瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:勤操

 空海には謎の行動がいくつかあります。そのひとつが帰国後の九州滞在です。
弘法大師・空海は下関市筋が浜町に帰国上陸した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

空海は806年8月に明州の港を出帆しますが、いつ九州へ着いたのかを記す根本記録はないようです。10月23日に、自分の留学成果を報告した「御請来目録」を宮廷に提出しているので、それ以前に帰国したことはまちがいありません。ここで、多くの空海伝は入京を翌年の秋としています。とすれば九州に1年いたことになります。この根拠は大和国添上郡の虚空蔵寺について、「正倉院文書抄」が大同二年頃に空海が建立したと書かれているからです。
空海―生涯とその周辺 (歴史文化セレクション) | 高木 〓元 |本 | 通販 | Amazon

しかし、この文書については、高野山大学の学長であつた高木伸元は、『空海―生涯とその周辺―』の中で、この記述は後世の偽作だと論証しています。そして空海が入京したのは、大同四年(809)4月12日の嵯峨天皇の即位後のことであるとします。そうだとすると、空海は2年半も九州に居たことになります。
 どうして、空海は九州に留まったのでしょうか。あるいは留まらざる得なかったのでしょうか。
この答えは、簡単に出せます。入京することが出来なかったのです。空海は長期の留学生として派遣されています。阿倍仲麻呂の例のように何十年もの留学生活が課せられていたはずです。それを僅かな期間で、独断で帰国しています。監督官庁からすれば「敵前逃亡」的な行動です。空海は、そのために自分の持ち帰ったものや書物などの目録を提出して、成果を懸命に示そうとしています。しかし、それが宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったということです。そこには最澄の「援護射撃」もあったようです。まさに九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。
スポット | たがわネットDB
香春神社
それでは、その間に空海は何をしていたのでしょうか?
その行動はまったく分からないようです。研究者は、二年半の九州滞在中に、宇佐や香春の地など、秦氏関係地をたずねて、その地にしばらく居たのではないかと推測します。この期間が結果として秦氏との関係を深めることにつながったと云うのです。
伊能忠敬が訪れた香春神社がある香春町の街並み。後方は香春岳の一ノ岳 写真|【西日本新聞ニュース】
香春岳のふもとに鎮座する香春神社(秦氏の氏神)
「空海=宇佐・香春滞在説」を、裏付けるものはあるのでしょうか?
①秦氏出自の勤操は、空海が唐に行く前から、虚空蔵求聞持法を通してかかわっていた
②空海は故郷の讃岐でも秦氏と親しかった
③豊前の「秦王国」には虚空蔵菩薩信仰の虚空蔵寺があった。
④虚空蔵寺関係者や、八幡宮祭祀の秦氏系の人々は、唐からの帰国僧の空海の話を聞こうとして、宇佐へ呼んだか、空海自身が八幡宮や虚空蔵寺へ出向いた(推理)
⑤最澄は入唐前に香春岳に登り、渡海の平安を願ている。最澄が行ったという香春へ、空海も出向いた(推理)
⑥「弘法大師年譜』巻之上には、空海は航海の安全を祈願して香春神社・宇佐八幡官に参拝し、「賀春明神」が「聖人に随いて共に入唐し護持せん」と託宣したと記す。
⑦空海は虚空蔵信仰の僧であった。
⑧和泉国槙尾山寺から高雄山寺へ入寺した空海は、「宇佐八幡大神の御影を高雄寺(高雄山神護寺)に迎えている」と書いている。虚空蔵寺のある宇佐八幡宮に空海がいたことを暗示している。


空海に虚空蔵求聞持法を教えたといわれている勤操は、空海の師と大和氏は考えています。そして、次のように推測します。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」

 この期間に勤操は「遊行中」で所在不明となっている。唐から帰国して九州にいた空海に会って、虚空蔵求聞持法についての新知識を聞いたりしていたのではないか

「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」

以上のような「状況証拠」を積み重ねて、2年半の九州滞在中に空海は師である勤操と連絡をとりながら、八幡宮の虚空蔵寺や香春岳をたずねたのではないかと大和氏は推察します。

