瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:剣山

   
近世半ばまでの阿波の修験者たちは、高越山を中心に動いていたことを前回は見ました。そのような中で近世半ばになると剣山が開山されます。剣山は高越山に比べて高く、広く、地形も複雑で、行場となるべき所が数多くある修行ゲレンデです。修験道場としては、最適で多くの山伏を一時に多く受け入れることができました。人気の修行地となった剣山は急速に発展して、先進の高越山をしのぐようになります。こうして近世の阿波の山伏修験道は高越山・剣山の二大修験センターを道場として、阿波だけでなく、四国・淡路・備前など近国に剣山講・高越講を組織して発展することになります。今回は剣山開山を進めた木屋平の龍光寺と、祖谷の円福寺について、今まで紹介できなかったことを見ていくことにします。

徳島の研究6
テキストは「  阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P」です。

剣山は、古くから開山された山ではないようです。18世紀によって修験者が活動を始めた山で、剣山と呼ばれるようになったのも開山後のことです。それまでは「太郎笈」「立石山」「篠山」と地元では呼ばれていたようです。それが修験者によって開山されると、それらしき山名の「剣」と呼ばれるようになったことは以前にお話ししました。
 剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
①東側の木屋平村の龍光寺が、富士の池に
②西側の祖谷村菅生の円福寺が見ノ(蓑)越に
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平村の長福院龍光寺

まず龍光寺について見ていくことにします。『阿波志』に次のように記します。
「(木屋)平村谷口名に在り、平安大覚寺に隷す。旧長福寺と称す。大永二年(532)重造する。享保二年(1717) 今の名に改む。其の甚だしくは遠からざるを以って、剣祠を祀る」

意訳変換しておくと

「龍光寺は木屋平村の谷口名にある寺で、京都の大覚寺に属す。旧名は長福寺で、大永二年(532)の建立である。それが享保二年(1717)に、今の名に改められた。この寺では、それほど古くからではないが剣(神社)祠を祀る別当職を務めている。」

龍光寺は、享保二年(1717)までは長福寺と呼ばれていました。
 長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つとされます。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
   龍光寺への寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクします。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」や「篠山」は、どこにでもある平凡な山名です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は軌道に乗ります。
ところが後世の『阿波名勝案内』には、次のように記します。
「弘仁五年(八一四)弘法大師の開基にかかり、利剣山長福寺と号す。伝え言ふ安徳天皇の蒙塵に当り、当寺に行在所を設け以って安全を祈り、平国盛一族中剃染して竜光房と名づけ、寺号をも龍光寺と改む。剣権現の本寺。」
意訳変換しておくと
「弘仁五年(814)に弘法大師が開基し、利剣山長福寺と号する。伝え聞くところに拠ると源平合戦で安徳天皇が当地に落ちのびてきた際には、当寺に行在所を設けた。その際に、平国盛は天皇の安全を祈って、一族が剃髪して竜光房と名乗り、寺号を龍光寺と改めた。剣山権現社(神社)の本寺(別当寺)である。」
 
ここでは平国盛の「平家落人伝説」が付け加えられています。そして、安徳天皇伝説ともリンクさせます。こういう手法は、修験者や山伏の特異とする所です。ここでは、次のような伝説が付け加えられています。
①空海開基で、長福寺と号した。
②平家伝説を取り込み、平国盛が剃髪して竜光房と名乗ったので、寺号も龍光寺と改めたこと。
結果的に、龍光寺への寺名変更が、鎌倉時代まで引き下げられます。
木屋平 富士の池両剣神社
富士の池周辺
  江戸時代の龍光寺の「剣山開発プロジェクト」の目玉として取り組んだのが、富士(藤)の池周辺の施設整備です。

