瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:古代の善通寺

 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

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善通寺東院の金堂
前回は、金堂や五重塔などの東院伽藍のスター的な存在を見てきました。しかし、これらは近世以後のモノばかりです。善通寺は「空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建した」といわれます。空海の時代のものを見たり、触れたりすることはできないのでしょうか。今回は、古代善通寺の痕跡を探して行きたいと思います。

 まず「調査」していただきたいのは、金堂基壇の石垣です。
現在の金堂は元禄時代に再建されたものであることは前回お話ししました。その時に作られた基壇の石組みの中に、変わった石が紛れ込んでいます。
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善通寺金堂基壇(東側)
基壇の周りを巡って見ると東西南北の面に、それぞれ他とは違う形をした大きな石がいくつか紛れ込んでいます。

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           善通寺金堂基壇(北側)
この石について「新編香川叢書 考古篇」は、次のように記します。

正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。西側礎石の大きさは実測すると160×95cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。

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      善通寺金堂基壇(西側:1/3は埋まっている)

  もう一度見てみると、確かに、造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。また、大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。これらの石は古代寺院に使われていた礎石のようです。よく見ると、特に西側のものは大型です。これを五重塔の心礎と考える研究者もいるようです。そうだとすると、善通寺には古代から五重塔があったことになります。以上からは次のようなことが推測できます。
①白鳳期に建立された古代の善通寺は中世に焼け落ち、再建された。
②中世に再建された伽藍は、戦国時代に焼け落ちて百年以上放置された。
③元禄年間に再建するときに、伽藍に散在した礎石を基壇に使った
 このように考えると、この礎石は空海時代の金堂に使われていた可能性が高くなります。古代善通寺の痕跡と云えそうです。触って「古代の接触」を確かめてみます。

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「土製仏頭」(善通寺宝物館)

もうひとつ、元禄の再建の時に出てきたものがあります。
宝物館に展示されている「土製仏頭」です。
これは粘土で作られた大きな頭で、見ただけでは仏像の頭部とは見えません。
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        「土製仏頭」(善通寺宝物館)
研究者は「目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭」と推定します。私には、なかなか「白鳳の仏像」とは見えてこないのですが・・。
印相などは分かりませんが、古代の善通寺本尊なので薬師如来なのでしょう。また小さな土製の仏のかけらもいくつかでてきたようです。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれています。
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         「土製仏頭」(善通寺宝物館)
 この「土製仏頭」が古代善通寺の本尊薬師如来であるということを裏付ける資料があります。
 鎌倉時代初期に高野山での党派闘争の責任を問われて讃岐に流刑となった道範は、善通寺に滞在し『南海流浪記』を書き記します。その中で、善通寺金堂のことを次のように記しています。
◎(平安時代に)お寺が焼けたときに本尊なども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある
◎金堂は二層になっているが裳階があるために四層に見える
◎本尊は火災で埋もれていた仏を堀り出した埋仏
ここからは、平安時代に焼けた本堂が鎌倉時代初期までには再建されたこと、そして本尊は「火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏」が安置されていたと記しています。
 その後、戦国時代の兵火で焼け落ち、地中に埋もれていたこと、それが元禄の再建で、掘りだされ保存され、現在に至るという話です。そうだとすれば空海が幼い時に拝んでいた本尊は、この「土製仏頭」のお薬師さまということになります。
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善通寺の白鳳期の瓦(宝物館)

 古代善通寺のものとして宝物館に展示されているのが瓦です。
 藤原京に瓦を供給した三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されていたことは以前にお話ししました。この時代には、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われてました。

善通寺古代瓦の伝播
善通寺瓦の伝播
 仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏は、丸亀平野の寺院造営技術の提供者だったことは以前にお話ししました。その中には7世紀末から8世紀初頭の白鳳期のものもあります。善通寺の建立は、この時期まで遡ることが出来ます。
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善通寺の白鳳瓦

「7世紀末の白鳳瓦」と「善通寺=空海創建説」とは、相容れません。空海が生まれたのは774年のこととされるので、生まれた時には善通寺はあったことになります。考古学的には「善通寺は空海が創建」とは云えないようです。

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善通寺金堂
このことについて五来重は「四国遍路の寺」で、次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。善通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が31歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。

