瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:円福寺

   
近世半ばまでの阿波の修験者たちは、高越山を中心に動いていたことを前回は見ました。そのような中で近世半ばになると剣山が開山されます。剣山は高越山に比べて高く、広く、地形も複雑で、行場となるべき所が数多くある修行ゲレンデです。修験道場としては、最適で多くの山伏を一時に多く受け入れることができました。人気の修行地となった剣山は急速に発展して、先進の高越山をしのぐようになります。こうして近世の阿波の山伏修験道は高越山・剣山の二大修験センターを道場として、阿波だけでなく、四国・淡路・備前など近国に剣山講・高越講を組織して発展することになります。今回は剣山開山を進めた木屋平の龍光寺と、祖谷の円福寺について、今まで紹介できなかったことを見ていくことにします。

徳島の研究6
テキストは「  阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P」です。

剣山は、古くから開山された山ではないようです。18世紀によって修験者が活動を始めた山で、剣山と呼ばれるようになったのも開山後のことです。それまでは「太郎笈」「立石山」「篠山」と地元では呼ばれていたようです。それが修験者によって開山されると、それらしき山名の「剣」と呼ばれるようになったことは以前にお話ししました。
 剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
①東側の木屋平村の龍光寺が、富士の池に
②西側の祖谷村菅生の円福寺が見ノ(蓑)越に
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平村の長福院龍光寺

まず龍光寺について見ていくことにします。『阿波志』に次のように記します。
「(木屋)平村谷口名に在り、平安大覚寺に隷す。旧長福寺と称す。大永二年(532)重造する。享保二年(1717) 今の名に改む。其の甚だしくは遠からざるを以って、剣祠を祀る」

意訳変換しておくと

「龍光寺は木屋平村の谷口名にある寺で、京都の大覚寺に属す。旧名は長福寺で、大永二年(532)の建立である。それが享保二年(1717)に、今の名に改められた。この寺では、それほど古くからではないが剣(神社)祠を祀る別当職を務めている。」

龍光寺は、享保二年(1717)までは長福寺と呼ばれていました。
 長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つとされます。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
   龍光寺への寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクします。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」や「篠山」は、どこにでもある平凡な山名です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は軌道に乗ります。
ところが後世の『阿波名勝案内』には、次のように記します。
「弘仁五年(八一四)弘法大師の開基にかかり、利剣山長福寺と号す。伝え言ふ安徳天皇の蒙塵に当り、当寺に行在所を設け以って安全を祈り、平国盛一族中剃染して竜光房と名づけ、寺号をも龍光寺と改む。剣権現の本寺。」
意訳変換しておくと
「弘仁五年(814)に弘法大師が開基し、利剣山長福寺と号する。伝え聞くところに拠ると源平合戦で安徳天皇が当地に落ちのびてきた際には、当寺に行在所を設けた。その際に、平国盛は天皇の安全を祈って、一族が剃髪して竜光房と名乗り、寺号を龍光寺と改めた。剣山権現社(神社)の本寺(別当寺)である。」
 
ここでは平国盛の「平家落人伝説」が付け加えられています。そして、安徳天皇伝説ともリンクさせます。こういう手法は、修験者や山伏の特異とする所です。ここでは、次のような伝説が付け加えられています。
①空海開基で、長福寺と号した。
②平家伝説を取り込み、平国盛が剃髪して竜光房と名乗ったので、寺号も龍光寺と改めたこと。
結果的に、龍光寺への寺名変更が、鎌倉時代まで引き下げられます。
木屋平 富士の池両剣神社
富士の池周辺
  江戸時代の龍光寺の「剣山開発プロジェクト」の目玉として取り組んだのが、富士(藤)の池周辺の施設整備です。