剣山 龍光寺は、弘法大師により密教が開祖された四国八十八カ所の総奥の院

龍光寺は、剣山頂上の法蔵岩直下の剣神社の管理権を持っていました。その北側斜面の石灰岩の岩穴や岩稜が修行場でした。その剣修行のベースキャンプとして建設されたのが八合目の藤の池の「富士(藤)の池本坊」です。ここが山頂の剱祠の祀る剱山本宮になります。こうして多くの参拝信者を集めるようになり、龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
木屋平 宗教的概観
文化9年の木屋平村の権現
龍光寺が別当寺であった剣神社(剣山本宮)を見ておきましょう。
 その「由緒」には、次のように記します。(要約)
「元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人である田口左衛門尉成直は、父の阿波国主紀民部成長と相談して、安徳天皇一行を長門の壇浦より、伊予大三島へ落ちのびさせて、その後伊予と阿波の山路を伝って祖谷山に導き入れた。その後、木屋平村に遷幸したと伝える。
 後世になって、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫は相談して、富士の池を仮の行在所とした。また平家の再興を祈って、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以後はこの山を剣山と称するようになった。
 (中略)仏教の伝来とともに修験道の霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。」
ここに書かれていることを要約すると
①安徳天皇一行は、壇ノ浦から大三島を経て祖谷に落ちのびてきて、最後に木屋平村に遷幸した。
②平家の子孫は、平家の再興を祈って富士(藤)の池を仮の行在所とし、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。
③龍光寺の開祖は行基である。

もともと平家落人伝説と安徳天皇伝説は、祖谷地方に伝えられたものです。それを「安徳天皇が木屋平村に遷幸」として、伝説の本家取りをしています。先ほど見たように、龍光寺が剣山を開山し、権現さまを奉ったのは18世紀になってからです。また富士の池を開発したのは、さらに後のことになります。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年木屋平村の宗教景観
徳島氏方面の平野部から剣山に登るには、木屋平を目指しました。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

昔はもっとあったとようです。西側の拠点円福寺翼下一万人といわれる先達よりもはるかに多くの修験者を、龍光寺は支配下に持っていたことを押さえておきます。

円福寺 祖谷山菅生
円福寺(東祖谷山村菅生)
剣山修験の西の拠点は、東祖谷山村菅生の円福寺でした。
円福寺は菅生氏の氏寺で、この寺も「忌部十八坊」の一つとされます。現在本尊とするのは江戸時代の作といわれる不動明王(剣山大権現)です。しかし、「阿波誌」に「元禄中(1688~1703)繹元梁、重造阿弥陀像を安ず」とあります。ここからは、もともとは本尊は阿弥陀如来であったことが分かります。それがどこかの時点で、修験者の守り仏ともされる不動明王に入れ替えられたようです。それは、この寺に住持した修験者が行ったことと私は考えています。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
円福寺のもともとの本尊 阿弥陀如来像

 木屋平の龍光寺が富士の池に登攀センターを建設したように、円福寺も見ノ(蓑)越に、不動堂を建立します。

剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺
これが現在の「見ノ越の円福寺」のスタートになります。本尊は安徳天皇像を剣山大権現として祀り、両側に弘法大師像と供利迦羅明王像を配します。見ノ越の円福寺は、もともとは菅生の円福寺の不動堂として建立されました。ところが貞光側からの、見ノ越への登山道が整備されると、先達に引き連れられた信者達は、このルートを使って見ノ越の円福寺にやって来るようになります。それまで祖谷経由のルートは、距離が長いので利用者が少なくなります。その結果、参拝者が立ち寄らなくなった本家の菅生・円福寺は衰退していきます。こうして、現在では円福寺と云えば見ノ越の寺を指すようになったようです。
 神仏混淆化で円福寺が別当として管理していたのが剣神社(旧剣権現)です。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。

「口碑に仁和時代へ九世紀末)」の創立。祖谷山開拓の際に、大山祗命を勧進して祖谷山の総鎮守とする。寿永年中(1185)、源平合戦に敗れた平家の一族が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の『深そぎの御毛』と『紅剣』を大山祗命の御社に奉納。以来剣山と呼ばれ、神社も剣神社と称されるようになった。」

現在のHPには、別当寺の西福寺の管理下にあったことは一言も触れられていません。もともとは円福寺の社僧が管理する剣権現だったことを押さえておきます。剣神社の先達(出験者)たちも信者を連れて剣山北面の「鎖の行場」「不動の岩屋」「鶴の舞」「千筋の手水鉢」「引日舞」「蟻の塔渡り」などの行場で修業します。ちなみに剣神社の本社が、御塔石(おとうせき)を御神体とする大剣神社(おおつるぎじんじゃ)になるようです。
伴信友の『残桜記』には、大剣神社のことが次のように記されています。(意訳)

