瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:勧進聖

 
志度寺縁起 6掲示分
志度寺縁起
志度寺には貴重な縁起絵巻が何巻もあることは以前にお話ししました。この絵巻が開帳などで公開され、そこで絵解きが行われていたようです。志度寺には勧進聖集団があって寺院の修造建築のために村々を勧進してまわったと研究者は考えています。彼らの活動を、今回は見ていくことにします。テキストは「谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸」です。
   この本の中で谷原博信氏は、次のように指摘します。
「志度寺に伝わる縁起文を見ると唱導を通して金銭や品物を調達し、寺の経済の力となった下級の聖たちの存在のあったことが読みとれる。
・この寺には七つもの縁起があって、いずれも仏教的な作善を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると教説したようだ。
  志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起
             白杖童子蘇生縁起
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につられ、閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうちに「一堂建立」の願いごとが判明した。閻魔王は感嘆して「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」
 こういうことで童子は蘇生の機会を得て、この世に生還した。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生した。
要点を整理しておくと
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
②貧しいながら童子は、お寺建立の大願を持ちお金を貯めていた
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。

 さて、この縁起がどのようなとき、どのような所で語られていたのでしょうか?
志度寺の十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵の開示が行われ絵解きが行われていたと研究者は推測します。そこには庶民に囚果応報を説くとともに、寺に対する経済的援助(寄進)が目的であったというのです。前世に犯したたかも知れない悪因をまぬかれる「滅罪」ためには、仏教的作善をすることが求められました。それは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
 志度寺縁起や縁起文も、それを目的に作られたものでしょう。そう考えると、志度寺の周りには、こうした物語を持ち歩いた唱導聖が沢山いたことになります。これは志度寺だけでなく、中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていたのです。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
 志度の道場が、伊予の石手寺とともに修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼といったいわゆる民間宗教者の四国における一大根拠地であったことを押さえておきます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
 死の世界と現世との境(マージナル)にあって、補陀落信仰に支えられた寺でした。6月16日には、讃岐屈指の大市が開かれて、近隣の人々が参拝を兼ねてやってきて、賑わったようです。志度寺の前は海で、その向こうは小豆島内海や池田です。そのため海を越えて、小豆嶋からも志度寺の市にやってきて、農具や渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めて帰ったと云います。特に島では樒の葉は、必ずこの市で買い求めたようです。逆に、志度寺周辺からは多くの人々が、小豆島の島八十八所巡りの信者として訪れていたようです。島の内海や池田の札所の石造物には、志度周辺の地名が数多く残されています。
どちらにしても志度寺の信仰圈は、小豆島にまでおよび、内陸部にあっては東讃岐を広く拡がっていました。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいます。逆に、先達達に引き連れられて、四国側の人々は海を渡って、小豆島遍路を巡礼していたのです。その先達を勤めたのも勧進僧たちだったと私は考えています。
盆の九日には、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
 十日に参ると万日参りの功徳があるとされます。この日には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来る人達がいました。参詣者は、これを買って背中にさしたり、手に持って家に返ります。これに先祖の霊が乗りうつっていると伝えられます。別の視点で見ると、先祖の乗り移った樒を、志度寺まで迎えに来たとも云えます。そのため帰り道で、樒を地面などに置くことは厳禁でした。その樒は、盆の間は家の仏壇に供えて盆が終わる15日が来ると海へ流します。つまり、先祖を海に送るのです。ここからも志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。

  以上をまとめておきます。
①志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていた。
②そこでは仏教的な作善で、蘇りも、極楽往生もできると説教されるようになった。
③そのため志度の道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの下級の民間宗教者の一大根拠地となっていった。
④彼らは開帳や市には、縁起や絵巻で民衆教化を行って、勧進活動を進めた。
⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸
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 13世紀の蒙古襲来後、幕府によって一宮や国分寺をはじめとする全国の有力な寺社に異国降伏祈祷が命じらています。
荘郷鎮守1 
重要文化財「金光明最勝王経」
当時行われた異国降伏の祈祷を端的に示す経典

