瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:古代の写経

写経 藤原宮子経典

 前回は経巻写経のプロセスを見てみました。そこには、組織として動く写経プロ集団の存在がありました。記録文書にしっかりと残されて、ひとつひとつの作業が管理されていることが分かりました。国家機能の一端が少し見えてきた気もします。
 さて、今回は、写経所で働いている文字のプロ達の別の姿を見てみようと思います。正倉院には、彼らの給料前借り申請書や、病休願い申請書までのこっているようです。彼らの人間臭い浦の姿を見てみましょう。
写経 給料を支払う
  布施(給料)を支払う
 経巻は出来上がりましたが、案主(監督官)の仕事が終わったわけではありません。例えば経師などへの布施(給料)の支払いが終わっていません。布施の支給額は、それまで記録してきた手実帳(勤務時間記録)にもとづいて算出されます。経師、校生・装黄(表具師)の作業時間を記録した手実帳が、正しいかどうかチェックします。案主は、その数字を各経師ごとに集計します。そして、総労働時間量を算出しています。
 つぎに案主が作るのが「布施申請解(ふせしんせいげ)」です。これは、経師たちに支給する物品を造東大寺司に請求するための文書です。まず案(下書き)を書き、修正を加えてから正文を作成します。布施は、布で支給される場合と銭貨で支給される場合とがありました。布施が布で支給される場合、布を細かく切り分けることを避けるために、できるだけ一端(写経所で布施にあてられる布には、四丈二尺で一端のものと、四丈で一端のものとがあった.)単位になるように操作がなされています。この操作は、なかなか面倒だったようです。知恵の働かせどころだったようです。そのプロセスは次の通りです
①請求書である「布施申請解(ふせしんせいげ)」を造東大寺司に提出
②太政官経由で、発願主である内裏に布施物の支払請求
③内裏から布施物が造東大寺司に送られ、写経所に回送
造東大寺司政所
  こうして内裏からの現物か銭が届けられ、これが布施(給料)として支払われたようです。

  役所から借金する
 平城京では銭の流通が盛んで、経師たちの生活も「貨幣経済の浸透」に巻き込まれていたようです。彼らは、布施だけでは生活が送れなくなると、月借銭(げつしゃくせん)という高利貸に手を出しています。これは、官庁が運営する高利貸しのようなもので、上司に申し込むシステムです。国家が運営しているのです。
 正倉院文書には、百数十通もの月借銭解(借銭帳)が残っています。千年を経た借金帳を公開されるのは、あの世にいる人間にとっては心外な事かも知れませんが、当時の勤務状況や生活を知る上では貴重な史料です。その中の借銭書を見てみましょう。
  ある経師が宝亀三(772)年4月13日に、借金を申し込んだ時の月借銭解です。

写経 月借銭解(継文)

巧清成謹解 申請借銭事
合議五百文  利毎百一月十二文
ここからは、借金を申し込んだのは巧清成であることが分かります。借用希望令額は500文で、これを100文あたり月12文の利息で借りたいと上司に申し込んでいます。月1割の利子ですから今だと「悪徳金融業者」とされそうですが、当時はこれが標準だったようです。質物なしで、給料日に元利をそろえて返済するとし、「證」(証人)を二人立てています。
丈面に朱の合点がつけられ、末尾に朱筆で、次のように記されます
「員(かず)に依りて下し充てよ」

これは、借金申し込みにが審査でパスして、貸し付けられることになったことを示しているようです。最後に未筆で、2ヶ月後の6月23日に元金500文と2ヶ月分の利息130文を返済したことが注記されています。