東祖谷山村と菅生の境界になる剣山頂上に鎮座する剣神社のある所は、木屋平村のものとも、また東祖谷山村のものとも云われ諍いが起きる原因となっていた。そこで明治初年頃に、美馬麻植郡の神職が剣神社の祭典に出社した際に、拝殿の中央に線を引き、これを境界とした。そして線の内側にあったものを、それぞれの村が収入した。その後、明治九年に郡界標石が建設され、以来今まで木屋平村のものとされていた山上の剣神社は祖谷山村に属することになった。

ここからは、拝殿の中央に線を引いて境界として、両者が共同管理していた時期があったことが分かります。これを剣神社をめぐる祖谷の円福寺と木屋平の龍光寺の対立とみることも出来ます。しかし、研究者は次のような別の視点を教えてくれます。

 当山派・本山派共に大峰山を聖地として共有している。金峰山は金剛界を、熊野三山は胎蔵界を現わし、その中心である大峰山はこの二つを統一する一乗両部の峰であり、画部不二の曼陀羅の霊地である。そこで両派とも大峰山に結縁することを本願とする。こうした両派の発想と剣山頂上を聖地として共有しようとする阿波修験道の意図と等しい。

龍光寺と円福寺は競い合い、対立を含みながらも、剣山を聖地とする修験者の行場をともに運営していたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P
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以前に、剣山開山について次のようにまとめました
①剣山は近世前半以前には信仰対象の山ではなかったこと
②近世後半になって剣山を開山したのは、木屋平側の龍光寺の修験者であったこと
③これに続いて見ノ越側の円福寺が開かれ、2つの山岳寺院が先達修験者を組織し、多くの信者達の参拝登山が行われるようになったこと
剣山円福寺 « 剣山円福寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

これについては、龍光寺は史料的にも押さえましたが、円福寺の場合は、それが出来ていませんでした。今回は祖谷側からの剣山開山を進めたとされる円福寺を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌583P 山岳信仰」です。
東祖谷山村誌(東祖谷山村誌編集委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
東祖谷山村誌

『阿波志』は、江戸時
代の剣山について次のように記します。(要約)  
「大剣山 四季の中、春はわずかで消え、夏は長くない。それ故、人は敢て登らない。西は美馬郡菅生名をへだたること四里、南は那賀郡岩倉を、へだたること六里ほど、東は麻植郡茗荷(みょうが)名をへだたること二里、この間人家もなく、登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。茗荷名からの道に渓があり、これを垢離取(こりとり)川と言う。登山者はここで必ず水浴し、下界のけがれをはらう。その上を不動坂という。不動石像が渓中にあって、時には水没してみえない。(中略)
 頂上近くの平坦な所を神将と言う。春には赤や自の草花が咲き乱れる。これを過ぎれば、頂上となり、石があって宝蔵という。西南に二石あり太郎笈、次郎笈と言う。三百歩行くと削って造ったと思われる石があり不動石という。その下に渓谷がある。これらの谷は大小の剣が交わっているかのようである。
この中には、コリトリや不動坂など熊野や大峯の山岳聖地を模した名前が出てきます。また、剣山のことを、別名小篠(こざさ)とよびましたが、これは修験の行場に由来する命名です。さらに、龍光寺の藤の池本坊の祭日は、熊野の那智神社と同じ、7月14・15日です。ここからは、剣山を開山したのが修験者たちで、彼らは熊野や吉野の修験修行場のコピー版を、この地に開こうとしていたことがうかがえます。また「登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。」とありますので、この時点では富士の池や見ノ越に登山宿泊施設は、まだなかったようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈 (祖谷山絵巻)

剣山に当時の人々は、どんな姿で登っていたのでしょうか?
文化、文政の頃の永井精古の『阿波国見聞記』には次のような律詩が載せられています。
法螺贅裏艦山人
白布杉清不帯塵
霊秀所鐘斉仰止
侍天雙剣五雲新
剣山 三嶺方向から
剣山と次郎笈(拡大) 祖谷山絵巻

ここからは法螺貝ををふき、白装束に身を包んだ一行が、剣山への山道を登る様が映写されています。これは、山伏を先達とする参拝登山で、『勧進帳』の源義経、弁慶一行の行脚姿に似ていたかもしれません。
異本阿波史には、次のように記されています。