剣山 龍光寺は、弘法大師により密教が開祖された四国八十八カ所の総奥の院

龍光寺は、剣山頂上の法蔵岩直下の剣神社の管理権を持っていました。その北側斜面の石灰岩の岩穴や岩稜が修行場でした。その剣修行のベースキャンプとして建設されたのが八合目の藤の池の「富士(藤)の池本坊」です。ここが山頂の剱祠の祀る剱山本宮になります。こうして多くの参拝信者を集めるようになり、龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
木屋平 宗教的概観
文化9年の木屋平村の権現
龍光寺が別当寺であった剣神社(剣山本宮)を見ておきましょう。
 その「由緒」には、次のように記します。(要約)
「元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人である田口左衛門尉成直は、父の阿波国主紀民部成長と相談して、安徳天皇一行を長門の壇浦より、伊予大三島へ落ちのびさせて、その後伊予と阿波の山路を伝って祖谷山に導き入れた。その後、木屋平村に遷幸したと伝える。
 後世になって、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫は相談して、富士の池を仮の行在所とした。また平家の再興を祈って、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以後はこの山を剣山と称するようになった。
 (中略)仏教の伝来とともに修験道の霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。」
ここに書かれていることを要約すると
①安徳天皇一行は、壇ノ浦から大三島を経て祖谷に落ちのびてきて、最後に木屋平村に遷幸した。
②平家の子孫は、平家の再興を祈って富士(藤)の池を仮の行在所とし、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。
③龍光寺の開祖は行基である。

もともと平家落人伝説と安徳天皇伝説は、祖谷地方に伝えられたものです。それを「安徳天皇が木屋平村に遷幸」として、伝説の本家取りをしています。先ほど見たように、龍光寺が剣山を開山し、権現さまを奉ったのは18世紀になってからです。また富士の池を開発したのは、さらに後のことになります。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年木屋平村の宗教景観
徳島氏方面の平野部から剣山に登るには、木屋平を目指しました。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

昔はもっとあったとようです。西側の拠点円福寺翼下一万人といわれる先達よりもはるかに多くの修験者を、龍光寺は支配下に持っていたことを押さえておきます。

円福寺 祖谷山菅生
円福寺(東祖谷山村菅生)
剣山修験の西の拠点は、東祖谷山村菅生の円福寺でした。
円福寺は菅生氏の氏寺で、この寺も「忌部十八坊」の一つとされます。現在本尊とするのは江戸時代の作といわれる不動明王(剣山大権現)です。しかし、「阿波誌」に「元禄中(1688~1703)繹元梁、重造阿弥陀像を安ず」とあります。ここからは、もともとは本尊は阿弥陀如来であったことが分かります。それがどこかの時点で、修験者の守り仏ともされる不動明王に入れ替えられたようです。それは、この寺に住持した修験者が行ったことと私は考えています。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
円福寺のもともとの本尊 阿弥陀如来像

 木屋平の龍光寺が富士の池に登攀センターを建設したように、円福寺も見ノ(蓑)越に、不動堂を建立します。

剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺
これが現在の「見ノ越の円福寺」のスタートになります。本尊は安徳天皇像を剣山大権現として祀り、両側に弘法大師像と供利迦羅明王像を配します。見ノ越の円福寺は、もともとは菅生の円福寺の不動堂として建立されました。ところが貞光側からの、見ノ越への登山道が整備されると、先達に引き連れられた信者達は、このルートを使って見ノ越の円福寺にやって来るようになります。それまで祖谷経由のルートは、距離が長いので利用者が少なくなります。その結果、参拝者が立ち寄らなくなった本家の菅生・円福寺は衰退していきます。こうして、現在では円福寺と云えば見ノ越の寺を指すようになったようです。
 神仏混淆化で円福寺が別当として管理していたのが剣神社(旧剣権現)です。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。

「口碑に仁和時代へ九世紀末)」の創立。祖谷山開拓の際に、大山祗命を勧進して祖谷山の総鎮守とする。寿永年中(1185)、源平合戦に敗れた平家の一族が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の『深そぎの御毛』と『紅剣』を大山祗命の御社に奉納。以来剣山と呼ばれ、神社も剣神社と称されるようになった。」

現在のHPには、別当寺の西福寺の管理下にあったことは一言も触れられていません。もともとは円福寺の社僧が管理する剣権現だったことを押さえておきます。剣神社の先達(出験者)たちも信者を連れて剣山北面の「鎖の行場」「不動の岩屋」「鶴の舞」「千筋の手水鉢」「引日舞」「蟻の塔渡り」などの行場で修業します。ちなみに剣神社の本社が、御塔石(おとうせき)を御神体とする大剣神社(おおつるぎじんじゃ)になるようです。
伴信友の『残桜記』には、大剣神社のことが次のように記されています。(意訳)

東祖谷山村と菅生の境界になる剣山頂上に鎮座する剣神社のある所は、木屋平村のものとも、また東祖谷山村のものとも云われ諍いが起きる原因となっていた。そこで明治初年頃に、美馬麻植郡の神職が剣神社の祭典に出社した際に、拝殿の中央に線を引き、これを境界とした。そして線の内側にあったものを、それぞれの村が収入した。その後、明治九年に郡界標石が建設され、以来今まで木屋平村のものとされていた山上の剣神社は祖谷山村に属することになった。

