公に改氏姓したのは、上記の九名の者にとどまらず、那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三姻と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三姻のあわせて六親族であったことも記されています。この讃岐国司解に記されている人名と続柄とによって、研究者が作成した系図を見てみましょう。
  円珍系図 那珂郡
那珂郡の因支首氏
円珍系図2
 多度郡の因支首氏

この系図の中にみえる人名で、傍線を引いた7名は  『三代実録』貞観八年十月二十七日戊成条の賜姓記事に記されている人々です。確認しておくと
(一)の那珂郡の親族には、道麻呂・宅主・秋主
(二)の多度郡の親族では国益・男綱・臣足・純男
しかし国司が中央に送った「讃岐国司解」には、那珂郡では
道麻呂の親族8名、
道麻呂の弟である宅主の親族6名、
それに子がいないという金布の親族1名、
多度郡では
国益の親族17名、
国益の弟である男綱の親族5名
国益の従父弟である臣足の親族6名、
あわせて43名に賜姓がおよんでいます。
 ここからは、一族意識を持った因首氏が那珂郡に3軒、多度郡に3軒いたことが分かります。因支首氏は、金蔵寺を創建した氏族とされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。この周辺からは稲城北遺跡のように正倉を伴う郡衙に準ずる遺跡も出てきています。金蔵寺周辺から永井・稲城北にかけての那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったとされています。
 また、円珍家系図の中に記された父宅成は、善通寺を拠点とする佐伯氏から妻を娶っていたとも云われます。因首氏と佐伯氏は姻戚関係にあったようです。そのため因首氏は、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったと各町誌などには書かれています。その因首氏の実態がうかがい知れる根本史料になります。

「讃岐国司解」には改姓者の人数が、43名も記されているのに、どうして『三代実録』には9名しかいないのでしょうか。
大倉粂馬氏は、「讃岐国解文の研究」と題する論文で、この疑問について次のような解釈を示しています。
「貞観八年十月発表せられたる賜姓の人名と翌九年二月の国解人名録とが合致せざるは何故なりや」

そして、次のような答えを出しています。

太政官では、遠くさかのぼって大同二年(807)の改姓請願書を採用し、これに現在戸主である秋主、および純雄の両名を加えて賜姓を行なったものであろう。また賜姓者九名のうちの文武・陶道の両名は、貞観年間に、おそらく死亡絶家となっていたものであろう。大同年間、国益・道麻呂の時に申告したものであったので、そのまま賜姓にあずかったものと認めてよいであろう

 ここでは二つの史料の間に時間的格差ができて、その間に「死亡絶家」になった家や、新たに生まれた人物が出てきたので食い違いが生じたとします。納得の出来る説明です。
それでは、正史に記載されている賜姓記事の人数と、実際の賜姓者の数が大きく増えていることをどう考えればいいのでしょうか?
改氏姓を認可する「太政官符」には、戸主だけの人名だけした記されていなかったようです。
賜姓にあずかるすべての人々、すなわちその戸の家族全員の人名は列記されていなかったことが他の史料から分かってきました。
改姓申請の手続きは次のように行われたと研究者は考えているようです。
①多度郡の秋生がとりまとめて、一族の戸主の連名で、郡司・国司に申請した。
②申請が受理されると中央政府からの「太政官符」をうけた「民部省符」が、国府に届く
③国司は、改氏姓の認可が下ったことを、多度・那珂郡の郡司を通して、各因支首氏の戸主たちに伝達する。
④同時に、郡司は改氏姓に該当する戸口全員の人名を府中の国府に報告する。
⑤それににもとづいて国府は記録し、太政官に申告する
こう考えると『三代実録』の賜姓記事にみえる人名と、「讃岐国司解」の改姓者歴名に記載されている人名との食い違いについての疑問は解けます。
 『三代実録』の賜姓記事にあげられている那珂郡の秋主・道麿(道麻呂)・宅主の三名と、多度郡の純雄・国益・臣足・男縄・文武・陶道の六名は、それぞれの因支首一族の戸主だったのです。
「讃岐国司解」の改姓者歴名の記載にもとづいて研究者が作成した系図をもう一度見てみましょう。
円珍系図2

道麻呂(道麿)・宅主・国益・男綱(男縄)・臣足は、それぞれの親族の筆頭にあげられています。
円珍系図 那珂郡

那珂郡の秋主は、円珍の祖父道麻呂と親属関係にあり、また多度郡の純雄(純男)は、国益の孫になります。秋主や純雄(純男)が、因支首から和気公への改氏姓を請願した人物だと研究者は考えているようです。また、申請時の貞観当時の戸主であったので『三代実録』の賜姓記事には、それぞれの郡の筆頭にあげられているようです。

