瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:和気公

伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつに分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。そんな視点で、今回は『円珍系図』を見ていきたいと思います。  テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

この系図は次の三つを「接ぎ木」して、つなぎ合わせたものと研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり伊予別公系図です。
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
 最初に円珍系図(和気氏系図)の全てを載せておきます。
円珍系図冒頭部
円珍系図冒頭部2
円珍系図5
円珍系図6 忍尾
円珍系図 7 忍尾と身の間
円珍系図8 身
円珍系図9 身のあと
円珍系図3

  円珍系図は、始祖を景行天皇の皇子である武国凝別皇子に求めていたことを前回は見ました。
それでは、現実的祖先であるCの讃岐・因支首氏の始祖は誰にしているのでしょうか。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、忍尾を始祖としていたことが分かります。
円珍系図6 忍尾

忍尾は円珍系図にも出てきます。忍尾の注記には、次のように記されています。

「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」

意訳変換しておくと

この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った

 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったということのようです。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。
讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれていると研究者は指摘します。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の所伝によって系図を作った疑いがあると指摘します。
 和迩乃別命を「一」と注記し、以下、左側の行の人名に「二」、「三」、右側の行の人名に「四」、「五」、「六」と円珍自身が番号をつけています。円珍系図が作られた頃には、その順はあいまいになっていたようです。というのは、世代順を示す番号の打ち方に不自然さがあるからだと研究者は指摘します。この部分の系図自体が、世代関係の体裁を示していません。この背景として考えられる事は、前回お話しした「系図作成マニュアルのその2」のノウハウです。つまり、自分の祖先を記録や記憶で辿れるところまでたどったら、あとは別の有力な系図に「接ぎ木」という手法です。
それが今は伝わっていない『伊予別(和気)公系図』かもしれません。接ぎ木された系図には、その伊予の和気公の重要な情報が隠されていると研究者は指摘します。

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系図の伊予和気氏の部分統合版

忍尾以前の系図には、武国凝別皇子の子・水別命から始まって、神子別命、その弟の黒彦別命の代までは「別命」となっています。ところが、倭子乃別君やその弟の加祢古乃別君の兄弟以下の人名は、すべて「別君」を称しています。ここからは「別」から「君」への推移のあったことがみえてきます。地方豪族が「別」から「君」や「臣」「直」へと称号を変えたことは、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に、次のようにあることによって証明されたようです。

「其児名二己加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半二比。其児名加差披余。其児名乎獲居臣(直)

「別」から「君」への称号変化が、いつごろ行われたのでしょうか。
「別」が付いている大王を系図で見ておきましょう。
円珍系図 大王系図の別(ワケ)


「別」という称号は、上の系図のように応神から顕宗までの大王につけられています。応神の時代は、4世紀の後半で、顕宗は、5世紀の終わりごろです。そうすると、大王や皇族が「別」(和気)を称していたのはその頃だったことになります。
 熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した大刀には、次の銘文があります。
「□因下獲囲□図歯大王世」
 
この「図歯大王」は雄略天皇であるとされます。ここからは雄略天皇の時代のころから、ヤマトの王は「別」を捨てて、「大王」と称しはじめたことが分かります。
 「大王」は、「君」のうえに位置する超越的な権力をあらわしている称号です。つまり、この時期にヤマト政権が強大化して、それまでの吉備等との連合政権から突出して強大な権力を手中におさめつつあった時期だとされます。
①ヤマトの王は、「別」から「大王」へと、その称号を変えていった
②地方の豪族が、「別」から「君」へと称号を変えていった
これは、ほぼ同時進行ですすんだようです。つまり、この系図上で別を名前に付けている人物は 4世紀の後半の後半の人物だと研究者は考えています。
 ところが「別」には、もうひとつ隠された意味があるようです。
「別」は「ワケ」で「和気」なのです。
「別」から「君」へと称号改姓が進む中で、伊予国の別(和気)氏や、備前国の別氏のように、古い称号の「別」を氏の名「和気」としてのこした氏族もあったようです。ここでは、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちであることを押さえておきます。

