瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:南海道

生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   古代律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の職務の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは9世紀から10世紀にかけては、古代集落史において、かなり大きな変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか
これは逆の視点から見れば中世に続く集落の多くは、平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、そそ律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙の姿があったのは7世紀初頭から10世紀の間ということになります。
律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。この背景には、郡司をとりまく情勢に大きな変化があったようです。その変化のために郡衛(郡家)は衰退・消滅したようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたことになります。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって、その理念は次のようなものでした。

「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったと云えます。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうようになります。そうなると倉庫群の必要はなくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司制度の改変・哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下します。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったことをここでは押さえておきます。

その変化を生み出したのが受領国司の登場です。
 それまでの律令国家の地方行政は、都から派遣された国司によって運営されていました。国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官で、この連帯責任制によって運営されました。
 
 ところが、9世紀後半になると、国司のなかの最上席の者に権限と責任が集中するようになります。この最上席の国司が受領(ずりょう)と呼ばれ、受領が中央政府に対して各国の租税納入の全責任を負う体制が確立します。
 そして徴収は、これまでの郡司にかわって、受領国司が請け負うことになります。その見返りとして政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った受領国司は、有力農民である田堵を利用します。
 10世紀になると、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名」にして、租税の納入を請け負わせます。このような徴税の仕組みを「負名体制」と呼びますす。
受領国司

田堵が請け負った田地は、田堵の名前をとって名(みょう)とか名田と呼ばれました。太郎丸が請け負えば太郎丸名、次郎兵が請け負えば次郎兵名になります。このように田堵は名の耕作・経営を請け負っていますから、負名とも呼ばれるわけです。
 田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。

田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 それが負名体制の成立によって、郡司に頼らずに、受領が有力農民(名主)を直接把握する徴税体制ができあがったことになります。

つまり郡司の存在意義がなくなったのす。その結果、郡司の執務場所である郡家(ぐうけ)が衰退し、受領の執務場所である国衛の重要性が増していきます。受領は、田所・税所・調所など、国衛行政を部門ごとに担当する「所」という機関を設け、それを統轄する目代(もくだい)に郎等をあて、行政の実務を担わせるようになります。このような体制が出来上がると、官物・臨時雑役という新たな租税が徴収できるようになります。
 一方受領国司は、臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。
これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。
こうなるとますます郡司の出る幕がなくなります。受領にとって、郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 こうして地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力は、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海の生家の佐伯直氏との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。

1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。
 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
関連記事


岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に走る南海道

讃岐には、若き日の空海(幼名真魚)は、「国学(地方大学)」で学ぶために毎日、額坂を越えて通学していたという話があります。空海の父田公の館は、現在の善通寺周辺にあったとされます。讃岐の国学は、建立されたばかりの国分寺周辺か、府中の国府周辺にあったとされます。そのため善通寺から東に一直線に伸びる額坂街道を馬を駆けって通ったというのです。
DSC04491
空海の平城京への出立(弘法大師行状絵詞) 騎馬の若武者姿

確かにこのルートは、発掘調査で南海道であることが分かってきました。幅が8mもある大道が、丸亀平野の条里制に沿って、善通寺を横切っていきます。この大道を馬で駆ける真魚の姿は、絵になる光景です。しかし、これは本当なのでしょうか。真魚が、讃岐の国学で学んだのかどうかを史料で見ていくことにします。

岸の上遺跡 多度郡条里と南海道jpg
四国学院内を通っていた南海道

 空海は15歳の時に母方の叔父である阿刀大足に就いて学んだことは、空海の著書である『三教指帰』の序文に書かれているので事実のようです。
それでは、大学や国学で学んだというのは本当なのでしょうか。
 『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(835)3月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。

  讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。①年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。②十八遊學槐市。③時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。
ここには
①15歳で、外舅(母の兄)阿刀宿禰大足について漢学を学び、
②18歳で平城京の大学明経科に入学した。
③ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
ここには空海は、阿刀宿禰大足について学んだことは語っていますが、国学で学んだことは何も触れていません。空海は国学に入学したのでしょうか。
  唐の律令制度を学んで作り上げた大宝律令以後は、原則的にはこの国は「法治主義国家」です。政治は法令によって運営されていきます。例えば古代律令下の教育機関としては、中央には大学が、諸国には国学が設置されて官吏養成が行われることが定められています。
学令大学生条に定められた就学規定には、次のように記されています。
凡大學生。取五位以上子孫。及東西史部子爲之。若八位以上子。情願者聽。國學生。取二郡司子弟爲之。大學生式部補。國學生國司補。並取二十三以上十六以下聰令者爲之。
  意訳変換しておくと
およそ大學生。五位以上の子弟か、東西史部の八位以上の子弟で、入学希望があったものを入学させよ。地方の國學生については郡司の子弟を入学させよ。大學生式部補と國學生國司補の年齢制限はそれぞれ、23歳以上と16歳以下の者とする。

これが大学生と国学生に関する規定です。この規定に従って空海の入学資格を見ておきましょう。まず15歳という年齢については国学への入学については問題ないようです。年齢からして、国学へ入学した可能性はあります。しかし、もうひとつの条件である官位についてはどうでしょうか。「國學生については郡司の子弟」とあります。
 空海の生家である佐伯直氏は、旧讃岐国造であったことが『日本三代実録』に記されています。通説では代々多度郡の役人を勤めた家柄で、田公自身は郡の少領であったとされます。しかし、『日本三代実録』には田公の位階は記されいません。一方田公の子供達(空海の兄弟)には位階があります。ここから空海の父田公は、無位無官であった可能性が高いと研究者は考えています。
選叙令郡司条には、次のように記されています。
凡郡司。取下性識清廉堪時務者上。爲大領少領。強幹聰敏工書計者。爲主政主帳。其大領外從八位上。少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造

ここには郡司の選定基準として「少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造」とあります。田公が少領であったとすると、低くとも外従八位下という官位を持っていなければならないことになります。例え主政・主帳であったとしても考課を経たのであれば、何らかの位階を与えられていたはずです。ここからも田公は無位無官であったとことが裏付けられます。そうすると、空海は国学の入学規定である「郡司子弟」の条件に当てはまらないことになります。つまり、空海には入学資格がなかったことになります。
 しかし、残された道があります。『令義解』学令大学生条の子弟に冠する註には「謂 子孫弟姪之屬也」とあります。空海が所属する戸の戸主である佐伯直道長が正六位上という位階を持っていて、何らかの官職に就いているので、この条件をクリアできたと考えることはできます。以上から空海は郡司の子弟として国学に入学することは可能であったとしておきましょう。

 しかし、問題は残ります。先ほど見たように空海が書いたとされる『三教指帰』には、15歳で伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足に教えを受けたと記されている点です。これをどう考えればいいのでしょうか。叔父阿刀大足については、次のように伝えられています。
①空海の母の実家阿刀家の後継者で摂津が本貫
②伊予親王の侍講(家庭教師)であった人物で、漢学の俊才であった
③叔父阿刀大足が讃岐に残した痕跡は何もない
これでは空海は15歳になって、讃岐の国学に通いながら平城京にいる叔父の阿刀大足から英才教育を受けたという話になります。このためには空海は「分身の術」を身につけていなければなりません。阿刀大足が、讃岐の国博士として赴任してきていたという話もありません。そもそも阿刀氏の痕跡は讃岐にありません。伊予親王の侍講であったという経歴から考えると、阿刀大足は平城京に居住していたと考えるのが自然です。これをどう考えればいいのでしょうか。
讃岐の豪族6 阿刀氏? 空海が生まれたのは摂津の母親の実家? : 瀬戸の島から
難波津と阿刀氏の本拠地
 この謎を解消するのが「空海=摂津誕生説」です。
当時の通い婚の通例として、空海は阿刀氏の本貫である摂津に生まれ、そこで生育し英才教育を受けたという説です。この説では、空海は讃岐の国学には入学せずに上京した、あるいは最初から摂津で生まれ育ったことになります。どちらにしても、空海が南海道を馬を走らせ、府中の国学に通ったという説は成立しがたいようです。

跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
跡部(阿刀)神社(八尾市亀井)阿刀氏の本貫・河内国渋川郡跡部郷