虚空蔵寺跡

  虚空蔵寺は、辛嶋氏の本拠地辛嶋郷(宇佐地方)に7世紀末に創建された古代寺院で、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったようです。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられます。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は、この虚空蔵寺を改名したものです。秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があったようです。
法蓮は新羅の弥勒信仰の流れを引く花郎(ふぁらん)とも言われます。
彼は7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学びます。そして、「秦王国」の
霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術(巫術)に長じていたとされます。
 このような秦氏の拠点と宗教施設などで、
空海は九州での2年半の滞在を過ごしたのではないか。その中で今まで以上に、秦氏との関係を深めます。それを受けて、秦氏は一族を挙げて、若き空海を世に送り出すための支援体制を形成してきます。その支援体制の指揮をとったのが空海の師・勤操ということになるのでしょうか。大和氏の描くシナリオは、こんな所ではないでしょうか。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」

丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵
 
 『今昔物語集』(巻十一)(嘉承元年(1106年成立)には、空海の高野山開山のきっかけが記されています。そこには弘仁七年(816)4月ごろに空海が高野山に登って、高野の地主神である丹生明神に会ったことから始まります。これは康保五年(968年成立)の『金剛峯寺建立修行縁起」がタネ種のようです。

高野山丹生明神社

ここで注目したいのが、高野の領地は丹生明神の化身の山人から譲渡さたということです。つまり高野山の元々の地主神は丹生明神だったことになります。丹生明神は、丹(水銀)と深く関わる神です。「高野山=丹生明神=水銀」という構図が見えてきます。今回は、これを追いかけて見ます。テキストは、前回に続いて 「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究」です。
丹生大師(丹生山神宮寺)を訪れた目的は愛宕山(多気郡多気町丹生) – 神宮巡々2
三重県の丹生大師(丹生山神宮寺)

 丹生山の神宮寺は、宝亀五年(774)に空海に虚牢蔵求聞持法を伝えた秦氏出身の勤操(ごんぞう)が開山した寺です。
丹生山の神宮寺は弘法人師の大師をとって「丹生大師」と呼ばれています。これは勤操が創建し、その後に空海がこの寺の緒堂を整備し、井戸は空海が掘ったという伝承からきているようです。このような伝承を生み出したのは、丹生に関わりのある伊勢の秦の民だと研究者は考えているようです。伊勢の丹生伝承は、勤操―空海―虚空蔵求聞持法が結びついてきます。

水銀の里 丹生を歩く|イベント詳細|生涯学習センター|三重県総合文化センター

 弘法大師が掘ったという井戸について、松田壽男は「水銀掘りの堅杭の名残」とします。
 神宮寺には、水銀の蒸溜に用いた釜と木製の永砂器が保存されているそうです。神仏分離までは一体だった隣の丹生神社の神体は、鉱山用の槌と鑿(のみ)とされます。さらに金山籠(かなやまかご)という鉱石搬出用の器具も残されています。これらは水銀掘りに使われたものと研究者は考えているようです。
丹生大師 三重県多気郡
 松田壽男氏は、丹生神社の神宮寺所蔵の蒸溜釜は、古墳時代の「はそう」と呼ばれた須恵器とまったく同じだと指摘します。壺形で上部が大きく開き、腹部に小孔があります。この形は神官寺所蔵の蒸溜釜と比べると、「構造がまったく同様で、古墳時代の日本人が朱砂から水銀を精錬するために用いたと見てさしつかえない」とします。

須恵器「はそう」考
須恵器「はそう」

 ここからは、この地では、古くから朱砂採取が行われていたことが分かります。秦集団の丹生開発のようすが見えてきます。

丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
錬金術と錬丹術の歴史 |
錬丹(金)術
 佐藤任氏は、空海が錬丹(金)術に強い関心をもっていたとして、次のように記します。
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が銅を産出する地質であったこと
これらの事実から、空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとみてよいと思われる。もしその後の高野山系に丹生(水銀・朱砂)や鉱物の関心がまったくなかったなら、人定伝説や即身成仏伝説の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は起こらなかったであろう」

