瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:南海通記

16世紀前半の天文年間になると阿波三好氏が讃岐へ侵入を開始し、東讃の国人衆は三好氏の支配下に入れられていきます。その拠点となったのが三好一存を養子として迎えた十河氏です。

十河氏2


十河氏の拠点は香川郡の十河城でした。
こうして十河氏を中心に髙松平野への三好氏の進出が行われます。しかし、この進展を記したものは『南海通記』以外にありません。そして、戦後に書かれた町村史の戦国史は、これに拠るものがおおいようです。また、その後の三好氏による天霧城の香川氏攻めは詳細に記述されているので、軍記物としても読めて人気がありました。しかし、その内容については新たな史料の発掘によって、事実ではないとされるようになっています。今回は南海通記のどこが問題なのかを見ていくことにします。テキストは 橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P

最初に、『南海通記』の三好義賢(実休)による天霧城攻め記述を見ておきましょう。
  (前略)香川五郎刑部大夫景則ハ伊予ノ河野卜親シケレハ是二牒シ合セテ安芸ノ毛利元就二属セント欲ス。是二由テ十河一存ノ旨二与カラス。元就ハ天文廿年二大内家二亡テ三年中間アツテ。弘治元年二陶全菖ヲ討シ。夫ヨリ三年ニシテ安芸、備後、周防、長門、石見五ケ国ヲ治テ、今北国尼子卜軍争ス。其勢猛二振ヘハ香川氏中国二拠ントス。三好豊前守入道実休是ヲ聞テ、永禄元年八月阿、淡ノ兵八千余人ヲ卒シテ、阿波国吉野川二至り六条ノ渡リヲ超テ勢揃シ、大阪越ヲンテ讃州引田浦二到り。当国ノ兵衆ヲ衆ム寒川氏、安富氏来服シテ山田郡二到り十河ノ城二入リ、植田一氏族ヲー党シテ香川郡一ノ宮二到ル。香西越後守来謁シテ計ヲ定ム、綾ノ郡額ノ坂ヲ越テ仲郡二到リ、九月十八日金倉寺ヲ本陣トス。馳来ル諸将ニハ綾郡ノ住人羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝官弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔、小早川三郎左衛門鵜足郡ノ住人長尾大隅守、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛西等三好家ノ軍二来衆ス。総テー万人千人、木徳、柞原、金倉二充満ス。一陣々々佗兵ヲ交ス営ヲナス。阿、淡ノ兵衆糧米ハ海路ヨリ鵜足津二運送ス。故ニ守禁ノ兵アリ。 実休此度ハ長陣ノ備ヲナシテ謀ヲ緞クス。
九月十五日実休軍ヲ進メテ多度ノ郡二入ル、善通寺ヲ本陣トス。阿、讃ノ兵衆仲多度ノ間二陣ヲナス。
  ここまでを意訳変換しておくと 
 (前略)香川五郎景則は伊予の河野氏と親密であったので、河野氏と共に安芸の毛利元就に従おうとした。そのため三好氏一族の十河一存による讃岐支配の動きには同調しようとしなかった、元就は天文20年に大内家を滅亡させて、弘治元年には陶氏を滅ぼし、安芸、備後、周防、長門、石見の五ケ国を治めることになった。そして、この時期には尼子と争うようになっていた。毛利氏の勢力の盛んな様を見て、香川氏は毛利氏に従おうとした。
 三好入道実休はこのような香川氏の動きを見て、永禄元年八月に阿波、淡路の兵八千余人を率いて、吉野川の六条の渡りを越えた所で馬揃えを行い、大阪越から讃州引田に入った。そこに東讃の寒川氏、安富氏が加わり、十河存保の居城である山田郡の十河城に入った。ここでは植田一氏族加えて香川郡の一ノ宮に至った。ここには香西越後守が来謁して、戦略を定めた。その後、綾郡の額坂を越えて仲郡に入り、九月十八日には金倉寺を本陣とした。ここで加わったのは綾郡の羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝宮弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔(西庄城?)、小早川三郎左衛門、鵜足郡の長尾大隅守(長尾城)、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛(香)等が三好軍に従軍することになった。こうして総勢1,1万人に膨れあがった兵力は、木徳、柞原、金倉周辺に充満した。阿波、淡路ノ兵の兵糧米は、海路を船で鵜足津(宇多津)に運送した。そのために宇多津に守備兵も配置した。 実休は、この戦いででは長陣になることをあらかじめ考えて準備していた。こうして、九月十五日に、実休軍は多度郡に入って、善通寺を本陣とした。そして阿波や、讃岐の兵は、那珂郡や多度軍に布陣した。

内容を補足・整理しておきます。
①天文21年(1552)三好義賢(実休)は、阿波屋形の細川持隆を謀殺し、阿波の支配権を掌握。
②その後に、十河家に養子に入っていた弟の十河一存に、東讃岐の従属化を推進させた。
③その結果、安富盛方と寒川政国が服属し、やがて香西元政も配下に入った。
④しかし、天霧城の香川景則は伊予の河野氏と連絡を取り、安芸の毛利元就を頼り、抵抗を続けた。⑤そこで実休は永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵を率いて讃岐に入り、東讃岐勢を加えて9月に那珂郡の金倉寺に本陣を置いた。
⑥これに中讃の国人も馳せ参じ、三好軍は1,8万の大部隊で善通寺に本陣を設置した。

これに対して天霧城の香川景則の対応ぶりを南海通記は、次のように記します
香川氏ハ其祖鎌倉権五郎景政ヨリ出テ下総国ノ姓氏也。世々五郎ヲ以テ称シ景ヲ以テ名トス。細川頼之ヨリ西讃岐ノ地ヲ賜テ、多度ノ郡天霧山ヲ要城トシ。多度津二居住セリ。此地ヲ越サレハ三郡二入コトヲ得ス。是郡堅固卜云ヘキ也。相従兵将ハ大比羅伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門其外小城持猶多シ。香川モ兼テ期シタルコトナレハ我力領分ノ諸士、凡民トモニ年齢ヲ撰ヒ、老衰ノ者ニハ城ヲ守ラシメ、壮年ノ者ヲ撰テ六千余人手分ケ手組ヲ能シテ兵将二属ス。香川世々ノ地ナレハ世人ノ積リヨリ多兵ニシテ、存亡ヲ共ニセシカハ阿波ノ大兵卜云ヘトモ勝ヘキ師トハ見ス。殊近年糧ヲ畜へ領中安供ス。
 
 意訳変換しておくと
香川氏は鎌倉権五郎景政が始祖で、もともとは下総国を拠点としていた。代々五郎を称して「景」という一時を名前に使っている。細川頼之から西讃岐の地を給付されて、多度郡天霧山に山城を築いて、普段は多度津で生活していた。(天霧城は戦略的な要地で)ここを越えなければ三野郡に入ることはできない。そのため三野郡は堅固に守られているといえる。香川氏に従う兵将は大比羅(大平)伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門の他にも小城の持主が多い。三好氏の襲来は、かねてから予期されていたので戦闘態勢を早くから固めていた。例えば年齢によって、老衰の者には城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けていた。また香川氏の支配領域は豊かで、人口も多く「祖国防衛戦」として戦意も高かった。また。城内には兵糧米も豊富で長期戦の気配が濃厚であった。

こうして善通寺を本陣とする三好郡と、天霧城を拠点とする香川氏がにらみ合いながら小競り合いを繰り返します。ここで不思議なのは、香川氏が籠城したとは書かれていないことです。後世の軍機処の中には、籠城した天霧城は水が不足し、それに気がつかれないように白米を滝から落として、水が城内には豊富にあると見せようとしたというような「軍記もの」特有の「お話」が尾ひれをつけて語られたりしています。しかし、ここには「老衰の者を城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けた」とあります。 また、三好軍は兵力配置は、天霧山の東側の那珂・多度郡だけです。南側の三野郡側や、北側の白方には兵が配置されていません。つまり天霧城を包囲していたわけではないようです。籠城戦ではなかったことを押さえておきます。
天霧城攻防図
天霧城攻防図(想像)
南海通記には香川氏の抵抗が強いとみた三好側の対応が次のように記されています。
故二大敵ヲ恐ス両敵相臨ミ其中間路ノ程一里ニシテ端々ノ少戦アリ。然ル処二三好実休、十河一存ヨリ香西越後守ヲ呼テ軍謀ヲ談シテ日、当国諸将老巧ノ衆ハ少ク寒川、安富ヲ初メ皆壮年ニシテ戦ヲ踏コト少シ、貴方ナラテハ国家ノ計謀ノ頼ムヘキ方ナシ、今此一挙是非ノ謀ヲ以テ思慮ヲ遣ス。教へ示シ玉ハ、国家ノ悦ヒコレニ過ヘカラストナリ。香西氏曰我不肖ノ輩、何ソ国家ノ事ヲ計ルニ足ン。唯命ヲ受テーノ木戸ヲ破ヲ以テ務トスルノミ也トテ深ク慎テ言ヲ出サス。両将又曰く国家ノ大事ハ互ノ身ノ上ニアリ。貴方何ソ黙止シ玉フ、早々卜申サルヽ香西氏力曰愚者ノー慮モ若シ取所アラハ取り玉フヘシ。我此兵革ヲ思フエ彼来服セサル罪ヲ適ルノミナリ。彼服スルニ於テハ最モ赦宥有ヘキ也。唯扱ヲ以テ和親ヲナシ玉フヘキコト然ルヘク候。事延引セハ予州ノ河野安芸ノ毛利ナトラ頼ンテ援兵ヲ乞二至ラハ国家ノ大事二及ヘキ也。我香川卜同州ナレハ隔心ナシ。命ヲ奉テ彼ヲ諭シ得失ヲ諭シテ来服セシムヘキ也。

  意訳変換しておくと
こうして両軍は互いににらみ合って、その中間地帯の一里の間で小競り合いに終始した。これを見て三好実休は弟の十河一存に香西越後守(元政)呼ばせて、とるべき方策について次のように献策させた。
「讃岐の諸将の中には戦い慣れた老巧の衆は少ない。寒川、安富はじめ、みな壮年で戦闘経験が少い。貴方しか一国の軍略を相談できる者はいない。この事態にどのように対応すべきか、教へていただきたい。これに応えて香西氏は「私は不肖の輩で、どうして一軍の指揮・戦略を謀るに足りる器ではありません。唯、命を受けて木戸を破ることができるだけです。」と深く謹みの態度を示した。そこで実休と一存は「国家の大事は互の身上にあるものです。貴方がどうして黙止することがあろうか、早々に考えを述べて欲しい」と重ねて促した。そこで香西氏は「愚者の考えではありますが、もし意に適えば採用したまえ」と断った上で、次のような方策を献策した。
 私は現状を考えるに、香川氏が抵抗するのは罪を重ねるばかりである。もし香川氏が降るなら寛容な恩赦を与えるべきである。これを基本にして和親に応じることを香川氏に説くべきである。この戦闘状態が長引けば伊予の河野氏や安芸の毛利氏の介入をまねくことにもなりかねない。それは讃岐にとっても不幸なことになる。これは国家の大事である。私は香川氏とは同じ讃岐のものなので、気心はしれている。この命を奉じて、香川氏に得失を説いて、和睦に応じるように仕向けたい。

要点を整理しておきます。
①善通寺と天霧山に陣して、長期戦になったこと、
②三好実休は長期戦打開のための方策を弟の十河一存に相談し、香西越後守の軍略を聞いたこと
③香西越後守の献策は、和睦で、その使者に自ら立つというものです。
ここに詳細に描かれる香西越後守は、謙虚で思慮深い軍略家で「諸葛亮孔明」のようにえがかれます。このあたりが一次資料ではなく「軍記もの」らしいところで、名にリアルに描かれています。内容も香西氏先祖の自慢話的なもので、南海通記が「香西氏の顕彰のために書かれている」とされる由縁かも知れません。18世紀初頭に南海通記が公刊された当時は、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国(讃岐)の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたことは前々回にお話ししました。

 香西越後守の和議献策を受けて、三好実休のとった行動を次のように記します。
実休ノ曰、我何ソ民ノ苦ヲ好ンヤ。貴方ノ弁才ヲ以テ敵ヲ服スルコトラ欲スルノミ、香西氏領掌シテ我力陣二帰り、佐藤掃部之助ヲ以テ三野菊右衛門力居所へ使ハシ、香川景則二事ノ安否ヲ説テ諭シ、三好氏二服従スヘキ旨ヲ述フ、香川モ其意二同ス。其後香西氏自ラ香川力宅所二行テ直説シ、前年細川氏ノ例二因テ三好家二随順シ、長慶ノ命ヲ受テ機内ノ軍役ヲ務ムヘシト、国中一条ノ連署ヲ奉テ、香川氏其外讃州兵将卜三好家和平ス。其十月廿日二実休兵ヲ引テ還ル。其日ノ昏ホトニ善通寺焼亡ス。陣兵去テ人ナキ処二火ノコリテ大火二及タルナルヘシ。

