瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:千葉乗隆

真宗興正派 2024年6月28日講演
安楽寺(美馬市郡里)
吉野川の河岸段丘の上にあるのが安楽寺です。周辺には安楽寺の隠居寺がいくつかあり寺町と呼ばれています。中世には、門徒集団が寺内町を形成していたと研究者は考えています。後が三頭山で、あの山の向こうは美合・勝浦になります。峠越の道を通じて阿讃の交流拠点となった地点です。

 手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。

安楽寺


安楽寺の三門です。赤いので「赤門寺」と呼ばれています。江戸時代には、四国中の100近い末寺から僧侶を目指す若者がやって来て修行にはげんだようです。ここで学び鍛えられた若き僧侶達が讃岐布教のためにやってきたことが考えられます。安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺2
安楽寺境内に立つ親鸞・蓮如像

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。

安楽寺 千葉乗隆
安楽寺の千葉乗隆氏
先々代の住職・千葉乗隆(じょうりゅう)氏です。彼は若いときに自分のお寺にある文書を整理・発行します。その後、龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長を数年務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。整理された史料と研究成果から安楽寺の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。千葉乗隆の明らかにした成果を見ていくことにします。まず安楽寺の由来を見ておきましょう。

安楽寺 開基由緒
安楽寺由来
ここからは次のようなことが分かります。
①真宗改宗者は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護だったこと
②上総の親鸞聖人の高弟の下で出家したこと
③その後、一族を頼って阿波にやってきて、安楽寺をまかされます。
④住職となって天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗します。
その時期は、13世紀後半の鎌倉時代の 非常に早い時期だとします。ここで注意しておきたいのは、前回見た常光寺の由来との食違いです。常光寺の由来には「佛光寺からやってきた門弟が安楽寺と常光寺を開いた」とありました。しかし、安楽寺の由緒の中には常光寺も仏国寺(興正寺)も出てきません。ここからは常光寺由来の信頼性が大きく揺らぐことになります。最近の研究者の中には、常光寺自体が、もともとは安楽寺の末寺であったと考える人もいるようです。そのことは、後にして先に進みます。

 安楽寺の寺史の中で最も大きな事件は、讃岐の財田への「逃散・亡命事件です。

安楽寺財田亡命

 寺の歴史には次のように記されています。永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田に転じて宝光寺を建てた。これを深読みすると、次のような疑問が浮かんできます。ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。その疑問と解く鍵を与えてくれるのが次の文書です。

安楽寺免許状 三好長慶
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)

三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」  宛先は、郡里の安楽寺です。

 興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。

意訳します。

安楽寺免許状2

三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。
 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。

安楽寺免許状3


この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼 
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
 という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。

 三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。

安楽寺免許状の意義

 先ほど見たように興正寺と安楽寺は、三好氏を動かすだけの力があったことがうかがえます。⑥のように「課税・信仰を認めるので、もどってこい」と三好氏に言わしめています。その「力」とは何だったのでしょうか? それは安楽寺が、信徒集団を結集させ社会的な勢力を持つようになっていたからだと私は考えています。具体的には「寺内」の形成です。

寺内町
富田林の寺内町
この時期の真宗寺院は寺内町を形成します。そこには多様な信徒があつまり住み、宗教共同体を形成します。その最初の中核集団は農民達ではなく、「ワタリ」と呼ばれる運輸労働者だったとされます。そういう視点で安楽寺の置かれていた美馬郡里の地を見てみると、次のような立地条件が見えて来ます。
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
 周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
  財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。

安楽寺の財田亡命

安楽寺の讃岐への布教活動の開始は、財田からの帰還後だと私は考えています。つまり1520年代以後のことです。これは永世の錯乱後の讃岐の動乱開始、三好氏の讃岐侵攻、真言勢力の後退とも一致します。

どうして、安楽寺は讃岐にターゲットを絞ったのでしょうか?

安楽寺末寺分布図 四国


江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。

①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。

②伊予については、戦国時代は河野氏が禅宗を保護しますので真宗は伊予や島嶼部には入り込めませんでした。また、島嶼部には三島神社などの密教系勢力の縄張りで入り込めません。真宗王国が築かれたのは安芸になります。
③阿波を見ると吉野川沿岸部を中心に分布していることが分かります。これを見ても安楽寺が吉野川水運に深く関わっていたことがうかがえます。しかし、その南部や海岸地方には安楽寺の末寺は見当たりません。どうしてでしょうか。これは、高越山や箸蔵寺に代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。これを悟った安楽寺は、阿讃の山脈を越えた讃岐に布教地をもとめていくことになります。

讃岐の末寺分布を拡大して見ておきましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐


讃岐の部分を拡大します。

①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。

②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。

この背景には、それぞれのエリアに大きな勢力を持つ修験者・聖集団がいたことが挙げられます。例えば大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。真言密教系の寺院で、多くの修験者や聖を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては以前にお話ししたように、善通寺は16世紀後半に戦乱で焼け落ち一時的に退転していたようです。
 こうして安楽寺の布教対象地は讃岐、その中でも髙松・丸亀・三豊平野に絞り込まれていくことになります。安楽寺で鍛えられた僧侶達は、讃岐山脈を越えて山間の村々での布教活動を展開します。それは、三好氏が讃岐に勢力を伸ばす時期と一致するのは、さきほど見た通りです。安楽寺の讃岐へ教線拡大を裏付けるお寺を見ておきましょう。

東山峠の阿波側の男山にある徳泉寺です。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。


男山の徳泉寺
徳泉寺(男山)


ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?

安楽寺の僧が越えた阿讃の峠
阿讃の峠

安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が東から西に、その北側に讃岐山脈が走ります。大川山がここです。雲辺寺がここになります。赤線が阿讃を結ぶ峠道です。そこにはいくつもの峠があったことが分かります。安楽寺のある郡里がここになります。
 相栗峠⑪を越えると塩江の奥の湯温泉、内場ダムを経て、郷東川沿いに髙松平野に抜けます。
三頭越えが整備されるのは、江戸時代末です。それまでは⑨の立石越や⑧の真鈴越えが利用されていました。真鈴越を超えると勝浦の長善寺があります。⑦石仏越や猪ノ鼻を越えると財田におりてきます。
そこにある寶光寺から見ておきましょう。

寶光寺4

 寶光寺(財田上)

寶光寺は、さきほど見たように安楽寺が逃散して亡命してきた時に設立された寺だと安楽寺文書は記します。しかし、寶光寺では安楽寺が亡命してくる前から寶光寺は開かれていたとします。

寶光寺 財田

開基は「安芸宮島の佐伯を名のる社僧」とします。そのため山号は厳島山です。当時の神仏混淆時代の宮島の社僧(修験者)が廻国し開いたということになります。そうすると寶光寺が安楽寺の亡命を受けいれたということになります。讃岐亡命時代の安楽寺は、僧侶だけがやってきたのではなく、信徒集団もやってきて「寺内町」的なものを形成していたと私は考えています。

先ほども見たように財田への「逃散」時代は、布教のための「下調べと現地実習」の役割を果たしたと云えます。そういう意味では、この財田の寶光寺は、安楽寺の讃岐布教のスタート地点だったといえます。

寶光寺2

寶光寺
寶光寺は今は山の中になりますが、鉄道が開通する近代以前には阿讃交流の拠点地でした。財田川沿いに下れば三豊各地につながります。この寺を拠点に三豊平野に安楽寺の教線は伸びていったというのが私の仮説です。 それを地図で見ておきます。

 

安楽寺末寺 三豊平野


安楽寺の三豊方面への教線拡大ルートをたどってみます。
拠点となるのが①財田駅前の寶光寺 その隠居寺だった正善寺、和光中学校の近くの品福寺などは寶光寺の末寺になります。宝光寺末に品福寺、正善寺、善教寺、最勝寺などがあり、阿讃の交易路の要衝を押さえる位置にあります。三好氏の進出ルートと重なるのかも知れません。②山本や豊中の中流域には末寺はありません。流岡には、善教寺と西蓮寺、坂本には仏証寺・光明寺、柞田には善正寺があります。。注意しておきたいのは、観音寺の市街にはないことです。観音寺の町中の商人層は禅宗や真言信仰が強かったことは以前にお話ししました。そのためこの時期には浄土真宗は入り込むことができなかったようです。

