瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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勧善寺 遠景
勧善寺(神山町)
 
徳島県神山町の四国霊場焼山寺の近くに、勧善寺という寺院があります。
ここには、南北朝時代末期に書写された大般若経が伝えられていて、今でも転読儀礼に用いられているようです。今回は、勧善寺の大般若経を見ていくことにします。テキスト長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義」です。

大般若経は全部揃うと600巻にもなる大巻のお経です。これが疫病封じなどにも効き目があるとされ、これを読経することで様々な禍を封じ込めることができるとされました。そこで、地方の有力社寺の中には、大般若経を備えようとするところがでてきます。その際の方法としてとられたのが、多くの僧侶が参加する勧進書写方式です。元締めとなる僧侶が、周辺地域の寺院に協力を求めます。さらに熊野詣でなどの折りに知り合った僧侶にも協力依頼を行います。こうして、何十人という僧侶の参加協力を得て、大般若経は完成していったようです。

「大般若経 転読」の画像検索結果

 600巻を全部読経すると大変なので「転読」というスタイルがとられます。お経を上から下に扇子のように開いて、閉じることを繰り返し、読経したことにします。この時に、お経から起きる風が「般若の風」と云われて霊験あらたかなものとされたようです。こうして、般若心経を揃えて「般若の風」を地域に吹かせることが、その寺社のステイタスシンボルになりますし、書経に参加したり、主催することで僧侶の名声にもつながります。この時代に讃岐で活躍した善通寺復興の祖宥範や、東讃の増吽も勧進僧であり、書写ネットワークの中心にいた人物だったことは以前にお話ししました。


勧善寺 地図

  神山町の「勧善寺大般若経」の成立背景を要約すると次の通りです。
①もともとは柚宮(ゆうのみや)八幡宮の二之宮八幡神社に奉納されたもの
②それが神仏分離で明治初年に勧善寺に移された
③分散的書写されていて、写経所となった寺社等は19か所、写経者や願主などの関係者も43名になる。
④写経所の分布は、柚宮八幡宮の近辺を中心に、鮎食川流域の大粟山周辺が多い
⑤徳島市や佐那河内村、石井町や鴨島町でも書写されている
⑥さらには讃岐(さぬき市)の遍照坊や岡坊でも写経され、国境を越えた広がり見られる
⑦写経期間は至徳四(1387~89)足かけ三年でおこなわれた
 書写は大粟山の鎮守とされる上一宮と神宮寺のような地域の有力な寺社もありますが、「坊」と記された小規模寺院(村堂?)も含まれています。ここからはいろいろな寺社等が、写経事業と通じて結びつけられていたことが分かります。また具体的な個人名としては宴隆のように、全国の行場を修行して四国辺路修行を行ったような修験者(山伏)も参加しています。これらの地域を結びつけ「地域間交流の接着剤」の役割を果たしていたのが遍歴の辺路修行者や山伏であったようです。

研究者が注目するのは巻208の奥書で、次のようなに記されています

勧善寺大般若経」208巻
勧善寺大般若経 巻208の奥書
(尾題前)
宴氏房宴隆(書写名)
(尾題後)
嘉慶二年初月十六日般若並十六善神
三宝末流、瀧山千日、大峰・葛木両峯斗藪、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼水木石、天壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者、為法界四恩令加善云々、
後日将続之人々(梵字ア)(梵字ビ)(梵字ラ)(梵字ウン)(梵字ケン)」金剛資某云々、熊野山長床末衆
ここからは次のようなことが分かります。
①嘉慶二年(1388)の年紀がある
②この巻の筆者は宴氏房宴隆
③宴隆は「三宝院末流」の「熊野山長床末衆」(山伏)
④自分の修行遍歴を、次のように記しています。
①瀧山千日
②大峯(大峰山)・葛木(葛城山)両峯斗藪
③西国観音三十三所
④海岸大辺路(四国大辺路?)
⑤所々巡礼水木石(?)
 宴隆は以上のような修行遍歴を積んだ上で、この地にやって来て大般若経の書写に参加したことが分かります。この中で研究者が注目するのは④の「海岸大辺路」です。平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」には次のように記します。