善通寺の古代寺院としての痕跡の4つ目は、条里制との関係です。
  中世に書かれた善通寺一円保絵図を見てみます。

一円保絵図 テキスト
善通寺一円保絵図(全体)
 右(西)に、五岳の山脈と曼荼羅寺や吉原方面、左に善通寺周辺が描かれます。黒く塗られているのが一円保の水源となる有岡大池でそこから弘田川が条里制に沿って伸びています。左上には2つの出水があり、そこからも用水路が伸びています。ここで、見ておきたいのは多度郡の条里制のラインが描かれていることです。善通寺の境内部分を拡大して見ます。
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善通寺一円保絵図(拡大)
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。これが五重塔の基壇跡のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されませんでした。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。その後には(E)講堂もあります。
 この絵図には、東院には様々な建築物が描かれています。そして敷地を見ると、4つの条里で囲まれているのが分かります。1辺は約106mですから、4つ分の面積となると212×212mとなります。ここからは善通寺が多度郡の条里の上にきれいに載っていることが分かります。ここからは、条里制整備後に善通寺は建立されたことになります。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里と善通寺・南海道の関係
丸亀平野の条里制は、南海道が先ず測量・造営され、これが基本ラインとなって条里制が整備されていきます。南海道は、多度郡では6里と7里の境界線になり、四国学院の図書館の下を通過していたことは以前にお話ししました。そして、善通寺も三条七里の中に位置します。
古代善通寺地図
   古代善通寺概念図(旧練兵場遺跡調査報告書2022年)
ここに至る経過を整理しておきます。
①7世紀末の南海道の測量・建設 
②南海道に沿う形で条里制測量
③多度郡衙の造営
④佐伯氏の氏寺・善通寺建立
①②③の多度郡における工事は、郡司の佐伯直氏が行ったのでしょう。これ以外にも、白村江の敗北後の城山城造営などにも、佐伯氏は綾氏などと供に動員されていたかもしれません。これらは、中央政府への忠誠を示すためにも必要なことでした。

 最後に、空海が生まれた8世紀後半の善通寺周辺を想像して描いて見ましょう。
岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の郡衙(黒丸枠)と南海道・法勲寺の関係
額坂を下りてきた南海道は、飯野山の南に下りてきます。南海道に接して北側には、正倉がいくつも並んで建っています。これが鵜足郡の郡衙(岸の上遺跡)です。その南には法勲寺が見えます。これが綾氏の氏寺です。南海道は、西の真っ直ぐ伸びていきます。そのかなたには我拝師山が見えます。南海道の両側に、整備中の条里制の公田が広がります。しかし、土器川や金倉川などの周辺は、治水工事が行わず堤防などもないので、幾筋もの川筋がうねるように流れ下り、広大な河川敷となっています。土器川を渡ると那珂郡郡司の氏寺である宝幢寺(宝幢寺池遺跡)が右手に見えてきました。金倉川を渡ると右手に善通寺の五重塔、左手に多度郡の郡衙(善通寺南口遺跡)が見えて来ます。ここが佐伯直氏の拠点です。
 ここからは南海道は、丸亀平野の鵜足・那珂・多度の3つの郡衙を一直線に結んでいたことが分かります。そして、その地の郡司達は郡衙の周辺に氏寺を建立しています。当然、彼らの舘も郡衙や氏寺の周辺にあったことが考えられます。

 今回は、普段は目に見えない以下の古代善通寺の痕跡を見てまわりました。
①金堂礎石
②「土製仏頭」(古代本尊の仏頭?)
③白鳳時代の善通寺瓦
④条里制の中の善通寺境内と南海道や郡衙との関係
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の法勲寺と岸の上遺跡(郡衙?)の位置関係
   七世紀後半は、全国各地に氏寺が造営され、急速に仏教が各地に広まっていった時期です。
丸亀平野を見ても、古代寺院が次のように登場してきます。
     寺院名 建立者  郡衙遺跡候補
①鵜足郡 法勲寺  綾氏?    岸の上遺跡(飯山町)
②那珂郡 宝幢寺 不明   郡家周辺(不明)
③多度郡 仲村廃寺(善通寺)佐伯氏         善通寺南遺跡
④三野郡  妙音寺 丸部氏         不明
と、今まで見たこともないような甍を載せた金堂や、天を指す五重塔が姿を見せるようになります。仏教が伝来してから約1世紀を経て、仏教は讃岐でも受けいれられるようになったようです。しかし、この時期の地方寺院は、郡司層を中心とする有力豪族が造営した氏寺で庶民が近づくことも出来なかったようです。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
正倉が何棟も出てきて鵜足郡衙の可能性が高い。はるかには善通寺の五岳が望める
 讃岐の地方豪族は、どんな信仰をベースにして仏教を受けいれたのでしょうか。今回は、地方豪族の仏教受容について、見ていくことにします。
 仏教は、祖先に対する追善供養という形で、この国では受容されました。それは中央の蘇我氏と物部氏の崇仏排仏論争を見るとよく分かります。仏は「蕃神」、すなわち外来神として認識されていたようです。この時点では、仏教の難しい教理は問題にされません。例えば、仏像についてもいろいろな仏像が造られますが、当時の人々が阿弥陀像と薬師像、観音菩薩像のちがいを理解していたかと問われると疑問です。
 このことは仏像だけでなく、寺院においても同じです。戦後の発掘で、わが国最初の寺院である飛鳥寺の塔跡の心礎から出てきたのは、武器・武具・馬具です。これは、古墳の石室から出てくるものと変わりありません。最新の技術を用いて建てられた五重塔は、古墳に代わる埋葬施設として捉えられていたことがうかがえます。
 寺院が祖先信仰と結びついて建立されていることについては、『日本書紀』推古天皇二年(594)二月丙寅朔条に、次のように記されています。
詔二皇太子及大臣丿令興隆三宝是時、諸臣連等各為二君親之恩競造二仏舎丿即是謂寺焉。
  意訳変換すると
皇太子や大臣に三宝(仏像・仏典・僧侶)を敬うように勅が出され、諸臣連たちは基礎祝うように、「君親之恩=祖先供養」のために競うように仏舎を建立した。これが寺院である。

