瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:吉野川水運

 
筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門附近を下る筏
  前回は、吉野川上流の材木が白地周辺の「管(くだ)流し」職人によって、徳島に流送されていたことを見ました。しかし、これは明治になって以後のことで、阿波藩は19世紀になると「管流し」や筏流しを原則禁止としていたようです。その辺りの事情を今回は見ていくことにします。テキストは「池田町史上巻504P 土佐流材」です。
 中世後半には吉野川は木材流しに利用されたと私は考えています。阿波藩時代の初期には、文書で木材流し行われていたことが次の文書から分かります。
今度祖谷御村木筏之御下シ被成候ニ付□
いかたのり(筏乗り)拾人仰付二付其□
いかたのり無御座候所我等共方へ御屋
右拾人之いかたのり我等共方今頤より□
此ちん銀之儀百五拾目ニ相定外二後□
御公儀樣より御下侯舍右銀之内七□
只今湖取申侯 残る八拾目御公儀□
被下候筈若御公樣八抬め(目)□
ハ百姓方より百五拾目之通可被仰
加様ニ相定拾人分請取申上候此儀ニ付
六ヶ敷儀出来侯共我等共罷出御断申
□毛頭六ヶ敷儀かけ申間敷候為□□
書付取遣加件
延宝二(1674)年六月廿六日                            太刀野村弥六 同村宅□

花還村庄屋半兵衛殿 
同村五人案百姓方へ
(三野町長谷均所蔵)
 この文書は下部が欠落しているので、不備な点もありますが、次のような情報が読み取れます。
①阿波藩が祖谷御木材を筏にして流すことになり、筏乗りの人数を各村に割当てたこと。
②花還村(現・三野町花園)に割り当てられた十人が用意できないので、代わって太刀野村の弥六などが引き受けたこと
③その際の賃金についての花還村との契約書であること
ここからは阿波藩が祖谷山の木材を筏流しによって、下流に運んでいたいたことや、筏流しの専門的な職人がいたことがうかがえます。
 江戸前半期の木材輸送は、土佐の業者が吉野川上流で木材を伐り出し、川岸に積み、洪水のとき吉野川に放流して下流で拾い集めるという少々荒っぽい方法でした。これは陸送に比べて輸送費がほとんどかからず、木材業者にとっては魅力的な輸送方法でした。しかし、弊害が出てきます。新田開発が進み吉野川流域に耕地が拡大します。そうすると洪水と共に流れてくる流木が、堤防を壊し、田畑や家屋に大きな被害を与えるようになります。特に、天明の大洪水のときは流材による被害が大きかったようです。そのため天明8(1788)年に、西林村の農民達から木材の川流し禁止が次のように申請されています。
『阿波藩民政資料』
阿波郡西林村 土州材木之義に付彼是迷惑之后願出候に付去る正月別紙添書を以各様迄被出候處共儘打過恢付狗亦其後も願出候1付追願紙面添書を以申出侯共節坂野惣左衛門台所へ罷出居申候 付右願迷惑之義に候得は土州御役所懸合侯得は可然を惣左衛門へ被仰聞惣左衛門より委曲承知仕候に付右迄紙面添書之共節伏屋岡三郎指引有之由御座候然所此節尚又別紙之通願出候土州村木に付村方迷惑有之候へは不相當義に候得は何卒急々御設談被遣度此上相延候は興惑可仕候て先而願書宮岡相指上申候                                          以上
天明八年 正月                                         江口仁左衛門
片山猪又樣 
内海一右衛門様
右之通
御城に而片山猪又殿懸合侯處被申出段致承知候併土州材木台件之儀は御断被仰義に候然此度差下之村木之義は残材木に候最早切に而後に無之后被申聞侯事
二月三日
ここには前段で、木材流し禁止を願い出たが御返事がいただけないので、早急に結論を出してもらいたいという再度の願いたてが記されています。後段は役所からの返書で、現在行われている木材流しが終了すれば、禁止すると記されています。

こうして天明8年以後は、吉野川の材木流しは「原則禁止」となります。
寛政年間に禁裏修築用木材の吉野川流送の申出がありましたが、阿波藩では実状を訴えてこれを断っています。さらに享和年間には、取締りを強化するために吉野川流木方を新設しています。吉野川の上流三名村から山城谷までを三名士、池田村から毛田村までは池田士に取締りを命じ、洪水時の祖谷分は喜多源内、徳善孫三郎、有瀬宇右衛門にも応援させ、川沿の庄屋五人組にも流木方の指揮に従い油断なく取り締ることを命じています。
 「取り締まり強化=犯罪多発」ですから、天明8年の以後も、秘かに木材流送が行われていたことがうかがえます。川岸や谷々に積まれた木村が洪水の度に散乱し、これが吉野川に流れ出て、既成事実としての流送が黙認されていたようです。
 取締りが強化されると、今度は土佐藩からの流送許可を求める運動が繰り返されるようになります。
これは土佐からの交通路にあたる三好郡の組頭庄屋や庄屋を通じて行われます。
A  文化12年(1815) 白地村庄屋三木晋一郎が藩へ報告した文書には、次のような点が指摘されています。
①土佐流材の許可が阿波と土佐の両国に便利・利益をもたらすこと
②阿波藩の流材禁止が撤回されない時には、土佐藩は吉野川上流を堰き止めて流路を替えて土佐湾に流す計画があること、
③そうなると吉野川の水が一尺五寸も減って平田舟の往来にも困るようになること
B 文政5(1822)年には、佐野村組頭庄屋の唐津忠左衛門が「春冬の三か月の平水のときのみにして流してはどうか」という提案を藩に提出しています。これは 土佐の大庄屋高橋小八郎、長瀬唯次の要請を受けて阿波藩に取り次いだものです。その要旨は次の通りです。

「天明のころの大被害は、木材を増水時を見はからって流したので、洪水で決壊した護岸を越えて材木が散乱して起こった。だから①増水の時節は除き、春冬の平水のときに②筏を組んで川下げすればよいのではないか」

これに対して、西山村組頭庄屋の川人政左衛門、他六人の組頭庄屋が連名で、調査結果をもとにして次のように禁止継続を訴え出ています。長くなりますが見ておきましょう。

隣国が仲良くしなければならない事も良くわかり、材木流しが土州阿州の両方に利益があることも良くわかる。それで、郡々の川筋を実際に見分し、村々の趣もよくたしかめ相談してこの訴えを決めた。

