平安時代末期の11世紀中期以降になると、郡・郷のほかに保・名・村・別符その他の称号でよばれる「別名」という所領が姿を見せるようになります。つまり、郡郷体制から「別名」体制に移行していくのです。この動きは、11世紀半ばの国制改革によるもので、一斉に全国に設置されたのでなくて、国政改革以後に漸次、設置されたとされていったようです。
それでは、讃岐には、どんな「別名」が設置されたのでしょうか?
讃岐の「別名」を探すには、嘉元四(1306)年の「昭慶門院御領目録案」がいい史料になるようです。
讃岐国飯田郷 宝珠丸 氷上郷 重方新左衛門督局円座保 京極準后 石田郷 定氏卿大田郷 廊御方 山田郷 廊御方粟隅郷 東脱上人 林田郷 按察局一宮 良寛法印秀国 郡家郷 前左衛門督親氏卿良野郷 行種 陶 保 季氏法勲寺 多宝院寺用毎年万疋、為行盛法印沙汰、任供僧三木井上郷 冷泉三位人道生野郷 重清朝臣 田中郷 同「坂田勅旨行清入道、万五千疋、但万疋領状」梶取名 親行 良野新名万乃池 泰久勝 新居新名大麻社 頼俊朝臣 高岡郷 行邦野原郷 覚守 乃生浦 行長朝臣高瀬郷 源中納言有房 垂水郷 如来寿院科所如願上人知行
ここに出てくる地名を見ると、それまでの律令体制下の郷以外に、それまではなかったあらたな地名(別名)が出てきます。それが「円座保 陶保 梶取名 良野新名 新居新名 乃生浦 万乃池」などです。これらの別名の成立背景を、推察すると次のようになります。
乃生浦は海辺にあって、塩や魚海などを年貢として納める「別名」梶取名は、梶取(輸送船の船長)や船首など水運関係者の集住地良野新名・新居新名は、本村に対して新たに拓かれた名万乃池(満濃池)は、源平合戦中に決壊した池跡に、新たに拓かれた土地
それでは、円座保・陶保とは、何なのでしょうか。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
11世紀になると「別名」支配形態の一つとして「保」が設けられるようになります。
保の成立事情について、研究者は次のように考えているようです。
①竹内理二氏、
保の中には在地領主を公権力に結集するため、国衙による積極的な創出の意図がみられる②橋本義彦氏、
大炊寮の便補保が年料春米制とつながりをもちつつ、殿上熟食米料所として諸国に設定されていった③網野義彦氏、
内蔵寮が御服月料国に対する所課を、国によって保を立てて徴収している。そのほか内膳保・主殿保など、官司の名を付した保は各地に存在している
以上からは、は保の中には、国衛や中央官司によって設定されたものがあること分かります。
讃岐の国では、陶保・円座保・善通寺・曼荼羅寺領一円保・土器保・原保・金倉保などがありました。この中で、善通寺・曼荼羅寺領一円保については、以前にお話したように古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。そして、保延4年(1138)に讃岐国司藤原経高が国司の権限で、一円保が作られます。それでは、陶保と円座保は、どのようにして成立したのでしょうか
陶保の成立から考えてみることにします。
陶保がおかれた一帯は、現在の綾川町の十瓶山周辺で奈良時代から平安時代にかけて、須恵器や瓦を焼く窯がたくさん操業していたことは、以前にお話ししました。
平安時代に成立した『延喜式』の主計式によると、讃岐国からは次のような多くの種類の須恵が、調として中央へ送ることが義務づけられていたことが分かります。
「陶盆十二口、水盆十二口、盆口、壺十二合、大瓶六口、有柄大瓶十二口、有柄中瓶八十五口、有柄小瓶三十口、鉢六十口、碗四十口、麻笥盤四十口、大盤十二口、大高盤十二口、椀下盤四十口、椀三百四十口、壺杯百口、大宮杯三百二十口、小箇杯二千口」
これらの「調」としての須恵器は、坂出の国衙から指示を受けた郡長の綾氏が、支配下の窯主に命じて作らせて、綾川の水運を使って河口の林田港に運び、そこから大型船で畿内に京に納められていたことが考えられます。
十瓶山窯群の須恵器編年表
十瓶山(陶)地区での須恵器生産のピークは平安中期だったようですが、11世紀末までは、甕・壷・鉢・碗・杯・盤などの、いろいろな器種の須恵器の生産が行なわれいたことが発掘調査から分かっています。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
それまでのいろいろな種類の須恵器を生産していたのが、甕だけの単純生産に変わります。その他の機種は、土師器や瓦器に置き換えられていったことが発掘調査から分かっています。その中でもカメ焼谷の地名が残っている窯跡群は、その名の通り甕単一生産窯跡だったようです。
十瓶山(陶)窯群が綾氏が管理する「国衙発注の須恵器生産地」という性格を持っていたことは以前にお話ししました。陶保は平安京への須恵器を生産するための「準官営工場」として国衙直結の「別名」になっていた研究者は考えています。
そのよう中で窯業の存続問題となってくるのが燃料確保です。
「三代実録』貞観元年4月21日条には、次のように記されています。
河内和泉両国相争焼陶伐薪之山。依朝使左衛門少尉紀今影等勘定。為和泉国之地。
意訳変換しておくと
河内と和泉の両国は焼須恵器を焼くための薪を刈る薪山をめぐって対立した。そこで朝廷は、朝使左衛門少尉紀今影等に調査・裁定をさせて、和泉国のものとした。
ここからは、貞観年間(859―876)の頃から、須恵器を焼く燃料を生産する山をめぐっての争いがあったことが分かります。