ここからは、拝殿の中央に線を引いて境界として、両者が共同管理していた時期があったことが分かります。これを剣神社をめぐる祖谷の円福寺と木屋平の龍光寺の対立とみることも出来ます。しかし、研究者は次のような別の視点を教えてくれます。

 当山派・本山派共に大峰山を聖地として共有している。金峰山は金剛界を、熊野三山は胎蔵界を現わし、その中心である大峰山はこの二つを統一する一乗両部の峰であり、画部不二の曼陀羅の霊地である。そこで両派とも大峰山に結縁することを本願とする。こうした両派の発想と剣山頂上を聖地として共有しようとする阿波修験道の意図と等しい。

龍光寺と円福寺は競い合い、対立を含みながらも、剣山を聖地とする修験者の行場をともに運営していたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P
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            東祖谷の峠一覧
旧東祖谷村の峠一覧
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」 阿波学会紀要 第53号より引用
前回は中世の祖谷地方の峠と交通路を、次のようにまとめました。
①南北朝時代には祖谷地方の峠を越えてつながる山岳道が割拠する「山岳武士」たちを結んでいたこと、
②そして、南朝吉野側の情報・指令を伝えたのが熊野行者に代表される修験者や聖達であったこと
③このような山岳道と道路・通信網があったからこそ、紀伊・阿波・伊予の南朝方は半世紀にわたる抵抗活動がおこなえたこと
こうして、中世の峠や交通路は近世にも引き継がれて行くことになります。今回は近世の祖谷の峠と交通路を最初に見ていきたいと思います。そして、それが近代に道路整備が行われることによって、どう変化したかを押さえたいと思います。テキストは「福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷」です。

東祖谷の峠とお堂2

 私には祖谷地方は、剣山西北方面の山脈に囲まれたすりばちのように見えます。ここに入っていくには、どこかで摺鉢のふちを越えるために峠を越えなければなりません。祖谷地方に入るための峠を見ておきましょう。まずは落合峠からです。

2018.8.14 落合峠から落禿と前烏帽子 * 徳島県三好市東祖谷 - Do you climb?
落 合 峠(1520m) 
   三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合
安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。

 「加茂山三庄と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。

  昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っています。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換したようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
  阿波西部の三好郡は、古くから讃岐から運び込まれる塩を使っていました。
塩の踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。ここでは、讃岐の塩の道を次のように。押さえておきます。

丸亀・坂出の塩田 → 塩入(まんのう町) → 東山峠・ → 昼間 → 貞光・辻の塩問屋史→ 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム尻) → 落合峠 → 名頃

   落合峠地蔵
落合峠の地蔵尊(大歩危橋東詰めの墓地に移転
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰  阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7は、落合峠の石造物のことについて次のように記します。

深渕,桟敷峠を経て加茂に通じる落合峠は,落合集落から峠までの道に,地蔵尊4基,大師像と不動明王各1基の石造物があった。現在3基の地蔵尊が残っているが,大歩危橋東詰めの墓地に移転された「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊(図2)は,「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれている。これは道標を兼ねたもので,200年前は落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことを示す貴重な資料である。峠道は県道開通によって廃道となり,石造物も半数が移転された。

  ここでは落合峠が「里谷峠」と呼ばれていて、祖谷への「塩の道」であったことを押さえておきます。

風呂塔-石堂山 稜線歩き
風呂塔から石堂山は、修験者の行道でもあった
私が気になるのは、桟敷峠から落合峠に至るルートの東の山々です
ここには修験者の霊山とされた石堂山があります。そして、多くの信者達が「聖地巡礼」をおこなっていた山であることは、以前にお話ししました。落合峠越えのルートは、修験者が行道に使っていた「風呂塔~石堂山」の行道ルートと併行して伸びています。この両者は、何らかの関係があったのではないかと思えてきます。熊野行者が熊野参拝のために、山岳連絡道を大切に守ってきたことは知られています。そして修験者たちも祖谷と周辺をつなぐ峠道を管理・保護する役割を果たしていたのではないかという「仮説」が湧いてきます。

