瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:十瓶山窯群

    平安時代末期の11世紀中期以降になると、郡・郷のほかに保・名・村・別符その他の称号でよばれる「別名」という所領が姿を見せるようになります。つまり、郡郷体制から「別名」体制に移行していくのです。この動きは、11世紀半ばの国制改革によるもので、一斉に全国に設置されたのでなくて、国政改革以後に漸次、設置されたとされていったようです。
それでは、讃岐には、どんな「別名」が設置されたのでしょうか?
讃岐の「別名」を探すには、嘉元四(1306)年の「昭慶門院御領目録案」がいい史料になるようです。
讃岐国
飯田郷  宝珠丸 氷上郷 重方新左衛門督局
円座保  京極準后     石田郷 定氏卿 
大田郷  廊御方    山田郷 廊御方
粟隅郷  東脱上人  林田郷 按察局
一宮   良寛法印秀国  郡家郷 前左衛門督親氏卿
良野郷  行種    陶 保 季氏
法勲寺  多宝院寺用毎年万疋、為行盛法印沙汰、任供僧
三木井上郷 冷泉三位人道
生野郷 重清朝臣    田中郷 同
「坂田勅旨行清入道、万五千疋、但万疋領状」
梶取名 親行    良野新           
万乃池 泰久勝    新居新          
大麻社 頼俊朝臣    高岡郷 行邦
野原郷 覚守    乃生 行長朝臣
高瀬郷 源中納言有房 垂水郷 如来寿院科所如願上人知行
ここに出てくる地名を見ると、それまでの律令体制下の郷以外に、それまではなかったあらたな地名(別名)が出てきます。それが「円座保  陶保 梶取名 良野新名 新居新名 乃生浦 万乃池」などです。これらの別名の成立背景を、推察すると次のようになります。
乃生浦は海辺にあって、塩や魚海などを年貢として納める「別名」
梶取名は、梶取(輸送船の船長)や船首など水運関係者の集住地
良野新名・新居新名は、本村に対して新たに拓かれた名
万乃池(満濃池)は、源平合戦中に決壊した池跡に、新たに拓かれた土地
それでは、円座保・陶保とは、何なのでしょうか。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。

11世紀になると「別名」支配形態の一つとして「保」が設けられるようになります。
保の成立事情について、研究者は次のように考えているようです。
①竹内理二氏、
保の中には在地領主を公権力に結集するため、国衙による積極的な創出の意図がみられる
②橋本義彦氏、
大炊寮の便補保が年料春米制とつながりをもちつつ、殿上熟食米料所として諸国に設定されていった
③網野義彦氏、
内蔵寮が御服月料国に対する所課を、国によって保を立てて徴収している。そのほか内膳保・主殿保など、官司の名を付した保は各地に存在している
 以上からは、は保の中には、国衛や中央官司によって設定されたものがあること分かります。

讃岐の国では、陶保・円座保・善通寺・曼荼羅寺領一円保・土器保・原保・金倉保などがありました。この中で、善通寺・曼荼羅寺領一円保については、以前にお話したように古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。そして、保延4年(1138)に讃岐国司藤原経高が国司の権限で、一円保が作られます。それでは、陶保と円座保は、どのようにして成立したのでしょうか


十瓶山窯跡支群分布図1
十瓶山(陶)窯跡分布図

陶保の成立から考えてみることにします。
陶保がおかれた一帯は、現在の綾川町の十瓶山周辺で奈良時代から平安時代にかけて、須恵器や瓦を焼く窯がたくさん操業していたことは、以前にお話ししました。
平安時代に成立した『延喜式』の主計式によると、讃岐国からは次のような多くの種類の須恵が、調として中央へ送ることが義務づけられていたことが分かります。
「陶盆十二口、水盆十二口、盆口、壺十二合、大瓶六口、有柄大瓶十二口、有柄中瓶八十五口、有柄小瓶三十口、鉢六十口、碗四十口、麻笥盤四十口、大盤十二口、大高盤十二口、椀下盤四十口、椀三百四十口、壺杯百口、大宮杯三百二十口、小箇杯二千口」

これらの「調」としての須恵器は、坂出の国衙から指示を受けた郡長の綾氏が、支配下の窯主に命じて作らせて、綾川の水運を使って河口の林田港に運び、そこから大型船で畿内に京に納められていたことが考えられます。
須恵器 編年表3
十瓶山窯群の須恵器編年表
 十瓶山(陶)地区での須恵器生産のピークは平安中期だったようですが、11世紀末までは、甕・壷・鉢・碗・杯・盤などの、いろいろな器種の須恵器の生産が行なわれいたことが発掘調査から分かっています。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
それまでのいろいろな種類の須恵器を生産していたのが、甕だけの単純生産に変わります。その他の機種は、土師器や瓦器に置き換えられていったことが発掘調査から分かっています。その中でもカメ焼谷の地名が残っている窯跡群は、その名の通り甕単一生産窯跡だったようです。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土3