空海が平城京の大学に入学したのは18歳と記されています。
これは、就学規定で定められている年齢には当てはまりません。下級官人であっても八位以上の子弟であれば、特別に入学は可能でしたが、『令集解』学令大学生条の註には次のように記されています。

「問 八位以上子。情願任者聽。畿内外同不。答。畿外不取。又外六位以下不取也。但並得任國學生耳」

 ここからは、その特例が認められたのは畿内の官僚だけだったことが分かります。讃岐国出身の空海がこの方法で大学へ入学することはできません。これに対して。
「当時の学制に何らかの変更があったのかも知れない」
「伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足等の力で入学できた」
という例外的な措置として入学したという説もありますが、律令規定は国家の柱なので、「ゆるぎたらるぎ」で運用はしていません。伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足の影響力を過大評価するのも慎むべきでしょう。
むしろ、次の「学令通二経条」に注目すべきと研究者は指摘します。

凡學生通二經以上求出仕者。聽擧送。其應擧者。試間大義十條。得八以上。送太政官。若國學生雖通三經。猶情願學者。申送式部。考練得第者。進補大學生。

ここには地方の国学から中央の大学へと進む道も成績や条件次第では開かれていたことが記されています。空海が讃岐の国学から大学に進んだとすれば、このコースを辿ったと考えた方がよさそうです。
 十五歳で国学に入学した空海は、基準である三年あるいは四年で二経以上に通じ、そして考練得第して十八歳の時に大学に入学したという説も捨てられないことになります。
跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
阿刀氏の氏神 跡部神社

以上をまとめておきます。
①従来の善通寺生育説では、讃岐の国学に通ったとされるが、「三教指帰」には15歳で、叔父阿刀太刀の教えを受けるようになったという記述と矛盾する。
②「空海=摂津生誕説」では、阿刀氏の母の実家である摂津で空海は生まれ、幼い時から叔父阿刀太刀の英才教育を受けたとされる。ここでは、空海の本貫は讃岐国多度郡だが実際の生育は摂津の阿刀氏の母の元であったとされる。
③「空海=摂津生誕説」では、空海が平城京の大学に入学するためには、父親の官位が低すぎるという問題がおきる。
以上のように、解決への詰み手がなくなってしまいました。空海の国学や大学入学問題についても、分からないことが多いようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

岸の上遺跡 写真とトレス

岸の上遺跡からは南海道跡が出てきたと云われます。それがどうして南海道と分かるのでしょうか?まず南海道跡される遺跡を見てみましょう。
飯山岸の上遺跡グーグル
岸の上遺跡周辺 手書きの青い斜線部が旧土器川河道跡

飯野山南側には、坂出からの国道バイパスが南に伸びています。飯山高校の西側のバイパス交差点あたりは土器川旧河道の段丘崖で周囲より1mほど微髙地になっています。このエリアの発掘調査で出てきたのが「岸野の上」遺跡です。この遺跡からは大きな発見が2つありました。
A 南海道の道路側溝と考えられる溝群(溝6・溝7・溝8・溝9・溝10・小ピット群)が出てきた。
岸の上遺跡 南海道拡大図

①の推定南海道の両側に溝が掘られていました。これが市道の南側(溝9・溝8)と北側(溝6・7)に当たります。北側と南側の溝の幅は約10m近くあります。そして、溝には次のような特徴があるようです。
①溝底(溝9・溝10)に凹凸があり、水が流れた形跡がないの灌漑用水ではない。
②地表面の起伏を無視し、直線的に並んでいる
③小ピット群は、道本体の土留めのための杭列か?
溝底に凹凸があり、水も流れていないので灌漑水路ではないようです。道路側溝としての性格が高いようです。古代の官道は、幅が約9~10mほどで直線的にまっすぐと作られていることが分かっています。
   下の「古代道路の工法」を見ると路面の両側に溝を掘って側溝としていました。ここから出てきた溝が、側溝にあたるようです。

岸の上遺跡 南海道側溝

  幅10mの大道跡の出現だけで、南海道と決められるのでしょうか?
  古代官道をとりまく発見の歴史を少し振り返ってみます
古代の官道については、江戸時代の五街道でも2間程度の道幅だったのだから、古代駅路の道幅はせいぜ い2mもあれば, 駅馬が通るに事足りていたというのが半世紀ほど前の考えでした。畿内から下ツ道の23m75や難波大道の19m76などが現れても、それは畿内の大道だからで、地方の官道はそんなに大規模な物ではないとされていました。そのような中で、丸亀平野を通っていた南海道も、額坂から鳥坂峠を越えていく近世の伊予街道が考えられていました。
 しかし、1970年代になると道幅10mで直線的に続く古代官道跡の発見が各地から報告されるようになります。それは、航空地図や大縮尺の国土地理院の地形図を読み込むことから発見されることもありました。さらに、条里制痕跡からも古代の官道の存在が浮かび上がってくるようになります。
東藝術倶楽部瓦版 20190508:官道から参詣道へ-「大和の古道」 - 東藝術倶楽部ブログ
 
 まず平城京から伸びる下ツ道と横大路に沿って,1町(約109m)方 格の条里地割の中に一部分だけ幅が異なる部分があることが指摘されました。つまり幅約45m(15丈)分大きいのです。なぜ、そこだけ幅が広いのか、つまり余剰分があるのかという疑問に対して、ここに道路が通っていたからだという仮説がだされます。つまり、道路敷面が45m分あったが、その後の歴史の中で道路部分は水田などに取り込まれて、45mの大道は姿を消し、幅の広い条里として残ったと研究者は考えたのです。
図6の条里余剰帯の模式図で、確認してみましょう。
岸の上遺跡 条里余剰帯

これは、約109mの条里地割が分布しているエリアの例です。
その中に縦の長さだけが124mになる地割列(上から2段目の列)があります。この場合、余剰帯の幅15mと、現在の道幅6mを合わせた、21mの帯状の土地が、かつての官道敷地だったということになります。

これが現在、古代道路検出法の一つとして「条里余剰帯」と呼ばれている手法の誕生だったようです。そして、研究が進められるにつれて条里制工事の手順は、次のように進められたことが分かってきました。
①目標物に向かって真っ直ぐな道の計画線が引かれる。これが基準線となり官道工事が始まる。
②官道は基準線でもあり、これに直角に条里制ラインが引かれた。
③官道は、国境や郡境・郷境ラインとしても用いられた。
④南海道の道幅は約9~10mで、両端に側溝が掘られた
つまり、中央政府からやってきた高級官僚達が官道ラインを引き、その設計図に基づいて郡司に任命された地元有力豪族が工事に取りかかります。讃岐の場合だと、基準線となる南海道が完成すると、直角に条里制工事が進められていきます。つまり、南海道は条里制工事のスタートを示す基準線でもあったし、実際の工事もこの道沿いから始められたようです。
中央の官道についても、次のような役割も分かってきました
①藤原京や平城京のエリアも、計画道路が先に測量され、それを基準に設定されたこと,
②摂津・河内・和泉の国境ラインの一部は、直線的に通る官道によって形成されていたこと
つまり、畿内においては直線道路が古代的地域 計画の基準線となっていたのです。
丸亀平野の条里制 地形図

  条里余剰帯を、丸亀平野で見てみるとどうなるのでしょうか。
丸亀平野の条里地割の中にも南北が10m程度広い「余剰部分」が帯状に見られるところがあるようです。金田章裕氏は、その条里余剰帯を歴史地理学的に検討して、推定南海道を次のように想定していました。
①鵜足郡六里・七里境、
②那珂郡十三里・十四里境、
③多度郡六里・七里境
 讃岐富士の南側から郡家の8条池・宝幢寺池の南を通過して直進的に西進し、善通寺市香色山の南麓にいたると云うのです。香色山南麓に達した南海道は、大日峠を越えて三野郡・刈田郡へと続いていくことになります。
 これはあくまで、想定でした。しかし、推定南海道とされる③多度郡六里・七里境上に、7世紀後半から8世紀に掘られた溝が発掘されたのです。これは四国学院大学の図書館建設に伴う発掘調査からでした。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
四国学院遺跡の東西に伸びる溝
条里型地割の中の平行・直交する2本の溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝1が里境の溝だったのです。また溝1が、単なる坪界溝ではなく多度郡六里と七里の里境であること、さらにこれに沿って設定された古代南海道の可能性が高くなったのです。そこで、この溝を条里制地図の中に落とし込んでみると次のようになりました。
四国学院側 条里6条と7条ライン