このような薪燃料に関する争いは、須恵器の生産だけでなく、塩の生産にもからんでいました。
筑紫の肥君は、奈良時代の頃から、観世音寺と結んで広大な塩山(製塩のための燃料を生産する山)を所有していました。讃岐の坂本氏も奈良時代に西大寺と結託して、寒川郡鴨郷(鴨部郷)に250町の塩山をもっています。薪山をめぐる争いを防ぐために、薪山が独占化されていたことが分かります。塩生産において燃料を生産する山(汐木山)なくしては、塩は生産できなかったのです。
瓦や須恵器、そして製塩のために周辺の里山は伐採されて丸裸にされていきます。そのために、燃料の薪山を追いかけて、須恵器窯は移動していたことは、三野郡の窯群で以前にお話ししました。
古代から「環境破壊」は起きていたのです。
内陸部で後背地をもつ十瓶山窯工場地帯は、薪山には恵まれていたようですが、この時期になると周辺の山や丘陵地帯の森林を切り尽くしたようです。窯群を管理する綾氏の課題は、須恵器を焼くための燃料をどう確保するのか、もっと具体的には薪を切り出す山の確保が緊急課題となります。
古代の山野林沢は「雑令』国内条に、次のように記されています。
山川薮沢之利、公私共之。
ここからはもともとは、「山川は公有地」とされていたことが分かります。しかし、燃料確保のためには、山林の独占化が必要となってきたのです。陶地区では、須恵器の調貢が命じられていました。そのために国府は、綾氏の要請を受けて窯群周辺の薪山を「排他的独占地帯」として設定していたと研究者は考えています。
それが11世紀半ばになって地方行政組織が変革されると、陶地区一帯は保という国衛に直結した行政組織に改変されたと研究者は推察します。陶地区では、11世紀後半になっても須恵器の生産は盛んでした。その生産のための燃料を提供する山に、保護(独占化)が加えられたとしておきましょう。
それが実現した背景には、綾氏の存在ががあったからでしょう。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
ところが12世紀になると、先ほど見たように須恵器の生産の縮小し、窯業は衰退していきます。その中で窯業関係者は、保内部の開発・開墾を進め百姓化していったというのがひとつのストーリーのようです。
『鎌倉遺文』国司庁宣7578には、建長八年(1256)に萱原荘が祇園社に寄進された際の国司庁の四至傍示の中に、陶の地名が出てきます。ここからは陶保の中でも荘園化が進行していたことがうかがえます。
最初に見た「昭慶門院御領目録案」嘉元四(1306)年には、「陶保 季氏」と記されていました。つまり季氏の荘園と記されているので、14世紀初頭には水田化が進み、一部には土師器や瓦生産をおこなう戸もあったようですが、多くは農民に転じていたようです。あるいは春から秋には農業を、冬の間に土師器を焼くような兼業的な季節生産スタイルが行われていたのかも知れません。
以上をまとめておくと
①陶保は、本来は須恵器や瓦生産の燃料となる薪の確保などを目的に保護され保とされた。
②しかし、13世紀頃から窯業が衰退化すると、内部での開墾が進み、荘園としての性格を強めていった。
十瓶山窯群の須恵器
次に、円座保の成立について、見ていくことにします。
もう一度「昭慶門院御領目録案」を見てみると、円座保は「京極准后定氏卿知行」と記されています。ここからは、京極准后の所領となっていたことが分かります。京極准后とは、平棟子(後嵯峨天皇典待、鎌倉将軍宗尊親母)だったようです。


菅円座
円座保では、讃岐特産の菅円座がつくられていたようです。『延喜式』の交易雑物の中に、「菅円座四十枚」とあります。
「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。
藤原経長の日記である『古続記』文永8(1271)年正月十一日条に、次のように記されています。
円座は讃岐国よりこれを進むる。件の保は准后御知行の間、兼ねて女房に申すと云々。
「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。

円座作り
円座が、国に直結する保に指定された背景は、何だったのでしょうか?
それは陶保と同じように、特産品の円座生産を円滑にしようとの意図が働いていたと研究者は考えています。円座は敷物として都で暮らす人々の必需品でした。その生産を保護する目的があったと云うのです。


讃岐の円座
このように、陶保と円座保では、須恵器と円座といった生産品のちがいはあつても、その生産をスムーズに行なわせようという国衙の意図がありました。それが「保」という国衙に直結した行政組織に編入された理由だと研究者は考えています。
研究者は「保」を次の三種類に分類します。
①荘園領主のため設定された便補の保②領主としての在庁宮人が荘園領主と争う過程で成立した保③神社の保、神人の村落を基礎に成立した保
円座・陶保は①になるようです。中央官庁が財源確保のために諸国に設定した保とよく似ています。中央官庁の命を受けた国司(在庁官人)が①の便補の保として設定したものと研究者は考えています。
以上、陶保と円座保についてまとめておきます。
①陶保と円座保は、それぞれ須恵器と菅円座の生産地として、繁栄していた。
②都における須恵器や菅円座の需要は大きく国衙にも利益とされたので、国衙の保護が与えられるようになった。
③11世紀半ばになって、「別名」体制が生み出された時に、陶保と円座保は国衙によって、保という国衛に直結した行政組織とされた。
④それは「別名」のうちの一つであった
⑤この両保が保とされた直接の原因は、その生産品の生産を円滑にするためであった。
⑥保に指定された陶や円座には、その内部に農地として開墾可能な荒地があった。それを窯業従事者たちが開墾し、農業を始る。
⑦その結果、14世紀には『昭慶門院御領目録案」には荘園として記されることになった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。関連記事