次に井川町からの水口峠です。
水の口峠地図
井川から水の口峠へのルート
桟敷峠の西の「水ノロ峠」は、西祖谷の「小祖谷」の人々が利用した道筋でした。
辻 → 井内 → 地福寺 → 水ノ口峠(1116m) → 小祖谷 → 寒峰峠 → 東祖谷大枝

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍を負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

  小祖谷というのは、聞き慣れない地名ですが、松尾ダムの下流になるエリアです。小祖谷に運び込まれた塩は、ここで仕分けされて祖谷各地に運ばれました。「東祖谷にいも1升と弁当で、煙草をと取りに行った(輸送した)」と話していますので、小祖谷は物資の集積拠点の機能を果たしていたことが分かります。

四国百名山 阿波の石堂山に山伏たちの痕跡を探す : 瀬戸の島から
地福寺

 井内の地福寺から水の口峠には2つの道がありました。
一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていくルートです。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、このルートを通じて交流があったようです。
 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、讃岐からの米や塩が運び込まれたり、祖谷の煙草の搬出路として重要な道で、多くの人々が行き来したようです。この峠のすぐ下には豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)までは、凍り豆腐の製造場があったようで、知行の老人は次のように懐古しています。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」

水の口峠 新聞記事jpg


 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。

寒峰峠.2JPG
寒峰峠から大枝・奥の井へ(「阿波の峠歩きより」)
水の口峠からは、寒峰(かんぽう)峠を経て東祖谷の大枝への道もありました。 
平国盛の後裔と云う阿佐名の阿佐家系図には、元暦2年に讃岐屋島の壇ノ浦の闘いで敗れた後に、次のように記します。

「井川の庄から水ノロ峠を城え寒峰の嶮を打越えて大枝の窟で越年した」

ここからは、「井川 → 水ノ口峠 → 寒峰(かんぽう) → 大枝」というルートが古くから使われていたことがうかがえます。

     寒峰峠(1495m)は、寒峰の南西約400mにある峠です。
『峠の石造民俗』には、昔は大師堂が建っていたとありますが、今はありません。草付きの広場と囲炉裏の石組二基が残っているだけです。水の口峠とこの峠が井川町の辻と東祖谷山村の大枝を結んでいました。そして、栃ノ瀬を経て土佐へと抜ける交通路でした。
大師堂にあった手水鉢が、お堂を管理していた奥の井の谷家に残っています。楕円の青石製で、正面に「奉水」と刻まれ、辻や大枝の地名が刻まれているので、この街道の出発地と終点の有力者達が寄進したものでしょう。険しい峠道を往来した人々が、手水鉢で手を浄め、旅の無事を析っていた姿が見えて来ます。

まーくつうの登山アルバム 寒峰 登山
福寿草の里 寒峰
 峠から寒峰頂上へは、わずかの距離です。ミヤマクマザサにおおわれた寒峰の山頂からは、剣山、三嶺、天狗塚、牛の背、矢筈山等の360度の大パノラマが楽しめます。今は福寿草の里として、登山者に大人気の山となり、花と展望と伝説に人気コースとなっています。

東祖谷の東北方面には、見の越(1,403m)と小島(おじま)峠(1,380m)があります。

剣・丸笹・見ノ越
見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

「見の越」は、近世に剣山参拝拠点として修験者たちによって開かれたことは以前にお話ししました。現在では、登山ケーブルがあり、剣山登山の表玄関になっています。ここを東に越えると麻植郡木屋平に出ます。見ノ越は、もっとも古く開かれた峠で、古くから多くの人々に使われていたと研究者は考えています。ちなみに、見ノ越に円福寺が開かれ、剣への参拝拠点になるのは近世後半になってからです。

剣山(1955m) ・見ノ越駐車場より | Bodhisvaha
剣山見ノ越の円福寺

小島峠
小島峠(「阿波の峠歩きより」)

小島峠を利用したのは菅生・名頃の人々たちでした。
落合よりも東の人々は、小島峠で半田・貞光地方と結ばれていました。菅生から池田へは約60㎞ですが、貞光へは28㎞で、距離的に半分以下の上に、峠が低くて雪も少ないようです。そのため日常的に児島峠が使われたようです。

文政八年に祖谷に人った阿波藩士太田章三郎信上の『祖谷山日記』には、次のように記します。
「小島峠にいたる。 一宇山といえる所のさかひ也。」

ここからは、この峠が近世には祖谷に入る主要路であったことがうかがえます。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」にも、「郡里・吉野川を渡つて、一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」の道順で廻ったことが記されています。祖谷へは、小島峠が使われています。

