瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:古代綾氏

坂出 条里制と古墳
坂出市阿野北平野の古墳群と古代寺院
研究者は古墳群について、つぎのような見方を持っています
①古墳群は、血縁や擬制的血縁関係で結ばれていた集団によってまとまって作られた
②そのため古墳群の規模、内容、変遷等は、その氏族集団の性格や盛衰を映し出している
③そうだとすれば、古墳群のあり方から氏族を復元することができる
この考えに従って、阿野北平野周辺の古墳群と阿野郡の古代氏族を探って行くことにします。テキストは「「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」」です。

讃岐綾氏の活動

阿野北平野南部の大型横穴式石室と綾氏との関係について、最初に指摘したのは羽床正明氏で次のように記します。
山田郡司牒に「大領外正八位上綾公人足」の名があることに注目し、次のように推論します。
①8世紀後半に綾氏が山田郡の郡司になっているのは、大宝3(703)年3月の「有才堪郡司。若雷徊有三等已上親者。聴任比郡」に基づくものである。
②綾氏が比郡(隣郡)の郡司に任じられた背景として、新宮古墳・穴薬師(綾織塚)古墳・醍醐古墳群などの大型横穴式石室の存在から6世紀後半から7世にかけて綾氏が阿野郡で活発に活動していたことが想定できる
③そうしたことを踏まえて、綾氏が孝徳朝立郡(評)以来の譜代を獲得したこと。
続いて松原弘宣氏には、山田郡司牒、『日本霊異記』などの文献や古墳から次のように記します。
①綾公氏は阿野・香河・山田3郡にわたる有力地方豪族である。
②阿野郡で6世紀末に大型横穴式石室が突然築造されるようになるのは、6世紀後半以降にこの地域の有力氏族・綾氏が台頭してきたため
③新宮古墳→開法寺、綾織塚(穴薬師)古墳→鴨部廃寺、醍醐古墳一醍醐廃寺と大型横穴式石室と古代寺院が連続的関係をもって分布していること
④巨石古墳と古代寺院の連続性は、綾氏が阿野北平野を引き続いて勢力圏に置いていたから生まれた
⑤山田郡高松・宮所郷地域にある大型横穴式石室は山田郡大領綾公氏の祖先の墓ではないか
 両氏は、山田郡の綾氏については見解が異なるりますが、次の点では一致します。
A 律令時代の阿野郡が綾氏の根拠地であったこと
B 6世紀末頃~7世紀前半頃の大型横穴式石室が綾氏によって築造された
 
坂出阿野北平野の古墳分布図1

坂出
市阿野北平野の古墳分布図
古代綾氏と阿野北平野の古墳・古代寺院


上表のA・B・Cの三つの集団は、7世紀中頃以降になると古墳築造を停止して、氏寺を建立するようになります。
A 平野南西端部集団 7世紀中頃に開法寺
B 南西部部集団   7世紀末頃に醍醐廃寺
C 南東端部集団   7世紀後半に鴨廃寺

