瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:南海治乱記

香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

 前回は香西成資の南海治乱記と、阿波の三好記に書かれた記述内容を比較してみました。今回は、前回登場してきた岡城と由佐城について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「由佐城跡 香川県中世城館調査分布調査報告2003年206P 香川県教育委員会」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県城館跡詳細分布調査報告

南海治乱記の阿波平定に関する記述は、大部分は『三好記』の記述を写しています。しかし、(富)岡城については、次のような記述の違いもありました。
三好記では「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
ここに出てくる「(富)岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。『南海治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、それに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。  岡城について、別の史料で見ておきましょう。
岡城が文書に最初に登場するのは、観応2年(1351)の由佐家文書です。
「讃岐国香川郡由佐家文書」左兵衛尉某奉書写122'
安原鳥屋岡要害之事、京都御左右之間、不可有疎略候也、傷城中警固於無沙汰之輩者、載交名起請之詞、可有注進候也、乃執達如件、
観応二卯月十五日                          左兵衛尉 判
由佐弥次郎殿
   意訳変換しておくと
讃岐香川郡安原の鳥屋と岡要害について、京都騒乱中は、敵対勢力に奪われないように防備を固め死守すること。もし警固中に沙汰なく侵入しようとするものがいれば、氏名を糾して、京都に報告すること、乃執達如件、

 ここには「京都御左右」を理由として讃岐国「安原鳥屋岡要害」の警固を、京都の「左兵衛尉」が命じたものです。文書中の「安原鳥屋岡要害」は、反細川顕氏勢力の拠点の一つで、由佐氏にその守備・管理が命じられていたことが分かります。髙松平野における重要軍事施設だったことがうかがえます。「安原鳥屋岡要害」は、安原鳥屋の要害と岡の要害とは別々に、ふたつの要害があったと研究者は考えています。ここでの岡要害(岡城)は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下での讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力の拠点だったようで、その防備を由佐氏が命じられています。
 14世紀後半になると、讃岐守護細川頼之が宇多津を拠点にして、「岡屋形」は行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春がいたとされます。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」とも記され、現在の高松空港方面には無常院や平等寺などの寺院もあったようです。ここでは岡屋形が讃岐の守護所としての機能を持っていたことを押さえておきます。

「岡村」付近のことは「由佐長曽我部合戦記」に書かれています。
「由佐長曽我部合戦記」は、阿波の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落城させ阿波平定を成し遂げた長宗我部軍が讃岐へ侵攻した時の由佐氏の戦いの様子を後世になって記したものです。一次資料ではないので年代や人名、合戦経過などについては、そのまま信じることが出来ない部分はあるようです。研究者はその記述内容の中で、合戦が行われた場所に注目します。主な合戦は、由佐城をめぐって攻める長宗我部軍と防御する由佐軍の対決です。由佐城の攻防に先立って、由佐城の南方において合戦があったと次のように記します。

南ハ久武右近ヲ大将ニテ千人百余騎、天福寺ノ境内二込入テ陣ヲトル、衆徒大二騒テ、如何セント詮議半ナル中、若大衆七八十人、鑓、長刀ノ鞘ヲ迦シ、(中略)、土佐勢是ヲ聞テ、悪キ法師ノ腕達カナ、イテ物見セント、大将ノ許モナキニ、衆徒ヲ中ニヲツトリ籠テ、息ヲツカセス揉タリケル、(中略)、塔中六十二坊一宇モ残ラス焼失セリ、(中略)、僧俗共二煙二咽テ道路二厳倒シ、或ハ炎中二転臥テ焚死スル者数ヲ不知、(後略)、

意訳変換しておくと
由佐城の南は、久武右近を大将にして千人百余騎が、天福寺の境内に陣取る。衆徒は慌ててどうしようかと対応策を協議していると、若大衆の数十人が、鑓、長刀の鞘を抜いて、(中略)、土佐勢はこれを聞いて、悪法師の腕達を物見しようと、大将の許しも得ずに、衆徒が籠城する所に、息も尽かせないほどの波状攻撃を仕掛けた。(中略)、その結果、塔中六十二坊が残らずに焼失した。(中略)、僧侶や俗人も煙に巻かれて、道路に倒れ、あるいは炎に巻き込まれ転臥して焚死する者が数えきれないほど出た、(後略)、

由佐城の「南」、岡屋敷の西側に、「天福寺」があります。そこを拠点にしてに長宗我部軍側と、「天福寺」「衆徒」との間に合戦があったというのです。
岡舘跡・由佐城
由佐城と天福寺

天福寺は、舌状に北側の髙松平野に伸びた丘陵部の頂部にあり、平野部から山岳部に入っていく道筋を東に見下ろす戦略的な意味をもつ場所にあります。そのすぐ北に由佐城はあります。また「岡要害(岡舘)」にも近い位置です。天正10年秋に長宗我部内記亮親康が兄の元親から占領を命じられた「岡城」は、この「岡要害」のことだったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
香川県中世城館跡調査報告書(209P)には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)」に、次のように記されています。(要約)
この高台は従来は行業城跡とも考えられていました。しかし、測量調査の結果から岡氏の居館(行業城)とするには大きすぎます。守護所とするにぴったりの規模です。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名や現地踏査結果からこの高台を、今では岡館跡と専門家は判断しています。そうすると従来の「宇多津=讃岐守護所」説の捉えなおしが必要になってきます。

由佐城跡に建つ歴史民俗郷土館(高松市香南町)