安楽寺の拠点寺院

ここからは寶光寺を拠点に、三豊平野に安楽寺の教線ルートが伸びたことがうかがえます。その方向は山から海へです。

今回はここまでとします。次回は安楽寺の丸亀方面への動きを見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

         
前回までに飛騨では毛坊主によって道場が開基され、それが江戸時代に寺院化していくプロセスを見てきました。今回は、道場で毛坊主が行っていた教化法を見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」

 毎月の定例には、親鸞(28日)と本願寺前門主の命日に、村民はみな道場に集まって法会を行います。これが「お講」といわれ、十時ごろ道場に集まり、仏前で「正信偈(しょうしんげ)」「御文章」・説教の後、昼食の「お斎」を食べます。御飯は各自の持参ですが、お汁は「お講元」と呼ばれる当番(二名)が道場でつくります。

15.お正信偈を読む(2):拝読の方法(1) | 壽福寺だより
正信偈
正月元旦には、朝8時に村民全員が道場に集まり「おとそ」を飲みます。2月と9月の春秋の彼岸・お盆・11月の報恩講は、それぞれお勤めがあります。飛騨独特の行事としては夏期8月の別院回檀があります。
嘉念坊善俊 | がんでんの館
嘉念坊善俊
 飛騨の真宗は嘉念坊善俊によって開かれたとされます。
そのため道場80か寺は高山別院(照蓮寺)から輪番が供を連れ、毎年夏に嘉念坊の絵像を持つて、 一晩泊りで廻るしきたりとなっていたようです。
真宗大谷派高山別院照蓮寺(ひだご坊) - 高山市/岐阜県 | Omairi(おまいり)
高山別院(照蓮寺)

清見村の道場へは、8月の中旬から下旬にかけて、廻ってきます。お勤めは前夜と初夜の2回あって、嘉念坊の縁起を読んでいたようです。のちには教如・宣如等の本願寺門主の影像を開帳し、その消息を読むようになります。回檀には、村民が全員参加し、「御回檀餅」を供え、法会のあとには回檀踊りを踊ったと言います。この回檀の時に、本山や別院の経常費を村民から集めていました。
このような回檀は、中国地方の明光を開祖とする寺院でも行われているようです。
中国地方の備後・安芸・出雲・石見等には、相模国野比最宝寺の明光を開教の祖と仰ぐ寺が多く、これらの寺々へは明光の影像を持ち、回檀が行われていました。このように江戸時代には、本寺あるいは中本寺が配下の末寺を廻る、いわゆる回檀が各地で行われていたようです。しかし、近代になると、おこなわれなくなり、飛騨・美濃・越前・越中に残るだけになっています。
 毛坊主が行う宗教行事は、まず説教があります。
この説教のテキスト類が現在も各寺には残されています。これは浄上真宗の教義の解説が基本で、聞いていて面白いものではありません。こればかりだと、門徒は退屈し眠気を催すので、笑いをさそうような話を織りまぜながら仏法を説いたようです。長くなりますが、面白いのでその一例を見ておきましょう。
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
当年ハ世界中飢饉ニテ、酒高直、肴高直。米・稗・豆。蕎麦・麦・塩・茶茂高直シ。其外蚕飼万作テ蛹高直、女沢山テ尻高直シ。万之物哉皆高直シ。下直イ物ハ一ツモ無シ。此節世上一同二、下直物者卜評判スルハ、鷹疾トヤラ云フ物チヤゲナ。
貴寺茂悴ヒ坊参故、其下直疾病於求メテ喜フ様二相聞へ申候。夏ノ瘡蓋ハ下直卜云フテモ甚タテケナイ物チヤゲナニ、早ヤイナシテ御仕マイナサレマセフ。
先ツ第一癌卜云フ物ニハ、甚毒立ノ有ル物チヤト云フ事チヤホトニ、早速二西芳佐トヤラ云フ医者ヲ頼テ来テ見テ貰フガヨロシウゴザロフ。西芳サンハ毒立ノ訳ケヲヨク知テゴザルホトニ、右西芳サン常ノ御咄二、癌ノ毒立テニハ、先ツ第一嫁二掛ル事ハ百ニナラヌ、其外ニハ酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、薬ナ物ハ一向スクナイトァル。其内貴寺ノ病ヒニヨイモノハ、人ノ嫁ヲ盗ム事、若ヒ娘ノ尻ヲツムコトガ第一ノ妙薬チヤト、日外御咄ヲ聞タコトカアル。貴寺モ大儀モ夜風ヲヒカヌャゥニ綿入ヲキテ夜釘テモナサレマセフoサウサイスルナレハ外ノ三角モ五卜鰻頭ノャゥニ成夕処モミナ/ヽナヲルナリ。
一 ニシンヲ送レト申サレ候二付、調ヘテイコシマスヶレトモ、ニシント申ス肴ハ、癌ニハ甚ダ毒クチャト云フ事ナレトモ、男根二大妙薬チヤト云コトュヘニ、少シイコシマス、此ニシンフ土鍋ニテョク煮、洒人毒ナレトモ、人ノ見ヌ処ニテヒャ酒テ二三盃呑テ臥テ、嫁二男根ノァタリフモマセルト、何ヤラ味ナ心地ガスルゲナト、昔シ咄シニアルコトチャホトニ、ヨクノ、御勘考ノ上、色々二味ヲツヶテ御療治ナサルベク候。
一 ヲレモ見マイニ来タケレト、嫁ノソバガハナレラレヌ故、先ユルンテ下ダサレ坊サマ。昼寝ノタワムレ御免/ヽ/ヽ/ヽ。貴寺寿命ノ妙薬チヤホトニ、御堂ノ脇へ持テ行キ御開クタサレカシク。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
  意訳変換しておくと
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
今年は世界中が飢饉で、酒は高値、肴も高値。米・稗・豆・蕎麦・麦・塩・茶など、なにもかも高値。蚕飼も豊作で蛹が高値、女が沢山いて尻も高値。万物みな高値。値段が下がったものは一つもない。高値一辺倒の世情で、下値なのは、癌疾とやら云う物だけだ。
貴寺も坊参なので、その下値の疾病の流行を歓んでいるように聞いていますぞ。夏の癌は下値といっても、厄介なものなので早く治療されてしまいなされ。まず第一に癌と云うものには、毒が出るといわれますので、早速に西芳佐という医者を頼って、見てもらうのがよかろう。西芳さんは毒立(治療)をよくしっている。西芳さんがいつもしている話には、癌の毒立の第一は嫁に掛ル事は百日しない。その他に、酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、とあり薬になるものは少ないとある。そのうちでこの寺の病ひに効くのは、人の嫁を盗む事、若い娘の尻をつかむが第一の妙薬という、話を聞いたことがある。この寺の大儀も夜風をひかぬように綿入を着て夜釘でもなされませ。そうすれば外の三角も五卜鰻頭のようになったところも、たちどころに治癒します。
一 ニシンを送れというので、準備して贈りますが、ニシンという肴は、癌にははなはだ毒です。
男根に大妙薬というので、少し贈ります。このニシンを土鍋でよく煮て、洒大毒にして、人の見えないところで酒の二三盃も呑んで臥せ、嫁に男根のあたりを揉ませると、何やら味な心地がしてきます。昔の咄に出てくるように、よく考えた上で、色々に味をつけて療治したらよかろう。
一 私も見舞いにいきたいけれども、嫁の傍が離れられないので、許してくだされ坊さま。昼寝の御免 ごめん。この寺の寿命の妙薬なので、御堂の脇へ持ていってご開帳くだされ。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
なんとも下世話で猥雑な話ですが、毛坊主はこのような話を説教の合間にはさみながら、教化につとめたようです。教化の重点は、もちろん説教ですが、常に門徒の中にあって、共に耕し、供に楽しむという、生活を共にしながら仏法に生かそうとする毛坊主の姿が見えて来ます。門徒は、そのような毛坊主に共感を覚えて心のよりどころとしたのかもしれません。