材木流しを「二月より山へ入り、五・六月ごろまでに筏流し、六・七月ごろより九月まで谷へ出し、十月より三月まで川下げを許可する」という提案について。

A まず、土佐境か山城谷の川までは約五里、この間は岩石が多く、平水のときは流せないので、ちょうど良い増水を見はからって流すのであろう。ところが天気のことでいつ大水になるかもわからない。そうなると池田でいったん取り上げて置くなどとうていできない。天明年中の災害のときを考えてもはっきりしている。あれは正月下旬のことであったが、阿波部西林村岩津のアバ(網場)が平水から四、五尺の増水で岸が切れ、材木が散乱、村々の堤防へつき当てて破損した。
 川幅広く流れのゆるやかな岩津でもこうであるから、池田あたりではもっとひどい。土佐から川口までは、山間二、三町の谷筋を流れ出るので、洪水時には山の如く波立ち、どんな坑木も役立たず材木が散乱する。特に六、七、八月に谷に材木を置くと、台風などの大雨が降ればどんな方法でも材木を留めて置くことはできない。また、池田村の往還は川縁より四、五尺から三余も高い所にあるが、それでも水が乗る。材木を引き揚げて水の乗らない遠方まで移動させるには費用がかかり過ぎる、いろいろあって、とても材木の川下げを認めることはできない。


B 吉野川は、祖谷山西分、山城谷、川崎、白地、その他から年貢の炭・娯草・椿などの品、徳島や撫養から塩・肥料等を乗せた平田船が多く行き交っている。特に十月から三月は一番多い時期である。材木を流したら池田・川口間の船が通れなくなって、年貢収納にも差支える。天明の洪水では、岩津から川口までの漁船が止って大変難渋したことは老人は皆知っている。

C 先年の増水のときには、村々へ流れ込んだ材木を人村役を雇って川へ出した。この度も賃銀で人夫を召使う予定のようだが、材木を担ぎ出す費用は各村々の負担となる。田畑は崩れ、川に成り(川成)、川除普請もかさむ上に、そのような負担まで課せられたらやっていけない。

D 天明、寛政の洪水では、下流の方でも木材が川の曲った所へ突き当り、岸が崩れるなど至るところで大損害を受けている。(中略、具体的に各所の状況説明)
先年の大災害は天災ではあるが、深山の諸木を伐払い水気(水分)を貯えることができなかったからだと今も言い伝えられている。その後、流木御指留(禁止)によって、近年洪水もおこっていない。私達の相談の結果をさし控えなく申しあげた。
これを受けて阿波藩では材木川下しを禁止し、唐津忠佐衛門からも土州大庄屋へ、徳島藩の流材禁止の方針を伝える文書を送付しています。なお、この文書の中で天明の禁止は、大阪鴻池善右衛門を通じて土佐へ通されたことが分かります。ここからは材木川下し復活運動には、大坂商人が介在していたことが分かります。
このような中で天保9(1838)年、江戸城西ノ丸の用材を吉野川よって搬出したいという申し入れが土佐藩からあります。阿波藩はこれに対しても実状を説明し、幕府の了解のもとで川下しを断って陸送されることになります。またこの時に、土佐藩が本山郷木能津村へ集材し、陸送の予定にしていた材木が、4月25日の大雨で、約800本が吉野川へ流れ込んでしまいます。この時には幕府の水野越前守が仲介し、その処理案を次のように決めています。
①阿戸瀬(山城町鮎戸瀬)まで流れ着いた材木約30本は陸送で土佐境まで運んで土州に引き渡す。
②阿戸瀬より下流に流れ着いた材木は陸送で、撫養まで送り土佐藩の役人へ引き渡す。
 ここからは阿波藩は、下流の村々を護るために土佐材は一本も吉野川を川下しさせないという方針を貫いたことが分かります。江戸城修復のための木材流送を、こうした形で処理した徳島藩は、天保9年11月6日に「吉野川流訓道書」を出します。この中には次のように記されています。

幕府の用材さえ川下しを拒否したのであるから、今後他国の者が過分の御益を申し立てて許可を求めて来ても絶対に相手にしてはいけない。若し背く者は厳しく罰する

こうしてこの流材問題は決着し、明治になるまで禁止されることになります。
以上を整理しておきます。
①中世以来、吉野川は土佐や阿波の木材搬出のために使用されてきた。
②その方法は、筏を組まずに一本一本を増水時に吉野川に流し、河口付近で回収するというものだった。
③そのため輸送コストが格安で、これが畿内での阿波・土佐産の木材の価格競争力となった。
④この木材運送と販売で、財政基盤を整えたのが中世の三好・大西氏、近世の蜂須賀氏であった。
⑤しかし、吉野川流域の新田開発が進むと、洪水時の「管流し」は流域の被害を拡大させた。
⑥そのため19世紀の大災害を契機に高まった農民達の「管流し」廃止運動が高まった。
⑦それを受けて、阿波藩は吉野川の材木流しを廃止し、取り締まりを強化した。
⑧これが復活するのは明治になってからである。
ここで押さえておきたのは、木材流しが禁止されるのは19世紀になってからのことで、それまでは行われていたこと、もうひとつは池田周辺の網場(あば)で筏に組まれるのは、明治になって始まったことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「池田町史(上巻504P) 土佐流材」
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                      平田船
吉野川の平田船
少し前に半田の川港のことを紹介しました。すると井川町の辻にも川港があると教えられました。しかも、「川港跡」ではなく現役の港として機能していること、その港の管理センターや船の修復所まであって、管理センターには要員まで待機しているというのです。ホンマかいな?と思いましたが、実際に確認しに行ってきました。その報告書です。
 吉野川の川港
吉野川の旧川港 辻の浜は⑧

 吉野川の旧川港地図を見ると、確かに辻には港があったことが分かります。それでは、どのくらいの川船がいたのでしょうか。
三好・美馬郡の平田船数

近代の川船(平田船)の所属表を見てみると、東井川村(辻)は、35艘とあります。これは池田や白地よりも多く、最も多くの川船が母港としていたことが分かります。ここからも、辻が人とモノの集まる経済的な集積地であったことがうかがえます。その繁栄の源が何であったかは後で見ることにして、さっそく原付バイクを走らせます。