 十瓶山(陶)窯群が綾氏が管理する「国衙発注の須恵器生産地」という性格を持っていたことは以前にお話ししました。陶保は平安京への須恵器を生産するための「準官営工場」として国衙直結の「別名」になっていた研究者は考えています。
そのよう中で窯業の存続問題となってくるのが燃料確保です。
「三代実録』貞観元年4月21日条には、次のように記されています。
河内和泉両国相争焼陶伐薪之山。依朝使左衛門少尉紀今影等勘定。為和泉国之地。

  意訳変換しておくと
河内と和泉の両国は焼須恵器を焼くための薪を刈る薪山をめぐって対立した。そこで朝廷は、朝使左衛門少尉紀今影等に調査・裁定をさせて、和泉国のものとした。

ここからは、貞観年間(859―876)の頃から、須恵器を焼く燃料を生産する山をめぐっての争いがあったことが分かります。
十瓶山窯跡支群分布図2

このような薪燃料に関する争いは、須恵器の生産だけでなく、塩の生産にもからんでいました。
筑紫の肥君は、奈良時代の頃から、観世音寺と結んで広大な塩山(製塩のための燃料を生産する山)を所有していました。讃岐の坂本氏も奈良時代に西大寺と結託して、寒川郡鴨郷(鴨部郷)に250町の塩山をもっています。薪山をめぐる争いを防ぐために、薪山が独占化されていたことが分かります。塩生産において燃料を生産する山(汐木山)なくしては、塩は生産できなかったのです。
 瓦や須恵器、そして製塩のために周辺の里山は伐採されて丸裸にされていきます。そのために、燃料の薪山を追いかけて、須恵器窯は移動していたことは、三野郡の窯群で以前にお話ししました。
古代から「環境破壊」は起きていたのです。
 内陸部で後背地をもつ十瓶山窯工場地帯は、薪山には恵まれていたようですが、この時期になると周辺の山や丘陵地帯の森林を切り尽くしたようです。窯群を管理する綾氏の課題は、須恵器を焼くための燃料をどう確保するのか、もっと具体的には薪を切り出す山の確保が緊急課題となります。

古代の山野林沢は「雑令』国内条に、次のように記されています。
山川薮沢之利、公私共之。

ここからはもともとは、「山川は公有地」とされていたことが分かります。しかし、燃料確保のためには、山林の独占化が必要となってきたのです。陶地区では、須恵器の調貢が命じられていました。そのために国府は、綾氏の要請を受けて窯群周辺の薪山を「排他的独占地帯」として設定していたと研究者は考えています。
それが11世紀半ばになって地方行政組織が変革されると、陶地区一帯は保という国衛に直結した行政組織に改変されたと研究者は推察します。陶地区では、11世紀後半になっても須恵器の生産は盛んでした。その生産のための燃料を提供する山に、保護(独占化)が加えられたとしておきましょう。
それが実現した背景には、綾氏の存在ががあったからでしょう。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
ところが12世紀になると、先ほど見たように須恵器の生産の縮小し、窯業は衰退していきます。その中で窯業関係者は、保内部の開発・開墾を進め百姓化していったというのがひとつのストーリーのようです。
『鎌倉遺文』国司庁宣7578には、建長八年(1256)に萱原荘が祇園社に寄進された際の国司庁の四至傍示の中に、陶の地名が出てきます。ここからは陶保の中でも荘園化が進行していたことがうかがえます。
 最初に見た「昭慶門院御領目録案」嘉元四(1306)年には、「陶保 季氏」と記されていました。つまり季氏の荘園と記されているので、14世紀初頭には水田化が進み、一部には土師器や瓦生産をおこなう戸もあったようですが、多くは農民に転じていたようです。あるいは春から秋には農業を、冬の間に土師器を焼くような兼業的な季節生産スタイルが行われていたのかも知れません。

以上をまとめておくと
①陶保は、本来は須恵器や瓦生産の燃料となる薪の確保などを目的に保護され保とされた。
②しかし、13世紀頃から窯業が衰退化すると、内部での開墾が進み、荘園としての性格を強めていった。
須恵器 編年写真
十瓶山窯群の須恵器

