弥谷寺本堂
四国霊場のお寺は、もともとは山林寺院だった所が多く、本堂の奧に奥の院や大師堂があるのが普通です。ところが弥谷寺は、本堂が一番上にあります。獅子の岩屋があるのが「大師堂」です。ちなみに大師堂と呼ばれるようになったのは、この寺が江戸時代に善通寺の末寺となってからのことです。この寺に弘法大師信仰がはいってくるのは近世以後だったことがうかがえます。これについては、また別の機会にふれるとして、先を急ぎます。
阿弥陀三尊磨崖物
本堂が一番上にあるのは、ここが一番大切な所であったからでしょう。それは何かと云えば、本堂下の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像だと私は思っています。鎌倉時代に弥谷山を拠点とした高野聖や念仏聖たちが信仰したのは阿弥陀さまです。それが彼らの修行場であり、聖なる磨崖に彫られて本尊として信仰されるようになります。後に本尊は観音さまに交代しますが、弥谷寺のスタートは阿弥陀信仰です。そして、この上に本堂は建立されることになります。
弥谷寺本堂軒下の磨崖に置かれた石仏
弥谷寺本堂は伽藍の最上段に岩盤を削って建てられています。
その西側面と背面には岩盤が垂直に迫ってきて、背面には人が彫った窪みや磨崖五輪塔がいくつも穿たれています。本堂はこの岩盤に接するように建てられ、背面切り妻屋根はそのまま岩盤に繋がれています。
弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔
この本堂を最初に見たときに思ったのは、断崖に囲まれた岩窟寺院という印象でした。まわりの断崖の中に、すっぽりと本堂が入り込んでいるような感じです。その後、中国の敦煌や竜門などの石窟寺院を見て、改めてこの本堂を見ると腑に落ちないことがいくつかでてきました。それは、弥谷寺でも磨崖に仏像が彫られ、それが本尊として信仰対象となっていたはずです。それなのに、今の本堂は断崖との間に壁があるのです。
仏が彫られた磨崖側の本堂の壁(弥谷寺)
これでは、本尊を拝むことは出来ません。私の仮説は、次のようなものです。①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていたい②それが、いつの時代かに磨崖物は信仰の対象ではなくなり、磨崖との間に壁のある本堂が建てらた。
しかし、素人の悲しさで、これ以上のことは分かりませんでした。どうして壁が作られたのか、また、それがいつ頃のことなのか疑問のままでした。それに答えてくれたのが、「山岸 常人 弥谷寺の建築の特質 弥谷寺調査報告書263P」です。今回は、これをテキストに弥谷寺本堂の謎に迫っていきたいとおもいます。
まず、研究者が押さえるのが弥谷寺が描かれた次の絵画史料です。
①「四国編礼霊場記」 (元禄2(1689)年②「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年③「四国遍礼名所図会」 (寛政十二(1800)年④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年、⑤「金毘羅参詣名所図会」 (弘化4(1847年 )
これらの絵図で弥谷寺本堂を見ていきましょう。
先ほど述べたように伽藍の中で一番高い所にあり、その周辺には、多くの磨崖物や五輪塔が描かれています。本堂(観音堂)は平入の仏堂のように描かれていて、岩壁に接しているようには見えません。現在の本堂は、正面入母屋造、妻入の建物ですが、背面は切妻造になっていて、背面側は土壁で開じられています。背面と向かって左側面に岩壁があり、それらに接するように本堂が立っています。
「四国編礼霊場記」は写実性に乏しいとされるので、すぐに17世紀の本堂の建築形式が今とは違っていたと判断することはできないと研究者は考えています。本堂の右側に描かれているの阿弥陀三尊の磨崖物です。
②「剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10(1760)年です。
本堂は、「正面入母屋造、妻入の建物」ですが、背面は切妻造ではないようです。ここからも本堂が磨崖に接しているようには見えません。本堂周辺部を見ると、山崎家の3つの五輪塔が描かれています。しかし、現在は本堂のすぐ西側にあるので位置が違うような気もします。山崎家五輪塔は、後世に現在地に移動された可能性があります。また、天霧城主の香川氏の五輪塔が100基以上もかつては西院跡にはあったとされますが、それも描かれています。香川氏と山崎氏の墓域であったことを強調しているようにも思えます。現在の大師堂は「奥の院」と標記されています。大師堂と呼ばれるようになるのは弘法大師信仰が強まる江戸後半以後のようです。
③「四国遍礼名所図会」(寛政十二(1800)年の本堂です。
「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。
「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年です。
この時期は、金毘羅に歌舞伎小屋や旭社が姿を見せ始め金比羅詣客がピークに達した時期になります。それに連れて、弥谷寺参拝客が最盛期を迎える頃になります。そのためか伽藍整備も進んで本堂も天守閣のような立派な建物になっています。旧奥の院も大師堂と名前を変えて、堂々とした姿を見せています。