次に岡舘のすぐ北側にあった由佐城跡を見ていくことにします。
歴史民俗郷土館が建ている場所が「お城」と呼ばれる由佐城跡の一部になるようです。館内には土塁跡が一部保存されています。

由佐城土塁断面
由佐城跡土塁断面図
郷土館を建てる際の調査では、建物下の北部分で幅3m。深さ1、5mの東西向きの堀2本が並んだものや、柱穴やごみ穴などが出てきています。堀は江戸時代初期に埋められていことが分かりました。調査報告書は、つぎのように「まとめ」ています。
由佐城報告書まとめ
由佐城調査報告書のまとめ
由佐城跡を含む付近には「中屋」というやや広範囲の地名があり、「西門」や堀の存在も伝えられています。郷土館の東には「中屋敷」の屋号もあり、いくつかの居館があった可能性もあります。由佐氏は、益戸氏が建武期に讃岐国香川郡において所領を給されたことによってはじまるとされます。
江戸時代になって由佐氏一族によって作成された系図(由佐家文書)には、次のように記されています。

「益戸下野守藤原顕助」は代々「常州益戸」に居していたが、元弘・建武期に足利尊氏に属して鎌倉幕府および新田氏との戦いに従い、京都で討死する。顕助の子・益戸弥次郎秀助は、父・顕助への賞として足利氏から讃岐国香川郡において所領を給される。秀助は、細川氏とともに讃岐国に入り、由佐に居して苗字を由佐と改めた。

由佐城についての基本的な史料は次の3つです。
①「由佐氏由緒臨本」の由佐弥二郎秀助の説明
②「由佐城之図」
③近世の由佐家文書

①「由佐氏由緒臨本」には、由佐城について次のように記されています。(要約)
由佐氏の居城は「沼之城」とも称した。城の「東ハ大川」、「西ハ深沼」であり、「大川」は「水常不絶川端二大柳有数本」、「深沼」は「今田地」となっている。外郭の四方廻りは「十六丁余」ある。その築地の内には「三丸」を構えている。本丸は少し高くなっていて「上城」と称し、東の川端には少し下って「下城」と称すところがある。西には「安倍晴明屋敷」と称される部分がある。そして、「外郭丼内城廻り惣堀」である。外郭には「南門」があり、そこには「冠木門」があった。また「南門」の前には「二之堀」と称される「大堀」があった。外郭には「西門」もあり、「乾」(北西)には「角櫓」があった。

由佐城2
由佐城跡周辺地図
「本城」の北には「小山」が築かれていた。「小山」は「矢籠」とも称されていた。「北川端筋F」は「蒻手日」と称され、「ゴトクロ」ともいう。「東丸」すなわち「下城」は「慶長比」に流出したとする。
  安原の「鳥屋之城」を「根城」としていた。
鳥屋域から東へ「三町」のところは「安原海道端」にあたり、そこには「木戸門」が構えられていた。鳥屋城の麓には「城ケ原」「籠屋」と称するところがある。「里城」から「本道」である「安原海道」を通ると遠くなるために、「岡奥谷」を越える「通路」がもうけられていた。

②「由佐城之図」は「由佐氏由緒臨本」などを後世に図化したものと研究者は考えています。由佐城絵図
由佐城絵図
居城の東端部分のこととして次のように記します。
「昔奥山繁茂水常不絶、城辺固メ仕、此東側柳ヲ植、固岸靡満水由処、近頃皆切払大水西へ切込、次第西流出云」(以下略)

意訳変換しておくと
①「昔は奥山のように木々が繁茂して、水害が絶えなかった。城辺を固めるために、東側に柳を植え、岸を固めて水由とした。近頃、柳を総て切払ったところ大水が西へ流れ込んで、西流が起きた。

②居城の西は「沼」と記し、「天正乱後為田地云(天正の乱後は、水田化されたと伝えられる」
③居城全体は「此総外郭十六町、亘四町、土居八町、総堀幅五間深サー間余、土居執モ竹林生茂」。
④外郭南辺には「株木南門」とあり、「此所迫手口門跡故南門卜云、則今邑之小名トス、此故二順道帳二如右記」
⑤外郭内の西北付近は「此辺元之浦卜云、当郷御検地竿始」とあり、検地測量がここからスタートしたので「元の浦」と呼ばれる。
⑥内の城の堀の北辺には小山を描き、「此の築山諺二櫓卜云、元禄コロ迄流レ残り少シアリ、真立三間、東西十余間」
⑦この小山の西側に五輪塔を描いて「由佐左京進墓」と記す。「由佐左京進」は天正期の由佐秀盛のことと研究者は考えています。
⑧ 砦城については、居城の西方に古川右岸に南から「天福寺」「追上原」「西砦城」「八幡」「コゴン堂」と記す。
⑨このうちの「西岩城」については次のように記します。
「御所原也、又一名天神岡卜云、観応中南朝岡た近、阿州大西、讃羽床、伴安原居陣窺中讃、由佐秀助対鳥屋城日夜合戦、羽床氏襲里城故此時構砦」
⑩居城の東の川を挟んで、東側には山並みを描いて「油山」「揚手回」「京見峰」などと記す。
⑪「油山」北端付近には「東砦城也、城丸卜云」と記す。

③文化14年(1817)11月に、由佐義澄は「騒動一件」への対応のために自分の持高の畝をしたためた絵図を指出しています。
由佐城跡畝高図
由佐義澄持高畝絵図(1817年)
絵図は「由佐邑穐破免願騒動一件」(由佐家文書)に収められています。これを見ると、次のようなことが書き込まれています。
①「屋敷」という記入があり
②屋敷の南・西・北に「ホリ」がある。堀に囲まれた方形区画が、本丸跡
③「屋敷」西側の「上々田五畝九歩」と「上畑六畝歩」および「元ウラ」という記載のある細長い区画は、堀跡?
④「屋敷」南の「七畝地」区画も堀跡?