「讃岐国司解」は、四十三名の改氏姓者の人名を掲げたうえで、次のようなことを書き加えています。
右被民部省去貞観八年十一月四日符称。太政官去十月廿七日符称。得彼国解称。管那珂多度郡司解状称。秋主等解状称。謹案太政官去大同二年二月廿三日符称。右大臣宣。奉勅。諸氏雑姓概多錯謬。或宗異姓同。本源難弁。或嫌賤仮貴。枝派無別。此雨不正。豊称実録撰定之後何更刊改。宜下検故記。請改姓輩。限今年内任令中申畢上者。諸国承知。依宣行之者。国依符旨下知諸郡愛祖父国益。道麻呂等。検拠実録進下本系帳。丼請改姓状蜘復案旧跡。
 依太政官延暦十八年十二月十九日符旨。共伊予別公等。具注下為同宗之由抑即十九年七月十日進上之実。而報符未下。祖耶己没。秋主等幸荷継絶之恩勅。久悲素情之未允。加以因支両字。義理無憑。別公本姓亦渉忌諄当今聖明照臨。昆虫需恩。望請。幸被言上忍尾五世孫少初位上身之苗裔在此部者。皆拠元祖所封郡名。賜和気公姓。将始栄千後代者。郡司引検旧記所申有道。働請国裁者。国司覆審。所陳不虚。謹請官裁者。右大臣宣。奉勅。依請者。省宜承知。依宣行者。国宜承知。依件行之者。具録下千預二改姓・之人等爽名い言上如件。謹解。
意訳変換しておくと
右の通り民部省が貞観八年十一月四日に発行した符。太政官が十月廿七日の符。讃岐国府発行の解。管轄する那珂多度郡司の状。秋主等なの解状について。太政官大同二年二月廿三日符には、右大臣が奉勅し次のように記されている。
 さまざまな諸氏の雑姓が多く錯謬し。異姓も多く本源を判断するのは困難である。或いは、賤を嫌い貴を尊び、系譜の枝派は分別なく、不正も行われるようになった。実録撰定後に、何度も改訂を行ったが、改姓を申請する者が絶えない。そこで今回に限り、今年内に申請を行った者については受け付けることを諸国に通知した。その通知を受けて諸郡に通達したところ、祖父国益・道麻呂等が実録の本系帳に基づいて、改姓申請書を提出してきた。
 太政官延暦十八年十二月十九日符の趣旨に従って、伊予別公などと因支首氏は同宗であると、同十九年七月十日に申請してきた。しかし、これは認められなかった。
 申請した祖父が亡くなり、孫の秋主の世代になっても改姓が認められなかったことは、未だに悲しみに絶えられない。別公(和気公)の本姓を名乗ることを切に願う。「昆虫」すら天皇の「霧恩」を願っている。忍尾の五世孫の子孫たちで、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願する。
 このように申請された書状は、郡司が引検し、国司が審査し、推敲訂正し、謹んで中央に送られ、右大臣が奉勅した。ここにおいて申請書は認可され、改姓が成就することなった。
 引用された「太政官符」によると、改姓を希望する者は、大同二年内に申請するように命じられていたことが分かります。この命令が出されたのは、延暦18年(799)12月29日です。そこで本系帳を提出させることを命じてから『新撰姓氏録』として京畿内の諸氏族だけの本系帳が集成されるまでの過程で、改氏姓のために生じる混乱や、煩雑さをさけるためにとられた措置であったと研究者は考えています。
 因支首氏は、「讃岐国司解」に記されているように、延暦18年12月29日の本系帳提出の命令にしたがって、翌年の延暦19年8月10日に、本系帳を提出します。さらに大同2年2月23日の改姓に関する太政官の命令にもとづいて、秋主の祖父宅主の兄である道麻呂、および純雄(純男)の祖父である国益らが、本系帳とともに改姓申請を行います。ところが、この時の道麻呂らの改姓申請に対する認可は下りなかったようです。
そこで60年後に孫の世代になる秋主らが再度申請します。
「久悲二素情之未フ允」しみ、「昆虫」すら天皇の「霧恩」っていることを、切々と訴えます。そして「忍尾五世孫少初位上身之苗裔」で、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願したのです。
 秋主らが改氏姓の申請をしたのは、貞観七年(865)頃ころだったようです。こうして貞観八年(866)10月27日に、秋主らへの改氏姓認可が下ります。祖父世代の道麻呂らが改氏姓の申請をしてから数えると60年近い歳月が経っていたことになります。

