瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。

かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
明治6年3月,鹿児島県士族・深見速雄が宮司として赴任して来ます。
宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。

DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

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明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。

金刀比羅宮 琴陵宥常大人命銅像祭3
           金刀比羅宮本宮拝殿で行われる琴陵宥常大人命銅像祭
現在は、宥常の銅像が造られ例年祭礼が行われているようです。
金刀比羅宮 琴陵宥常大人命銅像祭
琴岡宥常の祭礼用銅像
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

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