瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:初代多度津駅

暗夜行路

第一世界大戦の前年の1913(大正2)年2月、志賀直哉は尾道から船で、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。

そのころの直哉は、父親との不仲から尾道で一人住しをしていました。30歳だった彼は、次のように記します。

『二月、長篇の草稿二百枚に達す。気分転換のため琴平、高松、屋島を旅行』

この旅行を基に書かれたのが「暗夜行路」前編の第2の4です。この中で、主人公(時任謙作)は、尾道から船で多度津にやってきます。「暗夜行路」は私小説ではありませんが、小説の主人公の讃岐路は、ほぼ事実に近いと研究者は考えています。今回は、暗夜航路に描かれた多度津を当時の写真や資料で再現してみたいと思います。
瀬戸内商船航路案内.2JPG

まず、暗夜行路に描かれている多度津の部分を見ておきましょう。
「①多度津の波止場には波が打ちつけていた。②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。③丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、③彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
もう其男もついて来なかった。④郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、⑤直ぐ近い停車場へ行った。
 ⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
多度津について触れているのは、これだけです。この記述に基づいて桟橋から駅までの当時の光景(文中番号①~⑦)を、見ていくことにします。
DSC03831
多度津港出帆案内(1955年) 鞆・尾道への定期便もある

①多度津の波止場には波が打ちつけていた。
前回に見たように、明治の多度津は大阪商船の定期船がいくつも寄港していました。多度津は高松をしのぐ「四国の玄関」的な港でした。多度津港にいけば「船はどこにもでている」とまで云われたようです。中世塩飽の廻船の伝統を受け継ぐ港とも云えるかも知れません。
 
 瀬戸内海航路図2
瀬戸内商船の航路図(予讃線・山陽線開通後)
多度津港は尾道や福山・鞆など備後や安芸の港とも、定期船で結ばれていました。当時、尾道で生活していた志賀直哉は、精神的にも落ち込むことが多かったようで、気分転換に多度津行きの定期船に飛び乗ったとしておきましょう。

尾道港
尾道港(昭和初期)
 尾道からの定期船は、どんな船だったのでしょうか?

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。多度津桟橋に停泊する二艘の客船が写されています。前側の船をよく見ると「をのみち丸」と船名が見えます。こんな船で、志賀直哉は多度津にやってきたようです。

 多度津の波止場は、日露戦争後に改修されたばかりでした。
天保時代に作られた多度津湛甫の外側に外港を造って、そこに桟橋を延ばして、大型船も横付けできるようになっていました。平面図と写真で、当時の多度津港を見ておきましょう。
1911年多度津港
明治末に改修された多度津 旧湛甫の外側に外港を設け桟橋設置

暗夜行路には「②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。」と記します。

1911年多度津港 新港工事
外港の工事中写真 旧湛甫には和船が数多く停泊している

 旅客船が汽船化するのは明治初期ですが、瀬戸内海では小型貨物船は大正になっても和船が根強く活躍していたことは以前にお話ししました。第一次大戦前年になっても、多度津港には和船が数多く停泊していたことが裏付けられます。

1920年 多度津港
多度津港(1920年頃 東浜の埋立地に家が建っている)
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。
暗夜行路③「丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。」

多度津外港の桟橋2
多度津外港の浮き桟橋 引き潮時には、堤防には急な坂となる
浮き桟橋から一文字堤防への坂を登って、東突堤の付け根から東浜の桜川沿いの道を急ぎ足であるいて、郵便局までやってきます。

