瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:叡尊

    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

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 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

前回は、次のような事をみてきました。
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、穢れも病原体も関係ないという考えが出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
⑤について、律僧が葬送に従事することで、律僧によって独自の「死の文化」が創られていくようになります。それが五輪塔、宝筐印塔などの石塔(墓塔・供養塔)、骨蔵器の登場です。これは葬送儀礼と呼ばれるもにになります。今回は、律宗によって生み出された「葬送儀礼」を見ていくことにします。 テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

伊勢の五輪塔、叡尊の弟子の作か/山形大教授が発見 | 全国ニュース | 四国新聞社
弘正寺五輪塔
最初に、伊勢市楠部の弘正寺跡五輪塔を見ておきましょう。
 楠部五輪塔はこれまで15世紀末のものとされ、廃寺となった律宗寺院「弘正寺」にあったため注目されてこなかったようです。それが2008年に、松尾剛次山形大教授(日本宗教史)の調査で次のような事が分かっています。
①楠部五輪塔が、奈良の西大寺を復興した高僧叡尊(1201-1290年)の弟子が造ったこと。
②鎌倉時代の律宗の五輪塔では最大級であること、
 五輪塔は、墓として律宗僧が建立を始めます。その際に葬られる僧侶の地位が上がるほど、その五輪塔も大きいという相関関係があるようです。奈良の西大寺にには叡尊の五輪塔がありますが、これが最大です。そして、楠部五輪塔の高さは約3,4mで、これと同格です。 五輪塔は弘正寺址に建っていること、五輪塔の形、年代、石の削り方などからみて、叡尊上人のお墓ではないかと考えられます。恐らく弟子が叡尊上人のお墓を建て、分骨したのではないかというのです。

律宗五輪塔
弘正寺跡五輪塔(叡尊の五輪塔)

 研究者が注目するのは、五輪塔の「水輪」の球体部分です。加工技術の特徴が、叡尊の弟子が造った極楽寺(神奈川県鎌倉市)の五輪塔などと一致します。そこから制作時期を、鎌倉時代後期から末期の制作と推察します。形から見ると、重厚感のある感じ、全体のバランスからみて鎌倉の忍性五輪塔によく似ています。
律宗五輪塔.2
弘正寺五輪塔
弘正寺五輪塔は、花崗岩製で、高さ3,4mもある巨大五輪塔です。伊勢弘正寺は、現在は廃寺ですが、叡尊が開山し、弘安3(1280)年に律寺として建立(再興?)された寺で、伊勢地方の筆頭寺院でした。この五輪塔は、大きさが、西大寺奥の院の叡尊塔と一致します。

巨大五輪塔!西大寺奥の院に眠る叡尊上人/毎日新聞「やまと百寺参り」第25回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

 叡尊教団では、その高さは僧侶の身分に比例するとされていたので、弘正寺五輪塔は叡尊の分骨塔かもしれないと研究者は判断します。五輪塔は、五つの石を積んだ墓塔、あるいは供養塔です。下から方形の地輪・球形の水輪・三角の火輪・半球形の風輪・団形の空輪からなります。平安後期に密教系の塔として現れ、後に宗派を超えて流行するようになります。
 五輪塔は、特に律僧によって数多く制作されました。
 2mを超える巨大五輪塔は、全国で70ほどありますが、ほとんどが叡尊教団の律僧の手によるもので、その寺の開山者の墓所である場合が多いようです。用いられている石材はそれまでは軟らかくて加工しやすい砂岩製が多かったのですが、律僧の五輪塔は硬い花崗岩や安山岩製です。堅い岩石を加工する新技術を持った中国からの石工集団を配下に組織して、般若寺十三重石塔をはじめ新しい石造物を創り出していったことは以前にお話ししました。
般若寺(はんにゃじ)十三重石塔
般若寺十三重石塔

古墳や古代寺院の登場と同じように、新たな宗教的なモニュメントは、新たな宗教ムーブメントの上に姿を現します。当時の人達にとっては、目に見える形で現れた大きな石造物は畏敬の念を抱く対象だったようです。五色台の白峰寺・十三重石塔も、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えていることは以前にお話ししました。
白峰寺 十三重塔 第五巻所収画像000010
白峯寺石造十三重塔

五輪塔が墓所な時には、地輪の下に骨蔵器に入った火葬骨があります。
額安寺五輪塔(鎌倉墓)|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)
額安寺の忍性五輪塔
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について、見ておきましょう。
忍性(にんしょう)は、建保5年(127)に大和国城下郡屏風里(奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くなった母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済に惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話には、慈悲深く意志の強い人柄がうかがえます。後半生は拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社会事業を展開しす。人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈しています。
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について「ふるさと大和郡山 歴史事典」には、次のように記されています。
   昭和34年3月23日重要文化財(建造物)。
額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは俗に「鎌倉墓」とも言われている。指定な受けた8基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでいる。東端および南から4番目のものに、永仁5年(1297)の銘があり、他のものも無銘ではあるが、このころ造立されたものと思われる。
昭和57年の解体修理の際行われた地下調査によって、南端の忍性墓のみが建立当初の位置を保っていることが判明している。また、忍性墓の骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となった。
額安寺(がくあんじ)五輪塔群(1)
忍性塔(額安寺)

