松尾寺とそれを守護する三十番社という関係に対して、長尾氏出身の宥雅が新たな守護神金比羅神が創りだし、金毘羅堂を建立します。ところが、そこへ土佐の長宗我部元親が侵入し讃岐を平定、琴平のお山の大将になります。金比羅神を創りだした院主の宥雅は、これを嫌って泉州堺に亡命。そこで、元親は従軍ブレーンで陣中にいた南光という修験者(山伏)を宥厳と改名させ、この山の院主に据えます。こうして元親支配下において土佐修験道グループによるお山の経営が始まります。
讃岐平定成就の返礼に、元親は三十番社を修復し、松尾寺に仁王堂(現・賢木門)を寄進建立します。
讃岐平定成就の返礼に、元親は三十番社を修復し、松尾寺に仁王堂(現・賢木門)を寄進建立します。
これが1583(天正11)年10月9日のことです。当時の象頭山のお山には、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の社やお堂が並立状態だったことがここからは分かります。つまり「お山はカオス」状態だったともいえます。
元親は、四国平定を成し遂げて、この山を「四国の総鎮守」として保護していくつもりだったのではないかと私は考えています。征服者としてやってきた自らの支配の正当性を創りだしていく宗教センターとして機能させていくという意図も見え隠れします。ところが元親の支配は、わずか数年で終わりを告げます。秀吉という巨大な存在が、元親の野望を吹き飛ばしてしまします。元親は土佐一国の主として、讃岐を去ります。お山の院主であった土佐出身の宥厳は、元親という保護者を失います。そして、お山を発展させるために、新たな統治者との良好な関係を結ぶという難しい舵取りを担うことになります。
今回は 第2代別当の「宥巌」について見ておくことにします。
今回は 第2代別当の「宥巌」について見ておくことにします。
宥厳はもともは南光院と呼ばれ、補陀落渡海の行場として有名な足摺岬で修行を積んだ土佐の当山派修験のリーダーでした。長宗我部元親の讃岐遠征に従軍ブレーンとして参加し、無住となった琴平山の院主に任命され、創生期の金比羅堂の発展に大きな役割を果たしていくことになります。彼の業績として挙げられるのは2つあります。
ひとつは、修験の山へと大きく舵をきったことです。
彼は先ほど見てきたように、土佐の足摺周辺で修行を積んだ修験者でした。そして、松尾山も善通寺の奥の院であり、修験者の行場でした。長宗我部元親から与えられて松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、宥厳は四国の行場の新たな中心地としていくことを目指したのかも知れません。これは、次の院主となる宥盛にも引き継がれていきます。こうして近世初頭の金毘羅さんは修験道の山になり、天狗信仰の中心地として知られるようになってきます。その契機は宥厳の登場にあったと私は考えています。
もう一つの業績は、松尾寺の宗教施設の中心を「金比羅堂」にシフトしたことです。
以前にも紹介したように羽床雅彦氏は、松尾寺の宗教施設は西長尾城主の甥である宥雅が、長尾一族の支援を受けて新たに建立したものであるとして、つぎのような建立年代を提示しています。
ひとつは、修験の山へと大きく舵をきったことです。
彼は先ほど見てきたように、土佐の足摺周辺で修行を積んだ修験者でした。そして、松尾山も善通寺の奥の院であり、修験者の行場でした。長宗我部元親から与えられて松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、宥厳は四国の行場の新たな中心地としていくことを目指したのかも知れません。これは、次の院主となる宥盛にも引き継がれていきます。こうして近世初頭の金毘羅さんは修験道の山になり、天狗信仰の中心地として知られるようになってきます。その契機は宥厳の登場にあったと私は考えています。
もう一つの業績は、松尾寺の宗教施設の中心を「金比羅堂」にシフトしたことです。
以前にも紹介したように羽床雅彦氏は、松尾寺の宗教施設は西長尾城主の甥である宥雅が、長尾一族の支援を受けて新たに建立したものであるとして、つぎのような建立年代を提示しています。
1570年 宥雅が松尾山麓の称名院院主となる1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
金比羅堂は、松尾寺本堂の守護神として宥雅が建立したものです。
神仏混淆信仰のもとでは、「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。そこで、宥雅は力強いインド伝来の蛮神を創造してます。それは、神櫛王の悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったのです。この神は宥雅と良昌の合作ですから、それまでいなかった神です。まさに特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者や天狗信仰者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。
これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きな「特徴」です。これは、讃岐にやって来る藩主への売り込みの際のセールスポイントになります。しかも、宥厳は長宗我部元親から「四国鎮撫の総本山」の使命を、松尾寺にもたすように使命づけられていた節があります。そうだとすれば、そのために培っていた手法を、新たに讃岐の藩主としてやって来た仙石氏や生駒氏・松平氏に使っていけばいいことになります。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺という一般的な宗教施設ではなく、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が得策と判断したのではないかと私は考えています。松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に行われたようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。
しかし、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことは後の金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。
後の記録は宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正13)年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600(慶長5)年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。
神仏混淆信仰のもとでは、「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。そこで、宥雅は力強いインド伝来の蛮神を創造してます。それは、神櫛王の悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったのです。この神は宥雅と良昌の合作ですから、それまでいなかった神です。まさに特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者や天狗信仰者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。
これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きな「特徴」です。これは、讃岐にやって来る藩主への売り込みの際のセールスポイントになります。しかも、宥厳は長宗我部元親から「四国鎮撫の総本山」の使命を、松尾寺にもたすように使命づけられていた節があります。そうだとすれば、そのために培っていた手法を、新たに讃岐の藩主としてやって来た仙石氏や生駒氏・松平氏に使っていけばいいことになります。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺という一般的な宗教施設ではなく、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が得策と判断したのではないかと私は考えています。松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に行われたようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。
しかし、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことは後の金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。
後の記録は宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正13)年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600(慶長5)年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。
さて、保護者であった元親が讃岐から去った後、新しい支配者に宥厳は、どのように向き合ったのでしょうか。しかし、このテーマに応えるのは資料的に難しいようです。先ほども述べたように「宥厳は元親敗退後は隠居」というのが正史の立場ですので、宥厳は表には登場しないのです。残っているのは寄進状ばかりです。しかし、寄進状が増えていくと言うことは、新領主とのいい関係が結べているということなのでしょう。
宥厳の時代に金毘羅山にもたらされた寄進状を見ていきましょう。
仙石秀久
讃岐の新たな領主として秀吉が最初に送り込んできたのは仙石秀久でした。
彼は、秀吉が羽柴隊(木下隊)と呼ばれた頃からの馬廻衆で、最古参の家臣として寵愛を受けてきた武将です。秀久は天正13年(1585年)7月、四国攻めの論功行賞により讃岐1国を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)に入城します。この直後の八月に秀久が松尾寺へ出した禁制が金毘羅宮に残っています。
讃岐の新たな領主として秀吉が最初に送り込んできたのは仙石秀久でした。