④由佐城跡と冠尾(櫻)八幡宮は、近接していて密接な関係がうかがえます。冠尾(櫻)八幡宮の由緒を記した文書には、次のように記されています。
天正度長宗我部宮内少輔秦元親催大軍西讃悉切従由佐城責寄時、先祖代々墳墓有冠山ノ後墓守居住」
「此時八幡社地并二墓所士兵ノ冒ス事ヲ歎キ墓所西側南北数十間堀切土手等ヲ築ク此跡近年次第二開拓今少シ残ス」
意訳変換しておくと
   天正年間に長宗我部元親大軍が西讃をことごとく切り従えて由佐城に攻め寄せてきたときに、由佐氏の先祖代々の墳墓は、冠尾(櫻)八幡宮の後ろの山に葬られていた。」「この時に侵入してきた土佐軍の兵士の中には、八幡社や墓所を荒らした。これを歎いて墓所西側に南北数十間の堀切土手を築いた。この堀切跡は、近年に次第に開拓されて、今は痕跡を残すにすぎない。」

ここには南海通記の記述の影響からか、土佐軍は西讃制圧後に西から髙松平野に侵入し、由佐城にあらわれたと記します。しかし、由佐城に姿を見せたのは、阿波制圧後の長宗我部元親の本隊で、それを率いたのは元親の弟だったことは、前回に見てきた通りです。また長宗我部元親の天正期に、冠尾八幡宮の西側に長さ数十間の堀切と土手がもうけられたとします。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

南海治乱記と南海通記
南海治乱記と南海通記
南海治乱記が天正10・11年の長宗我部元親の讃岐侵攻記事を、どんな資料に基づいて書いたのかを見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年448P」です。
  
南海通記と長元物語比較
南海治乱記と長元物語の記述比較1
 『南海治乱記』のN1部分は、長宗我部元親による阿波平定後の各武将の配置を述べています。この部分は土佐の資料『長元物語』のT1部分を写したもののようです。内容・表現がほぼ一致します。しかし、詳しく見るとT1の7番目の項目「一、ニウ殿、東條殿、(後略)」は省略、『治乱記』の「一ノ宮南城ノ城ヘハ谷忠兵衛入城也」の箇所は『治乱記』編者が他の資料によって付け加えたことを研究者は指摘します。

天正10年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録
『治乱記』のN2部分は、『三好記』のM1部分を写しています。
ただ、『治乱記』N1の記述と重なるM1の「一ノ宮ノ城」の箇所は、省略しています。また、Mlの「大西白地ノ城」「富岡ノ城」「海部輌ノ城」の3箇所は、意図的に省いているようです。
 三好記Mlでは「海部輌ノ城ニハ、田中市之助政吉ヲ置ル」
 南海通記N1の「海部ノ城ハ香曽我部親泰根城也」
と配置された武将名が異なります。
三好記Mlでは「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記N1は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
と記します。前回、お話ししたように「富岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。
岡舘跡・由佐城
岡舘跡と由佐城
『治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、この時期にはそれに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。土佐軍に抵抗し、和議をむすんだと由佐氏の家書は記します。これに配慮したのかもしれません。

南海通記と長元物語比較3

『治乱記』N3部分は、『三好記』M2部分を写したものですが、かなり簡略化しています。
新開道善と一宮成助とを長宗我部元親が討ったことについて、土佐資料『元親記』は「然所に道前と一の宮城主は、其後心替仕に付腹を切せらる」と簡単に記しています。『治乱記』では阿波国寄りの『三好記』の記述を採っています。

南海治乱記と元親記比較
南海治乱記と元親記の比較

 『南海治乱記』の巻十二「土州自阿州発向讃州記」のN4部分は、土佐の『元親記』のS2部分を写したものと研究者は推測します。
S2部分の「そよ越」とあったところは、「曽江谷越(清水峠)」と改められています。「治乱記」N5部分は、『元親記』S1部分を写したものので、十河城の防備施設などに新しく説明を付け加えています。また従軍者名に土佐側資料になかった讃岐の「香西伊賀守」「羽床伊豆守」「長尾大隅守」「新名内膳」「香西加藤兵衛、其弟植松帯刀」の名前を加えています。さらに「大将ニハ長曽我部親政」とします。
『治乱記』のN6部分も、N4部分と同じく『元親記』のS2部分を写したものでしょう。「屋島」での元親の行動や「屋島」自体の説明などを付け加えています。

南海治乱記と元親記比較.4JPG
『治乱記』のN7部分は、『元親記』S3では元親は急ぎ「帰陣有し」と簡単に記します。
ところが南海治乱記では讃岐国内の「春日の海ノ中道」「香河郡」「西長尾城」を経て「大西ノ城二還ル也」とします。この箇所は、『治乱記』の著者による追加です。しかし、先に見てきたように天正十年の長宗我部元親本軍の讃岐香川郡侵攻ルートは、阿波の岩倉城(脇町) → 清水峠 → 十河城でした。帰路もこのルートをとったとするのが自然です。ここにもなんらかの作為があるような気配がします。
元親記
元親記
以上をまとめておきます。
①香西成資は南海治乱記を書くに当たって、先行する阿波や土佐の編纂歴史書を手元に置いて参考にしていた。
②長宗我部元親の阿波制圧や、その後の武将配置などは先行する資料に基本的に忠実である。
③しかし、岡城や由佐城・十河城に関する箇所になると、由佐氏や十河氏に対する配慮があり、加筆や意図的な省略が行われている。
④長宗我部元親の讃岐での行動については、多くの加筆が行われている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