意訳変換しておくと
実休は次のように云った。どうして私が民の苦しみを望もうか。貴方の説得で敵(香川氏)が和議に応じることを望むだけだ。それを聞いて香西氏は自分の陣に帰り、佐藤掃部之助を(香川氏配下の)三野菊右衛門のもとへ遣った。そして香川景則に事の安否を説き、三好氏に服従することが民のためなると諭した。結局、香川も和睦に同意した。和睦の約束を取り付けた後に、香西氏は自らが香川氏のもとを訪ねて、前年の細川氏の命令通りに、三好家に従い、三好長慶の軍令を受けて畿内の軍役を務めるべきことを直接に約束させた。こうして国中の武将が連署して、香川氏と讃州兵将とが三好家と和平することが約束された。こうして10月20日に実休は、兵を率いて阿波に帰った。その日ノ未明に、善通寺は焼した。陣兵が去って、人がいなくなった所に火が残って大火となったのであろう。

ここには香川氏が三好実休の軍門に降ったこと、そして畿内遠征に従軍することを約したことが記されています。注意しておきたいのは、天霧城が落城し、香川氏が毛利氏にを頼って落ちのびたとは記していないことです。

南海通記に書かれている永禄元年(1558)の実休の天霧城攻めの以上の記述を裏付けるとされてきたのが次の史料(秋山文書)です。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2

意訳変換しておくと
今度の阿波州(三好)衆の乱入の際の十月十一日麻口合戦(高瀬町麻)においては、手を砕かれながらも、敵将の山路甚五郎討ち捕った。誠に比類のない働きは神妙である。(この論功行賞として)三野郡高瀬郷の内、以前の知行分反銭と同郡熊岡・上高野御料所分内丹石を、また新恩として給与する。今後は全てを知行地と認める。この外の公物の儀は、有り様納所有るべく候、在所の事に於いては、代官として進退有るべく候、いよいよ忠節御入魂肝要に候、恐々謹言

年紀がないので、これが永禄元(1558)年のものとされてきました。しかし、高瀬町史編纂過程で他の秋山文書と並べて比較検討すると花押変遷などから、それより2年後の永禄3年のものと研究者は考えるようになりました。冒頭に「阿州衆乱入」の文言があるので、阿波勢と戦いがあったのは事実です。疑わなければならないのは、三好氏の天霧城攻めの時期です。

永禄3、 4年に合戦があったことを記す香川之景の発給文書が秋山家文書にあります。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
秋山家文書(永禄四年が見える)
 先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、こちらは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。 先ほどの麻口の戦いと一連の軍功に対しての論功行賞と新恩が秋山兵庫助にあたえられたものと研究者は考えています。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦った結果手にした恩賞です。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、ここからは南海通記の記述に対する疑問が生じます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。しかし、秋山文書を見る限り、それは疑わしくなります。なぜなら、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、香川氏は三好氏に従属したわけではないようです。

また、1558年には三好実休は畿内に遠征中で、四国には不在であったことも一次資料で確認できるようになりました。
つまり、南海通記の「永禄元(1558)年の三好実休による天霧城攻防戦」というのはありえなかったことになります。ここにも南海通記の「作為」がありそうです。

それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
 この時点では三好実休は死去しています。三好軍を率いたのも実休ではなかったことになります。それでは、この時の指揮官はだれだったのでしょうか。それは三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢と研究者は考えています。実休の戦死で、その子長治が三好家の家督を継ぎますが、西讃岐へは篠原長房により侵攻が進められます。永禄7年(1564)、篠原長房は大野原の地蔵院に禁制を出すなど、西讃の統治を行っています。年表化しておくと次のようになります
永禄元年 実休の兄長慶が将軍足利義輝・細川晴元らと抗争開始。実休の堺出陣
永禄6年 篠原長房による天霧城攻防戦
永禄7年 篠原長房の地蔵院(観音寺市大野原)への禁制
ここからは『南海通記』の天霧城攻防戦は、年代を誤って記載されているようです。天霧籠城に至るまでの間に、香川氏と三好勢との小競り合いが長年続いていたが、それらをひとまとめにして天霧攻として記載したと研究者は考えています。
   以上をまとめておきます

①讃岐戦国史の従来の定説は、南海通記の記載に基づいて永禄元(1558)年に阿波の三好実休がその弟十河一存とともに丸亀平野に侵攻し、天霧城攻防戦の末に香川氏は降伏し、三好氏の支配下に収められた(或いは、香川氏は安芸の毛利氏の元へ落ちのびた)とされてきた。
②しかし、秋山家文書には、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できる。
③ここからは、永禄4(1561)年になっても、香川氏はまだ西讃地域を支配していたことが分かる。
④また1558年には三好実休は畿内に遠征していたことが一次資料で確認できるようになった。
⑤こうして1558年に三好実休が天霧城を攻めて、香川氏を降伏させたという南海通記の記載は疑わしいと研究者は考えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
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南海治乱記と長元物語の記述比較1
 『南海治乱記』のN1部分は、長宗我部元親による阿波平定後の各武将の配置を述べています。この部分は土佐の資料『長元物語』のT1部分を写したもののようです。内容・表現がほぼ一致します。しかし、詳しく見るとT1の7番目の項目「一、ニウ殿、東條殿、(後略)」は省略、『治乱記』の「一ノ宮南城ノ城ヘハ谷忠兵衛入城也」の箇所は『治乱記』編者が他の資料によって付け加えたことを研究者は指摘します。

天正10年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録
『治乱記』のN2部分は、『三好記』のM1部分を写しています。
ただ、『治乱記』N1の記述と重なるM1の「一ノ宮ノ城」の箇所は、省略しています。また、Mlの「大西白地ノ城」「富岡ノ城」「海部輌ノ城」の3箇所は、意図的に省いているようです。
 三好記Mlでは「海部輌ノ城ニハ、田中市之助政吉ヲ置ル」
 南海通記N1の「海部ノ城ハ香曽我部親泰根城也」
と配置された武将名が異なります。
三好記Mlでは「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記N1は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
と記します。前回、お話ししたように「富岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。
岡舘跡・由佐城
岡舘跡と由佐城
『治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、この時期にはそれに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。土佐軍に抵抗し、和議をむすんだと由佐氏の家書は記します。これに配慮したのかもしれません。

南海通記と長元物語比較3

『治乱記』N3部分は、『三好記』M2部分を写したものですが、かなり簡略化しています。
新開道善と一宮成助とを長宗我部元親が討ったことについて、土佐資料『元親記』は「然所に道前と一の宮城主は、其後心替仕に付腹を切せらる」と簡単に記しています。『治乱記』では阿波国寄りの『三好記』の記述を採っています。

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南海治乱記と元親記の比較

 『南海治乱記』の巻十二「土州自阿州発向讃州記」のN4部分は、土佐の『元親記』のS2部分を写したものと研究者は推測します。
S2部分の「そよ越」とあったところは、「曽江谷越(清水峠)」と改められています。「治乱記」N5部分は、『元親記』S1部分を写したものので、十河城の防備施設などに新しく説明を付け加えています。また従軍者名に土佐側資料になかった讃岐の「香西伊賀守」「羽床伊豆守」「長尾大隅守」「新名内膳」「香西加藤兵衛、其弟植松帯刀」の名前を加えています。さらに「大将ニハ長曽我部親政」とします。
『治乱記』のN6部分も、N4部分と同じく『元親記』のS2部分を写したものでしょう。「屋島」での元親の行動や「屋島」自体の説明などを付け加えています。

南海治乱記と元親記比較.4JPG
『治乱記』のN7部分は、『元親記』S3では元親は急ぎ「帰陣有し」と簡単に記します。
ところが南海治乱記では讃岐国内の「春日の海ノ中道」「香河郡」「西長尾城」を経て「大西ノ城二還ル也」とします。この箇所は、『治乱記』の著者による追加です。しかし、先に見てきたように天正十年の長宗我部元親本軍の讃岐香川郡侵攻ルートは、阿波の岩倉城(脇町) → 清水峠 → 十河城でした。帰路もこのルートをとったとするのが自然です。ここにもなんらかの作為があるような気配がします。
元親記
元親記
以上をまとめておきます。
①香西成資は南海治乱記を書くに当たって、先行する阿波や土佐の編纂歴史書を手元に置いて参考にしていた。
②長宗我部元親の阿波制圧や、その後の武将配置などは先行する資料に基本的に忠実である。
③しかし、岡城や由佐城・十河城に関する箇所になると、由佐氏や十河氏に対する配慮があり、加筆や意図的な省略が行われている。
④長宗我部元親の讃岐での行動については、多くの加筆が行われている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

   南海治乱記と南海通記

『南海治乱記』『南海通記』は、香西氏の流れを汲む香西成資が、その一族顕彰のために書かれた記物風の編纂書です。同時に道徳書だと研究者は評します。この両書はベストセラーとして後世に大きな影響を与えています。戦後に書かれた市町村史も戦国時代の記述は、南海通記に頼っているものが多いようです。しかし、研究が進むにつれて、記述に対する問題がいろいろなところから指摘されるようになっています。今回は「香川民部少輔」について見ていくことにします。
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
長くなりますがその部分をまずは、見ていくことにします。
        53『南海通記』巻十三 抜三好存保攻北條香川民部少輔記
元亀年中二好存保讃州ノ諸将二命シテ、香川民部少輔ガ居城綾北條西庄ノ城ヲ囲ム、北條香川(昔文明年中細川政几優乱ノ時香西備中守二同意セズシテ細川澄元阿州ョリ上洛ヲ待タル忠義二依テ本領安賭シ、北條城付ノ知行ヲ加増二賜シカハ、是ヨリ細川三好世々上方二所領有テ相続シ来ル処二、今度信長公京都二入リテ、三好氏族家人ヲ逐フテ其所領ヲ奪ハル、是二依テ公方義昭公ノ御方人トシテ世二立ンコトワ欲ス。其才覚アルコトフ上方ノ三好家ヨリ三好存保ニ告ヶ来ル、是二因テ存保近隣ノ諸将二命シテ、西ノ庄ノ城ヲ囲マシム。香西伊賀守陣代久保三郎四郎吉茂、兵卒千人余を掲げて馳向フ。 羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川人千余人北條二来陣ス。香西陣代久利二郎四郎ハ西庄ノ城東表ヲ囲ム。

意訳変換しておくと
『南海通記』巻十三  三好(十河)存保の北條香川民部少輔・西庄城記攻防戦記

織田信長が上洛を果たした元亀年中(1570~73年)、三好(十河)存保が讃州の諸将に命じて、香川民部少輔の居城である綾北條郡の西庄城を囲んだ。①北條香川氏は文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、さらに北條城周辺の知行が加増された。
 細川・三好家は畿内に所領を以て相続してきたが、織田信長の上洛によって、三好一族は畿内の所領を奪われた。そんな時に公方義昭公が自立の動きを見せて、上方ノ三好家から三好存保に対して支援を求めてきた。そこで、②存保は近隣の諸将に命じて、香川民部少輔の西庄城を包囲させた。香西伊賀守の陣代である久保三郎四郎吉茂は、兵卒千人余を率いてこれに向かい、羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川氏など8千人余りが北條城を包囲して陣を敷いた。この時に香西陣代の久利三郎四郎は、西庄城東表を囲んでいたが、
永世の錯乱3

         讃岐武将の墓場となった永世の錯乱
①北條香川氏が阿野北平野の西庄城を領有するようになったのは「文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、西庄城周辺の知行が加増」のためと説明されています。確かに、この時の騒乱で香川氏や香西氏の棟梁達は討ち死にして、在京の讃岐勢力は壊滅的状態に追い込まれたことは以前にお話ししました。永世の錯乱が讃岐武将の墓場と言われる由縁です。

永世の錯乱2

この史料をそのまま信じると、永世の錯乱の敗者となった西氏や香川氏の勢力が弱まる中で、
勝ち組の阿波守護細川澄元についたのが北條香川氏になります。そして阿野北平野の西庄城を得たということになるようです。「中央での永世の錯乱を契機に讃岐は他国にさきがけて一足早く戦国時代を迎えた」と研究者は考えています。それが阿波の細川澄元やその家臣の三好氏の讃岐への勢力伸長を招く結果となります。その一環として細川澄元や三好側についた香川氏一族が領地を増やすというのはあり得ない話ではありません。それが具体的には香西氏の勢力範囲であった阿野北平野への進出の契機となったということでしょうか。しかし、これには問題点があります。香川一族と三好氏は犬猿の仲です。香川氏の基本的な外交戦略は「反三好」で一貫しています。長宗我部元親の侵入の際にも、対応は分かれます。最後まで両者が手をむすんだことはありません。こうしてみると、香川氏の一族の北条香川氏が細川澄元や三好側についたというのは、すぐには信じられないことです。