ここで注意しておきたいのは、多度郡郡衙跡とされる生野本町遺跡がすぐ南にあることです。南海道が出来るとその周辺部に、郡衙がつくられたことがうかがえます。さらに、推察するとその郡長が佐伯氏であったすれば、この周辺に佐伯氏の館もあったと研究者は考えているようです。 

この四国学院の中を通る推定南海道ラインを、東に辿っていくとどうなるのでしょうか。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
四国学院のキャンパスの中を抜けて、善通寺一高のグランドを抜けて東に進んでいきます。さらにグーグル地図で見てみましょう。

岸の上遺跡と四国学院遺跡を結ぶ南海道
 
 四国学院から金倉川を越えて条里制ライン沿いに東に進むと、宝幢寺池と八条池の南を通過して、土器川に出ます。そして、右岸から東を進むとその道は飯山高校北側の市道に通じます。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡
上の写真の道は、岸の上遺跡を通過していた南海道の現在の姿です。
市道の南側(左)に、発掘で出てきた側溝が見えます。その向こうに見えるのが下坂神社の鎮守の森、そしてはるかに善通寺の五岳の山脈が見える。そこを目指して南海道がまっすぐに続いていたことが分かります。四国学院の古道の側溝跡と岸の上遺跡の側溝、は一直線につながるということになります。これは、いままで「想定南海道」と呼ばれていたものから「想定」の2文字がとれることを意味すると私は考えています。ちなみに四国学院遺跡と岸の上遺跡の直線距離は7,4㎞です。
丸亀平野の南海道と郡衙・古代寺院・有力者の関係を見てみると次のようになります。
     郡衙候補     古代寺院    郡司候補
①鵜足郡 岸の上遺跡   法勲寺廃寺    綾氏?
②那珂郡 郡家(?)   宝幢寺池廃寺   
③多度郡 生野本町遺跡  仲村廃寺・善通寺 佐伯氏

南海道沿いに郡衙と想定できる遺跡や廃寺跡があり、郡司と考えられる有力者がいたことがうかがえます。そして、南海道の建設や、その後の条里制工事はこれらの郡司などの有力者の手によって進められていったようです。
①③からして、②の那珂郡の郡衙跡も南海道の直ぐ近くにあったことが考えられます。全国の例を見ても、最初は官道から遠くても建て直される場合には官道近くに移動して建てられている例があるようです。宝幢寺廃寺と同じように、今は池の下になっているのかもしれませんが・・・・
丸亀平野と溜池

  以上をまとめておきます。
①岸の上遺跡からは、幅10m近い大道跡と道路側溝が出てきた。
②これは歴史地理学者が指摘していた条里制の鵜足郡六里・七里境にあたる。
③この大道跡を西にまっすぐに伸ばすと善通寺の四国学院のキャンパス内から出てきた側溝跡と一直線につながる
④以上から「鵜足郡六里・七里境、那珂郡十三里・十四里境、多度郡六里・七里境」上を南海道が通過していたという仮説が考古学的に実証されたことになる。
⑤四国学院と岸の上遺跡の側溝溝は、7世紀後半から8世紀初頭にできたものとされるので、基準線測量が行われ、南海道の工事が行われたのは藤原・奈良時代にあたる。
⑥この南海道に直角や平行にラインが引かれ、条里制工事は進められていくことになる。
⑦その工事を主導したのは郡司たちで、地域の有力者であった。
⑧彼らは郡司として南海道沿いに郡衙や氏寺である古代寺院を建設することによって、かつての前方後円墳に替わるモニュメントとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
岸の上遺跡調査報告書
四国学院遺跡調査報告書

金倉川 土器川流路変遷図

土器川はまんのう町の長炭付近で平野に出ると扇状地を形成して、流路を西から東へと変えながら次のような河道変遷を経て、現在の流れになったようです。
①一番西側の①紫ルートで現在の金倉川や大束川の流域にも流れ込んでいた
②善通寺生野町・吉田町が堆積物で埋まってくると、与北町付近で、右岸に流路を変えて②橙コースになった
③さらにまんのう町祓川橋付近から東に流路を変えて、法勲寺から大束川に流れ込んで④の緑ルートになった。
④さらに長炭橋から東へ入り込み、長尾・打越を経て岡田方面から大束川に流れ込む④の緑点線ルートの時代もあった
岸の上遺跡 土器川流路⑤

確かに衛星写真を見るとまんのう町の吉野付近から打越池を経て、大窪池にかけては、U字状の谷が見えます。これが流路④の緑点線河道になるという根拠のようです。そうだとすれば大窪池は、まさにその窪みの谷に作られたため池になります。
 地形図に丸亀平野の扇状地を落としてみても、旧河道が何本か浮かび上がってくるようです。

岸の上遺跡 土器川扇状地
④が岸の上遺跡 ①が善通寺 ②が郡家の宝幢寺池

丸亀平野の大部分は扇状地で、それは土器川が西から東へと河道を変えていく中で生まれてきたようです。最初に聞いたときには、信じられずに半信半疑で聞いていました。しかし、考古学的な発掘が進み実際に調査が行われ、その「土地の履歴書」が示されるようになると信じないわけにはいかなくなります。今まで疑いの目で見ていたものが、別のものに見えてくるようになりました。
  例えば生駒時代の中西讃の絵図を見てみましょう。
生駒時代絵図 土器川流路

①古城とあるのが廃城となった丸亀城
②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。
③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。
西側の支流は長尾から流域が描かれています。
これは、土器川なのでしょうか、それとも大束川なのでしょうか。
一方東側の支流は、滝宮神社(牛頭神社)付近から流路が描かれています。これは綾川のようです。土器川と綾川が合流して林田港へ流れ込んでいることになります。
 この絵図をみても、近世以前の河川の流れは、私たちの想像を超えていることがうかがえます。これを見たときも、讃岐のことを知らない生駒藩の侍たちの地理的な情報・知識不足と、鼻で笑っていました。しかし、先ほどの土器川の流路変遷図を見ると、笑ってはいられなくなります。実際に、土器川は大束川に流れ込み、さらに綾川と合流していた可能性もあるようです。
 岸の上遺跡 イラスト
  それでは本題の丸亀市飯山町の岸の上遺跡を見てみましょう。
ここからは大きな発見がいくつもありました。その中でも大きな意味を持つのは次の2つです。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。
岸の上遺跡 正倉群
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。これは郡衙以外の何者でもありません。鵜足郡の郡衙発見ということだと私は理解しているのですが、研究者達はあくまで慎重で、「鵜足郡の郡衙と南海道発見!」などというコピーは、報告会では出なかったようです。
 もうひとつ、この遺跡の報告書で驚いたのが、下の地形復元図です
飯山岸の上遺跡地形復元

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。
②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。
③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。
④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。
そして、地図上の水色の部分が土器川の支流だというのです。一本の流れとはならずに、何本もの網の目状になってながれていたことが分かります。
飯山岸の上遺跡グーグル

確かにグーグル地図をよく見てみると、飯山高校周辺を旧河道が網の目のように流れていたことが分かります。この河道によって堆積した中州状の微高地上に、丸亀平野の古代のムラは成立していきます。

飯山居館跡

以前に、この北の飯野山の麓で河道跡に囲まれた中世武士の居館跡を紹介したことがあります。その河道も土器川の氾濫河道になるようです。
飯山国持居館3グーグル地図

  旧土器川が現在の河川になったのは、いつからなのでしょうか?
最初に見た生駒藩の絵図には、土器川は大束川と一緒に描かれていました。近世はじめまでは、飯野山の南側の流路は、このような編み目状だったようです。それではいつ変えられたのでしょうか。そこにはやはり西嶋八兵衛の影があるようです。
西嶋八兵衛60x1053