として、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたと記します。
 松田壽男も次のように記します。
空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

本地垂迹資料便覧

内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のような説を展開します
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。
ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

これを補うように内藤正敏は、空海が唐に渡った時代のことについて次のように記します
「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ
 
これらを積み重ねると、自ずから空海が丹生の産地の高野山に本拠地を置いた理由のひとつが見えてくるような気もします。
水銀と丹生神社の関係図
松田壽男氏は「丹生の研究」に「高野山の開基と丹生明神」と題する次のような文章を載せています。
   金剛峯寺から引返して、道を高野山のメーンストリートにとり、東に歩いてきた私は、 一の橋かられ地をぬけて、奥の院の大師霊廟へと進んだ。香花に包まれた空海の墓。その傍らにも丹生・高野明神の祠があることは、すでに紹介ずみである。私はさらに、この聖僧の墓地の裏側に廻り、摩尼山の山裾にとりついてみた。こうして、奥の院から高野山の東を限る摩尼山の画面にかけての数地点で採収した試料からも○・○〇五%という高品位の水銀が検出されて、私を驚喜させた。科学的な裏付けは、西端の弁天岳だけではなかった。少くとも弁天岳から摩尼山までの高野山の主体部、すなわち空海の「結界七里」の霊域は、すべて水銀鉱床と判定され、鉱産分布の地図に新たにマークをしなければならないことにになったのである。

 ここからは高野山の霊域の全体が「水銀の鉱徴を示す土壌が露頭」していて、「全山がそっくり水銀鉱床の上に乗っている」ことが分かります。それを知った上で空海は、ここを選んだようです。逆に言えば、空海が丹生(水銀)に関心がなかったら、ここを選んではなかったかもしれません。
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  空海と丹生(水銀)の関係は深そうです。それは、同時に秦氏との関係を意味すると研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

秦氏と空海

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一宮となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その8年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、7年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。

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渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。

 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)
 このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという
(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1

「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10」には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、次のように記します。

葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。

大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。

技能集団としての秦氏

山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
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理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

前回は聖宝(理源大師)が、空海の弟真雅に入門し、奈良の東大寺で次のような師からいくつもの宗派について学んだことを見てきました
①三論宗を元興寺の願暁と円宗に
②法相宗を東大寺の平仁に
③華厳宗を同寺の玄永(玄栄)に
④真蔵のもとで律宗を
もちろん師である真雅からは密教も学んだでしょう。聖宝の南都奈良での修学が何年までのことかは分かりません。南都での修学を終えて都に帰ってきた年代を確定することはできませんが、聖宝20歳の半ば、すなわち斉衡三年(856)頃としておきましょう。これは空海没後約20年後のことになります。
理源6
八経ケ岳の聖宝像

この時期から聖宝は、山林修行をすでに行っていた形跡があるようです。
 聖宝が師真雅の犬をめぐって怒りを受けて破門同然になり、四国へ巡錫の旅に出たり、乞食の行をしたりしたという説話があります。これも、聖宝の山林修行が反映していると研究者は考えているようです。
聖宝の山林修行については、『醍醐寺要書』の延喜十三年(913)十月二十五日付の「太政官符」に引用されている観賢の奏状に、次のように記されています。
先師(聖宝)、音、飛錫を振つて、遍く名山に遊び、翠嵐、衣を吹きて、何れの巖を踏まず、白雲、首を払めて、何れの岨を探らざるはなし。然らば則ち徒、遁世長往のい収を側めんとす
意訳変換しておくと
聖宝は、むかし錫杖を手にして、数多くの霊山・高山を遊行・修行した。緑の山の気が、衣を動かし、いずれの大きな岩(巨石信仰)を踏まないことがなく、白い雲が頭をかすめて、いずれの山の洞穴を探らないことはなかった。こうしてただ、山林に隠遁し、修行を行う場所をさだめようとした。

