「史談会」へのお誘い 以下のような内容で5月の史談会を開きます。
講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
関連記事
講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
関連記事
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?


①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。

「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

田堵→負名→大名田堵→開発領主



飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道


讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。①年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。②十八遊學槐市。③時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。
①15歳で、外舅(母の兄)阿刀宿禰大足について漢学を学び、②18歳で平城京の大学明経科に入学した。③ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
凡大學生。取五位以上子孫。及東西史部子爲之。若八位以上子。情願者聽。國學生。取二郡司子弟爲之。大學生式部補。國學生國司補。並取二十三以上十六以下聰令者爲之。
およそ大學生。五位以上の子弟か、東西史部の八位以上の子弟で、入学希望があったものを入学させよ。地方の國學生については郡司の子弟を入学させよ。大學生式部補と國學生國司補の年齢制限はそれぞれ、23歳以上と16歳以下の者とする。
凡郡司。取下性識清廉堪時務者上。爲大領少領。強幹聰敏工書計者。爲主政主帳。其大領外從八位上。少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造
①空海の母の実家阿刀家の後継者で摂津が本貫②伊予親王の侍講(家庭教師)であった人物で、漢学の俊才であった③叔父阿刀大足が讃岐に残した痕跡は何もない


「問 八位以上子。情願任者聽。畿内外同不。答。畿外不取。又外六位以下不取也。但並得任國學生耳」
凡學生通二經以上求出仕者。聽擧送。其應擧者。試間大義十條。得八以上。送太政官。若國學生雖通三經。猶情願學者。申送式部。考練得第者。進補大學生。

①溝底(溝9・溝10)に凹凸があり、水が流れた形跡がないの灌漑用水ではない。②地表面の起伏を無視し、直線的に並んでいる③小ピット群は、道本体の土留めのための杭列か?

①目標物に向かって真っ直ぐな道の計画線が引かれる。これが基準線となり官道工事が始まる。②官道は基準線でもあり、これに直角に条里制ラインが引かれた。③官道は、国境や郡境・郷境ラインとしても用いられた。④南海道の道幅は約9~10mで、両端に側溝が掘られた
①藤原京や平城京のエリアも、計画道路が先に測量され、それを基準に設定されたこと,②摂津・河内・和泉の国境ラインの一部は、直線的に通る官道によって形成されていたこと

①鵜足郡六里・七里境、②那珂郡十三里・十四里境、③多度郡六里・七里境

①は、一番西側の紫ルートで金倉川や弘田川の流域を経て白方方面へ
②は、櫛梨山をまわりこんで生野・与北町から現在の河口方面へ
③は、祓川橋付近から垂水から八丈池→金丸池→道池を経て現在の河口へ
④は、小川・法勲寺から大束川に流れ込んで川津・宇多津方面へ
①古城とあるのが廃城となった丸亀城②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。

①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。


訴えた人 日吉社の祀官成顕訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫罪状 兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
①現南海道推定ルートが間違っている②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。一、四至東は限る、
紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。
南は限る、
姫江庄堺 西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。膀示四本一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
①東の境界線は「紀伊郷境」、北の境界線は「坂本境」で北と東の郷境線が交わる「艮(うしとら)角に「膀示」が打たれます。②そして、この場所は苅田郡の条里制の「五条七里一坪」の「田地」の中だと記します。
「紀伊郷並びに山本郷、坂本郷、営庄(柞田荘)、四の辻これを打つ」
①南海道が一直線に引かれる。②南海道に直角に郡郷が引かれる③郡郷に沿って東から順番に条里制の条番が打たれる④山側(南)から海側(北)に、里番打たれる
一ノ谷の青塚 → 母神山のひさご塚・鑵子塚 → 大野原の3つ巨大横穴式古墳
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 乾(いぬい)角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を記しこれを打つ。
「ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。」
畷ナワテは、四条畷というように畦道のこと。浜上の鈎洲浜(カギノスハマ?)は、古作と呼ばれている昔耕作されていた田畑の海側にある。そのため坂本郷とこの荘園との境界に、標識を打ちたいが何も目印がない。そこで行ったのが、次の作業で①艮膀示(本)と古作畷(末)は坂本郷と杵田荘の境界になっている。②そこで、本末の両方で狼煙をあげる。③そして鈎洲浜(カギノスハマ?)の海際を南北に歩く④陸の方を見ながら移動するとふたつの狼煙の煙が重なりる地点がある。⑤ここが艮膀示と古作畷の延長線上になるので、ここに乾榜示を打つ。⑥こうして鈎洲浜に乾膀示が打たれた
「西は限る、大海 海面は伊吹島を限る。」
「海面は三里を限る。」
「東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。」
柞田川というのは、もとはその郡名にちなんで苅田河と呼ばれていた。しかし、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」と見え、「苅田郡」から「豊田郡」に郡名が変わった。そのため苅田郡という呼称が使われなくなると共に、「苅田河」も、いつの時代かに柞田川と呼ばれるようになった。
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
「古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」

溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
→ 官衛的な様相が強い遺跡③延床400㎡の大型建築物
→ 地方権力の拠点?④遺跡の間を南海道が通っていた
→ 多度郡の郡衛が近くにあるはず⑤伝導寺の瓦が出土
→ 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理⑥どの建築物も短期間で消滅。
この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。
以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・
①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。」
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」

鵜足郡六里・七里境、那珂郡十三里・十四里境、多度郡六里・七里境を直進的に西進し、善通寺市香色山南麓にいたる直線道路を想定。(金田1987)