 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。高虎は、この時に側近の西嶋八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
それは、藤堂藩と生駒藩の密接な関係にあったようです。このことについては以前にもお話ししましたので省略します。
 自然災害に苦しむ生駒藩のために、八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。満濃池の再築に伴い、四条川を消し、金倉川を作りだしたことも以前にお話しした通りです。そして、土器川の流路変更も西嶋八兵衛によって行われたというのですが、その根拠になる資料を私は見たことはありません。
大束川旧流路
飯山町付近の土地利用図 旧土器川の流路跡が幾筋も見える

 西嶋八兵衛によるものかどうかは別にして、飯山高校の北側には、平安時代以降に激しく流れていた東西方向の旧河道が残っています。そして「北岸」「南岸」「岸の上」という字名もあります。この旧河道は度々氾濫を起こしていて、発掘エリアからも、氾濫で堆積したと砂層がでてきているようです。その遺物から7世紀の中頃と12 世紀頃に大きな洪水が起き、遺跡が土砂に埋まったことが分かるようです。この河岸丘に建物が建ち始めるのは7世紀中頃からで、南海道が伸びてくるのは8世紀初頭頃からになるようです。 次回は、この前の道がなぜ南海道と言えるのかを探ってみようと思います
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

その後、1995年の川津二代取遺跡の調査報告書の中に、大束川流域の地形復元を行った資料を見つけました。ここには丸亀平野の土器川扇状地の詳細等高線が示されています。ここからは土器川が金倉川や大束川へ流れ込んでいた痕跡がうかがえます。

土器川 流路等高線

さらに、次のような旧河道跡も1995年の時点で指摘されていたようです。
土器川 旧河道(大束川)

ここからは現土器川から東に向かって流れ込む流路や、飯野山にぶつかってから流路を東に取る流路がはっきりと示されています。また、②の大窪池から流れ込んだ時期もあったことが分かります。 
 つまり現場の考古学の研究者は20年前から土器川が流路を替えていたこと、それが弥生や古墳時代以後のことであったことを理解していたようです。知らぬは素人ばかりということのようです。
それでは、いつまで土器川は大束川方面に流れ込んでいたのでしょうか。言い方を変えると現在の流れになったのはいつのことなのでしょうか。それは又の機会に
参考文献

13世紀半ばに、柞田荘が比叡山の日吉社領となり立荘されるまでの過程を見てきました。最後に、日吉神社がどのようにして、柞田荘を支配したのか、その拠点はどこにあったのかを探って見ることにします。

柞田荘 日吉神社2
  日吉神社が分祠される
有力貴族や神社に荘園化されると、その氏神が分祠されるのが通常です。例えば藤原氏は春日神社を、賀茂神社の社領となった仁尾には賀茂神社が分祠されます。柞田荘は日吉神社の社領となったので、当然日吉(枝)神社がやってくることになります。
 『香川県神社誌」には、
「当社は柞田荘が日吉社の社領となったことを契機として分祀された」と記します。編纂当時の氏子は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の390戸とありで、旧柞田村内の神社としては、式内社とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模です。荘園化されて以後に荘政所が設けられたとすると、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地が候補の第一となると考えるのは当然です。このため
荘政所の一番候補は、荘内の字山王に鎮座する旧村社日枝神社周辺とされてきました。
   国道11号から少し入った所に大きな樟が何本も繁った中に立派な社殿があります。となりには延命寺の境内が隣接します。本殿の裏が、お寺の本堂のようになっています。神仏習合時代は、延命寺が別当寺であったのでしょう。それが明治の神仏分離によって引き離された歴史が伝わってきます。
 神域の前には大きな広場があり、ここが祭礼の時には何台もの「ちょうさ(太鼓台)」が集まってくるのでしょう。この真ん中にある樟の下に「柞田駅」の道標(説明版)が立てられていました。
柞田荘 柞田駅

柞田駅跡と大きな字では書かれていますが、よく読むと「この付近にも柞田駅があったと伝えられます」と断定はしていません。どこにあったかは分かっていません。
しかし、南海道がどこを通っていたかは、次第に明らかになってきました。かつては「伊予街道=南海道跡説」が称えられていましたが、今では南海道は別のルートであったことが分かってきています。太点線が南海道推定ルートになります。高速道路よりもまだ東になります。
柞田荘 日吉神社
  次の候補は「公文明」という小字名です。
これは、日枝神社の北東で柞田川の北側になります。南海道には近い場所です。『香川県神社誌』には、字公文明には、荒魂神社が祀られていたと記します。現在の公文明神社が鎮座する所です。公文名とは、郷や荘などの官人である公文に職分として給付される給田畠からなる名(名田)の呼び名です。ここから、その近辺に公文が住んでいた館があったと研究者は考えているようです。
  13世紀の柞田荘で起きた殺人事件から分かることは?
 柞田荘が立荘されて約30年後の弘安6年(1283)、柞田荘で殺人事件が起きます。これを朝廷に訴えた文書が残っています(祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書)
 訴えた人   日吉社の祀官成顕
 訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫
 罪状     兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
この殺人事件からは次のような事が分かります。
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた
②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった
③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。
④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
 13世紀末には、地元「悪党」の台頭で次第に「正常な経営」ができなくなっていることがうかがえます。
 この殺人事件から約60年後のち、南北朝時代の貞和4年(1348)5 月27 日の讃岐守護細川顕氏遵行状には、柞田荘地頭の名前が記されています。そこには
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
とあります。また嘉慶元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文書)に
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
という地頭の名前が見えます。殺人事件で訴えられた「地頭弘家と地頭代政行」も、この岩田氏の先祖になる人物かもしれません。
 どちらにしても、14世紀には柞田荘の地頭職を岩田氏が世襲するようになり「押領」が行われ、日吉神社の柞田荘経営は困難になっていったと研究者は考えているようです。

  殺人現場の「庄屋」は、柞田荘の「現地支配機関」の荘所・荘政所?
それでは殺人事件の現場となった「庄屋」は、どこにあったのでしょうか?それが先ほど第2候補に挙げた公文明神社です。ここは地図で見ると分かるように、南海道より1〜2坪の近い距離です。南海道と柞田川右岸に沿うことから、柞田駅はここにあったと考える研究者もいます。そして、柞田駅の建物が荘所に転用されたします。立荘後に、すでにあった屋敷を荘政所として使っていたという推察です。このためここが第2候補になるようです。
 ただ次のような問題が残ります。
柞田荘の東側の境界線がほぼ南海道と重なるのに「大路」・「作道」・「大道」などの表記はまったく残っていないことです。たとえば康治2年(1143)8 月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書)には、寒川郡富田荘の四至に
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
弘長3 年(1263)12月日の讃岐国留守所下文写(善通寺文書)には、多度郡生野郷内善通寺領の四至に
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
南海道らしき道が出てきます。
しかし、柞田荘では巽の膀示を打った地点で、単に「道」とのみ書かれているだけです。つまり、南海道と見られる道が 柞田荘内に取り込められているのです。南海道が活発に利用されていたのなら、荘園に取り込まれることはなかったはずです。前回に柞田荘の東側の境界が推定南海道のルートであることを見てきましたが、実際には「南海道」をイメージさせる用語は出てきません。「紀伊郷界」などとしか記されていないようです。
これは何を意味するのでしょうか。
①現南海道推定ルートが間違っている
②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
というところでしょうか。
南海道は多度・三野両郡境を大日峠で越えていますが、鎌倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠で越える「伊予大道」が重要度を増したようです。そして、伊予大道が幹線道路として用いられるようになったことが考えられます。
 確かに母神山の西側の南海道推定ルートを辿ってみると、舌状に張り出した丘をいくつも越えていかなければならず高低差があったことが分かります。それに比べて、現国道11号に隣接して伸びる伊予街道は平坦です。利用者にとっては、伊予大道の方が数段便利だったと思います。直線をあくまで重視した南海道は、利用者の立場に立たない官道で、中世には使われなくなった部分がでてきていたようです。
  以上、柞田荘全体をまとめておくと以上のようになります。
①柞田荘の荘域は、中世的郷である柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域においては、里界線や官道が用いられている
⑤条里制外で、南方の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられていた。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。
⑤柞田荘の拠点である庄家(荘政所)は、「伊予大道」に面した日枝神社の近くの「山王」にあった。
⑥13世紀には南海道はすでに「廃道」状態になっていて、柞田荘に取り込まれている。
⑦南海道に代わって伊予大道が幹線として利用されるようになっていた。

