岩清水八幡宮寺領一覧表 安芸に呉保が見える
鎌倉時代になって、賀茂神社や石清水神社が瀬戸内海に多くの荘園をを設置して行くことを見てきました。それは神に供える神饌貢納地という以外に、神人たちを廻船人や問屋、金融業者に組織し、瀬戸内海の交易ルートの拠点とする戦略があったことが見えて来ます。それでは、各地の海民たちは、どのようにして神人に組織されていったのでしょうか。それを安芸国呉別符で見ていくことにします。テキストは「下向井龍彦 石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です。
安芸国の安芸郡安摩郷
安摩荘は、和名抄郷の「安芸郡安満郷」をその前身とします。
安芸国が貢納すべき調品目に塩、作物に「比志古鰯」があり、佐伯郡海部郷・安芸郡安満郷に住む海民集団は、調塩・海産加工品を貢納していたことが分かります。また、遣唐使船・遣新羅使船や官船・官米運京船の水手役も割り当てられたようです。
安満郷は広島市安芸区矢野町から呉市におよぶ海岸から、対岸の江田島町・音戸町を含む広い地域とされます。安満郷はこのように、広島湾・呉湾・安芸灘の海面、沿海・島嶼部の浦・浜・江などを舞台に製塩・漁業を生業としていた海民集団が編戸によって郷として編成されます。
安満郷の海民たちの活動を、研究者は次のように考えています。
安満郷は広島市安芸区矢野町から呉市におよぶ海岸から、対岸の江田島町・音戸町を含む広い地域とされます。安満郷はこのように、広島湾・呉湾・安芸灘の海面、沿海・島嶼部の浦・浜・江などを舞台に製塩・漁業を生業としていた海民集団が編戸によって郷として編成されます。
安満郷の海民たちの活動を、研究者は次のように考えています。
①海民集団は各浦・島に住み着いて、原生林を製塩用燃料のために伐採した跡にできた荒野を焼畑に変え、しだいに分散・定住するようにる。②海民集団は技術者集団でもあったので、製塩・漁業・海運など、さまざまな活動を展開するようになる。③その中から成長してきた開発領主たちが、各浦・島の刀祢となり、公文預などに補任されていく。④国衙領安満郷が立荘化されると各浦・島では、中央権門寺社の要求する塩・海産加工品=供御を貢納する荘園になっていく。
そして平安末期から旧安摩郷は、次のように荘園化していきます。
A江田島・波多見島・呉浦・矢野浦→「皇室領安摩荘」B蒲刈島→「興福寺領日高荘」C倉橋島→「摂関家勧学院領倉橋荘」D呉浦の一部 → 石清水八幡宮領「呉別府(呉保)」
Dの呉別符は、その名称から国衙領時代の呉浦の中にあったことがうかがえます。「別符」とは、開発領主が荒野開発を条件に、一定領域の領有を国衙に申請し、国衛の裁許を得て成立する特殊な徴税領域の一つです。「別符」はもともとは、開発の成功報酬として雑公事免除の特典を与えられ、所当官物を国衛に進納する国衙領のひとつでした。呉別符も、そのような存在だったはずです。それが国衙領呉浦の一部を割いて設定されたと研究者は考えています。その時期は、天永年間、呉浦をも含め、鳥羽法皇の動定によって安摩荘が建立される以前の11世紀末頃のことと研究者は考えています。
呉浦における別符申請=荒野開発を行ったのは、どんな人物だったのでしょうか?
それは呉浦の公文預クラスの開発領主で、「呉」を名字とする一族であったことが史料から分かるようです。鎌倉時代の嘉禎四年(1238)9月26日の「能美荘宛て藤原(吉田)資経家政所下文」に、次のように記されています。
江田島とつながる能美荘公文職の中村吉平が天福元年(1233)2月に亡くなります。そこで領家は「実賢」の妻になっていた吉平女を公文に補任します。この補任をめぐって争論となるのですが、ここに登場する公文職を帯する女性の夫「実賢」は、「能美氏略系」(『譜録』(能美太郎右衛門宣久)所収)に出てくる「呉左近左衛門尉実賢」だと研究者は指摘します。
ここからは呉保の保司か公文だった呉実賢は、妻を通して能美荘公文職を、押領するための画策をめぐらしていたことが分かります。そして、「この呉実賢こそが呉別符を開発し、石清水八幡宮に寄進した開発領主の後裔」と研究者は判断します。つまり「呉浦」というのは開発領主の「呉」氏に由来するというのです。
ここでは、呉浦の原野に開発の鍬を打ち込んだ開発領主が呉氏であったことを押さえておきます。
ここからは呉保の保司か公文だった呉実賢は、妻を通して能美荘公文職を、押領するための画策をめぐらしていたことが分かります。そして、「この呉実賢こそが呉別符を開発し、石清水八幡宮に寄進した開発領主の後裔」と研究者は判断します。つまり「呉浦」というのは開発領主の「呉」氏に由来するというのです。
ここでは、呉浦の原野に開発の鍬を打ち込んだ開発領主が呉氏であったことを押さえておきます。
しかし、呉浦の開発を呉氏が、独自に企画し、自らの資本で周辺住民や浪人を募り、自力で推進したとは研究者は考えません。その背後には、それを支援する石清水八幡宮神人がいたと推察します。呉氏による別符設立は、石清水八幡宮神人の上分米(年貢=神物)出挙活動(開発資金融資)と密接な関係があったというのです。