 この忍性塔は塔高276㎝ある巨大五輪塔です。忍性は、嘉元元(1303)年に死去し、叡尊教団の鎌倉における拠点・極楽寺で火葬されます。そして、忍性の骨は分骨され、極楽寺(塔高308㎝)と竹林寺(大和郡山市、塔は破壊)にも五輪塔が立てられ金銅製の骨蔵器に入って納骨されています。こうして、骨蔵器という新たな葬儀用具が登場します。これは叡尊教団の「死の文化」創造の遺品と研究者は評します。
忍性骨臓器
額安寺の忍性骨蔵器

水輪に穴を開けて、水輪にも骨蔵器が納入される場合もあります。

西方院(唐招提寺 子院) そして今週のNHK歴史秘話ヒストリア | タクヤNote
唐招提寺西方院の證玄塔

唐招提寺西方院の證玄塔は、塔高が238㎝もある巨大五輪塔です。昭和44(1969)年6月の修理の際に、地輪の下から次のような金銅製の骨蔵器が出てきました。
律宗の骨臓器(証玄塔水輪)
唐招提寺西方院の證玄塔から出てきた骨臓器

図8のように水輪部に穴が開けられ、図9のような追葬された骨蔵器も出ています。ここからは律宗では、高僧の墓所として五輪塔を立て、骨臓器を埋葬していたことが分かります。

研究者が注目するのは、西方院が地域住民の墓所の中核となっていることです。
律僧たちが境内墓地や地域の惣墓を生み出し、その周辺に地域の有力者達が墓石を立て始めるのです。そして墓域を管理するのは律宗僧でした。ここからは、律宗僧侶の五輪塔が核となって、地域の墓所へつながっていく道が見えて来ます。
以上をまとめておきます
①葬送に関わるようになった律宗僧は、五輪塔を葬儀モニュメントとして建てるようになる
②最初は、開祖や高弟のもので大きさと功徳は相関関係にあるとされた。
③分骨された五輪塔が各地に姿を現し、以後門弟達は、その周辺に自分の五輪塔を建てた。
④五輪塔の石材は、それまでは堅くて加工が難しかった安山岩や花崗岩であった。
⑤それを可能にしたのは東大寺再興のために中国から呼ばれた石工集団であった。
⑥彼らは律宗の求めに応じて、石造十三重塔などを各地の末寺に建立した。
⑦それは瀬戸内海に伸びゆく律宗西大寺の教勢拡大のモニュメントでもあった。
⑧その一例が、五色台・白峰寺の十三重塔(東塔)である。
⑨この時期、讃岐国分寺の再興を行ったのも律宗西大寺の僧侶であった。
⑩高瀬の謎の石塔とされる威徳院勝造寺層塔(八百比丘尼塔)も、このような文脈の中で考える必要がある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(東西二つの十三重石塔が描かれている)

白峰寺の十三重石塔について以前にお話ししました。十三重石塔は、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えるようになっているようです。

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白峰寺の十三重石塔

どうして西大寺律宗は、石塔造立を重視したのでしょうか。それを解く鍵は、西大寺中興の祖とされる叡尊にあります。叡尊にとっての多重層塔の意味は何だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

叡尊上人
西大寺中興の祖・叡尊上人
叡尊上人の伝記・作善集には、次の2つがあります。
①『金剛佛子叡尊感身学正記』
②『西大寺勅謚興正菩薩行實年譜』
西大寺叡尊傳記集成[image1]

ここに記された多重層塔の造立勧進の記事を研究者は見ていきます。
「暦仁一(1238)年」八月から九月
①又流記日 四王堂八角塔塞韆講郎佛舎利可爲當殿奪乏旨顯然。故告當寺五師慈心爲彼五師沙汰。以二九月上旬。立八角五重石塔。②郎奉納予所持佛舎利一粒一畢。(中略)
從同月卅日。一寺男女奉爲供養舎利。受持八齋戒。③可爲毎月勤行

ここには次のような事が記されています。
①四王堂の中心として本尊舎利を納めていた木造八角五重塔を八角五重石塔に造りかえた、
②そして叡尊の所持する舎利を一粒納入し、復元した
③四王堂本尊舎利塔再興後は、毎月舎利供養がおこなわれた
ここからは西大寺の八角五重石塔は「当殿本尊」である仏舎利を納入する舎利塔として造られていたことが分かります。
さらに『行実年譜』の暦仁一年十月には、次のように記されています。
廿八日結界西妻而爲弘律之箋醐覺葎師羯摩菩嗜相講翌日始行二四分衆法布晦