次の部分を見ていくことにします。
七月十三日ノ夜月明ナルニ東ノ攻ロヨリ真部弥助祐重、堀土居ヲ越テ城中ニ入り、大音ヲ揚テ名ノリ敵ヲ招ク、城中ノ兵弥介二人トハ知ラズシテ大二騒動シ手二持タル兵刃足二踏ム所ヲ知ズ混乱ス。城中ノ軍司栂取彦兵衛友貞卜名乗テ亘り合ヒ鎗ヲ合ス、弥介戦勝テ構取彦兵衛ヲ討取り、垣ヲ越テ我陣二帰ル。諸人其意旨ヲ知ラズシテ陣中驚キ感ズ。翌日城門ヲ開キ出テ駆合ノ戦有、香川家臣宮武源三兵衛良馬二乗り一騎許り馬ノ鼻ヲ並テ駆出ス。其騎二謂テ日、必ズ馬ヨリ下リ立テ首渡スベカラス。敵ノ背二乗リカケテ一サシニ駆破り引取ルヘシ城門ニハ待受ノ備アリト云間カセテ早々引取シカハ寄手モ互二知レ知リタル、朋友ナレバ感之卜也。然処二寄手大軍ナレバ城中ヨリ和ヲ乞テ城フ明渡ス。家人従類フ片付テ其身従卒廿人許り召具シ甲冑ヲモ帯セス、日来白愛ノ鷹フ壮ニシテ出デバ、敵モ見方モ佗方二非ズ、隣里ノ朋友ナレバ涙ヲ流サヌ者ハナシ.然シテ民部少輔ハ松力浦ヨリ船二乗り塩飽ノ広島へ渡り、舟用意シテ備後ノ三原二到り、小早川隆景二通シテ、帰郷ノコトワ頼ミケルトナリ。

意訳変換しておくと
七月十三日に夜の月が出て明るくなる頃に、東の攻から真部弥助祐重が只一人で堀土居を越えて城中攻め入り、大声をあげて名乗って敵を招いた。城中の兵は弥介一人とは分からずに、大騒ぎになり手に持った兵刃を踏むなどして混乱に陥った。城中の軍司栂取彦兵衛友貞が名乗り出て、互いに鎗を合わした。その結果、弥介が勝って栂取彦兵衛を討取り、垣を越て我陣に帰ってきた。陣中では、この行為に驚き感じいった。翌日には、城門を開いて討って出てきたので、騎馬戦が展開された。香川家臣の宮武源三兵衛は良馬に乗って、10騎ほどの馬が鼻を並べて駆出す。その時に臣下に「馬から下りて戦ってはならない。敵の背に乗りかけて一差しすれば、ただちに城門に引き返すべし。城門には敵を待ち受ける仕掛けを講じている」と。しかし、寄手側もその気配を察知して、策にははまらない。
 こうして大軍の寄せ手に対して、北條香川氏は和を乞うて城を明渡すことになった。家人や従類を落ちのびさせて、その身は従卒20人ばかりと、甲冑もつけないで、日頃から可愛がっていた鷹狩りの鷹を胸に抱いて城を後にした。この時には、隣里の朋友という間柄なので敵も見方も区別なく涙をながさない者はいなかった。こうして香川民部少輔は松カ浦から船に乗って、塩飽の広島へ渡り、そこで舟を乗り換えて備後に向かった。そして、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めた。
この前半部は軍記ものには欠かせない功名物語が書かれています。ここで注目したいのは最後の部分です。攻防戦の結果、香川民部少輔は船に乗って三原に渡り、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めたとあるところです。その続きには次のように記します。
毛利家ノ記曰く、公方義昭公御内書ヲ賜テ日香川帰郷ノコト頼被成ノ間早々可被相催候、阿波三好事和平フ願可申入候、然就承引不可有候、畿内三好徒堂¨大半令追状候者也.隆景其旨二応ジ、浦兵部太輔井上伯者守二五千余人ヲ附シテ、大船三百余艘二取乗五月十二日三原ヲ発シ、讃州松ケ浦並鵜足郡鵜足津二着岸ス。然シテ西ノ庄ノ城二押寄スル処二、香西伊賀守番勢ノ者トモ城ヲ明テ引去ル。香川ヲ西ノ庄ノ城へ入城セシメ元ノ如ク安住ス.中国ノ兵将香川ヲ本地へ還附
   然トモ敵ハ五千人地衆ハ五百人ナレバ相対スベキ様モナシ。地衆兵引テ綾坂ノ上二旗ヲ立テ相侍ツ。敵モ功者ナレバ川ヲ越エズシテ引去ル。六月一日二中国ノ兵衆二百余人ヲ西ノ庄二残シ置キ、総軍三原二帰ル。是ョリ香川民部少輔ハ毛利家ノ旗下トシテ中国フ後援トスル也。備後ノ三原ハ海上十里二過ズシテ行程近シ、国二事アル時ハ一日ノ中二通ス。故二国中ノ諸将侮ルコトフ得ザル也。
意訳変換しておくと
その当たりの事情を毛利家の記録には次のように記す。公方義昭公は将軍内書を発行して、香川氏の帰郷を支援することを毛利氏に促す一方で、阿波三好氏に対しては、両者の和平交渉を求める書状を送ったが、これは実現しなかった。
 これに対して、小早川隆景は義昭の求めに応じて、浦兵部の太輔井上伯者守に五千余人を率いらせて、大船三百余艘で五月十二日に三原を出港し、讃州松ケ浦や鵜足郡鵜足津に着岸した。そして西庄城に攻め寄せた。これに対して、香西伊賀守の守備兵たちは城を開けて引き去っていた。そこで香川氏は西庄城へ入城して、元のように安住することになった。一方毛利家の兵将は、香川氏を西庄城に帰還させ、その余勢で阿野南条郡にも勢力を拡大させようと、綾川周辺にも押し出そうとした。これに対して、周辺の地侍達は綾坂に守備陣を敷いた。ちょうど季節は5月の長雨時期で、綾川の水量が増え、川を渡ることが出来ずに双方共に綾川を挟んでのにらみ合いとなった。しかし、500対5000という兵力差はいかんともしがたく、地侍衆は兵を引いて綾坂の上に旗を立て待ち受けた。これに対して、敵(小早川軍)も戦い功者で、川を渡らずに引下がった。
 6月1日に中国の兵衆二百余人を西庄に残して、総軍が三原に帰った。これから香川民部少輔は毛利家の旗下として中国(毛利氏)の傘下となった。備後・三原は海上十里ほどで海路で近い。なにか事あるときには一日の内に報告できる。こうして、香川民部少輔は讃岐中の諸将から一目置かれる存在となった。

ここには次のようなことが記されています。

①将軍義昭が対信長包囲網の一環として、香川民部少輔の讃岐帰還を毛利氏に働きかけた
②その結果、毛利配下の小早川軍5000が
香川民部少輔の西庄城帰還を支援し、実現させた。
③以後、香川民部少輔は毛利・小早川勢力の讃岐拠点として、周囲の武将から一目置かれる存在となった。
この話を読んでいると、元吉(櫛梨城)合戦とストーリーが基本的に一緒な事に気がつきます。考えられる事は、元吉合戦から100年後に書かれた南海通記は、古老達の昔話によって構成された軍記ものです。話が混同・混戦しフェイクな内容として、筆者によって採録され記録されたようです。

香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
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綾氏系図 : 瀬戸の島から
南海通記 
   『南海通記』巻之五157~158には、「讃州浦嶋下知記」「海辺の地下人」についての記述があります。内容は次に続く「応仁合戦記」のプロローグで、応仁の乱のために上洛する大内・河野軍を乗せた輸送船団への対応が次のように記されています。
①前段 応仁元年(1467)5月、細川勝元が御教書を発して讃岐のすべての浦々島々に対し、次のように下知した。

「今度防州凶徒有渡海之聞。富国浦島之諸人。堅守定法。不可為海路之禍。殊至海島之漁人者。召集千本浦。可令安居之也。海邊之頭人等営承知。應仁元年五月日.」
意訳変換しておくと
「今度、防州の凶徒(山名氏)が渡海してくると聞く。当国(讃岐)の浦や島の諸人は従来の定法(廻船定法の規定)を堅く守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよ。特に浦々の漁師達は本浦に集合し、身の安全を守れ。以上を海邊の頭人に連絡指示しておくこと。應仁元年五月日.」
 
 私は何度もこの文書を読み返しました。なぜなら細川氏にとって敵対する防州凶徒(山名氏)が船団で上洛しようとしているのです。ところが「戦闘態勢を整え、一隻も通すな」と命じているのではありません。定法(廻船定法の規定)を守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよというのです。これはどういうことなのでしょうか?
②後段は、伊豫の能島兵部大夫(能島村上氏)からの飛船が讃岐の浦長に、制札を廻し「通船」したと、次のように記されています。

「今度大内家、河野家ノ軍兵、君命二依テ上洛セシムル所也,軍兵甲乙人乱妨ヲ禁止ス、船中雑用ハ債ヲ出テ之ヲ償フ、押買ヲ禁止ス、船頭人役者ノ外、船中ノ人衆上陸ヲ禁止ス、海島諸浦ノ人等宜シク之ヲ知ルヘキ也」
意訳変換しておくと
「今度は大内家と河野家の軍兵が、将軍の命に応じて上洛することになった。そこで軍兵による人乱妨を禁止する。船中雑用なのど費用は、きちんと支払う。押買は禁止する。船頭や役人の以外の乗組員の上陸を禁止する。諸浦の者どもに、以上のことを伝えること。

 その結果、讃岐の「海邊モ騒動セス、通船ノ憂モナ」かった。
「海邊ノ地下人ハ但二財貨ヲ通用シテ何ノ煩労モナシ」と記します。大内氏らの制札を浦々島々に掲げ、瀬戸内海航路を無事に通過出来たようです。これが陸上なら「凶徒」が進軍してきて讃岐を通過して、上洛するなら陣地を固め臨戦態勢に入るように命ずるはずです。ところが、「凶徒を無事通過させよ」と命じています。さらには漁業者を各本浦一所に集めて安全を図れともいっています。これは一体どういうことなのであろうか。
 これに対して著者の香西成資は、軍隊の海上移動は細川方も大内方もどちらも「公儀ノ役」であって、これが「仁政」であると評します。つまり公法を守ることが武士道だと云うのです。南海通記が「道徳書」とされる由縁です。

戦国その1 中国地方の雄。覇者:大内義興、大内義隆の家臣団|鳥見勝成

大内・河野氏の輸送船団が讃岐沖を「無事通過」した当時の情勢を見ておきましょう。
 応仁元年(1467)6月24日には讃岐から細川成之に率いられた香川五郎次郎・安富左京亮が入京しています。(『史料綜覧』)。細川成之は阿波守護で、香川・安富は讃岐両守護代です。阿波の守護が、讃岐の両守護代を率いるという変則的な軍編成です。そのような中で、東軍の細川勝元は次のような指示を出しています。
6月26日 小早川熙平の上京を止め大内政弘に備えさせ、
7月27日 大内軍が和泉堺に至ると聞いて斉藤衛門尉を派遣。
これらの指示を見ると、東軍の細川勝元は、幕府の実権を掌握しながら、西軍の援兵に対しても軍配備を怠りなく行っていることがうかがえます。このときすでに大内軍は、7月27日に摂津兵庫に到着し、その軍勢は、河野軍2千余を加え2~3万とも伝えます(『愛媛県史』)。西軍の大軍をみすみす備讃瀬戸を無傷で通過させたのはどうしてでしょうか。
讃岐塩飽の廻船 廻船式目とタデ場 : 瀬戸の島から

その背景には「定法(廻船之定法)」があったからです。
定法は、廻船式目と呼ばれ海路に交通する廻船の作法で、海上法令を条書きしたものです。これは塩飽にも多く残されていることは以前に紹介しました。定法の成立については諸説があり、写本も数系統あって定義の定まらない日本古来の海上法規集のようです。多くの「定法」類の奥書・巻頭に次のように記されています。

「此外にも船の沙汰於有之者、此三十ヶ條に引合、理を以可有之沙汰者也」

ここからは、海上における訴訟を解決するために長い年月をかけてルール化された条文であることが分かります。廻船式目の条文では、船の貸借関係の条項や借船頭の役割などの規定が多くあります。古来船主と雇いや雇われ船頭とのトラブルが多くあった証拠とも云えます。
回船大法考 住田正一博士・「廻船式目の研究」拾遺( 窪田 宏 ) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
例えば「廻船大法」では、次のような条文があります。

