瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:十河氏

武士に求められた諸要素
 
前回は東讃守護代の安富氏が連歌や和歌などの文化力を政治的に活用していたことを次のようにまとめました。
①細川家主宰の連歌会などの重要なメンバーとなることで政治的な地位を高めたこと
②国元の讃岐でも連歌師を呼んで連歌会を開いて、文化的な伝達役を果たしていたこと
③それが一族や家臣団の意志疎通や団結など政治的にプラスの役割を果たしたこと
④法楽連歌などを神前で開いて、奉納することで有力寺社とのつながりを強めたこと
今回は、猿楽能と田楽がどのようにして讃岐に定着していったのか、その際に細川氏の被官達が果たした役割がなんだたのかを見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

室町幕府の勧進猿楽のモデルは、永享5年(1433)に6代将軍足利義教が音阿弥に命じて京都の糺河原で勧進猿楽を興行したことに始まるようです。

貞秀「東山殿猿楽興行図」
貞秀「東山殿猿楽興行図」 
                 東山殿猿楽興行図
これをモデルにして、文亀 3年(1503)に11代義澄は猿楽興行を定例化します。その背景には、義澄が管領の細川政元との関係修復させ、政元の幕政参加で政治基盤の安定化をはかろうとする政治的意図があったと研究者は指摘します。足利幕府の支持基盤である諸勢力の結束を強めて、幕政運営体制を維持・強化しようとして行った政策の一環として猿楽能興行が取り上げられたというのです。
 合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあったようです。
猿楽興行は、新たな政治的ランク付けを目に見える形で提供する秩序構築の場でもあったのです。これは、郷村における神社の祭礼の宮座の座席位置が、その人のランク付けとして機能していたことと通じるものがあります。
  中世の武士は、自らの実力によって所領保全に努めました。
しかし、室町時代にはそれだけでなく室町殿とのつながりを求め、その支援を得て所領保全を図ろうとする地方武士も多く現れます。中央権力とのつながりを持った地方武士たちの中には、室町殿の邸宅を模した屋敷や文芸を催すための会所を造り、そこで室町殿と同じような儀礼を行うようになります。また、中央・公家文化の担い手を国元に招いて京都と同じことを催すようになります。そのねらいは、地域社会に対して自らが室町殿と直結していることやその文化的な優越性を誇示することでした。それが自らを権威づけ、一族や家臣団の求心力を高めることに気がつくのです。 

 15世紀後半の将軍や管領細川氏の主宰した田楽・猿楽を年表化してみます
1465年正月23日 細川右京大夫勝元亭への御成があり、能が催され(『親元日記』)
1465正月26日  室町殿では諸大名が召されて田楽を拝覧(『大乗院旧記』)
1466正月8日   細川殿・右馬頭・安富勘解由左衛門尉が旧例によって相賀し、猿楽を行って歌舞献賀を行った(『蔭凉軒日録』)
1470年3月23日 細川被官人共が猿楽で相交わり(『大乗院旧記』)
1490年5月5日  細川政元亭で田楽(観世太夫能)
1490年5月12日 京兆第で猿楽が興行(『蔭凉軒日録』) 
このような京都での田楽・猿楽の流行が在京細川家被官を通じて、次のように讃岐にも伝えられます。
1353年3月5日  三野の秋山泰忠は置文で、一族子孫に本門寺御会講を心一つにして勤め、白拍子・猿楽・殿原で懇ろにもてなすよう命じている(秋山家文書)
1460年12月 讃岐守護細川勝元の「讃岐国一宮田村大社壁書之事」において、猿楽・ 白拍子の舞を奉納(田村神社文書)
1480年9月8日 石清尾八幡宮の猿楽(能)面作成(『石清尾八幡宮関係資料』)、
1497年正月 小豆島で利貞名ほか5名が共催して相撲・流鏑馬・放生会・後宴猿楽を実施(赤松家文書) 
こうして見ると15世紀後半には、讃岐でも猿楽や白拍子などが寺社の祭礼などで演じられるようになっていたことが分かります。
田楽という言葉は、田植え行事に関わる芸能の総称で、田楽法師とは法体姿の田楽専門芸能者でした。