こうした幕府の政策は、諸国に寺社の修造ブームが巻き起こすことになります。鎌倉後半期の地方寺社の造営・修理の状況を見ると、文永の役から13世紀終末までに、地方では有力寺院の改築ラッシュが続いたことがこの表からはうかがえます。
荘郷鎮守1 現校長後の地方寺社一覧

讃岐では善通寺が上がっていますが、それ以外にも三豊の本山寺や観音寺本堂ははじめ、この時期の造営寺社は多いようです。この時の寺社修造ブームの背後には、修験者の活発な活動があったとされます。それを今までに見てきた讃岐での修験者や高野聖たちの活動に照らし合わせながら見ていきたいと思います。テキストは「榎原雅治 荘郷鎮守の地域的関係の成立  日本中世地域社会の構造 2000年」です。

中世寺院築造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
第一は、この寺社修造運動が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
第二は、地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していたこと
 正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

という条文があります。ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたようにも見えます。これも時代状況をよく反映した文言と研究者は指摘します。
 このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させたようです。聖や修験者の活動によって荘郷鎮守をはじめとするその地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。

 その代表例として研究者が挙げるのが西国三十三所観音霊場をコピーして、作られた巡礼ネットワークです。
例えば若狭三十三所は、国内の荘園公領の鎮守によって三十三所霊場が形成されます。このメンバーである寺社は、共同で「小浜千部経転読」などの一国規模での法会を営んだり、それぞれの寺院での法会の開催をめぐって相互に協力しあったりするようになります。この法会には、「十穀」=勧進聖が関わるようになります。つまりこの時期の若狭には、修験者や聖たちの活動に先導されて、荘郷鎮守の地域的ネットワークが成立していたのです。
2 長尾寺 境内図寂然

長尾寺

このような動きは、讃岐の高松周辺の後の四国霊場にも見られます。
例えばに、四国辺路に訪れた澄禅の「四国遍路日記」(1653)には、長尾寺について次のように記されています。

長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国ニ七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

ここには、長尾寺はかつては観音寺と呼ばれていたこと、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観と呼ばれていったことが記されています。
長尾寺 聖観音立像
秘仏本尊の前立像として安置されている長尾寺の観音様

また寺の伝えでは、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたといいます。坂出から高松に至る海岸沿いの後の辺路札所の寺院がメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、ここにもあったようです。それを進めたのは、白峰寺や志度寺を拠点とした備中の五流修験と私は考えています。
 また西讃地方では、雲辺寺・大興寺・観音寺・本山寺・弥谷寺・曼荼羅寺という寺も、七宝山をゲレンデにして辺路ルートを開き、修験道によって結びつけられていたことは以前にお話ししました。

修験者によって地域の寺がネットワークで結ばれるという動きは、当時は全国的なものでした。讃岐でも有力寺社が修験者や聖によってネットワーク化されていたのです。

浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後のころ、一宮、荘郷鎮守などの有力寺院が周辺の小規模な村堂を末寺化していくこと
②在地寺院同士が造営や写経などをめぐって「合力しあう地縁的な一種の連帯関係を有していた」こと、
③在地寺院の連帯関係が、自由信仰、石動信仰といった地域の村落の上層農民の信仰を基盤に成立していたこと
 有力寺院による寺院の組織化(末寺化)が同時進行で行われていたというのです。
道隆寺 中世地形復元図
中世堀江港 潟湖の奧に道隆寺はあった

周辺寺社の末寺化を多度津の道隆寺で見ておきましょう。
 道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江港の港湾管理センターとして機能していました。そのため海に向けて勢力を拡大していきます。戦略として塩飽や庄内半島の神社や寺院の造営や写経などに協力しながら、これらを末寺化していきます。それを示したの下の年表です。道隆寺が導師を務めた寺社一覧です。神仏混淆時代ですから神社も支配下に組み込まれています。
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことが分かります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門末の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮の導師はすべて当院(道隆寺)が執行してきた