写経 給料前借り
 この月借銭解で研究者が注目するのは、質物なしで返済を給料日に行っている点です。
これは、別の視点で見ると将来支給される布施を質物の代わりにしたい、と希望していることです。このような返済方法が、普通に行われていたようです。そうなるとこれは給料の前借りということになります。借金前借りは、この時代から行われていたようです。なんだか楽しくなります。
 別の月借銭解の史料には、借金希望金額が一貫文で、家とその土地を質物として一ヶ月間の借用を希望しているものもあります。もし返済できなければ、家と土地を失うことになります。その時には、一家の生活はどうなるのでしょうか。家族離散もあったのかもしれません。
 古代から給料の前借りはあったし、取り立てを廻るトラブルや事件もあったようです。もの悲しい気持ちにもなってきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社

  中世の修験者を追いかけていると讃岐水主神社の増吽に行き着き、彼が勧進僧侶として大般若経など写経に関わっていることを知りました。彼は、写経ネットワークの中心にいたことが、勧進を進める上での大きな力となってきたと思うようになりました。しかし、具体的に写経とはどんな風に進められていたのか、なかなかイメージが掴めません。そんな中で図書館で出会ったのが「古代の日本 文字のある風景」です。ここには、奈良時代に国家の政策として進められた写経事業が分かりやすくイラスト入りで説明されています。今回は、それを見ていこうと思います。時代は違いますが、奈良時代の写経事業の様子を見ていこうと思います。

 奈良時代の仏教を押し進めてきた聖武天皇の母は、藤原宮子(みやこ)という女性でした。
写経 藤原宮子系図

彼女は、藤原不比等の長女で、光明天皇の母ちがいの姉にあたり、文武天皇(軽皇子)の夫人として、大宝元(701)年に首(おびと)親王(聖武天皇)を産んでいます。
宮子が亡くなったのは、天平勝宝六(754)年7月19日のことです。正確な年齢はわかりませんが、七十歳前後だったようです。聖武はこの時54歳です。聖武天皇は、この二年前に東大寺の大仏開限会を成功させたあとも、東大寺や国分寺の造営をはじめ、仏教興隆に力を注いでいきます。聖武が没するのは天平勝宝八(756)歳5月2日ですから、母を失った2年後に亡くなります。
写経 藤原宮子像jpg
聖武天皇の母で、不比等の娘である藤原宮子

 藤原宮子が没すると、その直後から、造東大寺司の管轄下にあつた写経所で、梵網経(ぼんもうきょう)100部200巻(一部は上下三巻からなる)など1700巻の大量の写経事業が始められす。これらの書写事業は、宮子追悼のためのものであったようです。


大文化事業である写経行事は、どのようにして行われたのでしょうか?
奈良時代の律令国家には、律令の定めで公的な機関として「写経所」がありました。そこで、国家公務員が大量の経典を写経していました。いわゆる写経のプロ達がいたわけです。正倉院文書には700人を越える写経生の名前があるようです。写経生となるためには試字試験に合格しなければなりません。漢字に早くから親しむ環境が必要だったのでしょうか、その名前から判断すると渡来人やその子孫が大多数のようです。空海の母親の実家である阿刀氏も多くの写経生を輩出しています。写経生になると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執り写経にいそしんだようです。