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美濃田大橋
猪ノ鼻トンネルを越えて美濃田大橋まで30分でやって来てしまいました。新猪ノ鼻トンネルの開通で、まんのう町から池田方面は本当に近くなりました。雰囲気のある大好きな美濃田大橋を渡って、辻の旧道に入っていきます。
 辻の町は旧道沿いにはうだつの上がった家が並びます。個性を主張する独特な家もあり、見ていて楽しくなります。
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三階建ての木造母屋 奥が深い町屋作り

 辻は、半田や貞光・穴吹に比べても面積は狭いのですが、江戸時代から祖谷や井内などの後背地を持ち、その集積地として栄えてきました。

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讃岐からの塩などが昼間を通じて、祖谷や井内に入っていく交易拠点で、モノと人が行き交う要衝でした。近世後半の辻の発展は、刻み煙草によってもたらされます。井内など周辺のソラの村で収穫された煙草が、辻に集積されるようになります。それが明治になり、営業の自由が認められると煙草工場がいくつも立ち並び、煙草専売化前には70の工場があったようです。それらが辻の川港から平田船で積み出されていきます。一艘分の煙草荷で一軒の家が建つと云われたそうです。それでは、煙草を積んだ船が出港していった港を見に行きましょう。

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 旧道に青石で囲まれた共同井戸に、赤い鉄板が被せられています。もう使われていないようです。井戸があった場所は、町のポイントになります。ここから港に下りていく道があります。この道が浜の坂とよばれ、両側には料亭や飲み屋が軒を並べていたと云います。
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真っ直ぐ進むと、国道と線路の下をくぐります。振り返るとこんな感じでした。

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すると視界が開けて、すぐ目の前を吉野川が流れています。
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辻の川港跡
上流を眺めると空色の高速道路の橋が見え、すぐ上流で瀬が北岸にぶつかって流れを変えて流れの速い所です。ここは井内谷川との合流地点のすぐ下手で水深が深く流れの静かな淵になっています。ここが辻の川港跡です。

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 入江を見ると、今も鮎船が浮かんでいます。

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それに監視センターもあります。
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川船の保管庫もあります。確かに現役の川港と云えなくはありません。
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この椅子に座って、想像力を羽ばたかせると、棹さして川の流れに乗って出港していく平田船のイメージが湧いてきます。吉野川の旧川港の中で、一番保存状態がいい所かもしれません。
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辻の浜を守る会の活動日

管理センターの張り紙をみると、多くのボランテイアの活動でこの光景が維持されていることが分かります。感謝。
吉野川の川船IMG_4161

吉野川には多くの帆かけ船(平田船)が行き来していました。
帆にいっばいの東風を受けて、三隻・五隻とつらなって吉野川をさかのぼっていったと回顧されています。上流に消えたかと思うとやって来るといった具合に、古野川には帆かけ船の通行が絶えなかったといいます。
上流からは、たばこ・木炭・薪・藍その他、山地の産物
下流からの積荷は、塩などの海産物・肥料・米・衣料・陶器。金物・その他雑貨日用品など。
吉野川の川船輸送は、時代とともに盛んとなり、明治24年頃が最盛期でした。その後、道路の改修、牛馬車の発達、鉄道の開通によって河川交通は陸上交通にその役割をゆずっていきます。特に大正3年(1914)に鉄道が池田まで延長されると、川船はほとんどその姿を消すことになります。
吉野川にて渡し船で六田に渡る 1896
奈良の吉野川にて,渡し船で六田に渡る 1896年 パーソンズの日本記
 それならこの港に人影は絶えたのかというと、そうではないようです。
美濃大橋が出来るのは、戦後のことです。さきほど見たように、明治になって煙草工場が数多くできると、そこで働くために、北岸の人達は渡舟で辻にやってきていました。通勤のために利用したのが辻の渡場になります。さらに、大正3年(1914四)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されると、人とモノの物流の拠点は辻駅になります。北岸から鉄道を利用する人々は、辻の渡場を利用して、辻駅で乗り降りするようになります。三好高等女学校、池田中学校(旧制)へ通学する昼間・足代の人たちも渡船の利用者でした。

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美濃田大橋
 辻の渡場は、この港から200mほど下流にあります。行ってみましょう。
赤と白のストライプの美濃大橋を眺めながら川沿いの道を歩いて行きます。そうすると岩場がコンクリートで固められた所が出てきます。

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辻の渡し跡
これが渡場の桟橋だったようです。向こう岸の昼間側にも露出した岩場があります。


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美濃田大橋からの辻の渡場 左が辻側、右(北岸)のオツゲ岩
 大正15年に、南岸は岩場を掘り抜いた道が新設されます。それに併せるように、北岸の渡場も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができます。ただし、北岸は荷車以外は、それまで通り、川原の大きな「オツゲ岩」のところから渡し船で往来したようです。北岸川岸の大きな岩が「オツゲ岩」のようです。

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美濃田大橋からの北岸の辻の渡し場
辻の渡しは、古くは宮の下(滝宮神社)の渡しともいわれ、辻町の中心部と昼間を結ぶ重要な渡し場でした。
ここは先ほど見たように、すぐ上流で瀬が終わり、美濃田の瀞場の始まりになるところで、流れもゆるやかになる所です。上流で流された流木が、この瀞場で回収されて筏に組まれて、ここからが筏氏たちが下流まで運んだことは、以前にお話ししました。そのため渡船を渡すには安全で、出水時にも、かなりの増水でも渡船できたようです。
池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
渡場には多くの事故が起きています。辻の渡場で最も大きな事故では、17名の若人が溺死しています。
明治42年(1909)年4月7日午前7時のことです。前夜からの雨で、吉野川は増水し勢いを強めていました。渡し船に乗ったのは官営になったばかりの煙草刻工場へ通勤する工員たちで、すべて北岸の者ばかりでした。出勤時間前なので、工場に急ぐ工員たちが、昼間側から定員一杯に乗りこみます。辻側の岸に着くや否や、先を争て舟の縁を踏み切って跳び出します。その反動で船が大きく揺れ、濁水が底をすくって転覆します。本流が南岸に近く、増水していたので、17名が濁流に飲まれて尊い命を落としました。

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昼間側の岡の上に建つ地蔵さん

このような惨事を見守り続けた地蔵さまがいらっしゃいます。
辻渡船場北岸の旧渡場が見下ろせる民家の屋敷内に立派な地蔵さんが座っています。碑文には次のように記します。