次に、円座保の成立について、見ていくことにします。
もう一度「昭慶門院御領目録案」を見てみると、円座保は「京極准后定氏卿知行」と記されています。ここからは、京極准后の所領となっていたことが分かります。京極准后とは、平棟子(後嵯峨天皇典待、鎌倉将軍宗尊親母)だったようです。
菅円座制作記 すげ円座(制作中)
菅円座
円座保では、讃岐特産の菅円座がつくられていたようです。
『延喜式』の交易雑物の中に、「菅円座四十枚」とあります。
藤原経長の日記である『古続記』文永8(1271)年正月十一日条に、次のように記されています。
円座は讃岐国よりこれを進むる。件の保は准后御知行の間、兼ねて女房に申すと云々。

「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。

円座・円坐とは - コトバンク
 円座作り
円座が、国に直結する保に指定された背景は、何だったのでしょうか?
それは陶保と同じように、特産品の円座生産を円滑にしようとの意図が働いていたと研究者は考えています。円座は敷物として都で暮らす人々の必需品でした。その生産を保護する目的があったと云うのです。
菅円座制作記
讃岐の円座

このように、陶保と円座保では、須恵器と円座といった生産品のちがいはあつても、その生産をスムーズに行なわせようという国衙の意図がありました。それが「保」という国衙に直結した行政組織に編入された理由だと研究者は考えています。

研究者は「保」を次の三種類に分類します。
①荘園領主のため設定された便補の保
②領主としての在庁宮人が荘園領主と争う過程で成立した保
③神社の保、神人の村落を基礎に成立した保
円座・陶保は①になるようです。中央官庁が財源確保のために諸国に設定した保とよく似ています。中央官庁の命を受けた国司(在庁官人)が①の便補の保として設定したものと研究者は考えています。

以上、陶保と円座保についてまとめておきます。
①陶保と円座保は、それぞれ須恵器と菅円座の生産地として、繁栄していた。
②都における須恵器や菅円座の需要は大きく国衙にも利益とされたので、国衙の保護が与えられるようになった。
③11世紀半ばになって、「別名」体制が生み出された時に、陶保と円座保は国衙によって、保という国衛に直結した行政組織とされた。
④それは「別名」のうちの一つであった
⑤この両保が保とされた直接の原因は、その生産品の生産を円滑にするためであった。
⑥保に指定された陶や円座には、その内部に農地として開墾可能な荒地があった。それを窯業従事者たちが開墾し、農業を始る。
⑦その結果、14世紀には『昭慶門院御領目録案」には荘園として記されることになった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
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須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
 7世紀後半は、三野・高瀬窯で生産された須恵器が讃岐全体の遺跡から出てくる時期であることは、前回に見たとおりです。「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していた時期でもありました。7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へという流れだったのです。
 ところが、奈良時代になると三野・高瀬窯群の優位は崩れ、綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。今回は、それがどのように進んだのかを見ていきたいと思います。  テキストは  「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」です。 

 7世紀前半は讃岐の須恵器窯跡群と大型横穴式石室墳の分布は、郡域単位でセットになっていること、ここからは古墳の築造者である首長層が、須恵器の生産・流通面で関与していたと研究者は考えていることを、前回にお話ししました。その例を十瓶山窯群と神懸神社古墳との関係で見ておきましょう。
須恵器 打越窯跡地図

