前回は鶴林寺から太龍寺の中世の遍路道が、紀伊熊野の海賊衆の支援を受けて作られたことをお話ししました。ここに残された四国で一番古い丁石からは、中世の「古四国霊場」の姿が垣間見ることができました。さて、今回は鶴林寺と道隆寺の発掘調査から分かってきたことを見ていきたいと思います。
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 鶴林寺は、標高505mの鶴林寺山の山頂部にあります。
今は樹木が茂り、視界は眺望が余り効きませんが、南北方向に開け、北は勝浦川、南は那賀川を流れる二つの川を見下ろすことができたはずです。つまり、里からはよく見え山で、古代から霊山として崇められていたことがうかがえます。

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 境内は、南西方向から北東方向へ延びる尾根線上に位置し、東西約200m、尾根頂部を平らに造成して、境内を作りだしています。詳細測量で、寺院建物群が建つ平坦面の他に、本堂から南東側斜面には階段状に数段の平坦面があったことが分かりました。今は、この平坦面に建物はありませんが、もともとはお堂などが建っていたようです。
元禄2年(1689)の僧寂本の『四国徊礼霊場記』の挿絵を見てみましょう。
ここには、北室院(現、忠霊殿)を含め六力寺の子院が描かれています(図3)。
四国徊礼霊場記 鶴林寺
右側から仁王門をくぐって参道が延びてきて突き当たりを上がると本堂があります。本堂に延びる道の反対側に下って行くと上から、北室院・不動院・愛染院・宝積院・東蔵院、そして谷を隔てて「水神」を祀る石室院が見えます。どの塔頭も修験者の院主の存在を暗示します。ここからこの鶴林寺がもともとは、真言密教系の修験者の山岳寺院であったことがうかがえます。発掘調査からは、次のような事が明らかになりました。
①北側(参道右側)の子院跡は後世の開墾等で攪乱され礎石等の遺構は見つからなかった。
②「宝積院跡」では、斜面下段側に盛土造成した下から、焼土を多量に含む土坑、柱穴二ヵ 所が見つかった
③遺構からは14世紀頃の土師器坏片・小皿片が出土した。
③東蔵院からは、南北方向の石垣状の石積が出てきた。
「石室院跡」では、東西に細長い建物礎石(11m×7m)と床石が出てきた(図4)。それは『四国徊礼霊場記』の挿絵の建物によく似ている。
⑤各トレンチ内からは、古代の須恵器壹片・中世陶器(備前甕・揺り鉢)・青磁碗片等、明の青花磁器と思われる小片も出土した。
鶴林寺石室院

以上から、鶴林寺の前身の古代山岳寺院にあたると研究者は考えているようです。山岳寺院の果たした役割については、以前お話ししましたので省略します。
鶴林寺3

 太龍寺も、標高約500mの東西方向に延びる尾根線上に伽藍があります。
参道は北側からは谷筋を利用した遍路道が、東側からは尾根線を利用した旧遍路道「かも道」が太龍寺に延びていました。また、太龍寺からは「南の舎心(捨身)」の岩場を通り、次の22番札所平等寺への遍路道「いわや道」「平等寺道」が東に続きます。

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 精密測量の結果、仁王門から境内西端の子院跡までの約500mの東西に長い境内で、九段の平坦面があり、そこに多くの建物群があったことが明らかとなっています。
 寂本『四国偏礼霊場記』の挿絵(図5)と現在の建物配置を比べてみましょう。
太龍寺伽藍

この寺は、空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺となっています。14世紀後半の太龍寺縁起には
「鎌倉末期ごろには太龍寺にはがあった」
「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」
  と密教系縁起らしく大法螺を吹いていますが、瀧があったことは事実のようです。
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。また絵図左上には「南舎心」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。本堂を挟んで「南の舎心」と「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)があったことが分かります。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。修験者たちは、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。その中に空海の姿があったのかもしれません。
中央下には「瀧」が描かれています。
これがもともとの「大瀧寺」の由来になったと研究者は指摘します。『阿波国太龍寺縁起』には
「南の舎心」+「北の舎心」+「大瀧の岩屋」を併せて「三重之霊窟」