しかし、村民が浄土真宗の教えをそのままにうけいれることは、なかなかできなかったようです。  
例えば浄土真宗では親鸞以来、呪術を強く否定してきました。これに対して、民衆の中には呪力への断ち難い思いがありました。それは、たえず生活にしのびより頭をもたげてきます。とくに天災地変や悪疫に打ちひしがれた弱々しい人心のすき間から、頭をもたげてきます。そのような村民の心情と、毛坊主の対応を史料で見ておきましょう。
差上申血誓之事
一 私共村方困窮打続、其上近年病身者数多出来、難渋仕候処、当夏山伏参申聞候ハ、当村二稲荷之社を建立して年々祭礼致シ皆々信仰仕候得者、病身者茂無病二相成、自然与村方富貴繁栄二相成可申与相勧メ候ニ付、不図相迷ひ候而、御手次様江茂相密シ、勿論本村方江茂深相包、稲荷のほこら新規二建立を相企、屋鋪ひき迄仕候処、被為及御間被仰聞候者、新地之寺社建立之義堅停止たるへし、惣而ほこら・念仏題目之石塔。供養塚。庚中塚・石地蔵之類、田畑・野林・道路之端二新規二一切取建間敷候。仏事・神事・祭礼等、軽執行之、新規之祭礼不可取立事。
右者公儀御法度之趣、前々より被仰渡候。東照神君様御取立之御厚恩不浅義二御座候得者、別而公儀御条目・御支配所御政法呼ク相守、禁奢家業を大切二相勤、微財之門徒迄御年貢所当不相怠様二心掛、現世之成行ハ前生の業因二一任して、後生之一大事者阿弥陀如来之本願、念仏之一行を正信して浄土往生を願ひ候外、別二諸仏・菩薩二追従不申、神明・仏陀江現世之寿福を不祈、依之札守等迄一切不致安置宗門故、万一心得違ひ候而神社等を軽蔑致シ候輩茂可有之哉と被為思召、 一切之諸神・諸仏を軽蔑不致、諸宗諸法を仮初二茂不可誹謗、第一王法を本与し、公儀之御掟を守、仁義五常を先与し、世間通途之義二随ひ、其外万御支配所江柳疎略之義無之様、常々教諭二およひ候様、兼而御本山る被仰渡候義二而、月毎之小寄会合二、右等之趣教誡致シ、御国政等堅相守、仏法・世法共無難二領受致シ、現当二世之要義心得違不申様、纏々致教諭候。其甲斐もなくと御利害被仰聞、 一言之申訳無御座奉恐人候。己後者小寄会合無憮怠相勤、御教誠被成下候通、急度心底相改可申候。万一心得違仕違犯之儀御座候ハヽ、仏祖之蒙冥罰未来者可堕獄者也。働而血誓之一札如件。
享和三癸亥年          楢谷村之内
七月十六日       麦島
四郎三郎(血判並二印)
久助(血判並二印)
権四郎(血判並二印)
長四郎(血判並二印)
忠助(血判並二印)
源四郎(血判並二印)
古十郎(血判並二印)

右之通心得違之意趣、今般御教誠之旨御請奉畏血誓仕処少茂違変無御座候。依之村役人奥印仕差上申候。以上。

楢谷村五人組 惣四郎(印)
孫重郎(印)
次郎兵衛(印)
四郎兵衛(印)
彦惣(印)

御手次
檜谷寺様
     意訳変換しておくと
一 私共の村は困窮が打ち続き、その上近年は病身者が数多く出て、難渋していました。そんな所へ、今年の夏に山伏が参りました。山伏は次のように勧めました。稲荷之社を建立して、年々祭礼を行えば、病身者はいなくなり、自然と村も富貴繁栄すると・・。その言葉に迷わされて、御手次様や本村にも相談せず、稲荷のほこらを新規に建立することにしました。祠が出来上がる段になって、毛坊主と名主から新地の寺社建立は禁止されていること、ほこら・念仏題目之石塔・供養塚・庚中塚・石地蔵之類などを、田畑・野林・道路の端に新規に建立することはできないこと。仏事・神事・祭礼などについても、新規の祭礼を執り行うこともできないことを伝えられました。
 これらは公儀の御法度で、以前から聞いていました。東照神君様の御取立の御厚恩は深いものがあり、公儀御条目・御支配所御政法を遵守するのは当然のことです。家業を大切に相勤め、微財の門徒に至るまで年貢担当を怠らず、現世の成行は前生の業因だとして、後生のことは阿弥陀如来の本願にまかせ、念仏一行を正信して浄土往生を願う。それ以外には、その他の諸仏・菩薩には目もくれずに、神明・仏陀へ現世寿福を祈らずに、宗門以外の札守なども一切安置しないこと。心得違から神社等を軽蔑する輩もいますが、一切の諸神・諸仏を軽蔑せず、諸宗諸法をかりそめにも誹謗せず、第一王法を遵守し、公儀の御掟を守、仁義五常を先与し、世間一般の義に従い、その他の支配所へ疎略のないように、常々教諭されてきました。御本山の「お講」である月毎の寄会では、以上の趣旨を承り、国政を堅く守り、仏法・世法ともに領受し、心得違のないようにと教諭を受けてきました。その甲斐もなくとこのようなことをしでかし、一言の申訳もございません。以後は、小寄や会合を、きちんと勤め、心底より改めます。万一心得違を犯すような場合には、仏祖の冥罰が末代まで及び堕獄者となることも覚悟します。働而血誓之一札如件。
以下略

この享和3年(1903)の証文からは、次のようなことが分かります。
①楢谷村檎谷地方では悪病が流行した時に、山伏がやって来て悪霊退散のために稲荷社建立を勧めたこと
②それを受けて真宗門徒達が麦島集落にひそかに稲荷社建立に動き始めたこと
③これを坊主と名主がききつけ、法令の上からも新規の寺社の建立は禁止されていることを申し聞かせたこと
④浄上真宗の教義からして祈蒔に類する行為は許されないこと
⑤この警告を受けて、血誓証文が作成されたこと。
  ここからは、19世紀になっても廻国の山伏の活動が行われていたことが分かります。門徒達にしてみれば、疫病が発生して多くの人が亡くなっているのに、真宗寺院は何もしてくれないという気持ちがあったのでしょう。だから、稲荷神社を建立して無病息災を祈ろうとしたのでしょう。これは、当時の都市部で展開されていた「流行神」信仰とおなじです。それぞれの神や仏は部門別に「分業体制」になっているので、専門の神仏を拝まないと効力はないと考えらるようになっていました。まさに「多神教」で、なんでも信仰の対象になっていたことは以前にお話ししました。
 しかし、別の視点から見ると村々での山伏の活動は、真宗寺院によって見張られていたことが分かります。村には稲荷神社を建立することはできなかったのです。確かに讃岐の農村部でも稲荷神社などが建立されている例は余り見ません。あるとすれば町屋の神社の中に摂社として建立されています。江戸時代には、新たな寺社の建立は農村部では厳しく規制されていたことを押さえておきます。
 これを讃岐の場合で見てみると、旱魃の際に真言宗は空海依頼の善女龍王への祈祷で雨乞いを行っています。
藩から雨乞いを公式に命じられていたのは、高松藩が白峯寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺だったことは以前にお話ししました。そんな中で、讃岐の真宗興正派の寺院が雨乞いに関わったという気配がありません。真宗寺院は「呪術」を否定していますから、雨乞い祈祷はできません。そこで、村人達が頼ったのが山伏ということになります。庄屋たちが村で雨乞い祈祷を行う際のリーダーは山伏が務めていることは以前にお話ししました。ちなみに、雨乞い踊りとされている「滝宮念仏踊り」は、「雨乞い成就のお礼踊り」であって、雨乞い踊りではないことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになるのは、近代になってからのことです。
  どちらにしても讃岐では、真宗寺院と山伏の間では「棲み分け」ができていたことをここでは押さえておきます。