神櫛(かんぐし)王墓 : 四国観光スポットblog

 天皇・皇后や皇子などの墳墓である「陵墓」は全国で894基あるそうです。香川県にあるのは崇徳天皇の白峯陵だけとおもっていたのですが、もうひとつあるようです。それが神櫛王墓のようです。崇徳天皇は保元・平治の乱での讃岐流配や怨霊のトップスターとして有名で、その陵についても西行の『山家集』や上田秋成の『雨月物語』などに出てきますので知名度は高いようです。
 これに対して神櫛王は、どうでしょうか。ほとんどのひとが知らないのではないでしょうか。
神櫛王墓 | 眩暈の森
『日本書紀』には第21代の天皇の景行天皇の皇子の一人として「神櫛皇子」と記されています。また讃岐国造の始祖とされていますが、その事績などの記録が全くありません。そのため彼が讃岐の古代史を語るときに登場することはほとんどないようです。
 陵墓に指定されている神櫛王の墓とされるものは、高松市北東部の高松町と牟礼町の町境にあります。
全長約175㍍の小さな山全体が墓とされ、北・東部には濠状の窪みがめぐり、頂部に四角錐状に石が積まれています。ここはもともとは「大墓」と呼ばれていました。それが明治になって、手を入れられ「神櫛王墓」とされます。
どうして、ここが神櫛王の墓になったのでしょうか?
讃岐の食文化ゎ日本一ィィィィッ!:【古高松学】その7 ♢「神櫛王墓 ...

古代の史料において神櫛王がどのように記されているかを、見ておきましょう。
 神櫛王(神櫛皇子・神櫛別命・神櫛命、死後は讃留霊王)は、景行天皇の皇子とされ『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』などにその名が見えます。『古事記』と『日本書紀』とでは母も、始祖伝承も次のように異なります
①『日本書紀』は讃岐国造の始祖
②『古事記』では木国及び宇陀の酒部の祖
 讃岐国造に関しては、『先代旧事本紀』「国造本紀」には軽嶋豊明朝御世(=応神天皇(景行天皇の二代後)の時代に、神櫛王の三世孫である須売保礼命を定めたとあります。
 古代の天皇等の陵墓に関しては、『延喜式』「諸陵寮」に神武天皇から光孝天皇までの歴代天皇・皇后等の陵七十三基、皇子・皇女等の墓四十七基が記されていますが、この中に神櫛王の墓は出てきません
 紀記の神櫛王について確認しておくと次のようになります
①紀記の両者の記述内容に大きな違いがあること
②書かれているのは「系譜」で、治績は一切ない
③墓についての記述もなし
 神櫛王の父とされる景行天皇は『古事記』・『日本書紀』では十二代天皇となっています。十代は初めて国を治めた天皇として書かれている崇神天皇で、十六代は中国の史書に見える倭の五王の「讃」とされる仁徳天皇です。
讃岐国造から考察 ① | コラクのブログ

景行天皇は、この二人の間の四世紀中頃の人物ということになります。彼の崩御干支は『古事記』・『日本書紀』に書かれてはいません。さらに「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という和風謐号は、後世に作られた可能性が高いことから、現在の古代史研究では実在が疑問視されている人物のようです。父が実在しなかったとなると、皇子である神櫛王もいなかった可能性も出てきます。また、この時代の陵墓なら大型の前方後円墳が想定されますが、ここからは埴輪などの遺物は一切見つかっていません。この丘は古墳ではないようです。
 神櫛王について触れている古代の関係史料を、確認しておきましょう。
①『日本書紀』景行天皇四年二月甲子条
 次妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。其の兄神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖なり。
②『古事記』景行天皇条
 吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生ませる御子、櫛角別王、(中略)、次に神櫛王、(中略)其れより余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気、及稲置、県主に別け賜ひき。(中略)、次に神櫛王は・・・
③『先代旧事本紀』「国造本紀」
 讃岐国造 軽嶋豊明朝御世、景行帝見神櫛王の三世孫須売保礼命を国造に定め賜う。
④『先代旧事本紀』「天皇本紀」景行天皇条
次妃五十河媛神櫛皇子を生めり。次稲背入彦皇子。(中略)
  神櫛別命悶四。稲背人彦命。(中略)
  五十河彦命諸叶心。(中略)櫛見皇命詣。
⑤『新撰姓氏録』和泉国皇別
 酒部公 讃岐公と同じき祖。神櫛別命の後なり。
⑥『新撰姓氏録』右京皇別下 
 讃岐公 大兄彦忍代別天皇の皇子、五十香彦命船勁の後なり。続日本紀に合えり。
⑦『続日本後紀』承和三年(八三六)三月戊午条
 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直、右少史兼明法博士同姓永成等合わせて廿八姻、公を改めて朝臣を賜ふ。永直は是れ讃岐国寒川郡の人なり。今、山田郡の人、外従七位上同姓全雄等の二姻と、本居を改め、右京三条二坊に貫附す。永直等の遠祖は景行天皇第十の皇子、神櫛命なり。
⑧『日本三代実録』貞観六年(八六四)八月条
 右京の人、散位従五位上讃岐朝臣高作、右大史正六位上讃岐朝臣時雄、右衛門少志正六位上讃岐朝臣時人等に姓を和気朝臣と賜ふ。其の先は景行天皇の皇子神櫛命より出づるなり。