 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は 伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

ここからは、仏教修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたようです。同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、次のように記します。

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
意訳変換しておくと

われらの四国修行の様は、忍辱袈裟(にんにくのけさ=あらゆる侮辱や迫害に耐え忍び、恨みを持たない精神性を、身を守る法衣)を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく破れ、四国の辺地を常に歩くことだ

ここからは修行者が笈を背負い、衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたと記します。平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場は、次のような所です。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」という風につながって行くと研究者は考えているようです。
こうして見ると宴隆が修行地履歴に記す「海岸大辺路」は、「海岸=四国」で、後の四国遍路の原型となる「四国大辺路」を指しているようです。熊野行者の修行場リストには、「両山・四国辺路十斗藪」「滝山千日籠」や「両山斗藪、瀧山千日、笙巌屈冬籠、四国辺路、三十三ケ所諸国巡礼」と記されることが多いようです。大峰・葛城山系での山林修行と「四国辺路」はセットとなっていたこと、さらに、「観音三十三ケ所諸国巡礼」も、彼らの必須修行ノルマであったことが、ここからはうかがえます。どちらにしても、宴隆は各地の行場を訪れて、修行を重ねていたプロの修験者だったことを押さえておきます。

勧善寺 巻210
              勧善寺大般若経 巻210の奥書

 巻210巻です。この奥書にも「金剛資宴氏房」とあります。同じ大般若経の巻201に「宴氏房宴隆金剛資」とあり、巻206には「金剛資某」とありますが、これらは宴氏房宴隆のことで同一人物と研究者は判断します。
 宴隆は自分の所属寺院を「三宝院末流」の「熊野山長床衆」と記します。
三宝院とは聖宝が開いた醍醐寺三宝院のことで、近世には修験道当山派の拠点となる寺院です。また熊野山長床衆の「長床」とは、護摩壇の別称で、いつしか熊野修験者たちの拠点とする堂舎を指すようになります。ここからは宴隆が「醍醐寺三宝院の末寺 + 熊野山長床衆」の一員であると名乗っていることになります。彼は熊野行者で、醍醐寺の真言僧侶でもあったことが分かります。推測すると彼に中には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 聖宝信仰」があったと思われます。
宴隆がかかわった巻について見ていきましょう。
宴隆の名前が記されているのは巻201~206、208、210の8巻のようです。その中で巻201・204の2巻は、経文と奥書が同筆なので、宴隆自身が写経したようです。しかし他の6巻は、経文と奥書の筆跡が異なると研究者は指摘します。そこで研究者が注目するのが、巻202・210の奥書です。そこには次のように記されています。
(巻202)
宴氏房宴降
宇嘉慶元年霜月一日  後見仁(人)光明真言 澄弘三十八
(巻210)
金剛資宴氏房
於阿州板西郡吉祥寺書写畢 右筆侍従房禅齊
ここでは巻202には「後見仁(人)」として澄弘が、巻210には「右筆」として侍従房禅斉がそれぞれ名を連ねています。ここからは宴降の呼びかけ(勧進)に澄弘や禅斉が賛同(結縁)し、経巻を書写・本納したことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、巻210は「板西郡吉祥寺(現在の板野町西部」で、大粟山(神山町)の外で書写されていることです。ここからは宴隆が大栗山に留まっているのでなく、阿波国内を移動して活動していたことが分かります。巻208以外にも、経文と宴隆による奥書の筆跡が違う巻があります。これらは二巻と同じような写経形態がとられたようです。
 以上からは、宴隆は自分で写経を行うとともに、書写勧進も行うなど、大般若経書写事業に深くかかわっていたことがうかがえます。そんな人物がどうして、勧善寺にいたのでしょうか?