とあり中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。
永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 このように室町期には、讃岐でも荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係が成立していたことが分かります。そして研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。そして、道隆寺も長尾寺の場合も、修験者や聖たちによって形成されたものなのです。これが「西国33ケ所廻り」のミニコピー版であったり、「七観音めぐり」「七ヶ所参り」であったようです。そして、「四国大辺路」へと成長して行きます。ここでは百姓の信仰に基盤をもった地域の寺社が、修験者らに導かれてネットワークを結ぶようになっていたことを押さえておきます。

讃岐でも寺院修造だけでなく、大般若勧進も連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと
荘郷鎮守の「地縁的な合力関係」のありさまを、塩飽本島の正覚寺の大般若経に見てみましょう。
大般若経 正覚院巻571巻g

この大般若経の各巻からは、文二年(1357)11月から次のような寺院で写経されたことが分かります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷 西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
仲郡金倉庄金蔵寺南大門 大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するために、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
大般若経 正覚院 下金倉
正覚寺(丸亀市本島)の大般若経 讃州仲郡金倉下村惣蔵社にあったことが分かる

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、後の四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。宗派よりも地域の連帯性の方が重視されたようにも思えます。
大般若経 正覚院道隆寺願主
正覚寺の大般若経 「道隆寺中坊祐業」の名前が見える

 この中で中心的な位置をしめた寺院が「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺だと研究者は考えています。
そして、これらの寺社はいずれも石動山系(石鎚)の修験と関わりの深い寺社のようです。

増吽 与田寺

金蔵寺で大般若経が書写されていた時代に、大川郡与田寺で活躍していたのが増吽(正平21年(1366)~宝徳元年(1449)です。
彼は中世の僧侶として、次のようないくつもの顔を持っています。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
  修験者・勧進僧・弘法大師信仰者として「荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係」を讃岐・阿波・備中・備前の数多くの寺との間に作り上げていました。まさに、時代の寵児ともいえます。増吽のようなスーパー修験者によって、各地域の寺院は国を超えて結ばれネットワーク化されていったのです。

増吽 水主神社と熊野三山
水主神社
  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社でその別当寺が与田寺でした。
 水主神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですが「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。坊舎をふくめると100を越える数になります。与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。これらは増吽に代表されるように修験者たちによって形成されたもののようです。

水主三山 虎丸山

以上をまとめておきます。
①元寇後に、異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④それと平行して地方の有力寺社は周辺寺社を支援しながら系列化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして勧進聖や修験者によって、地方の有力寺社はネットワーク化され「七観音参り」「七箇寺参り」「小辺路」などのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」へとつながっていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

貴族の専有物であった古代寺院が、どのように民衆化していくのかを修験者や聖の視点から見ていこうと思います。空海・最澄の登場によって、平安時代になるとそれまでの都市仏教から、山深い山岳に巨大な寺院を建立されるようになります。
この時期の山岳寺院には、次のような特徴があると云われます。
①規模が比較的大きいこと
②山岳を修行の場とする密教寺院であること
③国家を鎮護し貴族の安穏を祈る国家的または貴族的仏教
役小角 - Wikiwand

11世紀を過ぎるころから、それまでの寺院の枠組みを越えて修行する山岳修行者=修験者・山伏が現れます。彼らは修行集団を形成し、諸国の霊山をめぐるようになります。諸国の名山とはたとえば12世紀に著された『梁塵秘抄』に見える七高山です。