神櫛王について触れている平安時代までの史料は以上です。ここからは神櫛王について記されているのはその系譜だけで、具体的活動や墓については、なにも書かれていないことが分かります。
 ところが江戸時代になると、彼の住んでいたところやその墓の場所まで記した歴史書が出てきます。
今度は近世の資料を順番に見ていきましょう。

6 讃岐国大日記
『讃岐国大日記』
 慶安四年(1651)までのことを編年体形式で記した讃岐の歴史書で、石清尾八幡宮祠宮である友安盛員によって承応元年(1652)に書かれたものです。この書は、多くの写本が伝わっていて、『香川叢書』第二にも載せられています。
 また、これとは別に歴博に五冊の写本が保管・所蔵されているようです。これらについては資料番号を用いて「歴博914号本」、「歴博915号本」「歴博916号本」、「歴博617号本」、「歴博27号本」と便宜的に呼ばれているようです。
 これらの記された神櫛王に関する事項は次のようになります
①叢書本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。讃留霊公五代孫日向王阿野北条阿野南条郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡」
②歴博九一四号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
③歴博九一五号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
④歴博九二(号本 景行天皇条
 日本紀曰、神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
⑤歴博五一七号本 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。皇子、讃岐国造之始祖也。日本紀日、讃留霊公五代孫日向王阿野北條阿野南條郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡卜云云。

ここまでの5冊は、神櫛王に関する記述が景行天皇条のみで、シンプルで、記述内容に大きな変化はありません。内容が変わってくるのは次からです。
⑥歴博二十七号本
 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行帝、母五十媛。此皇子、讃岐造之始祖也。大系図景行帝妃五十媛、生神櫛皇子稲背人彦皇子。其兄神櫛皇子、是讃造始祖。弟稲背入彦皇子播磨国別始祖。
  讃岐公系図
 是ヨリ絶諸家ノ譜中、而不分明。後ノ人考侯ツ。山田、三木、寒川、改公賜朝臣家廿八畑其大後家尚多。植田、三谷、十河、一姻別同。
 仁明天皇条
 同帝承和三年三月十九日(中略)
永直等遠祖景行天王十七皇子神櫛命見続日本紀神櫛王被封讃岐造、止住山田郡。陵在牟礼高松間謂王墓(後略)
⑥の歴博27号本には仁明天皇条も加えられ、神櫛王の子孫や墓の位置まで加筆されています。時代が下るにつれて、記事が加えられるのは、何らかの意図があってのことです。この本は加筆が進んだ「異本」とも呼べるものです。しかし、神櫛王墓についての世間の見方がどう変化してきたかを見る上では、注目される資料です。

なんでも鑑定団では、「箱書きが大事だ」とよく言われます。古書もその伝来が問題になります。
これら諸本の「伝来」を、研究者は次のように確認します。
①の「歴博914号本」は高松藩松平家の伝来で、書写年代は分かりませんが「考信閣文庫」という押印があります。考信閣は第九代高松藩主松平頼恕が、天保六年(1835)に梶原藍渠の『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要紀』)の正確を期すために西の丸に建設した建物で、翌年正月には「考信閣文庫」という銅印が作られたようです。その印が押されているので、この書が高松藩で保管されていたことが分かります。伝来のはっきりした信頼がおける書物です。
②の「歴博915号本」も高松松平家の伝来で、表紙に「中山城山書入本」と記された付札があり巻末に城山の践文があります。中山城山は『全讃史』を著した人です。彼が持っていた本のようです。
④の「歴博916号本」は本奥書に、本文と同筆で「承応元年仲春日 石清尾神主 従五位下藤原盛員謹書 讃岐国大日記巻終」と記され、奥書は本文とは異筆で「享和二年中山氏隆助写之」とあります。中山氏隆助については分かりませんが、享和二年(1802)に書写された本のようです。
⑤の「歴博517号本」は奥書がなく、年代は分かりません。
そして、問題の⑥の「歴博27号本」です。この奥書には
「寛政六寅龍集 晩冬三日書畢 美作屋清兵衛」
とあります。この美作屋清兵衛については何も分かりません。伝来がはっきりしない怪しいと思われる本になります。

 次に、これらの書物の記述内容を見てみましょう。
 歴博27号本の奥書を史実とするならば、本書ができた承応元年(1652)以後、美作屋清兵衛によって寛政六年(1794)に書写されるまでの約140年間の間に、大幅な加筆がなされたと推定できます。この間には、いくつもの地誌・歴史書が作られています。
それらと比較すると
①景行天皇条の記載は『南海通記』からの引用
②仁明天皇条の内容は「三代物語」『翁堰夜話』の引用
して「美作屋清兵衛」が加筆したと研究者は考えているようです。南海通記の影響力やおそるべし!です