江戸初期 『 石清水八幡宮 公文所(御網引神人) 』(複製)
1072(延久4)年9月5日の太政官牒によれば、延久荘園整理令の時点で、石清水八幡宮寺領は畿内近国6ケ国34ケ所にありました。ところが約90年後の保元三年には、104ケ所に急増して
います。もともと、石清水八幡官は伊勢神宮につぐ皇室第二の祖廟として崇敬をあつめてきました。それが白河・鳥羽院政期に急激に勢力を拡張していったことが分かります。白河・鳥羽両院はともに、頻繁に石清水八幡宮に行幸・奉幣・供養を行っています。また11世紀末からは、恩赦にあたって伊勢・八幡両社の訴えに触れた者は赦から除く、という赦文を出すようになります。特別な思い入れがあったことがうかがえます。
大幅に荘園が増えた時期の石清水八幡宮寺の統括者は別当光清です。
彼は1103(康和5)年に別当に就任し、1125(天治二)年に退いた後も、長期にわたって実権を握っていた人物です。彼の女子美濃局は鳥羽法皇に寵愛され、光清は美濃局を通じて鳥羽法皇の支援を得ていたようです。石清水八幡宮の歴史において、別当光清という男は特筆すべき人物だと研究者は指摘します。鳥羽法皇と関係を深めた別当光清の社領拡張政策によって、石清水八幡宮寺領は12世紀前半に爆発的に増加します。
八幡神人の活動が活発化するのも、この時期と重なります。
神人は、「じにん」か「じんにん」と読み、辞書を引くと「神社の下級神職や寄人をさす」と書かれています。ここでいう神社の下級神職というのは、神社に常住することなく、仏事神事に奉仕する役職をさしています。
神人の所役は多岐にわたっています。古文書には、その所役として、次のようなものが記されています。
神人の所役は多岐にわたっています。古文書には、その所役として、次のようなものが記されています。
大山崎神人・公文・巡検使・大夫職・惣大工職・勾当・五師・例時衆達所・少綱・御綱・駕輿丁・小目代・神宝所・御馬副・宮寺・獅子・御鉾・童子・相撲・鏡澄・火長・火燈・御前払・袖幡・軾・神楽座・仕丁・香花・餝松・壁工・畳差・織手・漆工・紺掻・染殿・絵所・桧物師・塗師・黄染・・・
これは勝手に誰もが神人になれるというものではなく、八幡宮が補任するものでした。これが各荘園に勧進分社された神社でも神人が補任されます。それは代々世襲され今日に至っているようです。
神人には、神饌供御・神役勤仕のための交通特権、拷訊免除の特権がありました。この特権を活用して、八幡神人は別当光清の指揮のもとで、瀬戸内海沿海地域で荘園拡大政策を展開していったことを押さえておきます。
この時期から神人たちは、上分米(神物)を預かって諸国を往復して高利貸し活動を行うようになります。
上分(じょうぶん)とは、利益の一部を神仏に貢進した物で、転じて年貢や所当一般を指します。地方の開発領主たちは、神人からのお金を借りて、「新規事業」を展開するようになります。そして石清水八幡宮の祭神を産土神に勧請し、分社を建立し、みずからも在地神人化していきます。次第に開発地の上分米を「神物」とみなして、国衙による課税を拒むようになります。
上分(じょうぶん)とは、利益の一部を神仏に貢進した物で、転じて年貢や所当一般を指します。地方の開発領主たちは、神人からのお金を借りて、「新規事業」を展開するようになります。そして石清水八幡宮の祭神を産土神に勧請し、分社を建立し、みずからも在地神人化していきます。次第に開発地の上分米を「神物」とみなして、国衙による課税を拒むようになります。
呉別符の成立と、別当光清の八幡神人による「上分米出挙活動=寺領拡大政策」は深い関係があると研究者は考えています。
そこには、次のような展開が予測できます。
そこには、次のような展開が予測できます。
①国衙領安満郷呉浦の公文預クラスの開発領主呉氏は、神人の上分米出挙(=高利貸し)の融資を受けて開発を進めた②その中で、自分も石清水八幡宮の在地神人となった。③そして、産土神として信仰を集めて来た亀山神社に石清水八幡官の祭神を勧請して、別宮とした。
言い換えると、呉氏は神人の諸特権を得ることで、国衙権力の介入を排除すると同時に、石清水八幡からの金融的支援を受け、呉浦の荒野の開発を進めたことになります。開発領主呉氏による呉別符の開発は、同時に呉氏の八幡神人化と、呉別符の石清水八幡宮寺領化でもあったとしておきます。
上賀茂神社や岩清水八幡神社の海民の神人化には、このような背景があったようです。
上賀茂神社や岩清水八幡神社の海民の神人化には、このような背景があったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「下向井龍彦 石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です