「三界萬霊、天保五甲午歳  1834)二月、世話人・泰道・正圃・武之丈・昼間村・東井川村・西井内谷・足代村・東井谷・東山村講中」

北岸の村々の人々によって、約190年前に建立されたお地蔵さまです。渡船場での水の事故はつきものだったので、多くの人々が水の犠牲になっています。この地蔵さんは、水難事故で亡くなった人々の霊を慰めるとともに、渡船の安全守護を祈願して建てられたのでしょう。

美濃田の渡しと橋の渡り初め
美濃田大橋の完成と消えゆく渡し船
昭和34(1959年に、美濃田大橋が完成します。そして、渡船場は廃止されます。お地蔵さまもその使命を終えたかのように、今は吉野川の流れを見守りながら庭先にぽつんと立っています。

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  以上、辻の川港の調査報告でした。確かに、川港の雰囲気を最も伝える環境が残されていました。監視小屋の前に置かれた椅子に座って見える、吉野川の姿も素晴らしいものがありました。紹介していただいたことに感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     吉野川の水運        三好町史歴史編 772P    
 菖蒲・土居町内会小誌 三好町史地域編  71P
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前回に続いて、吉野川の船と港について見ていくことにします。テキストは  「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」です。
吉野川に、どのくらいの川港があったのでしょうか

吉野川の川港

上図の吉野川川港の分布図からは、次のようなことが分かります。
A 一番奥の港は、阿波池田を越えた①の阿波川口までで、ここまで川船は入り込んでいたこと
B 吉野川には、30近い川港が分布しており、その地域の物流拠点となっていたこと。
C 下流終着地点は、撫養や城下町徳島で、そこからは廻船で大坂や瀬戸内海の各港とつながっていたこと
この他にも、芝原の浜・中の島の浜・江ノ脇の瀞・轟の浜・足代の東浜なども川港として機能していたようです。
平田船
吉野川の平田船
 吉野川にはどのくらいの数の川船が運航されていたのでしょうか?
まず三好郡の集計を見ておきましょう。
三好郡の川船
次に阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)の情報を基にして研究者がまとめたのが下表になります。


平田船港別就航数一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①吉野川就航の川船は750~1000隻程度であった。
②川船所属数ベスト5の川港は、半田50・脇40・佐間地(白地)36・池田31・白地29で 下流部よりも上流部の美馬郡・三好郡に多かったこと
②について、上流部の川港に所属する船が多かったということをどう考えればいいのでしょうか? これは、また後に考えるとして、先に進みます。

 当時の船運の状況が、『阿波郡庄記』三好郡の条に次のように記録されています。

「芝生村南北加茂村の内に、江口と云う渡場あり。讃州金比羅へ参詣の節帰りには当村へ出かけ船数艘下りあり。3月・10月・10艘または15艘、人ばかり乗船夥敷く宿多く御座候。(中略)
半田小野浜にも船頭多く乗船客も多く、明治末期~大正初期の半田小野浜~船戸(川田から鉄道)間の船賃は3銭5厘」


徳島日々新聞…明治28年2月23日の記事は、次のように記します。

「吉野川筋貨物を積載上下する船数150隻・1か年の往復回数2万回・物資品目・藍玉・藍草・すくも・玉砂・砂糖・塩・石灰・鯡粕・米麦・煙草大豆・木炭・薪・雑貨・陶器・物資総重量200万貫・船客用の船50隻・利用船客6~7万人・内・県外客10分の1、時期は9月から翌年5月の間が多い。

高瀬舟と平田船



 吉野川の浜(津)を結ぶ川船は、平田船・比良多船・平駄船とも表記されています。

大言海は、次のように記します。
「平板の約と略して、ひらだ・薄く平たくして長き船。倭名抄11船類に、艇薄而長者曰く・比良太・俗用平田船・また石を運送する船・段平船。昔々物語(享保)に(涼みのため平田船に屋根を造りかけ是れを借りて浅草川を乗り廻し。)とある。

阿波志には
「船長2丈5尺許広さ6尺底平板厚舳」

14世紀の頃は田船として利用され、慶長(1596~1615)の頃、大坂で上荷船として大型化され、寛永時代(1624~1644)は樽前船、北前船の荷物の揚げおろしや河川の物資輸送に利用されるようになります。
 吉野川には、この他に「エンカン」・「イクイナ」と呼ぶ船もあったようです。
エンカンは、長さ7間・巾6尺。8反帆、40石積と、少し小型でした。イクイナは、エンカンよりせまく、舳が2岐の角状になっていて、その岐の間に櫂を差し込んで漕ぐことができたために、半田川や貞光川の支流に入ることができました。
 川船の帆は、松右衛門という純綿の厚い織物作りで、そこには、□上(かたがみ)・臼(かねうす)などと親方(船主)の家印を入れていました。
帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
 帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
平田船は、どんな風に吉野川を行き来していたのでしょうか?
笠井藍水の回想記「帆かけ舟」には、次のように記します。

「春夏は川に沿って東風が吹くので帆かけ船が上って来る。夏・水泳に行くと大きな帆(8反帆)をかけた平駄船が後から後から船首に波をけって上って来るのを面白く眺めた。また、秋冬は・西風となるので帆は利用できず2~3人の船頭が綱で船を曳いて上る。脇町の対岸の河原の水辺を綱を肩にかけ身体を前に屈めて船を曳く景物をよく見た。帆かけ船は全国何処の川にもあっただろう。しかし吉野川の如く巨大な帆を使用した処は他にあまりなかっただろうと思う。吉野川の帆かけ船は日本一であったかも知れぬ。とにかく吉野川の風景に興趣をそえるものであった。……」

北上川の平田船
復元された北上川の平田船
吉野川船運の特徴は、春・夏は東風が吹くことです。
この風を利用して帆を建てて上ることができました。追い風を受けてゆたりと上流に上っていく川船が、夏の風物詩でもあったようです。これは楽ちんです。一方、秋・冬は西風が吹くので、帆は利用できません。そこで友船と2艘をつなぎにして、1人が楫をとり他の船頭は綱を引いて川岸を登ることが行われていました。

遠賀川の船曳
遠賀川の船曳

なかでも難所は、岩津橋下流のソロバン瀬だったようです。
ここでは300mもある長綱で船を引っ張らなければなりません。引綱は、60~100尋(100~200m)もある細長い綱(日向産)です。これを足中草履(あしなかぞうり)をはいて、石を拾うように体を前に傾けて引きあげた。まさに「船曳」の重労働です。
イメージ 14
淀川の船曳図