 歴博27号本のもつ意義は、その内容よりはむしろ、神櫛王に関する認識が18世紀末には、このような形として定着しつつあったことを示していることにあるのかもしれません。
讃岐府志 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
2 『讃陽箸筆録(讃岐府志)』
 この書は延宝・天和年間(1673)頃に、高松藩儒臣七條宗貞によって讃岐の歴史・人物・陵墓などについて書かれたものです、神櫛王については
「神櫛、為国造祖、或曰、景行之皇孫」
と記載されているのみで、陵墓の項には何も触れられていません。
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4 『南海治乱記』 ・ 『南海通記』
 両書とも香西成資によって著された四国を中心とした軍記物です。『南海治乱記』は、成資が幼少の頃から聞き知った話を歴史的に配列し、寛文三年(1663)に執筆したもので、刊行は半世紀後の正徳四年(1714)になります。
 一方『南海通記』は『南海治乱記』の巻初に、四国における歴史や系譜など三巻を加えるとともに、他巻も増補し、宝永二年(1704))に一応完成しますが、白峰寺に奉納されたのは15年後の享保四年(1719)になります。
 最初に書かれた『南海治乱記』には、神櫛王は出てきませんが、後になって加筆された『南海通記』には巻之二の旧姓考に「讃岐山田郡神櫛王記」という一項が入れられ、次のように神櫛王を登場させています。
日本書紀曰、景行天皇、妃五十河媛生神櫛皇子稲背入彦皇子。其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也。弟稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。
  6 神櫛王系図

  上のような系図を入れて、次のように解説します。
神櫛王は讃岐国山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まり、その後讃岐ノ君と称したと世に伝えられているが、成務天皇四年に国郡に長を立て、県邑に首を置くとあることから、この時に神櫛王は山田郡に封ぜられ、政務を執ったのである。
 『続日本後紀』承和三年の記事に見えるとおり讃岐公永直・永成ら二十八個が神櫛王の子孫である。そして山田郡植田郷は地勢堅固で土地は豊かであるから、一姻はここに居を定めて代々住み、その後裔が分かれて神内、三谷・十河の三家となったのである。 

この『南海通記』の記載から、戦国時代から江戸時代にかけて神内、三谷、十河の三氏がその始祖を神櫛王と称していたことがわかります。山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まったという伝承も、この三氏の祖先伝承として語られていたものを、成資が聞き取り『南海通記』に書き込んだようです。
 
しかし、ここでも神櫛王の墓については、何も出てきません。
『南海治乱記』巻十二「阿讃考」及び『南海通記』巻十五「阿讃考三」の「元親自阿州来讃州記」に次の記述があります。
 高松ノ東二大陵アリ 何ノ王ノ陵卜云コトヲ知ラズ
其傍二佐藤継信ヲ葬リタル塚アリ
 そばにあるという佐藤継信の墓は、現在では高松市屋島東町と高松市牟礼町(神櫛王墓の南東50㍍)の二ケ所にありますが、前者は寛永二十年(1643)に松平頼重が新たに造らせたもので、後者も現在地の西に接する平田池の位置にあったとされているようです。池と神櫛王墓は隣接していますから、ここに出てくる大陵が現在の神櫛王墓の丘陵を指すようです。
 この記述は、長曾我部元親が天正十一年(1583)讃岐を攻めた際に、法橋という僧侶が元親に屋島近辺の説明をしたものです。ここからは、戦国時代末期には、地元では王の墓という意識はあったものの、その被葬者が誰であるのかは分かっていなかったことがうかがえます。そして、この逸話がそのまま採録されています。成資が『南海治乱記』を書いた時にも、被葬者は未定であったのです。被葬者が神櫛王という伝承があれば、必ず書いたはずです。
6 神櫛王三代物語jpg

 『三代物語』『翁嘔夜話』
 この書は、神櫛王墓について最初に書かれたものです。『三代物語』は増田休竟によって明和五年(1768)にできた地誌で、郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。著述の経緯については、増田休意、増田正宅(休意の父)、菊池武信(休意の祖父)の三代が、見聞してきたもののうち重要なものを数百件集めて三巻となしたという断りがあります。
 一方、『翁嘔夜話』は、休意の弟である菊池武賢が延享二年(1745)に完成させたものです。内容は讃岐の地誌で『三代物語』と重なる所が多いようですが、古代から高松藩五代藩主までの歴史が加わっている点が大きな違いです。著述の経緯については、休意の父が書き記し、休意もまた父の意思を継ぎ記録を続けてきました。ある日休意は、弟の菊池武賢のところに今までの記録類を持ち込み校合するように依頼し、武賢は断れずに引き受け完成させ、これに休意が『翁躯夜話』と名付けたというものです。しかし、この本にはそれまで書かれていなかったことが、あたかも古くから云われてきたように紛れ込まされていることが多いのです。要注意の資料です。

6神櫛王4

 その中で神櫛王墓に関する記載は「歴代国司郡司村主田令」の条に次のような内容があります。
①神櫛王が郡司として山田郡を治めたこと、
②その墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と呼ばれていること
が簡潔に書かれています。
 神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。それが広まっていったようで、さらに「発展」してこの書では牟礼の王墓が神櫛王のものとされるようになります。
わざわざ「青墓・大墓」は王墓の転誂だとわざわざ説明しています。王の墓であることを改めて強調する効果をねらったようにも見えます。ここからは、この古墳が当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。
 
 現在の神櫛王墓は、かつて地元の人たちの墓地だったようです。
ここにあったという石仏が高松市牟礼町松井谷墓地に移されています。その石地蔵の背面には次のように刻まれています。
   宝永二(1705年)乙酉
   施主牟礼村信心男女
   奉造立青墓地蔵尊
         願主同村最勝寺堅周
  七月二四日
 この石仏は、神櫛王墓の丘陵から明治期の修復時にここに移転されたものです。これ以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机もあります。ここからは現在の神櫛王墓の丘陵が江戸時代には村民の墓地として利用されていたことを示しています。
 