 ここで注目したいのは「諸臣連等」が競って、寺院を造営する目的です。
それは「為二君親之恩」で「祖先供養」のためだというのです。飛鳥での寺院建立も、当時は氏族の祖先信仰に基づいて行われていたことを押さえておきます。
 祖先崇拝のために建立された寺院は、氏寺として子孫が寺を管理し、祈りを捧げることになります。蘇我氏の法興寺に、馬子の子善徳が寺司となっているのは、その例でしょう。同じように『日本霊異記』下巻第二十三話には、大伴氏の寺院建立が次のように記されています。
 大伴連忍勝者 信濃国小県郡嬢里人也 大伴連等 同心其里中作堂 為二氏之寺 忍勝為欲写二大般若経一発願集物一 剃二除鬘髪著二袈裟 受戒修道 常二住彼堂 
 
意訳変換しておくと
 大伴連忍勝は信濃国小県郡嬢里の人である。大伴連一族は、その里に堂を作り氏寺とした。忍勝は大般若経を書写することを発願し、剃髪し袈裟を付け、受戒修道し、常にこの堂に住むようになった。
ここからは、信濃の大伴氏の一族が「氏之寺」を建立し、大伴連忍勝が僧侶となったことが分かります。巨費をかけて作った寺院は、一族の財産でもあります。当然、一族の者が管理することになります。そして、寺院が一族結集の場にもなっていきます。檀越が一族であることは、蘇我氏と法興寺(飛鳥寺)の場合と同じです。
飛鳥と讃岐も、寺院の建立の目的は同じであったと考えられます。
祖先信仰とは、一族の繁栄を祖霊に祈願する信仰でもあります。
当然、その一族の長に当たるものが祀るべき地位にあった方が何かと都合は良かったのでしょう。これらの史料からは、仏像も寺院も、それまでの先祖供養や祖先信仰と深く結びついていることが分かります。そのやり方は、いままでの祖先崇拝に仏教のもつ追善供養という側面を重ね合わせ形で行われたようです。
 古代の豪族層は、どうして祖先信仰を重視したのでしょうか。
 高取正男氏は、このことについて次のように述べます。

「固有信仰の祖型として抽出されている死霊と祖霊の関係とは、死者の霊魂は死んでから一定の期間中はそれぞれの個性を保って近親者に臨むが、一定の期間を過ぎると個性を失ってしまう。そしてその後は漠然とした死者霊の没個性的な習合体としてのいわゆる祖霊に組み込み、その繁栄を保証するものとなる。」

 つまり、地方の豪族達は、自分につながる父や母などの霊を先祖霊に組み込みながら疑似共同体意識を養って、団結のきずな(精神的紐帯)としてきました。そこに、伝統的な神祇信仰ではなく、蕃神の仏教が新たに用いられることになったようです。
 その要因は、いくつか考えられます。その一つはこの国の人々の「外来の新規なものへの好奇心と崇拝」かもしれません。金色に輝く仏像や、甍を載せた朱色の仏教伽藍は宗教モニュメントは、彼らの心を惹きつけるものだったでしょう。弥生時代の先祖が光り輝く青銅器を祭器とし、卑弥呼が鏡を愛したように、白鳳人は仏像を愛したとしておきましょう。仏教にはいままでの日本の神々を越える宗教的な呪術力があると思うのは当然かも知れません。讃岐の豪族の仏教受容も、こんな背景の上にあったと私は考えています。しかし、仏教受容はこれだけが理由ではありません。
1日本霊異記

『日本霊異記』には、地方寺院の建立に関する史料が載っています。ここでは、伊予と讃岐の史料を見ておくことにします。

② 上巻第十七縁には、伊予の越智氏の氏寺建立の経緯が次のように記されています。
伊予国越知郡大領之先祖越智直 当為救百済・ 遣到運之時 唐兵所福 至其唐国・ 我八人同住洲 偉得ニ観音菩薩像・ 信敬尊重 八人同ン心 窃裁二松本・以為二一舟・ 奉謂二其像 安二置舟上 各立二誓願・ 念二彼観音・ 是随西風・ 直来筑紫 朝庭聞之召 間□状 天皇忽衿 令中所レ楽 於ン是越智直言 立郡欲仕 天皇許可 然後建郡造寺 即置二其像・(以下略)