  この山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古えより剣を納む。この巌に立あり。風雨これをおかせどもいささかも錆びず。誠に神宝の霊剣なり。六月七月諸人参詣多し。菅生名より五里、この間に人家なし。夜に出て夜に帰ると言う。その余、木屋平山より参詣の道あり。諸人多くはこれより登る。
 
意訳変換しておくと

  この山(剣山)自体を御神体として崇む。これといった社殿はなどはない。ここに昔、剣を納めたという。また、ここには剣のように立つの巌がある。風雨に侵されても、いささかも錆びない。誠に神宝の霊剣である。六月七月には、多くの人たちが参詣する。その際に、菅生名から五里の間に人家はないので、夜に出て、夜に帰る強行軍だと言う。その他には、木屋平山側から参詣の道があり、多くの人は、こちら側の道を利用する。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩と大剣神社 
P1250752
剣山の大剣岩
ここには、山頂の法蔵岩のことは何も触れられません。出てくるのは大剣岩で、これが御神体だとします、そして社殿はない。宿泊施設もないと記します。見ノ越の円福寺は出てきません。つまり、これが書かれたのは、見ノ越に宿泊施設も兼ねた(剣山)円福寺が出来る以前のことのようです。
夫婦池からの剣山
夫婦池越の剣山 (祖谷山絵巻)
円福寺の寺伝には、次のように記されています。
安徳帝の御遺勅に「朕が帯びていた剣は清浄の高山に納め守護すべし」と宣いになったので、御剣を当山(石立山)に納め、剣山大権現と勧請まします」とあります。ここには、近世になって語られるようになった平家伝説に附会したかたちで、安徳天皇の剣を埋めた霊山=剣山」として記されています。

大正十一年刊の『麻植郡誌』は「安徳天皇と剣山」の項に、次のような伝承を載せています。
平国盛は安徳帝を奉じて、屋島を逃れ阿波に入り、元暦2(1185)年の大晦日に祖谷に入って阿佐にお泊まりになった。ある時、剣山に登って武運長久を祈り、剣を祀らんとされたが、その時丁度岩が口を開く様に割れたので、そこに御剣を納めた。すると、岩は又口を閉した。この時までこの山を石立山と呼んでいたのであるが、それからは剣山と呼ぶことになった。剣を納めた岩を宝蔵石と呼んでいる。剣山の絶頂は平家の馬場という広い草原になっていて、鈴竹という竹が群生している。椛に竹の葉を横断して、点線状の穴のあいているものがある。これを里人は馬の歯形笹と呼んで、龍の駒が鳴んだものだと珍重するのである。又、 一説には安徳天皇の馬であるとも言う。(一部訂正)」

剣山頂上 祖谷山絵巻
剣山頂の法蔵岩(祖谷山絵巻)
これに続けて馬の歯形笹と呼ぶものは、笹の葉が開かぬ内に虫が食った痕だと云います。そして『異本阿波志』の次の記事を引用します。

「(頂)上は樹木なく一円小笹原なり、晴天には必ず龍馬出てここに遊ぶ、この笹を食うという。毛色赤くして二歳駒程なり、今これを見る人多し。(要約)」
 
晴天の時には、剣の山頂には「龍馬」が現れて、山頂に生えている笹を食む。その馬は二歳の若駒で、これを見た人は多いと云うのです。
 このように「龍竜伝説」に附会する形で、次の時代には「馬の歯形笹」が書かれます。こうして、平家伝説と剣山と山岳崇拝が、ひとつのストーリーとして伝承・伝説化されていきます。