多度津港 グーグル
現在の旧桟橋と旧多度津駅周辺

郵便局は商工会議所の隣に、現在地もあります。このあたりは、ずらりと旅館が軒を並べて客を引いていたようです。
多度津在郷風土記
「在郷風土記 鎌田茂市著」には、次のように記します。
 大玄関には、何々講中御指定宿などと書いた大きい金看板が何枚も吊してあり、入口には長さ2m・胴回り3mにも及ぶ大提灯がつるされ、それに、筆太く、「阿ハ亀」「なさひや」など宿屋名が書かれてあった。
 団体客などの時は莚をしいて道の方まで下駄や、ぞうりを並べてあるのを見たことがある。夕やみのせまって来る頃になると、大阪商船の赤帽が、哀調を帯びた声で「大阪・神戸、行きますエー」と言い乍ら、町筋を歩いたものである。
 また、こんな話を古老から聞いたことがある。多度津の旅館全部ではないだろうが、泊り客に、この出帆案内のふれ込みが来てから、急いで熱々の料理を出す。客は心せくのと、何しろ熱々の料理で手がつけられないので、食べずに出てしまう。後は丸もうけとなる仕組みだとか。ウソかほんとかは知らない。
 主人公は、並ぶ旅館街で郵便局の窓から顔を出していた閑そうな局員に道を尋ねています。どんな道順を教えたのかが私には気になる所です。郵便局から少し北に進むと、高松信用金庫の支店が建っています。ここには、多度津で最も名の知れた料亭旅館「花菱(びし)がありました。

花びし2
多度津駅前の「旅館回送業花菱(はなびし)

多度津に船でやって来た上客は、この旅館を利用したようです。花菱の向こうに見える2階建ての洋館が初代の多度津駅です。花菱と多度津駅の間は、どうなっていたのでしょうか?

花びし 桜川側裏口
多度津の旅館・花菱の裏側 桜川に渡船が係留されている
多度津駅側から見た花菱です。宿の前には立派な木造船(渡船)が舫われています。駅前の一等地に建つ旅館だったことがうかがえます。

多度津駅 渡船
初代多度津駅前の桜川と日露戦争出征兵士を載せた渡船(明治37年 

渡船には、兵士達がびっしりと座って乗船しています。外港ができる以前は、大型船は着岸できなかったので、多度津駅についた11師団の兵士達は、ここで渡船に乗り換えて、沖に停泊する輸送船に乗り移ったようです。「一太郎やーい」に登場する兵士達も、こんな渡船に乗って、戦場に向かったのかも知れません。

明治の多度津地図
1889年 開業当時の多度津駅周辺地図(外港はない)

 志賀直哉は、花菱の前を通って、金毘羅橋(こんぴらばし)を渡って多度津駅にやってきたようです。当時の多度津駅を見ておきましょう。
DSC00296多度津駅
初代多度津駅
初代の多度津駅は、1889年5月に琴平ー丸亀路線の開業時に建てられた洋風2階建ての建物でした。
初代多度津駅平面図
初代多度津駅平面図(右1階・左2階)
1階が駅、2階は讃岐鉄道の本社として利用されます。

P1240958初代多度津駅

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅復元模型(多度津町立資料館)
ここから丸亀・琴平に向けて列車が出発していきました。そして、ある意味では終着駅でもありました。
多度津駅 明治の
明治22年地図 多度津が終着駅 予讃線はまだない

P1240910 初代多度津駅

DSC00303多度津駅構内 明治30年
初代多度津駅のホーム
 志賀直哉が多度津にやって来たのは、大正2年(1913)2月でした。
この年の12月には、初代多度津駅は観音寺までの開通に伴い現在地に移転します。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。初代度津駅は浜多度津駅と改称され、その後に敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の町民会館(サクラート)となっています。

暗夜行路の多度津駅の部分を、もう一度見ておきましょう。
⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」

⑥からは1Fの待合室には、ストーブが盛んに燃やされていたことが分かります。「⑦普通より少し小さい汽車」というのは、讃岐鉄道の客車は「マッチ箱」と呼ばれたように、小さかったこと、機関車も、ドイツでは構内作業用に使われていた小形車が輸入されたことは以前にお話ししました。それが、国有化後も使用されていたようです。

讃岐鉄道の貴賓車
        讃岐鉄道の貴賓車
暗夜行路に登場する多度津は、尾道から金毘羅に参詣にするための乗り換え港と駅しか出てきません。しかし、そこに登場する施設は、日本が明治維新後の近代化の中で到達したひとつの位置を示しているようにも思えました。

JR多度津工場
初代多度津跡のJR多度津工場

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ちらし寿司さんHP
https://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/
https://tkamada.web.fc2.com/
大変参考になりました。
関連記事

 香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?