阿野郡では坂出平野南部に立地するこれら三つの寺院以外に、古代寺院は見つかっていません。この3つの勢力以外に、寺院を建立することのできる有力集団はいなかったことを示しています。ところが文献には、7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しか確認できません。これについては、次の2つのことが考えられます。
①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが、その中の一つの氏族の名が偶然に文献に残った
 ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 これについては、以前にお話ししたように、②の説が従来は支持されてきました。その理由は、
A 三つの集団がそれぞれが建立した開法寺、醍開醐廃寺、鴨廃寺の瓦は、綾南町陶窯跡群で一括生産されたものが運び込まれていること
B 三つの集団は、約3km四方の狭い地域に近接して墓域を営んでいること
以上から三集団は、近接して居住し、日常的に交流が密接に行われ、婚姻関係を通じて、綾氏として一つの氏族「擬似的血縁集団」にまとまったとされます。そして6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地、国分寺地域へも勢力を拡大し、その領域が律令時代に阿野郡になったとします。
  これらを、研究者は次のようにまとめます。
   以上のように考えれば、綾氏は坂出平野南西端部に古墳を築造した集団を中心として、平野南端 に三つの古墳群を築造した集団からなり、古墳時代初期まで系譜をたどることができる。さらに、平野東南端部の方形周溝墓は、弥生時代後期まで系譜が遡る可能性も示唆している。従って、綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく、この地域で成長した氏族であることがわかる。
これを「古代綾氏=弥生時代以来の在地的集団」説としておきます。これに対して、異論が近年出されるようになりました。瀬戸内海の対岸の播磨や備後での終末古墳と古代寺院の連続性について、最近の説を見ておきましょう。
  まず備後国府が姿を見せる過程を見ておきましょう。
史跡備後国府跡保存活用計画
備後国府と国分寺の所在地
 福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。このエリアには6世紀までは有力な首長はいませんでした。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、いくつもの終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が密集して建立されます。そして国衙や国分寺が「誘致」されます。それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然のように現れるのが終末古墳の二子塚古墳です。

備後南部の大型古墳
備後国府跡周辺の終末期古墳

   このような変動を桑原隆博氏は、次のような政治的変動が背景にあったとします。

「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。

「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」

 6世紀までは自立していた「吉備」が、畿内勢力に分割・解体されたこと。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として、有力者が何人も備後に派遣され、そこに終末古墳を競うように造営したことになります。「芦田川による南北の水運 + 東西の山陽道 = 戦略的要衝」に何人もの有力者が派遣され、最終的には備後国府が設置されたとしておきます。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

播磨の揖保郡の場合を見ておきましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
播磨揖保郡・揖保川中流 終末古墳と古代寺院の密集地
揖保郡エリアでは、揖保川が南北に流れ下って、古代から船による人とモノの動きが活発に行われていた地域です。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から古代官道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことになります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。吉備王国の解体後、播磨と備後で「包囲」するという戦略もうかがえます。
 律令下の揖保郡には、古代寺院が11カ寺も建立されます。
古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が「集住」していたことを物語ります。その背景としては、揖保川の伝統的な水運と「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力を挟み込んで抑制する体制強化策がとられたとします。

以上、見てきたように吉備王国の解体とヤマト政権の直接支配への対応として、東の播磨と西の備後に、畿内の有力者が何人も送り込まれ、狭い地域に「集住」することになります。彼らは、狭いエリアで生活するので、日常的な交流が密になっていきます。そのため巨石墳造営などについては、同じ技術者集団によっておこなれることにもなるし、古代寺院の瓦も共通の瓦窯を建設して共同提供するようになります。
終末古墳集中の背景

中浜久喜氏は次のように記します。

「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」
 
    この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道に沿って造られています。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、同じような性格を持つ古墳と考えられます。
この説が実際に阿野北平野の巨石墳に適応できるのかを見ておきましょう。

古墳編年 西讃

坂出 条里制と古墳


坂出市の古墳編年表1
坂出市の古墳編年表
古墳編年表2

A 平野南西部では、次のような系譜が見られます  
 小規模な積石塚(城山東麓古墳)→ 夫婦塚(Ⅲ期~Ⅳ期)→ 龍王宮1号・2号石棺(Ⅳ期) → 西福寺石棺群(Ⅳ期?)と箱式石棺の小規模古墳を造り続けます。それがV期になると王塚古墳という大型古墳を突然のように築造します。そして、中断期を挟んで、Ⅶ期の醍醐3号墳から皿期の醍醐7号墳まで大型横穴式石室が集中的に築造されるようになります。