P1250794
剣山頂の法蔵岩
これに対して、元木直洲の『燈下録』(文化9(1812)年)は、「剣山=平家伝説」説を否定して、次のような説を現します。(意訳・要約)
剣山に祀られた剣は、阿波の国霊、大宜都比売神を殺した素蓋鳴命のものだ。木屋平口から剣山に登る途中には、竜光寺の坊と思われる庵があって、そこに住む老人が、更に奥院に参詣することが許されるかどうかを神様に伺って参拝者に示すというのである。
ここには、剣山に埋められた剣は安徳天皇のものではなくて、素蓋鳴命のものだとされています。ここで注目しておきたいのが、前述の『阿波志』にも「敢てこの庵から婦人は更に奥に進まない」と記されていることです。人々の信仰の対象となる山は、日頃から人々の立ち入りを許さない山でもありました。だから、登山には神による許可が必要でした。その入山許可を与えたのが龍光寺だと記します。剣山が円福寺、竜光寺の指導の下に山伏(修験者)にって開かれたことがここからもうかがえます。
 剣山が、先達・山伏たちが信者を連れてくる「集団登山」として、龍光寺と円福寺やが剣山信仰の拠点として栄えてきたことを押さえておきます。
丸笹・見ノ越
夫婦池方面から丸笹・見ノ越方面(祖谷山絵巻)
明治維新の神仏分離で、霊山剣山の地位が動揺した時期がありました。
維新政府の神仏分離令発布と、山伏禁止令が出されたからです。これによって、熊野、那智、大峰などの修験者聖地の威令が衰え、聖護院や醍醐寺の統制力が弱まっていきます。これに対して、円福寺や龍光寺の山伏たちは、逆境を逆手にとっていきます。それまでは、中央の修験本山の許可によった山伏修験者の大先達、先達等の位階の任命権を、自分たちが握ろうとしたのです。そして、円福寺と龍光寺は中央から独立し、拠り所を失った山伏達を再組織して、剣山信仰へと導いたのです。
 円福寺に残る明治15年文書には、次のように記されています。
何某 何房
(赤地金襴紫何  級輪袈裟着用
許可能事
年号月日
真言宗剣山 円福寺主 権少講義何某
右者許容書
これは袈裟着用の許可文(認可状)の形式で、この形式に基づいて、袈裟を発行していたことが分かります。
別に、次のようなものがある。
許可次第
第一   明治十五年六月二百五十枚用意  先達免状渡
第二   同年初テ三十枚用意  近士戒
第三 同右同枚 法名院号許可
第四 同百枚用意 大先達許客証
第五 同二十枚用意 袈裟許可仕也
右五ヶ御許可仕事
別義
何組長或副長申付仕能事
御宝剣御巻物等ハ勤功
之次第二依而被渡仕也
明治十五午年定
ここからは明治15年に、円福寺が上記のような規定をつくり、免状・院号・先達書・袈裟許可書など作成し、先達や信者に与えたことが分かります。つまり、これらの証明書や許可状の発行権を持っていたのです。
剣山円福寺・徳島県三好市東祖谷菅生 | Bodhisvaha
剣山円福寺

円福寺の護摩祈祷や剣神社の祭りには、どんな行事が行われていたのでしょうか?
東祖谷山村誌には、剣神社の最高位の先達であった元老大顧間の森本長一氏の次のような話が載せられています。

円福寺の境内には、一坪ばかり石を築いた小高い所があり、この上を護摩の建火場として、僧侶がこれに向って経文を唱える。周囲には先達を始め、多数の参詣人が白装束で立っている。護摩の焚木には、その者の住所、名前、千支、性別が記されてあり、桧でできているが、それにシキミの葉を添えて、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずるのである。護摩を焚く間、先達の免状としてある木札すなわち絵符をその先につけた杖は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。絵符は杖につけやすいように下駄状の歯が着いており、歯には中央に穴があいているので、それに杖を差しこんで紐で結びつけるのである。

剣山円福寺の護摩
円福寺の護摩法要
 戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守としたことがあったそうだ。現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。御神水は何年おいてもくさらない水で、これを飲むと無病息災、病気の人も不思議と回復するという。これを神棚に祀ったりもする。
円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多いそうだが、剣神社の信者もそうで、戦前には香川から獅子舞もやってきたそうだ。
剣山年間行事

 剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。講中には例えば、森本長一氏の場合、森本会という組織をつくっておられる。先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣するのである。森本会には二人の女性の先達がいるそうだが、神社全体では十人内外の女性先達がいる。行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。
要点を整理しておくと
①円福寺の境内で護摩祈祷が行われ、周囲に先達や多数の参詣人が白装束で参加した。
②護摩の焚木(檜)に、参加者の住所、名前、千支、性別が記して、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずる
③護摩を焚く間、先達免状の木札(絵符をその先につけた杖)は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。(先達の叙任式を兼ねていた)
④戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守とした
⑤現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。
⑥円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。
⑦円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多く、戦前には香川から獅子舞もやってきた。
⑧剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。
⑨先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。
⑩先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣する。
⑪十人内外の女性先達がいるが、行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。