他方、寺院の枠組みを越えて活動するもう一つの僧侶集団が形成されてきます。
高野聖とは - コトバンク

僧侶の中では最下層に属し、半僧半俗的な性格を持つ聖集団です。
彼等は庶民を日常生活の苦難から救済し、仏教を広めるとともに、民衆から生活の糧を得て社会活動を行い、堂塔を建立するための勧進活動を行うようになります。
 つまり、寺院の枠組みを越えた集団である「修験者・山伏と勧進聖」が姿を現すようになったのです。ともすれば寺院のなかに閉じこもり、国家や有力貴族のためだけに活動していた仏教寺院を、民衆救済へ変化させていったのが「修験者・山伏と勧進聖」になるようです。
修験者と勧進聖の役割
修験者は信仰を深めるために厳しい修行を行うとともに、人々を組織して先達となって霊山・寺院へ誘引するようになります。それの一つが四国八十八所や西国三十三所巡礼へとつながっていきます。
 また彼らは民衆救済のひとつの形として、農業技術、土木事業、医療活動などの社会活動も行います。
勧進活動 行基
行基菩薩勧進帳 鶴林寺 文明八年(1486)
鶴林寺の開基は寺伝では聖徳太子ですが「六禅衆供田寄進状」(『鎌倉遺文』)には「当寺本願行基菩薩」とあり、行基菩薩が開いたとされます。中世では行基開創伝承もあったようです。この本勧進帳は行基坐像の胎内から発見されたもので、勧進により行基像が造像されたことがわかります。これによると、文明18年から勧進から始り、多数の人々の勧進により造像されたようです。

彼らがどれだけ大きな勢力を持っていたかは、鎌倉時代初期の重源の狭山池の改修や東大寺再建事業からもうかがえます。
勧進 狭山池勧進碑
狭山池重源改修碑 大阪府立狭山池博物館 建仁二年(1202)
古墳時代に築造された狭山池は、古くは行基も、池の修復を行っています。鎌倉時代初期に東大寺大勧進職であった重源も、彼の業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に狭山池を修復したとの記載があります。平成五年(1993)の改修工事中に、重源の改修工事記念碑が発見されました。重源が勧進活動により修復を行ったことが記されています。

勧進僧の活動の一つは、念仏聖を中心とした民衆の「死後」の恐怖からの救済でした。古代仏教は葬儀とは無縁の存在でした。その意味で民衆信仰としての「葬送」は、新時代の仏教民衆化の要になりました。死者への葬送儀礼に関わった宗派の僧侶が民衆からの信頼と支持を得ることになります。平安時代初期には、死者への葬送儀礼の作法は、道教の影響が大きかったようです。それが次第に仏教儀礼へと代わっていくのは念仏聖たちによる社会活動の結果です。

納骨塔元興寺 鎌含時代
納骨塔 元興寺 鎌含時代・室町時代
納骨は、死者供養の一種で、法華堂や三味堂などに奉納されました。元興寺寺も納骨寺院の一つであり、納骨容器である五輪塔以外に、宝珠医印塔や層塔などのもありますがすべて小型の木製です。中に骨を入れ、堂内の柱などに打ちつけられました。
戦場の陣僧
戦場の陣僧

その例を時宗僧侶の活動から見てみましょう。
時宗僧侶達は、「陣僧」と呼ばれ、戦場にでて人々の救済に尽くすようになります。鎌倉幕府減亡の元弘三年(1333)五月二八日付けの時宗道場・藤沢清浄光寺の他阿の手紙は、時宗僧侶の働きを、次のように記しています。
鎌倉は大騒ぎですが、道場は閑散としています。合戦前、寺に足繁く通ってきた武士たちは戦場にいます。城の中も攻める側も念仏で満ちていて、捕縛されて頸を討たれる武士に念仏を唱えさせ成仏させました。

ここからは、時宗僧が「陣僧」として戦場に残らず出かけたため、寺は閑散としていたことが分かります。合戦前には敵味方なく時宗寺院に通ってきた武士達が、戦場では殺し合いながら念仏を唱えています。首を討たれる武士にも念仏を唱えさせ、浄土に送っています。彼らが敵味方分かつことなく死の際で活動していたことが分かります。
時宗一遍

一遍を開祖とする時衆僧は「南無阿弥陀仏」の名号を唱え遊行したました。
日常を臨終と心得て念仏信仰をつらぬくスタイルは、合戦で死と隣り合わせになる武士と共感を持って受けいれられたようです。聖らは、戦場で傷を負ったものに、息絶える前に念仏を10回唱えさせて極楽浄土にいけると安心させ、往生の姿を看取ります。
時宗陣僧の活動をもう少し見ておきましょう
 河内金剛山の楠木正成討伐軍に加わり捕縛された佐介貞俊は、頸を打たれる前に、十念を勧める聖に腰刀を鎌倉の妻子のもとへ届けるように頼みます。そして十念を高唱して頸を刻ねられます。聖が届けた形見の刀で、妻は自刃します。それが『太平記』で語られています。
 応永七年(1400)の信州川中島での小笠原長秀と村上満信らの合戦を記した『大塔物語』を見てみましょう。
大塔物語

