瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:吉岡神社古墳

丸亀平野の古代史を考える上で、避けて通ることの出来ない遺跡がいくつかあります。その中のひとつが下川津遺跡(坂出市)です。この遺跡は坂出インターチェンジ建設のために発掘されたので、その調査エリアが広大で、ひとつの集落がまるごと出てきました。それも弥生時代から室町時代までの集落変遷がわかるものです。こんな例は善通寺王国の旧練兵場遺跡群以外には讃岐では例がありません。ここから明らかになったデータを元にして、さまざまな指標が作成され讃岐の古代が語らえています。まずは古代の川津郷をとりまく状況を報告書で見ていくことにします。テキストは 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」です


古代川津郷は、鵜足郡北端の大束川下流地域にありました。

川津・二村郷地図
大束川河口の川津郷
川津は大束川河口部で瀬戸内海に通ずる津でした。古代は「丸亀扇状地」を、土器川がいくつもの首を持つ龍のようにのたうって流れていました。そのため弥生時代の集落は不安定な状態におかれていて、洪水によって流されることもたびたびあったことが発掘調査から分かっています。
 鵜足郡北端部の川津郷は東西約3km,南北約3kmの範囲を自然の境界によって区画され、「地理的な一小単位」を構成します。交通路から見ると、大束川河口部を経て広く内海沿岸諸地方に連なり,東の谷筋を抜けて後の国府ができる阿野郡中枢部府中にも通じます。さらに古代には、大束川には川船が行き来して水運機能もありました。つまり、川津は「瀬戸内海海運+大束川水運+主要陸上路」の交点として、交易上の要地であったことになります。そして、近世後半段階になると旧東西川津村域は200町歩以上の穀倉地帯がひろがる地帯となります。

  弥生時代以降の地域史を考えるためには、現在の現景観に至る耕地拡大の歴史を知ることが大切だと言われます。いわば「復元地形」をイメージすることです。そのために川津エリアの水利条件と潅漑設備の整備の歴史から見ていくことにします。

下川津遺跡周辺では、現在は次の3つの水系から取水しています。
下川津遺跡水路図2
下川津遺跡周辺の用水路網
A 大束川中流
B 綾歌郡飯山町で取水する坂元用水
C 西又用水と丸亀市飯野町で土器川中流から取水する飯野幹線用水
ここでは域外からの広域用水路への依存が高いことを押さえておきます。
どうして域外からの取水に大きく頼るのでしょうか? それは大束川が用水源になり得ていないことにあるようです。
大束川 川津遺跡周辺
大束川と周辺遺跡の高低関係 大束川の水位が低く直接には取水できない

その要因は、大束川の河床が低過ぎて取水・揚水ができなかったためと研究者は考えています。そのため古代の川津は、周辺丘陵部からの落ち水や小河川に用水を頼らざるを得なかったのです。そうなると、大束川東岸南部の城山川流域の谷筋はまだしも、その程度の小川すらない東岸北部の下川津遺跡周辺や、西岸の飯野山山麓地域は水利面で非常に不利なエリアだったことになります。

下川津遺跡 条里制
下川津遺跡周辺の条里制分布図

上の条里制分布図を見てみると、川津は丸亀平野の条里地割分布域の東端に当たります。しかし、東の大束川との間を含めて、周辺の方格線はやや乱れて、空白になっているところが多いようです。これは古代において開発が遅れたエリアであったことになります。都市化した集落が出現しているのに、周辺の土地開発は遅れていたことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
 それは置いておくことにして先に進みます。周辺を見ると、次のような3つのエリアに分類できます。
A 城山川流域は東西坪界線がはっきりとしていること。これは城山川を取水源として大束川に排水する水利系が早くから作られたため
B 下川津遺跡周辺は条里地割がもっとも未発達。城山川流域から引水する南北線が僅かにみえるだけ。
C 大束川西岸の飯野山山麓地域では東西線の方が明確で、大束川は排水路の役割のみ。
こうしてみると大束川に頼らない灌漑網の整備が進められてきたことがうかがえます。。これは金倉川と同じ性格です。
 同時に城山川流域、下川津周辺地域,飯野山山麓地域の3つのエリアでは、それぞれ条里地割の分布パターンにちがいがあります。これは古代の水利条件の違いを反映していると研究者は考えています。さらに推論するとこのエリアがもともとは、三つの勢力によって開発されたことを示すものかもしれません。 ここでは下川津遺跡の位置は灌漑面では不利で、その中では城山川流域がもっとも容易に開発を進められる条件を備えていたことを押さえておきます。
次に各時代の下川津遺跡周辺の遺跡分布を見ていくことにします。
弥生時代中期中葉から後期までの丸亀平野の初期農耕集落は、短期間で移動を繰り返していました。