本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。
![弥谷寺 金毘羅参拝名所図会](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/2/4/24354590.jpg)
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。
![弥谷寺 金毘羅参拝名所図会](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/2/4/24354590.jpg)
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
この本堂や大師堂を見ると「????」です。先ほど見た④と比べて見ると3年しか建っていないのに、描かれている建物がまったくちがいます。それに「大師堂」が「奥の院」の表記に還っています。これはいったいどうしたのでしょうか。火事で全山焼失し、新たな建物となったということもなさそうです。
研究者は⑤の描く本堂や奥の院が②「剣五山弥谷寺一山之図」と、非常によく似ていることを指摘します。つまり⑤は出版に際して、現地を見ずに②を写した可能性があると研究者は考えているようです。今では考えられないようなことですが、当時は現地を訪れずに絵図が書かれることもあったようです。とすると⑤「金毘羅参詣名所図会」は、資料としては想定外となると研究者は判断します。
絵図はこれだけですが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、次のように記されています。
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師(弘法大師)の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切王フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、
拉、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段ヒリテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノロニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
意訳変換しておくと
弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。寺の広い庭から一段上ると鐘楼在、また一段上がると護摩堂がある。これも広さ九尺斗二間に岩を切り開いて戸をつけてある。その中には、本尊の不動の他に、何体もの仏像があるが、全て石仏である。ここから少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今風の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。
ここには、17世紀中頃の弥谷寺の様子が詳しく書かれていて貴重な一級資料です。本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。どちらにしても澄禅は、弥谷寺本堂は、片流れの屋根であったと記しています。この記事は十七世紀中期には本堂の屋根が、いまのような入母屋造妻入でなかったことを教えてくれます。片流れ屋根なら磨崖仏を本尊とする本堂には相応しいものになります。
それでは本堂が「片流れの屋根」から「入母屋造妻入」姿を変えたのはいつのことなのでしょうか?
本堂が焼失した記録は、享保5(1720)にあります。また18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」
と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。ここからは1720年に焼失した本堂が18世紀半ばまでには、新たに再建されたことが分かります。先ほど見てきた絵図が書かれた時代をもう一度見てみると、次のようになります。
澄禅の「四国遍路日記」承応二(1653)年 片流れ屋根
①「四国編礼霊場記」 元禄2(1689)年 平入の仏堂②「剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10(1760)年 入母屋造妻入の本堂
ここからは17世紀には、片流れの屋根であったのが、1720年の焼失後に再建されたときに、入母屋造妻入の本堂になったと考えることが出来そうです。元禄年間前後に屋根形式の変更があった可能性を押さえておきます。
しかし、これだけでは本堂が本尊とされる磨崖仏の上に被せるように屋根があったことは証明できません。それを研究者はレーザー透視で撮られた写真をもとに解明していきます。それはまた次回に・・・
弥谷寺本堂背後の磨崖仏や五輪塔
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 山岸 常人 弥谷寺の建築の特質 弥谷寺調査報告書263P 香川県教育委員会
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