  このソロバン瀬を見下ろす南岸にあるのが「忌部十八坊」のひとつ福生寺です。
「福」という文字がついているので、高越山を拠点とする忌部修験道の関わりが想定できます。瀬戸の拠点港に、各宗派が寺院を競って創建したように、吉野川河運の難所に立っているこの寺は、私にとっては気になる存在です。吉野川流通の管理・安全センターのような機能を果たしていたのではないかと思います。
 船頭たちは、暴風雨や洪水にあったときは、下流の芝原・覚円・川島・岩津・猪尻の浜などに錨を下ろして、水流が和らぐのを待って、上流にある母港を目指したようです。
川舟には次の3種類がありました。
A ヒラダ(長さ16m、幅2m、十二反帆)
B エンカン(長さ14m、幅1,9m、八反帆)
C イクイナ(エンカンと同じ大きさ、特長のある船型で脚が皮の間にを差込んでこぐ)
大きさや形は違っていますが、平田舟の一種でどれも底が平たく浅い船です。
 船頭は二人か三人で、船主が船頭を務めることが多かったようです。

平田船と千石船

吉野川上流から~徳島間の往復には、どれくらいの日数がかかったのでしょうか?
カヤックで阿波池田の川港を出港すると、水量にもよりますがゆっくりのんびと漕いでも一日で美馬市(穴吹)あたりまでは行きます。池田から徳島までの日数は、下りは三日間、上りは春夏は東風を利用して帆を張りますが風のないときはひき舟をしたり、風待ちをするので、1~2週間はかかったようです。そのため一往復15日ぐらいで、月2回ぐらいの運行ペースでした。
 明治時代までは、平田舟の船主は、舟一隻をもっておれば、水田一町歩を耕作する農家に匹敵する収入があったとされます。そのため、相当裕福な生活ができたようで、船頭は米ばかりで麦飯は食わなかったと云います。
 行先は、徳島・撫養が中心です。しかし、多くの船が上流の池田まで上がってきています。池田周辺が上流からの集積センター的な機能を持っていたことがうかがえます。
 増水時は、第十堰を越えて徳島に下りますが、平水時は第十堰から大寺へ廻り、高房から古川を下り、新町川(徳島)に入っています。航路としては、次のような徳島航路・撫養航路の上り下りがあったようです。
 徳島航路
 A 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-覚円-第十名田-新町川-徳島
 B 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-三つ合-今切川-榎瀬川-吉野川-新町川(徳島)
 撫養航路
 川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-旧吉野川-三つ合-新池川-撫養 
遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
どんなものが吉野川を下って運ばれたのでしょうか
下り船 木炭、たきぎ、木材、煙草、藍、まゆ、しゅろ皮、みつまた、かじ等
上り舟 米、塩、いりこ、わかめ、干魚、肥料、綿布類、せともの、雑貨日用品
筏流し 第十樋門
吉野川第十樋をいく筏
まず木材です。中世の阿波の最大商品は、木材でした。三好氏の堺での活動を見ても、木材取り引きで巨額の利益を上げていたことがうかがえます。県南部地域と並んで、吉野川上流も木材の産出地でした。木材は筏に組んで吉野川を流されました。上流で流された木材の集積地が美濃田の淵であることは、以前にお話ししました。ここで再度、筏を組み直して下流へと運んだようです。近代まで撫養川下流には木材集積場がありました。

藍の葉

 江戸時代に後期には藍葉が主要商品になります。

新川と藍蔵
徳島市新川の藍蔵と川船
吉野川中流では、藍・゙煙草、砂糖を生産し、主として大阪、江戸、遠くは北海道まで積み出すようになります。瀬戸内を抜け日本海に出て、浜田港、北陸小浜港、東北酒田港、そして松前江差まで運ばれています。木材を中心に、米穀、薪炭、楮紙、鰹節など、土佐の主要産物も阿波の廻船は運んでいます。廻船の多くは帰路には、鯡粕や鰯粕、その他の物資を積み込んで帰路に就きます。

明治30年代の輸送物品(上荷・下荷)について、『山城谷村史』には次のような表が載せられています。
山城谷村 移入移出品

山城谷村(旧山城町)は、川船の最奥部の阿波川口港がある所です。山間部なので板材や木炭・楮皮(こうぞかわ)・三股皮など山林産の商品が多いようです。そのなかで三股皮の商品価値の大きさが注目されます。
 また、煙草関係の商品比重が多いのが注目されます。山川谷村は、1612年に修験者の筑後坊が長崎から最初に煙草の種を持ち帰って蒔いた所と伝わります。これが徳島産葉タバコ(阿波葉)の起源とされ、近隣町村と共にタバコの一大生産地になります。それが、川船によって下流に運ばれていることが分かります。
  次に中流域の貞光町の港の出入り積荷を見ておきましょう。

貞光町移入移出品

ここからは次のようなことが分かります。
①葉煙草や葉藍などが主要な積荷で、徳島までの1隻の輸送賃が8円程度であったこと
②徳島からの上り船には、穀物・塩など生活必需品が主であること。
③上り船には石灰や肥料など、農業資料がふくまれること
②の塩については、讃岐の塩入(まんのう町)などから昼間などに、塩が峠を越えて運ばれていたとされます。貞光より西部には、川船でも塩が運ばれていたようです。しかし、先ほど見た山城の上り舟には、塩はありませんでした。貞光と池田あたりが、讃岐産塩との移入境界線になりそうです。

 『山川町史』には、川船の積荷について次のように記します。

「吉野川は常に帆かけ船の航行で賑わっていた。寛政10年(1789)の頃、タデ藍の製造に使う玉砂だけでも輸送量は1500石・トラック950台分ぐらいあった。これは、わずか1部で、肥料・藍玉・米麦・雑貨・薪・炭・塩等も含めると吉野川流域で動く物資のほとんどが川船に積み込まれていた。…後略…」

 以上から、当時の吉野川輸送の積荷をまとめておきます
移出物品は
煙草・木材・樵木・薪・木炭・三椏・楮・葉藍・藍玉・すくも
移入物品は、
米・裸麦・小麦・大豆・小豆・食塩・種油・柿原の和砂糖・魚類・半紙・洋紙・唐糸・木綿・織物・鯡粕・鰹節・陶器・畳表ござ・肥料・石灰
阿波藍 | 公益社団法人徳島県物産協会 公式ホームページ あるでよ徳島