この峠に行くには、貞光より国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号をひたすら登っていきます。
黒笠山が見えてくるようになると、現在の小島峠に着きます。この峠は1981年に県道菅生伊良原線の開通で出来た「新」小島峠です。ここにも地蔵尊が祭られていますが、その裏の山道を西へ登って行くと、20分ほどで旧峠に着きます。ここにも小さなお堂があります。中には天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれ,氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。円福寺は、先ほど見た見ノ越の剣参拝登山をになっていた修験者の寺でもありました。峠の管理などに、修験者の姿が見え隠れします。
小島峠の地蔵
旧小島峠の地蔵尊
 研究者がもうひとつ注目するのは、地蔵尊は右手に錫杖を持つ姿が普通です。しかし、この像は右手に大師が持つ五鈷杵を握っていることです。珍しい地蔵尊です。この地蔵尊にはお参りに来る人があるようで、お酒やお菓子、花などが供えられています。
 お堂横のスギの古本は、風格があります。この峠を行き交った人達を見守っていたのかもしれません。静かに耳を傾ければ、いろいろな話をしてくれそうな気にもなります。
   お堂の前には広場になっていています。峠に着いた人々が腰を下し、ひと息入れた場所だったのでしょう。お堂の脇から、黒笠山への縦走路が伸びています。峠から黒笠山山頂まで4時間ほどです。かつては、修験者の霊山であった石堂山をめぐる修験者の行道ルートであったことは以前にお話ししました。
 新小島峠が開通した時に、コンクリートの新しいお堂と造ったそうです。そして、旧峠のお地蔵さんを下す予定でした。ところが旧峠のお地蔵さんが、新しい峠に下りにるのはどうしても嫌だと言うので、話し合った結果、新しい地蔵尊を下に造ることになったようです。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2

 新小島峠では、毎年6月第4日曜日に、 一宇、東祖谷両村の地元の人々により、地蔵祭りが行われ柴灯護摩が焚かれます。いつもは訪れる人の少ない峠が、大勢の人で賑い、カラオケと歌声が響き、手作りの料理が振舞われ、新・旧のお地蔵さんの前にも沢山のお供物がまつられます。
 
祖谷街道 開通後 百年。1920年(大正9年)開通 - 趣深山のJimdoページ
祖谷街道
東祖谷山に「輸送革命」をもたらしたのが、大正9(1920)年に完成した祖谷街道でした。

約百年前のことになります。祖谷川の「白地の渡し」から久保までの51kmを巾3mの「大道」が完成したのです。これが祖谷川沿いに村内を東西に走る幹線道路の役割を果たすようになります。バスとトラックが輸送の主役になり、輸送量も増えます。そして、峠道を越える人やモノは激減します。人ともモノの動きが一変したのです。これは大正3年の徳島ー池田間の鉄道開通や、大正9年の讃岐土佐間を往復する自動車の新設とリンクして、祖谷に「輸送革命」をもたらしたのです。
 この道路建設は、祖谷川沿いの電源開発計画を呼び込む起爆剤ともなります。若林には大正9(1920)年7月発電所建設が始まります。そして、大正12年から380kWの電力が讃岐に向けて送電されるようになります。大正14年には、下瀬に煙草収納所が設けられ、煙草栽培が広がり、農村の換金作物となり「貨幣流通市場」の中に入っていきますた。
明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。

徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。

これが祖谷街道が伸びてくると、大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞もその日の午後には読めるようになります。
 昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。

明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。
これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
 祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
これとともに祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります
 戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると、
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫
祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は「脇町」中心の美宮郡から、三好郡の池田へと比重を移し、昭和25年1月1日をもって、美馬郡から三好郡へと編入するのです。そして、平成の合併では三好市の一部となりました。
ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
阿波の峠歩き : ふるさとの峠50選
参考文献
  福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷
徳島民俗学会 民俗班 橘 禎男・坂本 憲一「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」    阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
阿波の峠を歩く会 阿波の峠歩き 平成13年
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石堂山3
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。

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笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。

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正面が石堂山


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  白滝山から石堂山の稜線上の道標
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
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振り返ると白滝山です。
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白滝山から東に伸びる尾根の向こうに友納山、高越山
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矢筈山と、その奥にサガリハゲ
左手には、石堂山の奥の院とされる矢筈山がきれいな山容を見せてくれます。そんな中で前方に突然現れたのが、この巨石です。