と記しています。
太龍寺 大瀧跡

 さて元に戻って、現在の伽藍配置と『四国偏礼霊場記』の挿絵を比べると変化点は、次の2点だけのようです。
①七子院が明治に全て山下に移転した
②貞享元年(1684)建立の三重塔が、昭和34年に愛媛県四国中央市の興願寺に移築
太龍寺は『歴代録』にあるように焼失と、再建を繰り返してきましたが、建物配置の上では17世紀のものが今も同じ位置にあることが分かります。つまり、この挿絵に描かれている景観が現在まで保たれているのです。
 中世のプロの修験者たちの修行の拠点であった霊場が、近世には素人の巡礼の札所に変身していきます。そのため伽藍配置や位置までもが変化していることが分かってきました。そういう中で中世からの伽藍配置がそのまま残されているという意味では、非常に貴重な場所と云えそうです。
 太龍寺では、建造物群に使用されている石材についても調査が行われています。
 このお寺の礎石や石段など石造物には、石灰岩(大理石)が多く使われています。太龍寺山には東西方向にいくつかの石灰岩の岩脈が走り、南北に延びる遍路道がその岩脈を数カ所で横切っているようです。そのため大正時代から昭和の初めにかけて「阿波の大理石」として採掘され、国会議事堂の建設にも使われました。そのため絵図に描かれた「大瀧」周辺は、セメント採石場に売却され瀧や岩屋は消えてしまいました。残っていれば空海修行の「大瀧」として、観光資源にもなったかもしれません。残念です。
 この寺での大理石の使用例を見ると、明治10(1877)年建造の大師堂や御影堂(御廟)の基壇や礎石に使われているほか、多宝塔の基礎や礎石、相輪楳の基壇にも使われています。多宝塔の建築年代は文久元年(1861)、相輪楳が文化十三年(1816)建立なので、大理石を建築資材として用いるようになったのは、江戸時代後期まで遡ることになります。
 この石材の採掘場は、太龍寺境内から約2㎞南東方向に延びる遍路道「いわや道」沿いにあったことが発掘調査から明らかとなっています。石材の採掘・切出しの手法などから、江戸時代の作業場とされ、丁場には削り取られた大量の石灰岩の屑のほか、一辺90㎝角の未製品石材が残っていました。この丁場に残された石材は、境内建造物に使用されている石材と一致するようです。
 遍路との関係では、文献・伝承で太龍寺山裾の水井村で良質の石灰岩の岩脈を発見したのは、寛政年間(1789~1802)に遍路として、当地を訪れた彦根藩の竹内勘兵衛という人物とされているようです。そうだとすれば、石灰製造技術や大理石の切出し技術も遍路が四国に伝えた文化・技術一つと云えそうです。

1四国遍路日記
 
 17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料です。
この中には、阿波の霊場が戦乱の傷跡から立ち直れずに、伽藍が焼け落ち残った本堂もぼろぼろで、仏像も壊れたままうち捨てられている姿が何ケ寺も出てくることを以前にお話ししました。
 そのような中で、鶴林寺と太龍寺は別格で、大寺院の風格を失っていないようです。17世紀半ばの二つのお寺の様子を見てみましょう。
    鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
 
本堂も本尊も立派で、緒堂が立ち並んでいて、住職は「上人」です。他の寺院のように無住であったり、山伏や禅僧が住み着いた住職とは格が違うという雰囲気が伝わってきます。
そして「寺領百石、寺家六万」と記します。檀家が6万というのはオーバーにしても、他の札所が困窮しているなかで大寺らしい伽藍を維持できてていた数少ない寺院だったようです。
それでは大龍寺は、どうだったのでしょうか? 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石 六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
 
  ここからは大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。
同じ山岳寺院であった焼山寺と比べててみましょう
      12番 焼山寺
本堂五間四面東向 本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。

意訳すると
 本堂五間四面で東面し、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔は瓦葺き屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、熊野権現が祀られている。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代が慶安3年に再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。

 ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。かつての栄華はみえません。

なぜ那賀川の北と南にある鶴林寺と太龍寺は、戦国時代を生き抜き、近世に寺勢をつないでいけたのでしょうか。同じ山岳寺院でありながら衰退した焼山寺との「格差」は、どこにあったのでしょうか。これが澄禅の『四国辺路日記』を読みながら涌いてきた疑問のひとつです。考えられるのは戦国時代の混乱の中でも、ふたつの寺には大きな伽藍を維持できる自前の経済基盤があったということでしょう。次に、その基盤とは何かということになります。
私は、それは森林資源ではなかったのかと今は考えています。シナリオは次の通りです。
①古代の山岳寺院が国府によって建立された理由の一つに周囲の森林資源の管理があった
②山岳寺院は広大なエリアの森林資源を自己の支配下に置くようになる。
③中世に那賀川流域にやってきた熊野海賊(海の武士団)は、海上交易活動も行った。
④その最大の地場商品が木材であった。
⑤そのため熊野武士たちは、森林資源エリアをもつ山岳寺院と関係を深める
⑥有力者の保護を受け、木材販売で利益を上げた山岳寺院は山上に広大な伽藍を建立する
⑦室町時代には三好氏などと良好な関係を維持し、木材を堺港市場に提供し戦乱の中でも経済的な打撃を受けなかった。
⑧地元の武士団からも攻撃を受けることは無かった。
以上のような想像はできます。しかし、焼山寺ととの「格差」の理由は説明できません。
どちらにしても、鶴林寺と太龍寺は中世から近世にかけて、寺勢を維持し伽藍を保持し続けたようです。つまり、中性的な景観を良く残している寺であることになります。それは「古四国巡礼」の原型とも云えるようです。
参考文献
早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場  
                                                      四国霊場と山岳信仰 岩田書院