意訳変換しておくと
伊予国越知郡大領の先祖は越智直である。彼は百済救援軍の一員として朝鮮半島に従軍し、敗れて唐軍の捕虜となり、唐に連行された。そこで観音菩薩像に深く帰依するようになった。帰国の際には、その観音像を船上に安置し、無事に帰国できるように誓願し、観音像に念じた。そのためか西風に恵まれ筑紫に着くことができた。これを聞いた朝廷は彼を召して、天皇直々にねぎらった。越智は直言し、新たな郡が欲しいと願うと、天皇はそれを許した。そこで、新郡作り、寺を建て、観音菩薩像を安置した。
  ここからは越知氏の祖先が捕虜となっていた唐から観音菩薩を持って帰国し、新たに郡を作り郡司となり、氏寺を作り観音菩薩を本尊としたことが記されます。これが古代伊予の有力豪族となる越智氏の由来になります。
1田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)

「下巻第二十六縁」には、讃岐三木郡の田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)が登場します。
意訳変換したものを、見てみましょう。
三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺?)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたもの帳消しにしたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取った。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、三木寺や東大寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。しかし、ここからは、仏教が地方の豪族層に浸透している様子がうかがえます。

古代讃岐三木郡

 広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。
ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。
彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。
夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石が残っていて、その上に石塔が据えられています。

整理すると、小屋県主宮手=三木郡の郡司で、その氏寺が三木寺であったと云うのです。そこに嫁いでいったのが広虫女ということになります。
 例えば、善通寺周辺を見ると、付近に郡衛遺跡や有力な古墳(群)があります。
これらを作ったのは空海の祖先である佐伯氏と考えられます。その延長線上に、仲村廃寺や善通寺も建立されたのでしょう。多度郡でも「地方寺院は郡司層を中心とする地方豪族によって建立された」と云えるようです。特に三木寺のように、郡名と同じ名前をもつ「郡名寺院」は、郡司層による建立と考える研究者が多いようです。さらには、郡司の建立した寺院が国分寺に転用された例も報告されています。

四国学院側 条里6条と7条ライン
多度郡衙跡とされる生野本町遺跡

  最近の丸亀平野の発掘調査からも、法勲寺周辺からは、正倉群を伴い鵜足郡の郡衙跡と考えられる岸の上遺跡や、善通寺の南からも多度郡衙跡とされる遺跡が発見されました。ここからも7世紀後半から建立された寺院の建立者が郡司層を中心とする地方豪族であるが分かります。
 郡衛遺跡の近くにある寺院は、「郡衛」と密接な位置関係にあることから、これらの寺院が「評・郡衛」の公の寺(郡寺)としての性格を持っていたとする説も出てきました。しかし、地方寺院が公的な性格を持つかどうかについては意見の相違があるようです。地方寺院の性格を「氏寺」と考えるか「郡寺」と考えるかということになります。
 考古学の立場からは、次のように説明がされているようです。
  「地方豪族にとっては、仏教を受容することは国家との結合を強め、その機構の中でより有利な地位(例えば授位)を得ることが出来たものと想像される。
   本来、在地における祭祀行為の主導権を握るとされる郡司層は、旧来の地縁的・族制的な農耕儀礼的祭祀から脱却し新たな地域内の精神的支配を確立する意味においても、この新来の祭祀の形態の導入に積極的に取り組んだものと思われる」
地方豪族にとって寺院建立は祖先信仰だけにとどまらない次のようなメリットがあったことを指摘しています
①国家との結合を強め、目に見える形でそれを周囲に示すモニュメントになった
②国家への忠誠度を示すリトマス試験紙の役割
③それまでの儀礼祭祀に代わる新たな祭礼リーダーとして、支配権強化にもつながった。
  これは古墳時代に、首長達が新たに前方後円墳儀礼を一斉に取り入
れたことと似ているものがあるのかもしれません。
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善通寺の古代の塑像頭部(本尊?)
 こうして見ると佐伯氏が、仲村廃寺を善通寺王国の中心地のすぐ近くに最初は造立したのが、すぐに場所換えて現在の善通寺の位置に移動してくる理由も分かるような気がしてきます。
最後に仲村廃寺から善通寺への「移転」について、私の仮説を記して起きます。
①善通寺王国の首長は、旧練兵場遺跡を拠点に、前方後円墳を有岡の谷に何代にもわたって築き続けた
②律令時代には多度郡司の佐伯氏として、旧練兵場遺跡の東端に仲村廃寺を建立した。
③しかし、これは氏寺的な性格が強く、「郡司」としての機能にはふさわしくなかった。
④それは南海道の設置以前に建立されたため条里制ラインに合致しないものでもあった。
⑤そこで、佐伯氏は条里制に合致した形で「多度郡寺」としてふさわしい寺を現在地に建立した。それが善通寺である。
亡命百済僧の活動