    参考文献
 田中健二  日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元

 
柞田荘 四方標示

前回は柞田荘の立荘が、どんな人たちの手で進められたのかをみてきました。今回は、荘園の境界を見ていくことにします。この荘園は柞田郷がそのまま立荘されたようです。だから、柞田郷の境界が分かると荘園のエリアも分かることになります。
柞田荘 地図

それでは、まず柞田荘の「四至」をもう一度確認しておきましょう。
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
 一、四至
東は限る、
 紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。
南は限る、
 姫江庄堺 西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
膀示四本                                             
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
 次のような手順で境界が決められ、東西南北に膀示四本が打たれたことが分かります。
①東の境界線は「紀伊郷境」、北の境界線は「坂本境」で北と東の郷境線が交わる「艮(うしとら)角に「膀示」が打たれます。
②そして、この場所は苅田郡の条里制の「五条七里一坪」の「田地」の中だと記します。
三豊の条里制研究の成果は「五条七里一坪」が現在のどこに当たるかを教えてくれます。現在の柞田上出東北隅、西部養護学校の南側にあたります。地図に艮「五条七里一坪」を書き入れてみると次のようになります。
柞田荘 郡境12

 艮膀示は現在の西部養護学校の東側になります。
この地点の説明が
「紀伊郷並びに山本郷、坂本郷、営庄(柞田荘)、四の辻これを打つ」
です。ここは確かに辻(十字路)になっています。ここに膀示が建てられたのです。どんなものだったのかは分かりませんが、石造のかなり背の高いものだったと勝手に想像しています。

柞田荘 艮付近

艮膀示が打たれた場所は、南海道に面した地点であったようです。
四国の条里制については、次のようなプロセスで作られたことが分かっています
①南海道が一直線に引かれる。
②南海道に直角に郡郷が引かれる
③郡郷に沿って東から順番に条里制の条番が打たれる
④山側(南)から海側(北)に、里番打たれる
三豊においても南海道に直角に三野郡と苅田郡の郡郷が財田川沿いに引かれます。そして、この郡郷に平行に条里制工事は進められていったと研究者は考えているようです。どちらにしても南海道や条里制、そして郷の設置は、非常に人為的で「自然国境的」な要素がみじんも感じられません。

柞田荘 艮付近2
南海道が通過していた艮ポイントとは、どんな場所だったのか探ってみましょう。  
南海道は本山付近で財田川を渡ると、国道11号と重なるように南西へ進みます。国道はパチンコダイナム付近で向きを少し変えますが、南海道はあくまで一直線に進んでいき、現在の西部養護学校付近の艮ポイントまで続きます。地形的には東から伸びてくる舌状の丘陵地帯をいくつも越えて行くことになります。近世の新田開発やため池工事で南海道は寸断され、姿を消していきます。ただ、観音寺池と出作池の間の堤防は、かつての郡郷で南海道跡のようです。この堤防には鴨類が沢山やって来るので、よく鳥見に出かけた思い出があります。この堤防からの景色は素晴らしく、古代の三豊の姿を思い描くには最適の場所です。ここからは東に母神山がすぐそばに見えます。その裾野には、三豊総合運動公園の背の高い体育館があります。公園の中には、以前お話しした6世紀後半の前方後円墳・ひさご塚古墳や横穴式円墳の鑵子塚古墳を盟主とする多くの古墳群が散在するのです。仏教伝来以前の古墳時代の人たちは、死霊は霊山に帰り、祖霊になり子孫を守ると考えたようです。母神山もその霊山であったと私は思っています。
 一ノ谷の青塚 → 母神山のひさご塚・鑵子塚 → 大野原の3つ巨大横穴式古墳
は、同一系統上に考えられ、同一氏族によって造り続けられたと研究者は考えているようです。そうだとすれば、先祖の作った古墳を眺めるように南海道は母神山のすぐ側を通り、そして、大野原の3つの古墳の中を縫うようにルート設定が行われたことにもなります。
 この地域の南海道工事に関わった氏族として考えられるのは・? 現在の所最有力は、紀伊氏ということになりそうです。紀伊氏の先祖が造営してきた古墳に沿うように、南海道があることの意味を考える必要がありそうです。話が飛んだようです。ここでは柞田荘のエリア策定にもどります。

   東南コーナーは「巽(たつみ)角井下村」
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。

巽角は井下村の姫江荘との境の路に打った。路は柞田荘のものである。巽膀示が打たれた場所を上の地図で見てみましょう。分かりやすくするために近世の柞田村の境界線がと南海道が太線で入れてあります。なお、高速道路が出来る前の地図です。
柞田荘 巽

  土井池をぐるりと囲むように旧柞田村と旧大野原村の境界は引かれていたようです。しかし、古代の境界線は直線です。ここから北西の坤角に向かって伸びていきます。
柞田荘 境界3

  巽角(東南)の境は大野原十三塚と柞田の接する辺り

「その境路の巽角これを打つ」とは、どういう意味なのでしょうか。「路は営庄(柞田荘)内なり」と、道の内側に打った、つまりこの道が杵田荘のものだと主張しているようです。この「境路」とは、どんな道なのでしょうか。私は、艮角と同じように、南海道であったと思います。南海道が艮ポイントからからこの巽ポイントまで、真っ直ぐにつながっていて、これが紀伊郷との境界になったのではないでしょうか。南海道の外側に境界線を打てというのは、
南海道はこっち側だとの主張が通ったように思えます。
柞田荘 巽1

南海道は、ここから大野原の3つの古墳に向かってまっすぐに伸びていきます。
  乾(北西)膀示 浜辺にどうやって境界を引いたのか?
一本 乾(いぬい)角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を記しこれを打つ。
 乾(北西)膀示(北西コーナー)は、鈎洲浜に乾膀示を打たと記されます。鈎洲浜(カギノスハマ?)は、当時は何もない砂浜の上で海岸線だったようです。現在、ここがどこに当たるのかも分かりません。
柞田荘 乾20
ここは当時の海岸線だったようです。「海面は参里を限る」とあり、燧灘の海の領有権が認められています。一里がほぼ四キロですから三里で十ニキロでおおよろ伊吹島までになります。この記事から、作田荘は、沖へ三里まで領海を持ち、独占的な漁業が営めたことになります。
次の記述は私には意味不明でした
「ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。」
 研究者は次のように説明してくれます。
畷ナワテは、四条畷というように畦道のこと。浜上の鈎洲浜(カギノスハマ?)は、古作と呼ばれている昔耕作されていた田畑の海側にある。そのため坂本郷とこの荘園との境界に、標識を打ちたいが何も目印がない。そこで行ったのが、次の作業で
①艮膀示(本)と古作畷(末)は坂本郷と杵田荘の境界になっている。
②そこで、本末の両方で狼煙をあげる。
③そして鈎洲浜(カギノスハマ?)の海際を南北に歩く
④陸の方を見ながら移動するとふたつの狼煙の煙が重なりる地点がある。
⑤ここが艮膀示と古作畷の延長線上になるので、ここに乾榜示を打つ。
⑥こうして鈎洲浜に乾膀示が打たれた
この方法は「見通し」といわれて古墳時代にはすでに行われていた測量方法のようです。その「見通し」技法が使われたことが分かります。
   柞田荘は、海にも領有権を持っていた。
 四至では、
「西は限る、大海 海面は伊吹島を限る。」
とあります。乾については
「海面は三里を限る。」
と注記されて、西に広がる燧灘の沖合3里の伊吹島までの海面が立荘されています。
 さらに「実検田畠目録」には、9町余りと5町余りの「網代寄庭二所」が設定されています。ここから「地先水面が四至内として領有されていたこと。そこには「網代」=漁場が設定されていたと、研究者は考えているようです。そうだとすれば柞田は、燧灘に特権的な漁場を持っていたことになります。貢納品を日吉神社に運ぶには海路が使われたでしょうから湊も整備されていた可能性が出てきます。
 なお、伊吹島については、「八幡祀官俗官并所司系図」には、鎌倉時代には石清水社領となっていたことが記されています。さらに、燧灘に面して北から賀茂神社領の仁尾湊、琴弾神社の観音寺湊があったことが分かっています。これに加えて、日吉神社領の柞田湊が交易・漁労の拠点として機能していたことになります。
柞田荘 地図