実はこれに先駆ける4年前に、空海の一族である佐伯直氏も改姓と本貫移動をを申請しています
 その時の記録が『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。ここからは、佐伯直氏の成功を参考に、助言などを得ながら改姓申請が行われたことが考えれます。

以前にもお話ししたように、この時期は讃岐でもかつての国造の流れを汲む郡司達の改姓・本貫変更が目白押しでした。その背景としては、当時の地方貴族を取り巻く状況悪化が指摘できます。律令体制の行き詰まりが進み、郡司などの地方貴族の中間搾取マージンが先細りしていきます。代わって、あらたに新興有力層が台頭し、郡司などの徴税業務は困難になるばかりです。そういう中で、将来に不安を感じた地方貴族の中には、改姓や本貫移動によって、京に出て中央貴族に成ろうとする者が増えます。そのために経済力を高め。売官などで官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海やその弟真雅が中央で活躍したのを梃子にして、甥の佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が「貞観三年記録」です。ここにはどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
 「貞観三年記録」の前半には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。
 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1空海系図2
空海系図

 これを因支首氏と比較してすぐ気がつくのは、佐伯氏の場合には空海の世代からは、位階をみんな持っていることです。しかも地方の有力者としては、異例の五位や六位が目白押しです。加えて、空海の身内は、佐伯直氏の本家ではなく傍系です。
 一方、因支首氏には官位が記されていません。政府の正式文書に官位が記されていないと云うことは官位を記することが出来なかった、すなわち「無冠」であったことになります。無冠では、官職を得ることは出来ません。因支首氏は、郡司をだせる家柄ではなかったようです。
また、佐伯直氏の場合は、改姓と共に平安京に本貫を移すことが許されています。
つまり、晴れて中央貴族の仲間入りを果たしたことになります。それ以前から佐伯直氏一族の中には、中央官僚として活躍していたものもいたようです。この背景には「売官制度」もあったのでしょうが、それだけの経済力を佐伯直氏は併せて持っていたことがうかがえます。 
 一方、それに比べて、因支首氏の場合は和気氏への改姓許可のみで京への本貫移動については何も触れられていません。本貫が移されることはなかったようです。
 佐伯直氏と因支首氏(和気)の氏寺の比較を行っておきましょう。
  佐伯氏は白鳳時代に、南海道が伸びてくる前に仲村廃寺建立しています。そして、南海道とともに条里制が施行されると、新たな氏寺を条里制に沿った形で建立します。その大きさは条里制の四坊を合わせた境内の広さです。この規模の古代寺院は讃岐では、国分寺以外にはありません。突出した経済力を佐伯直氏が持っていたことを示します。

IMG_3923
金倉寺

  一方因支首氏の氏寺とされるのが金倉寺です。
  この寺は、円珍の祖父である和気通善が、宝亀五年(774)に、自分の居宅に開いたので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じパターンです。これは近世になってからの所説です。先ほど系図で見たように、円珍の祖父は道麻呂です。また、この寺からは古代瓦などは、見つかっていないようです。
因支首氏から和気公へ改姓申請が受理された当時の因支首一族の状況をまとめておくと
①全員が位階を持っていない。因支首氏は郡司を出していた家柄ではない。
②改姓のみで本貫は移されていない
③因支首氏は古代寺院を建立した形跡がない。
  ここからは、因支首氏が古代寺院を自力で建立できるまでの一族ではなかったこと、旧国造や郡司の家柄でもなかったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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「大師は弘法に奪われ」ということわざがあるそうです。
弘法大師のほかにも、大師号を賜った高僧は、最澄をはじめ数多くいます。しかし、空海一人の代名詞のようになってしまったという嘆きの意味が込められているようです。さて、讃岐の地からは、もう一人の大師が生まれています。智証大師円珍です。
円珍、その人の生涯を見ておきましょう。

智証大師像 圓城寺
国宝 智証大師像 圓城寺

円珍は、弘仁五年(814)、今から約1210年前に、讃岐国那珂郡(善通寺市金蔵寺町)に生まれています。生誕地は現在の76番札所の金倉寺。俗名は広雄。父は和気宅成、母は佐伯直氏で空海の姪と伝えられているようです。空海の「ご近所」で、円珍の和気氏と空海の佐伯直氏は親戚同士の間柄とされます。彼の家系図は、以前に紹介したように「日本で一番古い系図」として国宝にもなっています。
広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
四国霊場 金蔵寺 