とあります。ここからは、聖宝が霊山の行場で、岩籠もりして、巨石や霊石に座して山林修行を行ったことが分かります。
理源5

それでは、聖宝が修行の霊山として選んだのはどこだったのでしょうか?
 聖宝が修行の地としたのは吉野の山々だったようです。
善無畏三蔵(637~735)が訳出した『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』一巻の所説にもとづく虚空蔵求聞持法という行法があります。この行法の分別処法には、空閑静処・浄室・塔廟・山頂・樹下の場所を選ぶという条件があげられていて、山林修行を一つの重要な行法としています。これを実践したのが若き日の沙門空海でした。
空海は「三教指帰」の序文で次のように記します。
爰(ここ)に一の沙門有り。余に虚空蔵聞持の法を呈す。……
ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鑽燧に望む(精進努力し、道を求めてやまない)。阿国大瀧嶽に踏り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す(修行につとめた結果、虚空蔵菩薩の応化があった)。

ここからは、空海が虚空蔵求聞持法にもとづいて阿波の国の大瀧嶽(徳島県太龍寺)や土佐の国の室戸岬(高知県室戸市)で山林修行をし、虚空蔵菩薩の応化をえたことを語っています。空海が求聞持法を行ったことは、その弟子たちにもつながっていたと研究者は考えているようです。
 以前にお話ししましたが、空海に虚空蔵求聞持法を教えた「一の沙門」は、大安寺三論宗の碩学勤操とされてきました。しかし、今では勤操説に疑いをかける研究者が増えているようです。ただ、勤操と空海とのあいだに師弟関係がなくても、両者は親密な間柄であったことはうかがえます。入唐して、虚空蔵求聞持法をももたらした道慈から善議へ、そして善議から勤操へと伝えられた同法の影響を空海が受けたとしておきましょう。聖宝は空海の高弟真雅のもとで、出家したのですから空海が持っていた虚空蔵求聞持法の行法の流れのなかにいたことになります。
 元興寺法相宗の大成者とされる護命(750~834)は、空海と同時代人です。彼は吉野山に入って苦行した学僧ですが、次のような事を実践していたと記されています。
「月の上半は深山に入り、虚空蔵法を修し、下半は本寺(元興寺)にありて、宗旨を研鑽」

彼が入った「深山」とは吉野山の現光寺とされます。そこで、月の半分は虚空蔵法(山林修行)を行い、残りの半分は元興寺で修学していたようです。ここからは、 元興寺の法相宗唯識では、学僧のあいだに虚空蔵求聞持法の行法が伝えられ、法相を学んだ願暁にも、その行法の知識が受けつがれ、実践されていたようです。この時代には、山林修行と修学が一体と考えられるようになっていたことがうかがえます。そのような機運の中で、讃岐の中寺廃寺のような山岳寺院が各地に建立されていくことになるようです。
 そのような中で、いろいろな宗派に関心を持った若き聖宝も虚空蔵求聞持法を実践するようになり、霊山に入るようになったとしておきましょう。

聖宝の山林修行で、もっとも有名なのは金峯山への入峯です。
その中で最も信憑性のある『醍醐根本僧正略伝』には、次のように記されています。
「金峯山に堂を建て、並に居高六尺の金色如意輪観音、並びに彩色一丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造る。……
金峯山の要路、吉野河の辺に船を設け、渡子、倍丁六人を申し置けり」

ここからは聖宝の業績として次のようなことが記されています。
①金峯山における堂舎の建立、造像
②金峯山への要路である吉野川の渡船の設置と船頭、人夫の配備
しかし、これは聖宝が南都奈良で学んでいた若い頃のことではないようです。研究者は次のように指摘します。
「そうした活動が可能で、しかも実際に山岳を跛渉して激しい修行を続けることができた年齢を考慮す」              (大隅和雄「聖宝理源大師』)