当時は経巻需要はうなぎ登りでした。全国に展開した国分寺や国分尼寺にも多くの経典が必要です。鎮護国家として仏教の教義的な基礎を支えるために、また、さまざまな仏事に供するためにも、経巻は不可欠です。
 写経所では、写経事業を進める上で事務帳簿を作り、上級官庁の造東大寺司などと文書でやりとりします。その結果、写経所の政所(事務局)には「写経所文書」といわれる文書類が残され、それが正倉院にしまい込まれることになります。正倉院文書の中で、もっとも多くの分量を占めるのが、この写経所文書のようです。この文書の研究が進むにつれて、写経事業がどのように進められていったのか、その実態が明らかになってきました。
 藤原宮子の追善のための写経された経巻の制作過程を見ていくことにしましょう。梵網経は、今では中国で作られた偽経とされますが、この当時には、鳩摩羅什の訳と信じられ、大乗戒の基本的な経典として尊重されていたようです。
写経の準備をする
写経事業は、写経所に対して、GOサインが下りることから始まります。この時には、平勝宝六(754)年7月14日の飯高笠目(ひだかのかさめ)によって指示されています。飯高笠目とは、伊勢同飯高郡から都に出て、長く内裏に勤めていた女性のようです。当時の孝謙天皇に仕える高位の宮廷女官ともいえるのでしょうか。そうだとすると、この写経事業の真の発願主は、孝謙天皇であった可能性が高いようです。孝謙天皇の意を受けて、飯高笠目が写経の指示を与えたとしておきましょう。
写経に至るプロセスを見てみましょう。
①写経所は、写経指示を受けると、筆・墨・紙などの必要物資の見積もりを作成して、上級官庁の造東大寺司に提出
②造東大寺司は、必要経費や必要物資を写経の発願主に請求
③発願主から経費や物資が造東大手司を経由して写経所に送られてくる
④7月25日に、写経用の経紙(色紙336張・穀紙3905張)と凡紙309帳が内裏から運び込まれた。これを櫃(木箱)に入れて運ばれ、写経所の責任者が立ち会って確認した上で、受け取った。
⑤その2日後に、筆と墨が納入された。
巻物は、どのようにして作られたのか
 運び込まれた紙の中で一番多い穀紙(かじかみ)とは、楮(コウゾ)の繊維で作った紙です。写経所に連び込まれた経紙は、1枚ずつバラバラの状態です。これが、案主の上馬養によって、装黄(そうおう) (=表具師)に割り当てられます。これを記録し帳簿も残っています。表具師達は、割り当てられた経紙を「継」「打」「界」の 3工程をへて、経文を書き写せる状態に仕上げ、書写用の巻物にしていきます。
「継」は、20枚の経紙を、大豆糊と刷毛で貼り継いでいく作業
「打」は継いだ紙を巻物にして、それを紙などで包んでたたく作業
「界」は、「継」「打」の工程をへた巻物に、定規を使って罫紙を引く作業
その後、巻物の右端に三分の一の大きさの紙を端継として貼って、それに仮の軸を付ければ、この段階での装満の作業は終わりです
写経1 準備


   写経を指示する
 経師たちに書写を始めさせる前に、大切なものをそろえる必要があります。それは、写すべきテキストです。テキストは「本経」と呼ばれていたようです。案主(写経責任者)は、この写経事業にかかわる経師の数や、それぞれの従事予定期間などを考えあわせて、必要な本経の数を割り出し、それを事前に集めておく必要がありました。案主の犬馬養は、写経所に備えられている梵網経の数を調べ、不足分は、梵網経を所持している寺院などに借りだしを依頼したのでしょう。これに応えて、外嶋(そとしま)院という法車寺の附属施設から本経九巻が届けられた送状が残っています。
 本経が必要部数だけそろうと、案主は、経師たちに筆や塁などとともに、書写用の巻物と本経とをセットで渡しています。これが7月18から8月5日にかけておこなわれたことも記録から分かります。

写経2 指示

この写経事業には、全部で51人の経師が動員されています。案主の上馬養は、「充紙筆墨帳」という帳簿に、何月何日に、どの経師に上下巻それそれ何巻ずつわたしたのか、筆は何本わたしたのかなどを記録しながら、この作業を監督しています。
 上馬養はこれとは別に「充本帳」という帳簿も作っています。こちらには、本経の支給巻数を管理・把握するための帳簿です。このように、案主は、充紙筆墨帳・充本帳という二つの帳簿で、経師たちの作業の内容と進行状況を把握していたことが分かります。

  このシーンは案主が、充本帳と充紙筆是帳に記録しながら、経師たちに書写を指示している場面が描かれています。経師を呼び出して指示を与えます。「長く座って足がしびれる」という表現がみえるので、経師紙は、円座に正座して書写していたようです。

