瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:哲学

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小豆島・土庄の街の小高い丘を歩いています。

海に面して民家が密集する「瀬戸の町並み」です。

視線は自然と、一カ所に向かいます。

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大きくはありませんが、天を指す赤い指のような・・

西光寺の三重塔です。

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埋め立てが進む前は、ここは海際の小さな丘でした。

沖ゆく船の「灯台」としての役割を果たしてきました。

漁師さんたちからの信仰も厚いものがあります。

近くに行ってみましょう。

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新しい緑を吹き出したばかりの大銀杏と並べて見ました

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島の人たちを見守る塔

土庄のランドマークタワーでもあります。

五月の青い空に、赤い翼を広げているようにも見えました。

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小豆島を牛にたとえると後ろ足の付け根にあたる洞雲山。

標高が400m近くあるので、桜もつぼみのままです。

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花崗岩の岸壁にへばり付くように伽藍が点在します。

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本堂も修験道の洞窟の中の高い所にあります。

階段を登って、中に入ってみます。


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中は人気がなく、静けさと神秘さが漂います。

私たちの般若心経を唱える声だけが響きます。

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唱え終わり、洞窟の隙間から外をながめて見ました。

見えるのは、二十四の瞳の大石先生が通った「岬の半島」です。

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讃岐10景に指定されている展望台まで歩いてみました。

観音様が立つ(右隅)むこうに瀬戸の海と島がけむって見えました。

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150年ほど前、幕末の誓願寺の周辺が描かれた小豆島絵図です。

寺の前には、塩浜(塩田)が広がっています。

(写真をクリックすれば拡大します。(^_-)


作業小屋からは、塩を煮詰めるための煙が登っています。

周囲の山は、「汐木(しおぎ)山」として、木を切られ裸山のように見えます。

環境破壊は、この時期からあったようです。

イメージ 2小渡前の

「塩」は大きな富を島にもたらし、回船業を栄えさせました。

江戸時代半ばに、廻船業主が九州から運んで移植したソテツです。

その後、島に根付き大正13年に天然記念物に指定されました。

その10年後(S9年)に、岡山の巡礼者一行が撮った写真です。

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その72年後の昨年、我が「酔いどれ巡礼団」が撮った写真です。

大ソテツは、すこし勢いをなくしているようにも見えます。


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元禄時代に建立された山門です。

柱には,難破した千石船の用材が使われているそうです。

この島が塩と船で栄えていたことをかすかに伝える「資料」です。

この前に塩田が広がっていた時代が、あったようです(*_*)

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昭和九年(1934年)・島巡礼の写真です。

4月に7日間で大人8人・子ども2人で回っています。

二十四の瞳の大石先生が岬の分教場に赴任した時期です。


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岡山方面から小舟に乗り込んでいます。

向こうに見えるのが小豆島の島影のようです。

私には、牛窓付近からの船出風景のように思えます。

こんな船が頻繁に、島と対岸の港を行き来していたようです。

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船中の様子です。

この時代は「遍路姿=白装束」では、まだなかったようです。

しかし、「金剛杖」はみんな持っています。

おばあちゃんたちはみんな着物姿です。

大石先生が洋服姿で学校に現れて、お母さん方から反発を受けた時代です。

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島への上陸光景のようです。四海か北浦の港と思われます。

孫を肩くまにして、上陸するお祖父ちゃんの姿が見えます。

これから一週間、徒歩での島遍路の始まりです。

これらの写真について、何かお気づきの方がいらっしゃいましたら

お教え下さるようお願いします。m(_ _)m

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今から150年ほど前の幕末に、書かれた島の名所絵図です。

島札所54番寳性院(今は宝生院)の境内が描かれています。

今と違うところが、いくつかあります。

まず、廃仏毀釈で境内から「五座社・鎮守の森」が姿を消しています。

後ろの山は「青門山」と書かれていますが、

明治になって皇国史観の影響で「皇踏山」と変えらました。

時代と共に地名も変わって行きます。

変わらないものは、右の端に描かれている巨木。

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シンパクです。イブキの変種で、正式名はミヤマビャクシン(深山柏槙)。