Cの讃岐の因支首氏の系図の実在上の最も古い人物は誰なのでしょうか

円珍系図8 身

  それは系図の「子小乙上身」の「身」だと研究者は考えています。
その下の註に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは身が難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。身は7世紀後半の白村江から壬申の乱の天智帳で活躍した人物で、因支首氏では最も業績を上げた人で、始祖的な人物だったようです。
 しかし、系図が制作された9世紀後半は、二百年近く前の人で、それよりも前の人物については辿れなかったようです。つまり、身が
当寺の因支首氏系図では、たどれる最古の人物だったことになります。しかし、それでは伊予和気氏との関係を主張することができません。そこで求められるのが「現実的系譜を辿れるところまでたどって、そのあとは他家の系図や伝説的系譜に接ぎ木する」という手法です。実質的な始祖身と伊予の和気氏をつなぐものとして登場させたのが「忍尾別君」です。
 忍尾別君は「讃岐国司解」の中では、「忍尾五世孫、少初位上身苗裔」とあります。因支首氏が直接の祖先とした「架空の人物」です。

つまり、忍尾は伊予の国から讃岐にやってきて、因岐首の女を娶ったという人物です。忍尾の子が母の姓に従って因支首の姓を名乗ったという「創作・伝承」がつくられたと研究者は考えています。しかし、先ほど見たように忍尾別君は「別君」とあるので、5世紀後半から6世紀の人物です。
 一方の「身」については、 「小乙上身」とあり、その下に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。
「身」は「小乙上」という位階から7世紀後半の人物であることは先ほど見たとおりです。彼は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられたと系図には記されています。
因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。
①  忍尾別君は5世紀末から6世紀の人物で、伊予からやってきた和気氏
② 身は7世紀後半の人物で、天智朝で活躍した人物
そして忍尾から身までは三世代で結ばれています。
  実際はこのような所伝は、因岐首から和気公へ改姓のためのこじつけだったのかもしれないと研究者は考えているようです。そして、伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことです。それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  系図Cの因支首氏系図については、讃岐因支氏に関した部分で、信用がおけると研究者は考えています。

 活動年代が分かる人物をもう一度『円珍系図』で比較してみましょう。
伊予の和気公の系図部分で「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、評造や小山上の称号を持つので大化の改新後の人物であることは、先ほど見たとおりです。同時に「身」も孝徳朝(645年- 654年)の人物とされるので、両者は同時代の人物です。
ところが、「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、はるか前の世代の人物として系図に登場します。これをどう考えればいいのでしょうか?
 このような矛盾は、『和気系図』の作製者が、伊予の和気氏系図と、自己の因岐首系図をつなぐ上で、年代操作の失敗したため研究者は考えています。
両系図をつなぐ上で、この部分を省略して、因支首氏の身以前の世代の人々も省略して、和気氏系図の評造の称号をもつ宮手古別君や意伊古乃別君と、Cの部分で孝徳朝の人物とされる身を同世代の人とすればよかったのかもしれません。しかし。身以前の世代の人々は、因岐首氏の遠祖とされていた人々だったのでしょう。円珍系図』の作製者は、これらの人々を省略することに、ためらいがあったようです。そして、そのまま記したのでしょう。
  以上から円珍系図は、伊予の和気氏系図と讃岐の因支首氏系図を「接ぎ木」した際に、世代にずれができてしまいました。しかし、これを別々のものとして考えれば、Bは伊予別公系図として、Cは讃岐因岐首系図として、それぞれ正当な伝えをもつ立派な系図ともいえると研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
和気氏系図 円珍 稲木氏
      円珍の和気氏系図制作のねらいと問題点

①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

佐伯有清氏は、Bの伊予別公系図(和気氏)について次のように結論づけます。
  和気公氏たちが、いずれも景行天皇を始祖とするのは、もちろん歴史的事実であったとは考えられない。和気公氏の祖先は、古くから伊予地域において「別」を称号として勢力をふるっていた地方豪族であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


「大師は弘法に奪われ」ということわざがあるそうです。
弘法大師のほかにも、大師号を賜った高僧は、最澄をはじめ数多くいます。しかし、空海一人の代名詞のようになってしまったという嘆きの意味が込められているようです。さて、讃岐の地からは、もう一人の大師が生まれています。智証大師円珍です。
円珍、その人の生涯を見ておきましょう。