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    三船隆之 日本古代地方寺院の成立 306p

  
3

讃岐国司藤原経高は、なぜ寺領の集中、一円化を行ったのでしょうか。
 平安時代の末の11世紀後半になると律令制度の解体に対して、中央政府は租税改革を行い増税政策を展開します。それまでなかった畠地への課税、在家役の徴収などの新たな課税が地方では行われるようになります。これは、善通寺のようなわずかな寺領からの収入に頼り、国衛の支配に対しても弱い立場にある地方寺院にとっては、この新しい課税政策はおおきな打撃となったようです。
 善通・曼荼羅寺の本寺である東寺も、国に干渉して末寺寺領を保護するほどの力はありません。そればかりか本寺維持のために善通寺などの末寺からの年貢収奪に力をそそいでいたことは、前回に見たとおりです。また善通寺や曼荼羅寺としても、寺領耕作農民の年貢怠納や「労働力不足」に悩んでいました。
 一方、讃岐にやって来た良心的な国司の立場からすると、租税の取り立てだけがその役目ではありません。国内の寺社を保護し、興隆を図ることも国司の大切な勤めです。まして善通寺のような空海ゆかりの寺です。準官寺として国の安泰を祈る役目を担っている寺院を、衰退させることは重大な職務怠慢にもなりかねません。
3善通寺4images
このような中で打開策として実施されたのが善通寺寺領の一円化です。
 これは古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。この一円寺領の状態を示すのが久安元年(1145)十二月に国・郡の役人と善通寺の僧が作成して国衛に報告した善通・曼荼羅寺寺領注進状です。
 東寺末寺 善通曼荼羅両寺事
 口口中村・弘田・吉原三箇郷内口口口口口口
 口口口口段二百二十歩
 常荒二段   (荒廃してしまった畑)
 畠六十八町二段百八十歩
 作麦三十七町九段百口口歩
 口口丁九段
 常荒十九丁四段  
 河成一丁三段    (河成=川洲になってしまった田畠)
 四至(境界)   (東西南北四方の境界)
 限良田郷堺 
 限口口郷堺
 西限三野郷堺 
 限中津井北堺
在家拾五家   (一円保の耕作担当農家15軒=労働力)
 仲村郷 正方 智円 近貞 国貞 清成 正宗 清武 喜楽 嬬
 弘田郷 貞方 末時
 吉原郷 貞行 近成 円方 真房
 善通寺
    仲村郷五十九丁五段
    田代二十丁三段六十歩
    見作九丁九段百八十歩
    年荒十丁三段二百三十歩   (年荒=休耕地)
    畠三十八丁七段百二十歩
    作麦十九丁一段三百歩
    年荒十四丁二段六十歩
    河成四段百八十歩
    在家九家
 三条
  七里
  二坪一丁七  公田二段半見作也 年荒七段半  作大貞末
  三坪一丁七  公田定見作四段 年荒六段    作大正方
  四坪一丁七  公田定見作 年荒一段
        畠七段 作麦六段        作大正方
     (中 略)
  十七、一丁  本堂敷地 (三条七里17坪)
  十八、一丁  同 敷地
  十九、一丁  同 敷地
  廿、 一丁  同 敷地
    (中 略)
    八里
二坪一丁  公田定年荒      作人友重
三,一丁  公田八反年荒     在所為貞
      畠二反麦之
四、一丁  公田七反見作一反年荒六反 作人友重
      畠三反年荒
    (中 略)
 右、件の寺領田畠、去閏十月十五日御庁宣に依れば、件の二箇所先例に任せ本寺に付し其の沙汰せしむ可きの状、宣する所件の如し者(ということであるので)、寺家使相共に注進せしむる所件の如し、
久安元年十二月 日 
       図師秦正清
       郡司綾貞方在判
       寺使僧胤口在判
             国使
                大橡綾真保在判
                散位中原知行在判
 この史料には何郡何条何里何坪と記されていることと、多度郡の条里制が明らかになっていますので、記された耕地場所が分かります。この注進状に記された耕地の条里呼称を、坪ごとの作人と合わせて条理の上にあらわすと次の図のようになります。
この史料と図から分かることをまとめてみましょう。
3善通寺HPTIMAGE