遠くから見ると、まるで森のようです。

昔はカラス天狗が住んでいるとも言われたそうです。


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樹齢は推定1500年以上。根元の周囲は16.6メートル。


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国の特別天然記念物で、日本最大のシンパクと言われています。

この木だけは、150年の月日を経ても変わりないようです。

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島を牛にたとえると肩のあたりある四海(しかい)地区です。

狭い路地を、通り抜けて松林寺へ向かいます。

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どの家の前にも菜園があります。

瀬戸に浮かぶ島は、霜が降りることがなく野菜が元気です。


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使われなくなって久しいタバコ葉の乾燥棟。

その前のわずかな空間にも、植えられています。


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途中の納屋には、こんなものもいました。

農道の狭い島では、いまでも現役で活躍しています。


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島遍路68番松林寺が見えてきました。

札所の前の畑にも、元気な野菜の姿がありました。

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池田湾を見下ろす断崖に鎮座する西の滝

登っていくと護摩堂から般若心経の読響が聞こえてきます。


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中では護摩焚きの真っ最中。

播磨から訪れた信者の方々が祈りを捧げています。


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炎が高く昇り、煙がお堂に充満します。

その中で、一人一人の祈りが続きます。


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海に向かって続く階段を下りて帰路につきます。

体中が護摩で清められたような気がしました。

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田浦の分教場から細い道を奥にはいると田浦庵があります。


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おおきな銀杏が境内を覆っていたのですが・・

正月に行ってみると、ごらんのとおり・・。


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かわいそうにも思えますが、大きくなりすぎた銀杏は、

本堂の屋根を傷めないために、こうやって「仕立て直し」するそうです。

確かに、幼い枝が何本も空に向かって伸び出していました。

冬なのに緑の葉を残している枝もあります。


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帰りの道筋では、こんなものも見かけました。

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小豆島寒霞渓の裏八景を歩いてきました。
寒霞渓の紅葉の売り物のひとつは、
「奇岩を背景にした錦秋です。」

一枚目、法螺貝岩です。
巻きがかかった法螺貝に見えるかな?

2枚目何に見えますか?
私は、水木しげるの描く妖怪、一反もめんに見えます。
でも、昔の文人の付けた名前は「幟岳」(のぼりだけ)

3枚目は、天然の石橋のアーチです。
名付けて「石門」


寒霞渓の裏八景 紅葉は12月初旬まで楽しめるようです。

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島外からのお客様を案内して、日曜日に札所の笠が滝に行ってきました。
ここは、修験道の行場になっている札所です。

岩壁にお堂が張り付いているように見えます。
石段もなく、いきなり岩場を登ります。

ハイヒールを履いた女性は、登れません。
でも、これを登り、くらい洞窟を抜けるとそこは・・・

さらに、その上には13重の塔が立ち、
地蔵様が下界を、見守っていました。

「島遍路の聖地」と、私は呼んでいます。
ご案内した方々も、無事に下りてこれました。

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島遍路・笠が滝への道で、
白いすだれのようなものが目に入ってきました。

近づいて見ると、素麺の天日干しです。
小豆島では、江戸時代から素麺が特産品として有名です。
「島の光」という名前で、親しまれています。

作業中の主人に声をかけて、いろいろなことを教わります。

昨日から練って伸ばした麺を
今日は晴れたので天日で乾燥させているそうです。
長い箸で麺の付着した部分を、ほぐしていきます。

乾燥が終わった素麺は、決まった長さに切り、
結束し箱に入れ3~6ケ月間熟成してから、
来年の春先くらいから出荷されるそうです。

秋の青空の下で、白い素麺がきらきらと
輝いているように見えました。                                                           

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土庄港にオリーブの木々につつまれるように建つ群像。
小豆島を全国区の観光地に、押し上げた記念碑なのかもしれません。