江戸時代になり寺請制度が制度化されると、飛騨の毛坊道場も寺院化し、毛坊主が職業僧化していきます。
そうすると毛坊主の持っていた利点が、マイナスに働く場合も出てきたようです。そんな状況を伝える文書を見ておきましょう。
乍恐書付を以奉願上候
一私共組合之義者、古来より百姓株所持仕候二付、私共五ケ寺ハ村方頭役勤末候儀二御座候。然ル処右頭役相勤候得者、村内二故障有之候節、右役前二而利害中間事済仕候後、同行与不和二相成、難渋之筋も出来仕候而、甚以迷惑仕候間、御慈悲之上、向後村頭役相除候様被仰付被下候様、乍恐連印を以奉願上候。以上。

文化三寅年正月
小島郷
夏厩村 蓮徳寺
二本木村 西方寺
池本村  西正寺(印)
大谷村  西光寺(印)
高山御坊 御輪番所
意訳変換しておくと
私どもは、古来より百姓株を持っています。そのため村方頭役を勤めてまいりました。とろが頭役を勤める者は、村内で争論があった場合に、その役割として利害関係を明らかにして裁きを下さなければならない立場になります。その結果、不利な裁きを受けたと思われ、同行として不和になり、その後の運営に難渋し、迷惑を受けることが多くなりました。つきましたは御慈悲でもって、今後は村頭役を免除して頂けるように仰せつけ下さい。乍恐連印を以奉願上候。以上。

この文書は、小鳥郷の蓮徳・弘誓・西方・西正・西光の五か寺が連名で高山御坊に宛てた願書です。これら五か寺は古来から農業を営んでいたので百姓株を持ち、しかも名主など村の頭役を勤めていました。頭役を勤めていると自然と村民の紛争などの調停や裁断をしなければならない立場です。裁断者は、勝ち負けを決することになります。そうすると、敗れた村民は、裁定した毛坊主に反感をいだくようになります。これでは村民=門徒の教化がやりにくくなります。
 蓮如が村の長百姓をまず第一に門徒に引きいれようとしことは以前にお話ししました。
この時点では、農民が荘園領主の支配から脱れて地縁的自治体制(惣村)を築き上げようと、地域全住民が一丸となって、とりくんでいた時期でした。そのような社会運動の中で、村の長百姓は全住民の願いを束ね、彼等を代表する立場にありました。ところが近世封建制が確立すると、長百姓は村役人として権力支配の末端に位置づけられます。つまり、毛坊主が「権力の手先」という眼で見られるようになります。以前のように、「同志」や「先達」として見るよりも「手先」「管理者」としてみる住民を増えたようです。村の指導者と僧侶を兼ねる毛坊主は、微妙な立場に置かれることになっていたことが分かります。真宗寺院の性格が蓮如の時代からは、変化しています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」
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 前回は、次のような事を押さえました。
①飛騨の真宗教団の布教は庄屋や長百姓を中心に行われたこと
②そのため寺院があったわけではなく、惣道場といって有力者の家に、名号を床の間に掲げた部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
③そして惣村の自治活動と結びつき、信仰的なつながりや拠点として真宗の教えが広まったこと
ところが、江戸時代になると本末制度が調えられ、本山から木仏・寺号が下付され、伝絵や三具足なども整備され寺院化していきます。これらには本山に対して高額の納付金を納める必要があったことは以前にお話ししました。今回は、飛騨高山市の旧清見村の真宗寺院の道場から寺院化への成長を、史料で追いかけてみます。

飛騨清見村の真宗寺院

テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」です
了因寺のカヤ

最初に見ていくのは飛騨藤瀬の了因寺です。
この寺には蓮如筆の六字名号一幅と、蓮如筆とみられる十字名号一幅、文明18年(1486)蓮如が河上庄福寄の法明に授与した絵像本尊(方便法身尊形)が残されています。親鸞は名号を本尊としていましたが、その後、阿弥陀如来の御絵像が本尊に代わります。方便法身尊形は御絵像のことで「だいほんさま」とよばれます。
蓮如の絵伝
   
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)
            大谷本願寺釈蓮如(花押)
文明十八年柄二月廿八日
     飛騨国白河善俊門徒
同国大野郡河上庄福
願主釈法明

この寺の寺伝を年表化すると、次のように寺院化が進みます。
文明8年(1476)河内国出口にいた蓮如から六字名号を賜り、
同10(1478)年 福寄に道場を開き
同18(1488)年 山科本願寺において蓮如から絵像と十字名号の授与をうけた。当初は孫兵衛道場と称していた
元和9年(1623) 福寄から藤瀬の助次郎宅に移り
寛永元年(1614) 独立の道場を営んだ
万治2年(1659) 了因寺の寺号免許、翌年蓮如影像、
延宝5年(1677) 木仏と太子・七高祖影像
 同9年(1681)親鸞影像下付
貞享2年(1685) 親鸞絵伝下付
580
 了徳寺
白川街道沿の牧ケ洞に了徳寺の基を開いたのは河上庄牧村の栗原衛門という豪族と伝えられます。
栗原衛門は長滝寺の荘官で牧村栗原神社の社人をつとめていました。文安5年(1448)に照蓮寺明誓のすすめによって本願寺存如に拝謁して、六字名号と了専の法名をもらって帰郷して、栗原道場を創始したと伝えられます。この頃、この地に栗原衛門という人物がいたことは、文安六年の土地売券二通に、その名前が売主として次のように出てきます。
売渡永代之田の事
合弐反者 つほハムカイ垣内
とんしはさと一反
佃をさ一反 是ハならひ也
右件之田地ハ依有要用永代に代陸貫文二うり渡中処実正也。但、 一そくしんるいにても急いらんわつらい申ましく候。
乃為後日状如件
文安六年五月二十五日
うリ(売)主河上荘まきの栗原衛門(略押)
  最後の売主名に「河上荘まきの(牧村の)栗原衛門」とあります。ここからは牧の洞に粟原道場を開いたのが、河上庄牧村の栗原衛門であることが裏付けられます。
さらに、永正11年(1514)12月には本願寺実如から絵像本尊を下付されています。その時の、願主は浄専とありますが当寺の二代目になるようです。
栗原道場から了徳寺への寺院化を年表化すると、次のようになります
天和3年(1682)に木仏・寺号下付
貞享四年(1687)親鸞影像
元禄14年(1701)太子・七高祖影像下付
享保15年(1720) 梵鐘設置を備え、寺院化への道をたどった。

夏厩の蓮徳寺を見ておきましょう。           81P
この寺は、名主次郎兵衛が長享年間に蓮如に帰依して、道場を開いたのが始まりと伝えられます。ここにも長享3年(1489)に蓮如から善性宛に授与された絵像本尊があります。
方便法身尊像
大谷本願寺釈蓮如(花押)
長享三二月十五日
飛騨国白川善俊門徒
同国大野郡徳長夏舞
願主釈善性