ここには、善光寺などの時衆僧らが切腹などで死の間際にあるものに十念をさずけています。合戦がおわると戦場に散らばる屍をあつめて葬り、卒塔婆をたてて供養し、戦場の様子を一族に報告したと記します。戦いを見届け、絶命するものに念仏を勧め、打たれた頸をもらいうけ、遺言とともに形見の品を遺族に届け、敵味方なく遺体をかたづけて供養し、塔婆をたててこれを悼む。
 ここには、戦場の一部始終を見届ける役回りを果たす陣僧の姿があります。彼らの語りが文字に姿をかえ、『太平記』『大塔物語』をはじめとする軍記物語に詳細に描き込まれることとなったと研究者は考えているようです。
  同時に、このような活動を行い死者を供養する姿に、武士達は共感と支持を持つようになります死者の魂と、どのように関わっていくのかが鎌倉新宗教のひとつの課題でもあったようです。

中世寺院の民衆化
中世になり律令体制が解体すると、国家や貴族に寄生していた中世寺院は、経営困難に陥ります。つまり国衛領や荘国による維持が困難になったのです。そのような中で、武士・土豪さらには一般民衆へと支持母体をシフトしていく道が探られます。それは結果として、中世寺院自体の武士化や民衆化を招くことになります。

DSC03402
一遍絵図

 寺院の周辺に民衆が居住し様々な奉仕を行っていたことは、一遍絵図を見ているとよく分かります。
時代が下がるにつれて寺院内へ僧侶または俗人として民衆自身が入り込むようになります。それまで寺院の上層僧侶が行っていた法会も、一部民衆が担うようになります。例えば、兵庫県東播地方の天台宗寺院に見られる追灘会(鬼追い式)が、戦国期には付近の民衆が経済的に負担し、行事にも参加するようになっていきます。これは「中世寺院の民衆化」現象なのでしょう。
追儺会(鬼追い式)|興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント

「民衆化」現象は、最初は寺院と民衆をつなぐ修験者山伏や念仏僧などの勧進聖から始まり、次第に中世寺院自体が民衆化していくという形をとります。
それが最も象徴的に現れたのが戦国時代末の戦乱期でした。
 戦国時代末になると、中世寺院では修行者山伏・聖集団が寺内で大きな地位を占めるようになります。そして、彼らは寺院周辺に生活する武士や民衆と寺院との間にも密接な関係を作り上げていきます。戦乱で寺領を失い、兵火で伽藍が焼かれた場合も、立ち直って行く原動力は、寺院内部では下層とされた修験者や勧進聖たちでした。彼らによる勧進活動が行われない寺院は、再建されることなく姿を消して行ったのです。まさに修験者や勧進僧が活躍しなければ、寺が再建されることはなかったのです。彼らの存在意義は否応なく高まります。
そういう意味では戦国時代末期は、中世寺院が最も民衆化した時期でもあったようです。
ところがこのように民衆化した寺院を一変させたのが、信長・秀吉・家康によつて進められた寺社政策です。
信長に寺領を奪われた中世寺院は、秀吉からそれまでの寺領のうち数分一の朱印地を返されたのに過ぎません。また中世寺院は、寺院周辺の民衆との関係を断ち切られます。さらに寺院内での修験者山伏や勧進聖の地位が低められたり排除されたり、また彼等の社会的な活動も大きく制限されます。これは中世前期の「本来」の寺院の姿に戻させるという意図があったかもしれませんが、修験者たちは経済的には困難な状態が続き、近世の間ずっと長期衰退状態が続きます。
他方、民衆と寺院との関係では巡礼・参詣などという信仰上の関係はそのまま続き、寺院経済の重要な支えとなっていきます。このように近世の中世寺院は戦国時代末期の姿で近世化したのではなく、かなり大きく変化させた形で近世化したとものであると研究者は考えているようです。
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参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
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