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近づいてみると石の真ん中に三角形の穴が空いています。

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中に入ってみましょう。
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巨石の下部に三角の空洞が開いています。
これについて 阿波志(文化年間)は、次のように記します。

「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」

意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。

  ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている

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北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。

石堂山6
 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。
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お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山 
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。

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御塔石の石祠

御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。

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石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。

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お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。 
 修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。
②修行に適した行場がある。
③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山と石土山(瓶が森)
 伊豫之高根  石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。

2石鎚山と石土山(瓶が森)
    石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分 

これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分

 今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
石鎚山 天柱金剛石
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。

 修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝は天界への道、
④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
 土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山6
高板山(こうのいたやま)

いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。

高板山11
          高板山の行場の霊像

像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
高板山 不動明王座像、四国王目岩
               不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)
③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

高板山 へそすり岩9
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。

 それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平村絵図1
        木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分

この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。そればかりか村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを登場数が多い順に一覧表にまとめたのが次の表です。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
          三ツ木村と川井村の「宗教施設」
 ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。

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石堂山山頂
ここは広い笹原の山頂で、ゆっくりと寝っ転がって、秋の空を眺めながらくつろげます。

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しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
 さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
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井内川の中に表れた「立石」
   川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
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剣山立石大権現
石の頂上部には祠が祀られ、その下には注連縄が張られています。道の上には簡単な「遙拝所」もありました。そこにあった説明看板には、次のように記されています。
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①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち  お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
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剣山立石大権現
ここからは井内地区が剣山信仰の拠点で、かつては数多くの修験者たちがいたことがうかがえます。この立石は井内の入口に修験者が張った結界にも思えてきます。それでは、修験者たちの拠点センターとなった宗教施設に行ってみましょう。
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地福寺
  井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

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地福寺
 町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。P1170083
地福寺の本堂と鐘楼
 石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。

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③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
井川町の峠道
水の口峠と祖谷古道
 井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
水の口峠の大師像
水の口峠の大師像
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
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剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
 剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
木屋平 富士の池両剣神社
 藤の池本坊
  龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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地福寺の護摩壇

  このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
宿泊施設 | 剣山~古代ミステリーと神秘の世界~

  それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
 水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
   見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
 
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
  以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
⑧そのため剣山参拝の拠点となった地福寺周辺の集落には全国から修験者が集まって来るようになった。
祖谷古道

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      
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平家の馬場(剣山山頂) 
 いまは剣山の表玄関は見ノ越です。ここまで車でいきリフトにのればで1700メートルまで挙げてくれますので、頂上が一番近い「百名山」のひとつになっています。

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剣山リフトで1750mまで上げてくれる
西島のリフトから続く何本かの遊歩道のどれを選んでも1時間足らずで頂上に立つ事ができます。

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リフト終点から頂上へのルートは3本
このエリアを歩く限りは、この山が修験者たちの行場であったことをうかがわせるものに出会うことはありません。しかし、頂上から北側の穴吹川の源流地帯に下りて行くと、石灰岩の断崖と洞窟が続く行場が展開します。そして、いまでもこの行場は使われています。
 この行場はいつ、どんな人たちによって開かれたのかを見ていく事にします。
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剣山北面は修験者の行場
まず、剣山という山名についてです。頂上にやってきた人たちがよく言うのが「剣のように険しく切り立った山かと思っていたら・・・・四国笹の続く雲上の草原みたい」という感想です。

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剣山山頂の四国笹の草原

 この山が剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。
『祖谷紀行』によれば、旧名を「立石山」としています。
明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は
「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」
とあって、「石立山」と呼ばれていたことが分かります。「立石山」と「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたようです。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものとしておきます。
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剣山頂上の宝蔵石(山小屋に隣接)

江戸時代に藩主の祖谷山巡見の際に、お付きの絵師が書いたとされる祖谷山絵巻の剣山山頂です。
剣山頂上 祖谷山絵巻
祖谷山絵巻の剣山山頂(法蔵岩)
ここの描かれているのは、現在の登山者たちが目指す三角点のある頂上ではありません。宝蔵石と今は呼ばれている「立石」が、当時の頂上で、シンボルでもあり、信仰の対象になっていたことがうかがえます。
 また別の記録によると、この山はかつて「小篠(こざさ)」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」