また蓮徳寺には15世紀の土地関係文書が数多く残されています。その中一番古い応永22年の土地譲状には、次のように記されています。
(前欠)
合一所者
右件田地ハ、宗性重代処也。子々孫々にいたるまて、たのいろいあるましく候。おい(甥)のさこん(左近)の太郎に永代ゆつり(譲)わたす処実正也。但シいつちよりさまたけを申事候とも、すゑまつ代まても、さまたけあるましく候。
乃為後日状如件。
応永廿二年十月廿二日
おとりの住人夏前名主宗性(略押)
この譲状を書いて最後に署名している「おとりの住人夏前 名主宗性」が、蓮如に帰依した名主次郎兵衛(法名善性)の父か祖父にあたる人と研究者は考えています。道場主次郎兵衛は、代々夏厩の名主としてこの地方の有力者であったこと分かります。
614
上小鳥の弘誓寺にも、蓮如筆の六寺名号と、明応4(1495)年の実如の絵像があります。
もともとは、七郎左衛門道場と呼ばれ、道場坊は上小鳥と夏厩の名主を兼ねていました。そのため道場に関わる事柄には法名を、名主としての署名は俗名を書いて使い分けています。例えば元禄7年(1694)五月に、道場敷地を検地役人に提出した書類には「上小鳥村道場玄西」と記し、同年6月の『検地帳』には「上小鳥村組頭七郎左衛門」と署名しています。
 弘誓寺には江戸時代の医書が多く残っていることに研究者は注目します。その中には牛馬に関するものもあり、人だけでなく獣医の役目も果たしていたことがうかがえます。まさに毛坊主として、門徒をまとめるだけでなく、医師や獣医として地域に関わる存在であったようです。また上小鳥は白川街道ぞいにあり、旅人の往来もあり、そのためこの寺は宿泊所としても機能していたと云います。しかし、それは商業的なものではなく、あくまで寺院としての人助けという意味です。これが、いろいろな情報収集等には役だったことがうかがえます。以上のように、坊主兼名主であり、医者・宿屋としての役割も果たしているが、本業は農業で家計をささえていたようです。


西方寺の五葉マツ
西方寺
白川街道の夏厩から小鳥川にそって北へ分かれると、左岸にあるのが二本木の西方寺です。
この寺にも蓮如筆六字名号と実如授与の絵像本尊があります。絵像の裏書は今では判読できませんが、『飛州志』には、文明18年(1486)正月25日に本願寺実如が善俊門徒の了西に下付したものとされます。そして、開基については次のように記されています。
大野郡小鳥郷二本木村西方寺者、東本願寺之派脈高山照蓮寺末寺、開基者百八拾四年已前文明十八年、元祖者了西与申者二而御座候。当西方寺迄六代、従往古御年貢出不申候。尤、由緒証文者無御座候得共、道場之境内被下置相続仕候様二奉願上候。則境内絵図二仕奉差上候。以上。
元禄七申成年六月八日                       二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
  意訳変換しておくと
大野郡小鳥郷二本木村の西方寺は、東本願寺派高山照蓮寺の末寺で、開基は184前の文明18(1486)年になる。元祖は了西と申す者である。西方寺は六代に遡るまで年貢を免除されておいた。もっともその由緒書や証文はない。道場の境内の相続について以下の通り、境内絵図を添えて提出する。以上。
元禄七(1694)申成年六月八日                   
            二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
ここからは二本松の道場も、蓮如の時代に開かれたことが分かります。
しかし、名号だけを手がかりに道場の開創期を推測するのは危険だと研究者は指摘します。なぜなら名号は、売買の対象物であったからです。それを示す史料を見ておきましょう。86P
質入仕申証文之事
一金弐両弐分   元金也
右者私儀当年石代金二行当り申候二付、伝来り候蓮如様八百代壱服(幅)、質入二仕り、書面之金子惟二預り申処実正二御座候。万返済之義ハ、来ル辰年限二而、金子壱両二付壱ヶ月二銀壱匁宛加利足、元利共二急度相済可申候。若相滞有之候ハヽ、右之質入貴殿二相渡シ可申候。其時一宮(言)申間鋪候。為後日受入証文、乃而如件。
天明三年八月                金子預主稗田村
清左衛門(印)
弥右衛門(印)
牧村 孫左衛門
森茂村 長助殿
         意訳変換しておくと
質入れについての証文
一 元金 金二両二分   元金
右の金額について私共は当年の年貢石代金の支払いのために、伝来の蓮如様の六字名号一幅を質入し、書面の金子を預りました。返済については、辰年限に金子壱両について、1月に銀壱匁の利足を加えて、元利とともに返済します。もし滞納することがあれば、質入れ物件を貴殿に渡します。これについては、一言も口をはさみません。以上を証文とします。
天明三年八月           
      金子預主稗田村  清左衛門(印)
       弥右衛門(印)
       牧村  孫左衛門
森茂村 長助殿
ここからは稗田村の清左衛門が森茂道場主の長助から金一両三分を借り、その質物に蓮如筆の六寺名号を充てたことが分かります。こういう形で、名号は価値がある物として移動していたことが分かります。絵像の裏書など確かなものによって道場の開創を確認する必要があると研究者は指摘します。
 以上、高山市の旧清見村の真宗寺院の道場成立時期をみてきました
それをまとめておきます。
①飛騨における真宗布教は、蓮如時代に、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がったこと
②山村での布教は庄屋や長百姓を中心に行われ、最初は道場は有力者の家に、名号を床の間に掲げただけのものだったこと
③そこで、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
④これが惣村の自治活動と結びつき、宗教的な結びつきの拠り所となったこと
⑤ところが、近世になると本末制度が調えられて、木仏や寺号が下付され寺院化する所も現れた。
⑥さらに、本山に奉納金を納めることで伝絵や三具足などを整備する寺院も増えた。
 飛騨の真宗寺院は15世紀後半に蓮如から六字名号をもらって、道場を設立していること江戸時代になって木仏・寺号下付を本山から得ていることが改めわかります。こういう視点で讃岐の真宗寺院の創建年代一覧表を見てみましょう。

讃岐の真宗寺院開基一覧
讃岐の真宗寺院開基時期一覧

これはいろいろな史料に出てくる開基年代を研究者が一覧化したものです。これを飛騨の道場成立期比べて見ると違和感を覚えずにはいられません。寺院化の年代が讃岐は早すぎるのです。飛騨では蓮如の時代に道場が姿を現しますが、讃岐では寺院化がすでに始まっていることになります。その一方で、飛騨にはそれを証明する蓮如の六寺名号を持つ寺が多いのに対して、讃岐は遙かに少ないのです。真宗の教線拡大も飛騨に比べ、四国は遅いとされます。そのような状況証拠から、讃岐に真宗寺院が現れ始めるのは、16世紀後半以後と私は考えています。そして、寺院化は飛騨と同じ、江戸時代になってからのことです。讃岐の真宗拡大の年代については、従来の見方を大きく変更する必要があると研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P

讃岐への真宗興正派の伝播を追いかけているのですが、その際の布教方法が今ひとつ私には見えて来ません。そんな中で出会ったのが   千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66Pです。

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飛騨の山村に、真宗教線が伸びていくときに重要な役割を果たしたのが「毛坊主」のようです。今回は、毛坊主と道場、その寺院化がどのように進められたのかを見ていくことにします。

笈埃随筆

江戸時代の飛騨の毛坊主について、百井塘雨の「笈埃(きゅうあい)随筆」には、次のように記されています。

「 当国に毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。是を毛坊主と称す。訳知らぬ者は、常の百姓より一階劣りて縁組などせずといへるは、僻事(ひがごと)なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして田畑の高を持ち、俗人とはいへども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状・物体・筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難し。」
意訳変換しておくと
「飛騨には俗人でありながら、村に死者が出ると導師として供養する毛坊主という者がいる。事情を知らない者は、普通の百姓よりも劣る階層で、これとは縁組などは行わないという者もいるが、これは、僻事(ひがごと)である。毛坊主は、どこの村でも筋目のある長(おさ)百姓で、普通以上の田畑を持つ。俗人とはいっても僧侶の役割を務めるので、学問もし、経文も読み、形状・物体・筆算までも身につけた教養人である。そうでなければ、門徒からの信望をえることはできず、務まるものではない。

ここからは、次のような事が分かります。
①毛坊主は剃髪することなく、家庭や社会を捨て去ることもなく、それまで通りの生活を送りながら仏道に生きる人たちだったこと
②しかも、毛坊主たちは、村の政治家・教育者・医者として積極的に地域社会をリードしようとする村々のリーダーでもあったこと
③同時に、彼らは教養人であり、社会事業者でもあったこと

