瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:南鴨念仏踊

    以前から探していた冊子を手にすることが出来ました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

今から約45年前に刊行された「讃岐の雨乞い踊」調査報告書です。この巻頭の「雨乞踊りの分布とその特色」は武田明氏によるものです。当時の武田氏が、県下の雨乞い踊りについてどのように考えていたのかがうかがえます。今回はその中から念仏踊りについて見ていくことにします。テキストは「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
最初に武田明氏は、雨乞踊を次の二つに分けます。

① 念仏踊 
南無阿弥陀仏の称号を唱えながら踊るもので、それが訛ってナッパイドウ、ナモデ、ナムアミドウヤなどと唱和しながら踊っているもの

②風流小歌踊 
小歌と思われる歌詞を歌いながらそれにあわせて踊る

そして讃岐に残る念仏踊として、以下を挙げます。
北村組  滝宮北、滝宮萱原、羽床上 羽床 西分 山田 千疋 
七箇組  神野、古野、七箇 十郷 象郷
坂本組  坂本 川西  法勲寺  川津  飯野
北条組    松山 加茂  林田  西庄 金山 坂出
南鴨組  南鴨
吉原組  吉原
美合組  美合
これを地図に落としたものが次の分布図になります。

讃岐雨乞い踊り分布図

ここからは次のようなことが分かります。
①綾歌・仲多度の中讃地方に伝承されている踊りが多いこと
②西部の三豊郡や東部の大川郡や高松地方には念仏踊りは伝承されていないこと。
③特に綾歌郡の綾南町滝宮を中心としたエリアが分布密度が高い。
北村組、七箇村組、坂本組、北条組もかつては滝宮神社と滝宮天満宮に奉納され、「滝宮念仏踊」と総称されていました。しかし、この滝宮念仏踊の組は、現在では踊られなくなった組があったり、滝宮への奉納をしなくなった組もあります。現在、滝宮への奉納を行っているのは、次の通りです。
1組 西分 牛川 羽床上(綾歌郡旧綾上町)
2組 山田上 山田下  (綾歌郡旧綾上町)
3組 羽床下 小野 北村(綾歌郡旧綾南町)
4組 千疋  萱原 北村(綾歌郡旧綾南町)(北村組は二回奉納)
滝宮念仏踊り 御神酒
    滝宮天満宮に奉納された12組の御神酒(西分奴組を含む)

もともとはまんのう町の七箇村組や、坂出の北条組などからも奉納されていましたが、幕末から明治頃には途絶えたようです。また、高松藩以前の生駒藩時代には、多度津の南鴨組や吉原組も滝宮に奉納していたことは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 この分布図を見て武田明氏は「滝宮を中心とした地方に念仏踊の分布が著しいのはどう言う理由からであろうか。」と問いかけます。
その答えとして用意されているのが次の2点です。
①滝宮神社に対する雨乞いの信仰が強力であったこと
②菅原道真の城山の神に祈雨したという伝説にもとづくもの
①については、龍神を祀る山や渕が、一字の祠堂になった例を挙げます。そしてその中にはおかみ〈澪神)を祭礼とするものが多く、非常に古い信仰の姿をとどめていることを指摘します。万葉集巻二の中の出てくる「おかみ」です。
わが里のおかみに言ひて降らしめし
雪のくだけしそこに散りけむ
そして次のように述べます。

このような祈雨の神としての信仰の中心地が讃岐にはいくつかあった。その中でも綾川流域の滝宮の信仰は、もっとも強大であったのである。もともとこの地には北山龍灯院綾川寺という寺があった。そしてこの寺は綾川の深渕に沿うて建っていたのである。この測は古くは蛇渕と言い、龍神が接んでいると信じられていた。また傍に一本の大木があって、龍神がその木に来って龍灯を点ずると言われていた。すなわち非常に強力な龍神信仰を伴なっていたわけである。

滝宮神社・龍燈院
  滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
そして龍灯院綾川寺に伝わる次のような伝説を紹介します。
綾川寺の僧空澄は道真公の帰依僧であった。
菅公が太宰の権師として筑前に向い流されて行く途中で船は風波の難にあって、現在の下笠居の牛鼻浦に寄港した。それを聞くと、空澄は取るものもとりあえず牛鼻浦に行き、遠くへ流されて行く菅公に逢った。菅公は空澄に衣を脱いで与へまた自画像と書写された心経とを与えた。やがて、菅公は筑紫に下向したが、筑紫で死去するや空澄はこれらの遺品を祀って滝宮天満宮を建立したという。綾川寺の傍には、占くからの滝宮神社があるので、滝宮神社と天満宮の三社は何れも南面して並んでいる。
そして、滝宮念仏踊をまず奉納するのは滝宮神社であり、 ついで天満宮に奉納するのである。すなわち滝宮を中心とした念仏踊群がよく発達しているのは龍神の信仰と菅公祈雨の伝説かひろく並び行われた為であると考えられる。