十月二十八日に西大寺に覚盛律師をむかえて、弘律の道場としています。再興された八角五重石塔は、単に四王堂本尊の舎利を納める舎利塔としてだけではなく、弘律道場の中心的存在を示すシンボルタワーとしての意味を持つものでした。言いかえれば、舎利塔としてだけではなく、釈迦の仏体そのものを示すものとして考えられていたと研究者は指摘します。
宇治の十三重石塔
宇治の浮島十三重塔
『行実年譜』「弘安九年丙戌」の条に出てくる宇治の浮島十三重塔(1286年)を見ておきましょう。
この塔は叡尊が宇治川の大橋再建の際に建立した日本最大の石造物で、次のような銘があります。
菩薩八十六歳。宇治雨寳山橋并(A)宇治橋修造己成。啓建落成佛事。(中略)
而表五智十三會深義。(B)以造五丈十三層石塔。建之嶋上。
(A)宇治橋修造にさいして、梵網経講読に集まる聴衆の中の漁民が発心して、舟網など殺生具をなげだした。その供養として川中に小島を築き、殺生具を埋めた。
(B)石塔造立に続いて、漁人の発心によって築かれた島上に十三重石塔を造立した。
ここには宇治に建てられた十三重石塔は「五智十三会の深義」を表わすものであったことが記されています。ここからこの石塔は、宇治川の漁業禁止と宇治橋供養のため建立され、塔の下には漁具などが埋められたと伝えられます。
この石塔について『行実年譜』には、次のような願いがこめられていると記されています。
意欲救水陸有情也。所謂河水浮塔影。遠流滄海。魚鼈自結善縁。清風觸支提。廣及山野。鳥獸又冤惡報。其爲利益也。不可測也。印而教漁人。曝布爲活業。又時有龍神。從河而出來。從菩薩親受戒法。歡喜遂去亦不見矣。

意訳変換しておくと
水に映える塔影が広く世界隅々までおよび、人間はもとより生きとし生けるものすべてにわたるもので、漁民も含まれる。さらには竜神にさえも、その功徳をさずけるものである。


そして十三重石塔銘文には、次のように刻まれています

於橋南起石塔十三重於河上奉安佛舎利并數巻之妙曲載在副紙令納衆庶人等與善之名字須下預巨益法界軆性之智形上

ここからは次のようなことが分かります。
①十三重塔の塔内には、金銅製・水晶製五輪塔形舎利塔数個と功徳大なる経典・法花経などを納入されたこと
②併せて舎利を納め「法界軆性之智形」として、釈迦の仏体として造立されたものであること
③「衆庶人等與善之名字」を記した結衆結縁名帳も納入したこと
これは名を連ねた結縁者を極楽に導びこうとするものとされます。
それでは、石塔造立を行なうことで得られる功徳とは何だったのでしょうか
それについてて『覚禅抄』には、次のように記されています。
寳積經云。作石塔人。得七種功徳。一千歳生瑠璃宮殿。壽命長遠。三得那羅延力。四金剛不壊身。五自在身。六得三明六通。七生彌勒四十九重宮夢。

塔の造立者に授けられる功徳が7つ挙げられ、弥勒四十九重宮へ導びかれると説いています。宇治浮島の十三重石塔に納められた名帳に名を連ねた人は、その功徳(勧進)によって、弥勒浄土へ導びかれると説かれたのです。
 
 以上から叡尊上人と十三重石塔には、次のような関係があると研究者は指摘します。
①五智十三会の深義を表わし、仏舎利を納入することで、釈迦の仏体そのものとなっていること
②塔は弘律道場の中心で、その存在が永遠の弘律道場となるには必要であったこと。
③造塔功徳によって、衆生を弥勒浄土への道筋を示すこと
このように十三重石塔は、信者を弥勒浄土へ導くためのシンボルタワーとして不可欠なものだったようです。上田さち子氏は「叡尊の宗教活動は。こうした点でも、融通念仏、時衆、真宗仏光寺派と共通するものが認められる。」と評します。
以上を整理しておきます。
①叡尊は光明真言を、融通念仏的より簡単に功徳が受けられるようにした
②それは貴族や一部の僧侶たちだけのものから光明真言を社会の底辺まで広げることになった。
③その根本思想は、時衆などの阿弥陀如来による往生ではなく、釈迦如来における往生であった。
④十三重石塔銘文中の「釈迦如来、当来導師弥勒如来」が、そのことを物語っている。
 