①史料には三条七里17~20坪が「本堂敷地」とあります。絵図で見ると敷地は4坪で212㍍×212㍍の2町四方の面積が善通寺の伽藍であったことになります。現在の約2倍の伽藍だったことが分かります。
②散在していた寺領が、三条七里の善通寺と六条八里の曼荼羅寺の周辺に集められたことがよく分かります。
③坪の中に記入されているのが住人ではなく耕作者です
④寺領の中に仲村と弘田郷の境があるので、仲村・弘田・吉原の三つの郷にまたがっています。
⑤境界(四至)は、東は良田郷、西は三野郡、北は中津井北、南は生野郷に接しています。
⑥吉原郷の六条八里十八坪、方一町の本堂敷地が曼荼羅寺。
⑦一円保の田地面積を合計すると三七町三段一八〇歩。
⑧「常荒二段」とあるのは、荒廃して耕作できなくなった田地。
⑨畑地は総面積六八町二段一八〇歩で、常荒一九丁四段、その他氾濫などで川洲になってしまった田畠(川成)が一町三段あります。各坪は大部分が、田と畠の両方を含んでいます。この時代は、全ての土地が水田化されてはいません。畑作地が多く残っていたことが分かります。
⑩年荒と記されている所は休耕地。この時代は灌漑未整備や農業技術が未発達で連作ができなかったため、ある期間休耕にする必用があったようです。
⑪善通・曼荼羅寺領の場合、休耕しているのは田が21町八段あまり、畠が20町五段もあります。
⑫実際に作付されて収穫のあった見作地は、田が14町三段ほど、畠が28町一段です。
⑬在家一五家とあるのは、寺領域に住家をもつ農民が15五家あり、彼らに課せられる在家役が善通寺に納入されていたようです。
 一円化寺領のねらいは? 
 一円化された寺領をみると、土地と労働力がセットになって寺のまわりに配置されたことが分かります。これがもたらすプラス面としては、次の2点が考えられます。
①分散していた寺領が、国司の権力によって善通寺と曼荼羅寺の周辺に集められて支配がしやすくなった
②田畠数も増加し、15軒の農家も土地に付属して、徴収も行いやすくなった。 
これだけ見ると、これを実施した讃岐国司に善通寺は大感謝したと思われます。
その思惑通りに進んだのでしょうか?
善通・曼荼羅寺が置かれていた困難な状況は寺領一円化によって一挙に解消したのでしょうか。事態はそれほど簡単ではないようです。
 久寿三年(1156)五月に国衛に差し出した文書のなかで、善通・曼荼羅寺所司は散在寺領の時と一円寺領の時との地子物の徴収について、
「右件の仏事料物等、一円に補せられざる時に於いては、寺領夏秋の時、検注を以て地子物を勤仕せしむ。而るに一円せらる後は、彼の起請田官物の内を以て勤仕せしめ来る処に」

と述べています。一円化が行われる以前の散在寺領の時は、寺領を夏と秋の二回調査して年貢の額を決めて徴収していたが、一円化された後は、起請田から徴収された官物の内から納入されるようになったというのです。官物とは、国衛が支配下の公領から徴収する租税、起請田とは、官物の徴収責任者がそこからの官物の納入を神仏に誓って(起請して)請け負った田地のことです。
 つまり、一円化寺領からの地子物の徴収は、直接善通寺あるいは東寺によって行われるのではなく、国衛が、起請田として定めた田地(これが一円寺領とされたもの)から官物を徴収し、その内から一定額を寺に地子物として送ってくるということのようです。善通寺は徴税作業に直接に関わることがなくなったのです。
 そうすると、善通・曼荼羅両寺の周辺に集められた土地は、名目的には寺領とよばれていますが、租税・課役の徴収などの実質的支配は国衛によって行われていたようです。これは寺領いうものの、実態は公領です。寺領の面積が拡大したようにみえるのも、実は国衛が善通寺に渡す官物の額が従来の寺領地子額に見合うように、起請田の広さをを設定したためではないかと研究者は考えているようです。

保延四年(1228)に讃岐国司藤原経高は、国司の権限によって、散在寺領を移し替えて両寺の周辺にまとめました。その目的を整理すると
①寺領を寺周辺の一定地域にまとめて設定することで、
②その地域内に住居を持つ住民に課せられる在家役を寺側に納めさせて、
③寺家の修理・雑役不足の問題を解決し、
④農民に対する支配力の弱い善通寺による年貢徴収に代わって、国衛が寺領耕作農民から徴収した官物のうちの一定額を年貢として善通寺に送付する
⑤以上の「改革」で善通寺の財政を安定させようとした
⑥国衛が間に入ることによって、本寺(京都東寺)の過重な収奪をコントロールしようとした
以上の一円化政策について、研究者は
「善通寺と曼荼羅寺が追い込められていた状況を打開する適切な措置」

であった評価します。後の鎌倉時代にはこの一円化が善通・曼荼羅寺の中心寺領の基本的枠組となっていくのです。

 しかし一円化政策は、次の二つの大きな問題があったようです。
①寺の収入は、善通・曼荼羅寺が直接一円寺領を耕作している農民から地子を取り立てるのではなく、国衛が徴収した官物のなかから寺側と約束した額を取り分けて送ってくるという形で得られたこと。