「焼山寺」の画像検索結果
焼山寺
  大粟山と焼山寺
 宴隆が大栗山(神山町)の住人だったかどうかは分かりません。しかし、熊野長床衆であることから、熊野行者として熊野と阿波の間を往来していたことは確かです。先達活動を行う熊野行者だったかも知れません。そのため熊野詣でを通じて、地域を越えた行者(真言僧侶)の知人も多く、人的なネットワークを持っていたことが考えられます。そのネットワークが書写活動に活かされていたのです。これは、与田寺の増吽の場合と同じです。増吽から約百年後のことになります。
 もうひとつの謎は、宴隆の出自です。
彼はこの地の出身ではなく、外から入り込んだ可能性があるようです。そうだとすると、どうして大栗山にやってきたのでしょうか? そこで周辺を見回すと、近くに四国霊場十二番札所の焼山寺があります。この寺は大栗山の山ひとつ東にあります。

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焼山寺の大師像
 「阿波国大龍寺縁起」(13世紀後半成立)には、「悉地成就之霊所」を求めた空海が、「遂阿波国到焼山麓」で修行を行ったとされる聖地で、そのため弘法大師伝説の聖地として、修験者には憧れの地になっていたことは以前にお話ししました。
また、『義経記」(14世紀成立)の「弁慶山門(を)出る事」に、弁慶が阿波の「焼山、つるが峰」を拝んだとあります。ここからもこの山が阿波国でも有数の霊山としても知られていたことがうかがえます。
焼山寺の性格を考える上で参考になるのが、同寺所蔵「某袖判下文」(正中二年(1325)です。
(袖判)
下 焼山寺免事
 合 田式段内 一段 一段 (蔵王)権現新免 虚空蔵免
 蔵王権現上山内寄来山畠内古房□東、任先例、
蔵王権現為敷地指堺打渡之畢、但於四至堺者使者等先度補任状有之、右、令停止万雑公事、可致御祈蒔之忠勤之状如件、
正中二年二月 日                                     宗秀
ここには焼山寺に対し、田一反に賦課される万雑公事の免除と祈祷の命令が行われています。田の内訳は「権現新免」「虚空蔵新免」の各一反です。この文書に蔵王権現堂のことが記されていることから、新たに免田が設定された「権現」は蔵王権現だと分かります。このように14世紀の焼山寺では、 信仰の核は蔵王権現と虚空蔵菩薩であったようです。現在もこの寺の本尊は虚空蔵菩薩で、焼山寺山にある奥の院に祀られているのは蔵王権現です。

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焼山寺奥の院 蔵王権現を祀る

役行者・蔵王権現像の登場と修験道の成立

蔵王権現が、役小角とセットで修験者の信仰を集めるようになるのは、古代のことではなく中世になってからのことです。それは役行者が中世以降に修験道の開祖に仮託された後のことです。同時に蔵王権現の信仰は、山岳修行僧と深くかかわっています。
 
焼山寺 虚空蔵菩薩
         焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩 (修験者の手造り感が強い)

 また、虚空蔵菩薩については、空海がその著『三教指帰』において、若い頃に焼山寺で虚空蔵求聞持法を修したと記しています。それを弘法大師行状絵詞は次のように記します。

空海の山林修行

こうして真言系修験者たちからは「焼山寺=若き空海の行場=聖地」として捉えられるようになります。これは善通寺の我拝師山が「空海の捨身行の行場として人気があったのと同じでしょう。歌人で有名な西行も我拝師山にやってきて、庵を結んで修行しています。同じような行動パターンととしておきます。真言宗では弘法大師にならって虚空蔵求聞持法を行う山岳修行者が多かったようです。こうして虚空蔵菩薩信仰と修験道の関係も深くなっていきます。
以上から鎌倉時代後期頃の焼山寺は、「弘法大師 + 蔵王権現 + 虚空蔵菩薩」という信仰対象が並立する霊山で、真言系修験者からは人気の行場であったとしておきます。このような修行聖地は醍醐寺三宝院流の山伏である宴隆を惹きつける力があったのでしょう。そのため多くの修験者たちが宴隆のように、周囲の堂や庵に生活していたことが想像できます。同時に、彼らは熊野行者として先達業務を生業としていたことが考えられます。

勧善寺 と焼山寺地図

  さらに、焼山寺には次のような熊野信仰の痕跡も残ります
①は鎌倉末期から室町時代にかけての熊野系懸仏
②澄禅の「四国辺路日記」には、焼山寺は「鎮守は熊野権現」と記される
このように焼山寺に残る熊野信仰の痕跡は、宴隆のような熊野行者の活動の反映かも知れません。そういう目で見れば先ほど見た巻208奥書の記述は、熊野行者としての宴隆の活動を記したものとして自然なものと納得が出来ます。
 熊野行者としての宴隆は、どんなルートで熊野へ詣でていたのでしょうか?