 天長5年(828)、15歳の時に、叔父の僧仁徳に連れられ比叡山に登り、最澄の門弟で初代天台座主の義真に師事します。
 まず私が疑問に思うのは、どうして空海を頼らなかったのかということです。この時期に、空海に連なる佐伯家出身の僧侶が東寺の責任者などとして、栄達の道を歩んでいます。また、30際近く年の離れた空海の弟真雅も、空海の元で修行中です。和気氏と佐伯氏が婚姻関係にあったというなら、その関係を頼らないというのは不自然な感じがします。活用できない理由があったとも考えたくなります。「母は佐伯直氏で空海の姪」という関係は、どうも疑わしい気がします。空海が入党するのが804年、高野山で没するのが835年です。

天長十年(833)に得度し、十二年間の籠山に入ります。
仁寿三年(853)39歳で入唐し、天台・法華・華厳・密など中国最新の仏教諸宗を学び、天安二年(858)に帰国します。この時、円珍がもたらした千巻にも及ぶ典籍・経典は、空海が伝えた真言密教に匹敵するもので天台密教の基礎となります。これを背景に、天台密教の拠点として近江の圓城寺を再興します。
 さて空海の成功から以後の留学僧が学んだことは、出来るだけ多くの経典等を持ち帰ることです。何を中国から持ち帰ったのか、何を身につけて持ち帰ったのかが問われることにに成ります。それは、中世の禅宗僧侶にも共通することです。もっと枠を拡大すれば、明治の洋行知識人も同じ立場だったのかもしれません。日本人は、大陸からもたらされるの「新物」に弱いのです。変革には「新物」が必要なのです。
 その際に、必要になるのは経済力です。官費だけでは足りるものではありません。空海の場合も、持ち帰った経典類や仏具類などをどのように集めたのか、その資金はどこから出たのかがもっと探求されるべきだと思うのですが、そこに触れる研究者はあまりいないようです。円珍の場合は、どうだったのでしょうか。実家である和気氏に、それだけの経済力があったのでしょうか。

貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)、「智証大師」の号を得ています。

 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったといいますが、これは後に円珍の法灯を継ぐ天台寺門派が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。しかし、ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者からも円珍が「始祖」として、信仰対象になっていたことがうかがえます。

円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったようです。
 にもかかわらず円珍の影響を受けたとする四国霊場札所があるようです。円珍と、どのような関係があるのというのでしょうか
  県内札所のなかで天台宗、または円珍(天台寺門派)の痕跡が残るお寺を見てみましょう。
まず大興寺(六十七番札所)から始めます
この寺は小松尾寺とも呼ばれ、四国偏礼霊場記に「台密二教講学の練衆」と記されています。古くから真言と天台の兼学の場で、江戸時代にも真言二十四坊、天台十二坊があったと伝えられています。寺に伝わるものとして、建治二年(1276)の墨書銘をもつ天台大師坐像(香川県指定有形文化財)があります。寺伝では、弘法大師と熊野信仰を結び付けていますが、ここには熊野信仰と天台寺門派とのかかわりもあったことがうかがえます。次の札所になる観音寺(六十九番札所)にも天台大師像(画幅)があります。大興寺と観音寺の三豊エリアの札所には、円珍に関わる信仰があったことがうかがえます。
 
次に丸亀平野へ進みます。金倉川下流域は、円珍の出身である和気氏の勢力範囲だったと云われます。
金倉寺は和気氏の居館の後に建立されたとされます。
これも、善通寺誕生院の空海生誕とよく似た伝承です。金倉寺は、和気氏の氏寺として出発しますが中世には、宇多津や堀江などの港町の町衆の信仰を集める寺院に成長します。そして、仏教の教学センターとしての機能を、近隣の道隆寺と共に果たすまでに成長します。その大師堂には、中世まで遡るといわれる智証大師の木像が正面に安置されています。
 また、下の鎌倉時代作の智証大師像(重要文化財)も伝わります。
智証大師 金倉寺

この像を見ると圓城寺の国宝の智証大師像を写したかのように見えます。円珍のトレードマークである「卵頭」が忠実に真似られています。智証大師像は、みなよく似ています。逆に言うと「参考例」を模写したことになります。
金蔵寺には、高松藩の絵師、鶴洲の描いた模写や狩野愛信(狩野永叔の門弟)という絵師の描いた模写も残されています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
江戸寺時代に模写された智証大師画
まさに、中世の肖像を模写した物です。その上に、高松藩主や京都聖護院門跡から贈られた智証大師の画幅なども伝わります。どうして  江戸時代になって、円珍の絵が何度も模写されたり、藩主などから贈られたのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?それは、また後に考えるとして先に進みます。