一 船を貸、船頭行先にて公事有之、船を留たる時者、船頭可弁事

船は、航海中は船籍地を離れています。そのため寄港先で公事(臨戦状態で平時の廻船を軍用船にしつらえて軍事的調達・徴用・契約)によって、その土地の武将の船団に組み込まれ時には、借船頭が弁済することで裁量を認めたと、研究者は判断します。
 これを、大内・河野軍の輸送船団編成に当てはめると、2万を超す軍勢を乗せた船団は、配下の船舶だけでは足りず、備讃瀬戸海域の船を徴用や契約による動員(借船)したことが考えられます。そうしないと輸送しきれません。その結果、編成された輸送船団は、塩飽・小豆島など備讃瀬戸などのいろいろな船籍が混在していたことになります。そのために讃岐沖を通過する輸送船団には、地元の船も含まれています。そのため輸送船への攻撃は控えることが慣習法化したと研究者は考えています。そして、島々浦々における用船保護のための相互不可侵が「定法」となります。
この相互不可侵は、②の制札にも関係しています。
前半の、軍船に乗船した軍兵甲乙人らの乱妨狼藉を禁止することや、戦略物資準備のための押し買いを規制することも無用の混乱を起こさないための常套策です。要点は後半の「船頭人役者(船頭以外の「船中人衆」=水主)の上陸を禁上していることです。これは、船のクルーたちの中立性を維持するための制限措置と研究者は考えています。これによって、乗組員たちから船の針路などの情報が漏れるのを防ぎ、浦人らとの連絡を防ぐこともできます。

駿河屋 -<中古><<日本史>> 老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本 (日本史)

応仁元年(1467)から約40前の応永27年(1420)に、李氏朝鮮の日本回礼使を務めた宗希環が京都を往復しています。その
著『老松堂日本行録』(岩波文庫本)に、以下のような文章があります。

可忘家利に泊す(162)此の地は軍賊のいる所にて王令及ばず、統属なき故に護送船もまたなし。・・其の地に東西の海賊あり。東より来る船は、東賊一人を載せ来れば、即ち西賊害せず。西より来る船は、西賊一人を載せ来れば、即ち東賊害せず。・・・」
(可忘家利は、現広島県安芸郡蒲刈町)

また、銭七貫を代価に東賊を一人雇ったことで、希環ら回礼使たちは無事に瀬戸内海を通過でき帰国しています。ここでも海上勢力(海賊)の海上における相互不可侵の慣行があったことがうかがえます。戦国時代も下っていくうちに、例えば海賊とも呼ばれた海上勢力も、信長・秀吉などの海軍として組み込まれ従属化していくことは、以前にお話ししました。それ以前の塩飽衆や村上氏などの海上勢力(平時の廻船業又は交易集団)は、戦時には周囲の戦国大名である毛利・小早川・大友らの武将と、その時々の条件で随意に与力して活動しています。こうした一見日和見的な海上勢力の動向も船籍船舶の現在位置や配船の状況又は借船の都合・調達の結果などからも左右されていたものと研究者は考えています。
  以前をまとめておきます
①船舶が移動先で「公事(徴用・契約)」された場合が、船頭の責任で運用管理された。
②大軍の海上輸送には多数の船舶が「公事」され輸送船団として組織された。
③そのため輸送船団を襲撃すると云うことは、仲間の船を襲う可能性があった。
④そこで、戦時下においては輸送船襲撃はしないという慣習法ができ、それが「定法」となった。
⑤そのため応仁の乱で、大内・河野軍を載せた輸送船団が備讃瀬戸を通過する際にも、守護細川氏は、襲撃命令を出さなかった。
⑥17世紀後半に成立した南海通記では、これを「武士道」の手本として賞賛している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
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                牟礼町の神櫛王墓
前回に続いて牟礼町文化財協会総会で、お話ししたことをアップします。牟礼の神櫛王墓です。私は宮内庁管理の王墓が、白峰寺の崇徳上皇陵以外にあるのを、10年前までは知りませんでした。どうして、牟礼に神櫛王の王墓があるのかが気になって調べてみると出会ったのが「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号」です。今からお話しすることは、この論文を参考にしています。
讃岐府史の神櫛王記述
17世紀後半の讃岐府史 神櫛王についての記述は赤色のみ
江戸時代の初め頃、元禄年間に神櫛王については、どんなことが書かれていたのか見ておきます。讃岐府史は17世紀後半、初代の高松藩主松平頼重の時代に刊行された所で、讃岐の人物や陵墓などが記されています。神櫛王については「讃岐国造の祖、景行天皇の孫」だけです。押さえおきたいのは、この時点では、古代の紀記の内容と変化はないことです。陵墓についても何も書かれていません。それでは神櫛王が、東讃に定住したと最初に書いたのは誰なのでしょうか?

1櫛梨神社3233
神櫛王伝説は綾氏系図から分かれて、15世紀初頭に成立した宥範縁起に取り込まれていることが近年に分かってきました。宥範は琴平の櫛梨出身で、高松の無量寿院で学び、全国各地で修行を重ね、中世善通寺中興の祖とされる高僧です。そこに神櫛王伝説がとりこまれていきます。そこでは、上表のように凱旋地などが坂出福江から高松の無量寿院周辺に書き換えられていきます。つまり、神櫛王が高松周辺に定住したという物語になります。これを受けて「神櫛王=高松周辺定住説」が拡がるようになります。

南海治乱記と南海通記

この普及に大きな役割を果たしたのが香西成資(しげすけ)です。
彼は滅亡した一族の香西氏の顕彰のために南海治乱記を記します。その増補版が南海通記になります。彼は後に軍学者として黒田藩に招かれ大きな邸宅を与えられます。この2冊が発刊され人々の目に留まるようになるのは18世紀になってからです。『南海治乱記』は、神櫛王ついて何も触れられていません。神櫛王は、南海治乱記の増補版である南海通記に次のように登場します。

 南海通記の神櫛王記述
 南海通記の神櫛王記述

何があたらしく加えのか押さえておきます。
南海通記の神櫛王記述追加分

ここには①神櫛王が屋島浦で政務を執った ②神内・三谷・十河の三家は神櫛王の子孫であることがあらたに加えられています。南海通記は、軍記ものとしても面白く、読み継がれていきます。そして讃岐の戦国時代を語る際の定番となります。戦後に作られた市町村史も中世戦国時代については、この南海通記に基づいてかかれているものが多いようです。南海通記に記されることで、神櫛王=東讃定住説の知名度はぐーんと上がります。この時点では、神櫛王=鵜足郡定住説と屋島説の2つの説が競合するようになります。しかし、その墓については何も触れていません。

それでは神櫛王が屋島に定住したという根拠はなんなのでしょうか。
南海通記の神櫛王東讃定住根拠

①最初に見たように、日本書紀に神櫛王が讃岐に定住し、最初の国造となったこと
②続日本記に讃岐氏が国造であったと主張していること、そうならば讃岐の国造の始祖は神櫛王であるので、讃岐公は神櫛王の子孫であること
③その子孫が武士団化しのが神内・三谷・十河の三氏であること。神櫛王は東讃に定住し、その子孫を拡げ、その子孫が実際にいるという運びです。
これは筋書きとしては、無理があるようです。しかし、考証学や史料検討方法が確立するまでは、それが事実かどうかチェックのしようがありませんでした。イッタモン・書いた者の勝ちというのが実態でした。南海通記でプラスされた2つの内容が事実として後世に伝えられることになります。南海通記はベストセラーだけに後世への影響力が大きかったのです。

そして18世紀後半になると神櫛王の王墓が牟礼にあるする本が現れます。
三代物語の神櫛王
三代物語の神櫛王記述
①この本は増田休竟によって、南海通記公刊から約半世紀後に書かれた地誌です。②内容は郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。③彼の家は祖母・祖父・自分・兄と三代が、見聞してきた記録を残していました。そのうち重要なものを数百件集めて三巻となしたと巻頭に書かれています。ただこの本は、それまでの書物に書かれていなかったことが既成事実のように突然に紛れ込んできます。例えば、「実は崇徳上皇は暗殺された」という崇徳上皇暗殺説」などが始めて登場するのもこの本です。そのため取扱に注意が必要な資料と研究者は考えています。その中で神櫛王墓に関する記載を見ておきましょう。三木郡の所で次のように記されています。

三代物語の神櫛墓記述

①王墓牟礼にあり 
②神櫛王が山田郡高松郷(古高松)に住んだ
③そこで亡くなったので王墓に葬ったので王墓がある
と記されています。そして小さな文字で注記があります。拡大して見ると「青墓・大墓」とも呼ばれるが、もともとは王墓で、それが青墓に転じたとわざわざ説明しています。つまり、牟礼の共同墓地である青墓が、王墓であるというのです。視点を変えて逆読みすると、当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。さらに追加して、この書では青墓が神櫛王の王墓とします。
 王墓が青墓だったことは、現在は松井谷墓地に移されたお地蔵さんからも裏付けられます。
 このお地蔵さんに会いに行ってきました。
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牟礼町松井谷墓地の六地蔵
石匠の里公園の近くにある松井谷墓地の上側の駐車場の手間に六地蔵が並んでいます。その奥に佇んでいるのが青墓(現神櫛王墓)にあった地蔵さまのようです。近づいてみます。P1240501
神櫛王墓にあった青墓地蔵
背面を見てみます。
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青墓地蔵背面
願主同村最勝寺堅周」は読み取れますが、後はよく分かりません。史料によると次のように刻まれているようです。
青墓の地蔵さま
青墓地蔵背面の文章
宝永2年とありますので今から約320年あまり前に、牟礼村の人々が「青墓地蔵尊」を奉納した。願主は最勝寺堅周だったと記されています。ここからは現在の王墓が、300年ほど前は村民の墓地だったことが裏付けられます。この青墓地蔵さん以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机も地蔵さんの手前にあります。以上から神櫛王王墓は、江戸時代には共同墓地で、青墓と呼ばれていたことを押さえておきます。

さらに60年ほど時代が進んだ19世紀始めに書かれた全讃史を見ておきましょう。
全讃史の神櫛王


①仲山城山(じょうざん)が書いた全讃史です。15冊にもなる大冊です②この中には神櫛王について、屋島に舘を構えた、これが牟礼だとします。③陵墓については牟礼の王墓とします。ここまでは出版された書物に学び、そこに書かれていることを継承しています。そして、さらに新しい説を加えていきます。彼が注目したのは青墓に並ぶ石造物の中の二つの立石でした。それを見てみましょう。

三代物語の神櫛王墓2
仲山城山の神櫛王墓の立石図

このころになると個人の墓石が死後に立てられるようになります。青墓にも19世紀になると立石の墓石が立てられるようになったようです。その中でも大きくて目立つ立石が2つありました。それに中山城山は注目します。そして二つの立石の図を載せています。よく見るとこの立石には星座が刻み込まれています。修験者の愛宕大明神信仰によくみられるものです。牟礼は五剣山のお膝元です。五剣山は修験者や山伏にとって聖地で、全国から多くの修験者たちがやっきて修行し、中には定住するものも出てきます。その中には、ここにとどまり八栗寺の子院を形成し、周辺の村々への布教活動を行うものもいたはずです。それは、志度寺や白峰寺、三豊の八栗寺と同じです。この立石も修験者の活動の痕跡と研究者は考えています。
 さて図を見ると「王墓 牟礼村にあり」とあります。そして①大王墓 高さ五尺7寸 北面 神櫛王墓」、②北極星が描かれた小さい方が「小王墓、その孫(すめほれのみこと)の墓」と記します。
全讃史の神櫛王記述を整理して起きます。
三代物語の神櫛王墓認識


最後に江戸時代における神櫛王墓記述の到達点を見ておきましょう。幕末になると絵図が入った「名勝図会」というのが、全国各地で作られるようになります。讃岐では嘉永六年(1853)に全一五巻の讃岐国名勝図会が出されます。巻三に三木郡牟礼村の項があります。絵図では五剣山と八栗寺がセットで描かれています。
讃岐国名勝図会の牟礼
五剣山と八栗寺(讃岐国名勝図会)
その中に神櫛王の王墓について次のように記されます。
讃岐国名勝図会の神櫛王墓

讃岐国名勝図会の記述内容は、今までに見てきた神櫛王の記述の総決算・完成形のような内容になっています。①前半部分は『三代物語」を下敷きに、山田郡に大墓があるとされます。②そして後半部は、神櫛王が景行天皇の皇子で、母はいかわひめで、讃岐国造と記されます。これは日本書紀の記述に立ち戻っています。そして、ふたつある墓うちのひとつは、武鼓王(たけかいこう)としている点がこの書の独自性のようです。讃岐国名勝図会の作者が、先行する地誌や歴史書を参考にしながらこれを書いたことがうかがえます。こうして、幕末には「神櫛王墓=牟礼説」が定着し、王墓は牟礼にあるというのが、世間では一般的になっていきます。そして、神櫛王墓=坂出説を凌駕するようになっていたことを押さえておきます。
 それでは、共同墓地だった青墓は、いつどのようにして陵墓へと改修整理されたのでしょうか。それは、明治維新を迎える中で起こった高松藩の危機が背景にあったようです。それはまた次回に・・