聖宝の宗教的活動が、かなり熟していた時期のことだというのです。

金峯山は大峰山(山上が嶽 標高1720m)を盟主とする連山の総称です。
聖宝が金峯山に入峯したことを伝えるもっとも古い伝説は『諸山縁起』です。この書には聖宝は念怒月緊菩薩の峯に二部経(『無量義経』『法華経』『観音賢経』の法華の二部か)と天台大師智顎の『摩訂止観』などを埋納し、醍醐天皇の使いとなって天皇震筆の『法華経』を般若菩薩波羅蜜の峯に安置したと記します。天皇の使いとして、金峯山の峯のに経塚を作り納経したというのです。
 これに対して研究者は次のように指摘します。
『醍醐根本僧正略伝』以外に金峰山における聖宝の修行を語るものは、すべてが伝説である」 (大隅和雄「聖宝理源大師』)

その根拠を見てみましょう。
聖地に残る怖い信仰(5)(金峯山寺と大峰山) - 慶喜

金峯山での埋経は、寛弘四年(1004)八月に入峯した藤原道長の事績がよく知られています。
 寛弘四年(1004)8月11日に、大峯山に登った藤原道真は、前年に書写した『妙法蓮華経』をはじめ、あらたに書写した『弥勒経』三巻、『阿弥陀経』一巻などあわせて十五巻を銅筐に納めて埋め、その上に金銅燈楼を立て、常燈を奉った(『御堂関白記』寛弘四年八月十一日条裏書、金峯山出土「経筒銘」参照)とされます。その経筒が金峯山経塚遺跡から出土していて、遺物と記録とが一致します。道長の埋経が確認できます。出土した銅筐の銘文には、次のように記されています。
「先年、書き奉り資参せんと欲するの間、世間病悩の事に依りて、願ひと違ふ」

 金峯山などへの埋経は、この時に初めて道長が行なったものではなく、すでに埋経の風習はあったようです。しかし、9世紀の聖宝の時代には「経塚」が普及していません。埋経が盛んに行われるのは、11世紀の後半から12世紀になってからのことです。聖宝の金峯山への埋経も、そのころから語られだした伝説であって、事実を物語るものではないと研究者は考えているようです。

聖宝は「強力」だったという伝説が金峯山には伝えられてます
 もっとも古いものは『東大寺要録』諸院章第四、三面僧房に次のように記されています。
「件の房、椚の下に赤石一丈ばかりを埋む。僧正(聖宝)、金峯山従り脇に爽み持ち来れりと」
意訳変換すると
「この房の椚の下に赤石が一丈ほど埋まっていた。これは僧正(聖宝)が金峯山から脇に抱えて持ち帰ってきたものである」

十三世紀後半に書写された『尊師御一期日記』の「私に云はく」には
「嶽獄(金峯山)従りして自ら大石を持ち来り、斯を履脱の所と為す。即ち今にいたる迄、之に有り。其の力、等倫(同じ仲間)には無し。事已に以て顕然たるものか」
意訳変換しておくと
「金峯山から大石を持ち来り、これが現在の靴脱ぎ場の大石である。聖宝の力は、同じ仲間にはない。飛び抜けた力を持ていたことが分かる」

というかたちで伝えられます。
さらに時代を下った14世紀前半の『元亨釈書』になると、
庭上に巌石有り。世に日ふ、宝(聖宝)、金峯山従り負ひ来れりと。而して其の大なること人の力の耐する所に非ざるなり。宝、修練を好み、名山霊地を経歴す。金峯の瞼径、役君の後、榛塞ぎて行く路無し。宝、葛苗呻を撥ひて踏み開く。是れ自り苦行の者、相ひ継ぎて絶えず。
意訳変換すると
庭に巌石がある。これが宝(聖宝)が金峯山から背負って持ち帰った伝えられる石である。その大きさは人の力で動かせるものではない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴した。。金峯の険しく危険な小径は、役行者の後は廃絶されて路もなくなっていた。これを聖宝は再び踏み開いた。こうして、苦行の者(修験者)は、再び多くのものがこの道を辿って修行を行うようになった。

