増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。
幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。
與田寺 (香川県)の初詣・初日の出情報 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です

まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。
 制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。
 同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

なお、研究者は風天図の構図を見て
「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

と指摘します。ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。

これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。
  1弘法大師1

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。
弘法大師御影 善通寺様式

御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
醍醐三宝院のこの様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。そこで、「善通寺形御影」と呼ばれているようです。
その中で京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同多度津之御影供一衆流通物
(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
咋閣梨七十九而書之
文安元年四月仏誕生日 大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓

「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
 また「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。

岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。
本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。
仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】 - 讃州菴

中でも仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。

増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたのではないか、と研究者は考えているようです。

弘法大師御影 県立ミュージアム版

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。

以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献