ここでは「小篠」が「剣山」の別名として使用されています。権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
 この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎笈があります。
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次郎笈(ぎゅう)
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。研究者は次のように考えているようです。
「ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」

ここにも、修験者の影が見え隠れします。  つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈(祖谷山絵巻)
それでは、江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

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剣山直下の大剣岩
第一は、大剣神社の存在です。
この神社の御神体の大剣石が大地に突き刺さったような姿はインパクトがあります。ここには、剣神社(大剣神社、神仏分離以前は大剣権現)が祀られています。ここから剣山の名が生まれたとするものです。
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剣山直下の大剣岩
  たとえば、『阿波志』の「剣祠」(剣神社)の項には、次のように記されています。
 剣祠 祖山菅生名剣山の上に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以て神と為す、三月、雪消え人方に登謁す、其形の似たるを以て、名づけて剣と日ふ、祠中剣あり、元文中(一七三六~四一)人あり、之を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ

意訳変換しておくと
剣祠(大剣社)は、祖山菅生(すげおい)の剣山の上にある。菅生名から二里余、頂に岩が高さ三丈の岩が屹立する。地元の人達は、これを神と崇める。三月になって、雪が消えると人々は参拝に訪れる。この岩はその姿から「剣」と呼ばれている。祠の中には剣がある。元文年間(1736~41)に、盗人に盗まれたものを取り返し、小剣の岩窟中の人跡至らざる所に納めたが、後に行方が分からなくなった。

 「形の似たるを以て、名づけて剣と云う」とあり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したようです。だんだん「剣」が定着していく過程が見えて来ます。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩(神石)と大剣社(祖谷山絵巻)

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大剣神社

  また、宝暦七年(1757)、宇野真重著の『異本阿波志』には次のように記されています。
 剣山 祖谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、小篠(剣山)の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巌、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
六月七日諸人参詣多し、菅生名より五里此間に大家なし、夜に出て夜に帰ると云ふ、其余木屋平村より参詣の道あり、諸人多くは是より登る
 意訳変換しておくと
 剣山は祖谷山の東の端にあたる。この山上に剣の権現が鎮座していて、小篠(剣山)の権現とも呼ぶ。谷から高さ三十間ばかりの四方柱のような巌石が起立する。風雨にも錆ず、誠に神宝の霊剣である。六月七日には、数多くの人達が参詣登山する。菅生名から五里の間に集落はない。夜に出て夜に帰ると云う。この他には木屋平村からの参詣道あり、諸人多くは是より登る
ここにも 神石が「神宝の霊剣」として信仰の対象になって、菅生や木屋平からの参拝者がいたことが分かります。
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大剣岩と大剣神社の赤い屋根

その二は、剣神社に祀る神宝が剣であることに由来するとする説です。
この説を裏付ける江戸期の文献はありませんが、明治45年の田山花袋著『新撰名勝地誌』には、次のように記されています。

「剣山は四国第一の高山にして……(中略)……山頂に一小祠あり、剣の社と称す。安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ……(後略)」

ここには、平家と共に落ち延びてきた安徳帝の神宝の剣を、ここの神社に祀った。だから剣神社と呼ばれるようになった。「安徳天皇の剣=剣神社=剣山」ということになるようです。

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剣山頂の法蔵岩
 その三は、安徳天皇の剣を埋めたことによるとする説です。
 祖谷地方の伝承に屋島合戦に敗れた平氏一族が、密かに安徳帝を奉じて祖谷に入ってきたとする「平家落人説」があります。江戸末期の寛政五年(1792)、讃岐の文人・菊地武矩が当地を訪れた際の旅行記『祖谷紀行』には、次のように記されています。

「山上より遥に剣の峰みゆ、其山、昔は立石山といひしが安徳天皇の御つるぎを納め給ひしより、剣の峯といふとなん」

 3つの説に共通するのは、頂上直下の剱祠(大剣神社・大剣権現)が、人々の強い信仰を集めていたらしいことと、この山の修験的性格です。
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剣を埋めたと伝えられる剣山頂の法蔵岩

ここまでで、私が感じた事は、剣山の開山が石鎚に比べると新しい事です。
この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。
「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません。山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

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一の森への縦走路

 「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
 剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。