剣山の行場

最後に剣山の主な行場を、次のように挙げています。
鎖の行場
鉄の鎖が滝にそって降されており、それを握って滝を下る修行をする。
不動の岩屋                          
洞穴の中に不動尊を祀ってあるが、その不動尊に水が落ちている。夏でも一般の人なら十分間と中に入っておれない冷たさだという。
鶴の舞
鶴が翼を広げ、胸を張った姿の様に岩が張りだしており、そこを廻るのである。
千筋の手水鉢
水が流れて岩が縦に割れ、たくさんの筋状になっている。それを降りるのである。
引臼舞
引臼状をした岩を廻るのである。
蟻の塔渡り
足場の岩が刻みこんであり、そこに左右の足を突込んで廻る。もし左右の足の位置を間違えれば出発点にもどってやりなおすしかないという。
以上をまとめておきます。
①江戸時代後半になって、木屋平の龍光寺の修験者たちによって剣山は開山され、富士の池を通じて、多くの参拝登山者が先達たちに率いられてやって来るようになった。
②祖谷側では菅生の円福寺が見ノ越を拠点に大剣神社を神体とする石鎚信仰を広めた。
③龍光寺と円福寺は、信者テリトリーを分割して、共存共栄関係にあった。
④明治の神仏分離や山伏禁止令の中でも、両寺は教勢を失わずに信者達を集め続けた。
⑤こうして見ノ越の円福寺は、本家の菅生・円福寺を凌駕するに至った

こうして、見ノ越の円福寺は明治の神仏分離以後も剣山の見ノ越側の拠点として繁栄を続けることになります。ところで、江戸時代後半になって見ノ越に現れた円福寺は、もともとはどこにあったお寺なのでしょうか。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      
P1250781
平家の馬場(剣山山頂) 
 いまは剣山の表玄関は見ノ越です。ここまで車でいきリフトにのればで1700メートルまで挙げてくれますので、頂上が一番近い「百名山」のひとつになっています。

P1250714
剣山リフトで1750mまで上げてくれる
西島のリフトから続く何本かの遊歩道のどれを選んでも1時間足らずで頂上に立つ事ができます。

P1250806
リフト終点から頂上へのルートは3本
このエリアを歩く限りは、この山が修験者たちの行場であったことをうかがわせるものに出会うことはありません。しかし、頂上から北側の穴吹川の源流地帯に下りて行くと、石灰岩の断崖と洞窟が続く行場が展開します。そして、いまでもこの行場は使われています。
 この行場はいつ、どんな人たちによって開かれたのかを見ていく事にします。
P1250803
剣山北面は修験者の行場
まず、剣山という山名についてです。頂上にやってきた人たちがよく言うのが「剣のように険しく切り立った山かと思っていたら・・・・四国笹の続く雲上の草原みたい」という感想です。

P1250788
剣山山頂の四国笹の草原

 この山が剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。
『祖谷紀行』によれば、旧名を「立石山」としています。
明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は
「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」
とあって、「石立山」と呼ばれていたことが分かります。「立石山」と「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたようです。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものとしておきます。
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剣山頂上の宝蔵石(山小屋に隣接)

江戸時代に藩主の祖谷山巡見の際に、お付きの絵師が書いたとされる祖谷山絵巻の剣山山頂です。
剣山頂上 祖谷山絵巻
祖谷山絵巻の剣山山頂(法蔵岩)
ここの描かれているのは、現在の登山者たちが目指す三角点のある頂上ではありません。宝蔵石と今は呼ばれている「立石」が、当時の頂上で、シンボルでもあり、信仰の対象になっていたことがうかがえます。
 また別の記録によると、この山はかつて「小篠(こざさ)」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」

ここでは「小篠」が「剣山」の別名として使用されています。権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
 この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎笈があります。
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次郎笈(ぎゅう)
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。研究者は次のように考えているようです。
「ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」

ここにも、修験者の影が見え隠れします。  つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈(祖谷山絵巻)
それでは、江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