智証大師像 圓城寺
国宝 智証大師像 圓城寺

円珍は、弘仁五年(814)、今から約1210年前に、讃岐国那珂郡(善通寺市金蔵寺町)に生まれています。生誕地は現在の76番札所の金倉寺。俗名は広雄。父は和気宅成、母は佐伯直氏で空海の姪と伝えられているようです。空海の「ご近所」で、円珍の和気氏と空海の佐伯直氏は親戚同士の間柄とされます。彼の家系図は、以前に紹介したように「日本で一番古い系図」として国宝にもなっています。
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四国霊場 金蔵寺 

 天長5年(828)、15歳の時に、叔父の僧仁徳に連れられ比叡山に登り、最澄の門弟で初代天台座主の義真に師事します。
 まず私が疑問に思うのは、どうして空海を頼らなかったのかということです。この時期に、空海に連なる佐伯家出身の僧侶が東寺の責任者などとして、栄達の道を歩んでいます。また、30際近く年の離れた空海の弟真雅も、空海の元で修行中です。和気氏と佐伯氏が婚姻関係にあったというなら、その関係を頼らないというのは不自然な感じがします。活用できない理由があったとも考えたくなります。「母は佐伯直氏で空海の姪」という関係は、どうも疑わしい気がします。空海が入党するのが804年、高野山で没するのが835年です。

天長十年(833)に得度し、十二年間の籠山に入ります。
仁寿三年(853)39歳で入唐し、天台・法華・華厳・密など中国最新の仏教諸宗を学び、天安二年(858)に帰国します。この時、円珍がもたらした千巻にも及ぶ典籍・経典は、空海が伝えた真言密教に匹敵するもので天台密教の基礎となります。これを背景に、天台密教の拠点として近江の圓城寺を再興します。
 さて空海の成功から以後の留学僧が学んだことは、出来るだけ多くの経典等を持ち帰ることです。何を中国から持ち帰ったのか、何を身につけて持ち帰ったのかが問われることにに成ります。それは、中世の禅宗僧侶にも共通することです。もっと枠を拡大すれば、明治の洋行知識人も同じ立場だったのかもしれません。日本人は、大陸からもたらされるの「新物」に弱いのです。変革には「新物」が必要なのです。
 その際に、必要になるのは経済力です。官費だけでは足りるものではありません。空海の場合も、持ち帰った経典類や仏具類などをどのように集めたのか、その資金はどこから出たのかがもっと探求されるべきだと思うのですが、そこに触れる研究者はあまりいないようです。円珍の場合は、どうだったのでしょうか。実家である和気氏に、それだけの経済力があったのでしょうか。

貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)、「智証大師」の号を得ています。

 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったといいますが、これは後に円珍の法灯を継ぐ天台寺門派が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。しかし、ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者からも円珍が「始祖」として、信仰対象になっていたことがうかがえます。

円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったようです。
 にもかかわらず円珍の影響を受けたとする四国霊場札所があるようです。円珍と、どのような関係があるのというのでしょうか
  県内札所のなかで天台宗、または円珍(天台寺門派)の痕跡が残るお寺を見てみましょう。
まず大興寺(六十七番札所)から始めます
この寺は小松尾寺とも呼ばれ、四国偏礼霊場記に「台密二教講学の練衆」と記されています。古くから真言と天台の兼学の場で、江戸時代にも真言二十四坊、天台十二坊があったと伝えられています。寺に伝わるものとして、建治二年(1276)の墨書銘をもつ天台大師坐像(香川県指定有形文化財)があります。寺伝では、弘法大師と熊野信仰を結び付けていますが、ここには熊野信仰と天台寺門派とのかかわりもあったことがうかがえます。次の札所になる観音寺(六十九番札所)にも天台大師像(画幅)があります。大興寺と観音寺の三豊エリアの札所には、円珍に関わる信仰があったことがうかがえます。
 
次に丸亀平野へ進みます。金倉川下流域は、円珍の出身である和気氏の勢力範囲だったと云われます。
金倉寺は和気氏の居館の後に建立されたとされます。
これも、善通寺誕生院の空海生誕とよく似た伝承です。金倉寺は、和気氏の氏寺として出発しますが中世には、宇多津や堀江などの港町の町衆の信仰を集める寺院に成長します。そして、仏教の教学センターとしての機能を、近隣の道隆寺と共に果たすまでに成長します。その大師堂には、中世まで遡るといわれる智証大師の木像が正面に安置されています。
 また、下の鎌倉時代作の智証大師像(重要文化財)も伝わります。
智証大師 金倉寺