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中世は「芸能の世紀」といわれ、中でも田楽はその代表的な芸能で、鎌倉末期から室町時代にかけて猿楽を凌駕して人気がありました。それが讃岐にも及んでいたことは残された地名から推測できるようです。中・近世期において流鏑馬・競馬・獅子舞等の寺社芸能に出演の芸人には、禄物が支給され、その財源のために免田が設置されていたことは以前にお話ししました。このうち田楽法師を招く経費に充てられた田のことを田楽田と呼びました。讃岐にも「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っています。この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていたのです。ここからも社寺祭礼行事で芸能が盛んに行われていたことが裏付けられます。

奈良・春日若宮おん祭での田楽座
奈良・春日若宮おん祭での田楽座

江戸時代後期の高松藩領『東讃郡村免名録』(鎌田共済会郷土博物館蔵)には、山田郡西前田村滝本免の中 に「田楽」の字名が見えます。

宮處八幡宮と田楽と前田氏
宮處八幡宮と前田城

前田地区の「田楽」地名の由来は、前田氏が在地支配の一環として行った宮處八幡宮の祭礼諸行事での田楽奉納にあります。その経費のために田楽田が設けられます。それがやがて「田楽」と省略されたようです。前田氏は讃岐国山田郡内を名字の地とする国人で、宮處八幡宮の参道先には前田氏が築いた前田城跡があります。室町時代には細川京兆家の被官となっていて、応永22年(1415)には管領細川満元の使者として前田某 が見えます。(『兼宣公記』)。
宮處八幡宮と田楽と前田氏2

宮處八幡宮
その頃、京都では勧進田楽・猿楽が盛んに行われていました。
応永29年(1422)には細川満元が、永享5年(1433)には細川持之がそれぞれ将軍が観覧するための桟敷の管理を任されています。前田氏も上・在京して桟敷管理の任に当たり、田楽や猿楽に触れた可能性があります。前田地区の在地領主であった前田氏が、地域の氏神的存在であった宮處八幡宮の祭礼行事を氏寺宝寿寺を通じて主宰することになったのでしょう。それは領域内における前田氏の支配権と祭祀権を確立しようとする政治的なねらいがあったとしておきます。
 
室町時代の放生会には獅子舞と田楽がセットで興行されたようです。
当時の神事渡物は、次の3部門で構成されていました。
①通常神輿・神官・御幣等の神事
②一物・獅子舞・神楽・田楽・猿楽等の芸能集団
③競馬・流鏑馬・相撲等の競技集団
『年中行事絵巻』に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
 「年中行事絵巻」に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
このうち②に属する田楽師の姿は、もともとは水干に指貫姿で綾藺笠を被り、太鼓の伴奏でビンザサラを使って、円陣や相対しながら躍動的でシンメトリックな動きをする踊りだったようです。それが次第に獅子舞や競馬・相撲等と一緒に一連の祭礼行事の一部分となっていきます。そして風流化して、華美な花笠や異形な被り物で顔を隠したり、緩慢な動作で踊りの隊列も変化に富むようになります。宮處八幡宮の祭礼行事も、室町時代に行われていた仏教系の放生会行事が、江戸末期の神仏分離思想の影響で収穫感謝の秋祭りに変わったようです。

   松岡調の『新撰讃岐国風土記』(多和文庫蔵)には、次のように記されています。
「宮処八幡神社の大祭に、氏子地四箇村より当人とて、童子に潔斎させ、白の直衣を着せて御輿の前に立ち行くに、それが前に大なる団扇を指立て、練り行くなり。これ他村にせぬ供奉なり」
意訳変換しておくと
「宮処八幡神社の大祭には、氏子である四箇村より当(頭)人として、童子を潔斎させて、白の直衣を着せて、御輿の前を歩かせて行く。その前に大きな団扇をさしかかて練り歩く。これは他村にはない供奉である」

 これは近世になって現れたものではなく中世の田楽や猿楽の流れを汲む祭礼行事でした。そのため近隣の村社には見られないものだったのでしょう。近くの滝本神社では競馬が行われています。この獅子舞や相撲・競馬等は中世の神事である渡物の名残です。童子にさしかけた蓋は風流の象徴としておきます。
1田楽と能
猿楽と田楽 伴信友写『職人歌合画本』(天保9年)国立国会図書館デジタルコレクション