中島田遺跡は、この「倉本下市」の集落

 中世阿波の熊野信仰は、吉野川水運と深く関係していると研究者は指摘します。大栗山は吉野川の支流である鮎喰川の上流になります。この川を下ると阿波国府に出れます。鮎喰川が大栗山と外部の世界をつなぐ道でした。勧善寺大般若経の巻321奥書には「嘉慶 2年(1389) (中 略)阿州名東庄倉本下市」と記されています。ここからは南北朝末期の頃に、現在の徳島市蔵本町付近に市が立っていたことが分かります。このことは中島田遺跡に近接する「倉本」の地が、荘園市場 として機能 していたと同時に、この地が交通上の要地にあり、物資の集散が活発に行われていたことを示しています。それを裏付けるのが、国産・大陸産の陶磁器をはじめ、豊富な出土遺物が出てきて、鎌倉時代後期から南北朝時代における阿波の流通の様相が知られる中島田遺跡です。この遺跡が「倉本下市」と研究者は考えています。ここでは、鮎喰川が人や物資の往来の道としても機能していたことを押さえておきます。宴隆も先達として熊野へ詣でるときには、檀那衆をつれて鮎喰川を下って、吉野川河口に出て行ったとしておきます。
勧善寺の大般若経が完成して約50年を経た天文21年(1552)の「阿波国念行者修験道法度」を見てみましょう
この史料は、阿波国北部の十九か寺(坊)に所属した「念行者」といわれる有力山伏の結合組織があったことを示すものです。これらの山伏は熊野先達でもあり、それぞれの所属する寺院(坊)は熊野信仰にかかわったものが少なくないとされます。従来は、寺院(坊)の分布が古野川下流域を中心にあることが強調されてきました。

勧善寺 地図
 しかし、視点を変えて大栗山との関連という視点でみていくと、鮎喰川流域の密度が高いことに気付きます。下流から挙げると、田宮妙福寺、蔵本川谷寺、矢野千秋房、 一之宮岡之房、大栗阿弥陀寺の五か寺(坊)があります。これは、鮎喰川やその沿岸が熊野信仰の道でもあったことを反映しているようです。当然、そこは熊野系山伏らの活動エリアでもあったのでしょう。
以上からも、大栗山への熊野信仰の浸透に、鮎喰川の果たした役割は大きいといえます。そうすると

大栗山―鮎喰川―吉野川―紀伊水道―紀伊半島

というコースが、宴隆が熊野への道としてたどったルートになります。

神山町に残る勧善寺所蔵大般若経巻208奥書は、当時の熊野行者の活動と熊野信仰の浸透、それが四国霊場焼山寺に与えた影響を考える上での根本資料であることが分かります。
以上をまとめておきます。
①勧善寺の大般若経は、嘉慶二年(1388)に、熊野行者の宴隆につながる行者ネットワークの手で作られた。
②宴隆は「弘法大師信仰 + 虚空蔵信仰 +熊野信仰 + 聖宝信仰」を持ち、各地の行場で修行を重ねた真言系修行者であった。
③宴隆は、熊野詣でなどで培った行者ネットワークを利用して、宍喰川流域の行者たちに書写を呼びかけた。
④宍喰川流域は、四国霊場で若き空海が虚空蔵求聞持法を修したとされる焼山寺があり、多くの行者たちが集まってくる行場の聖地でもあった。
⑤また宍喰川と吉野川を通じて、阿波の国府や海瑞城などともつながり人とモノが行き来していた。
⑥戦国時代に入って社会混乱が深まり熊野詣でが衰退すると、宍喰川流域の修験者たちは、誘引先として石鎚や剣山へと転換し、庚申信仰などを通じて里への定住をはかるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義
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