丸亀平野の環濠集落
中ノ池遺跡(丸亀市)の二重環濠集落 坂出市史より

中ノ池遺跡のように環濠をもつ集落に成長して行く所もありますが、突然のように中期前半になると姿を消します。そして、中期後半~後期初頭には、丘陵上に生活拠点を移します。

度重なる大きな洪水に襲われそこから再生して集落
古代における洪水の脅威
これは気候変動による洪水のためとする研究者もいますがよく分かりません。どちらにしても平地部の遺跡がなくなるのです。そのような中で生き残るのが善通寺王国の旧練兵場遺跡です。ここでは弥生時代前期に下川津に定着した人々は、後期になると姿を消すということを押さえておきます。 

丸亀平野 扇状地から平野へ

次に下川津遺跡周辺の古墳群の展開と消長を見ていくことにします。

古墳時代前期の下川津遺跡周辺には、次の4つの初期前方後円墳が造られます。

坂出の古墳 聖通寺・ハカリゴーロ
①聖通寺山山頂には墳形不詳の積石填,聖通寺山古墳がある。
②その南に続く尾根鞍部には、この地域最大の全長79mの前方後円墳で埴輪を持つ田尾茶臼山古墳
③下川津遺跡の東に川津(連尺)茶臼山古墳
④青の山南麓に、筒形銅器と鋼鉄を出土した吉岡神社古墳。
古墳編年 西讃
大束川河口の前方後円墳の系譜 聖通寺山 → 吉岡神社 → 川津茶臼山 →田尾茶臼山古墳
③の川津茶臼山古墳と④吉岡神社古墳は副葬品から前Ⅰ期以降のもの、②の田尾茶臼山古墳は埴輪から前期Ⅲ期以降のもの研究者は考えています。そして、①~④の4つの前方後円墳を「恐らく単一の首長墓系列」と判断します。津之郷盆地の首長が海に突き出した半島だった角山から聖通寺山の尾根の上に備讃瀬戸南航路を意識して、同一の首長系譜が連続して造ったものと考えられます。これらの①~③の初期前方後円墳の首長を支える母胎集落が、下川津遺跡であったことが想像できます。ちなみに④の吉岡神社古墳が姿を見せるのと、下川津遺跡が2度目の消滅が重なりあうようです。これをどう考えればいいのでしょうか? 課題ばかりが増えていきます。
讃岐の古墳時代前期の情勢

 ここまで4つの前方後円墳を築き、小さいながらもヤマト連合政権の一員であった下川津(津之郷)勢力には続く後継墳が見当たりません。後期段階で首長墓とできるのは6世紀後葉の青の山南麓の大形横穴式石室を持つ竜塚古墳だけです。そして、その期間は下川津遺跡は消えたままです。

坂出古代海岸線
7世紀頃の坂出周辺の海岸線復元図 聖通寺山は半島で、下川津まで海が湾入

古代坂出海岸線復元図
坂出・川津の古代海岸線復元図 津之郷盆地に海が湾入していた

もっと広い視野で丸亀平野一円を見ておくことにしましょう。

丸亀平野古墳分布図
丸亀平野の古墳分布図
丸亀平野では、小さな範囲内で継続的に首長墓系列を造り続けたエリアがいくつかあります。
A 大束川上流地域
 ①綾歌町石塚山古墳群 ②快天山古墳 ③陣の丸古墳群
B 綾川下流域
 ④爺が松・ハカリゴーロ両古墳 ⑤綾北平野の雌山古墳群 ⑥タイバイ山古墳や白砂古墳群
C 弘田川下流域では
 ⑦多度津白方のミタライ山古墳 ⑧黒藤山古墳群
D 弘田川上流、金倉川中流
 ⑧善通寺地域 ⑨吉原地域
E 土器川上流
 ⑩まんのう町長尾地域でも規模は小さいが前方後円墳を含む1単位の系列と考えられる古墳群