最後に前田氏について見ておきましょう。
前田氏は讃岐国山田郡内の前田を名字の地とする国人で、室町中期には細川京兆家の被官となっています。史料には次のように登場します。
応永22年(1415)  管領細川満元の使者として広橋兼宣のもとに赴いた「前田某」が細川氏被官としての初見(『兼宣公記』)
文安元年(1444)6月 万里小路時房は伝聞として次のように伝える。
香西の子と前田の子15歳が囲碁の対局中に、13歳の細川九郎(勝元)が香西の子に助言した。それを遺恨に思った前田の子は、一旦退出の後に舞い戻って休息中の勝元に切りかかった。父が四国に在ったため親類に預けられ、一族の沙汰として切腹させられた。
 この時に前田一党に害が及ぶことはなかったようです。(『建内記』)。香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちです。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで主従関係を強固なものにしようとしたこと、武士の教養として囲碁を学んでいたことがうかがえます。 
文安4年(1447)「細川内前田宿所」が火災に遭ったこと((『建内記』)
享徳元年(1452)京兆家犬追物に前田次郎右衛門尉が参加(『犬追物手組日記』)
永正元年(1504)8月4日条 「細川被官前田五郎左衛門」
永正4年(1507)8月朔日条、「讃岐武士の墓場」とされる永世の錯乱で香西元長が討死する際の記事に「又六カ与力ニ讃岐国住人前田弥四郎ト云者」とある。ここからは、元長に代わって彼の具足を着けて前田弥四郎が討死したことが分かります。讃岐国住人の前田弥四郎は、もともとは京兆家被官でしたが、この時点では香川元長の寄子となっていたようです。
前田氏の本拠は、現在の香川大学医学部の北西で、十河氏の拠点は、香川大学の南側で隣接する位置になります。
十河氏の細川氏支配体制へ

前田氏と十河氏の関係はどうだったのでしょうか?
応安 4年(1371)地頭十河千光が蓮華王院領十河郷半済所務職を請け負い
文安 2年(1445)十河氏が安富氏の管理下にあった山田郡の庵治・片本の港の管理権を讃岐守護兼管領の細川勝元から与えられる
こうして十河氏は、15 世紀半ばには山田郡における最も有力な国人領主に成長しています。『南海通記』によれば、前田氏はこの十河氏の支族で、十河存春(景滋)の弟宗存が分家して前田頼母宗存と称して文明年間(1469~87)に前田に本拠を構えたのに始まるとされています。そして、その後に子の前田主殿頭宗春、孫の前田甚之丞宗清と 3代続き、天正11年(1583)に長宗我部軍に滅ぼされたと伝えます。ここではじめて十河氏が前田氏を名乗ったとされています。

十河氏1

しかし、実態は十河氏が前田氏の名跡を継ぐ形をとってこの地区に進出してきたのではないかと研究者は考えています

十河氏の背後に阿波の三好氏がいたように、前田氏の場合も三好氏の讃岐戦略の中に組み込まれていったというのです。研究者は前田氏を、次のように前後期に区別します。 
前期前田氏 十河氏に取って代わるまでの前田氏
後期前田氏 国人領主十河氏が分家し、前田氏の名跡を継ぐ形で前田氏を名乗ってから以後を後期

以上をまとめておきます
①15世紀後半に、室町幕府や猿楽や田楽を公式行事として行うようになった
②猿楽・田楽の興行は幕政運営体制を維持・強化しようとする政策の一環でもあった。
③衆軍の代替わりや合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあった。
④京都での田楽・猿楽の流行は在京細川家被官を通じて、讃岐にも定着された。
⑤それは「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っていることから裏付けられる。
⑥この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていた。
⑦中世に讃岐に伝わった田楽・猿楽は風流化し、獅子舞や競馬・相撲等と一緒に祭礼行事の一部分となって受け継がれていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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古代、現在の高松市中心街の多くは海の中でした。
野原・高松・屋島復元図