神懸神社古墳は、坂出平野南方の綾川沿いの山間部にある古墳です。古墳の周辺は急斜面の丘陵が迫っていて、平地部は蛇行して北流する綾川が形成した狭い氾濫原(現府中湖)だけです。このような耕地に乏しい地域に、弥生時代の集落の痕跡はありませんし、この古墳以外に遺跡はありません。四国横断道建設の予備調査(府中地区)でも、遺構・遺物があまりない地域であることが分かっています。
 ということは神懸神社古墳は、耕地開発が困難な小地域に、突如として現れた古墳と云えるようです。しかも、出土した須恵器や石室構造(無袖式)からは、新規古墳の造営が激減する7世紀中葉(T K 217型式相当)になって造られたことが分かります。つまり終末期の古墳です。7世紀中葉というのは、白村江敗北の危機意識の中で、城山や屋島に朝鮮式山城が造営されている時期です。そして、大量の亡命渡来人が讃岐にもやってきた頃になります。神懸神社古墳の背景には、特異な事情があると研究者は推測します。
研究者が注目するのが、同時期に開窯する打越窯跡です。
打越窯跡は、この古墳の南西1㎞の西岸にあった須恵器生産窯です。この窯跡を発見したのは、綾川町陶在住の日詰寅市氏で、窯跡周辺の丘陵がミカン畑に開墾された1968(昭和43)年頃のことでした。分布調査で、平安時代の須恵器窯跡を確認し、十瓶山窯跡群が綾川沿いに坂出市まで広がっていたことを明らかにしました。採集された資料を、十瓶山窯跡群の踏査・研究を続けられてきた田村久雄氏が見て、十瓶山窯跡群における最古の須恵器窯跡であることが明らかにされます。
 その後、研究者が杯・無蓋高杯・甕・壺脚部の実測図を検討して、7世紀前半~中頃のものと位置づけます。つまり、打越遺跡は、十瓶山を中心に分布する十瓶山窯須恵器窯の中でもっとも古い窯跡であるとされたのです。こうして、陶窯跡群の成立過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡という認識が研究者のあいだにはあったようです。しかし、打越窯跡自体は開墾のため消滅したと考えられていました。
 そのような中で1981(昭和56)年になって、打越窯跡のある谷部が埋め立てて造成されることになり緊急調査が行われました。発掘調査の第5トレンチの斜面上部には、灰と黒色土を含む暗赤褐色の焼土が約10㎝の厚さに堆積していました。また、良好な灰原が残っていて、大量の須恵器が出てきたのです。出土した遺物は、コンテナ約220箱にのぼりますが、すべてが須恵器のようです。報告書は、遺物を上層ごとに分けることが困難なために、時代区分を行わずに器種で分け、次に形態によって分けて掲載されています。

須恵器 打越窯跡出土須恵器2
打越窯跡出土の須恵器分類図
 打越窯跡から出てきた須恵器はTK48型式相当期のもので、先ほど見た神懸神社古墳の副葬品として埋葬されていたことが分かってきました。神懸神社古墳には初葬から追葬時期まで、打越窯跡からの須恵器が使われています。見逃せないのは室内から窯壁片が出ていることです。両遺跡の距離からみて、偶然混入する可能性は低いでしょう。何かの意図(遺品?)をもって石室内に運び込まれたと研究者は考えています。
須恵器 打越窯跡出土須恵器
          打越窯跡出土の須恵器
 打越窯跡で焼かれた須恵器(7世紀)をみると、器壁の薄さや自然釉の厚さなどから、整形、焼成技術面で高い技術がうかがえるようです。讃岐では最も優れたに工人集団が、ここにいたと研究者は考えています。どのようにして先進技術をもった工人たちが、ここにやってくることになったのでしょうか。それは、後で考えることにして先に進みます。
 以上から、この古墳に眠る人たちは打越窯跡の操業に関わった人たちであった可能性が高いと研究者は考えます。
彼らは窯を所有し、原料(粘土・薪)を調達し、工房を含めた窯場を維持・管理する「窯元」的立場の階層です。想像を膨らませるなら、彼らは時期的に見て白村江敗戦後にやってきた亡命技術者集団であったかもしれません。ヤマト政権が彼らを受けいれ、阿野北平野の大型石室墳の築造主体(在地首長層=綾氏?)に「下賜」したというストーリーが描けそうです。それを小説風に、描いてみましょう。
 綾氏は、最先端の須恵器生産技術をもった技術者集団を手に入れ、その窯を開く場所を探させます。立地条件として、挙げられのは次のような点です。
①綾川沿いの川船での輸送ができるエリアで
②須恵器生産に適した粘土層を捜し
③周辺が未開発で照葉樹林の原野が広がり、燃料(薪)を大量を入手できる所
④綾氏の支配エリアである阿野郡の郡内
その結果、白羽の矢が立てられたの打越窯跡ということになります。
 こうして、7世紀後半に打越窯で須恵器生産は開始されます。ここで作られた須恵器は、綾川水運を通じて、綾氏の拠点である阿野北平野や福江・川津などに提供されるようになります。しかし、当時の讃岐の須恵器市場をリードしていたのは三豊の辻窯群と三野・高瀬窯群であったことは、前回見たとおりです。この時点では、打越窯では他郡への移出が行えるほどの生産規模ではなかったようです。