こうして見ると丸亀平野では、小地域単位で前方後円墳を主体とする首長墓系列が水系毎にあったことが見えてきます。これを研究者は次のように記します。

小地域集団の首長たちは最小クラス規模の勢力でありながら、前方後円墳を築きうる立場を畿内中枢の諸首長との関係において保持していた

 下川津の属する津之郷盆も、こうした地域のひとつだったとしておきます。。

古墳編年表4

 そのような中で前期後半以降になるとこれらのグループに「地域間格差」が現れ始めます。
川津(津之郷)エリアでは、先ほど見たように4つの前期後半に続く首長墓系列がはっきりしません。かといって中小規模墳の群集墳も現れません。探すとすれば、副葬品の点から川津向山古墳や青の山墓地公園東古墳になります。すでに壊されたものもあるでしょうが、大規模な群集墳があった形跡はありません。
 それに比べて綾川が大きく屈曲する羽床盆地では津頭西・東古墳、岡の御堂1号墳などの武具・馬具を揃えた首長墓クラスの大形円墳が前期後半以降になっても築造され続けます。同時に規模・石室構造・副葬品などの面で、ランク下の滝の宮万塚古墳群、浦山古墳群などの中小規模墳が密集して造られるようになります。この地域の中小規模墳で時期が推測できる約70基のうち50基近くが前期後半段階のものだと研究者は指摘します。これは後期後半以降の横穴式石室墳よりはるかに多いようです。おなじような状況は大束川上流地域でも見られます。岡田万塚古墳群では小型の前方後円墳を中心にかつては数十の中小規模墳が群集していたようです。
 これらの群集化・密集化と対照的なのが弘田川上流の善通寺地域と、綾川下流の綾北平野です。
善通寺地域では青竜古墳生野カンス塚古墳等の首長墓クラスの大形円墳と共に周辺丘陵裾部に箱式石棺群の群集が濃密です。そして中小規模墳の数は余り多くありませんし,群集墳もありません。これは綾川下流域も同じです。善通寺は後の佐伯氏の拠点、綾北平野は、綾氏の拠点となるところです。ここでは川津(津之郷)地域は、善通寺や綾川河口の綾北平野の状況に似ていることを押さえておきます。
群集横穴式石室墳の広がりと群集墳出現の関係
A 横穴式石室の採用を契機に群集墳が形成される地域
B 横穴式石室以前から群集墳が造られているに地域
羽床地域や大束川上流地域はBで、前代ほどの群集はありません。逆に善通寺域はAで「墳丘を有する」古墳はこの時期に爆発的に増大します。Aの川津・津之郷地域は、この段階で群集墳の形成が始まり、青の山の横穴式石室墳の群集や、飯野山山麓、城山川流域の谷部等に群集墳が現れます。古墳時代後期後半、6世紀後半段階に造られる横穴式石室群集墳の量は,前代の群集墳に比べると多くなっています。しかし、周辺地域に比べて特に強い群集状況ではありません。
 例えば城山川流域の谷部は、土地条件から見て最も開発が容易で、交通路から見ても阿野郡中枢部へ抜けるコース沿いに位置していて、「最適な開発候補地」なはずですが、ここにも古墳はあまり造られません。青の山の後期古墳群にしても群集密集度という点では傑出したものではありません。高松市浄願寺山古墳群などと比べると、その違いははっきりと現れます。ここでは大束川下流域のエリアでは、後期段階の首長墳系列の不明確であることを押さえておきます。ここからは突っ込んで考えると6世紀の下川津・津之郷エリアには、古墳を築く首長たちや群集墳を築く中間層もいなくなっていたということも推測できます。
讃岐須恵器窯の分布
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図

讃岐の須恵器窯の分布 7世紀は一郡一窯体制
讃岐では奈良時代までは、各郡単位に次のような須恵器窯があったことは以前にお話ししました。
①阿野郡では綾川上流(現府中ダム)に打越窯
②多度郡では弘田川下流に黒藤窯
③鵜足郡域では岡田廃寺の瓦窯で須恵器を焼成している例
④青の山南麓の青の山1,2号窯が7世紀前半の操業
⑤城山川上流峠奥窯は、7世紀を通じて操業
こうしてみると鵜足郡と阿野郡には、須恵器生産という最先端のハイテク技術を持った渡来系技術者集団が集中していたことにもつながります。
 ハイテク技術と文明化の象徴は、古代寺院建立にも見られます。
讃岐地方は南海道諸国中、古代寺院の数が最も多く32ケ寺を数えます。阿野郡と那珂郡を見ると、
A 阿野郡 国分寺・国分尼寺に綾川流域に開法寺・鴨廃寺・醍醐廃寺
B 鵜足郡 大束川上流の法勲寺廃寺と岡田廃寺
C 那珂郡 丸亀市の田村廃寺・宝憧廃寺,まんのう町の弘安寺廃寺
C 多度郡 善通寺市の仲村廃寺・善通寺
  それぞれ郡域の中枢部分に分布します。ところが津之郷盆地には古代寺院は最後まで姿を見せませんでした。
以上、下川津についてまとめておきます。
①津之郷盆地の川津は、土地条件・交通関係に恵まれ、鵜足郡の中枢として十分機能しうる位置にある
②古墳時代前期にでは、4つの前方後円墳から首長墓系列が復元可能
③しかし前期末以降その系列は途絶え、中小規模墳の展開もあまり見られない。
④古墳時代後期以降は、下川津は相対的な「地盤沈下」傾向が奈良時代まで続く
⑤そのためか津之郷盆地には古代寺院が姿を見せない。建立できる有力氏族の不在が考えられる
⑥にもかかわらず、6世紀末~7世紀代には鵜足郡域の須恵器生産と供給の中心地であった
こうしてみると7世紀には、有力氏族はいないが鵜足郡の経済活動の中心地ではあったということになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 