彼は、秀吉が羽柴隊(木下隊)と呼ばれた頃からの馬廻衆で、最古参の家臣として寵愛を受けてきた武将です。秀久は天正13年(1585年)7月、四国攻めの論功行賞により讃岐1国を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)に入城します。この直後の八月に秀久が松尾寺へ出した禁制が金毘羅宮に残っています。
小松内松王寺(松尾寺)一当手軍勢甲乙人、乱妨狼籍の事。一山林竹木を伐採の事。一百姓に対し謂れざる儀、申し懸ける族の事。右条々、堅く停止せしめ吃んぬ。若し違背の輩これ在るに於いては、成敗を加うべき者なり。価って件の如し。天正十三(1585)年八月十日 秀久(花押)
まず、宛先が金比羅堂でも金光院でもありません。「小松内松王(尾)寺」となっていることを押さえておきます。小松庄の松尾寺とです。ここからは、当時のお山の代表権が松尾寺であったことが分かります。ちなみに、長宗我部元親の仁王門も松尾寺への寄進でした。内容的には、松尾寺境内での不法行為の禁止を命じたもので、新領主が領内安堵のために出す一般的な内容です。
続いて、仙石秀久は、次のように寄進を継続します。
続いて、仙石秀久は、次のように寄進を継続します。
①1585年十月 10石を「金毘羅」へ寄進、②1586年二月 「金比羅」に社領として30石、
「金ひら 下之坊」に寺領として六条(榎井村)で30石を寄進しています。
寄進先名が「松尾寺」から「金毘羅」へ変化しています。
寄進先名が「松尾寺」から「金毘羅」へ変化しています。
寄進先の「金毘羅」・「金比羅」は金毘羅大権現です。「下之坊」は金毘羅神殿の別当、つまり金光院のようです。ここからは、松尾寺・三十番社・金毘羅堂の並立状態から金毘羅が大権現として、抜け出してきたことがうかがえます。その渦中にいたのが金光院の宥厳だったことになります。
仙石秀久との信頼関係を結べたかと思えたのもつかの間でした。翌年天正14年(1586年)、九州征伐が始まると、仙石秀久は先陣役として派遣される事になった四国勢の軍監に任命され、長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海して、豊後国の府内で島津軍と対峙します。この時の四国勢は、前年までは激しく敵対しあったもの同士の「呉越同舟」の混成軍で、さらに長宗我部氏は四国攻めの降伏直後という状態で、結束に乏しかったようです。戦術的にも冬季の渡河作戦という無謀な作戦の結果、戸次川の戦いで大敗北を帰します。しかも軍監としての役割を放棄して無断で讃岐へ帰ってきます。これに対して秀吉は大激怒。讃岐国を召し上げ、秀久に対しては高野山追放の処分を下したのです。 こうして仙石秀久の讃岐支配は一年も経たないうちに幕を閉じます。
生駒親正
親正も、先の支配者の元親や秀久に習ってこの山を保護します。入封翌年の天正16年(1588)正月に、
「中群小松郷内松尾村に於いて、高弐拾石末代寄進申し候上は、全く御寺納有るべき者なり」
と、まず二〇石を寄進しています。その宛先は松尾寺でなく金光院です。以後生駒家からの寄進状等はすべて金光院宛です。金光院は元々は松尾寺の別当でした。それが、宥厳の下で金毘羅大権現の別当に「転進」して、その地位を確立しつつあったようです。
以後の生駒家からの寄進を見ておきましょう。
天正16(1587)年 榎井村で5石が寄進されて計25石、
天正17(1589)年 小松村の興田(新田開発地)5石が寄進。慶長 5(1600)年 関ケ原合戦後に「松尾御神領」として、22石を「院内」において寄進。慶長 6(1601)年 社領四25石5斗が「寺内」で寄進。
宥厳は、先ほども述べたように長宗我部元親の配下の土佐出身の真言密教修験者でした。
そのため元親撤退後も、琴平の山に院主として留まることについては、山内の各勢力から強い批判の目が向けられたようです。それを裏付けるように「正史」においては、「宥厳は元親退去後は引退」したと記されています。そのような中で宥厳の右腕として活躍するのが宥盛です。
讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
金毘羅大権現の基礎を固めたと宥盛とは?
讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
金毘羅大権現の基礎を固めたと宥盛とは?
金剛坊宥盛(金剛坊が修験号)は、高松川辺村の400石の生駒家家臣・井上家の嫡男で、高野山で13年間修業を経ている真言僧です。その実績を認められ、高野山南谷浄菩提院の院主を勤めていました。弟・助兵衛は後に生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命します。また、長宗我部元親の侵入に際して、堺に「亡命」した金光院院主の宥雅の法弟にあたるようです。
天正14年に、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った金光院別当宥厳の勢威が衰えかけたころに讃岐に帰り、金光院に仕えるようになります。そして苦境にあった宥厳の右腕として、仙石秀久や生駒一正との関係を取り結んでいくために活躍します。慶長5年に宥厳死後の跡を受けて別当となり、同18年に死去するまでの13年間は、金毘羅大権現の基礎が確立した時代です。
宥盛が直面した課題とは何だったのでしょうか?
宥盛が直面した課題とは何だったのでしょうか?