経文を書き写す     

写経所には、経師(きょうし)・装黄(そうおう)・校正与などの写経にかかわる作業に直接従事する人々のほかに、事務を収りしきっていた案主や、雑使・仕丁などの事務作業にかかわる人々もいました。彼らは、家族のもとを離れて、写経所内に建てられていた宿所に長期にわたって寝泊まりしながら、連日、日の出から日没までの長時間、仕事をし続けています。
 このうち「縁の下の力持ち」的な雑使と仕丁についても、研究者は視線を注ぎます。
雑使と仕丁には、衣服や食料などのさまざまな点で経師・装満・校生と待遇に差が付けられていたことが分かります。
 雑使は、案主のもとで、文字通りさまざまな仕事を行いました。案主の手助け、造東大寺司や他の官司などへの連絡、よそから物品を受け取ってくること、市に物品を買い出しに行って運んでくることなどです。
仕丁は、律令の規定では、地方の郷(五〇戸からなる末端の地方行政単位)から 2人ずつ、三年交替で中央に送られて労役に服するものです。中央に集められた仕丁たちは、各官司にわりふられ、そこの仕事に従事しました。写経所では、食事の調理、風呂焚き、物品の運搬、案主の手伝い、その他さまざまな雑務を行っています。装填の仕事である「打」の作業を行うこともあったようです。 経師から雑使までは、ときどき休みを収って家族のもとに帰ることができましたが、地方から出てきている仕丁たちは、「一時帰休」なんてことはできません。ずっと写経所に泊まり込んだままでした。
 経師たちの仕事をみてみましょう。
写経3 書き写し

本経(テキスト)と、書写用の巻物、筆、墨などを案主から受け収った経師たちは、さっそく写経にとりかかります。具体的なことは分かりませんが、下纏(したまき=文字の位置の見当をつけながら、同時に吸取紙の役割も呆たす用具)をあてながら写経したようです。
 作業量については、
①筆の速い経師で 1日に5900字程度、
②おそいものでも2300字ぐらいで、
③平均して一日に2700字ほどを写しています。
奈良朝写経の謹直な字体で、長期間作業を続けていたことを思い浮かべると、かなりたいへんな作業だったと思えます。根気と精神的な緊張感が求められる作業です。いや、作業ではなく仏への奉仕・祈りと考えていたのかも知れません。

経師たちには、食料のほかに、布施(給料)が布(調布=調として徴収された布)、または銭貨が支給されていました。この布施は、時間給ではなく出来高払いでした。そのため多くの布施を受け取ろうとすると、それだけたくさん写経しなければならず、当然労働時間も長くなります。
写経 物資支給状況

 しかし、ただ早く多く書写すればよいとわかではありません。誤字・脱字・脱行に自分で気付いて訂正すればペナルティーはありませんでしたが、それを見逃して後の校正作業で見つかるとペナルティーが科せられたました。給料天引きで布施から差し引かれたようです。

書写が終わると経師達は、本経と共に案主に提出します。この時に残った紙や墨なども記録され返却されています。案主は、受け取ると、これを貼り継いで手実(しゅじつ)帳という記録簿を作っています。そして、その記載に誤りがないかを、提出された経巻や他の帳簿類と突き合わせながらチェックしています。

硯は装飾のあまりない円面硯が用いられたようです。書き誤ったときには、刀子(小刀)で削って訂正しました。そのため机の上には、硯・筆・墨・水滴・刀子などが置かれていたはずです。
 作業の一段落ごとに、書写した経巻と本経は一緒に返却します。この時、経師は自分の仕事量を記した手実(記録)もいつしょに提出しています。案主は、手実を貼り継いで継文とし、その内容を充本帳や充紙筆墨帳などつきあわせてチェックします。細かい点検が行われていることに、驚かされます。