神櫛王墓整備後
青墓改修後の神櫛王墓の絵図(牟礼町史より)

 参考文献
  「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

南海通記: 史料叢書- NDL Digital Collections

讃岐出身の軍学者香西成資が寛文三年(1663)に著したのが『南海治乱記』で、その増補版が『南海通記』です。この両書には、次のような事が記されていたのを前回は見ました。
①(香西)資村が、香西氏の始祖であること。
②資村は、承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
しかし、資村については、史料的には確認できない人物です。香西氏の中で史料的に確認できるのは、14世紀南北朝時代の、香西彦三郎や香西彦九郎ですが、彼らは南海通記などには登場しないことなどを見てきました。以上からは、戦国時代に滅亡した香西氏には、それまでの文書や系譜が失われていたことが考えられます。軍学者香西成資は、手元に史料の無い状態で南海通記を書いたことが考えられます。

 南海通記には15世紀になると香西氏には、在京する一族と、讃岐に在住する一族の上下の香西氏が生まれたと記します。今回はこの、上香西氏と下香西氏について見ていくことにします。テキストは、 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です

南海治乱記巻之三 植松四郎射芸記
明応年中に、(中略)香西備後守①元資一子備中守②元直在京す。故に上香西と云ふ。次子左近将監③元綱、讃州に在住す。故に下香西と云ふ也。備中守元直か子又六郎元継、後又備中守と号する也。

意訳変換しておくと
明応年中(1492~1501)に、(中略)香西備後守①元資の子である備中守②元直は在京していた。そのため上香西と呼ばれた。次子の左近将監元綱は、讃岐にいたので下香西と云う。備中守元直の子又六郎元継も、後に備中守と称する。

香西氏系図 南海通記
香西氏系図(南海通記)
『南海通記』巻之廿上 上香西・下香西伝
文明九年(1477)二至テ両陣ノ諸将時ノ和談ヲナシ、各下国シ京中ノ陣跡、径卜成ル。其時讃州ノ四臣モ子弟ヲ京都二残テ、管領家ヲ守ラシメ、各下国有り。是二依テ上香西・下香西ノ別有り。
 応仁年中(1467―69)二香西備後守元資、長子備中守元直二丹波ノ采地ヲ譲テ管領家ヲ守シメ、京都二在住セシム。此氏族ヲ上香西卜云。同元資ノニ子左近将監元顕、讃州本領ヲ譲テ、是ヲ下香西卜云。元顕ノ長子豊前守元清、長子越後守元成、元成長子駿河守元載、元載ノ長子伊賀守佳清、是五代也。
     意訳変換しておくと
文明九年(1477)になって両陣の諸将は交渉して和議を結んだ。各軍勢は国に帰り、京中の陣跡は道になった。この時に讃州の細川家の四家臣は、管領細川家を守るために子弟を京都に残して、讃岐に帰った。こうして香西家は上香西・下香西に分かれることになった。
 応仁の乱(1467―69)の戦乱の中で、香西備後守①元資とその長子備中守②元直は丹波に領地を得て、管領家を守って、京都に在住した。この一族を上香西という。元資の子左近将監③元顕は、讃州本領を譲ったので、これを下香西という。元顕の長子豊前守④元清、長子越後守⑤元成、元成長子である駿河守元載、元載の長子伊賀守佳清の五代になる。

『南海通記』巻之二 讃州藤家記
元資 細川勝元、賜諄之一字 備後守法名宗善 加賜摂州渡辺・河州所々之釆地。

意訳変換しておくと
元資は、細川勝元から一字をいただいた名前である。備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得た。

  このように『南海治乱記』・『南海通記』などは、讃岐国外での①元資以後の香西氏の活動を詳細に記します。
以上の資料から元資について拾い出すと次のようになります。
①香西氏の中で、上洛して活躍する最初の人物は香西元資であること。
②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと
③香西元資の長子元直と、その子孫は在京して上香西と呼ばれたこと、
④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直とすること
⑤次子元綱(元顕)は讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれたこと。

しかし、これも残された史料とかみ合いません。香西元資について残された史料と照らし合わせてみましょう。
 10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 

以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  父と思われる香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。それを元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、元資が丹波守護代の役目を果たしている姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、丹波守護代であったことが確認できます。ところが南海通記は「②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記し、丹波守護代については何も触れません。
南海通記は、資料14の元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直」とするのです。これについて「丹波守護代を罷免されたことを不名誉なこととして、南海通記の作者は触れなかった」という意見もあるようです。しかし、作者が、元資についての正確な資料を手元に持っていなかったと考えた方がよさそうです。

 南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。

意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。

 ここからは細川勝元の支配は、讃岐出身の「四天王」の軍事力と政治力に支えられていたことがうかがえます。
細川勝元(ほそかわ・かつもと)とは? 意味や使い方 - コトバンク
細川勝元 「讃岐の四天王」に支えられた
『南海通記』は「四天王」の領地とその由来について、次のように記します。
各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、
那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、
  安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、
意訳変換しておくと
「四天王」はそれぞれ讃州で領地を次のように賜っていた。西讃岐多度、三野、豊田三郡は詫間氏の領地。詫間氏が滅亡して後には、細川頼之は、ここに香川氏を入れた。那珂、鵜足の二郡は藤橘両党の所有であった。そこに近年、細川家の馬廻武士である奈良太郎左衛門尉を入れて、郡旗頭とした。奈良氏は本領は畿内にあるが、その子弟を派遣して鵜足津(宇多津聖通寺)城に配置している。綾の南條と北條、香東、香西の四郡は、香西氏が代々領する。三木郡は三木氏滅亡後は領主不在となったので安富筑前守を入れた。香川、安富、奈良は、東國出身の御家人で、細川家に従って讃岐にやってきて、恩地を得て居住するようになった武士達である。それがいつ頃の来讃になるのかはよく分からない。
 一方、香西氏ハ讃岐出身である。建武二年に細川定禪が讃岐にやってきて、足利家のために兵を集めたときに、詫間・香西はこれに応じて武功を立てて、四天王の一員として用いられるようになった。その嫡子四人とは香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔である。この四人は在京して、管領家を補佐し、畿内に領地を得るようになった。
 その他にも讃岐の郡司は、大内、寒川二郡は寒川氏が代々領する。山田郡十二郷は、三谷、神内、十河などを旗頭として、植田氏が代々領する。細川管領家は、多くの國を支配するが、その中でも讃岐は「根ノ國」とされた。
 ここには細川管領家における讃岐の戦略的な重要性と、各武将の勢力配置が記されています。それを整理すると次のようになります。
香川氏(天霧城)… 多度郡、三野郡、豊田郡
奈良氏(聖通寺城)… 那珂郡、鵜足郡
香西氏(勝賀城)… 阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)
安富氏(雨滝城)… 三木郡
寒川氏(昼寝城)… 寒川郡、大内郡
植田氏(戸田城)… 山田郡
戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
讃岐・阿波の武将勢力分布図

この中で、香川氏・安富氏・奈良氏は、細川氏に従って関東から讃岐へと移住した御家人で、それ以外の香西氏以下は讃岐土着の武士(国人)になります。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
 讃岐に関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の存在が大きいようです。その中で香西氏は、細川頼之の配下に入り、讃岐の国衆の中で戦功を認められたようです。
  足利顕氏が讃岐守護のときには、讃岐の守護代は桑原左衛門五郎常重、桑島十郎左衛門長範(又守護代は井戸二郎兵衛入道)、粟嶋八郎某、月成(秋月)太郎兵衛尉盛国と頻繁に交代します。この交代理由は、「守護代の勢力増大を防止しようとする意図が強かった」からと研究者は考えています。
 細川氏の人材登用策は、最初は讃岐以外から連れてきた主立った武士団の棟梁を守護代などにつけます。
しかし、明徳・応永年間以降になると、細川氏は清氏系が没落し、顕氏系に代わって頼之系へと勢力交代します。すると、讃岐などで頼之の分国経営に奉仕し、その権力機構に組み込まれた讃岐や阿波の国人の中からも内衆として登用されるものが出てきます。そのチャンスを香西氏はものにしたようです。
内衆として入り込んだ時の棟梁が、香西入道(常建)です。
香西入道(常建)は、香西元資料の近親者(父か兄)にあたることは、前回にお話しした通りです。香西入道(常建)の資料を再度見ておきましょう。
 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。(「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
  1422年6月8日条
「細河右京大夫内者香西(常建)今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」

ここからは、丹波守護代であった常建が61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家で、一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことになります。

 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。その中には香西氏の名はありません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
そして、その子か弟が香西元資になります。

以上をまとめておくと
①南北朝時代に白峰合戦に勝利した細川頼之は、讃岐の支配権を握り論功行賞を行った
②その際に、守護代などに地元讃岐出身の国人武将は登用せずに、外部から連れてきた香川氏や安富氏を配置し、聖通寺城には奈良氏を置いた。
③こうした中で讃岐国衆であった香西氏は、遅れて細川管領家の内衆に加えられた。
④その始まりとなるのが15世紀前半に丹波守護代を務めた香西入道(常建)である。
⑤香西入道(常建)の近親者が香西元資であり、彼も丹波守護代を務めていたが失政で罷免された。
⑥南海通記では、香西元資を「細川四天王」の一員とし、讃岐国人の中から唯一内衆として活躍したのが香西氏であると記す。
⑦元資以後の香西氏は、在京する上香西氏と、讃岐在住の下香西氏の二つに分かれたと南海通記は記す。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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南海通記と南海治乱記

『南海治乱記』巻之十七 老父夜話記には、香西氏の家伝証文が焼失したことについて次のように記します。

又語て曰、天正十三年(1585)五月廿日、香西の城を去て西長尾の城に赴くとき、勝賀山の城に在つる香西家数世の證文・家宝等、根香寺の仏殿に入れて去る。盗賊来て寺内の物を取て仏殿の物を取んとすれとも錠を下して不明。住僧も強盗の難を恐れて下山し山中に人なし。盗賊仏殿に火を放て去る。此時香西家の證文等焼亡す。

意訳変換しておくと
老父が夜半話に次のように語った。天正十三年(1585)五月20日、(長宗我部退却時に)香西の城を出て西長尾城(まんのう町)に赴くとき、勝賀山の城にあった香西家数世の證文・家宝などを、根香寺の仏殿に入れて去った。それを知った盗賊が来襲して寺内の物を取て、仏殿の物もとろうとしたが錠がかかっていて入れなかった。しかし、住僧も強盗の難を恐れて下山して、山中に人はいない。盗賊は仏殿に火を放て去った。この時に香西家の證文などはみな焼亡した。

戦国末期に香西氏の中世史料は失われたようです。香西氏の歴史については後に書かれた近世の編さん物から見ていくしかないようです。今回は、近世史料に香西氏がどのように書かれているのかを見ていくことにします。
香西氏の氏祖は香西資村
香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 翁嫗夜話 巻之一

『翁嫗夜話』巻之一増田休意著。延享二年(1745)成立。
新居藤大夫 香西三郎信資 ー 新居藤大夫資光 ー 香西左近将監資村(三男)
(香西)藤二郎資村、承久の乱に関東に忠あり。鎌倉の命を以って、香川郡の守に補し、左近将監に任ず。香西郡葛西郷勝賀山に城きておる。藤氏以って栄となす。綾藤氏族六十三家、資村これが統領となる。
  意訳変換しておくと
 (香西)藤二郎資村は、13世紀初頭の承久の乱の際に、鎌倉方についた。そのため論功として、鎌倉幕府から香川郡守に補任され、左近将監の位階を得た。そして、香西郡葛西郷勝賀山に城を築いた。こうして讃岐藤氏は栄えるようになり、香西資村はその綾藤氏族六十三家の統領になった。

18世紀のこの書には、次のような事が記されています。
①(香西)資村が13世紀前半の人物であったこと
②承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
③古代綾氏の流れをくむ讃岐藤原氏の統領となったこと

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記(香川県立図書館デジタルライブラリー)

「香西記」‐ 新居直矩著。寛政四年(1792)成立。
「阿野南北香河東西濫腸井香西地勢記 名所旧透附録」
○其第二を、勝賀山と云。勝れて高く美しき山也。
一、伝来曰、此山峰、香西氏数世要城の城也。天正中城模敗績して、掻上たる土手のみ残りて荒けり。此東麓佐料城跡は、四方の堀残りて田畠となれり。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社有。香西氏祖資村始て祀所也。
  意訳変換しておくと
「阿野(郡)南北香河(川)東西濫腸と香西の地勢記 名所旧透附録」
○その第二の山を、勝賀山と呼ぶ。誉れ高く美しい山である。
一、その伝来には次のように伝える。この山峰は、香西氏の数世代にわたる要城の城であった。天正年間に廃城になり、今は土手だけが残って荒れ果てている。東麓にある佐料城跡には、四方の堀跡が残って田畠となっている。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社がある。これは香西氏祖資村の創建とされている。
香西記