この像を見ると圓城寺の国宝の智証大師像を写したかのように見えます。円珍のトレードマークである「卵頭」が忠実に真似られています。智証大師像は、みなよく似ています。逆に言うと「参考例」を模写したことになります。
金蔵寺には、高松藩の絵師、鶴洲の描いた模写や狩野愛信(狩野永叔の門弟)という絵師の描いた模写も残されています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
江戸寺時代に模写された智証大師画
まさに、中世の肖像を模写した物です。その上に、高松藩主や京都聖護院門跡から贈られた智証大師の画幅なども伝わります。どうして  江戸時代になって、円珍の絵が何度も模写されたり、藩主などから贈られたのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?それは、また後に考えるとして先に進みます。

五色台の山岳寺院である白峯寺(八十一番札所)の「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場しますこの縁起には、次のように記されます。
貞観二年(八六〇)円珍が山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられます。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺のことか)、白峯寺の四ヶ寺に納めた、
 ここからは縁起が作られた時には、白峰寺や根来寺は円珍が創建したとされていたことが分かります。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたようです。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていることが分かっています。他にも、天台大師像、智証大師像、山王曼荼羅図が伝えられます。
 白峰寺と同じ五色台にある根香寺(八十二番札所)には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。

智弁大師(円珍) 根来寺
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、大興寺と同じように真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。白峰寺と根来寺は共通点があるようです。
八十七番札所の長尾寺は、天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。

 このように讃岐の四国霊場を見てくると、五色台や雲辺寺周辺の山岳寺院に古くから智証大師円珍や天台系の影響が見られるようです。山岳寺院=修験道=真言密教と直ぐに考えがちですが、江戸時代には、天台宗の聖護院(本山派)に属する修験者の方が圧倒的に多かったようです。円珍信仰・伝説の背後には、本山派修験者たちの活動が透けて見えてきます。
江戸時代に作られた円珍の像画は、誰が作成したのでしょうか。
それは、高松藩主として水戸からやって来た松平頼重の宗教政策の一環として作られたようです。頼重は、金倉寺、根香寺、長尾寺を真言宗から天台宗へ改宗させます。その際に、あらたな信仰対象として円珍像が作られたり、絵が模写されたようです。松平頼重は国内統治政策の一環として、次のような宗教政策を行っています。
①姻戚関係にある浄土真宗本願寺・興正寺派の保護
②金毘羅大権現の保護と全国への広報戦略
③高松城下町の氏神様としての岩瀬尾八幡の整備・保護
④菩提寺としての仏生山の整備・保護
同時に、屋島合戦の故地や崇徳上皇の旧跡地など、讃岐国の歴史的な場所や歴史上重要な人物について、顕彰し崇敬につとめています。こうした動きのなかで、頼重は、讃岐出身のもう一人の大師、智証大師円珍を「発見」したのではないでしょうか。それは、徳川宗家と天台僧天海との関係、また和歌を通じて頼重と交友関係にあった聖護院門跡の道晃法親王(後水尾天皇の弟)との関わりもあったのかもしれません。彼らとの交流の中で、円珍のことを知り、「讃岐が生んだもう一人の大師」として、再評価していく意味と必要性を感じるようになったのかもしれません。そして、その拠点に選ばれたのが金蔵寺と根来寺と長尾寺なのでしょう。そのために信仰対象として、像や画などが贈られたと研究者は考えているようです。
 頼重は晩年の隠居屋敷の中にお堂を建立し、根来寺から移した不動明王と四天王を安置し、プライベートな祈りの場所にしていたことは、以前にお話ししました。また、彼の宗教ブレーンには密教系修験僧侶の存在があったようです。
 そのような中で、円珍の「出会い・再発見」が、その信仰拠点を整備するという考えになったようです。どちらにしても、思いつきや一族だけの安泰を図るのでなく、広い支配戦略の上で、継続に行っていることに改めて気付かされます。
参考文献 渋谷啓一 もう一人の大師 智証大師円珍 空海の足音所収

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