川船船頭の収入について「吉野川の輸送船」(「阿波郷土会報」11号)には、次のように記します。

「50貫の石を抱えて歩く。35貫のニシン肥1俵をくるりと担ぐ。穀物5斗俵1つなら片手で肩に乗せるのが普通であるが、そのうえ川幅の狭い急流や渦さきを熟知して他の船や障害物に衝突しないように進んで行く「ケンワリ」を心得えている荒シコの給料が半期(6か月)で30円・「ケンワリ」を知らない5斗俵ひとつを片手で担ぐだけの能無しは、15円(食事船主持)船は男世帯、船主のほか船頭2人乗る。」

 大正初期の小野浜(半田)~徳島間(標準が1往復10日間)の労働収入は、3円銭程度であった。ただし、船頭が船主でもあり仲買商を兼ねての物資の上荷・下荷の運送取引を行う場合は別である。川船1艘の船主は、少なくとも水田1町歩の農家に相当する収入があったと言う。(「阿波河川の歴史的変遷過程の研究」小原亨著)
 
 田んぼ1町歩(1㌶)というのは、中農規模の裕福な百姓に属します。かれらが資本を蓄えて、問屋業や半田では素麺製造業に転出していくのは、前回見たとおりです。

池田町」ちょこっと歩き(徳島県三好市) : 好奇心いっぱいこころ旅

 吉野川の船運は、明治の中期(明治30年代)が最盛期だったようです。
明治後半になると、陸上交通路の整備改修が進められ、道幅が広く平になり牛馬車・大八車・トラックヘと輸送能力の高い車種が登場してきます。それは、河川交通から陸路の時代への転換でした。
 川船に大打撃を与えたのが、鉄道です。明治33年に徳島鉄道が徳島~船戸(川田)間に鉄道を敷設し、大正3年3月には池田まで延長されます。これは川船に致命的な打撃を与えます。大正5年には、川船は吉野川から姿を消していきます。

高瀬の渡場

   以上をまとめておくと
①吉野川の川船運航の、最上流の港は阿波川口で、ゴールは撫養(鳴門)や城下町徳島であった。
②この間に約30余りの川港が散在し、それが各エリアの物資の集積地点となっていた。
③川船は、約750隻ほどが運航しており、半田や池田など美馬・三好の川港に所属する船が多かった。
④運航方法は、下りに2日~3日、上りに7日程度で、一往復10日間で、月に2回ほどの運航回数であった。
⑤下流からの帰路は、春・夏は追い風に帆を上げての順風満帆であったが、冬場は逆風で過酷な
船曳作業を伴うものであった。
⑥下りの積荷は、木材製品や木炭、藍・煙草関係のものが主であった。
⑦上りの積荷は、穀類や塩・日常雑貨や農業用肥料など多様なもので、村の生活を豊かにするものも含めて、多くのものが川船に載せられて運び挙げられていた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 半田町に港があったと聞いて、最初は疑いの気持ちを持ちました。しかし、調べて行く内に吉野川沿いの町には、川港があって鉄道が出来る前は、基幹流通路として機能していたことが私にも分かってきました。今回は、半田町の「小野浜」を見ていくことにします。
   テキストは「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」です。
□船と小野浜の今昔
吉野川の川船
 吉野川の川船は、大正時代まで、人やものの輸送に大きな役割を果たしてきました。川船が徳島や撫養港と流域の村々を結ぶ交通の大動脈の主役だったのです。江戸時代後半の阿波藩の急速な産業経済の発達を支えたのは吉野川だったとも云われます。
馬借(室町時代)」
室町時代の馬借
 この頃の陸上輸送のエースは、馬です。
馬1頭の輸送力は米2俵(1俵は4斗=16貫=60kg)程度でした。米50石を運ぶとすれば、馬63頭と同じだけの馬追人夫が必要となります。1日の行程は30km程度です、半田~徳島間を60kmとすると2日間の行程になります。
 この間の宿泊・人間・馬の食事に用する費用も必要です。また、夜は馬背から荷物をおろし、出発には再び馬の背にのせますが、この費用も手間も経費に乗せられます。こうして見ると、馬による陸路遠距離輸送は高額な運賃が必要だったことが分かります。

平田船
吉野川を行き来した平田船
 これに対して、水運を利用する川船(50石積)と比較してみましょう。
米50石を1艘の川船と約2人の船頭で、2日かかれば、徳島・撫養に輸送することができました。川船が輸送のエースとなった理由に合点がいきます。

平田船(江戸周辺)
江戸周辺の平田船

  ここでは、コストパフォーマンスの点で船は、牛馬よりもはるかに優れていたことを押さえておきます。これは、北前船などの海上輸送についても同じです。
  吉野川沿いの村々の玄関となった半田の川港を見ておきましょう。
半田町川港
 半田の小野浜
半田川が吉野川に流れ込む合流地点には小野浜という川港があり、多くの川船が行き来していました。ここには、文政9年(1826)に建立された常夜灯が吉野川に向けて今も建っています。

やってきたのは半田町の小野浜港。<br />半田に港があるんかい?と聞かれると「かつてはあったんですよ」と答えるしかないのですが・・・。<br />半田川が吉野川に合流する手前に港はありました。<br />この常夜灯は、川港の燈台の役割を果たしていたそうです。
小野浜の灯籠(文政9年(1826) ここに川船が着岸した
 この常夜灯は、和泉砂岩で作られた高さ185㎝・日月の掘り抜きの明り窓がある立派なものです。
阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)の情報から平田船の各川港毎の就航数をまとめたのが下の一覧表です。
平田船港別就航数一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①半田町小野浜には50艘の川船がいたこと
②川船ベスト5は、半田50・脇40・佐間地(白地)36・池田31・白地29であること。
③川船は、吉野川下流部よりも上流部の美馬郡・三好郡に多かったこと
先ほど見た常夜灯は、小野浜を港とする50艘の川船の夜の燈台として活躍し、荷積み・船から馬・荷車・馬荷車から船への照明としても使われていたようです。大正3年3月に鉄道が開通するまで、その役割を果たし続けました。その説明版には、次のように記されています。

鉄道が池田ー徳島間に建設される以前は、吉野川の水運が大きな役割を果たしていました。この港から半田の特産物が積み出され、川港として賑わいを見せていたようです。ここに陸揚げされたものは、影などを経て落合峠を越えて祖谷方面にも運ばれていったようです。
常夜灯の説明版 燈台の役割を果たしたとある