という話に「成長」して、聖宝の強力伝説となって、ひろく世に伝えられます。同時に聖宝は、役小角ののちに絶えていた金峯山への入峯を開いた人物として人びとのあいだで信じられることになります。なかでも修験者から聖宝は、「金峯山修験道再興の祖」として崇められるになります。
理源大師 (江戸後期)
聖宝(江戸時代)
修験者は、霊山などで修行することによって超自然的な力を獲得した者のことです。
聖宝が金峯山から大きな巌石を持ってきたという強力伝説も、聖宝を修験者とみなすことから生まれた伝説でしょう。そして、聖宝が厳しい修行の末に、超自然的な験力を持っていたと信じられていたことがうかがえます。ある伝記には、聖宝が一日で醍醐を出て、大峯山の蔵王堂に参詣し、ついで東大寺に立ち寄り、正午には醍醐寺に帰って勤行をしたと記します。これは聖宝は、醍醐寺から山上(大峯山)へ日参修行していたことになります。まさにスーパーマンです。

理源4

『真言伝』は、栄海が正中二年(1325)ごろに撰述したものです。
その聖宝の伝には、次のように記されています。
「凡ソ幼少ヨリ斗藪ヲ業トシテ大峯等ノ名山霊地経行セズト云事ナシ」
「又、大峯ハ役行者、霊地ヲ行ヒ顕シ給シ後、毒蛇多ク其道ヲフサギテ参詣スル人ナシ。然ルヲ僧正、毒蛇ヲ去ケテ山門ヲ開ク。ソレヨリ以来斗藪ノ行者相続テ絶ル事無シ」
意訳変換しておくと
「聖宝は幼少の頃から、山林修行を行っており、大峯などの名山霊地を遍歴していた」
「また、大峯は役行者が開いた霊地であるが、その後毒蛇が多く、この道を塞ぎ参詣する行者は途絶えていた。そこで聖宝は、毒蛇を退散させて山門を再び開いた。以後、山林行者も絶えることなく訪れるようになった
ここに初めて、聖宝の大峯山での大蛇退治に関する有名な伝説が登場します。
この大蛇退治の話は、承平七年(九二七)九月に書かれた『醍醐根本僧正略伝』にはないので、後世になって付け足された伝説のようです。
 正安元年(1299))四月に定誉によって『醍醐寺縁起』が書写されたころに金峯山での大蛇退治伝説が付け加えられたとすれば、その伝説の成立は、13世紀末期のことになります。前回に大蛇退治伝説は、東大寺の住房での大蛇伝説に影響を受けて成立したものであるとしましたが、それと合致するようです。