香西記には、次のような情報が含まれています。
①勝賀城跡には18世紀末には土手だけが残っていたこと
②佐料城跡には堀跡が田畑として残っていたこと
③佐料城跡のの東隣の伊勢大神宮社が、香西氏祖資村の創建とされていたこと
藤尾城(香川県高松市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー
藤尾城跡の藤尾八幡 

  「讃陽香西藤尾八幡宮来由記」
抑営祠藤尾八幡宮者、天皇八十五代後堀河院御宇嘉禄年中(1325―27)、阿野・香河之領主讃藤氏香西左近持監資村力之所奉篤勧請之霊祠也実。

意訳変換しておくと
藤尾八幡宮は八十五代後堀河院の御宇嘉禄年中(1325―27)に、阿野・香川郡の領主であった讃藤氏香西左近持監資村が勧請した霊祠である。

ここには藤尾八幡社が14世紀前半に、「阿野・香川郡の領主」であった香西資村が勧請したことが記されています。

つぎに近世に作られた系図を見ておきましょう。
17世紀後半に成立した玉藻集に載せられている香西氏の系図です
香西氏の系図
香西氏系図(玉藻集)
A①資村の父②信資の養子とされています。
B資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C資村の祖祖父にあたる⑤資高は羽床嫡流とあり、讃岐藤原氏の統領3代目とされる人物です。③資光は羽床氏出身であることが分かります。
D資村の祖祖祖父にあたる⑥章隆が、国司であった藤原家成と綾氏の間に生まれた人物で、讃岐藤氏の始祖にあたる人物です
  この系図だけを見ると香西氏は、国司藤原家斉の流れを引く讃岐藤原氏の一族で、棟梁家の羽床氏から新居氏を経て派生してきたことになります。

「讚州藤家香西氏略系譜」を見ておきましょう。

香西氏系図4
讚州藤家香西氏略系譜

資村については、次のように記されています。
新居次郎 後号香西左近将監。承久年中之兵乱、候于関東。信資資村被恩賜阿野・香河二郡。入于香西佐料城也。本城勝賀山。」

最初に見た『翁嫗夜話』の内容が踏襲されています。
A 資村には「新居次郎」とあり、後「香西左近将監」を名のるようになったと記します。さきほどの系図には「信資養子」とありました。①資村は、新池から②信資のもとに養子に入ったのでしょうか。伯父の③資幸は「福家始祖」とあります。
B 資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C しかし、ここで気づくのは先ほどの系図にあった羽床家の重光の名前がみえません。この系図では重光が飛ばされているようです。以下は玉藻集系図とおなじです。

最後に綾氏系図を見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
               綾氏系図

綾氏系図では⑤資高の子ども達が次のよう記されています。彼らは兄弟だったことになります。
羽床家棟梁の重高
新居家始祖・④資幸
香西家始祖・②信資
   資村が最初は「新居次郎」で、後「香西左近将監」を名のるようになったこと、「信資養子」とあることからは、①資村は、新居家から②信資のもとに養子に入ったことが考えられます。

しかし、ここで問題になるのは前回にもお話ししたように「香西資村」という人物は史料的には出てこないことです。近世になって書かれた系図や戦記物と根本史料が合わないのです。前回見たように香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期の次の史料です。

1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。

  以上、近世になってから書かれた香西氏に関する史料や系図をみてきました。しかし、そこには戦国末期に香西氏が滅亡したためにそれ以前の史料が散逸していたこと、そのために近世になって書かれた香西氏に関するものは、史料にもとづくものではないので、残された史料とは合致しないことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       田中健二  中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

  香西氏については、戦国末期に惣領家が没落したために確かな系譜が分からなくなっています。
百年以上後に、一族の顕彰のために編纂されたのが『南海通記』です。
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南海通記
そこには香西氏は応仁の乱後には、在京した上香西と在国した下香西とに分かれたと記します。ところが、南海通記に出てくる香西氏歴代の名は、確かな古文書・古記録出てくる名前と、ほとんど一致しません。それは残された系図も同じです。
香西氏系図
香西氏系図(玉藻集1677年)

「南海通記」は百年後に書かれた軍記もので、根本史料とはできないものです。しかし、頼るべき史料がないので近代になって書かれた讃岐郷土史や、戦後の市町村史は「南海通記」を史料批判することなく、そのまま引用して「物語郷土史」としているものが多いようです。そのため南海通記の編纂意図の一つである「香西氏顕彰」が全面に押し出されます。その結果、戦国史では長宗我部侵攻に対する「讃岐国衆の郷土防衛戦」的な様相を呈してきます。そこでは侵攻者の長宗我部元親は、悪役として描かれることになります。

 そのような中で、高瀬町史などで秋山文書や毛利文書など根本史料との摺り合わせが進むと、『南海通記』の不正確さが明らかになってきました。阿波勢の天霧城攻撃や元吉城攻防戦も、「南海通記」の記述は誤りでありとされ、新たな視点から語られるようになってきました。そのような中で求められているのが、一次資料に基づく精密な香西氏の年譜です。そんな中で南海通記に依らない香西氏の年譜作成を行った論文に出会いましたので紹介しておきます。
 テキストは、「香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年」です。これは、1987年度に香川大学へ提出したある生徒の卒業論文「室町・戦国初期における讃岐国人香西氏について」の作成のために収集・整理した史料カードをもとに、指導教官であった田中健二がまとめたものです。この作業の中では、『南海通記』や「綾氏系図」等の後世の編纂物の記事は、排除されています。どんな作業が行われ、どんな結果になったのでしょうか。見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏系図   

古代豪族の綾氏が武士団化して、讃岐藤原氏に「変身」します。
これについては以前にお話ししましたので省略します。讃岐藤原氏は総領家の羽床氏の下に、大野氏・新居氏・綾部氏が別れ、その後に香西氏が登場すると南海通記は記します。それを系図化したものが上のものです。この系図と照らし合わせながら香西氏年譜の史料をみていきます。

史料で香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期に活動する香西彦三郎です。
1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。
讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg
綾氏系図 史料に出てくる人名と合わない

例えばウキには南海通記を下敷きにして、香西氏のことが次のように記されています。

① 平安時代末期、讃岐藤原氏二代目・藤原資高が地名をとって羽床氏を称し、三男・重高が羽床氏を継いだ。次男・有高は大野氏、四男・資光は新居氏を称した。資高の子の中でも資光は、 治承7年(1183年)の備中国水島の戦いで活躍し、寿永4年(1185年)の屋島の戦いでは、源義経の陣に加わって戦功を挙げ、源頼朝から感状を受けて阿野郡(綾郡)を安堵された。

鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西氏」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の傘下に入った。

しかし、南北朝以前の史料の中には「香西」という武士団は出てこないことを押さえておきます。また承久の乱で活躍した新居資村が香西氏に改名したことも史料からは裏付けることはできません。

香西氏系図3
           讃州藤家香西氏略系譜
次に史料的に登場するのは、丹波の守護代として活動する香西入道(常建)です。彼の史料は以下の通りです。

4 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

5 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。
 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
6 同年12月8日
 管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓澄寺(白峰寺)へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。(「白峯寺文書」『大日本史料』第七編之二十、434P)

7 応永23年(1416)8月23日
  丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十五、30P)
8 応永27年(1420)4月19日
丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。(「天竜寺重書目録」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

9 応永29年(1422)6月8日
 細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」  (「康富記」『増補史料大成』本、1巻176P)
意訳変換しておくと
 聞き及ぶ。細河右京大夫内者 香西今日死去すと云々。丹波国守護代なり。六十一と云々。

以上が香西常建の史料です。
資料9で死去した香西氏とは資料7から香西入道と呼ばれていた常建であったことが分かります。資料5で即位段銭の催促停止するよう命じられている香西豊前入道も常建のようです。常建は、資料6では、細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に列席し、白峯寺所蔵の松山百首和歌に二首が載せられています。このとき、常建とともに一首を詠んでいる元資が、のちに丹波守護代として名の見える香西豊前守元資になるようです。両者は、親子が兄弟など近親者であったと研究者は考えています。
 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。しかし、その中には香西氏はいません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、どうして畿内で活動するようになったのでしょうか。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
そのきっかけとなったのが、香西常建が細川頼之に仕えるようになったからのようです。細川頼之は、観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しました。その際に京都の政争で失脚して南朝方に降り、阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐します。この結果、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。そして細川家は頼之の後は、本宗家と阿波守護家に分かれます。
家系図で解説!細川晴元は細川藤孝や三好長慶とどんな関係? - 日本の白歴史

①本宗家 
頼元が継いだ本宗家は「右京大夫」を継承して「京兆家」  京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承

②庶流家 
詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」は和泉、淡路、阿波、備中の各国を継承

阿波守護家が「讃州家」とよばれるのがややこしいところです。

細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之です。
香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕えます。細川氏が1392(明徳3)年に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国だった丹波の守護職を獲得すると、1414(応永21)年には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。
香西氏 丹波守護代
丹後の守護と守護代一覧表(1414年に香西常建が見える)
1422年6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたのです。
 ここで注意しておきたいのは、細川氏は管領職のために在京しています。そのため細川家の各国の守護代達も、同じように在京し、周辺に集住していたということです。香西氏が実際に丹後に屋形を構えて、一族が出向いていたのではないようです。
次に登場してくるのが常建の近親者と考えられる香西豊前守元資です。
10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 
以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、守護代の役目を果たしている常建の姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、守護代であったことが確認できます。
そして資料14の丹波守罷免記事です。
細川満元のあと丹波守護となっていた子の持之は、醍醐寺三宝院の満済を介して、将軍足利義教に丹波守護代交代の件を願い出ています。『満済准后日記』当日条を見ておきましょう。

右京大夫(持之)来臨す。丹波守護代、内藤備前人道たるべきか。時宜に任すべき由申し入るなり。(中略)右京大夫申す、丹波守護代事申し入るる処、この守護代香西政道以っての外正体なき間、切諫すべき由仰せられおわんぬ。かくのごとき厳密沙汰もっとも御本意と云々。しかりといえども内藤治定篇いまだ仰せ出だされざるなり。

意訳変換しておくと
右京大夫(細川持之)が将軍義教を訪ねてやってきた。その協議内容は丹波守護代を、香西氏から内藤備前人道に交代させるとのことだった。(中略)それに対して将軍義教は香西氏は「もってのほかの人物で、失政を責め、処罰するよう命ずるべきとの考えを伝えた。このため守護代の交代については承認しなかった。
しかし、翌年5月には、香西政道に代わって内藤備前入道が丹波国雀部庄と桑田神戸田について遵行状を出しています。ここからは、守護代が香西氏から内藤氏への交代したことが分かります。香西氏罷免の原因は、永享元年の丹波国一揆を招いた原因が元資にあったと責任を取らされたと研究者は考えています。ここでは、香西元資は失政のために丹波守護代を罷免されたことを押さえておきます。

南海通記は「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介します。
しかし、その父の常建については何も触れません。元資が丹波守護代であったことも記されていません。その理由について、「常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないか」とする説もあります。
 南海通記に、最初に出てくるのは香西氏は香西元資からです。そして丹波守護代であった彼を、「備後守」と誤記します。ここからも南海通記は基本的情報が不正確なことが多いようです。通記の著者には、香西元資以前のことを知る資料は、手元にはなかったことがうかがえます。
この時期には、讃岐でも別の香西氏が活動していたことが次のような資料からうかがえます。
15 1431年9月6日
香西豊前入道常慶、清水坂神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折檻の間、旁以て御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。 
16 嘉吉元年(1441)10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父死去する。(「仁尾賀茂神社文書」県史116P

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)


資料16からは「香西豊前の父」が死去したことが分かります。この人物が資料15に登場する常慶だと研究者は判断します。香西氏のうち、讃岐系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。この系統の香西氏は、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。時期からみてこの香西豊前入道は、仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
 また資料16からは、当時の仁尾浦代官は香西豊前常慶であったこと、そして父も浦代官として、仁尾の支配を任されていたことが分かります。以前にお話ししたように、細川氏の備讃瀬戸制海権確保のために、塩飽と仁尾の水軍や廻船の指揮権を香西氏が握っていたことが裏付けられます。17は、それに対して仁尾浦の神人達の自立の動きであり、その背後には西讃守護代の香川氏が介入がうかがえます。
   以上からは、15世紀に香西氏には次の二つの流れがあったことを押さえておきます。
①丹波守護代として活動していた豊前守(元資)
②讃岐在住で、仁尾の浦代官など細川氏の瀬戸内海戦略を支える香西氏
以上をまとめておくと
①香西氏が史料に登場するのは南北朝時代に入ってからで、守護細川顕氏に従った香西彦三郎が、建武4 年(1337)に財田凶徒の蜂起鎮圧を命じられているのが初見であること
②観応の擾乱期には、四国での忠節を足利義詮から賞されていること
③その後、香川郡坂田郷の代官を務め、阿野郡陶保・南条山西分の代官職を請け負っていること。
④さらに香西浦を管理するとともに、細川氏の御料所仁尾浦の代官を務めるなど、細川氏の瀬戸内海航路の制海権支配の一翼を担っていたこ
⑤15世紀前半には、細川京兆家分国の1つである丹波国の守護代を務めていたこと
しかし、南海通記には香西氏の祖先が登場するのは、⑤以後で、それ以前のことについては江戸時代には分からなくなっていたことがうかがえます。