そのためこのエリアの中心地域は、屋島周辺の古高松にあったようです。今の地形からは想像できませんがかつて屋烏は島であり、現木太町周辺も海だったようです。その景観は、近世の干拓や塩田造成で一変し現在のような形になりますす。
最初に屋島周辺の古高松・方本の歴史を考えて見ることにします。
高松・屋島地形図明治30年
その際に、私たちが持つ現在の高松の地形から離れるために、次のようなイメージトレーニング行いましょう。
①高松城跡がある地点と庵治岬の突端部と結ぶと、そこから大きく湾入した入江があります。これを「古・高松湾」と呼ぶことにします。
②高松湾の人口にあたる幅は約四㎞、奥行きは2㎞前後で、讃岐の湾では群を抜く規模になります
③「古・高松湾」の湾内に流れ込む新川・谷日川・御坊川などの河川は、舟運によって内陸部との物資の往来を可能にしていました。
④屋島はそこに浮かぶ島でした。
DSC03820

海のハイウエー瀬戸内海 直島から女木島へ そして屋島へ
 古代以来、九州から畿内への瀬戸内海航路が拓かれます。 古・高松湾の沖の女木島・男木島・直烏といった島々は、四国北岸の古・高松湾へのターミナル・アイランドの役割を果たしてきました。それを、裏付けるのが、女木島の女木丸山古墳から出てきた朝鮮半島製の耳飾です。
女木島丸山古墳 垂飾付イヤリング 朝鮮製
ここからは、この島を拠点にした人物が、国外にまで活動範囲を広げた姿がうかがえます。また、これらのモノの動きの背景には、それを運んだ人の動きがあったことを思い起こさせます。
004m女木島

白村江敗北という危機的状況下の国防政策として古代山城が屋島に築かれます。さらに、瀬戸内海を支配した平氏は、この周辺に水軍拠点を置いていたようです。それが源平の戦に際して、平氏がここで「壇ノ浦の戦い」を戦う背景になのでしょう。どちらにしても、古高松は、古代以来重要な地域であったようです。          
 次に、中世の古高松を復元してみましょう
 高松里は古代は山田郡高松郷と呼ばれ、山田郡の中心的な集落でした。源平の屋島合戦のときに、源義経がこの地の民家を焼き払ったのも、平氏の拠点への先制攻撃の意味があったのかも知れません。
DSC03838高松周辺の古代郡名

中世古高松 高松氏と喜岡城
 JR屋島駅の南東の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここには高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人で、建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、その時点ではここが讃岐の守護所で県庁所在地であったと言えます。
 これに対して、足利尊氏の勝利に呼応して、讃岐で蜂起するのが細川定禅です。彼は香西・詫間・三木・寒川氏らの讃岐武士を率いて香西郡鷺田(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵し、この城に攻め寄せます。高松頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしますが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。1336年(建武三年)のことです。ちなみに戦前の皇国史観の下では、高松氏は南軍に属したということで、忠臣の武将として郷土の英雄とされ、知らない人はいないほど有名だったいいます。
それから約250年後、この城は再び歴史の舞台に登場します。
豊臣秀吉は四国平定のために、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのがこの喜岡城でした。
 このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正、片山志摩以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員討死にします。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。その舞台が、この丘でした。
 つまり、中世・戦国時代を通じて古高松地区は喜岡城を拠点とする領主の支配するテリトリーだったと言えます。

HPTIMAGE高松

中世の港町・方本(かたもと)とは、どんな町だったのでしょうか。
文安二年(1445)の「兵庫入船納帳」に讃岐屈指の港町として「方本(潟元かたもと)」が登場ます。
兵庫北関2
「兵庫入船納帳」に出てくる讃岐の港と、通過船の大きさをその数を表にしたものです。通過船が多いのは宇多津・塩飽です。潟元は真ん中どころにあります。方本を母港とする舟で兵庫北関を通った11艘であったことが分かります。数としては多くないのですが船の大きさに注目すると、大型船が多いようです。
 なぜ小型船がなく大型船ばかりなのでしょうか?
それは、六艘の所属が五艘は十河氏、一艘が安富氏で「国料船」のようです。国料船とは、守護細川氏の御用船の名目で課税免除の特権をもっている船のことです。ここからは方本が、守護代安富氏や有力国人十河氏と、深い関係を持っていたことがうかがえます。
 次の表は、讃岐の船の積荷を港毎に表した表です。
方本の船が積んでいたのは何でしょうか。縦欄が積荷、横が港名で方本は真ん中付近にあります。