  東西南北の「角石」(コーナーストーン)をもう一度確認しておきます
時計回りに見ると、①艮(北東)・②巽(南東)・③坤(南西)・④乾(北西)の4ポイントです。
①艮ポイントは、紀伊・山本・坂本3郷と柞田荘との四つ辻に当たる刈田郡5 条7里1坪に
②巽ポイントは、井下村のうち、姫江荘との境界となっている道のさらに東南の角に打たれている。
③乾ポイントは、北側の坂本郷と南側の柞田荘の境となった鈎洲浜に打たれた。
④坤ポイントは、姫江荘内埴穴と園生村との境となっている浜の上に打たれた。

柞田荘 境界
  坤は野都合辺りで埴穴(大野原花稲)と園生村(柞田油井)の境。

しかし、疑問がひとつ浮かんできます。
「東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。」
ここには「苅田川」と聞き慣れない川の名前が出てきました。和名抄に出てくる刈田郡と同じ名前です。しかし、今は苅田川という川はありません。あるのは柞田川です。どう考えればいいのでしょうか?
  研究者は次のように考えているようです。
 柞田川というのは、もとはその郡名にちなんで苅田河と呼ばれていた。しかし、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」と見え、「苅田郡」から「豊田郡」に郡名が変わった。そのため苅田郡という呼称が使われなくなると共に、「苅田河」も、いつの時代かに柞田川と呼ばれるようになった。
  つまり今、柞田町のど真ん中を流れている川が古代は苅田川だったということです。そして、この柞田川流域に、ほぼ真四角な形で柞田荘は広がっていたようです。もちろん海のエリアを除くとですが・・・
  以上をまとめておくと
①柞田荘は、古代の柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域内では里界線や官道が用いられている
⑤条里制外の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられている。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。


DSC01155
王墓山の墳丘の麓にある箱形石棺  
「古代善通寺の王家の谷=有岡」に、王墓山と菊塚の横穴式石室を持つふたつの前方後円墳が相次いで造られたのが6世紀後半のことでした。しかし、それに続く前方後円墳を、この有岡エリアで見つけることはできません。なぜ、古墳は築かれなくなったのでしょうか?
 その理由に研究者たちは、次の2点を挙げます
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと
②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
こうして古墳は時代遅れの施設とされたようです。変わって地方の豪族達が競うように建立をはじめるのが仏教寺院です。

古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」

と研究者は言います。各地の豪族は、権力や富の象徴であり地域統治のシンボルであった古墳築造事業を寺院建立事業へと変えていったのです。
古墳から寺院へ
古墳から古代寺院へ
 それでは豪族達は、自分の好きなスタイルの寺院建築様式や、仏像モデルを発注できたのでしょうか。
そうではなかったようです。前方後円墳と同じく寺院も、中央政権の許可なく建立できるものではありませんでした。寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては、作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていました。中央政府の認可と援助なくしては、寺院は作れなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す威信財として機能します。
 前方後円墳がヤマト政権に許された首長しか建設できなかったこと、その大きさなどにもルールがあったことが分かってきています。つまり、前方後円墳は地方の首長の「格差」を目に見える形で示すシンボルモニュメントの役割を果たしてもいたと言えます。このような中央政府による「威信財(仏教寺院)」管理で地方豪族をコントロールするという手法は、寺院建立でも引き続いて行われます。

3妙音寺の瓦

 例えば壬申の乱の勝利に貢献した村国男依〔むらくにのおより〕は死に際して、最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、氏寺の建立を許され下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立は認められています。地方豪族が氏寺を建てたいと思うようになった背景には、寺を建てることで、さらなる次の中央官僚組織への進出というステップにを窺うという目論見が見え隠れします。
3宗吉瓦2

 その例が、多度郡のお隣の三野郡で丸部氏が讃岐最初の古代寺院を建立するプロセスです。丸部氏は、天武朝で進められる藤原京造営に際して「最新新鋭瓦工場=宗吉瓦窯跡」を建設し、瓦を供出するという卓越した技術力を発揮します。中央政府は「論功行賞」として、丸部氏が氏寺を建設する事を認めます。こうして、讃岐で一番最初の古代寺院・妙音寺(三豊市・豊中町)が、姿を見せるのです。これを手本にして、佐伯氏の氏寺の建立は始まったと私は考えています。

佐伯氏の氏寺建立のプロセスを見ていきましょう。

DSC01201
伝導寺跡(仲村廃寺)
  佐伯氏の最初の氏寺は  伝導寺(仲村廃寺)
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、考古学が明らかにした答えとは異なるようです。善通寺の前に佐伯氏によって建立された別の寺院(Before善通寺)が明らかにされています。その伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。
 発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。

DSC04079
仲村廃寺の軒丸瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。瓦の一部は、先ほど紹介した丸部氏の宗吉瓦窯で作られたものが鳥坂峠を越えて運ばれてきているようです。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。
ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。
この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
ここまでは、有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したと受けいれやすい話です。

DSC01206
墓地の中に散在する仲村廃寺の礎石

 ところが話をややこしくするのが、時を置かずにもうひとつの寺を建て始めるのです。
DSC04077
善通寺の軒丸瓦
それが現在の善通寺の本堂と五重塔のある東院に建立された古代寺院です。そして、善通寺東院伽藍内からも伝導寺と同じ時期の瓦が出てくるのです。中には伝導寺と同じ型で模様が付けられたものも出てきます。これをどう考えればいいのでしょうか。考えられることは
①伝導寺も善通寺伽藍の創建も白鳳時代で、同時代に並立した。
 しかし、伝導寺と現在の善通寺東院は、直線にすると300㍍しか離れていません。佐伯氏がこんな近い所に、ふたつの寺を同時に建立したのでしょうか。前回に紹介した大墓山古墳と菊塚古墳は非常に隣接した時代に造営されたことをお話ししました。そして、被葬者は佐伯一族の中の有力一族の関係にあったのではないかという推察をしました。ここでも、本家と親家のような関係にある人物がそれぞれ氏寺を建立したという仮説もだせますが・・・何か不自然です。

DSC01203
仲村廃寺の礎石
②白鳳時代に伝導寺が建立されたが短期間で廃寺になり、今の伽藍の場所に移転した
 善通寺伽藍内で発見された白鳳時代の瓦は、廃寺とした伝導寺から再利用のために運ばれ使われた。この仮説には、移転の原因を明らかにする必要があります。
.1善通寺地図 古代pg
  伝導寺の南にあった3つの遺跡を見てみましょう。 
  ①生野本町遺跡は、善通寺西高校のグランド整備に伴う発掘調査で出てきた遺跡です。
溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。

  ②生野本町遺跡の南 100mに は生野南口遺跡が 位置する。
ここでは 8世紀前葉~中葉に属する床面積40㎡を越える庇付大型建物跡1棟、杯蓋を利用した転用硯1点が出土している。生野本町遺跡に近接し、公的な様相が窺えることから、両遺跡の有機的な関係が推測できる。
 そして、文献学的な推定からこの付近には南海道が通っていたとする次のような説がありました。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
 
 ③これを裏付ける考古学的な発見が、四国学院大学構内遺跡から出てきました。
この遺跡は、南海道推定ライン上にあるのですが、そこから併行して延びる2条の溝状遺構が見つかりました。時期的には7世紀末~8世紀初頭で、この2条の溝状遺構は南海道の道路側溝である可能性が高いようです。また、ここからは伝導寺で使われた同じ瓦がいくつか出てきています 。  
この3つの遺跡について述べられているキーワードを、取り出して並べてみましょう。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設
②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
 → 官衛的な様相が強い遺跡
③延床400㎡の大型建築物
 → 地方権力の拠点?
④遺跡の間を南海道が通っていた           
 → 多度郡の郡衛が近くにあるはず
⑤伝導寺の瓦が出土
  → 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理
⑥どの建築物も短期間で消滅
これらを「有機的な関係」という言葉でつなぎ合わせると、出てくる結論は何でしょうか?
それは、四国学院キャンパスから南にかけての微髙地に多度郡の郡衛施設があったということ、そして、佐伯氏の館もこの周辺にあったということでしょう。
それを研究者は次のような言葉で述べます
   この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。