 この常夜灯とともに小野浜の船頭や船主たちは、航行の安全祈願のために、四つ橋から小野浜に出る道の東側に、船玉神社(祭神猿田彦命)を創建(天保11年(1840)しています。そして、毎年2回(正月・秋)の祭日を決めて、川船関係者によって祭祀が行われていました。しかし、鉄道が整備され、川船が廃止になると船玉神社も八幡神社の境内に移され、現在に至っているようです。常夜灯・船玉神社は、当時の小野浜の繁盛を偲ぶ歴史的遺構であり、船乗りたちが船運に命をかけていた証しでもあると研究者は指摘します。

明治中期の小野浜
明治中期の半田小野浜

 半田素麺は、天保初期に大和三輪(三輪素麺)より、淡路福良・撫養を経て半田に伝えられたとされます。
その導入のきっかけは、半田小野浜の船頭たちが、家族の副業として始めたという伝えがあります。そうだとすると、半田素麺は、川船船頭たちによって始められたことになります。
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 本格的に製麺が始まったのは、天保4年(1833)に小野浜の敷地屋国蔵(びんつけ屋)が、弟長兵衛とともに、本格的な製麺業をおこしたのがスタートのようです。当時の素麺相場が、「兵助日記」〈注3〉に「素麺7貫目につき55匁目・小売60匁」とあります。明治になると素麺需要は大幅に伸びます。明治年間には生産量が15000貫、製麺戸数は50戸に増えています。

半田町小野浜3
現在の半田町小野浜

 半田の小野浜地域で製麺業が発展していったのは、どうしてでしょうか?
①冬季の日乾・庭干しに吉野川を渡る季節風が適していたこと。
②製麺に適した水(鉄分・カルシウムの少ない軟水)が段丘の井戸水にあったこと
③小野浜の港をもっていたため、川船によって低コストでに原料(小麦・撫養塩)の移入と製品移出ができたこと。
④半田が「経済特区」として素麺製造の特権を与えられたこと
⑤小麦粉製粉のための水車利用が進んでいたこと
①②③は、吉野川流域の川港ならどこにも適する条件です。これだけでは、半田素麺の発展には弱いようです。
④は、髙松藩初代藩主の松平頼重が仏生山法然寺を菩提寺として、その門前町の発展のために、素麺業者を門前に集めて保護する政策を採用していることを以前にお話ししました。いわば、門前町育成のための「素麺経済特区」の設置です。そういう視点からすると、半田3か村(半田村・半田口山村・半田奥山村)は、蜂須賀氏の家老稲田氏の所領でした。稲田氏による「経済特区」採用が行われたというのがひとつの仮説ですが、それを裏付ける史料は何もありません。
⑤もうひとつは、幕末にかけて急速に普及する水車による製粉です。しかし、これは誰でもが自由に参入できるものではありませんでした。藩の認可と許可が必要であったようです。これらを稲田氏は柔軟に認可し、「素麺経済特区」を設定した。そこに吉野川水運で商業資本に成長した船主が新たな投資先として進出した。明治になって経済の自由が保障されると、利益率の高い素麺製造に商業資本家が進出していったという物語は描けそうです。
 素麺製造は、酒や醤油などの醸造業に比べると初期投資がはるかに少なくて済みます。これも船頭上がりの船主たちなどが進出を可能にした要因かも知れません。こうして小野浜を中心として半田素麺は、発展していくことになるとしておきましょう。
 
 阿波藩では、旅行者や商品の移動に関しては、藩が設置した御番所や御分一所などの役所で監視・課税が課せられていました。
そして、物品等の移動については、通行手形が必要だったことは、髙松藩との関係で以前にお話ししました。通行手形は、時代や物品の種類によりちがいますが、嘉永以降(1848)は、村役人が発酵する手形で認可されるようになります。当時の村役人発行の通行手形の1例を見ておきましょう。
藍の葉
       覚
   4匁8分7厘   大田市蔵
    1.葉藍 47本半・竹皮3丸
  右者当村作人共当子年出来葉藍同村・船頭市蔵船に積下申に付御分一所
  御通被遊可被下候 以上
 子7月   美馬郡太田村 徳太郎■
  御分一所様
 意訳変換しておくと
       覚
   4匁8分7厘   大田市蔵
 1.葉藍 47本半・竹皮3丸
  以上の産物は、大田村作人による収穫物である。同村の船頭・市蔵の船に積んで下りたい願いでますので、通行について許可いただけるように願いでます。以上
      子7月   美馬郡太田村庄屋 徳太郎
    御分一所様
  ここからは、美馬郡の大田村庄屋(村役人)が、村内で収穫された葉藍を川船で運び出すことの許可を御分一所に願いでていることが分かります。

 小野浜で川船に乗せる荷物は、馬で運ばれてきました。
運送にあたった馬を荷付馬と呼び、三々五々隊をなして半田奥山や近隣の村々との間で上げ荷(日用品・雑貨品、塩等)・下荷(さげに)(木炭・藍・楮・樵木等)を運んでいました。明治の繁盛期には、馬専用の宿屋(馬宿)もあったようです。明治14年には佐々常が開業していますが、現在の敷地部落の佐々旅館の前身のようです。吉野川流域で、馬宿があった浜(川津)は珍しいと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①半田川と吉野川の合流点には、小野浜という川港があり半田の物流の玄関口となっていた。
②幕末から大正時代には、藍などの積み出しなどで最盛期を迎え50艘近い川船が小野浜を拠点に徳島や池田の間を行き来した。
③運行安全を祈って、小野浜には灯籠や神社も建立されていた。
④船頭の中には、天保初期に伝わった大和三輪の素麺工法を学んで、冬場の副業として家族で取り組む者も現れた。
⑤こうして小野浜周辺には素麺製造に携わる者が増え、現在の半田素麺へと発展する契機となった。
⑥素麺原料は、川船でもたらされ、出荷も船に寄ることが多かった。
⑦輸送コストが安い川船が利用できたことが、半田素麺の発展の原因のひとつでもある
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」
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吉野川 カヌーで下る水運の歴史 NO4

美濃田の淵の川に浮かぶ「石庭」を過ぎると、吉野川は三加茂台地にぶつかり、流れを大きく北東へ変える。そして見えてくるのが青い橋。さんさん大橋だ。
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さんさん大橋
私はこの名前を「SUNSUN Bridge」と連想し、なかなか遊び心があってGOODと思っていた。しかし、旧三好町と旧三野町を結ぶので「三三大橋」と名付けられたようだ。この縁から両町は合併することになる?