3 兵庫 
ここから分かるのは、方本船籍の大型船の積荷は90%以上が塩であったようです。古代以来の塩の荘園が、この周辺には有りそれが発展して塩田地帯を形成していたようです。その塩を都へ運ぶ専用の塩運搬船団がここにはいたようです。

DSC03859

もうひとつ「一円日記」という史料が近年、明らかになりました。
この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったとき、その代わりに「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには方本を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えば方本では「かた本ノ里」に八島(屋島)寺や「源介殿」以下九人の住人が記され、「にしかたもと」には「すかの太郎大夫殿」ら八人の住人の名が記載されています。面白いのは、初穂料代を何で納めたかが記録されています。この時代の多くが米などの現物なのですが、方本・西方本のほとんどの住人は初穂料を銀銭で納めているのです。ここからは方本・西方本の住人が製塩・漁労・海運・流通等の多角的経営によって銭貨を蓄積し、積極的に使用していたことがうかがえます。これは庵治や志度寺の門前町兼港町である志度も、ほとんどが銀納なので流通・交通などに関わりを持った集落に共通する傾向のようです。

 さらに、注目されるのは「兵庫入船納帳」で文安2年3月9日に安富氏の「国料船」の船頭として記録されている「成葉(なりわ)」が、120年後の「一円日記」の「かた本ノ里」住人の「なりわ殿」て登場してくるのです。同じ方本の住人で、発音上共通の名字または屋号を持っているので、「なりわ殿」が「成葉」の末裔と考えられます。
 この方本・西方本が近世でも大きな港町の一つであったことも併せて考えると、中世・戦国時代を通じて海運に関わる船頭・廻船問屋が多く存在したことは、当然かもしれません。また、伊勢御師の岡田大夫は「かた本ノ里」の源介宅を、高松・方本地域の活動拠点である「やと」にしていたようです。そこからも、この地の経済的・流通的・情報面における重要性がうかがえます。
 次に庵治(阿治)を見ておきましょう。
DSC03858庵治
 庵治岬の先端に位置する庵治は、古代山田郡の郷名には存在しません。
しかし至徳二年(1385)の満願寺大艘若経奥書(願流寺蔵)に登場することや、満願寺の存在からみて、一四世紀以前に成立していたことは間違いないようです。
 「兵庫入船納帳」には、兵庫北関を通関した10隻の庵治船籍の船が記録されています。そのうちの四隻が十河氏の「国料船」であり、この港湾も方本と同じく十河氏の影響下に置かれていたようです。
 「一円日記」には、「川渕三郎太郎殿」以下21人の住人が書き留められ、彼らのほとんどが銭貨で初穂料を納めています。そのなかには岡田大夫が「やと」とした川渕氏のほか、「ぬか殿」「こも渕久助殿」「こも渕又八郎殿」「あち左近殿」「浦殿」ら、普通の人とは違う者がいたようです。このうち「浦殿」の先祖と思える「浦」が、「入船納帳」の中に十河氏の「国料船」の船頭として記されています。ここからも浦氏などの多くが海運・流通などに関わる有力者であったことがうかがえます。
 また、「国料船」の船頭として記されている「兵庫」は、庵治浜の奥に残る「兵庫畑」という地名との関係から、船頭あるいは問丸として営業する傍ら、土地の買得や開発に関わっていたことが推測できます。

