満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)② 真野池記 (明治 8年)③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。
弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。
②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。
③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。
④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。
⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。
⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美
この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。
以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
満濃池史398P 真野池記
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代