五色台の山岳寺院である白峯寺(八十一番札所)の「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場しますこの縁起には、次のように記されます。
貞観二年(八六〇)円珍が山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられます。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺のことか)、白峯寺の四ヶ寺に納めた、
 ここからは縁起が作られた時には、白峰寺や根来寺は円珍が創建したとされていたことが分かります。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたようです。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていることが分かっています。他にも、天台大師像、智証大師像、山王曼荼羅図が伝えられます。
 白峰寺と同じ五色台にある根香寺(八十二番札所)には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。

智弁大師(円珍) 根来寺
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、大興寺と同じように真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。白峰寺と根来寺は共通点があるようです。
八十七番札所の長尾寺は、天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。

 このように讃岐の四国霊場を見てくると、五色台や雲辺寺周辺の山岳寺院に古くから智証大師円珍や天台系の影響が見られるようです。山岳寺院=修験道=真言密教と直ぐに考えがちですが、江戸時代には、天台宗の聖護院(本山派)に属する修験者の方が圧倒的に多かったようです。円珍信仰・伝説の背後には、本山派修験者たちの活動が透けて見えてきます。
江戸時代に作られた円珍の像画は、誰が作成したのでしょうか。
それは、高松藩主として水戸からやって来た松平頼重の宗教政策の一環として作られたようです。頼重は、金倉寺、根香寺、長尾寺を真言宗から天台宗へ改宗させます。その際に、あらたな信仰対象として円珍像が作られたり、絵が模写されたようです。松平頼重は国内統治政策の一環として、次のような宗教政策を行っています。
①姻戚関係にある浄土真宗本願寺・興正寺派の保護
②金毘羅大権現の保護と全国への広報戦略
③高松城下町の氏神様としての岩瀬尾八幡の整備・保護
④菩提寺としての仏生山の整備・保護
同時に、屋島合戦の故地や崇徳上皇の旧跡地など、讃岐国の歴史的な場所や歴史上重要な人物について、顕彰し崇敬につとめています。こうした動きのなかで、頼重は、讃岐出身のもう一人の大師、智証大師円珍を「発見」したのではないでしょうか。それは、徳川宗家と天台僧天海との関係、また和歌を通じて頼重と交友関係にあった聖護院門跡の道晃法親王(後水尾天皇の弟)との関わりもあったのかもしれません。彼らとの交流の中で、円珍のことを知り、「讃岐が生んだもう一人の大師」として、再評価していく意味と必要性を感じるようになったのかもしれません。そして、その拠点に選ばれたのが金蔵寺と根来寺と長尾寺なのでしょう。そのために信仰対象として、像や画などが贈られたと研究者は考えているようです。
 頼重は晩年の隠居屋敷の中にお堂を建立し、根来寺から移した不動明王と四天王を安置し、プライベートな祈りの場所にしていたことは、以前にお話ししました。また、彼の宗教ブレーンには密教系修験僧侶の存在があったようです。
 そのような中で、円珍の「出会い・再発見」が、その信仰拠点を整備するという考えになったようです。どちらにしても、思いつきや一族だけの安泰を図るのでなく、広い支配戦略の上で、継続に行っていることに改めて気付かされます。
参考文献 渋谷啓一 もう一人の大師 智証大師円珍 空海の足音所収

 根香寺の縁起について、霊場会のHPには次のように紹介されています。

 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとします。その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。
 その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市(一)之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。
すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという

ここには
①空海が修行の地として花蔵院を建立し、
②その後に円珍によって観音霊場として千手院が建立され、
③この両者を併せて根来寺と呼ばれるようになった
と云います。ここには「空海創建=円珍中興説」が記されています。ところが江戸時代後期に、当時の住職によって書かれた「青峰山根香寺略縁起」には、次のように書かれています。
当山は西は松山に続き、北は海門に望み香川阿野両郡の分域なり、閻閻東南に折乾坤日夜に浮ふの絶境なるを以、吾租智澄大師はしめて結界したまひ、七體千手の中千眼千手の聖像を以安置したまひ、更に山内鎮護のため不動明王を彫剋して安置す、
ここには空海は、登場しません。円珍が開祖で不動明王を作って安置したとされ「円珍単独創建説」記されています。つまり江戸時代に根香寺は「空海創建=円珍中興説」から「円珍単独創建説」に立場を変えたようです。そこにはなにがあったのでしょうか。歴史的に見ていくことにします。

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 智証大師座像(根来寺蔵) 頭は、円珍のトレードマークの卵形