 これは国司が代わり国衛が約束を守らず、納入物を送ってこなければ、その収入は途絶えてしまうことになります。

②一円化政策は、国司の権限によって行われたことです。中央政府の法令ではありません。彼のあとに就任した国司が、違う考えを持っていたら、同じく国司の権限によって、一円寺領を解消することもできます。

この問題はまもなく現実のものとなったようです。
 経高の次の国司は、一円化政策を引き継ぎました。しかし、その次の代の国司は、政策を変更し、一円寺領を解消し、もとの散在寺領に返してしまいました。久寿三年の解状で、善通・曼荼羅寺所司は、引用した文章に続けて次のように言っています。

「散在せらるるの間、その沙汰無きの間、もっとも仏威絶えるに似たり、ここに一円を留め散在さるれば、本の如く彼の留記帳顕然なり。件の地子物を以て勤仕せしめんと欲す。」

 一円化政策が取り止めになり、国衛からの納入物の送付という沙汰(処置)が無くなった善通・曼荼羅寺は、寺の留記帳(資財帳)に記載されている元の散在寺領から地子物を徴収しようとしました。しかし寺領一円化の間に、寺は徴税に関わっていませんでした。ふたたび散在した寺領に対する寺の支配力はすっかり弱まっていました。
 さらに、一円寺領が取り消されて寺の周辺が元の公領にもどったため、寺領の中に生活していることで寺に与えられていた15家の百姓の労働力が得られなくなります。逆に寺の周辺に居住する僧たちに公領在家役がかかってくるようになります。このため僧たちの多くが、重い負担に堪えかねて逃亡して、残ったわずかの住僧たちによって仏事が営まれる有様になります。この様子を善通・曼荼羅寺所司たちは、
「上件の条々非例の事、国衛の焉めには畿ならずと雖も、御寺の焉めには三百余歳を経し恒例の諸仏事等まで欠怠せるの故、最も愁うべく悲しむべし

 これらの在家役や国役は国衛にとっては、何ほどの額ではないけれども、寺にとっては三百余年も続いた仏事ができなくなってしまうほどの打撃なのだと、非痛な叫びをあげ、悲憤をつのらせています。
 僧侶達は「末法の時代」に入ったという時代認識がありました。自分たちの善通寺を取り巻く状況こそが「世も末」に思えたはずです。前回にお話ししたように、その現実への悲憤と逃避のために、香色山山頂に経塚は埋められたのかもしれません。
 このように設置当初の一円保は、国司交代の度に設置と廃止を繰り返します。これが制度として定着するのは、もう少し時間が必用でした。
 この頃、平安時代も終わりに近づき、都では平氏が保元の乱(1156))、平治の乱(1159)に勝利して、ライバルの源氏を倒し、栄華の道を進もうとしていました。そして讃岐国では、善通寺が、本寺と国衛の支配の間にはさまれて、苦難の道を歩んでいたのです。

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参考文献 平安時代の善通寺の姿 善通寺史所収


  
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善通寺東院

藤原道長全盛期の11世紀の半ばまでは、準官寺や東寺の末寺として、順調に発展してきた善通寺です。ところが11世紀後期になると、いろいろな困難が降りかかり、前途に陰りが見えてくるようになったようです。その困難の一つは、本寺である東寺の支配強化(圧迫)にあったようです。
東寺の財政政策の転換は、末寺の善通寺を圧迫しました
 東寺の財政は、丹波国大山荘や摂津国の荘園からの年貢収入もありましたが、その多くは国家から与えられた封戸に頼っていました。東寺の封戸は遠江国一五〇戸、伊豆国五〇戸など約一千戸ほどが与えられていましたが、11世紀の後半になると、律令体制の緩みで封戸収入が全く入らないようになります。そのため東寺は堂塔の荒廃や仏事の減退がひどくなってきたようです。そこで東寺は、財政の中心を封戸から荘園や末寺の納入物に移すことで、体勢を立て直す方針に転換します。こうして、荘園や末寺への支配強化の手始めとして、本寺から別当と呼ばれる全権委任者が派遣されるようになります。

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善通寺東院金堂
東寺からやって来た別当がどんなことを行ったか見てみましょう。

「見納二十二石九斗二升七合、已に別当御運上、別当御方々用途料十六石八斗五升」

この別当というのが、東寺から善通寺管理のために派遣された僧のことです。彼は延与という名で別当職として1071(延久三)年11月に善通寺に下ってきました。着任するやいなや善通寺に納入されていた田地子四七石五斗七升七合のうち、二二石九斗二升七合を京都に送ってしまいます。さらに「別当御方々用途料十六石八斗五升」とあるので、一六石八斗五升を、別当及び別当に付き従っていた人々の用途料として消費しす。そのため善通寺が費用として使用できる地子米は、残った七石八斗だけになってしまいます。別当延与は、畠迪子(年貢)においても、納入された六石三斗のうち三石を京都に運上しています。
 現在風に言うと、支店の売り上げ利益を本社からやってきた支店長が吸い上げて、本社に送金して、支店には資金が残らないようなイメージでしょうか。支店では活動資金すら不足する状況になります。善通寺の仏事や修理ができなくなります。善通寺では、延久二年(1070)に大風で五重塔一基と三間一面の常行堂が倒れていました。塔の再建は無理だが常行堂は何とか建て直そうと、古材木を集めて修造に取りかかる手はずになっていたようです。ところが、延与の地子(年貢)収奪のために、それも不可能になりました。