第1に金毘羅神の神格をはっきりとしなければなりませんでした。
簡単に言うと、仙石氏や生駒氏など讃岐にやってきた支配者たちから「金比羅神」とは何者?と聞かれた場合に、きちんと経典を根拠にして説明できるSTORYを用意するということでしょうか。これが後に、幕府や諸大名から「金毘羅神とは如何なるものか」と尋ねられた時に答える由緒書きになっていきます。
ちなみに宥盛と同時代の林羅山は「本朝神社考」の中で、金毘羅神の神格論について次のように展開しています。
最澄が比叡山に建立した日古山王明神、空海が醍醐山に建立した清滝明神、丹仁が三井寺に建てた新羅神は、金毘羅神であり、素戔嗚尊父子である。前略 以上の諸文によってこれを見る時は、即ち金比羅神は、王舎城の毘冨羅山の神主にして、薬師十二神の中には第一なり、十六神の中には第二たり
「比叡山の日古山王明神・醍醐山の清滝明神、三井寺の新羅神=金毘羅神」であり、素戔嗚尊父子と神仏混淆されます。
宥盛の時代に定着したと思われる金毘羅大権現の由来書は、次のように記します。
金毘羅大権現は三国応化の神にて、往古より当山に鎮座したまい、日本一社の神として、他に奥の院又別宮有ること曽てなし、釈尊説法の時に及て、竺上に往現し、
仏法を守護し給い、其後当山に帰り給い、則ち神廟の岩窟に鎮座し給うこと、
一社の神秘にして他に知ることなし、権現自ら木像を刻み給ひそ、内陣の神秘是れ也、代々の伝説によりて開扉すること曽てなし、且師伝の本地は不動明王にて、別当の密伝なり。
余に霊験数多くありといえども人の知るところゆえに略す。云々
意訳変換しておくと
金毘羅大権現は、インド・中国・我が国の三国混淆の神にで、古来より当山に鎮座する日本一社の神である。当山以外に他に奥の院や別宮もない。釈尊釈迦が説法したときにインドに現れ、仏法を守護し、その後に当山に帰ってきた。そして今は金毘羅神廟の岩窟に鎮座する。その姿は、秘仏で知る者もいない。権現自ら己の姿を木像に刻み、内陣に奉った。代々伝えられる所によると、開扉されたこともない。なお本地仏は不動明王で、別当の密伝となっていて、見た人はいない。数多くの霊験が伝えられているが、よく知られた話なので略す。云々
第2に、三十番社との関係の調整です。
松尾寺の守護神はもともとは三十番神でした。そこに宥雅によって新たなインドからの金比羅神が守護神として迎えられたのです。しかし、新しい神には信者集団はいませんし、祭りを執り行うことも出来ません。そこで、従来からある三十番社の祭りを、アレンジして金比羅神の神事に組み立てて運用する必要がありました。
その「接ぎ木」作業を行ったのが宥盛だと考えられます。
①上頭人の侍者であったと思われる下頭に、上頭人とほぼ同格の地位を与えている点、②神前にお供え物を運ぶ女を、女頭人に格上げしている点、③神事関係の記録である「頭人勤人物帳」が、宥盛の時代から書き始められている点
などから、神事の規式を宥盛が定めたことがうかがえます。
定めただけでは、祭りは変わりません。運営する指導者達を説得・同意させなければなりません。そういう点では宥盛は、人々を動かす力を持っていたのでしょう
定めただけでは、祭りは変わりません。運営する指導者達を説得・同意させなければなりません。そういう点では宥盛は、人々を動かす力を持っていたのでしょう
第3に、新興勢力の金毘羅神が発展していくための旧勢力との権力闘争に打ち勝つこと
金比羅堂を創建した宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命しました。その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を訴えるのです。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた合力の金も送らない②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。例えば④の「才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った」というのも、先ほどの三十番社の祭事を、金毘羅神の祭事に付け替えるという「大手術」に反対した「才大夫」を追い出したとも考えられます。このような「権力闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位を確立して行ったのでしょう。ここには、金光院を発展させるために闘争心を感じます。
第4に宥盛は、天狗信仰を持つ修験僧(山伏)として優れていました。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、地域に多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も現在の奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデの行場で、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
それは「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり、山伏の姿で、岩に腰掛けた木像でした。そして自らを「入天狗道沙門」と呼んだのです。
象に乗る金比羅天狗
日本天狗番付の中にも金比羅天狗が入っている
この姿はさきほど見た金毘羅大権現の姿と、私には重なって見えてきます。
彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
見てきたように宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。そして、死しては金毘羅神の創建者として、神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。
そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。
最後までお付き合いいただ、きありがとうございました。
奥社の守り札
奥社の行場跡の天狗
そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。
最後までお付き合いいただ、きありがとうございました。