この寺の歴史は、資料的にどのくらいまでさかのぼれるの?
根香寺 智証大師底書

「智証大師像」の底の銘に鎌倉時代の年号が見えます 
    讃州 根香寺
   奉造之 智澄大師御影一林
   大願主 阿闇梨道忍
   佛 師 上野法橋政覚
   彩 色 大輔法橋隆心
   元徳三年 八月十八日
「根香寺」の名を記録上確認できるのは、この智証大師像の像底銘にある元徳三年(1233)が最も古いようです。ここには
①阿闇梨道忍が当寺へ奉献したこと、
②制作仏師は上野法橋政覚、
③彩色は大輔法橋隆心
であることが記されています。円珍を開基とするこの寺の立場が、鎌倉時代まで遡って確認できる史料となります。
②次に古い文書は、根香寺に両界曼荼羅が奉納された時の願文(「束草集」所収)で、正平十二年(1357)です。
③そして、応永十九年(1411)に京都北野経王堂で行われた一切経写経事業に根香寺住侶長宗が参加している記録です。
これらの資料から根香寺は、少なくとも鎌倉時代末期頃までには一定の活動を行う寺として成立していたことが分かります。
 寺の規模は、九十九院の子院を従え、寺領平石千貫を有したと由緒書は記します。江戸期の地誌によれば香西等に名残を示す地名があったらしく、かなりの規模を有した寺院であったと考えられます。
この寺を考える上で手がかりになるのが「根香寺古図」です。

根香寺古図左 地名入り
根香寺古図
この絵図は根来寺縁起を絵図化して描いたもので、江戸時代末の作とされています。ここに描かれている物語を、絵解きしていきましょう。物語のスタートは①一ノ瀬神社から始まります。讃岐の山岳信仰の聖地巡礼中の円珍(智証大師)の登場です。

根香寺古図左 一ノ瀬神社
根香寺古図拡大 市之瀬明神と円珍との出会い
①「右下 対面する二人」は、青峯山の鎮守である市之瀬明神の赤い鳥居の前にやって来た智証大師は老翁に出会います。老翁は市瀬(一ノ瀬)明神の化身している姿です。円珍は、老翁に導かれて蓮華谷の山上に向かいます。

根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図 根香寺本堂部分

②二人は「左上 枯れ木」に移動します。
ここには枯木を囲んで立つ二人と、本堂の前に立つ二人の姿が描かれます。ここにあった枯木は、不思議な光と香気を放つ霊木でした。老翁は、この霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう円珍に告げます。円珍は、その教え通りに千手観音像を彫り本尊とし、ここに「千手院」を建てて安置します。
   ここからは山岳仏教の行場として開かれる以前に、地元の神が存在したことが分かります。そして、その神が仏教寺院建立に協力したことが語られるのです。
③「本堂の下方に束帯姿の人物」は、平安の時代に菅原道真が遊覧したという景勝地、天神馬場を書き込んだものとされます。絵図ですから、時空を超えていろいろな「人と物」が書き込まれます。

根香寺古図 滝と行者

ここで研究者が注目するのは、「滝と行者」です。
根香寺からは架空の大きな滝が流れ落ちています。その滝の横を行者道が続きます。その道を大きな荷物を背負った修験者が上っていきます。
ここからは根香寺と修験道の関わりが見えてきます。この絵が書かれた江戸末期は、根香寺は醍醐寺と共に修験道の拠点である聖護院門跡の末寺でした。滝や行者の姿が描き込まれているのは、山岳信仰、修験道の行場としての根香寺の姿を示していると研究者は考えています。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図 右側 ふたつの塩田が見える

生島湾には塩田が描かれています。

享保年間に作られた旧塩屋塩田と、天明八年に開かれた生島塩田です。この寺の創建時にはなかった江戸時代の景観です。さらにこの絵図には月や雪山、雁など濠湘八景を思わせる物が描き込まれています。この地域の地誌「香西雑記」(寛政八年)は、この地の美を八景になぞらえて愛でています。それがこの絵の中に描かれている可能性もあると専門家は指摘します。
 以上見てきたように、江戸後期に寺の縁起を説明するために書かれた絵図には、いろいろなものが描き込まれています。その中で、当時のこの寺の指導者たちは、自分たちのルーツが「修験道」にあることを意識していたと思えます。 

寺に残る仏像や画から推察できることは?