B 平野東南端部では、
弥生時代後期の方形周溝墓 → 蓮光寺山古墳(Ⅱ期~Ⅲ期)→ 杉尾神社南古墳・杉尾神社南尾根石棺・杉尾古墳・サギノクチ石棺・松尾神社東石棺(Ⅲ期~Ⅳ期)、中断を挟んで、Ⅶ期になるとはじめて大型古墳を築造し、大型横穴式石室の穴薬師古墳が姿を現し、以後は多くの横穴式石室墳が築造されます。以上の三つの地域では、中断期を挟んで6世紀末頃に共通して大型横穴式石室を築造するようになります。

 平野南西部端部では、ここは後に讃岐国府が誘致されるエリアです。 このエリアの古墳変遷を見ておきましょう。

坂出市阿野北平野 新宮古墳周辺
Ⅰ期 前方後円墳の白砂古墳 → Ⅲ期 タイバイ山古墳 → Ⅳ期 弘法寺古墳 
→ Ⅴ期 鼓ヶ岡古墳 → Ⅶ期 新宮古墳・新宮東古墳

このエリアには大型古墳が継続して造り続けられています。3世紀末頃から6世紀末頃にかけて、ここに強力な地域権力をもつ集団が存在したことがうかがえます。しかし、V期とⅦ期の間には中断期があるようです。大型巨石墳の造営が再開されるのが6世紀末から7世紀初めです。これは蘇我氏が物部氏とのヤマト政権内部の権力闘争に勝利した時期にあたります。そして、先ほど見た吉備王国の分割・直営化のために、播磨や備後に有力者が派遣され「集住」状況が作られた時期と重なります。対吉備分割策の包囲網の一環として、備讃瀬戸の対岸である阿野北平野に有力者が集められたという説になります。そして、彼らが白村江の敗北後の軍事緊張の中で、城山に朝鮮式山城を築き、戦略交通路として南海道整備を行い、そこに国府を誘致したというストーリーです。
 ちなみに綾氏は、もともとは「東漢(あや)」だと研究者は考えています。
東漢(あや)氏は渡来系で、播磨風土記にはよく登場します。そこには、讃岐との関係のある話よく出てきます。それは、讃岐の綾(阿野)氏と播磨の東漢氏の結びつきを示すものかも知れません。こうしてみると、綾氏が弥生時代以来の在地性集団という説は怪しくなります。
  もうひとつ別の視点からの阿野北平野への有力氏族の集住説を見ておきましょう。
大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
 大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 
  要点をまとめておくと
①伊予東部と結びついた大野原古墳群の勢力拡大
②それに対抗するために、旧来の讃岐各勢力が「豪族連合」を結成して、阿野北平野に集住
③それが阿野北平野への城山城造営や国府誘致の動きにつながる

ここでは、讃岐内の有力氏族の連合と集住という説ですが、阿野北平野の巨石墳が外部から「移住」してきた勢力によって短期間に造営されたとされています。やって来たものが何者かは別にしても「集住」があったという点では共通する認識です。

 かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたことが明らかにされています。
DNA 日本人=古墳人説
     「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになる
この説によると、大量の渡来人がやってきたのは弥生時代よりも、古墳時代の方がはるかに多いようです。その数は、それまで列島に住んでいた弥生人の数を超えるものであったとされます。だとすると、 従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着したことが考えられます。善通寺の場合にも、弥生時代の「善通寺王国」は一旦は中絶しています。その後に、古墳時代になって「復興」します。この復興の担い手は、渡来集団であった可能性があります。それが、優れた技術力や公開能力、言語力を活かして、東アジアを舞台に活動を展開し成長して行く。それが佐伯氏ではないのかというイメージにたどり着きます。そのような環境の中で生まれたから真魚は空海へと成長できたのではないかと思うのです。
最後は別の地点に離着陸していましました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」

  古代讃岐の阿野郡と、その郡衙と綾氏について見ていきたいと思います。
テキストは「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。
  