 地域社会のリーダーが毛坊主となることは、本願寺蓮如の方針だったと研究者は指摘します。
もともとの毛坊主の源流は親鸞までさかのぼるようです。親鸞の教えは、家庭を捨て社会を離れ僧になって寺に入ることに、こだわりません。農民・猟師であろうと、官仕であろうと、念仏するものはみな等しく救われるという教えです。つまりそれまでの俗生活を送りながら、仏になる道が歩めました。
 親鸞は阿弥陀仏の救いの対象は、愚かな人たち、つまり凡夫であるとします。凡夫とは「行心、定まらず、軽毛の風に随って東西するが如し」と、世の苦しみ悩みにさいなまれ、羽毛が風にふかれるように、あてどなく右往左往する人間のことです。別の言葉で言うと、戒行を堅持して悟りを開こうという聖道教からは見放された人たちです。そのため、凡夫をめあてとする親鸞の門弟は、庶民階層とくに農民に信者が多かったようです。

 建長7年(1255)頃、念仏者に弾圧が加えられようとした時、親鸞は、次のように説きます。
念仏を弾圧する地頭・名主たちの行いは、釈迦の言葉にもあるように末世に起こる予想されたことである。彼等を怨むことなく、ふびんな人間であると、あわれみをかけよ。彼等のために念仏をねんごろにして、彼等が弥陀の本願のいわれをききわけ、救われるようにしてやれ。

この時点では、地頭・名主という地域社会の政治支配者は、念仏する農民にとっては、対立者としてとらえられています。しかし、もともと親鸞にとっては、どんな階層の人達も弥陀の救いの対象になり得る存在です。共に念仏する人は、貴族・武士・商人・農民みな同朋同行なのです。そこで布教戦略としては、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。
 これを受けて蓮如は、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。

「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」

意訳変換しておくと
各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ

 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。
親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。
   毛坊主は、飛騨・美濃・越前・加賀などの山村の村々に、現在も生きつづけているようです。研究者が、その例として取り上げるのが岐阜県大野郡の旧清見村です。
清見村は広大な面積がありますが、人口はわずか2千人たらずで、17集落に分かれて点在します。各集落があるのは白川街道と郡上街道沿いで、地図のようにそれぞれに道場(寺)があります。
そこでは、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。
①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ
②蓮如から六字名号(後には方便法身の絵像本尊)を下付され
③それを自分の家の一室の床の間にかけ、
④香炉・燭台。花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。
⑤これを内道場または家道場という
⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。
⑦その際、長百姓はいわゆる毛坊主としてその集会の宗教儀礼を主宰する。
⑧やがて村人の中に真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。
⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。
⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

飛騨の毛坊主が蓮如に引見するときには、仲介の坊主が必要でした。
これを手次の坊主と云います。
飛騨の場合は、白川郷鳩谷の照蓮寺が手次を務めます。

照蓮寺(岐阜県高山市)】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
照蓮寺

照蓮寺は越後浄興寺の開祖善性の子善俊(嘉念坊)が創始したと伝えられる寺です。善俊は、はじめ美濃国白鳥に道場を構えますが、やがて北上して飛騨国鳩谷を拠点に布教したようです。

「草に風をくはふるが如く、人悉く集り、国こぞりて帰依し、繁昌日々に弥増て」

とあるので、多くの真宗門徒が結集し、「終に当国の真宗道場の濫腸」となったと伝えられます。
以上をまとめておくと、文明年間に飛騨国では、照蓮寺を手次に蓮如から本尊の授与をうけ道場を開設した者が多数います。清見村の道場もすべて照蓮寺を手次としていることが、それを裏付けます。これが後の時代には、中本寺の役割を果たすようになります。真宗興正派の讃岐布教センターとなった阿波の安楽寺や、三木町の常光寺が私にはイメージされます。

図026 野尻道場の平面見取図
野間道場の平面見取図

 惣道場が設立されると、この時点では全村民が真宗門徒となっていました。
そうなると道場の行事は、単なる宗教行事だけでなく、村の共同事業などすべて惣道場で相談して行われるようになります。惣道場は信仰だけでなく、村の議決機関としての役割も果たすようになったのです。
 こうして江戸時代中頃になると、惣道場は、本寺から木彫の阿弥陀仏像(木仏)を下付され、寺としての形態を整え、寺号を名乗るようになることは、まんのう町の尊光寺を例にして、以前にお話ししました。飛騨の真宗寺院が他と違うのは、寺を管理し儀礼を執り行うのは、相変わらず毛坊主だったことです。飛騨では、毛坊道場が寺院へ移行したあとも、毛坊主が門徒集団を指導していたことを押さえておきます。
福井県 浄土真宗唱える施設「道場さん」の現状とは 使われる建物、地域性豊か|北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ
越前の真宗道場
 この時期には、道場だけでなく有力門徒の中にも手次寺を通じて蓮如や実如の名号を授与されているものがいたことが残された各家に残された名号から分かります。

 以上をまとめておきます。
①道場とは、六字名号を掲げ、それを自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設を整えたもの。
②村人たちは、村長(むらおさ)を先達として正信偈をとなえ法話を聞く。この導師を毛坊主と称した。
③毛坊主は普段は百姓をしながら、村に葬儀や法事には導師をやっていた。
④江戸時代に本末制度が調えられると、本寺から六字名号や寺号を得て寺院化する所も現れた
⑤しかし、門徒の少ない所ではそのまま道場として存続した
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献         千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P
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  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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安楽寺文書
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)
 真宗の四国への教線拡大を考える際の一番古い史料は、永正十七年(1520)の三好千熊丸(元長または 長慶)が安楽寺に対して、亡命先の讃岐財田から特権と安全を保証するから帰ってくるようにと伝えた召還状(免許状)です。これが真宗が四国に根付いていたことをしめすもっとも古い確実な史料のようです。
Amazon.com: 大系真宗史料―文書記録編〈8〉天文日記1: 9784831850676: Books

その次は「天文日記」になります。これは本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた日記です。『天文日記』に出てくる四国の寺院名は、讃岐高松の福善寺だけです。ここには16世紀前半には、讃岐高松の福善寺が本願寺の当番に出仕していたこと、その保護者が香西氏であったことが書かれています。
その他に讃岐の有力な真宗寺院としては、どんな寺院があったのでしょうか?
幻の京都大仏】方広寺2021年京の冬の旅 特別拝観の内容と御朱印 | 京都に10年住んでみた
秀吉が建立した京都方広寺の大仏殿
天正14(1586)年、秀吉は当時焼失していた奈良の大仏に代わる大仏を京都東山山麓に建立することにします。高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営し、これを安置する壮大な大仏殿を、文禄4(1595)年頃に完成させます。大仏殿の境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260m,東西210mの規模でした。モニュメント建設の大好きな秀吉は、この落慶法要のために宗派を超えた全国の僧侶を招集します。浄土真宗の本山である本願寺にも、声がかかります。そこで本願寺は各地域の中本寺に招集通知を送ります。それが阿波安楽寺に残されています。大仏殿落慶法要参加のための本願寺廻状で、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。

阿波国安楽寺
讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊

阿波では、真宗寺院のほとんどが安楽寺の末寺だったので、参加招集は本寺の安楽寺だけです。以下は讃岐の真宗寺院です。これらの寺が、各地域の中心的存在だったことが推測できます。ただ、常光寺(三木)や安養寺などの拠点寺院の名前がありません。安養寺は安楽寺門下ために除外されたのかもしれません。しかし、常光寺がない理由はよくわかりません。また、「正西坊、□坊」などは、寺号を持たない坊名のままです。
 この七か寺中について「讃岐国福成寺文書」には、次のように記されています。
当寺之儀者、往古より占跡二而、御目見ハ勝法寺次下に而、年頭御礼申上候処、近年、高松安養寺・宇多津西光寺、御堀近二仰付候以来、其次下座席仕候

意訳変換しておくと
当寺(福成寺)については、古くから古跡で、御目見順位は勝法寺(高松御坊)の次で、年頭御礼申上の席次は、近年は高松安養寺・宇多津西光寺に次いで、御堀に近いところが割り当てられています。