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不動明王二童子

この寺の絵画作品のうち、制作年代が中世のものと考えられのは、七件あるようです。そのうち3点までが不動明王です。これもこの寺の性格を表しています。不動明王は修験者の守護神で、肌身離さず修験者が身につけていた明王です。
 室町時代の「不動明王像」は、滋賀・園城寺(三井寺)にある墨画の「不動明王像」(重要文化財)に様式が似ており、同寺の長吏を務めた行尊の筆と伝えられるなど三井寺とこの寺とのつながりをうかがわせるものです。天保四年(1833)の記録には、根香寺が天台宗三井寺派であったことが記されています。

以上から根来寺は、辺路修行の行場から発展したことが窺えます。
そして、宇多津・坂出の海岸線の行場である城山や聖通寺、沙弥島、本島が真言山岳密教の拠点醍醐寺の開祖である理源大師の伝説に彩られているのに対して、この青峯周辺は天台宗三井寺の智証大師の伝説によって彩られているように私には思えます。

根香寺の不動明王二童子について

剣と索絹を持って岩座に立つ不動明王の両脇に、金剛棒を持つ制旺迦と、衿掲羅の二童子が描かれています。痛みがひどくよく分かりませんが、不動明王は天地眼に左上と右下の牙を出しているようです。頭のてっぺんに蓮華を載せて、髪はカールして左肩に辨髪をたらしています。衣は鳳凰や雲などの文様が描かれています。
二童子の制旺迦は、朱の濃淡をつけながら体が塗られています。、目や口は墨で、力強いく描かれています。それに対して衿翔羅は、体が白色で塗られ、墨の細筆で目鼻や髪を繊細に描かれています。下の方には波らしきものわずかに見え、三尊が海上の岩座に立っていることが分かります。根香寺にもう一幅伝わる「不動明王二童子像」と同箱に収められていて、箱書にある「智証大師筆」の画像が本図にあたるとされています。

参考文献 

      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師(円珍)坐像 根来寺
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。系図を見る前に、次の事を押さえておきます。

 伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつの部分に分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり、これは①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。研究者は、接ぎ木された部分(人物)を「継いだ」と云うようです。この継がれた人物を見分けるのが、系図を見る場合のポイントになります。

さて、この系図からは何が分かるのでしょうか?

円珍系図5

まず①の伝説部分からみていきます。この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことを記します。
それでは一族の始祖になる武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?
 武国凝別命は豊前の宇佐国造の一族の先祖で、応神天皇や息長君の先祖にあたる人物になるようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。 
この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか
 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって因支首氏は和気氏に連なろうと試みたようです。その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 改姓申請で稻木氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

 円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀が経っています。
  智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵 江戸時代の模写)

円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。
   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。
この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


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金倉寺
金蔵寺の本尊は薬師如来です。
古代寺院の本尊は、薬師如来が非常に多いようです。八十八か所のうちで、海岸のお寺約三十か所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を肋けてくれる神かやってくるという信仰があったからです。ここには熊野信仰との神仏混淆が背景にあるようです。薬師如来と熊野行者の活動は重なり合う部分が多いようです。熊野行者が背負ってきた薬師如来がそのまま本尊になっていることが多いようです。金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
ご詠歌は
「まことにもしんぶつそう(神仏僧)を開くれば 真言加持の不思議なりけり」
でなんだかよくわからない御詠歌です。「しんぶつそう」は神仏憎という字を当てるほかないようです。

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金倉寺境内
 金倉寺に行って、南の門から入ると広揚があります。
左に八幡さん、右に弁天さんがあって、突き当たりが薬師さんをまつっている本堂です。それに対して、向かって右に常行堂の庫裡(納経所)、左に鬼子母神堂と大師堂があります。善通寺あるいは善光寺に同じく東向きに大師堂があって、十字に交差する伽藍配置です。

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太子堂

大師堂には、弘法大師像と智証大師像を安置しています。

金倉寺は、弘法大師のお姉さんが嫁いだ和気氏(因支首氏)の氏寺だということになっています。
善通寺の空海の佐伯家と、金蔵寺の和気家は近隣の豪族同士、婚姻関係で結ばれていたことになります。また、境内には隣接し新羅神社も鎮座し、渡来系の性格がうかがえます。

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新羅神社
そこに生まれたのが智証大師円珍ですから、智証大師は弘法大師の甥ということになります。しかし、智証大師が開いた天台宗寺門派では、弘法大師の甥とはいっていません。そのあたりに天台宗のこだわりがありそうです。

 金倉寺には「金蔵寺文書」が残っています。
 この文書は中世文書だけでも約百通あります。これも『香川叢書』に入っていますが、「金蔵寺縁起条書案」という金倉寺の縁起を箇条書きにした下書きが残っていました。それによると8世紀に金輪如意を彫刻して道場を建て、自在王堂と称しました。その大願主は景行天皇十三代の子孫の道善という人で、智証大師の祖父になります。そのため、最初は金倉寺とは呼ばずに道善寺と呼んだというのです。しかし、当時の正式文書からは円珍の祖父は、道麻呂であったことが分かります。

円珍系図1

智証大師(円珍)と天台宗の関係は?