最後に聖宝伝説がどのようにして生まれてくるのか、大蛇退治伝説で見ていくことにします。
金峯山には、素材となる話が「人に危害を加える竜の話」として10世紀前半にあったようです。まず、これを語ったのが聖宝の門弟・貞崇であることを押さえておきたいと思います。その話は、醍醐天皇の皇子重明親王の日記である『吏部王記』の承平二年(932)二月十四日条にありましたが、今は伝わっていません。しかし、逸文が九条家本『諸山縁起』と『古今著聞集』にあって、次のように記されています。
 古老が伝えている話によると、昔、中国に金峯山という山があって、金剛蔵王菩薩がそこに住んでいた。ところが、その山は飛び去って大海を越えて日本に移ってきた。それが吉野の金峯山である。山に捨身の谷があって、阿古谷(あこだに)といわれ、 一頭八身の竜がいた。
 昔、本元興寺の僧のもとに童子がいて、阿古と名づけられていた。幼少なのに聡明であったので、得度を受ける前に行なわれる試験の時に、師は阿古に身代わり受験させる。合格すると、かわりに他人を得度させてしまうことが三度ほどあった。阿古は恨み怒って、この谷に身を投げ、竜となった。師は阿古が投身したことを聞き、驚き悲しんで谷に行って見ると、阿古は、すでに竜に化していて、頭はなお人の顔をしており、走ってきて師を害しようとした。その時、金剛蔵王菩薩の冥護があって、石を崩して竜を押しつけてしまったので、師は害をのがれた。
 貞観年中(859)に観海法師が竜を見ようとして、その谷に行ってみると、夢に竜があらわれて、翌朝お目にかかりたいと頼んだのであった。夜明けごろになると、雲が湧き起こり、雹が降ってきて、竜が首をあげるのを見ると、高さは二丈ばかりで、一頭八身であった。
 観海は竜に祈って、「八部の『法華経』を写し奉って、汝の苦を救いたいから、私を害しないでくれ」と言った。竜は、なお毒気を吐きつづけたので、害が観海の身におよぼうとした。観海は、大いに恐れ、心神が迷い惑った。そこで金剛蔵王菩薩に帰命して、『法華経』を写すことを願った。すると雲霧が立ちこめて暗くなり、竜のいるところが見えなくなってしまった。
 しばらくして雲霧が晴れると、たちまち菩薩の御座します所に至った。観海は祈感して願いのように経を写し、これを供養しようと善祐法師を請じて、講師とした。善祐法師は、それを固辞した。夢に菩薩が告げて、「我は今、汝を請じるのだ。あまり固辞するな。すべからく『法華経』方便品まで漢音で読まなければならぬ」と言った。善祐は感じ悟って起請し、菩薩が告げたとおりにした。『法華経』の第二品である方便品に至るころになって、大風が経をひるがえして、経典の飛び去った所がわからなくなってしまった。したがって、八部の『法華経』は、現に、その一巻が欠けているのである。
この説話からは、十世紀の前半以前に、すでに金峯山には竜が住んでいた話があったことが分かります。
物語は、そして人を害する竜に化身した阿古という童子の悲しい物語です。そのなかで活躍するのが僧観海法師です。この人物は、聖宝の同時代人として、実在の人物だったことが他史料から分かります。
  観海のことは、それ以外には分かりませんが、「状況証拠」から真言密教系の僧で、金峯山で山林修行をして、金剛蔵王菩薩に帰依していたのでしょう。修験者としても有名だったので世に伝わっていたのでしょう。これを親王に語ったのが聖宝の門弟の貞崇なのです。
 ここから研究者は次のように推察します
①吉野の鳥栖に住んだ貞崇が親王に観海のこととして語った話だった
②貞観年間に阿古谷の竜の障害を止めさせた観海が、聖宝であるかのように受けとられた
③この時期は、聖宝が南都で修行中の時期でもある。
つまり、「観海=聖宝」と「株取り」「接ぎ木」されたと指摘します。 たしかに『理源大師是録』に引用されている『源運僧都記』には、次のように記されています。
金峯山は、聖宝僧正以前は 一切参詣人なし。その故は、大蛇ありて参詣すれば、悉く是を嗽食(たんしょく)す。尊師彼山に参詣し玉ふに、蛇是を悦びて尊師を嗽食せんとす。
尊師蛇尾を踏玉ふに、起んとすれども、強力に踏付られて起事能はず。尊師蛇に宣し含め仰せらるゝは、永く遠く此御山を去るべし。若猶来らば命根を断べし。如此降伏して後、阿古谷に追ひ入給ひ畢云々
意訳変換しておくと
金峯山は、聖宝がやって来る前までは、一切参詣人はいなかった。それは大蛇がいて、参拝人を嗽食(たんしょく)したからだ。聖宝が参詣すると、蛇は悦んでこれを取って食おうとした。聖宝は蛇の尾を踏んだ。蛇は起きようとするが、強力に踏付られて起きられない。聖宝は、蛇に次のように言い含めた。「この金峯山から去るべし。もし、この山に近づけば命根を絶つ。」
 こうして大蛇を退治して行場に入って行かれた。

ここでは蛇退治の主役は観海でなく、聖宝にすり替えられています。
ただ入峯した人を食らうのは、竜ではなく大蛇です。大蛇が竜にとってかわるのは、聖宝に理源大師の論号が贈られた宝永四年(1707)正月前後のころからです。
理源の龍退治