要は、研究者も、7世紀後半には多度郡の郡衛がここにあったと考えているようです。
DSC01748

以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
 条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・

DSC01741
 
多度郡の郡衛の北に姿を現した古代寺院。これは甍を載せた今までに見たことのないような大きな建造物で、中には目にもまばゆい異国の神が鎮座します。古墳に代わる新たなモニュメントとしては最適だったはずです。佐伯の威信は高まります。

DSC01050
佐伯氏の居館は、どこにあったのでしょうか?
  従来説は、
  ①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
 
でした。  しかし、以上の発掘調査の成果を総合すると

  ②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった

  ③そして伝導寺の廃絶と善通寺伽藍への移転に伴い、佐伯氏の活動の拠点も今の誕生院の場所へ移動した と考えられるようになっているようです。
 ここで、残された問題に帰ります。
なぜ伝導寺が短期間で廃棄されたのかです。
 この問題を解くヒントが、実は3つの遺跡の中に隠されています。それは、
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。
ということです。これは伝導寺とおなじです。何があったのでしょうか?
7世紀後半の南海沖地震の影響は?
災害歴史の研究が進むにつれて
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」

という説が近年出されています。
「日本書紀」の巻二九、天武十三年(678)10月14日の記録に
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
とあります。
 続いて十一月三日には
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
ともあり、10月14日の地震により発生した津波の被害の報告のようです。7世紀後半に何回か大きな地震が起きていたようです。「伊予」「土佐」でも大きな被害が出ていることから、讃岐の善通寺市付近でも、戦後の南海地震と同じような被害があったのではないかと研究者は考えています。
 伝導寺が姿を見せた頃は、佐伯氏の居館は生野町本町遺跡付近にあった?
 先ほど見てきたように、この遺跡は白鳳時代の初め頃(七世紀後半)に成立し、白鳳時代末頃(八世紀初め頃)には廃絶しています。寺の移転に併せるように現在の西院に佐伯の居館も移転したようです。これも同じ地震被害に関連するものではないか、と研究者は推測します。確かに、戦後の南海地震規模と同規模の揺れなら善通寺にも被害があったでしょう。実際に多度津からの金毘羅街道の永井集落に立っていた鳥居は根元からポキンと折れています。建立されたばかりの寺院に、大きな被害が出たことは考えられます。
王墓山古墳や菊塚古墳の報告書には、大地震によると考えられる石室の変形が見られるとしています。善通寺市周辺における奈良時代以降の大地震の記録は残っていませんから、これらも白鳳時代の大地震によるものではないかといいます。
 こうした白鳳の南海大地震の被害を受けて、佐伯家の主がその対策をシャーマンに占なわせた結果、新しい場所に寺も本宅も移動して再出発せよという神託が下されたというSTORYも充分に考えられるとおもうのですが・・・・
  以上が現時点での伝道寺短期廃棄説の仮説です。これにて一件落着!と言いたいところなのですが、そうはいかないようです。
伝導寺跡からは平安時代後期の瓦が出土するのです。これをどう考えればいいのでしょうか?
普通に考えれば、この寺は平安末期まで存続していたということになります。しかし、寺として存続していたのなら瓦が別な場所で再利用されることはありません。とりあえず次のように解釈しているようです
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」

しかし、今後の発掘次第では「解釈」は変わっていくことでしょう。

   以上をまとめておくと次のようになります。
①7世紀後半に佐伯氏は、初めての氏寺・伝導寺を建立した
②この建立には三野郡の丸部氏の協力があった
③伝導寺建立後に南海道が整備された。
④現四国学院大学の図書館付近を東西に南海道は走っていた
⑤その付近には、多度郡の郡衛や付属施設が建ち並び、佐伯氏の館も周辺にあった。
⑥しかし、天武十三年(678)10月14日の「天武の南海大地震記録」によって大被害を受けた
⑦そのため建立されたばかりの伝導寺や郡衛・館も廃棄された。
⑧そして、新寺を現在の善通寺東院に、郡衛・館を現在の西院に移動した
これが空海が生まれる半世紀前のこの地域の姿だと私は考えています。  
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

四国学院のキャンパス内を南海道が通っていた?
古代善通寺地図

南海道想定ルート 四国学院のキャンパス内を横断している

四国学院の図書館新築に伴う発掘調査が2003年に行われました。その際に出てきた条里制の溝が南海道に付属する遺構ではないかとされています。その後、飯山町のバイパス工事に伴う遺構からも同じような溝が検出されました。その溝は条里制に沿って飯山町と四国学院を東西に一直線に結んでいることが分かりました。ますます古代南海道跡であるとの「状況証拠」が強まりつつあります。

DSC01754
 飯山町岸の上遺跡の推定南海道の溝跡
旧来は南海道は、伊予街道と同じで鳥坂峠を越えているとする説が有力でした。しかし「考古学的発見」がそれを塗り替えています。どのような形で南海道のルートは明らかになっていったのでしょうか? 
四国学院大学は、戦前には旧陸軍第十一師団の騎兵隊の兵舎があったところです。
DSC03484
現在でも二号館やホワイトハウスは騎兵隊の建物をそのまま使っています。戦前は、ここで馬が飼われ広い敷地では騎兵訓練が行われていたのです。
DSC02725
   我拝師山をバックに建つホワイトハウス 旧騎兵隊施設
そのキャンパスの中に新しい図書館を建設することになり、発掘調査が2003年に行われました。考古学の発掘調査からどんなことが分かったのでしょうか? 
普段は、あまり読まない発掘調査報告集のページをめくってみましょう。
DSC03474
新設された図書館
古代は、四国学院がある所はどんな場所だったのでしょうか?
調査報告書は、図書館敷地(発掘現場)周辺の現在地勢を確認していきます。それによると、この付近は旧金倉川の氾濫原西側の標高約31mの微高地の上にあります。北西約500mにある善通寺旧境内よりも約5m高いようです。
DSC02694
また、発掘後に新しくできた図書館の東側には今は人工の小川が流れています。ところが古代にも、ここには旧金倉川の旧河道があったことが分かりました。その伏流水は、今でも四国学院敷地東側の市道の暗渠になった溝の中を流れているそうです。
 遺跡の西側は、護国神社・旧善通寺西高校の間には道路を挟んで約1,5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れています。この河川が遺跡の西端を示しているようです。南側は、市道拡張時に立会調査を行った結果、ここからも旧河道が出てきました。この旧河道が、この遺跡と生野本町遺跡を区切っていたようです。
DSC09188

 以上から、この遺跡は東西南の三方を河川で区切られ微髙地にあったようで、
学校敷地の北西側を中心に東西400m、南北250mの範囲に広がっていると考えられます。この内2003年の調査区は図書館建設予定地全域で、広さは南北41.5m、東西33mでした。
DSC02724
ホワイトハウスとその隣の図書館

時代順に発掘現場を覗いてみましょう。
第1期:弥生時代後期 灌漑用の溝のみ 住宅地はなし
 遺物が出てくるのは、弥生時代後期からです。この面からは竪穴住居など集落に直接かかわるものは出てきませんでした。しかし、注目すべきは「溝3」で、北西から南東万向に横断し、幅約2m、深さ0.5mで、断面V字状で非常に深く溝内からは弥生土器が出土しています。この溝は、この遺跡の500㍍北にある旧練兵場遺跡の濯漑用の溝と規模・形状が似ています。「溝3」が濯漑用の幹線水路で、そこから導水する水路が幾本も伸びていたようです。
taisin03
ここで思い出したのが善通寺一円保絵図(上図)です。
これは中世に起きた水争いの裁判の際に、当時の名主達が作成したと云われています。真ん中にあるのが善通寺で、三層(?)の本堂と、二重塔(多宝塔?)が現在地に描かれています。そして、その西方には誕生院も姿を見せています。有岡大池を源流とする弘田川が誕生院の裏を弘田川が流れています。注目すべきは東南(地図左上)の水源です。これは現在の壱岐と二頭の湧水と考えられています。ここからの水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。特に二頭からの導水された水は東中学校の前を通って、四国学院の南に導かれていたように思えます。

taisin04
一円保絵図の拡大図
このような灌漑設備が弥生時代後期に遡る可能性があります。四国学院内のこの溝を流れていたを流れていた水は二頭湧水からもたらされ、旧練兵場方面に導水された可能性があることを記憶に留めておきます。
本論に戻りますが、この時代の四国学院キャンパスは水田でした。人が住む集落は北側の現在の市街地周辺にあったようです。
第II期:7世紀前半~中葉    集落が形成される時期です。
DSC01744