 伝教大師のお弟子さんの義真は渡来人で、伝教大師が入唐したときに通訳をした人です。この人が比叡山の第一代目の座主になります。智証大師はそこへ入って出家して円珍と称します。
 そのうち846年に入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、858年に帰朝します。そして、和気宅成の奏上によって、仁方元年に和気道善が建てた自在王堂の敷地三十二町歩を賜って、859年に道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。これは中世の文書ですから、確実性が高いと考えられます。
 智証大師は寛平三年(894)に79歳で入寂しました。
 
智証大師像 圓城寺

円珍坐像 卵型の頭がトレードマーク

実は「金蔵寺文書」は金倉寺にはありません。

どういう経過をたどったかわかりませんが、高野山の金剛三昧院に所蔵されています。そのほか、応水入年(1402)に薬師如来の開帳が行われたということも出てきます。この時の開帳のときに、本尊さんから胎内仏が出たようです。
「金蔵寺衆徒某目安案」によると、鎌倉時代末期の徳治三年(1308)3月1日の火災で、金堂、新御影堂、講堂以下が焼けています。したがって、金堂の薬師如来が出現したと書いてあるのは、本尊が焼けてしまって、胎内から腹頷りの金銅の薬師如来が現れたことをいっているのでしょう。

 善通寺の本尊も薬師如来です。

善通寺の現在の本尊は室町時代の作ですが、創建時の薬師如来は白鳳期の塑像です。泥で造った薬師如来ですから、首が落ちてしまって、白鳳期の特徴をもった塑像の上面だけが残りました。かなり大きなものです。白鳳期のものは塑像が多くて、大和の当麻寺の金堂の本尊の弥勒如来もご面相が非常によく似た白鳳期の塑像です。

 薬師といっても、弥勒と同じようなお顔をしています。
塑像の白鳳期仏はほかにもたくさんあります。観音さんだといわれている大和の岡寺の本尊さんも塑像です。その胎内に、今は奈良博物館に陳列されている白鳳期の作品として、いちばん愛らしい仏様が入っていました。焼けたりして塑像が崩れると、その中から金銅製の飛鳥仏や白鳳期仏が出てくることがあります。「金蔵寺文書」の記録も、それを指しているのだと考えられます。

 応永十七年の「金蔵寺評定衆連署起請文」では、師衆、親子、兄弟の偏頗を禁じています。えこひいきをしてぱならないといっているので、弘法大師の肉親が高野山で寺務別当として経済的な事柄を扱ったのと同じように、肉親による寺務が行われたことが想像されます。
 智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写

円珍坐像(江戸時代の模写)
起請文の中で、神様に熊野三所権現と若王子があることも注意すべきものです。

評定衆は十か院坊にわたっているので、三十か寺か五十か寺かわかりませんが、かなり多くの院坊を擁していたことが考えられます。
 先達、御子(巫)、承仕、番匠、加行法師、寺宗門徒など、お寺の使役者が挙がっているので、山伏や童子か隷属していたこともわかります。
 享禄三年(1530)前後の「綸旨案」では、金倉上下庄が国威寺領であったことが分かります。
京都の国威寺の荘園として讃岐に金倉寺があって、円満院門跡の支配を受けていました。さらに、同じ天台宗の三十三所の一つの長命寺と関係があったことも出ています。
円珍系図1

円珍系図 (俗名広雄 父は宅成 祖父は道麻呂)
 
智証大師の祖父は和気道麻呂(通善)について
 宝亀五年(774)に、この寺を開いたのは智証大師の祖父和気通善なので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じことです。しかし、通善は道善の誤りでしよう。
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金倉寺前の道しるべ

 醍醐天皇が金倉寺と改め、南北ハ町・東西目町の境内に百三十二坊あったという伝承もありますか、これではあまりにも大きすぎるような気もします。のちに南北朝、永正、天文の争乱で縮小・衰退していたのを保護したのが高松藩主の松平頼重です。
金蔵寺
金倉寺
 金倉寺の大師堂の前のところに、平安時代末期から鎌倉時代初期ぐらいの多宝塔が残っています。
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