須恵器 府中湖
府中ダムを見晴らす位置にある神懸神社
 窯を開設したリーダーが亡くなると、下流の見晴らしのいい場所に造営されたのが神懸神社古墳です。
その副葬品は、打越窯で焼かれた須恵器が使われます。また、遺品として打越窯の壁の一部が埋葬されます。それは、打越窯を開いたリーダーへのリスペクトと感謝の気持ちを表したものだったのでしょう。打越窯での生産は、その後も継続して行われます。そして、一族が亡くなる度に追葬が行われ、その時代の須恵器が埋葬されました。
  そうするうちに、打越窯跡周辺の原野を切り尽くし、燃料(薪)入手が困難になってきます。窯の移動の時期がやってきます。周辺を探す中で、見つけたのが十瓶山周辺の良質で豊富な粘土層でした。彼らは打越窯から十瓶周辺へ生産拠点を移します。こうして十瓶山窯群の本格的な操業が開始されていきます。
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
讃岐の須恵器生産窯(7世紀)

 7世紀後半には、讃岐では大規模な須恵器生産窯の開設が進みます。那珂郡の奧部の満濃池東岸窯跡や香南の大坪窯跡群のように、原料不足のためか平野部の奧の丘陵地帯に開かれる窯が多くなるのが特徴です。こうして発展の一途をたどるかにみえた讃岐の須恵器窯群です。
 ところが、8世紀になると一転してほとんどの窯が一斉に操業停止状態になります。そんな中で、陶窯跡群だけが生産活動を続け、讃岐の市場を独占していきます。各窯群を見ておく、庄岸原窯跡・池宮神社南窯跡・北条池1号窯跡などをはじめとして、北条池周辺に8世紀代の窯跡が集中し、盛んな窯業活動を展開します。
 須恵器生産窯の多くが奈良時代になると閉じられるのは、どうしてでしょうか?
その原因のひとつは、7世紀中頃に群集墳築造が終わり、副葬品としての須恵器需要がなくなったことが考えられます。もうひとつは、この現象の背景には、もっと大きな変化があったと研究者は考えています。それは、律令支配の完成です。各地で須恵器生産を管理していた地域首長たちは、律令体制下では各郡の郡司となっていきます。郡司はあくまで国衙に直属する地方官にすぎません。古墳時代の地域支配者(首長)としての権力は制限されます。また、律令時代にすべての土地公有化され、燃料となる樹木の伐採を配下にいる須恵器工人に独占させ続けることができない場合もでてきたかもしれません。原料である粘土と、燃料である薪の入手が困難になり、生産活動に大きな支障が出てきたことが考えられます。
 これに対して陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群でした。
 陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不使なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆わた原野で、豊富な燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。

 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得したのではないかと研究者は考えています。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。

 先ほど見たように陶窯跡群の中で最も古い窯跡は、打越窯でした。
当時は、
この窯で作られた須恵器が、器壁の薄さや自然釉の厚さ、整形、焼成技術などの面から見て技術的に最も優れた製品でした。それを作り出せる工人集団が存在したことになります。そして、そういう工人集団を「誘致」できたのが綾氏だったことになります。それは三野郡の丸部氏が藤原京の宮殿瓦を焼くための最新鋭瓦工場である宗吉窯群を誘致できた政治力と似通ったものだったと私は考えています。
 讃岐では最も優れたに工人集団がここにいたという事実からは、「綾氏 → 国衙 → 中央政府」という政治的なつながりが見えてきます。つまり奈良時代になると、最新技術やノウハウが国家を通じて陶窯群に独占的に注ぎ込まれたとしておきましょう。こうして陶窯跡群は、讃岐一国の需要を独占する大窯業地帯へと成長して行きます。

10世紀前半の『延喜式』には、讃岐国は備前国・美濃国など八国と共に、調として須恵器を貢納すべき事が記されています。
10世紀には、讃岐国で須恵器生産を行っていたのは陶窯跡群しかないのは、先に見てきたとおりです。陶で生産された須恵器が綾川を川船で下って、河口の林田港で海船に積み替えられて畿内に運ばれていたことになります。それは、7世紀末の藤原京の宮殿造営のための瓦が三野郡の宗吉産から海上輸送されたいことを考えれば、何も不思議なことではありません。陶窯跡群の須恵器が中央に貢納されるようになった時期や経緯は分かりません。その背景には、讃岐の須恵器生産を独占していた陶窯跡群の存在があったと研究者は考えています。官営的なとして陶窯跡群の窯業活動が国衛によって管理・掌握されていたことが、国衙にとっては都合が良かったのでしょう。
 讃岐国が貢納した須恵器は、18種類3151個になります。これだけの多種類のものを造り分ける技術を持った職人がいたことになります。7世紀後半に讃岐全体に須恵器を提供していた三野・高瀬窯群に、陶窯群が取って代わってしまったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
 「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」 
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前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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