 蘇我氏が全盛を誇る7世紀前半に、水田だった所に竪穴住居・掘立柱建物、大規模な溝が相次いで現れます。しかも竪穴住居が6基が同時期に作られます。主軸を同じくする掘立柱建物3棟も作られ、また小規模な掘立柱建物や柵列も作られ集落としての姿が整います。これを「四国学院村」と名付けておきましょう。
注目したいのは、掘立柱建物を壊して短期間の内に条里地割に沿って集落内の建物が計画的に配置・整理されている点です。これは条里地割りのに伴う「開発整備」が行われたと見ることができます。
 もうひとつの注目点は東西に掘られた溝が、条里地割りである溝1の南側約9.0mに平行している点です。これを両側の溝に挟まれた部分の解釈として、余剰帯や道であった可能性が考えられます。これが南海道に結びついていくのです。
第3期:7世紀後半~末   竪穴住居などの建物はほとんどが廃絶
 遺構としては溝は3本残りますが、四国学院村の建物はほとんどが姿を消します。つまりこの時期には集落としての機能は終わり、溝のみが残っていたようです。
近 代
古代後半から近世にかけての遺構は全くでてきませんでした。田畑などに利用されていたようです。明治後半になると、この場所は旧陸軍の用地として使用されることになります。この時期の遺構として掘立柱建物が出てきました。この建物は2間×4間の大型のもので柵で区切られていることなどから、第十一師団騎兵隊の兵舎や厩舎と考えられます。

以上から四国学院大学構内遺跡は7世紀前半から中葉が遺跡の中心であったと考えられるようです。この時期に竪穴住居、掘立柱建物、溝が一斉に展開します。そして7世紀後半になると急に姿を消すのです。
四国学院側 条里6条と7条ライン
この時期の様子を善通寺周辺遺跡と比較してみましょう。
 近接する遺跡として、南西約0.3kmの位置に所在する生野本町遺跡があります。旧善通寺西高校のグランド作成の際に発掘されたこの遺跡は、柵で囲まれた条里地割と平行あるいは直交する溝が出てきました。報告者は、この溝を区画溝群と評価し、7世紀後半~8世紀前半の時期としています。また、この遺跡の柵列を掘立柱建物の一部と解釈すると約50㎡に復元でき、郡衛など官衛的要素を持った建物群と考えることもできる遺跡です
 さらに、南接する生野南口遺跡からは、40㎡を超える庇付大型掘立柱建物が出てきました。転用硯も出土しているので、二つの遺跡を含むこの一帯は、庶民が居住する集落とは異なる性格をもつと考えられ、多度郡衛の関連施設と推定されます。そうだとすれば空海の先祖達は、国造としてここで多度郡の政務を執っていたのかもしれません。伝えられるように空海が香色山の麓の佐伯家本宅で生まれたとすれば、そこから空海の父は、ここまで通っていたことになります。

 一方、四国学院大学構内の遺跡では、最大の掘立柱建物でさえも約25㎡程度で、大型の掘立柱建物の基準(40㎡以上)には及びません。統一性のない建物配置からも「官衛的要素」は見られず一般集落であったようです。ただし、一般集落からは出てこない「異質な遺物」が出土しています。
「四国学院村」から出てきた珍しいものは?
 土師質土玉・フイゴの羽口・須恵器・円面硯・瓦が出てきました。
 土師質土玉は竪穴住居の竃中から出土しました。住居を廃絶する時に祭礼用具として使用されたものと考えられます。このような風習は古墳時代にもみられ、旧練兵場遺跡の古墳時代の住居の竃中からも土玉が出てきました。住居を壊して土に返す際に、土玉を置いて祈るという風習が四国学院にあった村にも継続されているようです。
 フイゴの羽口は、住宅内や溝から破片が出土しています。関連遺物と考えられる鉄犀が溝から、砥石が竪穴住居から出土しました。しかし、点数が少ないことや周囲に炉跡遺構も確認されなかったことから、精錬・鍛冶などの製作集団による工房があったとは言えないようです。集落内での日常的な道具の製作など小規模に操業されていたと考えられています。
遺物からみた「四国学院村」の性格は?
硯や瓦の存在は、当遺跡の性格を知る上で重要です。硯は、文字が読み書きできる高位の一部の者しか持てなかったものです。また瓦は、中村廃寺出土瓦と同箔ですが出土個数が少なく、ここにに瓦葺の建物があったとは考えられません。屋根瓦としてではなく、何らか別の理由でここに運び込まれたものでしょう。どちらにしても、ここに住んでいた人が仲村廃寺と何らかの関係があったことは考えられます。
 以上から、この遺跡あるいは周辺に仲村廃寺と関係のある集団の拠点があったことがうかがえます。その集団とは、善通寺地区の「王家の谷」である有岡地区に首長墓である前方後円墳を東西に一列に並べて何世代にも渡り造営し続けた佐伯氏以外には考えられません。佐伯氏は、仏教が伝わるといち早く古墳造営から古代寺院建立へと切り替え、中村廃寺を造営します。その瓦制作にこの村の住人達も関わっていたのかも知れません。
発掘された溝と条里制の地割の関係を探っていくと
 
DSC01747
これで普通の発掘報告書は終わるのです。ところがこの報告書の凄いところはここからです。図書館敷地に残る溝が、多度郡の条里制の地割のどの部分に当たるのかを丁寧に当てはめていったのです。それが南海道発見につながる糸口となって行きます。
DSC01741
赤い実線が条里制地割 点線が南海道推定ルート

 
調査区域である図書館敷地の南端には、条里型地割に平行する溝があることが分かりました。この溝が条里型地割であることを、どうすれば証明できるのでしょうか? 細かいデーターを地図上に落とし込んだ結果、溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝が里境の溝だったのです。
 次に発掘調査により検出した条里型地割の遺構などを元に、さらに大縮尺の地図にはめ込みると、東西方向の溝は多度郡六里と七里の境の溝であったことが分かりました。
DSC01743
ピンクの部分が南海道 幅は8~9㍍ その両側に溝がある

さらに、先行する研究者は南海道を次のように想定していました
鵜足郡六里・七里境、
那珂郡十三里・十四里境、
多度郡六里・七里境を直進的に西進し、
善通寺市香色山南麓にいたる直線道路を想定。(金田1987)
つまり、この溝が多度郡の六里と七里の境界であるとすれば、予想していた南海道の位置とピッタリ合うことになります。そして道の両側には溝があるのです。
DSC01757

 以上の想定を、出てきた溝と合せてみると・・・
① 溝1南側の溝状遺構群を一連の遺構としたときの幅は?
  幅は東側で9m、中央付近で約8.5m、西側で約8.5mと、ほぼ平行しています。
② 県内で発掘された南海道駅路推定地の幅約12m、三谷中原遺跡の幅約10mよりは細いものの、他の伝路が幅6m程度の所もあるので、この遺構か南海道であった可能性は否定できないと結論づけます。
発掘調査報告会の時点で注目されたのは?
DSC09189

「空海の生まれた時代の村か 佐伯氏の村か」などの新聞の見出し記事に見られるとおり、空海との関連についてでした。南海道についてはあまり関心は持たれなかったのです。ところが、後の発掘で飯山町のバイパス工事現場でも同じような南海道推定ライン上に二条の平行する溝が検出されたのです。そして、その地点と善通寺の四国学院の溝とは一直線につながることが分かってきたました。こうして旧来の鳥坂峠越えの伊予街道=南海道説は舞台から姿を消しつつあります。それに代わって条里制沿いに側溝をもつ9~6㍍の大道が南海道であることが定説になってきました。
その発見のきっかけが四国学院の図書館工事に伴う発掘調査だったのです。

参考文献  県教委 四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年


このページのトップヘ