ここからは江戸時代には、讃岐国高松領内の真宗寺院の序列は、勝法寺(高松御坊)・安養寺(高松)・西光寺(宇多津)・福成寺という順になっていたことが分かります。先ほど見た安養寺文書の廻状に、福成寺・西光寺の寺名があります。ここからも廻状宛名の寺は、中世末期までに成立していた四国の代表的有力寺院であったことが裏付けられます。今回は、これらの寺の創建事情などを見ていくことにします。テキストは、千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」です。

千葉乗隆著作集 全5巻(法蔵館) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

まず宇多津の西光寺です。この寺の創建について「西光寺縁起」には、次のように記します。
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。

意訳変換しておくと
天文八年十一月、向専法師が、本尊の奇特を感じて西光寺を創建した。向専の父は進藤山城守で其手長兵衛尉宣絞という。子細あって、大谷の本願寺で、発心出家し、本願寺十代証知の弟子となり、法名向専を賜った。

ここには、天文年間に大和国の進藤宣政が本願寺証如の下で出家し、宇多津に渡り、西光寺を創始したと伝えます。これを裏付ける史料は次の通りです。
①『天文日記』の天文20年(1551)3月13日の条に「進藤山城守今日辰刻死去之由、後聞之」とあり、西光寺の開基専念の父進藤山城守は本願寺証如と関係があったことが分かる。
②西光寺には向専法師が下賜されたという証如の花押のある『御文章』が保存されている
③永禄十年(1567)6月に、三好氏の重臣で阿讃両国の実力者篠原右京進より発せられた制札が現存している。
以上から、「西光寺縁起」に伝える同寺の天文年間の創立は間違いないと研究者は判断します。
③の西光寺に下された篠原右京進の制札を見ておきましょう。
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
西光寺ではなく「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」とあります。鍋屋というのは地名です。その付近に最初に「念仏道場」が開かれたようです。それが元亀2年(1571)に篠原右京進の子、篠原大和守長重からの制札には、「宇足津西光寺道場」となっています。この間に寺号を得て、西光寺と称するようになったようです。

宇多津 讃岐国名勝図会2
宇多津の真宗寺院・西光寺(讃岐国名勝図会 幕末)
 中世の宇多津は、兵庫北関入船納帳に記録が残るように讃岐の中で通関船が最も多い港湾都市でした。そのため「都市化」が進み、海運業者・船乗や製塩従事者・漁民などのに従事する人々が数多く生活していました。特に、海運業に関わる門徒比率が高かったようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちでした。

6宇多津2135
中世の宇多津復元図 
西光寺は大束川沿いの「船着場」あたりに姿を現す。
 西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。それが「鍋屋道場」の名前になったと推測できます。どちらにしても手工業に従事する人々が、住んでいた中に道場が開かれたようです。それが宇多津の山の上に並ぶ旧仏教の寺院との違いでもあります。
東本願寺末寺 高松藩内一覧
17世紀末の高松藩の東本願寺末寺一覧
つぎに高松の福善寺について見ておきましょう。
福善寺という名前については、余り聞き覚えがありません。 上の一覧表を見ると、福善寺は7つの末寺を持つ東本願寺の有力末寺だったことが分かります。そして、この寺は最初に紹介したように讃岐の寺院としては唯一「天文日記」に登場します。天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
「就当番之儀、讃岐国福善寺、以上洛之次、今一番計勤之、非向後儀、樽持参

ここには「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあり、福善寺が本願寺へ樽を当番として持参していたことが記されています。本願寺の末寺となっていたのです。これが根本史料で讃岐での真宗寺院の存在を証明できる初見となるようです。
 この寺の創立事情について『讃州府志』には、次のように記されています。
昔、甲州小比賀村二在り、大永年中、沙門正了、当国二来り坂田郷二一宇建立(今福喜寺屋敷卜云)文禄三年、生駒近矩、寺ヲ束浜二移ス、後、寛永十六年九月、寺ヲ今ノ地二移ス、末寺六箇所西讃二在り、円重寺、安楽寺、同寺中二在リ

意訳変換しておくと
福善寺は、もともとは甲州の小比賀村にあった。それを大永年中に沙門正了が、讃岐にやってきて坂田郷に一宇を建立した。今は福喜寺屋敷と呼ばれている。文禄三年、生駒近矩が、この寺を東浜に移した。その後、寛永16年9月に、現在地にやってきた。末寺六箇寺ほど西讃にある。また円重寺、安楽寺が、同寺中にある。

ここにはこの寺の創建は、大永年中(1521~28)に、甲斐からやってきた僧侶によって開かれたとされています。

高松寺町 福善寺
高松寺町の真宗寺院・福善寺(讃岐国名勝図会)

それでは、福善寺のパトロンは誰だったのでしょうか?
天文日記の同年7月22日は、次のような記事があります。
「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」

ここには、讃岐の香西神五郎が始めて本願寺を訪れたとあります。香西一族の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。つまり、16世紀中頃には、讃岐の武士団の中に真宗に改宗する武士集団が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者も出てきたことが分かります。
三好長慶政権を支える弟たち
天下人の三好長慶を支える弟たち
どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?
 当時、讃岐は阿波三好氏の支配下にありました。そして、三好長慶は「天下人」として畿内を制圧しています。長慶を支えるために、本国である阿波から武士団が動員され送り込まれます。これに、三好一族の十河氏も加わります。十河氏に従うようになった香西氏も、従軍して畿内に駐屯するようになります。三好氏の拠点としたのは堺です。堺には本願寺や興正寺の拠点寺院がありました。こうして三好氏や篠原氏に従軍していく中で、本願寺に連れて行かれ、そこで真宗に改宗する讃岐武士団が出てきたと推測できます。

西本願寺末寺(仲郡)
願成寺は丸亀平野の農村部にある。

丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれたとされます。
周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。しかし、史料がなくて、今のところ皆目見当がつきません。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。



福成寺は天正末年(1590)に、幡多惣左衛門正家によって栗熊村に創立されたと伝えられます。
この寺も丸亀市垂水町の願誓寺とおなじで、丸亀平野の農村地帯にあります。眼下に水橋池が広がり、その向こうに讃岐山脈に続く山脈が伸びています。境内には寒桜が植えられていて、それを楽しみに訪ねる人も増えているようです。丸亀平野の終わりになる岡の上に伽藍が築かれています。農民の間にも、真宗の教線が伸びてきたことがうかがえます。しかし、その成立過程についてはよくわかりません。

 福成寺
   
以上、廻状宛名の讃岐国六か寺のうち四か寺についてみてきました。残りの正西坊と坊名不明の二か寺については、どこにあったのか分かりません。
ただ、正西坊については、伊予松山の浄念寺ではないかと研究者は考えています。
浄念寺はもともとは三河国岡崎にあった長福院と称する真言宗の寺でした。それが長享年間(1487―89)に、蓮如に帰依して真宗に転じます。そして永禄年間(1558~70)の二代願正のときに、伊予道後に来て道場を開きます。天正14(1586)年、3代正西のときに、本願寺から木仏下付を受けています。讃岐国では所在不明の正西坊は、この伊予国道後の正西坊だと研究者は推測します。その後、慶長年間に松山に移建したといわれています。
以上をまとめておくと
①真宗教団は四国東部の阿波・讃岐両国、とくに讃岐でその教線を伸ばした。
②その背景としては、臨済・曹洞の両教団が阿波、伊予ではすでにその教圏を確立していて、入り込む隙がなかったこと
③それに対して讃岐や土佐はは鎌倉仏教の浸透が遅く未開拓地であったこと。
④それが真宗教団の教線伸張の方向を讃岐・土佐佐方面に向けさせたこと
⑤四国における真宗教団の最初の橋頭堡は、阿波国郡里(美馬)の真宗興正派の安楽寺だったこと
⑤安楽寺は三好氏の保護を受けて、讃岐に教線を伸ばし有力な末寺を建てて、道場を増やしたこと⑦それが安楽寺の讃岐進出の原動力となったこと。
⑧讃岐には、三好氏や篠原氏に従軍して出向いた堺で、真宗に改宗し、菩提寺を建てるものも出てきたこと
⑨宇多津の西光寺のように、海上交易センターとして海運業者などの門徒によって建立される寺も現れたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」
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  小松郷生福寺2
流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
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宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
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千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