丸亀平野の郡衙跡候補は次の通りです
阿野郡 岸の上遺跡(丸亀市飯山町法勲寺)      綾氏
那珂郡 丸亀市郡家町宝幢寺跡周辺                              ?氏
多度郡 善通寺南遺跡(旧善通寺西高校グランド)              佐伯氏
これらの郡衙は、南海道の整備後にかつての国造層によて整備・設置されたと研究者は考えています。
それでは阿野郡の郡衙は、どこにあったのでしょうか? 阿野郡の郡衙については、よく分かっていないようです。しかし、阿野郡の阿野北平野には讃岐国衙が置かれました。
国衙が置かれた郡の役割を押さえておきます。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあります。ここからは、出雲の国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。以前にお話しした阿波の場合も、阿波国府と名方評(郡)家は、すぐ近くに置かれていました。どうして、国府と郡家が隣接していたのでしょうか?
 それは中央からやってきた国司が国府がある郡の郡司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰(後の国司)は、地元の出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。それを讃岐にも当てはめると、国府設置に当たって、支援が期待できる綾氏の支配エリアである阿野郡を選んだということになります。これは8世紀以降に、文書逓送や部領に任じられているのは、国府所在郡の郡司の例が多いことからもうかがえます。 生活面の視点から見ておきます。
『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあります。
この「養郡」についてはよく分かりませんが、都からやってきた国司が生活するための食糧などを、地元の郡司が提供していたことがうかがえます。徳島の国府跡である観音寺遺跡木簡からも、板野郡司から国司に対して、食米が支出されていたことが分かります。つまり、中央からやって来た初期の国司は、地方の有力者の支援なしでは生活も出来なかったことになります。初期の国司は、そのような制約を克服し、自前で食糧やその他を確保できる権力システムを築いていく必要があったようです。
 そのような中で阿野郡の綾氏は、白村江の跡の城山城築造や南海道建設などの中央政府の政策に積極的に協力することで信頼を高め、国府を阿野北平野に誘致することに成功したようです。当然、阿野郡衙も国衙の周辺にあったことになります。
古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
次に綾氏の勢力範囲とされる阿野郡について、見ていくことにします。
阿野郡に関する最も古い確実な記録は、藤原宮・平城京跡出土の木簡です。「阿野郡」と記された木簡が次のように何枚も出土しています。

阿野郡表記の木簡一覧

参考 https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/
代表的なものをあげると
①藤原宮跡の溝(SD3200内壕)から「綾(阿野)海高口部片乃古三斗」、己丑(689)年の年号木簡の2つ
②藤原宮跡の溝(S D145)から「綾郡」と記された木簡
③平城京の長屋王の屋敷跡の溝(SD4750)から出土した木簡には、「和銅八年九月阿夜(阿野)郡」と記されています。
これらの木簡は、阿野郡から納められた貢進物に付された荷札の断片とされます。

製塩木簡 愛知
貢納品荷札の例

阿野郡木簡 平城京出土

阿野郡木簡2 長屋王
平城京出土の「阿野郡」木簡

製塩と木簡
平城京から出てきた讃岐阿野郡の木簡(復元)

この木簡には次のように記されています。
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょう。
以上の木簡の荷札からは、6世紀後半の天武朝時代には、阿野郡が存在し、貢進物を藤原京に収めるシステムが機能していたことが分かります。その責任者が綾氏であったことになります。この時期は、先ほど見たように「城山山城 + 南海道 + 条里制工事 + 府中の国衙」などの大規模建設事業に綾氏が協力し、開法寺・鴨廃寺・醍醐寺などの氏寺建立を許されるようになった時期です。
『延喜式』(延長5(927)年には、讃岐の郡名として大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田(豊田)の11郡が記されています。
阿野郡が10世紀にもあったことが分かります。それが、中世になると2つに分割されます。坂出市林田町惣蔵寺の明徳元(1390)年銘鰐口には、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵王御社」とあります。ここからは、中世の阿野郡は、次のように2分割されたことが分かります。
①北条郡 坂出市域
②南条郡 国分寺町・綾南町・綾上町域
この分離がいつ行われたかについてはよく分からないようです。それが再び阿野郡に統合されるのが貞享元(1684)年のことになります。そして阿野郡は明治32年に阿野郡と鵜足郡を合併して綾歌郡となります。
「延喜式」と同じ頃に源順が編纂した百科事典である「倭名類聚抄」には
阿野郡には新居・甲知・羽床・山田・鴨部・氏部・松山・林田・山本の9郷が記されています。