今回はここまでにします。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年
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守護細川氏の下で讃岐西方守護代を務めた多度津の香川氏については、分からないことがたくさんあるようです。20世紀末までの讃岐の歴史書や市町村史は軍記物の「南海通記」に従って、香川氏のことが記されてきました。しかし、高瀬の秋山文書などの研究を通じて、秋山氏が香川氏の下に被官として組み込まれていく過程が分かるようになりました。同時に、香川氏をめぐる謎にも迫れるようになってきたようです。今回は、秋山家文書から見えてきた香川氏の系譜について見ていくことにします。テキストは、「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

香川氏の来讃について見ておきましょう。
  ①『全讃史』では
香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年の白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとします。以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(長曽我部元親の子)」と記します。この系譜は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の流れだとします。
  ②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれだと云います。
細川氏に仕えた刑部大輔景則が安芸から分かれて多度津の地を得て、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。
  ③『善通寺市史』は、
相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などの史料から、景則は嫡流とは認め難いとします。その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。これが現在では、妥当な線のようです。しかし、家伝などはなく根本史料には欠けます。史料のなさが香川氏を「謎の武士団」としてきたようです。

   以上のように香川氏の系譜については、さまざまな説があり『全讃史』『西讃府志』の系図も異同が多いようです。また史料的には、讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てきます。史料には名前が出てくるのに、系譜に出てこない人物がいます。つまり、史料と系譜が一致しません。史料に出てくる香川氏の祖先が系図には見えないのは、どうしてでしょうか?
 その理由を、研究者は次のように考えているようです。

「現在に伝わる香川氏の系図は、みな後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い」

つまり、香川氏にはどこかで「家系断絶」があったとします。そして、断絶後の香川家の人々は、それ以前の祖先の記憶を失ったと云うのです。それが後世の南海通記などの軍記ものによって、あやふやなまま再生されたものが「流通」するようになったと、研究者は指摘します。
 系譜のあいまいさを押さえた上で、先に進みます。
香川氏は、鎌倉権五郎景政の子孫で、相模国香川荘に住んでいたと伝えられます。香川氏の来讃については、先ほど見たように承久の乱の戦功で所領を賜り安芸と讃岐に同時にやってきたとも、南北朝期に細川頼之に従って来讃したとも全讃史や西讃府志は記しますが、その真偽は史料からは分かりません。
「香川県史」(第二巻通史編中世313P)の香川氏について記されていることを要約しておきます。
①京兆家細川氏に仕える香川氏の先祖として最初に確認できるのは、香河五郎頼景
②香河五郎頼景は明徳3年(1392)8月28日の相国寺慶讃供養の際、細川頼元に随った「郎党二十三騎」の一人に名前がでてくる。
②香河五郎頼景以後、香川氏は讃岐半国(西方)守護代を歴任するようになる。
③讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てくる。
④『建内記』には文安4年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏とともに「管領内随分之輩」であると記す。
①の永徳元(1381)年の香川氏に関する初見文書を見ておきましょう。
寄進 建仁寺水源庵
讃岐国葛原庄内鴨公文職事
右所領者、景義相伝之地也、然依所志之旨候、水代所寄進建仁寺永源庵也、不可有地妨、乃為後日亀鏡寄進状如件、
                          香川彦五郎     平景義 在判
永徳元年七月廿日                       
この文書からは次のようなことが分かります。
A 香川彦五郎景義が、多度郡の葛原荘内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進していること
B 香川彦五郎は「平」景義と、平氏を名乗っていること
C 香川氏が葛原荘公文職を持っていたこと
応永七(1400)年9月、守護細川氏は石清水八幡宮雑掌に本山荘公文職を引き渡す旨の連行状を国元の香川帯刀左衛問尉へ発給しています。ここからは、帯刀左衛門尉が守護代として讃岐にとどまっていたことが分かります。この時期から香川氏は、守護代として西讃岐を統治していたことになります。

 『蔭涼軒日録』は、当時の讃岐の情勢を次のように記します。

「讃岐国十三郡也、大部香川領之、寄子衆亦皆小分限也、雖然興香川能相従者也、七郡者安富領之、国衆大分限者性多、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安宮者性多也」

 ここからは讃岐13郡のうち6郡を香川氏が、残り7郡を安富氏が支配していたことが分かります。讃岐に関しては、香川氏と安富氏による東西分割管轄が、守護細川氏の方針だったようです。

 香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。
香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったことは以前にお話ししました。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳(1445年) 多度津船の入港数


「兵庫北関人松納帳」には、多度津船の兵庫北関への入関状況が記されていますが、その回数は1年間で12回になります。注目すべきは、その内の7艘が国料船が7件、過書船(10艘)が1件で、多度津は香川氏の国料船・過書船専用港として機能しています。国料船は守護細川氏の京都での生活に必要な京上物を輸送する専用の船団でした。それに対して、過書船は「香川殿十艘」と注記があり、10艘に限って無税通行が認められています。

香川氏は過書船の無税通行を「活用」することで、香川氏に関わる物資輸送を無税で行う権利を持ち、大きな利益をあげることができたようです。香川氏は多度津港を拠点とする交易活動を掌握することで、経済基盤を築き、西讃岐一帯を支配するようになります。

香川氏の経済活動を示すものとして、永禄元年(1558)の豊田郡室本の麹商売を、之景が保証した次の史料があります。
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以共筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、乃状如件、
永禄元年六月二日                           之景(花押) 
王子大明神別当多宝坊
「先規之重書並に元景御折紙明鏡上」とあるので、従来の麹商売に関する保証を之景が再度保証したものです。王子大明神を本所とする麹座が、早い時期から室本の港にはあったことが分かります。
同時に、16世紀半ばには香川氏のテリトリーが燧灘の海岸沿いの港にも及んでいたことがうかがえます。

戦国期の当主・香川之景を見ておきましょう。
この人物については分からないことが多い謎の人物です。之景が史料に最初に現れるのは、先ほどの室本への麹販売の特権承認文書で永禄元(1558)年6月1日になります。以下之景に関する文書は14点あります。その下限が永禄8年(1565)の文書です。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

14点のうち6点が五郎次郎との連署です。文書を並べて、研究者は次のように指摘します。
①永禄6年(1563)から花押が微妙に変化していること、
②同時にこの時期から、五郎次郎との連署がでてくること
永禄8年(1565)を最後に、天正5(1577)に信景の文書が発給されるまで、約12年間は香川氏関係の文書は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 文書の散逸・消滅などの理由だけでは、片付けられない問題があったのではないかと研究者は推測します。この間に香川氏に重大な事件があり、発行できない状況に追い詰められていたのではないかというのです。それが、天霧城の落城であり、毛利氏を頼っての安芸への亡命であったと史料は語り始めています。
  
香川之景の花押一覧を見ておきましょう。
香川氏花押
香川之景の花押
①が香川氏発給文書一覧の4(年未詳之景感状 従来は1558年比定)
②が香川氏発給文書一覧の1(永禄元年の観音寺麹組合文書)
③が香川氏発給文書一覧の2(永禄3(1560)年
④が香川氏発給文書一覧の7(永禄6(1563)年
⑤が香川氏発給文書一覧の16
 研究者は、この時期の之景の花押が「微妙に変化」していること、次のように指摘します。
①と②の香川之景の花押を比較すると、下部の左手の部分が図②は真っすぐのに対して図①は斜め上に撥ねていること。また右の膨みも微妙に異なっていること。その下部の撥ねの部分にも違いが見えること。
図③の花押は同じ秋山文書ですが、図①とほぼ同一に見えます。
③は永禄3(1560)年のもので、同四年の花押も同じです。ここからは図①は永禄元年とするよりも、③と同じ時期のもので永禄3年か4年頃のものと推定したほうがよさそうだと研究者は判断します。

④の永禄6(1563)年になると、少し縦長になり、上部の左へ突き出した部分が尖ったようになっています。永禄7年のものも同じです。この花押の微妙な変化については、之景を取り巻く状況に何らかの変化があったことが推定できると研究者は考えています。

信景の花押(図⑤=文書一覧16)を見てみましょう。
香川氏花押2
信景の花押(図⑤)
之景と信景は別の人物?
今までは、「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされていました。その根拠は『南海通記』で、次のように記します。

「天正四年二識州香川兵部大輔元景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

ここに出てくる元景は、之景の誤りです。ここにも南海通記には誤りがあります。この南海通記の記事が、之景が信景に改名した根拠とされてきました。
しかし、之景と信景の花押は、素人目に見ても大きく違っていることが分かります。花押を見る限りでは、之景と信景は別の人物と研究者は考えています。
次に研究者が注目するのが、永禄六年の史料に現れる五郎次郎です。
之景との連署状が四点残っています。この五郎次郎をどのように考えればいいのでしょうか?五郎次郎は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。その人物が之景と連署しています。
文書一覧23の五郎次郎は、長宗我部元親の次男で信景の養子となった親和です。他の文書に見える五郎次郎とは別人になります。信景の発給文書が天正7(1577)年からであることと関連があると研究者は考えています。

  以上をまとめておきましょう
①香川氏の系譜と史料に登場してくる香川氏当主と考えられる守護代名が一致しない。
②そこからは現在に伝わる香川氏の系図は、後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い。
③香川氏には一時的な断絶があったことが推定できる。
④これと天正6年~11年までの間に、香川氏発給の文書がないことと関係がある。
⑤この期間に、香川氏は阿波の篠原長房によって、天霧城を失い安芸に亡命していた。
⑥従来は「之景と信景」は同一人物とされてきたが、花押を見る限り別人物の可能性が強い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)

塩飽水軍といったことばをよく聞きますが、その実態はどうだったのでしょうか?
村上水軍と海賊

芸予の「村上水軍」と同じような海賊衆が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上衆は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を「塩飽水軍」と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽衆は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。

1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。

南朝勢力に包囲された塩飽
南朝の熊野水軍陣に包囲された塩飽
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址

この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
塩飽本島の笠島と山城の関係
塩飽本島の笠島と城郭の関係

室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。これは毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」でした。それが永禄年間(1558~70)後半になると、毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。

村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。

「村上水軍」という用語は、いつ誰がつくりだしたのか
「村上水軍」という用語は、近世に作りされた。

 塩飽衆には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

村上衆と塩飽衆の相違点
村上衆と塩飽衆の相違点
16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy&#39;s fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。

大内氏の瀬戸内海覇権

 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。

大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

大内氏の塩飽抱え込みのねらいは

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。
香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、芸予と塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。
西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。

一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽までの航海について、水先案内人をつけて航路の安全通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。

  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。
安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
塩飽海賊は水軍ではなく輸送船団だった
塩飽水軍と呼べない理由
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

6塩飽地図

西行が備中真鍋島で詠んだ中に
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由中けるをききて、真鍋よりしわくへ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

とあります。ここからはしわく(塩飽)が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことが分かります。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになったようです。
 時代は下って『イエズス会年報』やフロイスの『日本史』に、塩飽は常に「日本著名なる」としてされ、度々寄港している様子が報告されています。このように、塩飽は古代から瀬戸内海における船の中継地として栄えてきました。その塩飽の水軍について見ていきます。
       塩飽荘の立荘と塩生産 
海上交通の要地には、早くから荘園が立荘されます。塩飽もそうです。初見は保元元年(1156)の藤原忠通書状案言に添えられた荘園目録に「塩飽讃岐国」と見えます。塩飽荘は藤原頼通の嫡子師実のころには摂関家領となっていて、その後、次のように所有権が移ります
 摂関家藤原忠実 → 愛人播磨局 → 平信範女 

そして、源平合戦の時には、平氏の拠点となっています。平氏が摂関家領の塩飽荘を押領していたのかもしれません。
 鎌倉時代末期には、北条氏の所領となりますが、建武の新政で没収され、南北朝の動乱を経て、幕府より甲斐国人小笠原氏に与えられたようです。当時の塩飽荘の実態は分かりませんが、『執政所抄』の七月十四日御盆恨事の項に
塩二石 塩飽御荘年貢内」