  以上を「意訳要約」しておきます。
①綾川屈折地の羽床のしらが渕から滝宮にかけては、古代からの霊地で信仰の中心地であった。
②そこに中世になって龍灯院綾川寺が建立され、滝宮神社の別当寺となって神仏混淆が進んだ
③龍灯院綾川寺は菅原道真伝説を接ぎ木して、滝宮天満宮の別当職も務めた。
④こうして龍燈院による滝宮神社と天満宮の管理・運営体制が中世に形作られた
ここで押さえておきたいのは、滝宮神社がかつては「滝宮牛頭天王社」と呼ばれていたことです。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院滝宮寺と滝宮(牛頭)神社(讃岐国名勝図会 拡大)

牛頭天王信仰は、京都の八坂神社や姫路の神社がよく知られています。

そこでは修験者たちが各国を廻国して、自分たちの信仰テリトリーで「蘇民将来のお札」や「豊作祈願」「牛馬の安全」などのお札を配布していたことは以前にお話ししました。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
   牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札
中世の龍燈寺と滝宮牛頭天王社の修験者や聖達も、同じように周囲の信仰エリアの信者達にお札を配布する一方で、日常的な接触を持つようになったことが考えられます。中世は西方浄土での極楽浄土を願う念仏が大流行した時代です。その中で、最初に最も多くの信者達を獲得したのは時衆の踊り念仏でした。その結果、いろいろな宗派がこれを真似るようになり、一次は高野山でも時衆の念仏聖が一山を乗っ取るほどの勢いを見せたことは以前にお話ししました。讃岐でもこのような動きが広がります。その拠点の一つとなったのが龍燈院滝宮寺であったのではないかと私は考えています。高野山の真言宗のお寺がどうして「南無阿弥陀仏」を唱えるのかと、最初は私も疑問に思いました。しかし、先ほど見たように高野山自体が時衆の念仏聖達に占領されていた時代です。また近世の四国辺路の遍路達も般若心経ではなく「南無阿弥陀仏」を唱えていたことも分かってきています。龍燈寺の修験者や聖達も教線拡大のために踊り念仏を広めたのではないでしょうか。修験者や聖達は、宗教だけでなく「芸能媒介者」でもあったことは以前にお話ししました。こうして滝宮牛頭天王社の信仰圏には、踊り念仏が定着していきます。そして夏の大祭には、信者達が大挙して踊り組を送り込んでくるようになります。それが先ほど見た坂本組や七箇組・北条組などの踊組になるのです。

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 ここで注意しておきたいのは、もともとはこれらの踊りは「雨乞い踊り」ではなかったことです。
奈良などの風流踊りの由来には「雨乞成就」のための踊りと記されています。坂本組の由緒書きにも「菅原道真公による雨乞祈願成就へのお礼踊り」のためと記されています。さらに七箇踊りでは「大旱魃で忙しいので念仏踊りは今年は中止する」という年もありました。近世には念仏踊りを踊っている人達には、これが雨乞いのために踊っているという意識はなかったことがうかがえます。
 近世の人々は「竜神に雨乞いを祈願できるのは、修行を積んだ験の高い高僧や修験者」と考えていたようです。何の験もない自分たちが踊って、雨を振らせることなどお恐れ多いことと考えていたはずです。自分たちの力で雨を振らせようとするようになるのは近代以後のことです。農民達は念仏踊りを、祖先供養のために踊っていたと私は考えています。
多度郡 明治22年
南鴨組のメンバーの村々

武田明氏は多度津の南鴨念仏踊についてついて次のように記します。
この組もかっては滝宮へ踊りを奉納していたと言い、今では滝宮念仏踊群の中には人っていないがやはり菅公祈雨の伝説を持っている。すなわち仁和四年(888)の大千魃の折に菅公は城山の神に雨を祈るとともに北鴨道隆寺の理源大師を頼み牛頭天王社に祈祷を命じられたという。すると滞然として雨が降り百姓は菅公の前に集って狂喜乱舞した。これが南鴨念仏踊の起りであると言う。やがて道真公は鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請したが、理源大師を先達として多数の山伏がこの勧誘の行列には加わったという。そしてその折にも踊りの奉納があったと請うが、このような伝承はやはり念仏踊の中には修験の影響があったことを意味している。現に南鴨念仏踊においてはまず貝吹きが法螺の員を山伏の行装で吹くし、また滝宮念仏踊においても員吹きは重要な役割を背負っていることからも明らかである。なお、南鴨念仏踊は現在は南鴨の加茂神社の境内で行なっているが、加茂神社は別雷神を祭神とし、別雷神は降雨をもたらす神として信仰されていたからである。