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剣山直下の大剣岩
第一は、大剣神社の存在です。
この神社の御神体の大剣石が大地に突き刺さったような姿はインパクトがあります。ここには、剣神社(大剣神社、神仏分離以前は大剣権現)が祀られています。ここから剣山の名が生まれたとするものです。
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剣山直下の大剣岩
  たとえば、『阿波志』の「剣祠」(剣神社)の項には、次のように記されています。
 剣祠 祖山菅生名剣山の上に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以て神と為す、三月、雪消え人方に登謁す、其形の似たるを以て、名づけて剣と日ふ、祠中剣あり、元文中(一七三六~四一)人あり、之を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ

意訳変換しておくと
剣祠(大剣社)は、祖山菅生(すげおい)の剣山の上にある。菅生名から二里余、頂に岩が高さ三丈の岩が屹立する。地元の人達は、これを神と崇める。三月になって、雪が消えると人々は参拝に訪れる。この岩はその姿から「剣」と呼ばれている。祠の中には剣がある。元文年間(1736~41)に、盗人に盗まれたものを取り返し、小剣の岩窟中の人跡至らざる所に納めたが、後に行方が分からなくなった。

 「形の似たるを以て、名づけて剣と云う」とあり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したようです。だんだん「剣」が定着していく過程が見えて来ます。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩(神石)と大剣社(祖谷山絵巻)

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大剣神社

  また、宝暦七年(1757)、宇野真重著の『異本阿波志』には次のように記されています。
 剣山 祖谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、小篠(剣山)の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巌、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
六月七日諸人参詣多し、菅生名より五里此間に大家なし、夜に出て夜に帰ると云ふ、其余木屋平村より参詣の道あり、諸人多くは是より登る
 意訳変換しておくと
 剣山は祖谷山の東の端にあたる。この山上に剣の権現が鎮座していて、小篠(剣山)の権現とも呼ぶ。谷から高さ三十間ばかりの四方柱のような巌石が起立する。風雨にも錆ず、誠に神宝の霊剣である。六月七日には、数多くの人達が参詣登山する。菅生名から五里の間に集落はない。夜に出て夜に帰ると云う。この他には木屋平村からの参詣道あり、諸人多くは是より登る
ここにも 神石が「神宝の霊剣」として信仰の対象になって、菅生や木屋平からの参拝者がいたことが分かります。
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大剣岩と大剣神社の赤い屋根

その二は、剣神社に祀る神宝が剣であることに由来するとする説です。
この説を裏付ける江戸期の文献はありませんが、明治45年の田山花袋著『新撰名勝地誌』には、次のように記されています。

「剣山は四国第一の高山にして……(中略)……山頂に一小祠あり、剣の社と称す。安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ……(後略)」

ここには、平家と共に落ち延びてきた安徳帝の神宝の剣を、ここの神社に祀った。だから剣神社と呼ばれるようになった。「安徳天皇の剣=剣神社=剣山」ということになるようです。

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剣山頂の法蔵岩
 その三は、安徳天皇の剣を埋めたことによるとする説です。
 祖谷地方の伝承に屋島合戦に敗れた平氏一族が、密かに安徳帝を奉じて祖谷に入ってきたとする「平家落人説」があります。江戸末期の寛政五年(1792)、讃岐の文人・菊地武矩が当地を訪れた際の旅行記『祖谷紀行』には、次のように記されています。

「山上より遥に剣の峰みゆ、其山、昔は立石山といひしが安徳天皇の御つるぎを納め給ひしより、剣の峯といふとなん」

 3つの説に共通するのは、頂上直下の剱祠(大剣神社・大剣権現)が、人々の強い信仰を集めていたらしいことと、この山の修験的性格です。
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剣を埋めたと伝えられる剣山頂の法蔵岩

ここまでで、私が感じた事は、剣山の開山が石鎚に比べると新しい事です。
この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。
「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません。山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

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一の森への縦走路

 「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
 剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。