讃岐の郷名
「倭名類聚抄」の阿野郡9郷
阿野郡の郷名

阿野郡の9つの郷がどこにあったのかを見ておきましょう。
新居郷については
①「金比羅参詣名所図会 巻之三」に「遍礼八十一番の札所白峯寺より、八十二番根来寺にいたる順路およそ五十余町すべて山道なり。南に阿野郡新居村あるのみ」とあること。新居の大字が端岡村に残っていること、
②「御領目録』に新居新名とあるのが新居郷の新名田のことと、山内村(昭和30年に端岡村と国分寺町となる)に大字新名があること
③「全讃史」に新名藤太郎資幸が福家城を築き、子孫が福家を名乗ったとあること
以上から、現在の綾歌郡国分寺町から綾南町畑田が比定されています。また、大字福家も新居に含まれる
 甲知郷は
①「白峰寺縁起」に保元元年に讃岐国に流された崇徳上皇を「国府甲知郷。鼓岳の御堂にうつしたてまつり」とあること
②『延喜式』の河内駅、近世の河内郷があること
以上から坂出市府中から綾南町陶を比定。
羽床郷は、中世武士で讃岐綾氏の統領とされる羽床氏が下羽床にいたことなどから、綾川町の上羽床、下羽床、滝宮を比定 山田郷は山田村の地名などから、綾上町山田・西分・粉所、綾南町子疋をあてている。
鴨部郷は、『全讃史』の鴨県主系図の「禰宜祐俊、建長六年十月、当宮御幸之莽。凛膏国鴨部、祐俊子孫可相伝之由、被下宣旨」などを参考に、坂出市加茂
氏部郷は、加茂村氏部の地名から、坂出市加茂町氏部
松山郷は、「菅家集」(「松山館」があり、(保元物語Jo・)などに「松山」の地名があることから
坂出市高屋町・青海町・神谷町(以上は旧松山村)・王越町を比定
林田郷は、「南海流浪記」に讃岐に流された高野山の僧道範が、国府から讃岐の守護所を経て宇多津の橘藤左衛門高能の許に預けられた際に、「この守護所と云ふも林田の地に在りしを知る」とあること
山本郷は坂出市西庄町・坂出町を中心とした地域
以上のように10世紀半の阿野郡は、坂出市、綾歌郡国分寺町・綾南町・綾上を含む範囲と推定しています。これは明治32年の綾歌郡成立以前の阿野郡の領域とほぼ一致します。つまり、10世紀以後はそのエリアに大きな変化はなかったことにあります。

阿野郡地図2
讃岐阿野郡のエリア

ただ「香川県史」は、一部改変があったことを次のように指摘します。
①綾南町畑田は新居郷でなく甲知郷であったこと
②明治23年美合村の成立によって鵜足郡となるまで、仲多度郡琴南町川東が近世以来阿野郡山田郷に属していたので阿野郡に含めていたこと。
以上をまとめておくと
①古墳時代後期に、綾氏が阿野北平原を拠点に、綾川沿いに進出・開拓したこと
②そのモニュメントが綾川平野に残された横穴式の古墳群であり、古代寺院跡であること
③綾氏は、7世紀後半の中央政府の進める政策に協力し、讃岐国衙の誘致に成功したこと
④国衙を勢力圏に取り込んだ綾氏は、その後も在地官人として地方権力を握り成長したこと。
⑤そのため阿野郡は資本投下が進み、人口が増大し、中世には南北に分割されたこと。
⑥そして、古代綾氏は在地官人から讃岐藤原氏として武士団へと脱皮し、羽床氏がその統領を強めるようになること。
⑦羽床氏や滝宮氏など讃岐藤原氏一族の拠点は、綾川の上流の阿野郡に属したこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」
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図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
 発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
中央を流れるのが綾川 赤が横穴式石室をもつ古墳 青が古代寺院
右下が府中で青四角が国府跡推定地

讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
 国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から

「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」

という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。

讃岐の郷分布図
讃岐の郷分布図
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。
②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ
③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
 こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
 そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。

綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
讃岐の大型石室を持つ古墳分布図 阿野北平野に集中しているのが分かる。

まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)
②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)
③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた
②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
それよりも注目すべき点は、その後の築造動向です。

綾北 香川の横穴式古墳規模2
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室

醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。

こうした阿野北平野の背景には何があるのでしょうか
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
 氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。

次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
 先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
坂出 海岸線復元3
坂出の古代海岸線復元図の中の国府と城山

阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です  
 屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
 古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
 讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。

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城山頂上に残る礎石群

 その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。

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こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。

氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
 綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
 さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
 当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。
5讃岐国府と国分寺と条里制

  以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。

①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  讃岐国府跡の位置と地理的環境 
    「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
        香川県教育委員会

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

   前回は3世紀後半に前期の前方後円墳を積石塚で造営した坂出周辺の次の3つの勢力を見てきました。そのうちの
①金山勢力(爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳)
②林田勢力(坂出平野北東)
の集団は,5世紀になると前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,小規模古墳しか造れなくなっていることが古墳編年表からも分かります。その背景には、ヤマト政権の介入があったのではないかと考えらることを紹介しました。
 かつては「前方後円墳」祭儀を通じて同盟者であった綾川周辺の首長達の子孫は、ヤマト政権からは遠ざけられ勢力をそぎ取られていったのです。これは西日本においては、よく見られる事のようです。
 さて、かつての首長達に替わって勢力を伸ばす集団が現れます。新興勢力の新たな首長は6世紀後半頃には、前方後円墳の築造をやめて、大型横穴式石室の築造を始めます。これを古墳編年表で確認すると大型横穴式石室を築造した地域は,5世紀後半に有力古墳を築造した地域とは重ならないことが分かります。改めて「勢力交替」が行われたことがうかがえます。新たなリーダーとなった3つの勢力を見ておきましょう
坂出古墳3

  平野南西端部の勢力は、
白砂古墳から新宮古墳まで有力古墳を,4世紀から6世紀にかけて一貫して造り続けています。この集団が最も強い勢力をもち,坂出平野における指導的地位を持っていたと考えて良さそうです。
 平野南西部の勢力は、
4世紀には勢力が弱かったのが、王塚古墳の時期(5世紀後半頃か)以降になって勢力を伸ばし,大型横穴式石室をもつ醍醐古墳群を作り上げます。巨石墳を集中的に築造した6世紀末頃から7世紀前半にかけて大きな力を持っていたようです。
 平野南東端部の勢力は,
弥生時代後期から墳墓を築造していたようですが、4世紀から6世紀中頃までは勢力は強くありませんでした。それが6世紀末になって穴薬師(綾織塚)古墳を築造し,勢力を強化したようです。
坂出古墳編年
 これに対して,平野北東部(雌山周辺)に古墳を築造した集団は、4世紀には積石塚の前方後円墳を築造し勢力を保持していたようですが、5世紀以降になると徐々に勢力を失い、6世紀末以降には弱体化しています。

羽床盆地の古墳
坂出周辺部の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。このため国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
羽床古墳編年
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力に併合されたと研究者は考えているようです。