山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平の龍光寺
まず、木屋平の龍光寺の剣山開発プロジェクトを見てみましょう。
 龍光寺は、剣山の山頂近くにある剣神社の管理権を持っていました。当時の霊山登山参拝は、立山・白山・石鎚で行われていたように、先達が一般信者を連れてくるスタイルでした。先達が各地域の人々を勧誘組織化し信者として修行・参拝するのです。中世の熊野詣での先達と檀那の関係を受け継いでします。
 つまり先ず必用なのは修験道山伏たちです。彼が各地域で布教活動を進め、勧誘しない限り参拝客は集まりません。龍光寺は、阿波の修験山伏達との間に、相互協力の関係を作り上げて行く事に成功します。
 龍光寺大御堂には、寛元年間に造られたと思われる阿弥陀如来坐像など六体の像があります。そのうちの不動明王立像光背の裏面に、次のように記されています。
「元禄十丁丑年 銀子拾弐分たいこ 教学院口口口並口口口寄進 十二月十四日」

ここからは修験者、教学院が龍光寺と協力関係にあったことが分かります。龍光寺が江戸初期の頃に「剣山開発」に進出したこともうかがえます。
  龍光寺の剣山開発プロジェクトの次の手は、受けいれ施設の整備です。
木屋平 富士の池両剣神社
剣修行のベースキャンプとなった富士池

  剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

木屋平 富士の池道標

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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 一の森の権現さん
 実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。この背後には何があったのでしょうか?
 もともと、長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。

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剣と一の森を結ぶ縦走路

 そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。
 修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言となったのかもしれません。

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剣山北面の行場への道
 龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
 この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

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穴吹川源流に近い行場
これは、剣山の反対斜面の三好郡東祖谷山村にも、刺戟になったようです。
何故なら、剣山の半分は東祖谷山村のもので、剣山頂は同村に属しています。見ノ越の円福寺は剣山に社領として広大な山地も持っていました。龍光寺の繁栄ぶりを黙って見過ごすわけにはいきません。
 祖谷菅生の円福寺は江戸時代末に、見の越に不動堂(後の剣山円福寺)を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と祖谷山からのふたつのルートが開かれ、剣山への登山は発展を加えることになります。

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このように
剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています。ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

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さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します
①命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この命名が近世初頭を遡るものでないこと
③小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
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 明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

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穴吹川源流

 龍光寺の住職・明皆が明治十二年六月に信者に配布した「剱和讃」の全文があります。ここからは当時の模様を知ることができます。
          剱  和  讃
   帰命頂礼 剱山      其濫筋を尋ぬれば
   南海道の阿波の国     無二の霊山霊峰ハ
   元石立の山なるぞ     昔時行者の御開山
   秋は弘仁六年の      六月中の七日なる
   空海大師此峯に      登りて秘法を修し玉ふ
   眼を閉て祈りなん     神と仏と御出現
   殊に倶利伽羅大聖    大篠剱の御本地と
   愛染王は古剱乃      御本地仏と仰ぐなり
   されバ秘密の其中に    剱すなわち大聖尊
   此時空海石立の      山を剱と呼ひたまふ
   一字一石法花経の     塚(大師の古跡なり
   山上山下の障難を     除きたまへる事ぞかし
   古剱谷の諸行場は     役の行者の跡そかし
   中にも苔の巌窟には    龍光寺 大山大聖不動尊
   本地倶利伽羅大聖は    無二同鉢の尊ときく
   衆生の願ひある時は    童子の姿に身をやつし
   又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
   あら尊しや御剱の     神や仏を仰ぎなば
   五日も七日も精進し    垢離掻川に身漱して
   運ぶ案内富士の池     三匝行道する行者
   合掌懺悔礼拝し      御山に登る先達
   新客行者を誘ひてや    八十五町を歩きつつ
   右と左に絵符珠数     唱る真言経陀羅尼
   此の御剱の山なる     大聖尊の三昧池ぞ
   踏しおさゆる爛漫の    梵字即ち大聖尊
   壱度拝山拝堂を      いたす行者の身影の
   形いつも離るらん    悪事災難病難を
   祓ひおさむる御宝剱    六根六色備るを
   唯真心のひとつなり    深く仰て信ずべし
      龍光寺住職    明皆成誌
    明治十二年六月   当山教会者へ授共す
 
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 今では、見の越が剣山参詣の玄関口スタートになりました。
「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか。円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
 一方、藤の池派には本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

大山・石鎚と西国修験道 (山岳宗教史研究叢書) | 準, 宮家 |本 | 通販 | Amazon

参考文献 田中善隆 剣山信仰の成立と展開  大山・石鎚と西国修験道所収

 

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