山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平の龍光寺
まず、木屋平の龍光寺の剣山開発プロジェクトを見てみましょう。
 龍光寺は、剣山の山頂近くにある剣神社の管理権を持っていました。当時の霊山登山参拝は、立山・白山・石鎚で行われていたように、先達が一般信者を連れてくるスタイルでした。先達が各地域の人々を勧誘組織化し信者として修行・参拝するのです。中世の熊野詣での先達と檀那の関係を受け継いでします。
 つまり先ず必用なのは修験道山伏たちです。彼が各地域で布教活動を進め、勧誘しない限り参拝客は集まりません。龍光寺は、阿波の修験山伏達との間に、相互協力の関係を作り上げて行く事に成功します。
 龍光寺大御堂には、寛元年間に造られたと思われる阿弥陀如来坐像など六体の像があります。そのうちの不動明王立像光背の裏面に、次のように記されています。
「元禄十丁丑年 銀子拾弐分たいこ 教学院口口口並口口口寄進 十二月十四日」

ここからは修験者、教学院が龍光寺と協力関係にあったことが分かります。龍光寺が江戸初期の頃に「剣山開発」に進出したこともうかがえます。
  龍光寺の剣山開発プロジェクトの次の手は、受けいれ施設の整備です。
木屋平 富士の池両剣神社
剣修行のベースキャンプとなった富士池

  剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

木屋平 富士の池道標

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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 一の森の権現さん
 実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。この背後には何があったのでしょうか?
 もともと、長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。

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剣と一の森を結ぶ縦走路

 そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。
 修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言となったのかもしれません。

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剣山北面の行場への道
 龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
 この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

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穴吹川源流に近い行場
これは、剣山の反対斜面の三好郡東祖谷山村にも、刺戟になったようです。
何故なら、剣山の半分は東祖谷山村のもので、剣山頂は同村に属しています。見ノ越の円福寺は剣山に社領として広大な山地も持っていました。龍光寺の繁栄ぶりを黙って見過ごすわけにはいきません。
 祖谷菅生の円福寺は江戸時代末に、見の越に不動堂(後の剣山円福寺)を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と祖谷山からのふたつのルートが開かれ、剣山への登山は発展を加えることになります。

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このように
剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています。ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

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さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します
①命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この命名が近世初頭を遡るものでないこと
③小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
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 明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

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穴吹川源流

 龍光寺の住職・明皆が明治十二年六月に信者に配布した「剱和讃」の全文があります。ここからは当時の模様を知ることができます。
          剱  和  讃
   帰命頂礼 剱山      其濫筋を尋ぬれば
   南海道の阿波の国     無二の霊山霊峰ハ
   元石立の山なるぞ     昔時行者の御開山
   秋は弘仁六年の      六月中の七日なる
   空海大師此峯に      登りて秘法を修し玉ふ
   眼を閉て祈りなん     神と仏と御出現
   殊に倶利伽羅大聖    大篠剱の御本地と
   愛染王は古剱乃      御本地仏と仰ぐなり
   されバ秘密の其中に    剱すなわち大聖尊
   此時空海石立の      山を剱と呼ひたまふ
   一字一石法花経の     塚(大師の古跡なり
   山上山下の障難を     除きたまへる事ぞかし
   古剱谷の諸行場は     役の行者の跡そかし
   中にも苔の巌窟には    龍光寺 大山大聖不動尊
   本地倶利伽羅大聖は    無二同鉢の尊ときく
   衆生の願ひある時は    童子の姿に身をやつし
   又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
   あら尊しや御剱の     神や仏を仰ぎなば
   五日も七日も精進し    垢離掻川に身漱して
   運ぶ案内富士の池     三匝行道する行者
   合掌懺悔礼拝し      御山に登る先達
   新客行者を誘ひてや    八十五町を歩きつつ
   右と左に絵符珠数     唱る真言経陀羅尼
   此の御剱の山なる     大聖尊の三昧池ぞ
   踏しおさゆる爛漫の    梵字即ち大聖尊
   壱度拝山拝堂を      いたす行者の身影の
   形いつも離るらん    悪事災難病難を
   祓ひおさむる御宝剱    六根六色備るを
   唯真心のひとつなり    深く仰て信ずべし
      龍光寺住職    明皆成誌
    明治十二年六月   当山教会者へ授共す
 
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 今では、見の越が剣山参詣の玄関口スタートになりました。
「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか。円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
 一方、藤の池派には本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

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参考文献 田中善隆 剣山信仰の成立と展開  大山・石鎚と西国修験道所収

 

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