国分寺の古墳
 国分寺町域は、4世紀前半頃に小さな前方後円墳が築かれますが,先ほど述べたように快天山古墳を代表とする羽床盆地の勢力に併合され,古墳の築造がなくなります。
 以上をまとめると,阿野郡では6世紀末頃には坂出平野南部に大型横穴式石室を築造した三つの集団が勢力をもち、全域を支配領域としていたと研究者は考えているようです。注目しておきたいのは、これはヤマト政権における蘇我氏の台頭と権力掌握という時期と重なり合うことです。
綾川周辺の三つの集団は,7世紀中頃以降になると古墳を造ることをやめて,氏寺の建立を始めます。
平野南西端部に古墳を築造した集団は7世紀中頃に開法寺
南西部に古墳を築造した集団は7世紀末頃に醍醐廃寺
南東端部に古墳を築造した集団は7世紀後半に鴨廃寺
この三つの寺院は奈良時代にも存続していますから奈良時代にも勢力をもっていたことが分かります。
れでは綾川周辺に巨石墳を造り、氏寺を建立する古代豪族とは何者でしょうか?
  文献史料見る限りに,7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しかいません。
  これについては
  ①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが,その中の一つの氏族だけが残ったとする解釈
  ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 の2つが考えられます。
 三つの集団のそれぞれが建立した開法寺,醍開醐廃寺,鴨廃寺については綾南町陶窯跡群で瓦が一括生産され,各寺院に配布されています。このことは,綾南町陶窯跡群の経営管理権を,これら3寺院を建立した集団が持っていたことがうかがえます。
 また、この三つの集団は綾川周辺の約3km四方ほどの狭い地域に近接して古墳群(墓域)を営んでいました。坂出平野の中で近接して居住していたため,日常的に密接な交流があったことがうかがえます。そうした関係を背景にしておそらくは婚姻関係を通じて,綾氏として一つの擬似的な氏族関係を作り上げていたと考えられます。6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地,国分寺地域へも勢力を拡大し,その領域が律令時代に阿野郡と呼ばれるようになったというストーリーが描けそうです。
   以上のように、綾氏は坂出平野南西端部(新宮古墳)に古墳を築造した集団を中心として,平野南部に三つの古墳群を築造した集団からなり,古墳時代初期まで系譜をたどることができることになります。さらに,平野東南端部の方形周溝墓は,弥生時代後期まで系譜が遡る可能性もあります。そうだとすれば,綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく,この地域で成長した氏族だといえます。
 綾川河口の綾氏の成長を古墳から見てきました。
ここまでやって来て気づくことは善通寺の佐伯氏との共通する点が多いことです。佐伯氏も中村廃寺と善通寺のふたつの氏寺を建築しています。接近して建立されたふたつの古代寺院は謎とされますが、佐伯氏という氏族の中の「本家と分家」と考えることも出来そうです。同じく時期的に隣接する王墓山古墳と菊塚古墳の関係も、佐伯氏の中の構成問題とも考えることもできます。

こうして、綾川流域を支配下に治めた綾氏は大束川河口から鵜足郡方面への進出を行い、飯野山周辺へも勢力を伸ばしていくことになります。同時に、讃岐への国府設置問題においても地理的な優位性を背景に、自分の勢力圏内に誘致をおこない、讃岐の地方政治の指導権を握ったのかもしれません。さらに、白村江敗北後の軍事的緊張の中で造営された城山城建設にも中心として関わっていたかもしれません。そのような功績を通じて綾川上流に最新のテクノロジーをもつ須恵器・瓦の大工場を誘致し、その管理・運営を通じてテクノラートへの道も切り開き、在郷官人としても活躍することになります。
 そして、平安末期からは武士化するものも現れ、讃岐最大の武士団へと成長していきます。それが香西・福家・羽床など一門は、出自は綾氏と信じられていたのです。そこに「綾氏系譜」が作られ、神櫛王伝説が創作され、一門の団結を図っていこうとしたのでしょう。どちらにしても綾氏は古代から中世まで、阿野郡や鵜足郡で長い期間にわたって活躍し一族のようです。
参考文献
渡部 明夫      考古学からみた古代の綾氏(1)    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


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