 以前に浄土真宗の伊予への布教活動が停滞したのは、禅宗寺院の存在が大きかったという説を紹介しました。それなら禅宗寺院が伊予で勢力を維持できたのはどうしてなのでしょうか。今回は、禅宗のふたつの宗派が伊予にどのようにしてやってきて、どう根付いていったのかを見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 (地域社会と真宗 千葉乗隆著作集第2巻2001年)所収」です。
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  近世初期になると、四国各宗派の勢力分布はほぼ固定します。それを各県毎にまとめたのが次の表です。
近世四国の宗派別寺院数

この表からは、次のようなことが分かります。
①讃岐国では真宗・真言の両者が、ほぼ同勢力で二者で全体の9割近くになる。
②阿波国では、旧仏教の真言宗が圧倒的に多い。
③土佐国においては真宗・日蓮宗・真言宗の順序となっている。
④伊予国では、河野氏の保護を受けた禅宗が他の諸宗を圧倒しているが、真言も多い。
⑤四国に共通しているのは、真言宗がどこも大きな勢力を持っていた
⑥四国の新興仏教としては、禅宗・日蓮宗・真宗の3教団である。
新興の浄土・禅・日蓮の各教団は、旧仏教諸宗勢力を攻撃・排除しながら教勢を伸ばしたようです。

四国への新仏教の教線拡大ルートしては、つぎのようなコースを研究者は考えています。
①堺港より紀伊水道を通って、阿波の撫養・徳島へ
②堺から瀬戸内海航路で、讃岐の坂出、伊予の新居浜、高浜へ
③堺から南下して土佐の各港へ
④中国地方の安芸・備後・周防から、讃岐・伊予の各港へ
⑤北九州から伊予の西部の各港へ
この中でも①が近畿から最短のコースになります。古代南海道もこのコースでした。新仏教も①のルートで、四国東部の阿波国へ進出し展開したと研究者は考えているようです。

四国への禅宗教団の進出の始まりは、臨済宗が阿波の守護細川氏一族を保護者として獲得したことに始まるようです。
その流れを年表化してみましょう。
暦応二年(1339) 
阿波の守護細川和氏が、夢窓疎石を招いて居館のある秋月に補陀寺建立。和氏のあとをついだ頼春・頼之も、引き続いて補陀寺の維持経営を援助。
貞治二年(1363) 
細川頼之は前代頼春の菩提供養のために、補陀寺の近くに光勝院建立。
至徳二年(1385) 
細川頼之は美馬郡岩倉に宝冠寺を建立し、絶海中津を招く。補陀寺の疎石のあとをついだ黙翁妙誠は妙幢寺を別立。補陀寺に住んでいた大道一以は、細川氏春の招きで淡路に安国寺建立
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このように阿波守護の細川氏の保護を得た臨済宗教団が、阿波の補陀寺を中心に拠点を形成していきます。
次に臨済宗の伊予への教線拡大の拠点寺を見ておきましょう。
伊予でも阿波と同じころの14世紀に、
①伊予北部に観念寺と善応寺が鉄牛景印・正堂士顕によって開かれ、越智・河野氏の保護獲得。
②伊予南部の宇和島では、常定寺が国塘重淵によって、中部の温泉郡川内村には安国寺が春屋妙砲によって営まれ、ややおくれて南部には、寂本空によって興福寺が大野氏の保護の下に開かれます。
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム
臨済宗の法系
これらの諸寺を、越智・河野・大野氏などの在地領主層がパトロンとなってささえることで、臨済教団は周辺に教線を拡大していきます。ちなみに、これらの伊予臨済教団の教線ルートは、備後・周防・出雲等の中国地方から伸びてきた禅僧によって開拓されています。臨済宗には、いろいろなネットワークがあったことがうかがえます。その背後には活発な「海民」たちの活動がうかがえます。

古代の瀬戸内海航路
芸予初頭や豊後海道を舞台とした交易活動

つぎに曹洞宗教団の展開について見ておきましょう
阿波では、
①坐山紹理(1268ー1325)が川西村に城満寺開基
②全奄一蘭(1455頃)が那賀郡長生村に佳谷寺開基
③金岡用兼が永世年間に(1504ー21)に細川成行の招請によって桂林寺・慈雲寺建立
④一蘭の弟子雪心真昭は、その南方の土佐に予岳寺を建立
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四国最古の禅寺 城満寺
伊予では
⑤永享年間(1429ー41) 周防・豊後での曹洞宗盛況をうけて、周防龍文寺の仲翁守邦が奈良谷に龍沢寺建立
⑥応仁年間(1467ー70) 備中の車光寺より大功円忠がきて伊予西部に高昌寺建立
⑦文明年間(1469~87) 備中より玄室守腋がきて安楽寺建立
卍禹門山 龍澤寺|愛媛県西予市 - 八百万の神
龍沢寺
こうしてみてみると禅宗の曹洞・臨済の両教団は、阿波・伊予では14世紀頃から他国からの導師を招くことによって拠点寺院が姿を現していきます。
ところが讃岐と土佐では、禅宗寺院が建立されません。これはどうしてなのでしょうか? 
これについては、研究者は次のように推察します。
①阿波・伊予両国においては細川・越智・河野・大野氏などの在地領主を保護者に獲得して、その強力な支援を得たこと。
②讃岐・土佐は、善通寺・観音寺・竹林寺・最御崎寺・金剛頂寺・金剛福寺など、真言宗勢力が巨大で、真言系の修験者や聖達による民間信仰が根付いていたこと。そのため進出の余地が見出せなかったこと
③阿波・伊予は、鎌倉新興仏教の先進地域である近畿や中国西部・九州に地理に近く、活発な交流があったこと
このように阿波・伊予では臨済・曹洞の両禅宗教団が寺院数を増やしていきます。しかし、禅宗の信徒は在地領主層や繁栄する港の商人や海運業者などが中心で、農村の村々まで浸透することはなかったようです。そのため農民の間では、修験者や聖・山伏などによるマジカルな真言宗信仰が根強く行われていました。つまり、港町では禅宗、その背後の農村部では真宗修験者たちの活動という色分けが見られるようになったことになります。
 戦国時代の戦乱による社会混乱の波の中で、パトロンである武士階層が没落すると、禅宗寺院の多くは廃寺か真言宗化か、どちらかの道をたどることになります。例えば、四国の中ではいちはやく禅宗が進出した阿波では、次のような言葉が残されています。

「むかし阿波国より天下を持たるにより、武辺を本意とたなミ申ゆへ、禅宗に御なり候、壱人も余之宗なく候」

天下持ちの阿波守護など上層部の武士団の間に普及していた禅宗が、パトロンである守護細川一族の没落で、その寺が衰退していった様が記されています。
さらに、天正3年(1575)に、三好氏が法華宗を阿波に強制しようとして、反発する諸派が法華騒動を起こします。
これをきっかけに、真言宗勢力が勢いを盛り返します。こうして、それまで阿波最大の禅寺として発展してきた補陀寺は経営困難となって、光勝院と合併します。その他にも、宝冠寺は廃寺、桂林寺は真言宗に転宗するなど、細川氏の衰退と共に阿波禅宗教団は衰退の道を歩むことになります。
 一方、伊予では阿波の法華騒動とか、真言宗の反撃というような危機がありませんでした。
そのため海岸部の武士階層、上層商人層僧からしだいに、港のヒンターランドである農村部の有力者の間に時間を掛けて浸透し、教線を拡大していくことになります。

以上をまとめておくと
①四国で禅宗が伝播・定着したのは阿波と伊予で、讃岐・土佐には布教ラインを伸ばすことが出来なかった。
②阿波では守護細川氏の保護を受けて、禅宗寺院が建立された時期もあったが、細川氏が衰退するとパトロンを失った禅宗寺院も同じ道をたどった。
③伊予では、河野氏などのパトロン保護が長期に渡って続き、その期間に港から背後の農村部への教線拡大に成功し、地域に根付いていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  

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