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善通寺東院の五百羅漢

 このような別当の「非道」に対して善通寺の僧侶達も黙っていたわけではありません。
延久四年の二月に上京して、東寺長者を兼ね、延与の非道を止めさせてくれるよう訴えました。その訴状には次のように書かれています。

「件の延誉(与)非道を宗と為し、全く燈油仏聖(仏供)ならびに修理料等を留め置かず、茲に因って寺中方々仏事、堂舎の修理等ほとんど欠怠す可く(なおざりになり)、その中大師御関日料(御忌日料)なお以て押し止む(支出しない)、況んや余の仏事をや(他の仏事はなおさらである)」
 意訳変換しておくと
この件について延誉(与)の行った非道は、燈油仏聖(仏供)や修理料等などのための資金を留め置かないことである。そのために善通寺の仏事、堂舎の修理などがなおざりになった上に、大師御関日料(御忌日料)なども支出しようとしない。他の仏事はなおさらである」

しかし、別当の本寺優先策が改まることはなかったようです。別当の行っていることは、「末寺(支店)から富を吸い上げて本寺(本社)を守る」という東寺の財政政策に基づいていたのですから。本展の指示通りに支店長は動いていたのです。

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善通寺は、この後もたびたび本寺や国司に対して訴えをくり返しています。しかし、改善はされません。それどころか、12年ほどたった応徳元年(1084)十一月、京都の讃岐国司(遙任)から讃岐の留守所(国衛)に次のような文書が届きます。

「本の如く別当の所勘(管理)に随って雑事を勤行すべし」とあり、国府は善通寺に「本別当を以て寺務・雑事を執行せしむべし。」

との命令を伝えてきました。こうして、財政部門や寺務を完全に東寺から派遣される別当に掌握されたのです。これ以後、善通寺は東寺の末寺(荘園)として支配されることになります。善通寺の寺領からの収入が、京都の東寺に流れるようになります。

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次に別当による経営のための組織改編が行われます。
11世紀末以後の文書には「善通曼荼羅寺所司」とあるので、善通寺と曼荼羅寺が一つとして経営されていたことが分かります。所司の構成員は、天治元年(1214)の「善通曼荼羅寺所司等解」によると権別当二人、上座・寺主・都維那の「職名」が見えます。これらの権別当以下は善通寺、曼荼羅寺の僧が任命されていますが、この上に立つ本別当の地位には本寺である東寺の僧がすわり、両寺を支配したようです。

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11世紀末期のもう一つの大きな問題は、地方政治の変化です。
11世紀になると貴族、大寺社の所領である荘園の増加に対して、中央政府は国司に対して国衛領の減少をくい止め、国の財政を維持するように指示します。特に藤原氏を外戚としないで即位した後三条天皇は、記録所という役所を設けて積極的に荘園整理に着手し、国司の荘園圧迫が強化されるようになります。

 このような荘園圧迫策が善通寺の寺領にも、次のように具体的に及んでくるようになります。
①11世紀初、国司が国役公事と称して、雑役を善通寺の僧侶への課税追加
②11世紀後半、それまで無税であった荒廃した水田を畠地にした「春田」への課税追加
③12世紀初、在家役として、住家や屋敷地、畠地などを単位として、田畠以外の桑・苧麻・漆等の畠作物や手工業品、労役などを取り立て開始。
④曼荼羅寺の域内に住む百姓に対して牛皮・鹿皮・会料米などの雑役や春田分の労役負担。
両寺所司らは、このような国衛の課税増徴が続けば法華八講や彼岸会などの仏事ができなくなってしまうと訴えています。11世紀後半から12世紀にかけて善通寺は難しい状況に追い込まれ、苦難の梶取を迫られていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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りに、風流歌が踊られるのか?



   
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  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
1旧練兵場遺跡89
まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
1旧練兵場遺跡8
 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
1旧練兵場遺跡7

『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

DSC03507
           
この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

.1善通寺地図 古代pg
 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

1旧練兵場遺跡3

 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
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有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

1hakosiki
大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

2野田院古墳3
    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

2野田院古墳2
野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
2野田院古墳1
野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
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 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。

古代善通寺地図
古代善通寺周辺の復元地形
聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。もともとここにあったものではなく、後に墓地があったここに集められてきたようです。

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この墓地の北側からは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、本寺の東寺と国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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善通寺東院 赤門
この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。

 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


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