以上を要約すると
①菅原道真は城山での雨乞い祈祷の際に、多度津道隆寺の理源大師に牛頭天王社への祈祷を命じた
②雨乞い祈願が成就して、狂喜乱舞し踊ったのが南鴨念仏踊りの起源である。
③菅原道真はそのお礼に、鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請した。
④その際には理源大師を先達として多数の山伏が、この勧誘の行列には加わった
⑤以上から念仏踊りには、念仏系修験者や聖達が大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
 
 多度津の南鴨念仏踊が滝宮への踊り込みを行っていたことは史料からも確認できます。それが近世初頭には、中止されます。それはどうしてなのでしょうか?
 生駒藩では龍燈院への保護政策として、各地からの踊り込みを奨励するような動きがあったことは以前にお話ししました。
ところが生駒藩転封以後に讃岐は東西に分割されます。高松藩の初代藩主としてやって来た松平頼重は独自の宗教政策を持っていました。彼は、龍燈寺保護と賑わい創出のために、念仏踊りの踊り込みを許可します。しかし、丸亀藩領となった多度津の南鴨からの踊り込みは、他国領土であるという理由で許さなかったようです。それ以外の4つの組からは「雨乞成就のお礼踊り」という
「大義名分」付で許可されたのです。

善通寺の吉原組の念仏踊について、武田明は次のように記します。

ここにもまた管公城山の神に雨を祈った伝説を付加していて、ここではその干魃の折に吉原の村人が火上山の中腹にある龍王の祠に鉦や太鼓を持ち出して踊ったのがその起りであるという。しかし、ここでは古老の伝えるところによると、古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まったものだと言っている。永らく廃絶していたが今では復興されて現在に至っている。

南鴨組滝宮念仏道具割
 南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
南鴨の念仏組の史料には、構成メンバーの村々の名前と役割分担が記してあります。この中に吉原組もあります。ここからは吉原組も、南鴨組の一員であったことが分かります。先ほど見たように、南鴨や吉原村が丸亀藩に属することになって、滝宮への踊り込みが出来なくなります。そのため南鴨組を構成する村々では、村単独で踊りを残そうとしていたことがうかがえます。そういう意味では「古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まった」という認識は誤っていません。

まんのう町美合中通の念仏踊(大川念仏踊り)は、どの念仏踊よりも素朴だと武田明氏は評します。
香川県琴南町(現まんのう町) 大川念仏踊り 東雲写真館

 この踊りは大川山の頂上で踊り祈雨を祈願してから山を下って中通の八幡宮で踊り、最後には土器川上流の龍神渕の傍で踊って踊り納めることになっている。この踊りも一時は滝宮まで行っていたというがそれは詳かでない。
武田明氏が注目するのは、多度津町高見島のナモデ踊りです。

高見島なもで踊り
多度津町高見島のナモデ踊り

踊り自体が今まで紹介した念仏踊とは、異なっているというのです。
踊りの唱和の中に
ナモデ(テンテレツクテン)ナモデ‥‥
などという言葉があるので、一応は念仏踊の中に入れられているようです。もともと、この踊りは旧盆(旧7月13、14日)に行われていたものです。高見島には浦と浜との二つの集落があって、その集落の中間にある海浜まで来て二つの集落の者が踊っていたようです。まず踊りのはじめに
鹿島の神のかなめ石
と歌い、それからは中央の者が太鼓を打って踊り円陣を作った周囲の者がナモデナモデと囃し立てます。ここで武田明氏が注目するのはせんだんの本の枝を持った者が先頭に立って参加することです。せんだんの木は、盆に訪れて来る精霊のための依代なのかもしれないと武田氏は、次のように推測します。

遠い常陸の国の鹿島の信仰に見える鹿島送りの行事、或いはその年の作物の豊凶や一年間のうらないを告げていた鹿島の言ぶれなどが背景にあってこのような歌詞が海を越えて伝わり、やがてはそれが念仏踊と習合したと云うのです。何れにしても、高見島のナモデ踊りは讃岐の各地に見る念仏踊とは異種のものだ。

 最後に武田明氏は次のような文で閉めます。
ナモデ踊り以外の念仏踊はそのほとんどが法然上人との間に何らかのつながりがあったことを伝えている。滝宮念仏踊では建久四年に法然上人が讃岐に配流された時に念仏修行を里人に説きこの踊りを振りつけしたと伝えている。はたしてそういう事があったかどうかは考察しなければならないが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら踊る念仏踊が法然上人の念仏修行に結びついてこうした伝説となったものであろう。

これに対して、讃岐叢書民俗編の筆者は、讃岐の念仏踊りの起源は法然上人ではない。それは時衆の一遍の踊り念仏をルーツとするものだという立場に立っています。私も後者を支持します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。同時に尾池玄蕃が彼の管理エリアである丸亀平野について、七箇村(まんのう町)や南鴨組のことについて熟知している様子がうかがえます。彼が「能吏」であったことが分かります。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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