次に断片的に残された文献資料から古代・中世の川津周辺を見ていくことにします。
  正倉院資料中に「讃岐国鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂調施萱匹長六丈虞一尺九寸 天平十八年十月」の墨書があります。これが文字資料として現れる「川津」の初例のようです。調物として縄を川津から貢納していたことが分かります。川津郷は752年(天平勝宝4年)他の19郷と一緒に東大寺封戸に編入されたのです。この時に一緒に勅施入されたのが讃岐では山田郡宮処郷(現高松市前田町周辺),香川郡中間郷(現高松市中間町,御厩町周辺)です。
 封戸制度はm東大寺の荘園ではありません。そのため東大寺が直接的に経営に関わり、川津郷に対して強い影響を行使することはなかったようです。管理経営は、国司や郡司などの在地支配層が間に入りって行いました。しかし、この関係によって古代末まで「川津郷」が東大寺文書に散見することになります。
 その中の天暦四年(950)「東大寺封戸井寺用雑物目録」では、川津郷から封物として調綿40疋7尺,庸米44石5斗5升,租白米41石2斗6升5合,中男抽1斗5升を毎年貢納することになっています。これら頁納物の品目は、讃岐の宮処郷・中間郷と同じです。その中に調縮40疋があります。これが川津エリアの特産物であったようです。

律令国家の動揺の中で、各地の東大寺初期荘園・封戸も解体していきます。
川津郷も御多分に漏れません。康治元年(1142)「東大寺返抄案」で讃岐園百五十戸料として御封米732石4斗4升6合が頁進されます。ここからは12世紀中葉までは、封戸が川津郷にあったことが分かります。しかし弘安三年(1168)寺家御封便補保として三木郡原保,那珂郡金倉保を代わりに立てています。ここからは川津郷を含めた讃岐園封戸三郷からの対物確保が難しくなったために、新たな対応策がとられたことが分かります。
 13世紀中葉には、九条道家初度惣処分状(建長二年1250)の一条実経譲与分の「新御領」中に「春日社領河津庄」が出てきます。これは九条道家が讃岐の知行国主であった頃に、公領川津郷の一部を割いて立荘したようです。ここからは平安時代末から鎌倉時代になると律令制度に基づく収奪や封戸制度としての収奪ができなくなって、立荘や公領の纂奪=荘園化で対応するようになったことが見えてきます。律令的収奪に抵抗する動きや、荘園化によって負担軽減,権利拡大を求める在地の動きがあったのかもしれませんが史料からは分かりません。ここでは13~14世紀になると、公領川津郷と河津「庄」が併立していたことを押さえておきます。
 このときの郷と庄の位置関係を記した史料はないようです。ただ川津町東山に春日神社が鎮座します。ここからは川津郷東南部の城山川流域を中心とする地域が河津庄の故地と研究者は推測します。先ほど見たように。城山川流域が開発が最も進んだ地域だったのです。
 
 鎌倉時代末から室町時代初頭の南北町の騒乱期には、川津庄でも混乱が起きます。
建武四年(1337)から暦応四年(1341)にかけて「川津郷 + 河津庄 + 興福寺領二村荘」で仁木弥次郎が軍勢を率いて盛んに檻妨を働き,これに対して興福寺衆徒,川津郷領家職修理亮資任から濫妨停止の申状が出されています。修理亮資任申状案(「外記日記」紙背文書)には、仁木弥次郎は「預所」と号したとあります。ここからは二村郷の在地支配権を巡る紛争だったことがうかがえます。彼が在地勢力であるのか,本家や領家により任命され外部から派遣された者なのかはよく分かりません。ただ記録を見る限りは4年間も,鵜足郡北部で荘園秩序を脅かす活動を続けています。その背後には荘園領主の支配に抵抗し、それを支える在地の勢力があったことがうかがえます。そのために興福寺等の荘園領主は、幕府に訴えてその解決を求めなければならなかったのでしょう。この一連の騒動の後,宣政門院領川津郷・春日社領河津庄・興福寺領二村荘に関する史料はないようです。つまり、その後の経過は分かりません。

中世になると堆積や気候変動などで海岸線が前進してきます。その結果、川津や津之郷は陸封され、湊としての機能を失うようになります。それに代わって宇多津が新しい湊として台頭してきます。宇多津には室町時代前半には、細川氏が守護所を置きます。こうして守護細川氏の領国支配の政治的拠点として,また物資集散地として讃岐の中で最も活発な交易活動を展開するようになることは以前にお話ししました。
こうして古代には「都市化」していた川津や津之郷は、中世に成ると周辺湿地帯を開拓して農地に変え、農村地帯へと変貌していくことになります。そして宇多津の後背地としての役割を果たすようになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」
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埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
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説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

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IMG_6607
飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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