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この橋を越えた左岸(旧足代村)にも「東の浜」と呼ばれた川港があったと三好町誌には書かれている。
北岸の国道沿いの道の駅を見上げながらカヌーは吉野川の流れに任せて進んでいく。流れが止まったあたりが角浦。ここは南岸の中の庄と北岸の大刀野を結ぶ渡しがあった。明治42年発行の国土地理院の地形図には、「角浦渡」が船のマークとともに記載されている。さらに上流から渡場が 辻 → 下滝 → 不動 → 角浦 → 江口 とあったことが分かる。

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角浦渡には、後に沈下橋が架けられる。そして、その下流に立派な青い橋が架かっている。新大橋が完成後は沈下橋は撤去された。吉野川の沈下橋も少なくなっていく。沈下橋の下をくぐるのは、川下りの楽しみの一つでもあるのだが・・・
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この橋を抜けると、長い瀞場が続く。東風が強くパドルを漕がないとカヌーは前には進まない。この東風を受けて、かつての川船は上流を目指したのだろう。

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三加茂町史には、吉野川の水運についてこんな記述がある。

 加茂町では、長さ九メートル未満の小型廻船が多く用いられて航行していた。これは積載量は少ないが航行が容易で、船足か速かったので、一般に早船とも呼んでいた。徳島へ下るには約2日を要した。上りは真夏の候は東風を利用しで帆を使ったが、帆の利用ができない季節には徳島から一週間もかかったという。
吉野川をさかのぼる際に、いくつかの難所がある。毛田も難所の一つである。ここでは三隻~五隻の舟がたがいに助けあっで航行したという。
 船主には運送業専門もあったが、仲買い商人を兼ねた人か多かった。下りは買入れた物資を自船に積み、徳島で問屋にその商品を売る。上りは仕入れた物資を積んで帰える。
吉野川沿岸の船着き場を「はま」と呼んた。三好郡では、江口(加茂町)辻(井川町)州津(池田町)川崎(池川町)川口(山城町)は主要な船着場であった。
このほかに小型廻(早船)の積みおろし場があった。本町では、毛田、角、不動、赤池がそれである。
 吉野川か上下する川舟輸送は、明治25五年ごろから、35年までが最盛期であった。本町の川舟輸送業者は、明治5年には13人であったが、明治9年21人となり、同15年には、小廻船が30隻を越え、舟乗労務者も80人を数えるようになった。
 川舟による貨物運賃は舟によっで、まちまちであった。大正元年―月になると、加茂村では、川舟は三艘あっで、その巡行は、一人一里に付七銭、物資は10貫目1里に付3銭であった。
 明治33年8月、徳島ー船戸(川田)間の鉄道開通によっで、麻植郡以東の物資輸送は順次陸上へと移った。平田船(ひらだぶね)が帆に東風をうけて、上流へ消えてゆくかと思うとまた下流から現われて、次々と川上の方へのぼってゆく。こんなのどかな情景を、明治生れの人はみな記憶にとどめていることであろう。

IMG_2790
 美濃田大橋

  美濃田大橋から長い瀞場になる。同時に景色が大きく替わる。
県の名勝・天然記念物に指定されている美濃田の淵にさしかかるのだ。北岸に高速道路のサービスエリアが設けられ、付属する施設も充実し「吉野川中流域の景勝地」として知られるようになった。

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美濃田の淵
 しかし、ここはかつては「網場」であったという。最初聞いたときには、鮎を捕るための仕掛網の設置場所かと思ったが、大外れ。
 三好町誌には次のような記載がある

 網場と筏流し

 明治11年ころの美濃田の渕の見取図には千畳敷岩の上の岩に「アバカケ岩」の名が記されている。水かさが増えると、丸太を結び付けた太いワイヤーを岩間に渡し川をせく。鰹つり岩からは、黒川原谷の谷尻まで斜にワイヤーを渡し、川の北側をせいたという。
 上流からは出水を利用して木材を流出する。この流材をせき止め、筏に組んで下流へ運ぶのである。 これを筏流しといい、それを操る人を筏師といった。足代村には筏師が7、8人いたようである。一艘が約一万才(当時の木運家屋1戸分の木材)で、腕の良い筏師は一度に二艘運んだとのことである。これを一週間かけて徳島の木材市場へ運ぶのである。
 山から切り出され、荷車や馬車で川まで運ばれてきた木材や洪水にのって流れついた木材を集めて、これも筏にした。小山の西内には大量の木材が流れ着いたとのこと。流木を集める組合のようなものがあったようである。また、流木を集める世話人がいて流木を拾った人にはいくらかお金を渡して引き取っていた。
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美濃田の淵

流れのない美濃田の淵は、上流で流した木材を集積し、筏に組んで下流に運んでいく木材集積地の機能を果たしていたようだ。
もうひとつ川を下っていて気になったのがこれ。河の上に立つ橋脚跡。かつての鉄橋の跡かなと考えていた。しかし、この橋脚にも物語が隠されていた。

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「まぼろしの美濃田観光大橋」について

 終戦直後、吉野川を渡る橋が美濃田の渕に計画され、期成同盟会が結成された。
当初は延長一五〇メートル・幅員二・九メートル・工事費四五〇万円の鉄橋であった。後には観光兼人道橋に変更している。
 美濃田の渕の川中の岩に橋台を建て、現在の三加茂町加茂西町に至るつり橋にして、開通後は工事に要した経費の立替金の支払が終わるまで「賃取橋」にする計画であった。
 橋脚工事は発注され、昭和二十八年の秋に着工している。
 起工式には早期架橋を願って美濃田・小山地区の全戸が出席した。
北岸の橋台が完成し、中央の橋脚が岩の上に雄姿を現した時は、開通した橋を想像し胸をおどらせ、地域の発展を期待したものである。
 しかし、工事半ばにして資金難に陥り、加えて施工主が病に倒れ、役員はハ方手を尽くし努力したがままならず、勤労奉仕で労力を提供した小山地区の人たちの願いもむなしく、資金が全く絶えるとともに工事は中止となった。
 一六〇余万円を投じたといわれているが、残ったのは北岸と中央の橋脚と負債であった。役員は負債の返済に大変な苦労をしたとのことである。
  美濃田の奇勝をめでる観光と吉野川南北の生活道として計画された「観光大橋」があったこと。その痕跡が河に建つ橋脚であるようだ。
現在の美濃田大橋は、その数年後の1969年に完成している。

ゆるやかにゆるやかに流れはカヌーを運んでいく。

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