とあるので、年貢として塩が納められていたことが分かります。
 また『兵庫北関入船納帳』からは、塩飽の塩がいろいろな船によって大量に運ばれていることが分かります。塩飽も芸予諸島の弓削荘と同じように、「塩の荘園」だったようです。
 塩の荘園であった塩飽の海民は、塩輸送のため海上輸送にたずさわるようになります。「瀬戸内海=海のハイウエー」のSA(サービスエリア)として、多数の船舶が寄港するようになります。塩飽の港まで来て、目的地に向かう船を待つという資料がいくつもあります。塩飽はジャンクションの役割も果たしていました。
 また、通行に慣れない船のためには、水先案内もいたでしょう。こうして、塩飽の海民は海上に果り出す機会が多くなり、やがては自らの船を用いて航行するようになります。船は武装するのが当たり前でした。自然に「海賊衆」の顔も持つようになります。これはどこの海の「海民」も同じです。この時代の海民は専業化していません、分業状態なのです。

3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

海賊討伐をきっかけに備讃瀬戸に進出した香西氏
 
藤原純友の乱以前から瀬戸内海には「海賊」はいました。平清盛が名を挙げたのも「海賊討伐」です。鎌倉時代中ごろになると、再び瀬戸内海に海賊が横行するようになります。そこで寛元四年(1246)讃岐国御家人・藤左衛門尉(香西余資)は、幕府に命じられて海賊追捕を行っています。この時のことが「南海通記』に次のように記されています。
 讃岐国寄附郡司、藤ノ左衛門家資兵船ヲ促シ、香西ノ浦宮下ノ宅二勢揃シテ、手島比々瀬戸二ロヨリ押出シ 京ノ上茄ニテ船軍シ、柊二降参セシメ百余人ヲ虜ニシテ京六波羅二献シ、鎌倉殿二連ス、北条執事感賞シ玉ヒテ、讃州諸島ノ警衛ヲ命ジ玉フ、家資即諸島二兵ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽二我ガ子男ヲ居置テ諸島ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、是宮本氏高原氏ノ祖也―又宮本トハ家資居宅、宮ノ下ナル欣二宮本ト称号スル也。

 『南海通記』は、享保四年(1719)に香西成員が古老たちの聞き書きを資料に著した書で、同時代の記録ではありません。また滅び去った香西一族の「顕彰」のために書かれているために、どうしても香西氏びいきで、史料的価値に問題があると研究者は考えているようです。しかし、讃岐にとっては戦国時代の資料では、これに代わるものがないのです。「史料批判」を充分に行いながら活用する以外にありません。

3 香西氏 南海通
南海通記

 ここでも香西氏の祖にあたる香西家員が登場してきます。内容に誇張もあるようですが『吾妻鏡』の記事と同じような所もあります。確認しておきましょう。
①讃岐の郡司である藤ノ(藤原)左衛門家資が海賊討伐のための兵船出すことを命じた。
②香西ノ浦宮下に集結し、海に押し出した。
③京ノ上茄(地名?)で戦い、百人余りを捕虜にして京都六波羅に送った
④鎌倉殿に連なる北条執事は感謝し、讃州の島々の警護役を命じた
⑤香西家資は諸島に兵を駐屯させ、直島塩飽には息子達を派遣して支配させた。
⑥これが塩飽の宮本氏や直島の高原氏の祖先である。
⑨香西氏の子孫は、宮ノ下(神社下)に館があったので宮本と呼ばれるようになった
  以上からは
①香西氏は海賊討伐を契機に備讃瀬戸に進出した。
②海賊を討伐し、備讃瀬戸エリアの警備をまかされた
③警備拠点として直島・塩飽に館を構えた
④海賊退治を行った香西家資の子が塩飽海軍の宮本氏の祖
⑤宮本氏により塩飽の海賊衆は統轄されるようになる。
これが塩飽海賊草創物語になるようです。

3  塩飽  山城人名墓

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。

3 香西氏
 
朝鮮の使節団長と船の上で酒を飲んだ香西員載
 以前にも紹介しましたが、室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。その団長である宋希璟(老松堂はその号)が紀行詩文集「老松堂日本行録」を残しています。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。
 足利将軍との会見を終えての帰路、播磨(室津)から備前下津井付近を通過します。目の前には、本島をはじめとする塩飽諸島が散らばります。海賊を恐れながらびくびくしてた宋希璟の船に、護送船団の統領らしき男が乗り込んできて、一緒に酒を飲もうと誘ったというのです。男は「騰貴識」は名乗りますが、これは香西員載のことのようです。彼は、将軍から備讃瀬戸の警備を任された香西氏の子孫に当たるようです。「老松堂日本行録」からは「騰貴識=香西員載」が警国衆を率いる立場にあったことが分かります。この時期の塩飽や直島は香西氏の支配下にあり、水軍=海賊稼業を行っていたことが分かります。
 15世紀の香西氏に関する資料をいくつか見ておきましょう。
①1431年7月24日
 香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。 香西氏は、この時まで丹波の守護代を務めていたことが分かります。
②嘉吉元年(1441)十月 「仁尾賀茂神社文書」
 讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。
                  
③同年七月~同二年十月(「仁尾賀茂神社文書」県史11 4頁~)
 仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護 細川氏に訴える。
②からは香西氏が三豊の仁尾の浦代官を務めていたことが分かります。先ほどの朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は用船を命じられています。これは、浦代官である香西氏から命じられていたようです。
③は父(元資)が亡くなり、子の香西豊前になって、仁尾ともめていることが分かります。香西氏が直島・塩飽などの備讃瀬戸エリアだけでなく、燧灘方面の仁尾も浦代官として押さえていたようです。仁尾は軍船も出せますので、燧灘エリアの警備も担当してたのでしょう。
④長享三(1489)年八月十二日(「蔭涼軒日録」三巻) 
 細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻四七一丁三頁、
 
④からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
  いつものように兵庫関入船納帳で、塩飽船の入港数と規模を見ておきましょう。
兵庫北関2
上から2番目が塩飽です    
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
   ②船の規模は300石を越える大型船が8隻もいます。船の大型化という時代の流れに、最も早く適応しているようです。
  積み荷についても見ておきましょう。
3 兵庫 
③ 塩が飛び抜けて多く「塩輸送船団」とも呼べるようです。
④その他には米・麦・豆などの穀類に加えて、山崎胡麻や干し魚もあります。
能島村上氏による塩飽支配
 細川政元の死後、周防の大内氏が勢力を伸張させるようになります。永正五年(1508)に大内義興は足利義枝を将軍職につけ、細川高国が管領、義興が管領代となります。義興は上洛に際し、東瀬戸内海の制海権の掌握のために次のような動きを見せます。
①三島村上氏を警囚衆として味方に組み込みます。
②さらに、大友義興は能島の村上槍之劫を塩飽へ遣わして、寝返り工作をおこないます。
これに対して、香西氏は細川氏から大内氏に乗り換えます。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
大友氏は、積極的な対外交易活動を展開します
 大内義興は、明へ貿易船を派遣して、その経済的独占をはかろうとするなど交易の利益を求め、活発な海上活動を展開します。その中に村上水軍の姿もあります。当然、塩飽も動員されていたことが考えられます。
永正十七年(1520)朝鮮へ兵船を出した時、塩飽から宮本佐渡守・子肋左衛門・吉田彦右折門・渡辺氏が兵船三艘で動員されています。この時期には、備讃瀬戸に限らず朝鮮海峡を越えて朝鮮・明へも塩飽衆の活動エリアは拡大していたようです。これが倭寇の姿と私にはダブって見てきます。
村上武吉の塩飽の支配 
永正年間(1504~)には能島村上氏が塩飽島の代官職を握り、塩飽はそれに従うようになります。それから約50年後の永禄年間に村上武吉宛の毛利元就・隆元連署状がだされています。そこには
「一筆啓せしめ候、樹梢備後守罷り越し候、塩飽迄上乗りに雇候、案内申し候」
とあり 能島の村上武吉に塩飽までの乗船を依頼しています。
また、永禄末期ごろに、豊後の大友宗麟の村上武吉宛書状には、大友宗麟が堺津への使節派遣にあたり、村上武吉に対して礼をつくして堺津への無事通行の保証と塩飽津公事の免除とを求めています。
  これらから能島村上武吉が塩飽の海上公事を握っていたことが分かります。
村上武吉は、塩飽衆へ次のような「異乱禁止命令」を出しています
「本田鸚大輔方罷り上においては、便舟の儀、異乱有るべからず候、其ため折帯(紙)を以て申し候、恐々謹言、 永禄十三年
塩飽衆が備譜瀬戸を航行する大友氏の船に異乱を働いていたことを知り、これを止めさせる内容です。備讃瀬戸の制海権を握り、廻船を掌握していたのは村上武吉だったのです。堺へ航行する大友船にとって、塩飽海賊のいる備譜瀬戸は脅威エリアでしたが、これで塩飽衆は大友船には手が出せなくなります。
天正九年(1581)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によれば、塩飽の泊港に入港したときのこととして、能島村上の代官と、毛利の警吏がいたと記しています。
 村上武吉の時代には、能島村上氏の制海権は、西は豊後水道から周防灘、東は塩飽・備前児島海域にまでおよんでいたことになります。備譜瀬戸の塩飽を掌握下におくことは、東西の瀬戸内海の海上交通を掌握することになります。そのためにも戦略的重要拠点でした。このように戦国時代の塩飽は、能島村上氏の支配下にあり、毛利氏の対信長・秀吉への防衛拠点として機能していたようです
 児島合戦に見る塩飽衆の性格は? 
 戦国末期になると、安芸の毛利氏は備中・美作を攻略し、備前にも侵入しようとします。当時備前は浦上宗景・浮田直家の支配下にありました。元亀二年(1571)勢力回復をはかる三好氏は、阿波・讃岐衆を篠原長房が率いて児島へ出陣します。この戦いを児島合戦と呼び、阿讃衆騎馬450、兵3000が出陣したと伝えられます。
 香西元歌(宗心)は、児島日比浦の四宮隠岐守からの要請で参陣します。この時に、香西軍の渡海作戦に塩飽衆が活躍したと云います。香西氏が古くから塩飽を支配しており、香西軍の海上勢力の一翼を担ったのが塩飽衆であっことは触れました。
 塩飽の吉田・宮本・瀬戸・渡辺氏は、直島の高原氏とともに船に兵や馬を乗せて瀬戸内海を渡ったのです。当時の児島は「吉備の穴海」と呼ばれる海によって陸と離れた島でした。そのため水軍の力なしで、戦うことはできなかったようです。塩飽を味方につけることは最重要戦略でした。この時には、塩飽に対し事前工作が毛利方からも行われていたようです。毛列氏は村上水軍を主力に水軍を編成しますが、塩飽衆もその配下に組み込まれたようです。
小早川陸景が配下の忠海の城主である乃美(浦)宗勝へ送った書状に
 「塩飽において約束の入、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすベしは、申すに及ばず」
とあります。毛利氏の塩飽衆を陣営に抱え込み、敵側の兵船とならないよう監視するとともに、塩飽衆と宇多津のかかわりを恐れていたことがうかがえます。水軍なしでは戦えない瀬戸内海の状況を示すと同時に、備讃瀬戸における塩飽衆の存在の大きさが分かります。
  塩飽衆は「水軍」ではなく「廻船」?
 児島合戦を見ていて分かるのは、塩飽は参陣していますが、それは兵船の派遣であり、海上軍事力としてはカウントされていないことです。操船技術・航行術にたけた海民集団ですが、軍事カというより加子(水夫)としての存在が大きかったように見えます。言い方を変えると、船は所有していますが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員はいなかったと研究者は考えているようです。
村上氏が塩飽支配を行ったのは、一つに塩飽衆の操船・航行術の必要性と、加子・兵船の徴発にあったと思えます。瀬戸内海制海権を握りたい能島村上氏にとって、備讃瀬戸から播磨灘にかけて航行することの多い塩飽船を支配下に組み込めば、下目から上目すべての航行を操ることができることになります。
 また別の視点から見れば、瀬戸内海東部航路を熟知していない能島村上氏には、熟知している塩飽衆が必要だったとも云えます。先ほど見たように『兵庫北関入船納帳』に出てくる塩飽船の数は、讃岐NO2でした。商船活動が活発な東瀬戸内海流通路を握るには塩飽衆が必要だったのです。それは、次に瀬戸内海に現れる信長・秀吉・家康も代わりません。彼らは「朱印状」で保護する代償に、御用船や軍船提供を塩飽に課したのです。しかし、水軍力を期待したものではなかったようです。近世になって「水軍」という言葉が一人歩きし始めると、中世の「塩飽水軍」がいかにもすぐれたものであるかのように誇張されるようになります。
 村上水軍と塩飽水軍は、同じものではありません。前者は強大な海上軍事カをもつ集団なのに対して、後者は 海上軍事力よりも操船技術集団と研究者は考えているようです。

 






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