西大寺律宗は、末寺をどのように増やして行ったのでしょうか?
  1391(明徳二)年の西大寺『諸国末寺帳』には、数多くの寺院が末寺として記されています。しかし、これらの寺は最初から西大寺末寺であったのではないようです。その多くは叡尊と、その死後に弟子たちによって西大寺末寺として組みこまれたものです。
それでは西大寺は、どのようにして末寺を増やして行ったのでしょうか。それと石塔造立とはどんな関係にあったのでしょうか。
叡尊の布教勧化活動を考える際に、研究者が取り上げるのが奈良の般若寺です。
般若寺 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」
般若寺の十三重石塔(宋人石工の伊行末作)

般若寺の十三重石塔と本堂と本尊の出現時期を見てみます。
十三重石塔は、石塔内に仏舎利、経巻が納入されていて、経箱には「建長五(1253)年」の墨書銘が残されています。ここから塔納入時の年代が分かります。

本尊については『感身学正記』に、次のように記されています。

建長七年乙卯 當年春比。課佛子善慶法橋。造始般若寺文殊御首楠木。自七月十七日迄九月十一日。首尾十八日。
1255年の春に、仏師善慶法橋に命じて、般若寺のために文殊菩薩像の首を楠木で作らせた。
奈良般若寺
般若寺本堂と十三重石塔
本堂については、次のように記されています。
弘長元年辛酉二月廿五日。文殊奉渡般若寺。御堂半作之間。構彼厨子。奉安置堂乾角。
1261年 製作開始から六年後に文殊菩薩が般若寺に渡され、本堂に厨子が作られ、そこに安置した。
以上からそれぞれが出現した年は以下の通りになります。
1253年 十三重塔造立
1255年 般若寺本尊の文殊菩薩像製作
1261年 般若寺本堂建立
ここからは十三重石塔は、文殊菩薩像製作開始より2年前、本堂完成より8年前には般若寺境内に造立されていたことになります。何もない伽藍予定地に、まずは十三重石塔が建てられたのです。これは現在の私たち感覚からすると、奇異にも感じます。本尊や本堂が建てられる前に、十三重石塔が建てられているのですから・・・
「伊派の石工」
      南宋からやってきた石工集団・伊派の系譜
 般若寺の十三重石塔を製作したのが伊行末(いのすえゆき)とされます。
伊行末は、明州(淅江省寧波)の出身で、重源が東大寺大仏殿再興工事のために招聘した、陳和卿(ちんなけい)などととともに来朝し、石段、四面回廊、諸堂の垣塌の修復に携わっています。正元二年(1260)7月11日に行末はなくなりますが、その後は嫡男の伊行吉(ゆきよし)をはじめとして、末吉(すえよし)・末行(すえゆき)・行氏(ゆきうじ)・行元(ゆきもと)・行恒(ゆきつね)・行長(ゆきなが)といった石工たちが伊(猪・井)姓を名乗り、伊派石工集団を形成し優れた作品を残しています。伊派石工集団の菩提寺だったのが般若寺でもあるようです。般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
  般若寺の笠塔婆(伊行末の息子・伊行吉が父母のために寄進)

十三重石塔建立の意義とは、何なのでしょうか?
『覚禅抄』の「造塔巻」建塔萬處事には、次のように記されています。
諸經要集三云。僣祗律云。初起僣伽藍時。先觀度地。將作塔 處不得在南。不得在西。應得在東。應在北。

ここには伽藍を建てる時には、まず塔造立から始めることとされています。般若寺中興も、まずは宋人石工の伊行末によって十三重石塔が造立されたようです。
1267(文永四)年に、般若寺は僧138人の読経の中で整然と開眼供養が行なわれ、再興されます。その様子が次のように記されています。
抑當寺者。去弘長年中。奉安讒尊像以來、雖不經幾年序。自然兩三輩施主出來。造添佛殿僧坊鐘樓食堂等。殆可謂複本願之昔。數宇之造營不求自成。是偏大聖文殊善巧房便與。願主上人良恵无想之意樂計會之所致也。

このように往古の姿に復興させた後、次のように管理されます。
印爲西大寺之末寺。可令管領一之由。上人競望之間。遣同法比丘信空一令住。

ここからは般若寺が西大寺末寺に置かれ、叡尊の弟子信空が責任者として管理したことが分かります。

西大寺の叡尊による般若寺復興事業の手法を整理しておきます
①叡尊と伊派石工により、十三重石塔が造立され、弘律道場とされた。
②その後に文殊菩薩像を造立し、その礎を築いた
③復興が終ると、大量の僧を動員して大イヴェントを開催して、西大寺の勢力の大きさを示し、末寺に組みこんだ
④さらに弟子信空を送り込み、 西大寺末寺の固定化をはかった。
④弟子信空は、叡尊亡き後に西大寺第二代長老となる人物である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六

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