経師による書写が終わると、つぎは校正です。  
写経4 校正

案主に提出された経巻は、すぐに校生による校正作業にまわされます。この写経事業の校正作業は八月四日からはじまり、八月八日に終了しています。チェックしたのは7800になります。これに従事した校生は7人で、初校と再校の2回行われています。案主の上馬養や呉原生人も、校正作業に従事していたようです。
 史料によると、校生たちの 一日あたりの校正紙数は平均して約230張です。一張には、 行17字25行として425字程度が書かれています。そうすると400字詰め原稿用紙約250枚程度になります。今の小説一冊分ほどでしょうか、かなりの作業量です。校正は相当なスピードで行われたことがうかがえます。校正で誤りが見つかるとペナルティーが科されることなっていました。その基準も決められています。
 校正が終わると、校生たちは本経と書写された経巻をまとめて案主に返します。これには、勘出状(校正結果の報告書)が添えられていたようです。案主は、提出された経巻や校帳その他の帳簿類をここでもチェックします。

   経巻に仕立てる                         
写経5 経巻

脱落や誤字の校正作業が終わると、いよいよ経巻に仕上げる最後の工程です。この工程には、ふたたび装黄(表具師)が登場します。記録帳簿よると、仕上げ作業は8月4日から始められています。校正の開始日も同じ日でから、校正がすんだ巻物から流れ作業のようにどんどんまわされてきたことが分かります。作業は8月7日に終了したようです。仕上げの終わった経巻は、案主のもとに返されます。
案主は、経巻を題師にまわして題を書き込ませす。
出来上がった経巻にタイトルを買い込むのは、名誉であると同時に緊張感のある仕事だったでしょう。経師の中で、特にすぐれたものが担当したようです。
 こうして藤原道子追悼の経典写経事業は完了します。
この経過を見て、まず気づくのが組織化された集団がプロとして作業に当たっていることです。写経所という組織が、律令という国家体系に基づいてとして整備されたもので、その国家組織を一部分とりだして見ているような気がしてきます。同時に文書が国家管理手法として大きな役割を果たしていると云うことです。

参考文献
「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社

仏教経典100巻の写経プロジェクト行った讃岐出身の豪族

8世紀半ばに、聖武天皇が国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じた頃に、仏教経典「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクトを開始した讃岐出身の豪族がいました。
山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)出身の舎入国足です。当時100巻もの写経は、写経するスタッフ、写経用紙、テキストなどを取りそろえなければならない一大事業でした。それを、地方の一豪族が行おうとしたのはなぜでしょうか?

まずは、経典「喩伽師地論(ゆがしじろん)」について

全100巻からなる経典で、35巻が石山寺と奈良国立博物館に保管されています。
その奥書には[天平十六年歳次甲申三月十五日 讃岐国山田郡舎人国足]とあります巻によって筆跡がちがいますので、舎人国足が発願し、何人かの手によって書写されています。字句の修正方法などから当時の官立写経所ではなく、地方での写経とされます。東大寺周辺で9世紀に訓点が付けられ、12世紀の石山寺一切経事業のなかで石山寺に収蔵されと伝わります。

さて、この「舎入国足」とは、どんな人物なのでしょうか。

「舎人」という姓は、天皇や皇族・貴族の近くに仕えた集団のことで、国足の先祖は大王の宮に出仕していたようです。「舎人」の拠点は、山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)周辺の出身です。殖田郷は高松平野最奥部の春日川とその支流の周囲に開け、三方を山で囲まれた盆地状の地形が広がります。条里型地割が見られますので、狭いながらも安定した耕地経営が古代以来行われてきたようです。中央の平野部に、舎人氏の氏寺と考えられる古代寺院の下司廃寺(げしはいじ)があります。