6 讃岐廻遊記
 この本は讃岐の名所旧跡を紹介したもので、進藤政重によって寛政十一年(1799)に発行されていますが神櫛王墓についてはなにも触れていません。

7 讃岐志
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)を著した梶原藍渠が、その編集の傍ら文化・文政年間の十九世紀初め頃に著述した讃岐の地誌です。ここには三木郡の陵墓の項に次のように記されます。
  王墓 在牟礼村神櫛王墓也 有大楠樹

 すでに牟礼の王墓が神櫛王の墓ということが一般に広まっていたようです。「有大楠樹」と大きな樟があったことを報告していますので、作者自ら訪れたようです。信頼性があります。
全讃史 標註国訳(復刻讃岐叢書 1)(中山 城山 / 青井 常太郎 校訂国 ...
8『全讃史』
 中山城山によって天保二年(1832)に編まれ、天保十一年(1840)に改訂された讃岐の歴史書で、全一二巻の大著です。神櫛王については巻二の「人物志上」、墳墓については巻十の「古家志」に次のような記述があります。
 ①人物志上「讃岐国造世紀」
 景行帝更に神櫛王に命じて、其政を検せしめたり。国造本紀に云く、軽島の豊明の朝の御世に、景行帝の児神櫛王三世の孫、須責保疆命に国造を定め賜へり。蓋し讃岐の国造此より始るか。殖田氏の譜を閲するに、曰く人王十二代景行帝第十七の皇子神櫛命を山田郡に封じ、屋島の下に止ると。蓋し今の牟礼の墟を云ふ。(中略)神櫛王蔓じ給ひ此を牟礼に葬りまつる。今の王墓是なり。
 ②古家志
  王墓 津村の東に在り。二つの立石あり。一は則ち高五尺七寸、一は則ち高四尺三寸。皆北面して面に星辰の象を刻せり。或人云ふ。是れ蓋し神櫛王の墓なりと。伝えて言う。昔、此の墓、鳴動して己まざりき。安部清明之を符して止みき。其の言う所の符とは、蓋し星象を刻せるなり。而も何者か櫛王たるを知ざらん。城山逸民因って之を考えるに、書記に日く、景行天皇は八十余子ましまして、日本武尊、稚足彦天皇を除く外の七十余子は、皆国郡に封ぜられて、各々其の国に如くと。

 又云ふ。神櫛皇子は、其れ讃岐国造の始祖なりと。国造本紀に云う。軽島豊明の朝心昌の御世、景行帝の児神櫛王三世孫を讃岐国造に定め給ふと。公家大日記に云う。神櫛王及び稲背入彦は釆を山田郡に食み、屋島の下に止ると。然らば則ち大なる者は神櫛王の墓にして、小なる者は須売保礼命の墓なり。

この特徴は、今までの地誌・歴史書に較べると墓の内容が具体的になっている点です。星辰の象を刻んだ立石が二基あることに注目し、それぞれの被葬者の比定を試みています。そして、大きい立石を神櫛王の墓としています。

6 神櫛王墓石?jpg
 作者の城山はこの書とは別に「全讃聞見録」も書いていますが、そこには、神櫛王墓の二基の立石の上図を残しています。この立石を誰がいつ、どのように据えたのかは分かりません。墳墓に墓標を置くことが一般化するのは江戸時代になってからで、明治初期に丘陵全域が神櫛王墓として修造される直前までは、丘陵は墓地として利用され多くの墓石が林立していたことは先ほど述べた通りです。この二石は、それらの中でも大きく目立つものだったののかもしれません。
 ここからは中山城山に、古墳の概念がなかったことがうかがえます。「墓=墓石」なのです。
それが当時の讃岐人の「王墓」に対する認識だったようです。
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9 讃岐国名勝図会
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)や『讃岐志』を著した梶原藍渠とその子藍水によって編まれた地誌で、嘉永六年(1853)に完成します。全一五巻の巻三の三木郡牟礼村の項に神櫛王について次のように記されます。
王墓 同所、往来の傍ら岡にあり。相伝ふ、神櫛王山田郡を治めたまひ、この郡に崩じここに葬りしゆゑ王墓とはいえり。往古、牟礼・高松の村民、五月五日この地にて飛棟相撃、これを印人撃といふ、けだし戦場の遺事ならん、今は絶えたり。
 神櫛王は、景行天皇の皇子、母は五十河媛、讃岐国造なり。寒川・三木・山田諸郡に苗裔多し。植田・神内・十河氏はその裔なり。今王の墓といへる物二基あり。おもふに一基は武鼓王を祭りしならん。
 右の王墓の説明の前半部分は『翁嘔夜話』三木郡条、後半の神櫛王の系譜部分は同書の山田郡を参考にしたようです。王の墓が二基あると言うのは『全讃史』の解釈を踏襲しています。二基のうち一基の被葬者を、武鼓王としている点がこの書の独自性です。
 ちなみに、崇徳暗殺説を最初に出しているのもこの本です。