その翌年に刊行された雲雅の『理源大師行実記』には次のように記されています。
悪竜、威ヲ和(やまと)ノ金峯山二檀(ほしいまま)ニシテ、毒ヲ吐(はき)人ヲ害スルフモツテ、斗撤(とそう)ノ行者、峯二入ルコト能ズ、修験ノ一道、既二断絶ニヲヨブガユヘニ、此災アリト云云。コレニヨツテ、上皇師二詔シテ而モ衣裳宝剣ヲ賜り、用テ竜ヲ伏シ、道フ開シム。
 師、勅命ヲ奉テ剣ヲ侃ビ、錫ヲ持チ、芳野二発向シ、径(ただち)二金峯二今り、安居谷(あこたに)ニ至テ、遙二コレノ観察スルニ 幸ヒナルカナ毒龍首ヲ南ニシテ障臥ス。師、右手に独古(独鈷)ヲ持、左手二錫杖ヲ付いて,僅カニ其尾ヲ踏メ、竜大二古痛シ鬣(たてがみ)ヲ揺シ、鱗ヲ振ヒ、頭ヲ撃(ささ)ゲ身ヲ煩(もだえ)へ後ヘニ顧ミ、前二躍テ山谷二宛転(えんてん)シテ毒ヲ吐コト尤劇(はなはだ)シ。
 師、燿怖(くふ)シ玉フコト無シテ、印ヲ結ビ明ヲ誦シテ、遂ニコレヲ降伏シテ、即上皇賜トコロノ宝剣ヲ以テ其鱗爪ヲ抜採コト三枚、時ニ竜首ヲ低(た)レ救ヒヲ求ム、憐ンデタメニ法ヲ授ケ、帰戒ヲ受シメテ、以テ他処二永ク移シ、霞ヲ喰ヒ、雲二臥ルノ輩ヲシテ悩害アルコト無ラシム。
ここには次のようなことが記されています。
①金峯山の悪龍のために修験者たちが参拝できなくなっていたこと
②悪龍退治のために上皇は、衣装と宝剣を聖宝に授け勅命を与えたこと
③安居谷=阿古谷(あこたに)で龍を退治したこと
④上皇から与えられた宝剣で悪龍の鱗を3枚採集したこと
これが現在に伝わる聖宝の悪龍退治のモデルになったようです。この原型は、貞崇が重明親王に語った金峯山の竜伝説を下敷きにして、登場人物を聖宝に置き換える「接ぎ木」が行われていることがうかがえます。しかも、悪龍退治は上皇による勅命であったと権威付けが行われます。 
 その背景には、聖宝が「修験道中興の祖」として、当山派の修験者たちの信仰対象となっていたからでしょう。こうして、いくつもの聖宝伝説が、当山派山伏たちによって創作されていくことになります。それは弘法大師伝説を彷彿させるものです。しかし、違う視点から見れば、それほど聖宝(理源大師)が庶民信仰化していったともいえます。

理源2
神変大菩薩像とは役行者のこと 役行者と並ぶ存在になった聖宝

 こうして聖宝の誕生地とされるようになった讃岐の本島には、多くの信者達が訪れ、沙弥島にも聖宝(理源大師)のお堂が作られるようになったことは、前々回にお話ししました。
DSC08828
坂出市沙弥島の理源大師堂
そして聖通寺は「聖宝の学問寺」を称するようになっていきます。それでは、このエリアで聖宝伝説を流布した宗教勢力は、どんな勢力だったのでしょうか。それは今の私には分かりません。今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝の山林修行 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館

虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰は虚空蔵信仰と同じ職人の信仰です。もともとは虚空蔵菩薩は、もともとは鉱山関係者の信仰する仏だったようです。そして太子信仰も、鉱山関係の人々の間に多いようです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

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空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 
この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)

 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。
虚空蔵菩薩信仰の成立については、次のような説もあります。


また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
最後に虚空蔵菩薩信仰の成立については、渡来集団の秦氏の星座信仰(妙見信仰)が基礎になって成立したという次のような説もあります。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

この方が私にはすんなりと受け止められます。

 どちらにしても若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは、虚空蔵求聞持法との出会いでした。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

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