 下司廃寺は、春日川支流の朝倉川南岸、扇状地の先端にありました。

今は清光神社があり、その東側の基壇の上には、祠とともに五つの礎石があり、塔跡と考えられています。出土瓦から七世紀後半頃に創建され、平安時代に屋根のメンテナンスが行われたことも分かっています。瓦以外には、三尊仏の埓仏片が讃岐で唯一出土しています。この活仏は仏堂の荘厳具として使われたようですが、川原寺との強いつながりが指摘されます。
 下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な情報が川原寺からもたらされたことが推察されます。中央の河原寺との強い結びつきを、讃岐の地でアピールするために「讃岐の川原寺」としての演出がなされたのではないだろうかと考える研究者もいるようです。どちらにしろ8世紀半ばには、この寺院は鎮座し五重塔は姿を見せていたようです。 

この時期に、どうして写経事業が始められたのでしょうか

写経は、当時は個人の精神修養のためではなく、最新の知の体系を広めるための社会事業でした。国足はその事業を自前で組織し、プロデュースしたのです。そのような事業を彼が始めたのは、仏教文化の讃岐への定着が進んだ、という背景があったようです。年表で見ると
660年頃 讃岐で最初の古代寺院 妙音寺が三豊の地で着工。施主は丸部臣
680年頃 多度郡の郡司佐伯氏が三野郡の丸部氏より技術援助を受け氏寺造営
      善通寺の瓦を吹いた工人はその後、田村廃寺→川之江 → 土佐と仕事場を移動
700年  この頃までに、讃岐に各豪族の氏寺が29寺建立された。
741年  国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じる
744年  舎入国足が「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクト開始
747年  国分寺造営に関して、郡司の子孫までその職に就くことを条件に郡司       層を積極的に取り込み、ようやく国分寺の本格的造営が動き出した
755年頃 讃岐国分寺の、金堂に瓦が葺かれた。
770年  堂塔全体が完成
774年、空海誕生
 8世紀までに白鳳期に讃岐国内では、29の寺院が建立されています。
これは、畿内(大和・河内・摂津・和泉・山城)より西の諸国では最も多い数です。わずか半世紀ほどの間に、驚異的なペースで寺院建設が行われたことになります。
 東大寺、国分寺の造営がはじまるこの時期は、白鳳時代の祖父母の世代が氏寺が建立されてから3世代、約半世紀近くが経っています。地方豪族の仏教への対応がワンランク上がる時期だったとも言えます。地方豪族の仏教へ関わりを年表から拾い上げると
747年   伊予国分寺建立に対して、宇和郡の凡直鎌足が仏像造立などのために資材を献上し、その功によって破格の外従五位下に叙されています。(続日本紀)。このことは、国分寺の造営が遅れており、郡司層の有力者と思われる鎌足の協力が必要だったことを示しています。
765年 「 続日本紀」には「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く」とあり、銭を献上することで、官位を得ています。
776年には、前回紹介した「讃岐のがいな女」の一族が、東大寺に土地等を寄進しています。これには、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったようです。
 つまりこの時期には寺への寄進を通じて、律令制下における地位を高めるという動きが地方豪族の側に有り、舎人国足の「写経プロジェクト」も時流に乗ったと行為という面があったのかもしれません。

  舎人国足の讃岐での地域経営は?

 舎人国足が写経事業を進めるためには、当時は貴重であった上質の紙を調達し、筆や墨をそろえ、写経のプロ(写経生)を集める必要があります。そのためには、何よりも財力です。彼の財力の源は、どのあたりにあったのでしょう。
 国足の本拠地と考えられる高松市植田町は、阿讃山脈から炭、檀など紙の原料、山菜などの救荒食といった山の資産が得られたでしょう。これらの物資は、春日川を下って海まで運び出すことができたでしょう。また、朝倉川を遡れば阿讃国境の七割越えに至ることができ、山すそ沿いに東西に進み香川郡井原郷や三木郡田中郷に出ることもできます。このように殖田・池田郷は、水上と陸上の交通路が交じわりあう場所です。この地の生産基盤とネットワークが国足の事業を可能にしたのでしょうか。

参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」


このページのトップヘ