 神櫛王墓が作り出された過程と背景
 以上のように讃岐近世の地誌・歴史書を見てみると、『翁躯夜話』が神櫛王墓に触れた最初のもので、これ以後「牟礼の王墓」が神櫛王の墓とされ、地誌・歴史書に広がっていく過程を見てきました。それを研究者は次のように整理しています。
   「第一期」(17世紀まで)
神櫛王について地誌・歴史書に取り上げられているが、その内容は古代の史料の範囲内である。後
に神櫛王墓となる丘陵は地元では王の墓であるという見方はあるが、それが神櫛王とは結びついていない段階。
   【第二期】(18世紀初め)
 神櫛王が山田郡を治めたということが広まり始めた段階です。この時期には神内、三谷・十河の三族において、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られ、これを香西成資が『南海通記』に採録し、神櫛王が山田郡を治めたということが讃岐の歴史の一部となっていきます。しかし、墳墓についてはまだ特定されていない段階で、後に神櫛王墓となる丘陵は村民の墓地として利用されていました。
  「第三期」(18世紀半ばに墓が特定される段階)
『翁嘔夜話』が初めて「墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と俗称される」と記し、18世紀末には『讃岐国大日記』の写本にこのことが書き加えられ、それ以後も「讃岐志」などで取り上げられ広がっていく段階です。
   「第四期」(19世紀前半の時期)
 『全讃史』において墓地の中にある二つ墓石が注目され、大きい方が神櫛王の墓とされます。

 以上のような過程を経て、地元の人たちが立石を神櫛王の墓と語り伝えるようになったようです。しかし、そうなっても藩の記録や地誌・歴史書を見る限り神櫛王墓が特別な扱いを受けた様子は見られません。村民の墓地の中に、神櫛王の墓石はあり、村民の墓石と並び立っていたようです。

 ところで香川県のもう一つの陵墓である白峯陵は、高松藩においては初代藩主頼重が手を入れ修築します。五代藩主頼恭は、600年忌にあたり宝暦十三年(1763)にも修繕され、石灯寵一対が奉納されています。これを神櫛王墓と比べると、対照的に見えます。
 高松松平家は、水戸徳川家の分家であり水戸本家の学風、思想を継承しているとされます。水戸一族の家訓である「天朝に忠ならしむる」という尊王思想を受け継いたはずです。しかし当時の尊王思想は、天皇に対する崇拝の念であって、皇子・皇女にまでは及んでいなかったようです。それが高松藩の神櫛王墓の扱いからうかがえます。

 神櫛王墓は、皇子の墓としては最も早い時期に修造の決定が政府によって行われています。明治政府は、明治四年二月に太政官布告を出し、后妃・皇子・皇女の調査を始めます。それより前の明治2年に、神櫛王墓は新政府に修理伺いを出して、明治3年9月には工事が終わっているのです。この早さは、異様に見えます。どうして、こんなに早かったのでしょうか・

 江戸時代の陵墓の探索・修復は、天皇陵を主な対象として何度か行われていました。そして安政期には調査の精密度が増し、文久期には内容・規模が大幅に拡充され、一定の形式が整えられていきます。
 明治四年の布告は、江戸時代の「実績」を踏まえたものだったようです。その調査には「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などの6項目についての報告が求められています。これらに携わったのは、讃岐の神仏分離政策の大本締めとして活躍した多和神社の神主・松岡調であったことは以前お話ししました。彼は、東讃の神社全てを訪ねて、その祭神などをチェックし、仏教色の強い祭神を本殿から排除する作業を行っています。これらの作業は彼にとっては「讃岐宗教史」を学ぶフィルドワークの機会となり、彼の学問的な知見を飛躍的に向上させることになります。
 その後、松岡調は金毘羅宮の禰宜として、そこに琴平に神道の香川県惣社の指導者として、明治の宗教政策を指導していく立場に立ちます。当時の彼の手元にも、神櫛王墓の扱いについての公文書は回ってきたはずです。それへの対応をどうするかを決定する立場にあったのが彼だと私は考えています。あるいは、政府の調査を見越して神櫛王墓の修造を行わせたのも彼かもしれません。
 松岡調は、神櫛王墓のことをよく知っていたはずです。私たちが今までに見てきた資料も古文書を集めを趣味としていた彼の手元にはあったでしょう。新政府が求めた6つの調査項目である「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などは、彼ならすぐに書けたはずです。
 つまり江戸時代に積み上げられ集積された神櫛王墓の情報と松岡調の存在が神櫛王墓修造の決定を早めた要因のひとつだったのではないでしょうか。
 

  以上、高松方面での神櫛王伝説とその墓について見てきました。
全体をまとめたおきます
①紀記には、神櫛王は系譜だけが書かれ、悪魚退治やその墓などについては書かれていない。
②中世になって綾氏が神櫛王(讃留霊王)を、始祖とする「綾氏系譜」が作られる。
③ここに初めて「悪魚伝説」が登場し、綾氏に繋がる武士団の顕彰物語として広がる。
④高松方面では、神内、三谷・十河の三族が、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られる
⑤香西成資の『南海通記』にも採録されし、神櫛王伝説が広がる
⑦江戸時代後半になると牟礼の丘陵墓地が神櫛王墓とされるようになる。こうして出来上がった神櫛王墓は、明治になるといち早く王墓に指定され宮内庁の管理下に置かれることになる。
⑧並んでいた墓石や石仏は、王墓エリアから取り除かれる
⑨戦前には皇国史観の元で讃岐始祖「神櫛王」の墓として、歴史教育などでも必ず取り上げられるようになる
⑩戦後の皇国史観排除によって、神櫛王の比重は低下し、彼が歴史的に取り上げられることはなくなった。そのため神櫛王が何者であるのか、王墓がどこにあるのかも触れられることはなくなった。

参考文献 大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

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