1954年 高峯秀子版
1987年 田中裕子版
2005年 黒木瞳版(TVドラマ)
の三回、映画化されています。

この像は、映画の大ヒットを受けて2年後の56年に建立されたようです。
ちょうど今年で50年目になります。
大石先生の顔は、高峰秀子さんにそっくりだったそうです。

地元では「二十四の瞳」を読んだことも、見たこともなく
高峯秀子も知らない世代が増えていました。

昭和も遙かになりにけりでしょうか。
でも、昨年の黒木瞳版で少々「認知度」が高まったようです。

平和と幸せを求める願いが込められた「平和の群像」
その思いを、大切にしていきたいと思います。

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牛の形をした島のお腹あたりが西村の集落。
この丘に開かれているのがオリーブ公園。

オリーブの木の中から、青い空を突き刺すように伸びている十字架。
エーゲ海ムードを出すための演出かと思ったら・・・とんでもない。

420年ほど前のこと、この島の領主となったのがキリシタン大名・小西行長。
彼はイエズス会の神父を保護し、この地に教会を建立しキリシタンの楽園を計画。

しかし、その後の禁教で迫害と殉教を受け、島からキリスト教徒の姿は消えた。

400年後の1986年に、ローマのバチカンから「平和と友愛」の
シンボルとして贈られたのがこの十字架

オリーブの木の中に、すくっと建っています。
まわりのオリーブの実も、収穫の時期を迎え黒く熟していました。

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島遍路は、四国遍路のように立派なお寺さんばかりではありません。
集落の人たちが守り続けているお堂も、札所になっています。

住職さんはいないけれども、地元の人がお接待をしたりしています。

ここは小豆島遍路 第七十三番救世堂です。
いつものように般若心経をおつとめして、堂のなかにはいると

あら・・
「自由にどうぞ」の言葉が・・・
これも接待の一つのかたち。

ありがたくいただき、合掌。

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 = 島遍路の途上で出会った石仏たちを紹介します。=

目に入ってくる石仏たちが、
大切にされていることがよくわかります。

かわいくなって、なでなでして、
そして合掌です。

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小豆島遍路道 石門への道で見つけた言葉です。
看板が壊れ、地面に落ちていました。
地に還っていく途上です。

遍路道を歩いていると、いろいろなメッセージが投げかけられてきます。
言葉であったり、風景であったり、仏像であったり、
そのメッセージへの自分なりの回答を考える。

これも遍路道の楽しさのように私は、思っています。

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この墓標に出会ったときにはどっきり。
じっと見つめていると、気分がよくなってきました。

なかなかこう言えない状況の中に生きた人たちが、
この言葉を墓標に選んだ思いが、伝わってくるように思えました。

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自分にないものをもとめ、彷徨った後に
我が心をしっかりと見つめよということかな?

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こんな言葉を墓石に残せるのは素敵なことに、私には思えます。

どんな生き方をした人なのか

どんな人たちに見送られたのか

うーんとうなりながら
ついつい立ち止まって考えてしまいます。

遍路道はそんな道でもあります。

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なげかないから美しく感じる人はいます。

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この言葉も、私たち巡礼グループの合い言葉になりました。

人付き合いの難しさの愚痴を聞いては、
最後にこの言葉を一言

そして、大笑い。
笑いは世界を救います。

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西光寺は、土庄の街の中にあり、後の岡に五重塔を持つお寺。
この塔は、土庄の人々の心のランドマークタワーでもあると私は思っています。

自由俳人の尾崎放裁に、「死に場所」を提供したのもこのお寺。
境内には大銀杏と、その下に放裁の歌碑があります。

般若心経を終えて、入っていった本堂の柱にあったのがこの言葉でした。

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くるしさをくるしんではいけないということ?

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どこの庵にあったものか・・
記憶が・・・

向上も堕落も自分にあるのですな・・・

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自分の鏡ということは、自分の姿が写っていると言うことかな。

ふう~む。

なるほど、

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なるほどな
世の中全ては仏さん 

それが見える視力がないんやな。

でも、もう仏谷寺(ぶっこくじ)につくやろな。

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ふーうーん。

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池田の大麻山の断崖の下にある仏谷山。
曲がりくねった急な登りを登っていると、曲がり角ごとに看板が立てられています。
その中から私の心に届いたものをお届けします。

そのときの私がどっきとして、なるほど思ったのがこの言葉。

今の島の時の流れは、私にはぴったりしています。


                      感謝 合掌

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