 以上、中世の古高松・方本・庵治についてまとめておくと、
①古高松は高松氏の城館を中心とした集落と内陸部の商業・流通的性格を持つ集落の複合体
②方本と庵治は船頭・問丸などを中心に海運・流通・製塩・漁労等に関わる人々が居住した海浜集落(港町)
③方本・庵治が東讃岐屈指の国人領主である十河氏の影響下に置かれていた
④兵庫北関に向かった船船のほぼ半数が十河氏の「国料船」となっていた
方本・庵治が、十河氏によって強く支配されていたのでしょうか?
これに対しての研究者の答えはNOです。
その理由は、残り半数の船は、船頭や問丸の裁量で塩や穀類の輸送を行っているからです。
例えば、安富氏の「国料船」の船頭を務めた成葉が、その一方で方本塩460石、大麦・小麦各10石を積載した船の船頭として活動しています。「国料船」は、十河氏が自分の郡内の港町の船をチャーターし、畿内で販売する塩や年貢類を積載・輸送させていた可能性が高く、そこに船頭や船主たちの私的商品が合わせて積み込まれていたとも考えられるからです。畿内における当時の領主と港町の関係などからも、領主の一方的な支配の強制が貫徹できていたとは考えにくいようです。
 しかし方本・庵治は、十河氏や安富氏と結んで発展する道を選んだようです。
そして進んで彼らの「国料船」の担い手となった可能性が高いと研究者はいいます。方本・庵治船のほぼ半数が「国料船」であった事実は、ふたつの港側に十河・安富氏の要請を受けいれる動きがあったことをしめしています。そうでなければ半分が「国料船に指定」される状態にはならないでしょう。方本・庵治は、それによって瀬戸内海海運において有利な条件を獲得しようとしたのではないでしょうか。
隣接するライバルの野原船(現高松周辺)と比較してみましょう
野原船が方本の塩を大量に積載しつつも、その一方で大麦・小麦・米・大豆など高松平野で生産された農産物や、近場の瀬戸内海産と見られる赤イワシを大量に輸送していました。一方の庵治や方本もの地場産の塩を大量に積載しする「塩専用運搬船」のような性格でした。つまり、現在でも同じですが積荷がモノカルチャー的で、多様化ができていないので「危機」には弱いとことになります。
DSC03842兵庫入船の港
 これは方本・庵治の立地の問題に加えて、この両港が背後に抱え持つ生産地の狭小さと集荷力の弱さでもありました。つまり、港湾としての存在基盤が不安定だったのです。そこで、有力領主と連携し、有利な条件を獲得しようとする対応策がとられたのでしょう。
野原・高松復元図カラー
 これに対して野原(現高松)は、郷東川沿いに広がる高松平野を後背地にして、河川水運により200石を越える大麦・小麦・米・豆の集荷・積載が可能となる港でした。また、積載品のなかで方本の塩に次いで多い赤イワシ510石があります。これは秋に高松沖から塩飽付近で捕獲・加工されたもので、漁場や加工場も後背地として持っていたようです。その意味で、野原(現高松)は、積載品が多様化しており、方本よりも港湾として安定した基盤を持っていたと言えます。
DSC03834
 さらに港湾をめぐる自然環境が野原湊と方本湊の明暗を分けることになります。
高松と屋島との間は、すでに屋島の合戦当時から
「潮の干て候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候はず」(「平家物語」)
という状態で、干潮時には馬は歩いて渡れたようです。その後も海岸線は、河川による堆積など埋まっていきます。その結果、高松の港湾機能はかなり早くから低下し、方本も比較的早い段階で西方本に中心を移していたようです。
こうして、15世紀後半~16世紀になる野原(現高松)エリアの方本・古高松エリアに対する優位性が明らかになり、次のような変化が現れます。
①無量寿院や勝法寺を始め多くの寺院が野原へ移転してくる
②野原中ノ村の香西氏の家臣の雑賀氏や佐藤氏一族が紀州雑賀から移住してくる
③文安二年に庵治の船頭として見える「安原」一族の子孫「やす原殿」が野原中ノ村に移住
④他所から永禄八年当時の野原に他国・転入したと見られる人々が散見される。
こうして、一五世紀後半以降、古・高松湾にあった方本・古高松と野原の二つの中心港がが、しだいに野原へむかって収斂していくのです。
16世紀末、豊臣配下の生駒親正は野原に築城し「高松」へ地名変更します。
其の結果、それまでの高松が古高松となります。これは中世を通じて古・高松湾の中で展開された二つの中心地の歴史の帰結だったと研修者はいいます。その意味で、近世高松城とその城下町が、古高松でなく野原に姿を現すのは、このような二つの地域での綱引きの結果だとも言えるのかも知れません。
高松城江戸時代初期

参考文献
市村高男  中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
 


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