景山甚右衛門.jポスターpg

 
多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
 
 明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。

景山甚右衛門1
多度津資料館
全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなか、明治20(1887)年5月24日に次のような「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。
  『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
 ・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地 
        讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
 ・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地   
        同国同郡同処寄留
 ・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地  
        同国同郡同処寄留
 ・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
 ・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
 ・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
 ・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
 ・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
 ・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
 ・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
 ・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
 ・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
 ・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
 ・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
  二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
 ・大久保諶之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也 
合計金 15万円也
   (「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
松井政行氏は、この出資者たちを次の3グループに分類します。
①大坂の資産家グループ
②多度津の「多度津七福人」グループ
③先年に大久保諶之丞よって組織された「四国新道グループ」
そして、設立申請までの動きを、次のように指摘します。
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
③そこで四国新道建設を実現させた地元の資産家を引き入れた
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。

この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車の車夫たちでした。
鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか

  明治28年8月10日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)には、次のような背景が書かれています
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保諶之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。
 その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
  参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。  
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした
 この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。 
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
 急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで
「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」

とあります。香川県全体では何千台もの人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
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旧琴平駅前風景 日露戦争の戦勝報告の金比羅参りの将軍を待つ車夫達

 地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」というような歌も流行ったようです。

景山甚右衛門4
 後世に書かれた評伝の中には、工事現場の陣頭指揮にあたった景山甚右衛門が、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝えるもののあります。しかし、これも俗説のようです。当時の甚右衛門の足取りを記録で見ると、彼は名東県の県議として松山に長期滞在しています。当時の地元での不穏な空気を察して、工事中には多度津に帰っていないことが分かります。どちらにしても景山甚右衛門は、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。このあたりも実務的な手腕がうかがえます。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
 認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
 それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
 さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産機関車はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
 ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
 それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。 
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
イメージ 2
1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった

動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
 讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が

「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」

と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
 ところが・・??  
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。 もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。

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 導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車
 開通式典での大久保諶之丞の祝辞は? 
 明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保諶之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。
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当時は愛媛県の県会議員だった大久保諶之丞 この後、四国新道開通に尽力

開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・ 

 開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。

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白銀の讃岐路の鉄路を客車を押して進む豆機関車 遠くに讃岐富士

  ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。

汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。 
イメージ 5
多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車

  開業当時の讃岐鉄道は、

社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車3両、客車31両、貨車11両でスタートします。客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員20人の小さなもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
 停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
イメージ 6
明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

明治の多度津地図

本社は桜川の横、現在の多度津町民会館(サクラート多度津)の場所にありました。かつての陣屋跡になります。
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開業当時の多度津駅
桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。

花びし2
料亭「花びし」の背後に描かれた多度津駅
花びしの絵図には、桜川を隔てて初代の多度津駅が描かれています。
これを見ると初代の多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設されていたことが分かります。

旧土讃線跡
旧土讃線
 ホームは、行き止まり構造の頭端式で、丸亀行きと琴平行きの二つの線路が並走して東に伸びて、旧水産高校のあたりで二つに分かれていました。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流します。一方、琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていきます。 初代の多度津駅は、予讃線が西に伸ばす際に、現在地に移転します。
一方、初代の琴平駅も現在地ではありませんでした。神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。当時の運行時刻表によると

時刻表(明治22年7月14日朝日新聞付録
琴平-善通寺は10分、
善通寺-多度津は15分、
多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。

イメージ 4
高松延長後の駅長達
 
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
上等のお客さまはそのままご乗車を。
中等のお客様は降りてお歩きを。
下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。

約130年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
イメージ 3
明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?

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